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邂逅の不思議宿場に緑雨かな [折々散歩]

子どもの体調は急変します。ホメオスタシス(恒常性)が未熟なせいでしょうか。一昨日、「お泊まり」明けに、私を近くのJR駅までちょいと送ってくれるつもりが、運行トラブルのため遠くまでつきあうことになり、不平を漏らしていた小3と保育園年長組の兄妹が、その日、ともに高熱を出したそうです。昨日は、兄は39度超、妹も38度台だったそうです。午前中はパパが、午後はママが休暇を取ってこもりをしたり病院につれていったりしました。先んじて熱を出していた一番下の一歳児は、ほとんど回復し、退屈をもてあまして、いつものように我が家においでになりました。
そうした隙間を縫っての散歩でした。
麦畑の景色の追加です。





ケリがいました。
手前にもいます。

またまた空から威嚇されました。
ピントを合わせる余裕がありません。


タチアオイの花が、空に向かってそびえています。


今朝は、中学生と一歳児は登校・登園しましたが、小3と年長組の兄妹はお休みで、唯一フリーの私が子守りを仰せつかりました。看病がてら、隙間をみてパソコンにでも向かおうと考えていましたが、なかなか自由になりません。むろん、散歩もままなりません。


昨日の自然歴史探訪の記事の続きです。
探訪先は次の通り(昨日の記事からコピー)でした。
 ◆主な探訪先 <鳥取県智頭町>
〇上板井原集落(県指定伝統的建造物群保存地区)
六尺道に沿う塀をもたない茅畫き屋根の民家…自然と調和した集落の姿が貴重な文化遺産として注目されています。

〇智頭宿
山陰と山陽をつなぐ交通の要衝であった智頭宿。
県内最大の宿場町として栄え、石谷家住宅をはじめ

美しい格子戸の旧家、江戸時代から続く酒蔵などの町並み
レトロな洋館の公民館
明治30年頃の和風建築の町家である旧塩屋出店
白い洋館の西河克己映画記念館(入場無料)

洋風消防屯所 などの散策
〇石谷家住宅(国指定重要文化財)
古い町並みの中でもひときわ豪壮な木造建築で一般公開されています。 大正時代林業の振興や因美線の開通などに尽力した貴族院議員だった 石谷伝四郎(山林王とも呼ばれた)の邸宅を団体で見学
昨日は板井原集落について書きました。
次に訪ねた智頭宿(ちずしゅく)について、ウィキペディアにはこうあります。

 奈良時代以来の畿内と因幡を結ぶ道で江戸時代には参勤交代の道でもあった智頭往来(因幡街道)と、備前街道が合流する地にあって、両街道の宿場として栄えた歴史を持つ。 智頭往来は歴史の道百選と遊歩百選に選ばれており、沿道には社寺や町家などの古建築が現在も残る。

江戸時代には、参勤交代で江戸へと向かう鳥取藩の最初の止宿であり、藩主の宿泊や休憩の場となる御茶屋や奉行所、制札場が置かれていた要所だそうです。

江戸時代に大庄屋を務めた旧家で、約3000坪という広大な敷地面積に40以上の部屋数を持つという「石谷家住宅」(国指定重要文化財)を訪ねました。

智頭町観光協会のHPには、石谷家住宅についてこう紹介しています。

 重厚な大門で人々を出迎え、3000坪という広大な敷地に部屋数が40以上ある邸宅、7棟の蔵、美しい日本庭園を持つ「石谷家住宅」。石谷家は、元禄年間(1688~1704)の初期に鳥取城下から智頭に移り住み、この地で繁栄してきた旧家。江戸時代には大庄屋を務めつつ地主経営や宿場問屋を営み、明治に入ると大規模な林業を営む事業家、国政に参加する政治家としても活躍してきました。
吹き抜けの土間 
それまでは江戸時代に建築された町屋形式の家屋でしたが、林業経営の事業所としての機能を持たせるため、大正8年~昭和4年にわたり大規模な改築に着手。地元の大工・田中力蔵が設計を務め、最高の資材、最高の施工技術を用い、元の家屋の良さを生かしつつ大正・昭和の新しさを加えた屋敷形式へと変えていきました。一つの家屋の中で江戸~昭和という長い歴史の重なりを見ることができる貴重な和風建築で、2009年10月に国の重要文化財に指定されました。
 壮大なスケールを持つ主屋は2階建てで、入母屋造り桟瓦葺き。40以上という部屋数の多さは、70名ほどの従業員を抱え、林業経営にかかわる多くの人が出入りする事務所としての役割があったから。玄関に入ってまず驚くのが、赤松の巨木を使った迫力の梁組が見渡せる吹き抜けの「土間」。重厚感にあふれている上、建築にかかわった職人の心意気が感じられるようです。約14mという高い吹き抜けは、イギリス留学の経験がある田中力造が、木材の展示場や商談をする場所としての機能を有するホール風に設計したと思われ、“見せる空間”としての要素があったようです。
 屋敷の見どころは数多くありますが、特筆すべきは、智頭町出身で、日本美術院で修行した仏師・国米泰石が彫刻を施した欄間と各部屋から望む日本庭園の素晴らしい景勝。繊細な細工の彫刻は実に見事で、石谷家全景や諏訪神社をあしらったものなど、一部屋一部屋モチーフの違う欄間に注目して回るとまた違った見方ができます。(以下略)



降り始めた雨の中、矢印に沿って歩くと、印象的な洋風の建物が見えます。



上の方に写り込んだのは私の傘です。ご愛敬。



この建物は、『智頭消防団本町分団屯所』。1941年に建設された、洋風の消防屯所で、現役で活躍中の施設だそうです。火の見櫓が印象的です。昭和時代初期の消防屯所建築として貴重であり歴史的景観に寄与しているとして、2000年に国登録有形文化財に指定されたそうです。

「石谷家住宅」は、この消防屯所の真向かいにあります。









文字通り、贅を尽くした、想像を絶する豪邸です。趣向を凝らした屋内庭園、各部屋を彩る書画・美術品等々、見事というほかありませんが、思えば、あの世まで持って行くことはできなかったのですね。ふと、トルストイの民話「人にはどれだけの土地が必要か」のエピソードを思い出します。

こんなお話でしたっけ。

  小作人のパホームは一生懸命働いて、土地を増やすことに執念を燃やしていました。ある日、旅人がバキシールという遠い土地で、たった千ルーブリで 好きなだけの土地が買えるというので、パホームは、早速、下男を一人連れて 旅立ちました。

バキシール人の村長は、「好きな場所から歩き出し、土堀りでところどころ掘ってそこに目印を残し、一日で歩き回った分の土地を全部、千ルーブリで差し上げよう。ただし、日が沈む前に 出発点に帰らないと、それらはふいになる」と言いいました。

翌朝早く、パホームはパキシール人を起こし、彼らをせかして競技を始めます。空の端から太陽が踊りだすと、草原めざして歩き出し、歩いては穴を掘って、目印に芝を何段も重ねて棒を立てます。歩くにつれて、さらに土地はよくなり曲がるのが惜しいほど。振り返ると丘の上に立っているパキシール人たちが蟻のように小さく見えます。

もう このあたりで廻らないと離れすぎると思っても魅力的な土地が次々に目につき、見捨てるのが惜しいほどです。

すでに太陽は傾きかけ、丘からずいぶん離れているのに気づきます。

パホームは大急ぎでスタート地点にまかってまっすぐ進みますが、体は汗でぐっしょり、はだしの足は切り傷だらけで、休みたいけれど、日の入るまでに丘に到着するためには、それはできません。

太陽は容赦なく落ちていき、パホームは苦しかったけれど足を早めます。行けども行けども先は長く、不安に駆られてパホームは必死で走り出します。チョッキも水筒も腰にくくりつけていた靴も全て投げ捨て、ただ土堀りだけを持って。

「あぁ、俺は欲をかき過ぎた、万事おしまいだ、日の入りまでにとても帰り着けそうもない」

心臓が早鐘のように打ち、胸はふいごのように膨らみます。パホームはただ走りました。

丘の上でバキシール人が高い声で叫んでいます。パホームは最後の力を振り絞り、無理矢理足を前に進めます。

太陽が沈みかけ、突然辺りが暗くなります。

「骨折りも無駄になった」と思いましたが、丘の上ではバキシール人がわめいています。まだ丘の上では日が沈みきっていないと気がついて、丘を駆け上がりまり、前のめりに倒れながらも、ゴールの帽子を掴みます。

「やぁ、えらい!」と村長が叫びました。

「土地をしっかりお取りなさった!」

パホームの下男が駆け寄ってパホームを抱き起こそうとしましたが、彼はすでに、血を吐いて息絶えていました。

下男は土堀りでー頭から足までが入るように、きっかり3アルシンだけ、パホームのために墓穴を掘りました。そしてそこへ彼を埋めました。


1アルシンは約71cmだそうですから、2メートル余りの土地だけが、彼にとって必要だったというわけです。

広大な邸内を一通り散策するだけで、かなりの時間が過ぎ、帰りの集合時間まで残りわずか。あわただしく町並みを散策してみます。が、とても見尽くすことはできず、後に心は残ります
旧街道が一直線に伸びています・

 

 

 名所案内の看板が掲示されています。

追記:観光協会のhpに、イラストマップのPDFファイルがありました。↓

http://cms.sanin.jp/photolib/chizu/3223.pdf

案内板が掲示されている近くに、カーブミラーが据えられています。



この右側のミラーに写り込んでいるお屋敷、ちょっと気になる重厚さです。



ズームレンズの最広角側で写しても全体像が収まりません。



ぐるっと周囲を巡ってみると、表札がありました。



「米原」と読めます。

広角で写すと、、、木製の看板が掲示してあります。



大きくトリミングしてみます。



「合名会社木綿屋米原総本店」と読めます。

実はこのお屋敷が、智頭産の大木を使用した重厚な造りの「米原家住宅」(非公開)であるようです。

文化庁が運営する文化遺産についての電子情報広場(ポータルサイト)「文化遺産オンライン」上のこのページに、この建築物の文化的価値が記載されています。

ところで、私はこの日まで知らなかったのですが、「石谷家住宅」を散策している時、近くにおられたN先輩から、驚愕の情報を教わったのでした。日本共産党の代議士として一九四九年に鳥取県でトップ当選し、その後紆余曲折を経て六〇年代か七〇年代に東京二区選出の代議士として活躍された米原
昶(よねはら いたる)さんの生家が、ここだというのです。

ウィキペディアの記事をお借りします。

 米原 昶(よねはら いたる、1909年2月7日 - 1982年5月31日)は日本の政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、3期)。日本共産党幹部会委員。



鳥取県八頭郡智頭町生まれ。智頭町は江戸時代から宿場町として栄え、実家は代々「もめんや」の屋号で呉服類や小間物の商いをしていた。旧制の鳥取中学(現在の鳥取西高)を経て旧制一高に入学するも、学生運動に携わったことで放校処分が下る。一高在学中より27年テーゼや社会科学研究会などを通じて日本共産党への関心を深め、弘世
哲夫の変名で地下活動をおこない、1945年、第二次世界大戦の敗戦と民主化により合法化された同党へ入党。

その後も共産党の活動を続け、1949年、第24回衆議院議員総選挙に鳥取県全県区から同党の公認候補として出馬しトップ当選を果たす。所謂「五〇年問題」により党内が所感派、国際派に分裂する中、再選を期して臨んだ1952年の第25回衆議院議員総選挙で落選、以後同選挙区から2度立候補するが何れも当選には至らなかった。鳥取県内の選挙区から立候補して当選した共産党国会議員は、現在に至るまで米原のみである。

1959年から1964年までの5年間、『平和と社会主義の諸問題』誌編集委員として党から派遣、家族とともにチェコスロバキア・プラハへ赴任する。1967年の都知事選挙では共産党推薦候補となるも、社会党の呼び掛けに応じ出馬を取りやめ美濃部亮吉候補に一本化する(当選者は美濃部)。

1969年、第32回衆議院議員総選挙で東京2区に転じ、17年ぶりに当選を果たす。前回に続いて共産党が躍進した1972年の第33回衆議院議員総選挙でも当選するが、1976年の第34回衆議院議員総選挙にて次点に終わる。以後は地盤を榊利夫に譲り政界からの引退を表明。

1982年5月31日、筋萎縮性側索硬化症により東京都渋谷区の代々木病院にて死去。73歳。

政歴

1949年 第24回衆議院議員総選挙 鳥取県全県区 43,654票 当選

1952年 第25回衆議院議員総選挙 鳥取県全県区 7,920票 落選

1953年 第26回衆議院議員総選挙 鳥取県全県区 6,664票 落選

1955年 第27回衆議院議員総選挙 鳥取県全県区 12,197票 落選

1969年 第32回衆議院議員総選挙 東京2区 71,357票 当選

1972年 第33回衆議院議員総選挙 東京2区 85,667票 当選

1976年 第34回衆議院議員総選挙 東京2区 65,018票 落選


旅には、思いもよらぬ邂逅があるものですね。

米原 昶さんについては、また回を改めて書くことにします。

きょうはこれにて。


「良い風が吹きますねえ」とすれ違う [折々散歩]

昨日は激しい雨でしたが、今日はだんだんと高気圧に覆われて午後には五月晴れが広がりました。五月も終わりますが、、。
午後、散歩に出かけました。道ですれ違った年配の男性に、「こんにちは」と小さく声をかけると、「良い風が吹きますねえ」と会釈されました。「そうですねえ。」と返事しましたが、自然と声が弾みました。すてきな言葉なので、メモしておきます。

風に吹かれて、熟れた麦の香りが運ばれてきます。

向こうに見えるのは、常山です。

_K520922.jpg

 

 刈り取りが終わった畑も広がっています。

_K520946.jpg

 

昨日は、私が属している退職同業者の親睦団体主催の「自然歴史探訪」に参加してきました。この、行事は、毎年行われているのですが、参加したのは今回が初めてです。

「自然と共に生きた山里と繁栄を偲ぶ宿場町に日本人の原風景を訪ねる旅」と銘打って、鳥取県智頭(ちず)町を訪ねるという企画です。

鳥取県智頭(ちず)町については、過去の記事で少しだけ触れたことがありました。

そのかみの十五の吾も仰ぎ見し大き銀杏はとこしえにあり
こんな記事でした。

 那岐山をご存じでしょうか。
岡山県と鳥取県にまたがる高峰で、氷ノ山(兵庫県)、後山(岡山県)、とならんで、氷ノ山後山那岐山国定公園に指定されています。
この山にはイザナギ、イザナミの両神が降り立ったという伝説があり、伊邪那岐(イザナギ)の名が、山の由来になったとされます。
標高は1255.0 m。隣接する後山(岡山県第一の高峰)が標高1344mで、その高さに負けて泣いたことから「ナキノセン」と呼ばれたという、面白話も残されています。

ところで、この那岐山の鳥取県側にはJR因美線那岐駅(なぎえき)というローカル駅があります。鳥取県八頭郡(やずぐん)智頭町(ちずちょう)という、難読地名がその所在地です。
一方この山の岡山県側には勝田郡(かつたぐん)奈義町(なぎちょう)があります。
そして、その奈義町には諾神社(なぎじんじゃ)という神社があり、伊弉諾尊(イザナギノミコト)を祭っているそうです。
「伊邪那岐」は古事記による表記、「伊弉諾」は日本書紀による表記だそうです。



智頭町の概要について、町のHPにはこう紹介されています。
 「みどりの風が吹く疎開のまち」智頭町は、鳥取県の東南に位置し、南と東は岡山県に接しています。周囲は1,000m級の中国山脈の山々が連なり、その山 峡を縫うように流れる川が合流し、千代川となり、日本海に注いでいます。その昔から、長い歳月を経て、あの鳥取砂丘の砂を育んだ源流のまちです。 まちの 総面積の9割以上が山林で、スギをはじめとする見渡すかぎりの緑が一面に広がります。春には、ソメイヨシノ、シャクナゲ、ドウダンツツジ、夏には清涼な緑 が、秋は紅葉、そして冬には雪化粧と、1年を通してまちを彩る植物や、美しい自然にあふれています。

鳥取県といえば、「スタバはないが砂場はある」と自虐ネタの知事発言が話題をまいた(現在はスタバが進出しているそうですが)鳥取砂丘や、日本海、大山などの自然景観、温泉地などが有名で、それらを訪ねたことは何度かあります。しかし、その道中、黒尾峠を過ぎて「智頭」の地名表示を目にしながらも、じっくり足を止めたことはありませんでした。

今回の自然歴史探訪の案内チラシにはこうありました。
 ◆主な探訪先 <鳥取県智頭町>
〇上板井原集落(県指定伝統的建造物群保存地区)
六尺道に沿う塀をもたない茅畫き屋根の民家…自然と調和した集落の姿が貴重な文化遺産として注目されています。
〇智頭宿
山陰と山陽をつなぐ交通の要衝であった智頭宿。
県内最大の宿場町として栄え、石谷家住宅をはじめ
美しい格子戸の旧家、江戸時代から続く酒蔵などの町並み
レトロな洋館の公民館
明治30年頃の和風建築の町家である旧塩屋出店
白い洋館の西河克己映画記念館(入場無料)
洋風消防屯所 などの散策
〇石谷家住宅(国指定重要文化財)

古い町並みの中でもひときわ豪壮な木造建築で一般公開されています。 大正時代林業の振興や因美線の開通などに尽力した貴族院議員だった 石谷伝四郎(山林王とも呼ばれた)の邸宅を団体で見学

いずれも、初めての場所です。

計画では、朝八時五〇分岡山駅前集合で、貸し切りマイクロバスで出発の予定。それにしても、集合場所までの行き方が問題です。

自家用車で行くのが手軽ですが、ほどよい駐車場が近くになく、どうやっても、料金が高くつきます。その駐車料金よりは、路線バスで往復すれば千数百円ですから、むしろリーズナブルです。

あるいは、最寄りのJR駅から列車で行く方法。これには、1.歩けば遠い、2.自転車で行くのは、雨の日は辛い、3.ローカル線なので便数が少なく、途中乗り換えの必要もある、などの難点があり、時間に余裕のない時には使いたくありません。

もう一つは、JRの途中駅の近くに一日500円という駐車場があって、これを利用すること。いつもはこの方法をとることが多いのですが---。

たまたま昨日は妻のパートが休みで、意を決して、このJR駅まで送ってもらううことにしました。そしてたまたま、お泊まりしていた孫たちも一緒の車に乗って、一つものようにしりとり遊びをしながら,20分ほどで到着。順調な滑り出しです。

これなら、予定の電車よりも一本速く乗ることができ、悠々間に合いそう、とほっとして切符売り場に向かうと、日曜朝のこの時間にしては、いつになく大勢の人影が改札周りにうごめいています。ちょっとした違和を感じて、張り紙やら構内放送に注意してみると、「人身事故のため運転全面ストップ、復旧は9時過ぎる見通し」とのこと。これは困った。これでは集合時刻に間に合わない。

帰路についていた妻の車を、慌てて携帯で呼び戻して、集合場所の岡山駅前までつきあってもらうことにしました。ところが、慣れない経路、時間を稼ごうと間道を走ってみたのがあだとなり余計にロスが重なる始末です。集合時刻になっても、まだ道半ばにして前途数キロメートル。幹事のF先輩と連絡を取ると「待つよ」のありがたいお言葉。

孫の「おなかすいた」「帰りたい」のブ-イングに耐えつつ、出発時刻も遙かに超過してようやくたどりついた待ち合わせ場所には、にこやかな笑顔で迎えてくださる先輩方の姿。恐縮至極の旅の始まりでした。

聞けばこのJRトラブルのため、途中駅で立ち往生し参加を取りやめられた方もあった由。とんだハプニングでした。

最初の見学地板井原集落について、智頭町観光協会のHPには、こう紹介してあります。

 宿場町の文化が薫る智頭往来から北東へ進路をとり、杉林に覆われ昼でも薄暗い山道へ。街中とは一変する風景と空気の中、くねくねとした細い上り坂を進みます。すると、車1台がやっと通れるほどの狭い隧道が。ためらいつつも、向こう側に見えるかすかな光に向かってトンネルを抜けると、広い駐車場に出ます。そばには「六尺道入口」の道標。いまだかつて車が乗り入れたことはないという約1.8m幅の細い古道は、私たちを導くように川に沿って上流へと続いています。周囲は深い森だけだった視界がふいに開け、魔法のように民家が出現。その場所こそが「板井原集落」です。

 押しつぶされそうなほど迫りくる山肌、どちらを向いても深緑の杉林。そのわずかな谷間に広がる集落には、明治32年(1899年)に建築されたかやぶき屋根の「藤原家住宅」をはじめ、築50年を超える古民家群、昭和初期に分校として建てられた「板井原公民館」、集落を見守る「向山神社」、板井原川の流れを利用した米つきの水車小屋、炭焼き小屋等々、まるで昭和30年代の山村風景がそっくりそのまま残っています。中には築270年という古民家もあるとか。集落全体がまるで映画のセットのようです。

昭和42年に古峠を抜けるトンネルができるまではこの地に車が入ることはなく、徒歩で行き来する「六尺道」だけが村に通じる唯一の道。牛臥山や海上山など高い山々に囲まれたひっそりとした場所だけに、“平家落人の隠れ里”伝説が残るのもうなずけます。

 今から10年程前、朽ちかけていた板井原集落の佇まいを将来へ残そうという気運が高まり、平成16年2月には鳥取県指定の「伝統的建造物群保存地区」に選定。また、築100年の古民家を利用したカフェ「野土香」のほか、昔ながらのかまどで炊いたご飯と手作りの田舎料理が食べられるお食事処「火間土」と、集落の雰囲気や暮らしをより身近に感じられるスポットもできました。

 「火間土」では、自分自身でかまどでご飯を炊く「炊飯体験」も可能。水車で精米された米を板井原の清らかな水でといだら、かまどに薪をくべて炊飯。店主の原田巌さんに指導を受けながら、かまどの微妙な火加減に四苦八苦。でも、炎を見ながら自分の手で炊き上げる作業は意外に楽しいもの。じっくり蒸らした後、釜を開けると、電気で炊いたものとは全然違うご飯の香りがフワッ。食べるとモッチリ、おこげの香ばしさがたまりません。精米方法、水、炊き方が違うだけでこうも違うものかと「目からウロコ」の美味しさ。“幻の漬物”といわれ、昔懐かしい味わいと歯応えの「板井原ごうこ」との相性も抜群で、何杯でもおかわりしてしまいます。(後略)


うっそうとした細い山道を縫うように走って、下界から遙かに隔絶した集落に到着します。







「すぐそこ」とはありますが、ほどよい散歩コースです。



見上げるような杉の巨木が林立しています。



太古の空気を今に伝える集落の静かなたたずまい。







清流では、カジカガエルが美しい音楽を奏でていました。



この建物は板井原公民館 。昭和前期に建設され、二〇年ほど前までは使用されていた木造2階建の小学校校舎(分教場)を、公民館として使用しているそうです。



板井原集落の案内看板が、





水車でついた米を、かまどで炊いたご飯が昼食です。









ご飯が黄色く見えるのは、お焦げです。懐かしく美味。山菜中心の経る恣意ヘルシ-おかずは、繊細な味付けで、ご飯が何杯も弾みます。山盛りのお代わりを、二度も三度も重ねる方も、、、。私は、、お代わりなしで我慢しました。やせ我慢!ですが、やせませんね。







掲示されたメニューの通り、天ぷらも登場しましたが、撮影は忘れました。お腹も気分も、満腹満腹。

雨の予報でしたが、食後の記念撮影の頃までは、小糠雨程度で、幹事さんの「日頃の行い」のおかげ、でした。(ごますりすり)。

きょうは、ここまでです。

麦秋や沼狸らの朝化粧 [折々散歩]

黄砂のせいか pm2.5のせいか、ここ数日のどが痛く、鼻水も出ます。と思っていたら、咳も出て、痰もからみます。保育園児の孫が、熱は引いたのに、鼻水と咳がつづきますが、そのおすそわけをいただいたのかもしれません。

最近、散歩といっても、乳母車を押す程度で、なかなか距離がかせげません。というわけで、昨日の朝は、雨の合間を縫って、ちょいと長めの散歩をしてみました。

家を出てすぐの川べりの遠くの方に、青い鳥が止まっていました。





トリミングしてみます。

ぼけぼけでした。



今日のレンズは、最長250mmで、もの足りません。

近寄ると、チーと鳴いて飛び去ってしまいました。

かなり歩いて、鴨川のほとりに出ます。



花が咲いているセンダン(オウチ)の木に、ウとサギがくつろいでいます。これぞ、ウサギですな。



ウ(カワウ)の数が圧倒的に優勢です。



川の中程からドブンと大きな音がします。目をやるとこんな水しぶきが。



何でしょう?





トリミングします。











周辺の麦畑は、黄金色が増し、あちらこちらで刈り入れが進んでいます。











帰り道、用水路で、出会ったこのお方。


ヌートリアです。

別名沼狸ともいうそうです。中国語では海狸鼠。

齧歯目ですから、ネズミの仲間でしょうが、「狸」になぞらえられやすい風貌なのでしょうか。

ちょっと予感がして観察していると、穴の奥から家族の皆さんがぞろぞろ。







行儀良く並んで顔洗いです。



農家によっては迷惑千万な客人で、外来有害獣として駆除対象となっているヌートリアですが、ちょっとかわいい。

何となく忌避される生き物の筆頭は、この細長いお方。

乳母車散歩の足下にいました。シマヘビでしょうか?













「お口直し」に、好ましい生き物の筆頭、ツバメです。

でも、今朝のニュースを見ていたら、糞をいやがる人が増えて、特に都会では巣が撤去されるケースが増えて、ツバメの繁殖が危ぶまれているそうです。事前の生き物にとっては、すみにくい世の中ですなあ。







タチアオイが咲きました。



今日はこれにて。


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由美子ちゃん事件から思うこと、の巻 [時事]


今朝の地元紙「山陽新聞の」コラム「滴一滴に」こんな記事があリました。
 「由美子ちゃん事件」を知ったのは昨年、日本記者クラブの取材団で沖縄を訪ねた時だっ た。翁長雄志知事が会見で、戦後の忘れられない事件の一つとして挙げた▼1955年9月、6歳の少女が行方不明になり、翌朝、遺体が米軍基地のそばで見つ
かった。暴行された跡があり、米軍人が逮捕された。当時、沖縄は米国の統治下。日本に裁判権はなく、容疑者の身柄はさっさと米本国に移された▼当時の県民
の思いについて、翁長知事は「屈辱」という言葉を使った。沖縄が歩んだ、本土とは異なる戦後を考えさせられる。今月、沖縄県で20歳の女性の遺体が見つか
り、米軍関係者が逮捕された。沖縄ではかつてない怒りが渦巻く。歴史を知れば、その怒りの深さが少しは理解できる気がする▼事件を受け、沖縄からは日米地
位協定の抜本見直しを求める声が上がっている。とはいえ、本土に住む多くの人はピンとこないだろう▼日本に駐留する米軍には一種の治外法権が認められ、公
務中の事件は米側に裁判権がある。今回は公務外で日本側に裁判権があるものの、そもそも特権意識が犯罪の温床になっているのでは、と指摘されて久しい▼米
軍関係者は旅券なしに出入国でき、日本政府は国内にいる米軍関係者の数すら把握できない。そんな事実に驚かされる。私たちは知らないことが多い。


「由美子ちゃん事件」には、うっすらとした聞き覚えはありましたが、詳しくは知りませんでした。本棚の片隅から、瀬長亀次郎著「民族の悲劇」(一九五九年三一書房刊か、一九七一年新日本新書として再刊)と「民族の怒り」(一九七一年刊・新日本新書)を引っ張り出してみました。

著者の瀬長亀次郎さんは、アメリカ占領下の沖縄で、沖縄人民党の設立に尽力し、米占領軍による執拗な妨害・弾圧に抗して、書記長・委員長などをつとめ、那覇市長、立法院議員などを歴任されます。本土復帰後は、衆議院議員(沖縄人民党→後に日本共産党と合流)を七期つとめられました。その経歴や人柄は、瀬長亀次郎と民衆資料不屈館HP胃詳しく紹介されています。

七〇年代のはじめごろ、一度だけ、岡山で瀬長さんの演説会を聴いたことがありました。訥々として、実直な話しぶりが、誠実の固まりのようでした。口先で何か人を説き伏せようとか、自分をエラク見せようとかする空疎な人士(誰のこととは申しませんが)の対極に位置する人でした。

先ほどTVで流れた安部、オバマ会談後の記者会見でも、性懲りもなく「沖縄の心に寄り添う」というワンパターンのフレーズが繰り返されていましたが、寄り添うべき「沖縄の心」とは、安部さんのような軽々しい饒舌には、つくづくなじみませんね。次のような無数の歴史事実を、名状しがたい屈辱と憤怒とともに、胸の奥深くたたみ込まずにはいられない「心」にほかならないでしょうから。

 米軍と、 その軍属よる沖縄県民への犯罪を思うたびにこみ上げる怒りをおさえることができない。人権無観とかんたんにかたづけられるものではない。殺され、傷つけられ、はずかしめられ、まるで虫けら同然にあっかわれてきた県民の血と涙と怒りつづった歴史がそこにはある。
多くの場合、事件が発生しても米軍は自ら頭を下げて県民に認罪するということはなかった。逆に被害者である県,民.に責任をおしっけるということを平然とやってきた。

由美子ちゃん事件  六歳の少女を米軍が暴行、殺害した事件(一九五五年)
与那嶺悦子さん事件  スクラップ拾いをして射殺された事作(一九五六年)
宮森小学校ジェット機墜落事件 死傷者一〇〇人以上(一九五九年)
後蔵根カツさん事件 「猫と間違えたんだ」 と射殺した金武村での事件(一九五九年)、同じく老農夫を「小鳥と思ったと射ち殺した事件
このように五〇年代においても数えあげればきりがないほどである。その多くは「殺され損」であり、たとえ補償があっても「射殺代金」として六〇〇ドルという根金程度のものであった。
スクラップ:拾いの最中に射殺された婦人などは、立入禁止区域内にはいったから責任は被害-者の方にある、と米軍は言い張つていた。
六〇年代にはいると米軍関係の犯罪はますますふえていった。

一九六一年九月 米下士官,が乗用車で少女四人をひき逃げ、死傷者出す。

十二月 具志川村にジェット機墜落、死亡二、重傷四、家屋三棟全焼。

一九六二年十二月 嘉手納村に米軍輸送機墜落死亡七、重軽傷八人を出す。

一九六三年二月 演習帰りの米軍トラックが横断中の中学三年生を轢殺。

一九六四年八月 北谷村で潮干狩り中の県民が米軍の流弾に当たり死亡。

一九六五年四月  コザ市で米兵が民家に爆弾を投げ込み二戸に被害。
六月、 投下演習中の米軍機が読谷村の民家の庭にトレーラーを落とし小学五年の少女が圧死(降子ちゃん事件)
一九六六年五月、米軍の大型ジェット空中給油機が嘉手納基地近くで墜落、乗用車で定行中の村民一人が,焼け死ぬ。

一九六七年一〇月 嘉手納における燃える并戸水事件。

一九六八年三月 米軍-施設内でメイド渡慶次:菊子さん殺害さる(迷宮:入り)。

一九六九年二月 コザ市で米軍人によるホステス殺し。

一九七〇.年五月 下校中の女子高校生米兵に襲われ重傷(女子高校生刺傷事件)。

九月 糸満町金城トヨさん、酒気通転の乘用車に轢殺さる。

以上あげた事実は、それこそごく一部分で氷山の一角にすぎない。

六〇年以降、流球政府警察局'が発表した資料によっても毎年平均千件以上の米軍人軍属による犯罪が発生している。もちろんこれは、表にでたものだけであり、報複をおそれて泣きねいりしたり、もみ消されたりしたのも含めるとその何十倍になるのか推測すらつかない。

ことあるたびに、米日反動とその手先どもは、米軍基地があるから沖縄はこのように繁栄し、県民の生活は安定してきたのだ、と米軍基地の「恩恵」を宣伝してきた。

しかし事実は、この米軍基地が戦争の根源であると同時に、沖縄県民の生命と安全をおびやかし、人権をはずかしめる一一一一魔の巣であることを物語つている。

(中略)



米兵による女子高校生刺傷事件が発生したのは、一九七〇年,:一月三十日午後一時頃であった。具志川市上江洲は、 一面サトウキビ畑にかこまれ、沖縄ではどこでも見受けられるのどかな農村である。五月:のやわらかい風がサトウキビの葉をそよがしている風景は平和そのものであり、
そこが残虐な米兵による女子高校生の刺傷現場になったとは想像もできない。

その日、前原高校一年生のS子さんは試験を終わっての帰りだつた。家まであとわずか一〇〇メートルの所だった。そこで彼女は、突然物陰からとび出してきた米兵に襲われ、腹部に三ヵ所と後頭部にナイフを刺されて重傷を負ったのである。

腸がとび出し、全身血まみれになって発見された時は人相もよくわからないほどの重傷だった。発見が遅れれ「ればとりかえしのつかない事態になっていただろう。

犯人は、犯行現場から出てくるところを目撃され、上江洲部落に通跡されるや同部落近くの第一六心理作戦中隊の基地内に逃げこんでしまった。

白昼みさかいもなく、しかも被害者の自宅からわずか一〇〇メートルしか離れてない所で発生したこの事件は、その残虐行為とともに県民にはげしいショックを与え、大きな怒りをまきおこした。

「もう米兵の顔をみるのもいやです。一日も早く米兵はぜんぶ沖縄から去つてほしい。この子が歯をくいしばつてたたかったから親子再会することができたが、
もし死体となっていた場合、どうなっていたのでしょう。″私は生きて帰れるとは思わなかったよ、かあちゃん、私最後の覚悟をして舌をかもうとしていたよ、かあちゃん〟娘が語ったとき、私はほんとうになぐさめの言葉もでませんでした」と怒りに体をふるわせて語る母親。

前原高校生:従会は、胸の底からわきおこる怒りを結集して全校生徒参加のもとに抗識集会がひらかれ、どしゃぶりの雨の中を「犯人をすぐ速捕せよ」 「米単はかえれ」
「基地を撤去せよ」と叫んで、基地に向けてデモ'を敢行した。

複帰協は、 S子さんの通学している前原高校校庭で 「女子高校生刺傷事件等米兵による凶暴 犯罪に抗議し、横暴な軍政を糾弾する県民大会」を開催した。

大会には、前原高校生をはじめ、県下から自主的にかけつけてきた高校生三〇〇〇人を含め、一万二〇〇〇名が結集していた。

「鬼畜におとる残虐行為、戦場の狂気をむき出しにした野獣のような極悪非道な行為」と各代表は米軍を糾弾した。

前原高校砂川校長は「米軍は一般将兵からランパート高等弁務育まで狂っている」と慣りをぶちまけ、S子さんの必死の抵抗をムダにしないために、一時的な怒りの爆発に終わらせず間題の本質をみきわめ、団結をかためてたたかいぬこう」と前原高校生従会代表座間味君は訴えた。

(「民族の怒り」より)


一九七二年の本土復帰後も、米軍による凶悪事件は跡を絶っていません。

沖縄タイムスのこのページに掲載の図表をお借りします。





あちらでもこちらでも風邪がはやっています。先日高熱を出したとして心配していたゼロ歳児は、大事には至らなかったようですが、咳き込むと痛々しさが募ります。昨日、ちょいと「見舞い」に行ってきました。

一方、一歳の保育園児も、ここ一月ほど、熱が上がったり引いたりで、すっきりしませんが、今日も38度超の高熱で、保育園をやすませますので、我が家が託児所になります。午前中は、私一人で、イクメンならぬイクジジでした。あやせば笑うし、聞き分けもあって、ご機嫌は悪くはないのですが、パソコンに向かったりする時間はありません。

というわけで、日が暮れてから、明日のアルバイト仕事のための資料作りやら、ブログの更新やらにとりかかりますが、は過取りません。というわけで、今日の記事はこのあたりで中断となります。

昨日今日と、久しぶりの雨です。

家の前の電線にツバメが止まっていました。

我が家の玄関先には三つほど古巣があるのですが、スズメにいたずらされてこわされたり、占拠されたりで、環境がが悪化したためか去年は巣作りをしませんでした。今年も四月の段階では姿を見せず、寂しく思っておりましたら、ここのところしばしば様子を見に近づいているようです。







今日はこれにて。

真夏日やうつらうつらの図鑑引き [今日の「これなあに」?]

ついつい「これなあに?」と、聞くので、若き師匠から「図鑑を手元に置いて調べるようになさると用ですよ」とアドバイスされました。もう、ずっと昔のことです。ジョウビタキもキビタキも、ホオジロもミヤマホオジロも、キンクロハジロもカンムリカイツブリも、バンもオオバンも知らず、その師匠に教わりました。ケリもタゲリもです。

図鑑は、当時から手元に持っていたのですよ。でも、調べようと試みても、みんな同じに見えて、正解にたどり着かないのです、未だにそうです。

ここ何日か、名前がわからなくてアップできない写真がたまりました。

パソコン画面をにらみながら、お仕事がらみやなかば公的関係の、文書や表計算などの作業を続けているとすっかり倦み疲れて、撮りためた写真の整理をしたくなります。でも、名前がわからない花、鳥、昆虫に、悩まされます


今日のこれなあに?その1。







今日のこれなあに?その2。







今日のこれなあに?その3。



今日のこれなあに?その4。










いずれも、鳴滝森林公園で撮影しました。


いささか疲れきって、別室で、ごろんと横になって、図鑑調べを楽しみましょうか、洒落込むつもりが、ものの数分もたたぬうちに、うとうとと快い眠りに誘われ、真夏日の昼下がりを久々の午睡で費やしてしまいました。週一度のアルバイトをのぞけば毎日が日曜日。優雅なものです。

実は、今日は、お昼寝の前の午前中、まず畑の草引きとサツマイモの苗への水やりをし、シャワーを浴びて一休みした後、深山公園を歩いてみました。

でも、気温がうなぎ登りに上昇していることを実感しますし、カメラの電池の充電切れにも気づいたので、ほどほどのところで退散しました。

こん出会いがありました。

亀という亀は、みな、ミシシッピアカミミガメですね。



若いカナヘビが、何個体も姿を見せます。















トノサマバッタ。





冬の間、鴨たちの群が大勢遊泳していた赤松池ですが、今はアヒルと白鳥をみるだけです。ま、アヒルも家鴨で、鴨の子孫ではありましょうが。







サワグルミが見頃です。











カエデの実?





おまけのこれなあに?クロアゲハでよいですか?









おまけのこれなあに?その2。



イシガケチョウでしたか。


















きょうは、これにて。


緑子の咳も癒ゆべし麦の秋 [家族]

この週末、ゼロ歳児の孫が発熱したとのことで近所の小児科を受診すると、念のために大規模病院でみてもらうのが安心と、救急外来への紹介状を書いてくださったそうです。この土日、ムコ殿は県外に出張とのことで、我が家に一泊することにしました。


状は心配するほどでもなく、幼い咳と鼻水が残る程度で、熱もまもなくおさまって、ひとまず安堵しました。従姉の一歳児も、何日も微熱が続き、咳・鼻水も収
まりませんが、今日あたりは、靴を履いて戸外を歩きたがります。超がつくほどの快晴で、気温も例年を大きく上回る夏日が続いています。

数日前、サツマイモの苗を植え付けた畑に、昨日水やりにいったところ、周りの麦畑は黄金色が増しています。刈り入れが始まった畑もあちらことらに広がっています。文字どおり、麦の秋、麦秋(ばくしゅう)の風情です。

過去の記事を探ってみると、今年は少し早いかもしれません。

塞翁が馬なるべけん麦の秋

金色(こんじき)の風放縦(ほしいまま)麦熟るる

蒼穹の果てまで香りて麦刈らる

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メーデーを終えてたしなむ詫びと寂び、の巻 [折々散歩]

私にとっては最大の懸案であっても、記事としてはおもしろいものではありませんね。はい、パソコントラブルのことです。

ようやく、元通りに近い作業がこなせるようになったと思います。2台のプリンタもちゃんと稼働しましたし、宛名ラベル印刷も苦労はしましたが、何とかできるようになりました。

画像処理も、ブログの編集も、まずまず元の状態に近づいたようです。

新しいことができるようになったり、より快適にできるようになるための苦労は、わくわくして楽しいものですが、従来できていた段階まで到達できずに苦労するのは、なかなかもどかしいものです。身体のリハビリも、似たところがあるかもしれませんね。

さて、そろそろパソコンネタは終わらせて、ため込んでいた写真ネタでお目を汚すことにします。

今日は、先日5月1日のメーデーの後散歩した後楽園のスケッチです。

 

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きれいさっぱり新規インストールで光明みえたとおもったが、の巻 [趣味]

ここのところ、何日も、「寝ては夢、起きてはうつつ幻の」という具合で明けても暮れても、振り回され、翻弄されて、身も心もくたくたに困憊させられた一件が、ようやく解決しそうです。
家々、そんなに大層なものではないのですがね。例の、あの、パソコントラブルです。
元の環境への復旧は、いろいろあがいてみましたが、なだめすかしてある程度の使用は可能になったものの、お義理にも快適といえるレベルでは決してなく、結局業を煮やして断念!することにしました。
後に待ち構えている陥穽は予感できましたが、思い切って、新しい打開策を試してみることにしました。
「ええいままよ!」です。古文に出てくる「さはれ」という言葉を、解説書などではこう訳していますが、この訳語自体、辞書引きが必要だったりしますがね(笑い)・

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どこまで続くぬかるみぞ、の巻 [趣味]

「どこまでつづくぬかるみぞ」というフレーズが、脳裏をめぐります。

「討匪行(とうひこう)という軍歌の一節だそうです。

討匪行

作詞:八木沼 丈夫
作曲:藤原 義江


一、
どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ
三日二夜を食もなく
雨降りしぶく鉄兜(かぶと)
雨降りしぶく鉄兜(かぶと)

二、
嘶く声も絶えはてて
倒れし馬のたてがみを
形見と今は別れ来ぬ
形見と今は別れ来ぬ

三、
蹄(ひづめ)の跡に乱れ咲く
秋草の花雫(しずく)して
虫が音細き日暮れ空
虫が音細き日暮れ空

四、
既に煙草はなくなりぬ
頼むマッチも濡れはてぬ
飢え迫る夜の寒さかな
飢え迫る夜の寒さかな

五、
さもあらばあれ日の本の
我はつわものかねてより
草生す屍(かばね)悔ゆるなし
草生す屍(かばね)悔ゆるなし

六、
ああ東(ひんがし)の空遠く
雨雲揺りて轟(とどろ)くは
我が友軍の飛行機ぞ
我が友軍の飛行機ぞ

七、
通信筒よ乾パンよ
声も詰まりて仰ぐ眼に
溢るるものは涙のみ
溢るるものは涙のみ

八、
今日山峡(やまかい)の朝ぼらけ
細くかすけく立つ煙
賊馬は草を食(は)むが見ゆ
賊馬は草を食(は)むが見ゆ

九、
露冷えまさる草原に
朝立つ鳥も慌し
賊が油断ぞひしと寄れ
賊が油断ぞひしと寄れ

十、
面(おも)かがやかしつわものが
賊殲滅の一念に
焔と燃えて迫る見よ
焔と燃えて迫る見よ

十一、
山こだまする砲(つつ)の音
忽(たちま)ち響く鬨(とき)の声
野の辺(へ)の草を紅(あけ)に染む
野の辺(へ)の草を紅(あけ)に染む

十二、
賊馬もろとも倒れ伏し
焔は上がる山の家
さし照れる日のうららけさ
さし照れる日のうららけさ

十三、
仰ぐ御稜威(みいつ)の旗の下
幾山越えて今日の日に
会う喜びを語り草
会う喜びを語り草

十四、
敵(賊)にはあれど遺骸(なきがら)に
花を手向(たむ)けて懇(ねんご)ろに
興安嶺(こうあんれい)よいざさらば
興安嶺よいざさらば

十五、
亜細亜に国す吾日本
王師一度(ひとたび)ゆくところ
満蒙の闇晴れ渡る
満蒙の闇晴れ渡る

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晴れ時々川蜻蛉ところにより川鴉、の巻 [折々散歩]

しばらくブログの更新ができていません。

「weblog=web上の日記」の名が泣きます。これでは、当ブログのほとんど唯一の有用性と言うべき、私的備忘録の役割も果たせません。

事情はあれこれありますが、一番の理由は、パソコンの不調です。ある時、シャットダウン時に「更新プログラムのインストール」に時間がかかったと思ったら、再起動時に「windowsを構成しています、電源を切らないでください」と表示がでたまま、いつまでも消えません。2時間、3時間というレベルではありません。席を離れてひとしごと終えて戻ってみても、外出して帰って来ても、少しも進捗していません。やりたい作業もあるので、悠長につきあうわけにもいかず、業を煮やして、電源ボタン長押しで強制終了して、再起動しましたが、、、。
案の定、ウィンドウズ標準か、それともセーフモードか、起動方式をたずねてきます。
はじめはセーフモードでなら起動したのですが、あれこれいじっていざ、再起動しようとすると、やはり症状が改まりません。

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風薫る温泉宿の大家族 [家族]

「大型連休」が終わります。

私自身にとっては、「大型連休」であると否とに関わらず、日々がほとんど連休の連続ですが、会社や学校に通う家族にとっては、とくべつの日です。

連休といえども勤務が入ったり、学校の参観日があったり、部活動の練習が入ったりで、なかなか家族が全員集まるのも困難ですが、「こどもの日」の頃、私の故郷近くの湯郷(ゆのごう)温泉で、一泊の家族会を実施できました。

その日の仕事が終わったあと駆けつけたり、帰省ラッシュの中、遠距離走行して、その足で現地参加したり、何日か高熱を出して参加が危ぶまれた保育園児も含めて、元気に勢揃いできたのは嬉しいことです。

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憲法記念日に家の中でひとり憲法を考える、の巻 [今日の暦]

今日は憲法施行69年目の、憲法記念日。
今年の11月3日には、公布70年を迎えます。
戦後70年・被爆70年の去年、憲法学者がこぞって「違憲」と指摘するなか、集団的自衛権容認の「戦争法」を数を恃んで強行したアベ内閣は、今度は「緊急事態条項」など戒厳令条項の導入をはじめとする明文改憲の動きをあらわにしています。選挙中はダンマリを決め込んで、選挙後にやりたい放題、のつもりでしょうが、その手は桑名の焼き蛤です。
先日、私の探鳥の師匠、M氏がメールをくださいました。
鳥の情報に添えてこうありました。
 私やKAさんKOさんは戦後の民主教育はじめから受けて育った世代です。小学校の入学前に教科書が無いので姉が自分たちが使った教科書に墨を塗って用意してくれていた所に新しい教科書が届きました。
姉の教科書は「ススメ ススメ、ヘイタイススメ」で始まりますが、新しい私の教科書は「よいこ よいこ みんなよいこ」で始まりました。2年か3年生の時に新しい憲法を学びました。
クラスの皆が戦争放棄のことを聞いて「ワーッ!ほんなら先生日本はスイスの様な国になるんかな」と大喜びをした様な記憶があります。これを押しつけだ等と言う人の気が知れません。沖縄その他の米軍基地こそ押しつけでしょう。この夏の参議院選挙は生徒として教師としてズーッと戦後の民主主義教育にかかわった者としてその真価が問われる事になりそうです。

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「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻 [今日の暦]

今日は5月1日 メーデーの日です。

1886年5月1日に、合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟、AFL)に結集するアメリカの労働者が、8時間労働制を要求してストライキに立ち上がったことがメーデーの始まりといわれます。

10数時間もの長時間労働を強いられていた労働者が、「仕事に8時間を、休息に8時間を、おれたちがやりたいことに8時間を!」(「8時間労働の歌」)と叫び、シカゴ、ニューヨーク、ボストンなど万人以上の労働者が、ストライキに立ち上がり、その結果、20万人あまりの労働者が8時間労働制をかちとったのでしました。

しかし、資本家側は8時間労働制が広がることを警戒し、権力をつかって反撃を強めます。運動の中心地だったシカゴでは、2日後の5月3日に機械労働者4人が警察官に射殺され、翌4日にはヘイマーケット広場で労働者の集会が襲撃を受け、多数の犠牲者が出るなどの事件が続いたのをきっかけに、資本家側は8時間労働の約束をほごにします。

 労働者側は、これにひるまず戦線を立て直し、ふたたびゼネストでたたかうことを決め、世界に共同行動を呼びかけました。これをうけて、「第2インターナショナル」は89年7月の結成大会で、1890年5月1日をアメリカの労働者と連帯し、世界各国で一斉に集会やデモをすることを決め、アメリカ、ヨーロッパ、中東欧、オーストラリア、ラテンアメリカなど世界各地で数十万の労働者が集会とデモをくりひろげました。これ以降、毎年5月1日に世界各国でメーデーが開催されるようになった。この日を「法律で8時間労働日を決めるよう要求する国際デモンストレーションの日とする」と決定しました。これが第一回メーデーでした。

 その後、戦前のメーデーは1935年の第16回までとりくまれましたが、36年の2・26事件で戒厳令が敷かれたのを機に禁止され、終戦後の46年の第17回メーデーまで、労働者はメーデーに結集する権利すらうばわれたままでした。

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