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そのとき十歳の私は、補遺 [今日の暦]

昨日の記事の仕上げの頃は、ほとんど居眠りをしながら作業していましたので、集中力が続きませんでした。そうでなくとも長い文章になっているので、ほどほどに切り上げりのは妥当と言えましょうが、もう一つだけ、胸を打たれたエピソードに紹介をしておきたいと思います。

昨日の記事に、「戦争は、一〇才の子どもたちの手元から大切なものを次つぎともぎ取っていき、岡山空襲は、いわばとどめに、街を、家を、家族を、友人を焼き尽くしました。」と書いた時に、もう一つ念頭にあったのはこのエピソードでした。







 クレパスの涙

その夜、ぐっすり眼っていた。祖母のただならぬ声。醒めきらない目に、 一面赤く染まった縁側のカーテンが映った。蚊帳の中を通いながら祖母は、「たえこ、くにこ空襲よ。たえこ、くにこ、早う、うはよう」

と線り返しながら、一年生の弟を抱えるように蚊帳をたぐっていた。

えっ空襲。

昼間の空襲警報の不気味なサイレンの音は何度も聞いて敏感になっていたが、サイレンの音は聞こえない。

同じ布団に寝ていた妹を揺り起し、手を引っ張って玄関から防空壕に逃げ込んだ。気が付くと妹は金魚柄、私は朝顔柄の浴衣の寝巻ににランドセルを背負っていた。

前後して父が四歳と二歳の第を、母は一歳になったばかりの弟を抱いて防空壕に入った。そこへ、一週問ほど前に離れへ疎開してきている親戚の年寄りと子どもが入ると、畳一枚ほどの防空壕は身動きできない。

この玄関前の防空壕は私の誕生記念に祖母が植えた八重桜の木を伐ってその跡に父が掘ったものだった。

一人で防空域の外に立って様子を見ていた父は「こりゃひどい。家が焼けだしたら危ない。橋の下へ迷げよう」と、家族と観戚を次々に防空壕から出した。

轟音と共に黒い機影が不気味に一機また一機と頭上をいく。機影が視界から消えた合間に小腰を屈めて二人、三人と順番に地続きの畑の東側を流れる用水へ急ぐ。

用水の岸辺から見る南の空は燃え上がって赤く、その明かりに照らされたおびただしい数の機影が旋回し交錯しながら腹から焼夷弾の束を吐き出す。後からあとから降る黒い塊は、落ちながら火を噴き二十にも三十にも炸裂し、辺りを照らす。還くで、近くでドーンドーン、ドーン、ザッザザーッ。止む間もな<聞こえる。

「あっ、来たっ」機影が近付くと目を瞑って橋の奥に逃げこむ。息を凝らして身を寄せ合っていると爆音が違のく。そっと橋の下から覗く。その間に父は家に駆け込み、先ずは先組の位牌を、次に箪笥の引き出しを一本ずつ持ち出す。父が家に入つている間、心配で妹と抱き合つて「爆弾が落ちませんように」と析った。

空を焦がす炎は拡がるばかりだった。

「学校に落ちた」

誰かが叫んだ。いっも見償れた二階建ての校合がまたたく間に燃え上がり、燃え盛る炎の中に、一段と高く立っていたドームのてっべんの尖塔が一瞬浮かびあがり、そして崩れ落ちた。私の御野国民学校が焼けた。

「クレパスが、クレパスが焼ける!」

とっさに頭をよぎった。泣き出したいほど胸が震えた。 学用品配給の籤引きで当たった、えんじ色の箱に入つた十二色サクラクレパスだった。私の宝物だった。

その日の前目、ハンカチに包んだクレパスと開墾用の鍬を持って登校した。クレバスは机の中に置いて三野公園下の旭川の中州に向かった。慣れない開塑と暑い陽の中を往復四キロも歩いて学校へ戻った私は、二階の教室へ寄る気にもなれず帰宅していた。

夜が白みかけたころ、ようや爆音は止み、機影も消えた。幸いみんなが最も心配していた隣の兵器廠も兵舎も被爆を免れた。家も家族も無事だった。

(中略)

人の波がいっとき途切れたときだった。煤けた顔の若い母規が晒のおんぶ紐で赤ちゃんをおんぶして、前を見やったまま裸足で歩いてきた。片手で小さな風呂敷包みを胸に抱きかかえ、他方の手を後ろに回し、赤ちゃんのお尻のあたりを支えていた。しかし弟と同じくらいの赤ちゃんは、胴体だけで頭は無かった。私は声も出なかった。祖母に駆け寄ったが、何といえばいいのやら、ただ祖母の胸に蹲っているだけだった。

低く垂れこめた空から、生ぬるい黒い雨がしょぼしょぼと降りだした。〈後略)


十歳の少女が引き受けるには、余りにもむごく、痛ましい体験です。いま、地球上のどの子どもも、決してこのような辛さを味わうことのない、平和で理性的な世界を築かねば、と強く思います。「集団的自衛権」の名のもと、他国(アメリカ)がひきおこした地球の裏側の戦争にまでも、「わが軍」を派遣して戦闘に参加させ、「殺し、殺される」事態を招来するアベ流の「積極的平和主義」はごめんこうむりたい。消費税引き上げ延期、アベノミクスの評価を問うなどとして、選挙の争点をぼかしながら、あわよくば2/3の与党議席を獲得した暁には、一気呵成に「明文改憲」に突き進む、なんてシナリオ、なおさらごめんですよね。

今日掲載のアジサイは、六月二〇日の深山公園。
またまた枚数が増えました。




深山公園のアジサイ2016

深山公園のアジサイ2016 posted by (C)kazg 


深山公園のアジサイ2016
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深山  公園のアジサイ2016 posted by (C)kazg 
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深山公園のアジサイ2016
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今日はこれにて。


取り急ぎ、岡山空襲の日を走り読み、の巻 [今日の暦]

今日は何かと時間に追われる一日で、よほどブログ更新はお休みしようかと思ったのですが、「今日は何の日」の話題に一言触れないわけにはいかないと思い、取り急ぎ雑文を綴ります。
きょうは、「岡山空襲の日」です。
ウィキペディアの記事を借ります。


 岡山空襲(おかやまくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)6月29日の午前2時43分から午前4時7分にかけてアメリカ軍により行われた岡山県岡山市に対する空襲。計画段階では戦略爆撃だったが、ほとんど無差別爆撃として実行された(後述)。この空襲ではアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB-29およそ140機[1]が用いられ、空襲警報が出されず全くの不意打ちであったため死者が1737人にも及んだ。
6月29日には岡山市・佐世保市のほか宮崎県延岡市、福岡県門司市(現:北九州市門司区)が空襲を受け、夜には長崎県佐世保市が空襲を受けた(佐世保大空襲)。

ちょうど今、「第39回岡山戦災の記録と写真展‐空襲とわたしのまち岡山」と銘打って、岡山空襲の実相を伝える展示が、↓ここで明日まで催されています。、

岡山シティミュージアム/岡山空襲 展示室 - 岡山市

また、過去の展示の記録も見ることができます。

・2015年開催【第38回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2014年開催【第37回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2013年開催【第36回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2012年開催【第35回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2011年開催【第34回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2010年開催【第33回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2009年開催【第32回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2008年開催【第31回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2007年開催【第30回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2006年開催【第29回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>



岡山空襲に先立つ六月二〇日の水島空襲について、去年はこれら↓の記事を書きました。

もう一つの「今日は何の日」

四歳の目に焼きつきし夏の空
ここには、四才で水島空襲を体験されたM先輩の「手記」を紹介させていただきました。
そして、先日は、一〇才で岡山空襲・終戦を体験された方々の手記をもとにした朗読/演劇に接する機会がありました。


概略は、この記事に書きました。

沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3) 
今日は少し補足をしようと思います。
この朗読/演劇の原作は、 「操山高校五期生の会」のは、約二年の月日をかけて編集発行された手記「その時10歳の私は」。





実は、ちょっとしたいきさつから、我が家の本棚に、その冊子を一冊をおあずかりしています。



というのは、この本の編集・発行の中心を担われたお一人が、同業の先輩(しかも職場も長くご一緒していただきました)の高垣章二さんで、昨年夏の同業者の作品展(この記事参照七夕雑話、

)にこの本を出展されたのですが、片付けの際に、成り行きで私にしばらく保管をゆだねられたのでした。内容を拝読するにつけ、いつかこのブログで紹介したいものと思っておりましたが、このたびの演劇/朗読の機会は、良い潮時と言うべきでしょうか。

舞台の最初のシーンは、校庭らしき広々とした場所に壇が据えられていて、そこに校長が登壇し、全員起立の子どもたちに訓話をたれる場面です。

校長役は、私も親しい同行のお仲間で、地元で演劇活動にも取り組まれているIさんでした。しっかり板について、すごみさえ感じる演技でした。

原作本の冒頭にある「出征する教師を送る」と題された手記が元になっているようです。







天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて還らじと、誓う心の勇ましさ

この歌はかっての日本陸軍の出陣の歌です。私の小学校時代のこの歡にまっわる悲しい出来事(思い出)を、お話ししようと思います。

私は父が満鉄(南満州鉄道株式会社)の技術者であった関係で中国(旧満州国)の撫順という所で生まれ、敗戦後日本に引き揚げて来ました。学校は満鉄の社員子弟のための学校でしたので、生徒は殆んど満鉄社員の子弟で仲間意識が強い集団でした。もちろん生徒は全員日本人でした。
そのような学校が昭和二十年頃から雰囲気が少し変わってきました。

ある日の朝、学校に登校すると学級担任が教室に来て、全員講堂に集合せよとの事、教室前の廊下に整列して識堂に行くと、上級生は全員すでに集つていました。四年生以上の生徒が全員集合すると、
校長と一人の教師が登壇し、校長の話が始まりました。

「まことにおめでたいことに、先生(校長と一緒に登壇した教師)は、お国のために出征されることとなりました。先生のご活躍を析って、本校の教師、生徒全員でお送りいたしましょう。」

そして儀式の最後に冒頭の陸軍の出陣の歌を全員で合唱し、万裁三唱しておめでたい儀式は終了しました。

教師を送る儀式は、この後度々行われ、戦争が激しくなってきたことを肌で感じることとなりました。



たまたま、昨日は、今年の作品展の展示作業日で、かの高垣章二さんも顔を見せておられ、短時間でしたがお話できる時間がありました。

岡山の小学校でも、満州の小学校ほどの儀式はなかったものの、途中で出征していく教師はあった。その後は、まだ十代の代用教員が補充した。とのことでした。

高垣さんの手記は、浦吉ゆかさんが、是非にと希望して朗読された由。最初の文章そのままではなく、朗読用に幾分加筆調整されたそうですが、手記の原文から少し引用させていただきます。







 あの日、あの炎

北の空だけ暗かった。 パラパラと幾つか燃えながら落ちてくる。一つの火がパッと幾つかに分かれて拡がり、また、拡がる。火は次々に落ち、拡がり、空を赤黒く染め、ゆっくりと落ちて来る。”あれが焼夷弾か、燃えながら落ちるんだ。何故あんなにゆっくりなんだろ〟道路わきに造られた防空壕が目に入る。慌てた母親が、私の腕を掴んで引き戻し、耳元で「そんな所に入ったら死んでしまう!」”でも空襲だよ?防空壕に入ると死ぬって?〟母の厳しい表情に思わず言葉を飲み込む。

大勢の人が、道幅いっばいに北に向かって急ぐ。”岡山に、こんなに人がいたんだ〟誰も大声では話さない。ただ急ぐ。”待てよ、あの火の弾は、頭上を通過して後ろの方に、南に流れていく。だから、北に向いて逃げてれば良いのか〟”でも、飛行機は何処かな?B29は?〟と探してみるが機影なし、爆音も聞こえない。と、またもや「何をキョロキョロしてるの!
しっかり歩きなさい!」

道の真ん中でメガホンを持つた男が「道を逃げるな!」

と怒鳴つている。服装から兵隊でも警察でもない、警防団か。”道を逃げるなって?〟「田圃に入つて散らばれ。 バラバラに逃げろ!」”そうか、そういうことか〟今度は私が母親を引っ張って田圃に降りた。

私は、家を出るとき〔あの靴〕で逃げようと決めた。 数日前くじで引き当てた新品の運動靴。 そのため靴紐を通したりと手間がかかった。手早く支度した母親が、外で待っている。っいに、「何をぐずぐずしてるの」と入つて来るや「何故そんなもの履く!」”だって、学級に二足だけ配給があったんだよ。くじで当てたんだ〟「バカね。そんな靴履いて」むっとした私は、”だったら、何を履くの!〟すかさず「長靴を履きなさい」″えっ、ナガグツ…〟と云いかけたが、逆らえる雰囲気ではない。
不承不承、長靴を履いた。

たしかに、まだ水こそ入つてはいないが、田植え前の田圃、〔あの靴〕で田圃に入る気にはならなかったろう。


こうして九死に一生を得て、避難先から戻ってくると、途中で風向きが変わったおかげか、家は奇跡的に焼け残っており、あの運動靴も無事。ところが、喜んで履いてみると、何日もしないうちに靴底が破れ、粗悪なボール紙がのぞく始末。落胆の顛末が思い出となったそうです。「運動靴一つが、どんなに貴重に思えたか、今の子どもにはわからないだろうね」と、笑っておられました。

浦吉ゆかさんについての話題も、興味津々でした。

高校演劇の全国大会は、県予選・中国大会を経て、翌年度行われるので、予選を勝ち抜いた有力メンバーが卒業して、新しい体制で挑むことになるのですが、玉野高校が初めて全国大会に出場したとき、浦吉さんは一年生で出場することになったとか。演目は「鬼よさらば」以前この記事で、ちょっと話題にしたことがありました。

昨日の「今日の暦」---「パパママバイバイ」のこと

こんな事を書いていました。







 手元には「鬼から鬼へ」と題する玉野高校演劇部創作脚本集(玉野高校演劇部OB会発行)という冊子がありましたので、改めてひもといてみました。若者の感受性と正義感の確かさに、深く励まされる思いがします。

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なお、冊子の「鬼から鬼へ」という標題は1979年の中国大会で優勝し、1980年の全国大会に出場した作品「鬼よさらば」と、1988年の中国大会で優勝し、1989年の全国大会に出場した作品「温羅のうら」にちなんだネーミングなのでしょう。後者は、古代吉備の国「鬼の城(きのじょう)」を本拠地とする鬼=温羅の伝説に題材を採り、平和に暮らしていた吉備王国の心優しい王が温羅(うら)であり、彼らを暴力によって滅ぼした大和朝廷の、歴史の偽造により、後に鬼に仕立て上げられたのではと問うのです


本題に戻ります。

すべてに渡ってご紹介もし、感想なども述べたいところですが、力に余ります。印象的なシーンだけをピックアップしてみます。







 人生最悪の日一愛犬チェリ-との別れ

ある日、町内会長さんが「犬をお国のために供出してください。別れが辛いでしょうがお願いしまずと玄関にに出た母に気の毒そうに云って帰られた。

隣の部屋で間いていた私は「おかあちゃん私いやよ、いやよ」と母のひざをたたいて泣いた。母の私の背中を摩って無言で泣いていた。

我が家の愛犬チェリーは、:私の誕生祝いにと父の会社 の人が贈つてくれた生後二ヶ月位の血統書付きの茶色の柴犬だった。私と同年で一緒に育った。雌なので兄がチェリーと名付けたそうだ。家族全員に良く懷きとても利口
で、家族の誰かが帰つて門に近付くと「ヮンー、ヮンー 」と鳴いて知らせた。

「お父ちゃん、チェリーは連れ.で行かれたらどうなるの」「淑子はもう三年.生だから本当の事を教えよう。戦争で寒い北国で戦つている長隊さんの防寒服に使われるんだよ」「じゃあチェりーは殺されされるの?」「そういう事に.なるな」苦しそうに父は俯いて腕を組んだ。私は目の前が真っ暗になった。

戦争は、一〇才の子どもたちの手元から大切なものを次つぎともぎ取っていき、岡山空襲は、いわばとどめに、街を、家を、家族を、友人を焼き尽くしました。

岡山市のHPに、市内に残る戦災の遺跡というページがあり、こんな記述があります。


 昭和20年6月29日市内中心部を焦土に変えた岡山空襲。
 65年以上経った今でも被災した建築物が各地に残っています。
 現地を訪ねると、当時の惨状を思い浮かべるとともに平和の尊さを感じずにはいられません。




(右写真は『岡山市史 戦災復興編』より)
 岡山市役所の焼け跡の写真
 岡山城石山門跡の写真  

5 岡山城石山門跡(丸の内一丁目)



 



 石山門は、廃城となった富山城(矢坂山)の大手門を移築したものと伝えられ、西の丸の石垣と南側の方形の石垣の上に渡り櫓を構えた櫓門で、石垣の間が通路になっていました。
 岡山城廃城の後も残り、天守閣と共に国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により焼失してしまいました。
 石垣に残る赤茶けた焼け跡が空襲の激しさを今に伝えています。




          平成8年3月説明板設置


 岡山城天守台の写真  

9 岡山城天守台(丸の内二丁目)



 



 岡山城の天守閣は慶長2年(1597年)に竣工、その外観から烏城または金烏城とも呼ばれ、戦災前は国宝に指定されていました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により市街地は焼け野原となり、天守閣は焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色してしまいました。
 その後、天守閣は再建され、石垣も一部が修復されたものの、今も焼けて変色したままであり、空襲の激しさを伝えています。




          平成9年3月説明板設置





岡山城も、後楽園も、再建されて現在はこの静かな穏やかなたたずまいを見せていますが、むごたらしく焼け焦がされたのでした。










東京大空襲についても、この記事(昨日の「今日の暦」ーーー3月10日のえとせとら)をはじめ何度か話題にしたことがありますし、イラク、シリア等への空爆のニュースにも、爆撃に焼かれる子どもたちのことが思われてなりません。大昔つくっていたhpの更新履歴に、こんな事を書きました。


  2003.2.15 トップページと作品のページを多少更新しました。

それにしても、イラク・朝鮮半島情勢は、人類史を逆戻りさせる愚劣さです。「ならず者国家」を成敗する先頭を、一番のならず者が突っ走るの図。泣くに泣けず笑うに笑えぬ出来損ない笑劇に、どこまでつきあわねばならないのでしょうか?

「空爆」は、民衆の側から見れば、「空襲」です。逃げまどう民衆を念頭に入れないアメリカの視点は、ベトナム以来変化なしということか?「戦場」が常に自国の外にあったアメリカにとって、逃げまどう民衆の姿はイマジネーションの限界の外にあるのかもしれません。

では、日本の姿勢はどうなの?「悪い政府」の統治下であろうがなかろうが、各地の大空襲とヒロシマ・ナガサキの辛酸を嘗めた日本の民衆の視座からは、「空爆やむなし」の結論は、生まれる余地のないもの。にもかかわらず、NATO傘下のヨーロッパ諸国に比べてさえもふがいない追随三昧。嘆かわしい限りです。



2003.2.26 フランスのリベラシオン紙のコラムは、ブッシュを裸の王様にたとえたと言います。前々からそう思ってました。「王様は裸だよ」の声を、率直に伝えてあげる方が忠義かつ親切というものでしょうに。「お美しい」「お似合いでげす」のおべっかを、自分ばかりか周囲にも強要する幇間(太鼓持ち)の罪は如何?リンク集を緊急編成しました。



2003.4.20 ブッシュさん、3歳児をひねりつぶして、「勝った勝った」と誇っても、誰も腹でケーベツするだけ。ただ、手のつけられない乱暴者のやることだから、顔をしかめて黙って見ているまでのこと。

でも、ブッシュさんは気づいているのかしら?あなたに突如「ならず者国家」の烙印をおされ、第2第3のイラクとしての標的にさらされるおそれを感じている国々が、このイラク戦から何を学ぶか?について。

「力こそ正義」という、ブッシュ流の新しい(実は西部開拓時代以前の未開野蛮な)むき出しの力の政策の前では、国連中心の国際秩序を誠実に遵守することは愚挙であり、ましてや国連査察に誠実に応じたり、大量破壊兵器の廃棄など馬鹿正直に実行するなどもってのほか。細菌兵器、化学兵器、核兵器、無差別テロ攻撃・・・いずれをとわず、物量に勝るアメリカに「軍事的」に対抗する道すなわち無限の軍拡の連鎖、憎悪と報復の連鎖への道をひた走るしかない、と、向こう見ずな破滅的な決意を促したに違いないことを。

ブッシュ=アメリカをジャイアンに喩えた人がいました。ジャイアンは、自分のコンサ-トを誰もが歓迎しているに違いないと信じているのでしょうね。メーワクに感じながら、「いや」と言い出せないのは、ジャイアンに正義が存するからではなく、彼の腕力をはばかる故であることは、誰もが知っています。知らぬはジャイアン一人でしょう、かわいそうなジャイアン。

そして、ジャイアンの正義は、彼の腕力を上回る力(ドラエモン由来の)によってついえ去るしかないのです。ジャイアン少年は、心底、真の友情を求めながら、たまたま他を圧する腕力と粗暴さを備えていたが故に、怯えと追従と憎しみをもって遇されるしかなかったのです。もしも彼が、平凡な腕力の少年であったなら、その純朴な個性はより好ましい輝きを増し、周囲から真に愛され、好ましい友情を獲得できたに違いないのに・・・。

リンカーンの国、ホイットマンを生んだ国、民衆愛と寛容な民主主義の伝統ある朗らかなアメリカが、なぜこんなにも野蛮で狭量なふるまいしかできないのでしょうか。ベトナム戦争への苦い反省も忘れたかのように。ソ連、東欧の自滅をへて、対立軸を失い、「一人勝ち」してしまったことの不幸なのでしょうか?ジャイアンの不幸、孤独との相似が、なにやら真実味を帯びてきました。

これを引用しながら、2013年秋のオバマよ!お前もジャイアンか!の記事ではこう続けて書いています。

 一方、アメリカは、オバマの登場で、人権と民主主義の方向に劇的に舵を切る大刷新が果たされるかと、世界中が期待しました。社会保険制度、医療制度の改善の分野では、たしかに大きな胎動を感じます。

でも、大量破壊兵器である化学兵器を使ったとして、シリアへの空爆に走る姿は、やはりジャイアンでした。「オバマよ、お前もか?」です。


さらに、アメリカCIAによる盗聴の標的が「友人」たちにまで向けられていたことに、激しい怒りが集中しています。


一方、我らが安倍さんは、アメリカのシリア空爆方針を受けて、8月28日の記者会見で、こう述べました。


「日本政府としては、シリアにおいて化学兵器が使用された可能性が極めて高いと考えています。化学兵器の使用はいかなる場合でも許されるものではありません。シリア情勢の悪化の責任は、人道状況の
悪化を顧みないアサド政権にあることは明らかであります。日本政府は、事態の改善のため国際社会と緊密に連携していきます。 」


そして、記者の質問に対しても、たびたび「国際社会との連携」を口にしました。



も、その国際社会はというと、国連は、ロシアと中国の反対で、武力行使に賛同することはなく、アメリカが頼りにしていたイギリスも、議会が武力介入を否決
し、ドイツも米国に協力せず、「国際社会」は総じてイラク空爆に批判的です。その状況の下で、国際社会と連携するとは、アメリカにきっぱりNOということ
でしょうが。日本はやっぱり、性懲りもなくスネ夫を演じるのでしょうかね。



そして、戦争法(安保法制)強行前夜の昨年夏、

ジャイアンとスネ夫に関する覚え書き、の巻

の記事でこう書きました。

 このころは、「安倍さん」と、漢字で表記していました。これまた感慨深いです。

引用だらけのつぎはぎ記事ですが、ひとまず、これにてオシマイ。

雨の日の種松山のアジサイ、の巻 [獺祭魚]

カワウソが捕らえた魚を岩に並べて祭りを行うという伝承に倣って、撮りためた画像を並べてひとり楽しもうというコーナーです。「伝説の名酒」とは一切関わりありません。

先日、これらの記事で紹介した薔薇の写真は、倉敷市にある種松山西園地という公園で写しました。そこを訪れたわけは、雨に濡れた紫陽花を狙ったのでした。↓

白蓮とくちなし夫人と紅い薔薇、の巻

放縦といふべかんなる薔薇雫

 

この場所のアジサイについては、去年も書きました。

 種松山の紫陽花の巻(第一回)

種松山の紫陽花の巻(第2回)

こんな記述がありました。

 それはさておき、一昨日の種松山散歩、一万数千本とも二万本とも言われる紫陽花を、際限なく、根こそぎ写し尽くしたい貪欲を、抑えることが困難でした。フィルムカメラの時代なら、用意してきたフィルムが切れますから、ほどほどに諦めもつきますが、デジカメ時代になって記憶媒体の容量が格段におおきくなり、ほどのことではメモリーを消費し尽くす懸念はなくなりましたので、無頓着に、ただただ撮影してしまいます。

「足る」を知らない振る舞いに。あきれるばかりです。
 

 性懲りもなく、おなじ轍を踏んだことでした。

 似たり寄ったりの画像ですが一部を紹介させてください。

 
雨の日の種松山公園の紫陽花
雨の日の種松山公園の紫陽花 posted by (C)kazg


雨の日の種松山公園の紫陽花

の日の種松山公園の紫陽花 posted by (C)kazg


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雨の日の種松山公園の紫陽花
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フォト蔵の写真ページにアップしました。

http://photozou.jp/photo/top/3145535

よろしかったらご覧ください。

今日はこれにて。


沖縄慰霊の日に思い出すこと(その4 最終回) [私の切り抜き帳]

一九八〇年頃、映画「てだのふぁ」を鑑賞した際の「担任通信」のつづき(最終回)です。
 十 ふたたび映画について
あの笑いは何だったのだろうか?今もってぼくにはわからない。なぜ、あの場面で、少なからぬ人々が、笑い得たのか?
最初の笑い―女学生の歌う「郷愁」のメロディを聴いた父親が発作を起こす場面。
なぜそこで笑うことができたのだろう?あの笑いの質は何だったのだろう?
耳鳴りの効果音が、何か違和感を覚えさせたのだろうか?それとも、演者の演技の質を笑ったのだろうか?物語とは独立させてそれだけを???そうだとすれば、私の不快感はいささかはやわらぐが、それにしても幼稚な反応だ。
父親のしぐさに、何か尋常でないものを感じて、そこに戸惑いを覚えての笑いだろうか?そのしぐさが、発作によるものだったこと、そしてその発作が何に起因するものかを知る前だったから、そのしぐさの故に無邪気に笑ったのだろうか?
それとも、大の大人が頭を抱え込み、おびえている様がだらしなく思えての笑いだったのだろうか?だが、そうした、一種のホホエマシサの笑いとは違った調子が、あの笑い声の中には感じられたように思えてならない。
しかも、二度三度の笑いはどうしたことだ。父親の発作の旅に起こる笑いはどうしたことだ。もはや、無邪気な笑いでは済まされないだろう。戦争体験の重さ、傷跡の痛ましさ、さらに沖縄の担わされた過酷な受難への感受性が問われねばならないだろう。それだけではない。たとえ発作の原因がほかにあろうとも、心の病、神経の疾患、心身の障害に苦しむ人を、いたわりによってではなく、笑いによって遇する感覚は、問い直されねばならないのではあるまいか。たかが映画の中でのこと、現実とはおのずと関わり方が違う.と言って済まされると思わない。
発作の原因が .次第に明らかにされていく過程を経ても、笑いの質に変化が見られなかったことが、ぼくをますます沈ませる。
◎耳鳴りの音が、砲弾や手榴弾の爆発音を連想させること。
◎目の前で自決させられた少女たちの涙まじりの合唱。
◎全人口の1/3が散った沖縄戦。
◎戦後のアメリカによる占領のもとで苦難を押して祖国復帰の運動に携わってきた友人の、疲れ果てた死。
――そこには、笑いを誘う要素はないはずなのだが・・・。
入院した「ふうちゃん」。家の中に見えなくなった娘を心配して発作を起こした父親のどこに笑える要素があるのだろう。
「娘のそばにいてやらねば。娘を守ってやらねば。凶暴な力によって娘が奪い去られるかもしれない。目の前で少女たちがバタバタと死んでいくことに手をこまねいた自分だが、娘をそんな目にあわせてはならない。」という強迫観念におびえる父親の、どこに笑える要素があるだろう。
ぼくだって、わが子を抱きしめることがある。この子がよもや、何かあらがい難いちからによって、連れ去られるようなことがありませんようにと、祈る思いで抱きしめる事がある。戦争の足音が、かすかながらも聞こえるような気がするときには、やもたてもたまらず、我が子を抱きしめたくなる。それは、あれほどの嘲笑を浴びせられねばならぬほど、コッケイなことなのであろうか、果たして?

十一 終わりに
たかが映画を、そんなにもシチメンドウクサク考えなくとも、スクリーンのこちら側は、安全至極、おだやかそのもの、おせんにキャラメル、コカコーラにホットドッグで、満ち足りているとおっしゃるお方には、”お気に召すまま”と申し上げましょう。そして、冷ややかな笑いを返して差し上げましょう。どうせ、傷つきもしないかもしれないが。

いささか冷静さを欠いて、感情的ななっていますね。とくに、終わりのあたりは、恫喝めいていて、高校生相手に不穏当かと、忸怩たるものがありますが、取り繕うことなく、ありのままに記録しておきます。
今なら、もう少しカウンセリングマインドに配慮した物言いを心がけたかもしれません。
なにしろ、二十数年も前に見た作品です野で、今となっては記憶も曖昧ですが、ネット上に、コンパクトな解説がありましたのでご紹介します。weblio辞書の、このページです。
一部引用します。
 ストーリー
※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください
小学校六年生のふうちゃんの両親は沖縄出身で“てだのふあ沖縄亭”という食堂を開いている。店には片腕のないロクさんや鋳物工のギッチョンチョンやその友達のギンちゃん、桐道さん、ゴロちゃんといった沖縄出身者が集まり、ふうちゃんは皆の人気者だ。ふうちゃんの父親は、時々、ノイローゼで発作を起す。長いこと故郷の波照間に帰ってないからだ。食堂では、沖縄出身のグレかかった少年、キヨシを連れてきたギッチョンチョンとギンちゃんの間で少年が原因で喧嘩が起った。ある夜、キヨシが沖縄亭にこっそりやってきた。ギッチョンチョンから盗んだ金を返しに来たのだ。帰ろうとするキヨシを追ったふうちゃんは足をケガしてしまう。そして、病院のベッドでふうちゃんは、お父さんが発作を起したのを知った。でも、キヨシがお店を手伝うことになってふうちゃんは一安心。そんなキヨシも暗い過去を背負っていた。幼いとき母に捨てられ、ギリギリの生活をしていたのだ。沖縄亭に集まる心優しい人たちみんな、気の遠くなるようなつらい悲しいめに会ってることを、ふうちゃんは気づきはじめた。そして、それは、みんな戦争と沖縄が原因している。「沖縄のことを勉強しよう!」ギッチョンチョンを先生に、ふうちゃんの猛勉強が始まった。ある日曜日、ふうちゃん、お母さん、ゴロちゃん、キヨシで姫路の先の室崎へ行くことになった。お父さんを誘うと、急に不気嫌な顔をする。お客さんの一人は、お父さんを室崎で見かけたことがあると云う。室崎でゴロちゃんが叫んだ「南部の海岸線に似ている!」沖縄戦にさい悩まされるお父さんは、ここへ来て何を考えるのだろうか。戦争の暗い影をいやすのは、故郷の青い海だと考えたお母さんは、波照間にいるお父さんのいとこに手紙を出し、親娘三人で行くことになった。お店はキヨシがやってくれるのだ。出発前夜みんなでパーティを開いていると、お父さんがいなくなった。みんなで八方手をつくすが、お父さんはどこにもいない。ふうちゃんはキヨシと室崎へ行った。海岸を走る二人。神戸に電話をしたキヨシが涙をためてふうちゃんのところに来た。全てを悟ってふうちゃんの目に涙が溢れでてきた。石垣島から波照間へ向う船に、ふうちゃん、お母さん、そしてお骨になったお父さんが乗っている。波照間の海はお父さんが話していたよりもずっと青い。今までの楽しいこと、悲しいことが胸にこみあげてきて涙が溢れてしようがない。波照間の、海に向う一本道をふうちゃんはお父さんと叫びながら走り続けた。

私はこの頃、まだ沖縄に行ったことがなく、書物からの情報と耳学問と想像で、自分なりの「沖縄」イメージを抱いていたに過ぎません。実際に目でで見ることができたのは、それなら何年かの後でした。何よりも印象深いのは、飛行機の窓から見下ろした、晴れた海のエメラルドグリーンの明るさです。それと対照的なのが、民間機の合間を縫って、轟音を立てて那覇空港に発着する自衛隊機のおどろおどろしさ。軍用空港と共用の、前線基地としての側面への驚きでした。
現在はさらに増強されて、「那覇空港の過密化は大丈夫か」と沖縄タイムス+プラスの記事は懸念しています。
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=152005
 南西地域の防衛体制の強化に向けて、航空自衛隊那覇基地のF15戦闘機を2飛行隊化し、約40機で組織する第9航空団が31日、発足する。約50年ぶりの 航空団編成に中谷元・防衛相は「強化を目に見える形で示す」と期待をかけるが、主力のF15が倍増することで懸念されるのは、那覇空港滑走路発着の過密化 や騒音の激化。民間機の発着数、自衛隊機の緊急発進数ともに増加傾向が続き、「軍民共用」1本の滑走路は、ぎりぎりの運用を迫られることになりそうだ。

那覇空港の発着数と自衛隊機の緊急発進数
その時の沖縄旅のいきさつについては、以前、この記事に書きましたので、繰り返しません。
大寒や沖縄に春いちはやく
私の沖縄訪問は、後にも先にもその一度だけ、それにしては知った風によくもの申すものと、自分であきれます。「知ったかブログ」の面目躍如ですね。
現在では、「沖縄旅行」は、高校の修学旅行でも定番のコースの一つとなり、私の次男も行きましたし、多くの若者にとって沖縄は身近な、なじみの場所となっていることでしょう。本土の人間が、実際の沖縄の良さに触れ、親近感を覚えるようになってきているのは好ましいことだと思います。
でも、何度沖縄を訪問しようとも、何度「戦没者追悼式」に参列しようとも、何度「沖縄の心に寄り添う」と口にしようとも、ちっとも「沖縄の心」が感じ取れないお方もあるようです。その方にこの言葉を贈ります。
 そんなにもシチメンドウクサク考えなくとも、スクリーンのこちら側は、安全至極、おだやかそのもの、おせんにキャラメル、コカコーラにホットドッグで、満ち足りているとおっしゃるお方には、”お気に召すまま”と申し上げましょう。そして、冷ややかな笑いを返して差し上げましょう。どうせ、傷つきもしないかもしれないが。

あちらこちらでこだまのように広がる「帰れ」の声の意味にお気づきでないお方には、この際、退場していただくしかないようですね。



つかの間の梅雨の晴れ間がありましたが、今日からまた雨が続くようです。
最近になってオールドカメラやオールドレンズを持ち歩いています。(画像の扱いやすさから、デジカメに限られますが)。

近隣の田園は田植えが進み、この季節らしい美しい風景が広がります。

リコーgx200での撮影です。まだまだ、オールドカメラとは言えませんが、私自身、旧世代機になってから中古で買っていますから、むろん新鋭機ではありません。写りは?

なかなか結構です。
















次の画像は、PENTAXQ7+TAMRON BBAR MULTI C AUTO 135mm F2.8。間にkマウント→Qマウント純正アダプターを挟みます。

TAMRON BBAR MULTI C AUTO 135mm F2.8は、過去に↓こんな記事でご紹介した悲劇の「チャボツレンズ」です。

あな哀れ チャボツレンズに 秋の風

チャボツレンズもまた楽し







受光部のサイズが小さいQシリーズですと、かなりの望遠レンズになります。

マクロ撮影もできます。

アガパンサス。



タチアオイ。







コスモス。



ホオズキ。



ベニシジミ。



ちょっとトリミングします。



木陰のヌートリア。トリミングなしでこのサイズに写ります。さすがに背面液晶でのマニュアル撮影は、明るい場所では見にくく、ましてや動体になるとお手上げです。あえてこの機材を使う積極的意義は?となると沈黙するしかありません〈笑)。





次は、PENTAXK10D+Super-Takumar 1:1.8/55。レンズは、m42スクリューマウントタイプの、押しも押されもせぬ超オールドレンズです。もちろんKマウント化のためのアダプターが必要で、今回は加えて、AF化のためのAFアダプタ1.7倍を間に挟んでいます。

ヒャクニチソウ。











白いキキョウ。



白いアジサイ。



ホオズキ。上のものと比べて、描写に違いがありますか?



ひまわりも咲いています。







タチアオイ。



ノウゼンカズラ。



ミントの花。



収穫。



モノクロ時代のレンズで、カラー撮影のことなど想定していなかったのでしょうが、条件によっては結構良い色が出るように思えます。

ただ、カメラのせいかレンズのせいか、この組み合わせだと露出がかなり暴れ、撮影時の露出調整と、撮影後のレタッチが必須です。

今日はこれにて。

沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3) [私の切り抜き帳]

一九八〇年、映画「てだのふぁ」を生徒たちと鑑賞した際の「担任通信」の続きです。

六、「裸の王様」の笑い

人間的「笑い」を考えるとき、ぼくは、いつも、「裸の王様」を思い出す。

世界にまたとない、最上等の衣装と信じ、裸の王様は威張って街をねり歩く。苦虫をかみつぶした顔してうやうやしくおじぎする家来たち。もったいぶった彼らの振る舞いは、人間的感情の放棄の上に成り立っている。笑いを見せるなどとはもってのほかだ。

最初に笑ったのは、町の子どもたちだろう。おっかなびっくりの大人たちにも、ひそひそ笑いが感染する。おしとどめようにもすべなく、剣による威嚇も効なく、笑いはとめどなく広がり、ついには町中が哄笑の渦にどよめき揺れる。

人間的感情の表出としての笑いは、虚飾に満ちたウヤウヤシサ、取り澄ました愚劣さを、痛快にもあばき出す。そのような笑いをぼくは愛する。



七、人間的笑いの一般的性格

歴史上のあらゆる独裁者が、庶民の笑いを恐れたのは、笑いのもつ批判力のためである。そしてまた、人間的健全さこそは、独裁を根本から揺るがす要因であることを知り抜いているからである。

「国家の大事の時に、笑っている場合か!歯を食いしばれ!」という声が、ファシストたちのお得意のかけ声であったことを、思い出してくれればよろしい。

だからぼくは、オカシイ時に笑えないような事態を恐れるし、涙と同等の価値を笑いに認めるのである。



八,退廃の笑い

いや、だが待てよ。健康で人間的な感情の表出としての笑いとは、正反対の極に位置する笑いもあるような気がする。

ベトナム戦争の写真を見ろ。射殺したベトナム農民のムクロを、狩りのエモノかなにかのように、逆さにぶら下げて記念写真もどきにポーズを撮るアメリカ兵がいたではないか。その口元には、ニタリと「会心」の笑みが浮かんでいたではないか。

鼻歌交じりかなんかで、人々をガス室に送り込み、もだえ苦しむ幾万の市民に「うるさい虫ケラどもめ」とツバを吐きかけるナチスの青年がいたではないか。

昨今のニュースを賑わす少年たちの集団リンチはどうだ。すでに失神して倒れている相手に絶え間のない足蹴を加える少年たちは、小動物をもてあそぶ幼時の嗜虐的な笑いを浮かべているとか、、、。

いや、しかしそれは、特異な例だ、特異な環境のなせるわざだ、、、、?もし、そうならば、幸いだが!

だが、ぼくには、その種の非人間的な病的な笑いが、僕らの身の周りにまで忍び寄っているように思えてならない。



九 再び寄席について

今、空前のマンザイブームだという。うっとうしいことの多すぎる現代。大いに笑いが求められていることのあらわれかもしれない。そして、期待通りに、心やすまり、心なごむ芸に巡り会う機会も決してまれではない。

しかし同時に、下卑て、クダラなくて、しかも押しつけがましくて、後味の悪い「笑い」もハンランしている。もちろん、人生の教訓とならずとも、ばかばかしいおわらいであっても、サワヤカさの残る笑いであればいいと、ぼくは思う。しかし、ぼくの恐れるのは、無理矢理押しつけられて笑わされて、〈ディレクターの合図か何かに強要されて)いるうちに、薄汚い毒入りまんじゅうを、美味なごちそうであるかのように錯覚させられていくことである。それに似た感覚のマヒを知らず知らず注入されていはすまいかと恐れるのである。

容姿の美醜をあたかも人格そのものであるかのように取りざたして、笑いの題材とするネタ。学校格差や学力差を、そのまま肯定しつつ、それを人格的優劣に結びつけて取り扱う笑い。老人を厄介者扱いする笑い。社会道徳上の無軌道をあたかも英雄視し、市民常識を笑い飛ばす笑い。・・・・

この調子で行けば、今に身障者や社会的弱者、他民族をも嘲笑の種にしかねまじき状況ではないか?

しかし、それは、寄席の場だけの笑いであって、実生活ではいたわりの心を保ちうると言うのかもしれない。だが、人間をさげすむところに立脚する笑いの感覚は、無自覚であると否とを問わず、人の痛みへの鈍感さ、人間の価値へのいびつな感覚(センス)を肥やさずにはいないだろう。それは、人の痛みを共感し、人の喜びを喜ぶ感覚とは、和解しがたく対立する感覚であるはずだ。その二つが、ひとりの人間の中で、自在に使い分けられようはずがないではないか。

現国(現代国語)の授業の続きではいが、我々はセンスを研ぎ澄まさねばなるまい。何に怒り、何に悲しみ、何に喜びを見いだし、そして何に笑みを誘われるか。オシキセのそれではなく、自前の(すなわち不断の自己洞察の上に築かれる)良き感覚を磨かねばなるまい。


このあたりで二ページ目が過ぎ、三ページ目にさしかかりました。もう後一ページ残っていますが、つづきは次回といたします。



昨日は、終戦当時一〇才だった少年少女の戦争体験記に基づく朗読・演劇の催しがありました。







チラシには、この劇についてこんな説明があります。

戦後70年の昨年 「職争の記憶」 が色々な形で語られました。 操山高校五期生の会は、約二年の月日をかけ「その時10歳のわたしは」の手記を募集し、編纂発刊しました。そして今年、ルートの会が中心となって71回目の「岡山空襲の日」
を前に、この手記をもとに構成した劇を上演します。

キャストは、劇団「青年劇場」の四人の俳優さんと、地元岡山の有志の皆さん。
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主催の「ルートの会」とは、2009年、岡山県出身の芥川賞作家、小川洋子さん原作の舞台劇l博士の愛した数式』(青年劇場)の岡山公演(岡山市芸術祭参加)
4日4ステージを成功させた実行委員会のメンバーを中心に、 その後も継続して活動していくために設立した会だそうです。


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キャストやスタッフのなかには、旧知の方々が何人かおられ、当日も拝見、または挨拶することができました。

特に、原案、総合監督の高垣章二さんは、元高校教師。私自身、長く同じ職場、同じ学年でご一緒し、また、退職教職員の会でもお世話になっているいわば「恩人」です。

昨日の出演者のひとり、青年劇場の女優浦吉ゆかさんは、高校演劇部当時からの「教え子」だそうです。

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また、ご退職まもなくの頃、この過去記事(夕焼け その3)で紹介した映画「あかね色の空を見たよ」の制作に実行委員会の中心を担って献身されました。チケットが売れなかったら、弁済のために退職金をつぎ込む覚悟をされていましたが、目標を超える観客数で見事「興行」は成功し、胸をなで下ろしておられました(笑)。(あれから十数年が経ちました)

中山 節夫 監督作品<br />「あかね色の空を見たよ」<br /><br />学校に行っていない私はきらいですか

 

岡山県教委のHPにこんな記事がありました。

平成28年6月22日

劇「その時10歳の私は 岡山空襲の記憶」に岡山操山中学校 ・ 高等学校生徒が出演します

岡山県立岡山操山高等学校五期生の会 (操五会) が, 約2年をかけて戦争体験の手記を募集し, 72人の手記を集めた『その時10歳のわたしは 職争体験記』が平成27年6月に発行されました。

この手記をもとに構成した劇が上演されることになり, 岡山県立岡山操山中学校生徒3名・同高等学検生徒3名もガイド役として参加することになりました。

以上. お知らせいたします。


1 日 時 平成28年6月25日 (土) 開演18:30 (開場18:00)

2 場 所 岡山市民文化ホール

(〒703-8293岡山市中区小橋町一T目1-30)

3 主 催 ルートの会・「その時10歳の私は」公演実行委員会

4  本校からの参加者

中学生3名(2年生1名, 3年生2名),高検生3名(1年生3名)

観客を受付入口からホール内の客席まで案内するガイ ド役としての役割を担います。

5 内 容 『その時10歳のわたしは 戦争体験記』をもとに, 「その時10歳の私は 岡山空襲の記憶」 と題した, 青年劇場の4名の方と岡山在住有志及び中高生による劇です。
(後略)


この作品にちなんだ話題や感想などは、また機会を改めて書かせていただこうかと思います。

沖縄慰霊の日に思い出すこと(その2) [私の切り抜き帳]


昨日掲載した1980年頃の「担任通信」には、同じ日付のものがもう一号あります。
やはり、映画「てだのふぁ」鑑賞に関係する記事です。
状況説明抜きにはおわかりいただけないでしょうが、映画鑑賞中の折々に、生徒たちの間に、映画の本題とは離れたところでいくらか下卑た、節度のない笑い声が
広がり、鑑賞中の空気がひどく崩れた印象がありました。そのことに、クレームをつけながら、私の思いを陳述している文章です。


笑いについの考察

一、はじめに

映画に限らずすべて芸術は鑑賞者のイマジネーションの最高度の発現によって作品世界を実感的に体験しようとする作業抜きには、形をなさない。ブタの耳には、
べートーベンも雑音に過ぎない。猿の目には、ゴッホも、汚れた布としか移らないだろう。その意味で、芸術の鑑賞は、優れて主体的な営みと言わねばならな
い。

作品世界への感情移入は、そのようにもデリケートな精神のバランスの上に成り立つものであるから、ちょっとした動揺にも妨害されやすいものだと言える。

昨日の映画は、会場の狭さ、寒さ、音響の悪さ、という客観条件にも、考査後の神経疲労という主体条件にも災いされた、悪条件下での鑑賞であったと言えよう。
にもかかわらず、努力して作品世界に深く入り込み、作品の重みを受け止めようとしていた人々にとって、あのトンチンカンな笑いは、耐えきれない妨害となっ
たはずだ。

少なくともぼくは、映画の印象を散漫にさせられることへのイラダチと、腹立たしさをおさえることができなかった。のみならず、あの嘲弄的な調子は、ぼく自身へのそして人間のまごころへの侮辱とさえ感じられた。


二、笑いへのぼくの態度
あの笑いは何だったのだろうか。
目くじらたててこだわり続けるぼくが、大人げないのだろうか、とも自問してみる。

もちろんぼくは、「笑い」そのものを不謹慎なものとは思わない。いや、むしろ、おかしいときに笑いをこらえねばならぬとすれば、それは不自然で、非人間的だろう。ぼくは、「笑い」 の持つ人間的な健康さ、すがすがしさを、大いに賛美したいと思う。



三、落語の笑い(そのⅠ)
ぼくは落語を愛する。そこには各種の笑いの類型がある。機知のヒラメキに思わず漏らす、愉快な笑い。芸の確かさに裏打ちされた話術による笑い、、、。

そ して、長屋の八っつぁん、熊サンのふるまいに誘われる笑い。彼らには、地位も名誉もゼニもない。そして教養もズル賢さもない。ウマク立ち回ることは根っからできない。至ってまっとうに生きている。曲がったことは大(で)ェキライ。何事にも真っ向からぶつかる。手加減できない。ササイな出来事にも顔色を変
え、怒り、泣き、イサミ立ち、芯からおろおろし、打開を企て、策を練り、世話を焼きあい、失敗し、挙げ句の果てにはショゲカエル。いかにも不器用で不格好な彼らの、欠陥だらけの渡世、、、。そこに漂う笑いは、嘲笑でも同情でもなく、我が姿そのものを見る泣き笑いであろう。「フーテンの寅さん」の笑いもこの種の笑いに他ならない。



四、落語の笑い(そのⅡ)

別の笑いもある。威張り返った役人の、無能を笑う笑い、いかめしいお殿様の世間知らずを笑う笑い。知ったかぶりのご隠居のバケの皮をはぐ笑い。大家サンや借金取りの鼻をあかす笑い。
これらの笑いは、日常において虐げられた弱者と強者の逆転への、庶民的願望に根ざす、痛快な共感の笑いだ。

たとえ「バカ殿」や「バカ旦那」が笑われていたにしても、それは、障害者へのさげすみの笑いとは無縁であろう。笑われるのはあくまでも、内実も伴わずに地位を得、権勢をふるう、文字通りの愚者であるのだ。


五 ついでに
与太郎のしでかすふるまいも笑いを誘う。与太郎は、強者ではないではないか。与太郎は、善良な、冷や飯食いの庶民ではないか。彼を笑う気持ちのウラには残酷な優越意識が働いているのではないか。

いや、そうではないとぼくは思う。そうではなくて、与太郎への笑いは、身内への親愛のあらわれではないか。与太郎のもつ無邪気さ、善良さ、人間味への親しみ
の笑い、心あたたまる思いのあらわれとしての笑いではないかと、ぼくは思う。与太郎は、「われわれ」に属する人間なのだ。



このあたりまでで、B4一枚目が終わります。この担任通信は、3枚綴りなので、まだ話題は「マクラ」の部分ですが、長い引用になりますので、続きは次回といたします。

最近のストック画像を小出しにします。

自然環境体験公園のホオジロ。

この日はよく晴れていました。

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深山公園のナンキンハゼの枝に止まるシジュウカラです。
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同じ枝にヒヨドリもいました。
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 庭でとれたトマト。

毎日少しずつ実るので、採れたてが食卓に上ります。特に一歳の保育園児のお気に入りです。

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 トウモロコシも、実り始めました。

甘くておいしいと、喜んでくれました。

 

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 今日はこれにて。


沖縄慰霊の日に思い出すこと。 [私の切り抜き帳]

昨日は沖縄慰霊の日。

去年はこんな記事を書いていました。沖縄慰霊の日に思う

書き出しはこんな感じです。

 今日は「沖縄慰霊の日」。太平洋戦争の末期、日本が経験した、ほとんど唯一の地上戦といわれる「沖縄戦」で、日本軍の組織的戦闘が収束を迎えたとされる一九四五年の今日を記念して、沖縄県が定めている記念日です。
「鉄
の暴風」と喩えられるこの激戦は、日米合わせて200,656人〔沖縄県援護課発表 1976年(昭和51)年3月〕というおびただしい犠牲者をだしまし
た。
うち、日本 188,136人(沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)(他都道府県出身兵 65,908
人)。米 12,520人に及ぶと言います。一般民の犠牲者の多さが目を引きます。

私は トックリヤシ様のブログナイチャーオジイの海日記昨日の記事に寄せて、こんなコメントを書きました。

 平和の礎に刻まれた沖縄県民の刻銘者数は149,425人。おびただしい数です。岡山県出身者も1,838人。
一人ひとりに人生があり、一人ひとりに訪れるはずだったあるべき未来を、無残に奪い去ったのは誰か?米軍?その通り。
無謀な戦争を始め、拡大し、ブレーキなく突き進んでいった軍部と為政者?そのとおり。
軍部と為政者の無謀な行為を、押しとどめることができなかった国民ひとりひとり?
否、この時代、国民一人ひとりにはその権利が与えられていなかった?
しかし、「今度の戦争」にはそのいいわけは通用しませんね。改憲勢力三分の二を許すわけにはいきません。

ふと思いついて、沖縄戦に関連して古い資料を探ってみましたら、ありました。
すっかり黄ばんで、もろく変質してしまった洋半紙。『担任通信』と印刷された印刷物のストックです。
発行日の日付は書いてありますが、年が書かれていません。おそらく、1980年代の始めだと思います。灰谷健次郎作の児童文学「太陽の子(てだのふぁ)」が浦山桐郎脚本・監督で映画化されたのが1980年9月のことで、当時勤務していた学校の映画鑑賞会で、生徒とともにこの映画を観たときの文章ですから。

太陽の子 (角川文庫)

太陽の子 (角川文庫)

  • 作者: 灰谷 健次郎
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1998/06
  • メディア: 文庫



太陽の子 [DVD]

太陽の子 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 新日本映画社
  • 発売日: 2005/05/27





  • メディア: DVD

   ふうちゃん:原田晴美
    お母さん:大空真弓
    お父さん:河原崎長一郎
    おじやん:浜村純
    桐道さん:殿山泰司
    梶山先生:伊藤敏孝
    ギッチョンチョン:石橋正次
    刑事:大滝秀治
    国吉さん:津嘉山正種
    ミツ江:大竹しのぶ ほか


これを題材にした担任通信が、何種類か残っています。
ガリ版刷り(孔版印刷)から進歩して、当時一般化しつつあった手書き製版の印刷物で、インクにじみもあちこちあって読みにくい限りです。加えて、記事内容も、かなり時代がかっていてそのままゴミ箱に廃棄されるのが相当の反故なのですが、現代に通じる点も少しはあるかもと思い、ここに掲載させて戴きます。

 まずは、その1

 「沖縄」という言葉から、君は何を連想するだろう?
碧に輝く海。サンゴショウ。灼熱の太陽。ハイビスカスの鮮やかな紅。常夏の楽園の島???
哀感迫るユンタ・蛇皮線のメロディ。アワモリの宴。・・・純朴な人情の島?
高校野球。具志堅用高。カラテ。男らしい情熱の島???
「ディスカバージャパン」の声に誘われて、ちょっと遠出する程度の気軽さで、脚を伸ばせば行き着ける観光の島?
けばけばしいネオンまたたく歓楽街。鼻の下のばした観光客の嬌声のさんざめく島?
横文字の看板と横文字の商品。ジャズ、ロック、ブルース。米英が我が物顔でかっ歩する島?
立入禁止の立札と、鉄条網に隔てられたもう一つの世界のある島。父祖伝来の農地から銃剣で追い払われ、実弾演習の土けむりを横目でニラまねばならぬ農民の島。機知の島沖縄。
八年前まで、日本地図から除外されていた島。祖国からアメリカに売り渡された島。祖国との往来にビザを必要とした島。星条旗の掲揚を義務づけられた島。「沖縄?どんな人種の住む島?」と無知な嘲弄を浴びせられた島。
言葉通りの意味で『祖国を愛する』ことを、痛ましい思いで温め続けてきた島。
35年前、戦争末期、「最後まで戦え」との命を忠実に果たした島。無謀な玉砕に女も子どもも、年寄りも、「無数の生命を散らせた惨劇の島。住民の安全を守ってくれるはずの「行軍」に銃を向けられ、集団自決を迫られた島。ヒメユリの塔の島。
沖縄。オキナワ。・・・この島の歴史と現実を、県民の痛みと思いを、辺境の一地方の事柄だと見過ごすことが、あるいはまた善意にもせよ、そしらぬ顔で遠ざけることが、果たして僕らに許されているだろうか??

きょうは激しい雨で、警報も出ています。
ちょっと歩きましたが、カメラを持ち歩く状況ではありません。
最近のお散歩でのストック画像をご紹介します。
自然環境体験公園のキンシバイです。

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同じ場所のビヨウヤナギ。
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深山公園のナツツバキ。
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散歩道のヒャクニチソウ。
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 散歩道のモンシロチョウ。スイカの葉に止まっています。
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 散歩道のモンシロチョウ。シソの葉に止まっています。 
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 今日はこれにて。


脛(はぎ)高き鳥ら早苗田(さなえだ)を歩む [獺祭魚]

カワウソが、捕えた獲物を岩に並べて祝いの祭を催す故事にちなんで、撮りためた獲物を並べて一人楽しもうというコーナーです。
同名の「幻の名酒」とは、一切関わりがありません。
今朝は、我が地方でも、大雨警報が発令されていましたので、小学生、中学生ともに休校。ということで、保育園児も一緒に、わが家に「避難」しました。でも、雨は未明には上がり、午前中には薄日が射し始めましたので、子供たちは退屈して、ゲーム三昧で時間を過ごしています。
紫陽花の画像をシリーズで掲載する予定でしたが、今日は「緊急割り込み」で、備忘的に田園の鳥の姿をアップしておきます。



あぜ道に、まだ羽毛も生えそろわないツバメの幼鳥がじたばたしています。


親が飛んできたのです。














素早いツバメを、上手に写せません。
今年は、我が家の軒下のツバメを撮影できるつもりだったのですが、途中で親鳥が巣を放棄していなくなりました。悪戯スズメの意地悪に耐えられなくて逃げ出したか、あるとき、軒のあたりからどさっとヘビが落ちて来て私の腕をかすり、肝を冷やしたことがありましたが、そうした環境も良くなかったのでしょうか。残念なことです。
こちらはスズメの幼鳥のようです。







自動車で20分ほどのところに、蓮根を栽培している地域があります。

先日も雨の中、ハスの花の様子を見てきました。

ピンクの花も、白い花もあります。















ここで思いがけない出会いがありました。

シギ・千鳥の手近な観察地なのですが、もう渡りが終わったのか、それらしい影は見つけられませんでした。

このイソシギに会ったのは一月前ですが、見当たりません。

蓮田のイソシギ

蓮田のイソシギ posted by (C)kazg

蓮田のイソシギ

蓮田のイソシギ posted by (C)kazg
蓮田のイソシギ

蓮田のイソシギ posted by (C)kazg
蓮田のイソシギ
蓮田のイソシギ posted by (C)kazg

サギの姿は普通に見られます。

蓮田の大サギ

蓮田の大サギ posted by (C)kazg

蓮田のダイサギ

田のダイサギ posted by (C)kazg

田植え時のアオサギ

田植え時のアオサギ posted by (C)kazg




この一帯にケリが生息していることは.よく見かけて知っていました。













蓮田のケリ

蓮田のケリ posted by (C)kazg



蓮田のケリ



蓮田のケリ posted by (C)kazg



蓮田のケリ

蓮田のケリ posted by (C)kazg


蓮田のケリ
蓮田のケリ posted by (C)kazg



隣接する水田にいました。

水田のケリ

水田のケリ posted by (C)kazg


水田のケリ
水田のケリ posted by (C)kazg

近くで、こんな鳥を見つけました。
バンのようです。


梅雨の水田のバン

梅雨の水田のバン posted by (C)kazg



梅雨の水田のバン

梅雨の水田のバン posted by (C)kazg


梅雨の水田のバン

梅雨の水田のバン posted by (C)kazg


梅雨の水田のバン
梅雨の水田のバン posted by (C)kazg




つい先日、自然環境体験公園でも出会いました。

自然環境体験公園のバン

自然環境体験公園のバン posted by (C)kazg

自然環境体験公園のバン

自然環境体験公園のバン posted by (C)kazg

バンについては過去の記事でも触れました。
私が散歩にカメラを持ち出すようになった最初の頃、近所の用水路で初めて見て、当時同僚だった若き師匠K女史に教えを請うたのが、名前を知ったはじめでした。

身近な鳥たちの日常スナップ、の巻





この記事↓にも親子のバンが登場します。

週末の朝の散歩の出会いかな

子育て中のバン



バンの親子

今日の付録は、オオバンです。バンより個体数が多く、よく目にします。
自然環境体験公園のオオバン

自然環境体験公園のオオバン

今日は、沖縄慰霊の日。 日本軍の組織的戦闘が終結した日とされます。

それについての記事は、長くなりますので割愛し、明日に回します。

きょうはこれにて。


陽を浴びて紫陽花の色なお新た [獺祭魚]

カワウソが、捕えた獲物を岩に並べて祝いの祭を催す故事にちなんで、撮りためた獲物を並べて一人楽しもうというコーナーです。
同名の「幻の名酒」とは、一切関わりがありません。
七色に変化するといわれるアジサイの表情のいろいろを、季節遅れにならないうちに、昨日に続いてアップします。見ればどれもこれも似たような写真になりますが、乞ご容赦。
岡山後楽園で写したアジサイの写真がかなりの枚数ありますが、すでにこの記事で紹介しましたので割愛します。
カメラ手に順番待ちの菖蒲池 
今日掲載するのは、自然環境体験公園の散歩道のアジサイです。 by OlympusE3+ ZUIKO DIGITAL ED 70-300mm。
梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ
梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ posted by (C)kazg


梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ

雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ posted by (C)kazg


梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ

梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ posted by (C)kazg

梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ

梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ posted by (C)kazg

梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ

梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ posted by (C)kazg

梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ

梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ posted by (C)kazg

梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ

梅雨の晴れ間の自然環境体験公園に咲くアジサイ posted by (C)kazg


およそ一週間後の写真。by fujifinepix s1。
梅雨の晴れ間のアジサイ〈自然環境体験公園)
梅雨の晴れ間のアジサイ〈自然環境体験公園) posted by (C)kazg


梅雨の晴れ間のアジサイ〈自然環境体験公園)

雨の晴れ間のアジサイ〈自然環境体験公園) posted by (C)kazg




全国的に大雨の情報が心配です。とりわけ震災の傷がまだ癒えぬ熊本の豪雨をはじめ、九州各地の被害の模様は、ただ事ではありません。お見舞い申し上げるとともに、無事をお祈りします。

わが地方は、朝方は曇り空でしたので、ホンのひとときのチャンスと、散歩に出かけてみました。

どの田も、田植えが終わったり、あるいは今日が田植え作業の真っ最中でした。















自宅からかなり歩いたあたりで雨が降り始め、あいにく傘も持っていないので、やむなく濡れて帰りました。

雨の中、農家の方は、田植え作業に精を出しておられました。

今日は参議院選挙の公示日。バーナムの森の木は、動くでしょうか。

 

今日はここまで。


紫陽花の咲いて華やぐ小径かな [獺祭魚]

このコーナーは、カワウソが捕らえた獲物を岩の上に並べて祭りを催すという伝承にあやかって、撮りためた写真をズラリ並べて一人ほくそ笑もうという趣向です。


昨日、安藤橡面坊の句を引用するためにめくってみた『近代文学注釈体系 近代俳句』には、「獺祭書屋俳句帳抄」も掲載されていました。正岡子規唯一の自選句集です。子規は、自らを「獺祭書屋主人」と号し、「獺祭書屋俳話」と題する俳論を新聞『日本』に連載し、俳句の革新運動を展開しました。

なお、このコーナーは、「幻の名酒」とは関係がありません。念のため。

毎年、この季節、アジサイの花にカメラを向けずにはいられません。一昨年の梅雨はじめ紫陽花色の淡きことの記事でも、三好達治の詩を引用しましたし、アジサイの写真は、それ以外にも何度も掲載しましたが、懲りずにまた、今年のアジサイを紹介します。


 乳母車
      三好達治

  母よ――
  淡くかなしきもののふるなり
  紫陽花いろのもののふるなり


きょう掲載する写真は、五月末から6月初めにかけた撮影した、咲き始めたばかりのアジサイです。

散歩道のアジサイ

散歩道のアジサイ posted by (C)kazg

散歩道のアジサイ

散歩道のアジサイ posted by (C)kazg

散歩道のアジサイ

散歩道のアジサイ posted by (C)kazg

散歩道のアジサイ

散歩道のアジサイ posted by (C)kazg


散歩道のアジサイ

散歩道のアジサイ posted by (C)kazg


散歩道のアジサイ

 散歩道のアジサイ posted by (C)kazg


散歩道のアジサイ

散歩道のアジサイ posted by (C)kazg


散歩道のアジサイ
散歩道のアジサイ posted by (C)kazg


きょうはこれにて。


トチメンボーの正体知って面食らう、の巻 [折々散歩]

昨日消失した記事の復元をはかります。何とも気鬱な作業です。
私の「知ったかブログ」の常で、今日の記事も「アンダーコントロール」を逸脱して大いに迷走しそうです。
夏目漱石の『吾輩は猫である』に、美学者・迷亭という人物が登場します。先日のこの記事否と言えぬ女ごころに咎ありやでもご紹介したとおり、漱石の学生時代からの友人大塚保治がモデルだといわれます。漱石の心のマドンナか?といわれる
大塚楠緒子の夫でした。
「天災は忘れた頃にやってくる」という警句で知られる物理学者寺田寅彦(災難は忘れた頃か秋の雨参照)がモデルだという水島寒月君が苦沙弥(くしゃみ)先生を最初に訪ねた際、迷亭サンの話題で話が弾みます。迷亭サンから西洋料理店に昼食を誘われた時のこと。
 「へへー。君何か変ったものを食おうじゃないかとおっしゃるので」「何を食いました」「まず献立を見ながらいろいろ料理についての御話しがありました」「誂らえない前にですか」「ええ」「それから」「それから首を捻ってボイの方を御覧になって、どうも変ったものもないようだなとおっしゃるとボイは負けぬ気で鴨のロースか小牛のチャップなどは如何ですと云うと、先生は、そんな月並を食いにわざわざここまで来やしないとおっしゃるんで、ボイは月並という意味が分らんものですから妙な顔をして黙っていましたよ」「そうでしょう」「それから私の方を御向きになって、君仏蘭西や英吉利へ行くと随分天明調や万葉調が食えるんだが、日本じゃどこへ行ったって版で圧したようで、どうも西洋料理へ這入る気がしないと云うような大気焰---
西洋通を気取る迷亭サンは、ひとしきり「見て来たようになめくじのソップの御話や蛙のシチュの形容」を披瀝した後、
 「それから、とてもなめくじや蛙は食おうっても食えやしないから、まあトチメンボーくらいなところで負けとく事にしようじゃないか君と御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、それがいいでしょう、といってしまったので」
という次第に相成ります。
 「それからボイにおいトチメンボーを二人前持って来いというと、ボイがメンチボーですかと聞き直しましたが、先生はますます真面目な貌でメンチボーじゃないトチメンボーだと訂正されました」「なある。そのトチメンボーという料理は一体あるんですか」「さあ私も少しおかしいとは思いましたがいかにも先生が沈着であるし、その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えてトチメンボーだトチメンボーだとボイに教えてやりました」「ボイはどうしました」「ボイがね、今考えると実に滑稽なんですがね、しばらく思案していましてね、はなはだ御気の毒様ですが今日はトチメンボーは御生憎様でメンチボーなら御二人前すぐに出来ますと云うと、先生は非常に残念な様子で、それじゃせっかくここまで来た甲斐がない。どうかトチメンボーを都合して食わせてもらう訳には行くまいかと、ボイに二十銭銀貨をやられると、ボイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ」
メンチボーとは、メンチボール、今でいうミートボールのことでしょうか?困り果てたボーイは、「真に御生憎(おあいにく)で、御誂(おあつらえ)ならこしらえますが少々時間がかかります」とやんわり断りたいところですが、迷亭サンなおもトチメンボーに固執します。
「するとボイがまた出て来て、近頃はトチメンボーの材料が払底で亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから当分の間は御生憎様でと気の毒そうに云うと、先生はそりゃ困ったな、せっかく来たのになあと私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので、私も黙っている訳にも参りませんから、どうも遺憾ですな、遺憾極るですなと調子を合せたのです」
落語の「酢豆腐」(上方では「とてちりてん」)は、物知り顔の知ったかぶりをからかって楽しもうという趣向ですが、トチメンボーでからかわれたこちらのボーイはお気の毒です。
読むたびに印象に残るシーンで、「トチメンボー」という不思議な響きが記憶に焼き付きますが、「トチメンボー」の正体は同意もよくわかりません。
辞書に「栃(橡)麺棒」と漢字が示してあるのを見、また巨樹となるトチノキの存在を知るにつけ、ああ、この材で作った麺棒だろうかと納得した気になっておりました。素人の横好きで、うどんや蕎麦をこねた後、麺棒でのばす作業などを経験する折などに、この「トチメンボー」をふと思い出したりなどしておりました。
ところで、先日の若杉原生林にも、トチノキが大きくそびえておりました。
手ぶれで表示板の文字が読めませんが、太い幹です。

特徴のある巨大な葉。



案内役のサブローさんが、葉の形がよく似たホオノキとの見分け方を教えてくださいました。
森にはホオノキも高くそびえています。

葉の写真を写しそびれていました。
過去記事いかな夢見つつ眠るや森蛙から、葉の写真をコピーしておきます。
_K526045_R.JPG

yahoo知恵袋のこのページにトチノキとホオノキとの見分け方がでています。
 ホオノキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%82%AD

トチノキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%81%E3%83%8E%E3%82%AD

違い
http://www.shizen-taiken.com/mhayashi/20030801.html
どちらも天狗のウチワのようなよく似た巨大な葉を持っていますが、一言で言うと、トチノキの葉は「掌状複葉(しょうじょうふくよう)」と呼ばれ、小さな葉が集まって、てのひらのような一つの葉を形成しているため、数枚の小葉の付け根は1カ所に集まっているのに対して、ホオノキは、複数の葉が集まっててのひらのような形にみえるだけなので、それぞれの葉の付け根は微妙に位置がずれているとことです。この記事参照)
ホオノキは、モクレン科の高木で、この季節、モクレンのような白い花を咲かせるそうです。現に、風向きのよって森に、モクレンのような甘い香りがほんのり漂います。見上げると、梢の高みに白い花が咲いているのが見えますし、足下に白い花片が落ちているのも見つかります。この花片も濃い芳香がありました。
写真を撮ることを忘れていましたので、古い記事から、よく似たモクレン科の花の写真を転載します。
IMGP0684_R.JPG
今日は梅雨の晴れ間のそぞろ歩きを狙って、玉野市深山公園を一歩きしてきました。思いがけず、冬には渡り鳥の群れが大勢やってくる赤松池の畔の駐車場のぞばに、タイサンボクの大木が花をつけていました。








白い花の様子もそっくりで、漂う芳香は、森の中で嗅いだホオの花の香りと確かに似ています。でも、葉の形は、やはり異なるようです。
ホオの葉は、朴葉味噌や朴葉寿司、朴葉餅などの郷土食で知られるとおり、独特のかぐわしさに含まれる成分に菌作用もあるそうです。
一方のトチノキの方はその栗やドングリに似た実が、トチ餅などとして食用に供されます。
以前こんな記事を書きました。
 朝A暮B
ところで「朝A暮B」には、もう一つ有力な答えを思いつきます。
A:三
B:四
「朝三暮四」ですね。
『列子』にある故事です。
【原文】
宋有狙公者。愛狙、養之成群。能解狙之意、狙亦得公之心。損其家口、充狙之欲。
俄而匱焉。将限其食。恐衆狙之不馴於己也、先誑之曰、与若芧、朝三而暮四、足乎。衆狙皆起而怒。俄而曰、与若芧、朝四而暮三、足乎。衆狙皆伏而喜。
【書き下し】
宋(そう)に狙公(そこう)なる者有り。狙(そ)を愛し、之(これ)を養ひて群れを成す。能(よ)く狙の意を解し、狙も亦(また)公の心を得たり。其の家口(かこう)を損じて、狙の欲を充(み)たす。
俄(にわ)かにして匱(とぼ)し。将(まさ)に其の食を限らんとす。衆狙(しゅうそ)の己(おのれ)に馴(な)れざらんことを恐るるや、先づ之を誑(あざむ)きて曰はく、若(なんぢ)に芧(ちょ)を与ふるに、朝に三にして暮に四にせん、足るかと。衆狙皆起(た)ちて怒る。俄かにして曰はく、若に芧を与ふるに、朝に四にして暮に三にせん、足るかと。衆狙皆伏して喜ぶ。
【地方語訳】
むかし、中国の宗(そう)ゆう国に、「猿おっつあん」ゆうもんがおったんじゃ。そのおっつあんは、猿が大好(でえす)きで、猿を群れで飼うとったんじゃ。
おっつあんは猿のこころがわかり、猿もおっつあんの気持ちを理解しとった。おっつあんは自分の食い物を我慢してでも、猿が満足するよう食わせとったんじゃ。
けど、おっつあんは、急に貧乏になってしもうた。で、猿の餌を節約しようと思うたんじゃ。
それがもとで猿がなつかんようになっちゃあ弱ると心配して、まず、猿にゆうたんじゃ。
「お前らあにトチの実をやるのに、朝三つ、夕方四つやったら足るか?」
猿の群れは、みんな立ちあがって怒ったんじゃ。
せえで、おっつあんは、急に、「そんなら、お前らあにトチの実をやるのに、朝四つ、夕方三つやったら足るか?」
猿の群れは、みんな、ひれ伏して喜んだんじゃと。
おしまい。

まあ。こんなお話ですかね。
狙公には同情の余地もあり、お猿相手のその知恵は、かわいげがあって憎めませんが、同じようなことが国民に通じると思われてはかなわんのですよ。アベさん。
「消費税、今10パーセントに増額するがどうか?」国民は立ち上がって怒った。
「それでは、今増額することは取りやめて、日延べして実施するがどうか?」国民は、頭を地面にこすりつけて喜んだ。
ナンテ事になると思ったのなら、馬鹿にしすぎじゃありません?
ここにでてくる芧(ちょ)は、本によってはドングリと訳しているものもありますが、どうやらトチの実のことらしい。
ウィキペディアにはこうありました。
 種子はデンプンやタンパク質を多く含み、「栃の実」として渋抜きして食用になる。食用の歴史は古く、縄文時代の遺跡からも出土している。渋抜きはコナラやミズナラなどの果実(ドングリ)よりも手間がかかり、長期間流水に浸す、大量の灰汁で煮るなど高度な技術が必要だが、かつては耕地に恵まれない山村ではヒエやドングリと共に主食の一角を成し、常食しない地域でも飢饉の際の食料(救荒作物)として重宝され、天井裏に備蓄しておく民家もあった。積雪量が多く、稲作が難しい中部地方の山岳地帯では、盛んにトチの実の採取、保存が行われていた。そのために森林の伐採の時にもトチノキは保護され、私有の山林であってもトチノキの勝手な伐採を禁じていた藩もある。また、各地に残る「栃谷」や「栃ノ谷」などの地名も、食用植物として重視されていたことの証拠と言えよう。山村の食糧事情が好転した現在では、食料としての役目を終えたトチノキは伐採され木材とされる一方で、渋抜きしたトチの実をもち米と共に搗いた栃餅(とちもち)が現在でも郷土食として受け継がれ、土産物にもなっている。

さらに、決定的な記述が続きます。
 粉にひいたトチの実を麺棒で伸ばしてつくる栃麺は、固まりやすく迅速に作業しなければならないことから、慌てること、また慌て者のことを栃麺棒と呼ぶようになり、「栃麺棒を食らう」が略されて「面食らう」という動詞が出来たとされている。栃麺棒は慌て者を意味する「とちめく坊」の当て字
とする異論もある。
「トチメンボー」とは、トチノキで作った麺棒ではなく、栃麺をのばすための麺棒だったのでした。
ところで、迷亭サンの洋食店での悪戯には、こんなオチが用意されています。
 「するとボイも気の毒だと見えて、その内材料が参りましたら、どうか願いますってんでしょう。先生が材料は何を使うかねと問われるとボイはへへへへと
笑って返事をしないんです。材料は日本派の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボイはへえさようで、それだものだから近頃は横浜へ行っても買われませんの
で、まことにお気の毒様と云いましたよ」「アハハハそれが落ちなんですか、こりゃ面白い」と主人はいつになく大きな声で笑う。膝(ひざ)が揺れて吾輩は落ちかかる。主人はそれにも頓着(とんじゃく)なく笑う。
なぜ笑えるのか、全くわかりませんでした。
つい最近、安藤橡麺坊という俳人がいたこと知り、やっと合点がいきました。しかも岡山県の出身でした。
吉備路文学館」のHPこんな紹介がありました。
安藤橡面坊 あんどう とちめんぼう(本名:練三郎)
生没日 明治2(1869)~大正3(1914)
ジャンル 俳人
出身地 笠岡市
明治30年大阪毎日新聞社に入社。俳句は虚子選「国民新聞」の俳句欄をみて作る。句風は伝統的「日本」俳句を尊重し温厚。漢籍に通じ境地は広く、謙虚でかつ豪放で古武士の面影があった。大阪毎日新聞俳壇担当のほか、「車百合」「宝船」「アラレ」などの選者。句集に亀田小姑の編纂した「深山柴」がある。 

「材料は日本派の俳人だろう」のわけがやっとわかりました。
俳人橡面坊は、高浜虚子選の『国民新聞』、正岡子規選の『日本』等に投句することから俳句を始め、子規の俳句革新運動に加わり関西俳壇を盛り立てたそうです。一方漱石は、虚子の勧めに応じて『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に連載しているわけで、いわば身内同士の「楽屋落ち」だったわけですね。
知らぬ事とはいえ、いやはや、面食らいました。

橡面坊の句を、手元の「近代文学注釈体系 近代俳句」(有精堂)から拾ってみます。子規編の『春夏秋冬』や、河東碧梧桐編の『続春夏秋冬』等に採られられた句です。(古い蔵書なのに見落としていました。)

灯(ひ)ともせば眠たき様の雛(ひいな)かな
ほったりと椿落ちけり水の紋
梶の葉の吹かるゝや歌の二面(ふたおもて)
物を喰う口臈(ろう)たしや嫁が君
炎天や琥珀(こはく)と光る松の脂(やに)


 おもしろいことに、、漱石の句も並んで掲載されています。
ふるひよせて白魚(しらお)崩れんばかりなり
遣羽子(やりはご)や君稚児髷(ちごまげ)の黒目勝

注目すべき句かどうかは、私にはわかりません。

橡面坊の句集がネット書店で目にとまりました。

 大阪の俳句 明治編〈9〉深山柴―安藤橡面坊句集 (大阪の俳句 明治編 9)

大阪の俳句 明治編〈9〉深山柴―安藤橡面坊句集 (大阪の俳句 明治編 9)

  • 作者: 安藤 橡面坊
  • 出版社/メーカー: ふらんす堂
  • 発売日: 2015/02
  • メディア: 単行本



今日はこれにて。


呆気なき記事消失や桜桃忌 [今日の暦]

今日、かなり力を入れて書いた記事が、また何かの弾みで消失しました。ほぼ完成間近になった頃、一歳児の求めに応じて近所を散歩して帰って、仕上げに取りかかろうとした矢先、何が起こったのか編集ソフトが緊急終了し、再起動してみると何のデータも残っていません。愚痴を言う元気もありません。

思い出して再構築するのは、又の機会に譲ります。

ですので、簡単に今朝の散歩のご報告です。

昨夜から今朝にかけて、かなりの勢いで雨が降っていました。心配だったのは。昨日掘りあげて軒下に乾かしているジャガイモが、雨のしぶきを浴びて濡れてしまっていること。家の中に持ち込んで、扇風機で乾かしたのち、新聞紙でくるんで冷蔵庫に保管することにしました。常用の冷蔵庫は日常の食材のために手狭ですので、いつもは電源を入れていない来客用の小型冷蔵庫におでまし願いました。入り切らない残りは、台所において、早めに使い切ることにします。

午前中傘を差して散歩してみました。「防塵防滴」のFuji FINEPIX s1を携行しました。

湖のようにも見えますが、水が張られた水田です。



直まきの田んぼでしょう。









こちらの田んぼは、田植えの準備が整っています。





こちらも、湖とも美枝舞うsが、目をこらすと、わずかに緑井との者が水面にぽちぽちと首をのぞけています。田植えが終わったばかりの苗が、雨による増水のために、見え隠れしているのでしょう。


この苗を機械で植えます。



あちらこちらで田植えが終わっています。



















昨日栗の花の写真を載せましたが、今日は、可愛い毬栗になっていました。




道ばたにほおずきの花が咲いていました。



今日は桜桃忌。

太宰治の誕生日ですが、多摩川上水に入水した遺体が発見された日でもあります。

『桜桃』の、後半の一節を引用します。

「涙の谷」

 そう言われて、夫は、ひがんだ。しかし、言い争いは好まない。沈黙した。お前はおれに、いくぶんあてつける気持で、そう言ったのだろうが、しかし、泣い
ているのはお前だけでない。おれだって、お前に負けず、子供の事は考えている。自分の家庭は大事だと思っている。子供が夜中に、へんな咳(せき)一つしても、きっと眼(め)がさめて、たまらない気持になる。もう少し、ましな家に引越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてならぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手が廻(まわ)らないのだ。これでもう、精一ぱいなのだ。おれだって、凶暴(きょうぼう)な魔物ではない。妻子を見殺しにして平然、というような「度胸」を持ってはいないのだ。配給や登録の事だって、知らないのではない、知るひまが無いのだ。……父は、そう心の中で呟(つぶや)き、しかし、それを言い出す自信も無く、また、言い出して母から何か切りかえされたら、ぐうの音(ね)も出ないような気もして、 

(中略)

生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴(ふ)き出す。

 私は黙って立って、六畳間の机の引出しから稿料のはいっている封筒を取り出し、袂(たもと)につっ込んで、それから原稿用紙と辞典を黒い風呂敷に包み、物体でないみたいに、ふわりと外に出る。

 もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして、酒を飲む場所へまっすぐに行く。

「いらっしゃい」

「飲もう。きょうはまた、ばかに綺麗(きれい)な縞(しま)を、……」

「わるくないでしょう? あなたの好(す)く縞だと思っていたの」

「きょうは、夫婦喧嘩でね、陰(いん)にこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊るぜ。だんぜん泊る」

 子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。

 桜桃が出た。

 私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓(つる)を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚(さんご)の首飾りのように見えるだろう。

 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐(は)き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。


この春実った、鉢植えの桜桃です。







今日はこれにて。

青空に背いて栗の花匂う [文学雑話]

ネット検索していますと、後藤人徳(本名後藤瑞義)さんのHP「人徳の部屋」に、近藤芳美著『現代短歌』の紹介があり、こんな文章が掲載されていました。
「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」
そこには、歌人近藤芳美が、五島茂から手渡された「立春、五島ひとみ追悼号」遺歌稿を読んでの感想がしたためられています。
一部を引用します。

ひとみ歌集は、昭和九年八歳の時の、
お日様きらきら光つて 病院にゐるマミイはスイスの景色を思い出す
にはじまる。何という美しい童画の世界であろう。そうして、何と云うめぐまれた揺籃の色と匂いの世界であろうか。一人の一生を、このように出発すると云うことさえ、僕らの時代には稀な事だと言えるのではなかろうか。
  スプーンはベビーのつばにぬらされてしつとり朝日に輝いてゐる
  母上はベビーに夢中になりたまい朝夕みつめておあきにならぬ
十二歳のころの作である。「ベビーのつばにぬらされて」などと云う大胆な可憐な把握に微笑を感じる。このような幼年期の作に流れているものは、一様なミルク色の明るい光線の世界である。〈中略)五島ひとみの作品が生涯が、このおような幼い日からはじまって居ると云うことは、うらやまれてよい事だ、そうしてこのような日々が、母五島美千代の『暖流』から『丘の上』世界に、例えば次のような作品世界に、も一つやわらかに包まれて居ると云う事も、僕には美しすぎると思うのである。
  ま夜中にかく母と二人あそびしこと大きくなりては思ひ出でざらむ
  母われと一夜眠りてききたきことありとひそかに娘いひに来し
  ある日より魂わかれなむ母と娘の道ひそひそと見えくる如し
その、いたいけな幸せな幼女は、やがて少女となり、自立への階〈きざはし)をのぼっていくのですが、世はあたかも、戦争一色に彩られていく時代でした。
  新しき銀笛ときどきさはりつつ立春の夕べに桃色の袋縫ふ
等の作になると、この稚さなさの中に、もはや作者がミルク色の光線の部屋の中にのみ生きているのではない成長を感じる。この歌と並んで「鼓笛隊の練習終へて友と二人赤き顔みあはせむずかしさいひ合ふ」等の歌があるが、時代と、時代の中に独立した生命として成長して行こうとする一人の少女像が今から見ると少し悲しいようにくっきり浮かうとする。
女学生らは出征兵らを送迎し包帯をまき、鼓笛隊として凛々しい痛々しい行進をしていた目であった。「冬日宙少女鼓隊の母となる日」と云うのは波郷の句であったのだろうか。なにか清潔で、悲劇的な句だと思ったのだが、ひとみさんの少女の日がちょうどその時期であったのだ。

  何となくはしやぎたくなる気持おさへ早く大人になりたしなどと思ふ
  よどみきつた様な空気おそろし鏡に向ひ思ひきり濃く口紅をぬつて見る

十六歳、十七歳のころの歌である。昭和十七年、十八年のころである。多くの、女学生らしい戦争詠と共にこのような歌も作られて居る。身をくねらせくねらせ、成長して行かうとする一人の少女の姿勢と心理とであろう。前者のいはば一種の育ちのよい稚さと共に後者のどこかしんの強い野性めいた反逆も、この作者の、いまだ自覚にまで至らない内面の真実なのであろう。何かこのような不逞なものが、この少女の内深く、云わば生理としてひめられてあったのではなかろうか。 
世の少年少女たちが、「進め一億火の玉だ」とあおられ、多かれ少なかれ軍国少年・軍国少女としての自我形成を余儀なくされた時代でした。
so-netブログの大先輩落合道人様のブログ
「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。

 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
 ▼
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年

 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
笑止!というよりも、痛ましささえ覚える人間喪失ぶりです。
(余談ですが、落合道人様の過去記事を拝読していて、先日来話題にしてきた九条武子と柳原白蓮に触れた詳細な考察を発見。早く読んでおけばと悔いたところです。
九条武子の手紙(5)/白蓮と。
九条武子の手紙(4)/下落合への転居。 
九条武子の手紙(3)/関東大震災。 
九条武子の手紙(2)/ハゲ好き。
九条武子の手紙(1)/下落合のご近所。
近藤芳美の「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」をさらにたどります。
   すべてみなわりきれし如き瞳の光姿勢を正し挙の礼したまふ
同じく十八年の作品。素直な、時局の中の女学生としての作品の中に、この歌のおのづからなうたがひと批判とを、作者はどの程度自覚して居たのであろうか。「すべてみなわりきれし如き瞳」とわりきれない作者との心理の差が、本当はこの歌ではほとんど偶然に提示されたのではなかろうか。しかし、「学徒出陣」をこのように見て行く自然な知性の成長を、この環境と時代に於いて、僕は興味深く感じるのである。

 終戦後のひとみさんを僕は知っている。美しい、それで居ながらどこかすでに独立した知性を身につけた少女として僕の眼にうつって居たが、それだけにこの人は何か幸せを指の間から落としてしまう人ではなかろうかとの危懼を感じた。無論そのころ僕はこの少女がどのような心の成長の歴史をたどって来たかを知るはずもなかった。酔ったとき僕は、「恋愛をしてごらんなさい」と軽薄な忠告をこころみたことがあったが、ひとみさんは「恋愛をしたら性質がかわりますでしょうか」と笑って淋しそうであった。ひとみさんはお母さんの過剰な情感が心の重荷のようでもあった。そのような自己疎外をこのころ次のように歌っている。
  およびがたくしづかな面を眺めつつ己の空虚さをうめたくあせる
  どの人もどの人も何かもつてゐるといふ事に一日おされてゐる
  ついて行けないとわかりきつてゐながらせいいつぱいかりものの論ふりまく
  結局は妥協にすぎないのに 背水の陣とひとりぎめしてゐる
  浮上りそうな足ふみしめふみしめ全身で風雨にぶつかつてゆく
  風の圧力に抗し夜道いそぎ身内一ぱいざわざわ血の流れを体感す
昭和二十三年、二十二歳の作である。
格を外した作品はすでに作品としても独立し得る。言はば一人前の作品である。戦争中のどこかぎこちない女学生の短歌ではなくなって居る。自分を含めてすべてをつきのけようとする孤独な生き方である。そのむかうになにか信じえる人生の本物を手さぐりしようとしたのかそれに早く疲れてしまったのか。
どうしようもないくらさじりじりせばまりくるにまだ自分のものと信じ切れない
  何方にゆくか態度決定のとき迫れり感情にまけまいとせい一ぱいな自分

之らの作につづいて次の如き作品がある。之がひとみさんの場合のほとんど最後の歌であり、しかも荒涼とした一種の相聞歌である事を知る。
  栗の葉をかさかさならし風ふきすぎゆくこの自然の調和を不思議に思ふ
  何故こんなに気に入らぬ言葉のみいふ相手かと気づけばわが心に関りあり
  善良そうに口ゆがめて話しかけるこの人をつきのけたく心底の不満もちたへてゐる
  あてもなくもゆる心もち遠く感ぜられる人々とゐる
作品としてもこのあたりのものはすべてすぐれていると思う。
しかし、風がふきならして行く栗の葉の音、その自然の調和の一瞬に、不思議と思わなければならない、ここまで生き、疲れて来た心情を、僕は二十代の少女としてあまり痛々しすぎると思わないでは居られない。その次の歌もそうである。こんような歌を相聞歌としてほとんど最後に作って居る短い美しい少女の一生を、僕はも一度「マミイはスイスの景色を思い出す」のあたたかい童話的な日ざしの日からふりかえり思わずには居られない。

疲れ果て、前途を見失い、心の支えも見いだせない乙女の不憫さを思うとともに、残された者の、もはや手をさしのべることもかなわぬ喪失感に、ただ頭を垂れるしかない私です。

下の写真は散歩道の栗の花。数日前の撮影です。

独特の青臭い、はしたないまでに生気に満ちた、どこか隠微な匂いが周囲にみなぎっています。


梅雨とは思えない晴天です。気温もうなぎ登りで、三〇度を記録しました。
アゲハは元気です。

そんな中を、孫とジャガイモ掘り体験に挑みました。というのも、長雨と高温多湿で、葉は枯れ、芋も腐り始めていることに気づいたからです。
これは昨日の収穫。

ここのところジャガイモ料理が続きます。これは、私の作った粉ふきいも。この材料のジャガイモは、郷里の老父母が作ったもので、かなり大量にあります。もちろん食べ飽きることはありませんがね。

こちらは今日の作業の模様。







大きいものから小さいものまで、かなりの収量です、果たして腐る前に食べきれるかどうか?
今日はゼロ歳児の母も、たまたま立ち寄り、塩ゆでジャガイモ、ポテトサラダ、ジャガイモポタージュスープをみんなでたらふく食べました。

、ではまた。


五島美代子の歌う母の歌、の巻 [文学雑話]

本棚の片隅に、講談社学術文庫「現代の短歌 高野公彦編」という文庫本を見つけ、何年ぶりかにめくってみました。先日来話題にしている佐佐木信綱が最初のページに紹介され、五島美代子の作品も、七ページにわたって八十首が並んでいます。
その、女性ならでは母ならではのみずみずしい感覚と、思いの切実さにあらためて心惹かれました。昨日の記事と重複しないように、何首か書き留めておきます。
 我ならぬ生命の音をわが体内にききつつこころさびしむものを
胎動のおほにしづけきあしたかな吾子の思ひもやすけかるらし
「誰も踏み込んだことのなかった胎動を詠み、〈母性愛の歌人〉といわれる。」(「研究資料現代日本文学⑤短歌」p262)と評されるとおりです。
いたいけない子どもたちを抱えて、戦時を生き延びなければなりませんでした。
乳呑児(ちのみご)と百日(ももか)こもれぱ小刀(こがたな)の刃にもおびゆるこころとなれり(支那事変勃発)
自(し)が子らを養ふと人の子を屠(ほふ)りし鬼子母神のこころ時にわが持つ
終戦を受け止める心境も複雑です。
昨日ありえしこと今日もありと疑はず誇りかにゐるを老醜といふ
戦争中より明らかに眼ひらきゐしといふ人らと異なり凡愚のわれは 
愛しんで育てた子どもたちも、やがて大人への階段を登る日が訪れます。
 ある日より魂わかれなむと母と娘の道ひそひそと見えくる如し
東大生だった長女ひとみの突然の死。恋愛を巡る悩みの果てだと思われます。賛成しなかった自分に非があったかと自責にさいなまれる母でした。
この向きにて初(うひ)におかれしみどり児の日もかくのごと子は物言はざりし〈長女ひとみ急逝)
吾に来し一つの生命まもりあへず空にかへしぬ許さるべしや
うつそ身は母たるべくも生れ来しををとめながらに逝かしめにけり
あやまちて光りこぼしし水かとも子をおもふとき更にあわてぬ
いたましき顔しませりと見てあれば夫も同じことをわがかほにいふ
わが胎にはぐくみし日の組織などこの骨片に残らざるべし 
日がたっても、悲しみは容易には癒えません。
松うごく風見てあればまさやかにそこに生けりと吾子を思へり
目さむればいのちありけり露ふふむ朝山ざくら額にふれゐて
白百合の花びら蒼み昏れゆけば拾ひ残せし骨ある如し
ふさはしきそらなり緒琴へやに立て娘が生きてゐし冬の日ありき 

孫を持っての歌もほほえましい。
桃太郎もかぐや姫もかく生ひ立ちけむ翁媼(おきなおうな)の子育ての日日
かぎりなく愛しきものと別れ棲み老いすさまじくきく風の音
三歳児さへまことのことを言ひしぶり聡きひとみに人を疑ふ
愛執の鬼ともならず静かなる老にも入らず日日の孫恋ひ
おばあちやまはほどけてゐるといはれたり まことほどけてこの子と遊べる 
こんな歌にもふと目が止まりました。
 桑の葉を食まずなりたる蚕のからだ透きとほりゆくあの種の切なさ

そういえば、去年の今頃は「養蚕業」に大わらわでした。
今日のおカイコほか
去年の写真です。




飼育のために桑の木(マルベリー)の苗を鉢植えしましたが、今年はほったらかしです。

下は去年の写真です。







これで果実酒を作っていたような気がして、床下収納庫を探って見ました。







なかなか、良い色のリカーが見つかりました.試飲してみても、なかなか上等です。しかし、これは、マルベリーではない模様。



ヤマモモだったかな、と思いましたが、瓶の中の果実をさぐって見るとブラックベリーでした。

この記事の時のものでしょうか?それとも↓これかな?

祇園会の果てて大路はしづまれり

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この記事では、奇しくも、佐佐木信綱の孫、佐佐木幸綱を師とする俵万智さんの歌を紹介していました。

この時の果実酒だとすると、二年ものということになりますか?それとも、覚えていないだけで、去年もつけたのかもしれませんが、、、。

今年の実は、まだ、熟していないようです。

5月の下旬頃に写したブラックベリーの花です。















最近、記事がやたらに長くなるのが気になります。続きは次回といたします。


ニオドリも問うらん私いい子でしょ [文学雑話]

行き当たりばったりでつづけている「佐佐木信綱の門人シリーズ」。今回紹介するお弟子さんは、五島茂、五島美代子の夫妻です。
まず、五島茂とはこんな人物。
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
五島茂 (1900―2003)
歌人、経済学者。東京生まれ。別名小杉茂。父は『心の花』の歌人石榑千亦(いしくれちまた)。東京帝国大学経済学部卒業。歌人五島美代子と結婚し、五島姓となる。早くから『心の花』『アララギ』に作品を発表していたが、1928年(昭和3)に『短歌雑誌』に発表した「短歌革命の進展(一)~(八)」で斎藤茂吉、前田夕暮らをマルクス主義の立場にたって批判した。プロレタリア短歌が興隆しつつあった短歌史の流れのなかでの革新派最前線の論陣であった。批判されたなかで、斎藤茂吉が反駁(はんばく)、論争となって歌壇の注目を集めた。同28年に新興歌人連盟を結成、分裂後、29年に前川佐美雄(さみお)らと『尖端(せんたん)』を創刊。その後、31年から33年にかけてヨーロッパに留学。帰国後、しだいに革新的立場から後退した。38年に美代子らと『立春』を創刊し、1998年(平成10)、600号で終刊するまで主宰した。第二次世界大戦後の、1956年(昭和31)に現代歌人協会を創立、ながく理事長を務めた。81年歌集三部作『展(ひら)く』『遠き日の霧』『無明長夜』により第4回現代短歌大賞を受賞した。歌集に『石榑茂歌集』(1929)、『海図』(1940)、『気象』(1960)など。ほかに第九歌集まで収める『五島茂全歌集』(1990)がある。また、歌論集に『新しき短歌論』(1942)がある。
父の石榑千亦(いしくれちまた)は、佐佐木信綱が主宰する「心の花」創刊以来の編集責任者を終生務めた歌人です。先日話題にした我が家の本棚の「現代日本文学大系」(筑摩書房)第94巻「現代歌集」には、結婚前の姓を名乗っての「石榑茂歌集」が収められています。この本に挟み込まれている「月報」には、茂自身の「昭和三、四年のころ」と題したこのような文章が載せられています。
 昭和三、四年のころ  五島茂
最近七〇年代は一九三〇年代の諸情況と近似しているとしきりに言われる。私はたまたま一九三一-三三年英国に留学して大不況にぶっかり又ヒットラー政権掌握のときも雪の伯林に三力月滞在してつぶさに体験したので、三〇年代というとひとごとではない思いにかられるのである。
「石榑茂歌集」を出した昭和四年は一九二〇年代末で日本社会の諸矛盾は金融恐慌や社会不安などの危機的激動が文学局面をもゆさぶり、文学と思想の間題、政治と文学のいずれを優位とするかの対決論議のなかにマルクス主義文学の抬頭がめざましかった。当時の歌壇をぬりっぶしていたアララギ・パターンの歌の過熟は、もちろん例外作者もあるが、日常瑣末主義に堕し、島木赤彦門であった二十代の私は先生没後「アララギ」をはなれて「心の花」に復帰し、大正十五年「短歌雑誌」に「転換期のアララギ」を書いて一石を投じた。.やがて昭和三年二月から十二月まで「短歌雑誌」に拙稿「短歌革命の進展」を連載した。があとからおもえば、このときアララギは赤彦先生没後の動きの中で斎藤茂吉の再制覇が目企されていたのだ。
現代短歌の変革をおもうわれわれは、一方でアララギ写実が瑣末に跼蹐して当時日常心理をるきうごかしていた社会的諸要因に目をむけようとしない点を痛撃し、他方で短歌史の二つの伝統の高峯万葉と新古今集から、それらの伝統の高さの直接継承を目ざして一足とびにわれわれの世代の新しい短歌を樹立しようという気魄に燃えていた。(中略)
「短歌革命の進展」は当時の全歌壇総批判であった。その第一回が茂吉批判であったにすぎない。 連載が「潮音」など他結社にすすむ間に茂吉の例の調子の反批判がはじまったのである。 その内容は何回もの単行本と茂吉全集によって周知のとおりだ。
夫人の五島美代子についてはこうあります。
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
五島美代子(1898―1978)
歌人。東京生まれ。1915年(大正4)佐佐木信綱(のぶつな)に師事し、『心の花』に作品を発表。38年(昭和13)夫茂(しげる)と『立春』を創刊、『新風十人』(1940)に参加した。母としてのさまざまな愛憎の感情を、主観を強く押し出しつつ、叙情味豊かに歌う。57年『新輯(しんしゅう)母の歌集』(1957)で読売文学賞を受賞。ほかに歌集『暖流』(1936)、『丘の上』(1948)、『いのちありけり』(1961)、『時差』(1968)、『花激(たぎ)つ』(1978)など。 
ちなみに、上記の茂、美代子の記事ともに、佐佐木信綱氏の執筆です。
私自身、これまでに、二人の歌を気にとめたことはなかったのですが、このたび走り読みしてみて、特に五島美代子の作品にひかれるものがありました。
あぶないものばかり持ちたがる子の手から次次にものをとり上げてふつと寂し
いひたいことにつき当つて未だ知らない言葉吾子はせつなく母の目を見る
手さぐりに母をたしかめて乳のみ児は灯火管制の夜をかつがつ眠る
あけて待つ子の口のなかやはらかし粥(かゆ)運ぶわが匙に触れつつ
手の内に飛び立たむとする身じろきの娘(こ)は母われを意識すらしも
ひそやかに花ひらきゆくこの吾子(わこ)の身内(みうち)のものにおもひ至りつ
花とけもの一つに棲(す)めるをとめ子はひる深くねむり眠りつつ育つ
愛情のまさる者先づ死にゆきしとふ方丈記の飢饉(ききん)描写はするどし
親は子に男女(をとこをみな)は志ふかき方より食をゆづりしと
われ一人やしなひましし母の乳焼かるる日まで仄(ほの)に赤かりき
この向きにて初(うひ)におかれしみどり児の日もかくのごと子は物言はざりし(長女ひとみ急逝)
花に埋もるる子が死に顔の冷めたさを一生(ひとよ)たもちて生きなむ吾か
冥路(よみぢ)まで追ひすがりゆく母われの妄執を子はいとへるならむ
亡き子来て袖ひるがへしこぐとおもふ月白き夜の庭のブランコ
元素となりしのみにはあらざらむ亡き子はわれに今もはたらく
一読して、娘を歌った作品が強く印象に残りますが、下記の記事がその背景を解き明かしてくれました。

五島美代子の子を悼む歌 短歌一口講座 空 :日本経済新聞

 
今回の「耳を澄まして」では、五島美代子(1898-1978)の亡き子を思う歌が取り上げられていました。五島は「心の花」から歌を始め、戦後は女性歌人の超結社集団「女人短歌」の中心的人物として活躍した歌人でした。

 昭和25年(1950年)、彼女を悲劇が襲います。東京大学文学部在学中だった彼女の長女ひとみが自死したのです。五島はその死が自分のせいであったと考え自分を責めます。のちに『母の歌集』(53年)に纏められる痛切な歌はこのとき生まれました。

   棺の釘打つ音いたきを人はいふ 泣ききまどひゐて吾はきこえざりき

 長女の葬儀のときの歌です。なきがらを納めた棺に釘が打たれる。葬儀に参会した人々はその釘の音の痛ましさを作者に告げます。が、悲しみのなかで吾を失っていた作者の耳には、その釘の音が聞こえなかったのでしょう。出棺を茫然として見送った作者の姿が伝わってきます。

   ひとみいい子でせうとふと言ひし時いい子とほめてやればよかりし

 自死を選ぶ前、長女は作者に甘えて「ひとみいい子でしょ?」と言ったのでしょう。そのとき作者は、自分に甘えようとした娘の内心に気づけなかった。なぜあのとき私は「ひとみはいい子よ」と言ってやれなかったのだろう、娘の苦しみに気づいてやれなかったのだろう……。娘の死後、作者はそう自問します。「ひとみいい子でせう」という口語が用いられていることによって、作者の痛切な心情がよりリアルに伝わってくる歌です。


カイツブリの子どもです。
カイツブリの古名はニオドリと言います。


私、いい子でしょ?







おうちに帰るわよ。



ぼくのほうが速いよ。



仲良くしなきゃだめよ。



ヤマモモの実が熟しています。













今日はここまで。

否と言えぬ女ごころに咎ありや [文学雑話]

思いもかけない成り行きで、「歌人佐佐木信綱の弟子シリーズ」みたいな記事が続いています。「卯の花」とのつながりで、童謡「夏は来ぬ」の作詞者が佐佐木信綱だと気づいたことをきっかけにしての大脱線です。庭に置いてある鉢に、どこからか紛れてきた種が芽を出したらしく、枝を伸ばして5月には白い花を咲かせました。何の木だろと注目しておりましたが、どうも卯の花(ウノハナ=ウツギ)ではないかと思われます。



昨日の記事で、我が家のクチナシはまだつぼみとお知らせしましたが、今朝はようやく白い花びらがのぞき始めていました。



きょう散歩した近所の公園では、すっかり花がひらいていました。







つぼみもサイズがずいぶん大きいです。


さて、今日の「佐佐木信綱門人シリーズ」は、大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ)の巻。
ネット記事を引用します。

百科事典マイペディアの解説

大塚楠緒子【おおつかくすおこ】


小説家,歌人,詩人。東京生れ。本名,久寿雄。1890年,少女時代から竹柏園に入門,佐佐木弘綱佐佐木信綱に師事。小説《離鴛鴦》《空薫(そらだき)》,また日露戦争に対する女性の心情をうたい,与謝野晶子《君死に給ふことなかれ》とともに反響をよんだ[コピーライト]-82183">新体詩《£-1690211">お百度詣で》など。(1875-1910)

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」とともに非戦の詩として記憶される「お百度詣」は、こんな詩です。

 お百度詣   大塚楠緒子


   ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、

   ふたあし国を思へども、

   三足ふたゝび夫おもふ、

   女心に咎ありや。



   朝日に匂ふ日の本の    

   国は世界に唯一つ。

   妻と呼ばれて契りてし、

   人も此世に唯ひとり。



   かくて御国と我夫と

   いづれ重しととはれれば

   たゞ答へずに泣かんのみ

   お百度まうであゝ咎ありや



【kazg語訳】

一歩あゆんであなたを思い

つぎの一歩でお国を思う

三歩でまたまたあなたを思う

おんなごころは罪かしら?



朝日に輝く日本の

国は世界にひとつだけ

妻と愛され結ばれた

人も世界にひとりだけ



それならお国と愛しいあなた

どちらが大事と問われたら

何も答えず泣くしかないわ

お百度詣では罪かしら?



「ノー」とはっきり言うことができない時代の、女心の哀切が心を打ちます。折しも、今、集団的自衛権の名のもと、他国が起こした戦争のために遠い異国に駆り出される夫の無事を案じて「咎?」と自問しながらお百度参りをしなければならない妻が、生まれずにすむことを祈ります。

文学者としても私人としても、夏目漱石との交友が知られています。
漱石は「硝子戸の中」で、こんな記述を残しています。
    二十五
 私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。
 或日私は切通(きりどお)しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋(ぎゅうや)の傍(そば)に、寄席(よせ)の看板がいつでも懸(かか)っていた。
 雨の降る日だったので、私は無論傘(かさ)をさしていた。それが鉄御納戸(てつおなんど)の八間(はちけん)の深張で、上から洩(も)ってくる雫(しずく)が、自然木(じねんぼく)の柄(え)を伝わって、私の手を濡(ぬ)らし始めた。人通りの少ないこの小路(こうじ)は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄(あしだ)の歯に引(ひ)っ懸(かか)る汚(きた)ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗(わ)びしかった。始終(しじゅう)通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹(ひ)くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕(ふしょく)するような不愉快な塊(かたまり)が常にあった。私は陰欝(いんうつ)な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。
 日蔭町(ひかげちょう)の寄席(よせ)の前まで来た私は、突然一台の幌俥(ほろぐるま)に出合った。私と俥の間には何の隔(へだた)りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
 私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚(みと)れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧(ていねい)な会釈(えしゃく)を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶(あいさつ)とともに、相手が、大塚楠緒(おおつかくすお)さんであった事に、始めて気がついた。
 次に会ったのはそれから幾日目(いくかめ)だったろうか、楠緒(くすお)さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美くしい方(かた)かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
 その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧(あか)らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
 それからずっと経(た)って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪(たず)ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻(さい)と喧嘩(けんか)をしていた。私は厭(いや)な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へ詫(あや)まりに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々(にがにが)しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込(ひっこ)んでいたのです」
 これに対する楠緒さんの挨拶(あいさつ)も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。
 楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支(さしつかえ)ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺(かん)の中」という手向(たむけ)の句を楠緒さんのために咏(よ)んだ。それを俳句の好きなある男が嬉(うれ)しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。
漱石は、親友正岡子規の手ほどきを受けてよく俳句をものしましたが、数ある句の中でも最も印象深い秀句は、ここに紹介された

ある程の菊投げ入れよ棺の中

の句ではないでしょうか。

「菊投げ入れん」ではなく「菊投げ入れよ」というわけは、漱石自身、持病の胃潰瘍の治療のため入院中で、葬儀に参列することがかなわなかったからです。

想像の中で清らかな菊の香りがみなぎる中、追悼の思いが見事に結晶していて、深い愛惜と悲嘆が自ずと伝わってきます。

大塚 楠緒子の夫は、美学者で東京帝国大学教授をつとめた大塚 保治(おおつか やすじ)。漱石の学生時代からの友人で、大学の寄宿舎では同室に住んだこともある間柄でした。『吾輩は猫である』に登場する美学者・迷亭のモデルとも言われます。

漱石と大塚 保治(旧姓小屋)は、ともに、寄宿舎々監清水彦五郎の斡旋で、当時宮城控訴院々長であった大塚正男の一人娘大塚楠緒子の婿候補に挙げられていたそうですが、明治28(1895)年、小屋保治が楠緒子と結婚入籍して、大塚保治と改姓しました。友人の妻となった楠緒子を、漱石は理想の女性、マドンナとして生涯プラトニックに敬慕した、とも言われます。

以下、次回に続きます。



きょう15日は、年金の支給日。というわけで、私の属する年金者組合支部としては、郵便局に引き出しに訪れる受給者の方に訴えて、署名をお願いしようという作戦を計画。朝九時から、郵便局の前に立ちました。
当初のもくろみとは違い、通りかかるのは年休受給はまだ先と思われる比較的お若い方が多かったのですが、「支給額がどんどん削られ、支給年齢が引き延ばされている。現役の時に一所懸命掛け金を納めたのに、皆さんのような若い世代がいざリタイアするときに制度が存続しているか心配。今、安心できる制度を確立することが大事」などと話すと、意外にすんなり協力してくださる方が多いことに、切実さを感じました。
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帰り道に、寄り道した蓮田で、ケリに会いました。

 

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ダイサギもいました。

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ほかにはめぼしい鳥には会えませんでした。
最近の記事に登場する「白蓮(びゃくれん)」にひっかけて、白蓮(白ハス)が咲いていないかと期待したのですが、まだまだ成育中でした。

白蓮あれこれ 思いつくままにはこんな写真を載せたのでしたっけ。

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先日行った後楽園では、ピンクのハスは咲いていたのですがね。

 
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大賀ハスです。
過去にも何度も書きました。

大賀ハス開花記念日!

後楽園の古代蓮

蓮の花あれこれ

蓮の花あれこれ vol2 大賀博士の故郷に咲く純粋種の古代ハス

蓮の花あれこれvol3 岡山後楽園の蓮の花

蓮の花あれこれvol4 古代ハスに咲く優曇華?

今年の大賀ハス(岡山後楽園) 

今年の大賀ハス(岡山後楽園) 

これは付録です。

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終わりに、漱石の句を借ります。

生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉

肩に来て人なつかしや赤蜻蛉

きょうはこれにて。

追記、写真のアップが不調で、訂正しました。失礼しました。

 


白蓮とくちなし夫人と紅い薔薇、の巻 [文学雑話]

芥川龍之介の「或阿呆の一生」は、中・高校生の私には難解でちんぷんかんぷんでした。







 一 時代



 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

この一節は印象深く、かろうじて理解できました。「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」のフレーズは「芸術は長く人生は短し」という警句とごっちゃになって私の記憶に残っています。

次の章「二母」あたりからから、もう難渋します。

事実なのか虚構なのか、現実なのか妄想なのか定めがたく、見知らぬ道で迷子になった心細さを覚えたものでした。以来読み返そうとも思わないで過ぎました。

今、久米正雄宛に書かれた冒頭文を読んでいて、少し景色が変わって見えました。

「君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。」

ああそうなのか、インデキスなしに読もうとすることは、攻略本なしにゲームに挑むようなものなのか、と納得できて、安心したのでした。あいにく私は、ゲームに挑んだことも、攻略本を手にしたこともありませんが、、、。







 三十三 英雄



 彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亜人が一人、執拗に山道を登りつづけてゐた。

 ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……

――誰よりも十戒を守つた君は

誰よりも十戒を破つた君だ。

誰よりも民衆を愛した君は

誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上つた君は

誰よりも現実を知つてゐた君だ。

君は僕等の東洋が生んだ

草花の匂のする電気機関車だ。――

これは、高校時代の友人が抜き書きしていました。「レニン」つまり「レーニン」をさすとわかれば、腑に落ちました。芥川の、というようりも当時のインテリゲンチアの、ロシア革命革命への屈折した愛着と共感、そしてかすかなおびえの空気が感じられました。



ごく最近、というよりもまさにこの数日、偶然目にしたインデクスをヒントに、少しわかったことがありました。(すでに、広く知られた事実なのかもしれませんが)。







三十七 越し人



彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

風に舞ひたるすげ笠の

何かは道に落ちざらん

わが名はいかで惜しむべき

惜しむは君が名のみとよ。 



この「越し人」とは、芥川晩年の(精神的な)恋人、片山廣子(ペンネーム・松村みね子)をさすと言います。広子は、芥川より十四歳も年上、大きい子どももありました。

このあたりの事情については、この「小さな資料室」というHP(http://www.geocities.jp/sybrma/index.html)に詳しい考察があり、参考にさせていただきました。「リンクフリー」とありましたので、勝手ながらリンクを張って紹介させていただきます。

そのページの一部を引用します(http://www.geocities.jp/sybrma/09ryuunosuke.html)。







  吉田精一氏は、この女性をM女史として本名を出しておられませんが、この人は明治11(1878)年生まれの片山廣子(ペンネーム・松村みね子)という人で、佐佐木信綱に師事する『心の花』の歌人であり、アイルランド文学の翻訳家でもありました。旧姓吉田。東京に生まれ、東洋英和女学校を卒業、後の日銀理事片山貞次郎に嫁いで片山姓になりました。芥川が廣子と知り合った大正13年(1924)当時、芥川は32歳、廣子は46歳、未亡人になって(大正9年(1920)3月14日、夫貞次郎死去)4年を経ていました。

 堀辰雄の『聖家族』は、芥川の死と作者自身の恋愛体験を素材にした小説で、作中の細木(さいき)夫人は片山廣子(松村みね子)を、九鬼は芥川を、扁理は堀自身をモデルにして書かれたものだそうです。



また、http://www.geocities.jp/sybrma/338ryuunosuke.koshibito.htmlには、こうあります。







 「侏儒の言葉(遺稿)」の中の「わたし」の一つに、次の言葉があります。(354頁)                

又 わたしは三十歳を越した後、いつでも戀愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情 詩を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道德的にわたしの進歩し
たのではない。唯ちよつと肚の中に算盤をとることを覺えたからである。

片山廣子(松村みね子)は、38歳で出したその第一歌集「翡翠(カワセミと読みます)」に



空ちかき越路の山のみねの雪夕日に遠く見ればさびしき



の歌に始まる「軽井沢にてよみける歌十四首」という連作を掲載しています。

芥川が、大正14年(1925)3月1日発行の雑誌『明星』第6巻第3号に発表した「越びと 旋頭歌二十五首」は、これと対応する相聞歌(恋の贈答歌)となっています。

二十五首の冒頭にはこんな歌が置かれています。



あぶら火のひかりに見つつこころ悲しも

み雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ



「越路のひと」が誰をさすかは明白です。



彼女の文学的才気を高く評価し、精神的に強く惹かれた芥川は。彼女を「クチナシ夫人」と呼んだそうです。

クチナシといえばなんと言っても渡哲也が歌った「くちなしの花」の甘く薫る白い清楚なイメージが秀逸です。







 いまでは指輪も まわるほど

やせてやつれた おまえのうわさ

くちなしの花の 花のかおりが

旅路のはてまで ついてくる

くちなしの白い花

おまえのような 花だった

でも、芥川の命名は、そういうことではなかったようで、「くちなしや鼻から下がすぐに顎」という落語のネタとさして変わらぬ地口(言葉遊び)のたぐいであったようです。つまり、クチナシは、口がないと洒落て、「悪口を言わない人」とほめたのだそうです。人柄を彷彿とさせるエピソードです。

庭のクチナシは、まだつぼみです。









さて、佐佐木信綱つながりでご登場いただいた片山廣子は、すでに我われと旧知の間柄にあるもう一人の人物ともつながります。同じ東洋英和女学院の卒業生で、15歳年下の村岡花子です。彼女も又、柳原白蓮の紹介で佐佐木信綱の門人となった縁で廣子と出会います。高等科在学中の彼女に児童文学への道を薦めたのは、アイルランド文学翻訳家でもあった廣子だといわれます。そのころ、彼女は毎週のように廣子の家を訪ねて本を借り、文学を志すきっかけとなりました。







 片山廣子さんが私を近代文学の世界へ導き入れて下さった。そうして、その世界は私の青春時代を前よりももっと深い静寂へ導き入れるものであった。けれどもこの静かさは、以前のような、逃避的な、何者をも直視しない、正面からぶつかって行かない「精神的無為」の静かさではなくして、心に深い疑いと、反逆と、寂寥をたたえた静かさであり、内面的には非常に烈しい焔を燃やしながら、周囲にその烈しさを語り合う相手を持たないことから来る沈黙であった。『改訂版生きるということ』より「静かなる青春」(村岡花子)


 1926年5月、花子は、自宅に設立した青蘭社書房の最初の童話集「紅い薔薇」(あかいばら)を刊行します。その前書きにこう書いています。







 「おかあさん――お噺(は なし)してちやうだい」今年七つになる私の子は明暮れに、かう言うては私の許(もと)へ飛んで参ります。

また、そのころ白蓮に送った手紙に、こう書いています。







 この間お持たせするのを忘れた『紅い薔薇』を今おめにかけます、

 私は相変わらず子供のオハナシを書いています。

 香織ちゃんにもどうぞ『紅い薔薇』の中の噺を聴かせて上げてちょうだい。

 うちの坊やには、この中のものはみんな幾度も幾度も話して聴かせたのよ。

 私の坊やは私の原稿の校閲掛りです。

 『童話集紅い薔薇』と銘打って出たこの本はつまり坊やと私の幸福な生活の反映なのです。

 どうぞあなたもこの本を可愛がってやって下さい。

 私の坊やが喜んで聴き、おさない心ながらに感激もし、共鳴もし、笑いもしたもの、きっとあなたの香織ちゃんにも、そして世の中の大勢のお子さんたちにも、 よいたましいの糧となると信じております。

 「まあ花ちゃんが大した気焔をはくこと」とあなたお笑いになりますか? 

 気焔じゃありません、これは信念なのよ、

 信念が無けりゃ、仕事は出来ないじゃありませんか。

しかし、数えで7歳、満5歳のひとり息子、道雄 さんは、その9月、疫痢に冒されて急逝してしまいます。

その悲しみから立ち直るきっかけとなったのは、廣子から贈られたマーク・トウェイン作”The Prince and the Pauper"だったといいます。後に『王子と乞食』として翻訳出版されたこの本は、花子にとって記念碑的な作品となっています。

種松山公園の紅い薔薇の写真です。













ついでに、黄色い薔薇も。











信綱の門人シリーズ、まだ続きます。

今日はこれにて。

放縦といふべかんなる薔薇雫 [文学雑話]

昨日の記事で、佐佐木信綱が主催した「心の花」についての解説を引用しました。「新派和歌革新運動のさ中の時期」「新派と旧派の橋渡しの役」「正岡子規をはじめ根岸派の歌人たちにも場を提供した」「明治三十一年に『心の花』を創刊した佐佐木信綱は、伝統との折衷を残しながらも<広く深くおのがじしに>を提唱する。また、明治三十二年に根岸短歌会をおこした正岡子規は、伊藤左千夫や長塚節とともに、<写生>によって対象をリアルに見ようとする機連を培っていた。」などとありました。
しからば、と連想が働いて、本棚の奥から藤沢周平「白き瓶」を取り出して、ぺらぺらめくってみました。

白き瓶―小説・長塚節

白き瓶―小説・長塚節

  • 作者: 藤沢 周平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1985/11
  • メディア: 単行本



子規に師事し、伊藤左千夫らと「アララギ」派を率いて、写生、生活密着、万葉調の歌づくりに丹精を込めるとともに、散文分野でも客観描写を重視した「写生文」の執筆にいそしみ、長編小説「土」では漱石に激賞されるなど、きらめく才能を有しながら、結核のため、35才で夭折した長塚節の青春と文学修行を清新に描いた「評伝小説」の佳作です。
高校時代、私は、長塚節を「ナガツカブシ」と読み誤り、民謡の一種と勘違いしていたことがありました(汗)。それはお粗末に過ぎるとしても、どちらかと言えば地味で、大きく取りざたされることの少ない歌人であり小説家であることは確かでしょう。
しかし、この「白き瓶」によって、その印象は大きく塗り改められ、みずみずしく、清新で、繊細な感性と、澄み渡った理知の働きとをあわせもつ、真摯な求道者のような青年の姿が印象づけられたことでした。藤沢さんが引用して紹介される節の歌は、なんと秀作揃いでしょうか。
その節が、正岡子規に師事し始めたばかりの頃の様子が、こんな風に描かれています。

 節は真壁第二高等小学校を卒業するとき、二十八名の同窓の中で首席を占めた。また、県立水戸中学校(当時は茨城県尋常中学校と称した)にも首席で入学した明敏な頭脳の持主だったが、中途退学と言い、徴兵検査の不合格と言い、弱い身体のためには屈辱を嘗めた。病身それも神経衰弱持ちで医者通いをしたり、家の中でぶらぶらしていることは、村の中の聞こえもよくなかったのである。
しかし、ここ一、二年、節はようやく病気と緑が切れて、体力が充実して来たのを感じている。青白く.痩せていた身体に、肉がついた。今年は二月末のまだ寒い時期に筑波山にのぼり、三月の上旬には成田の新勝寺と香取神宮に参詣がてら観梅、さらに足を下総神崎の親友寺田憲の家までのばして帰郷した。ひとやすみして三月末には、今度は水戸の北方多珂郡諏訪村の梅林を見に行き、ついでに水木浜に出て遊んだりした。節はそういう旅を好んでした。
節は、東京根岸に住んで短歌革新ののろしを挙げた正岡子規の弟子である。取りあえずは旧派の歌人たちや、新興の短歌結社ではあっても子規の指導する根岸短歌会とは方向を異にする与謝野鉄幹のひきいる新詩社などを当面の敵として、
新しい短歌を創造して行く立場にいた。春先の旅行は、そのための歌材を得るための旅だったが、ほとんどが徒歩で、しかも諏訪村の梅林'を見に行った日は、春にはめずらしい風雪に会つたりしたのに、身体の方は何の異状もなかった。
(中略)
節は家の横を通り抜けて、裏の畑に出た。節は今年から佐佐木信綱が主宰する短歌文芸誌「心の花」に短歌、長歌の連載をはじめていた。「うみ苧(お)集」と題したその連載は、掲載がはじまったばかりである。ほかにも、一昨年からはじめている日本附録「週報」の課題詠、陸羯南(くがかつなん)の主宰する新聞「日本」の文芸欄に寄稿する短歌作品の創作を抱えていた。
(中略)
五月になって、 とかく鬱屈しがちだった節の気分が一ぺんに喜びに変るような事件が起きた。と言っても、それはまわりのひとにはさほど関係がなく、節自身の気持の中のことでしかなかったが、さきに寄稿しておいた短歌が、五月十八日の「日本」紙上に全首掲載されて、子規にほめられたのである。
「ゆく春」と題し、「四月の末に京に上らむと思ひ設けしことのかなはずなりたれば心もだえてよめる歌」と前書きした歌は、つぎの九首である。
青傘を八つさしひらく棕擱(しゅろ)の木の花咲く春になりにたらずや
たらの芽のほどろに春のたけ行けばいまさらさらにみやこし思ほゆ
荒小田をかへでの枝に赤芽吹き春たけぬれど一人こもり居
みやこぺをこひておもへば白樫の落葉掃きつつありがてなくに
おもふこと更にも成らず枇杷の樹の落葉の春に逢はくさびしも
春畑の桑に霜降りさ芽立ちのまだきは立たずためらふ吾は
草枕旅にも行かず木犀の芽立つ春日は空しけまくも
にこ毛立つさし穂の麦の招くがね心に思へど行きがてぬかも
おもふこと檐の左枝の垂花のかゆれかくゆれ心は止まず
桵(たら)芽の雅号で提出した九首を、子規は「日本」紙上に掲載して歌の横にびっしりと傍点を打つてほめ、 ことに第一首の「青傘を」、第六首の「春畑の」、第九首の「おもふこと」には秀逸を示す丸印をつけていた。
この「ゆく春」九首は、さらに七月発刊の「心の花」の中で、子規の病株歌話、左千夫の楽々漫草の中に、あらためて取り上げられて賞揚された。
子規は「ゆく春」について、この歌をほめる人でもいろいろとほめ方が違って、序の句が面白いという人もあれば、万葉調が面白いという人もある、と根岸派の歌人たちの評判を記した上で、序の句も面白いが結の句が十分に働いているところが見所だと、自分の見解を述べ、万葉の言葉を自由自在に駆使して一首の結びをつけた処は、他に一頭他を依きん出ていると思ふ」と激賞した。
他人の作品に点の辛い左千夫も、この作品を取.り上げた楽々漫草では、「奇想縦横声調温雅、何等の妙趣何等の風韻。而して又吾人の理想にかなへるの連作、従来同人の製作中絶えて其の此を見ざるの逸品なり」と、手放しでほめていた。
感激家の左千夫は、さらにつづけて「ゆく春」は明治三十五年の優作であるだけでなく、実に明治聖代の金玉かも知れない、このような佳作を得たのは、ひとり長塚節の名誉であるばかりでなく根岸短歌会の名誉
だなどと馬鹿ほめしたあげく、あまりほめすぎたと思ったのか、しかしながら今月号の「一本柳」の歌は駄作だ、とても同一作家の歌とは思えない、節の新しい作品の方はさんざんにけなしていた。
左千夫がけなしたのは、同じ号に載つているうみ苧集の中の下妻町砂沼周辺の風景をよんだ短歌のことだったが、 節には左千夫のけなしはほとんど気にならなかった。ほめてある個所だけを、繰り返して読んだ。

「心の花」が、新進の成長を応援する舞台となっていたことをよく描いています。
佐佐木信綱の名前は、その意外とも思える多彩な門人の名前とともに想起される場合があるかもしれません。たとえば、柳原白蓮と、九条武子。
以前、NHKの朝ドラで「花子とアン」を放送していたころ、こんな記事を書きました。仲間由紀恵さんが魅力的に演じた 「蓮様(れんさま)」のエピソードです。
白蓮あれこれ 思いつくまま

 「蓮様(れんさま)」こと葉山蓮子のモデルは、大正三美人のひとりと評された、柳原白蓮(1885~1967)です。

ちなみに大正三美人とは、この柳原白蓮と、教育者・歌人、社会運動活動家としても知られた九条武子(旧姓大谷武子)と、新橋の芸者で、法律学者・江木衷と結婚して社交界で名をはせた江木欣々(えぎきんきん)の3人だといいます。2人目の九条武子は、京都西本願寺・大谷光尊の二女として生まれ、男爵・九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られました。佐佐木信綱の門下生で、当時の「麗人」という言葉はこの人のために使われたといわれます。
柳原白蓮と九条武子は、実際に交際があったようで、以前にも引用させていただいた「松岡正剛の千夜千冊」というブログの 1051夜 2005年07月27日の記事で、 近代美人伝「上・下」という本が取り上げられていますが、ちょうどそこに白蓮と武子に触れた個所がありましたので引用させていただきます。
新編 近代美人伝〈上〉 (岩波文庫)

新編 近代美人伝〈上〉 (岩波文庫)



  • 作者: 長谷川 時雨

  • 出版社/メーカー: 岩波書店

  • 発売日: 1985/11/18

  • メディア: 文庫




新編 近代美人伝〈下〉 (岩波文庫)

新編 近代美人伝〈下〉 (岩波文庫)



  • 作者: 長谷川 時雨

  • 出版社/メーカー: 岩波書店

  • 発売日: 1985/12/16

  • メディア: 文庫

それでは、いまあげた柳原白蓮と九条武子の例を出しておきます。
柳原白蓮は鹿鳴館華やかなりし明治18年に、柳原前光伯爵の次女として生まれます。お兄さんは貴族院議員、でも白蓮の生母は柳橋の芸妓さんです。だから麻布笄町の別邸で育った。やがて北小路子爵のところに嫁ぐのですが、ほどなく離婚します。 
そして、さっきも言ったように、福岡の炭鉱王の伊藤伝右衛門に請われて入籍するのですが、亭主が52歳だったこと、無学な鉱夫あがりだったこと、成金だったこともあって、人の噂に「人身御供」だと騒がれます。けれども暮らしのほうは豪勢きわまりないものだったので、"筑紫の女王"と揶揄される。そのうち佐佐木信綱に和歌を学ぶようになって『踏絵』という歌集を出します。なんとも意味深長なタイトルですが、収められた歌もそういう感じです。たとえば、

  殊更に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
  わが魂(たま)は吾に背きて面(おも)見せず昨日も今日も寂しき日かな
  おとなしく身をまかせつる幾年は親を恨みし反逆者ぞよ
  われといふ小さきものを天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ

 こういう歌が発表されたんですね。なかには「毒の香たきて静かに眠らばや小瓶の花のくづるる夕べ」といった、ぎょっとする歌もいくつも入っている。それが33歳のときです。みんなびっくりしてしまいます。あるいは、ああやっぱりと思った。
そこへもってきて大正10年10月22日の新聞に「柳原白蓮女子失踪!」の記事が突如として躍ったんですね。「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」
という記事です。記事によると福岡へ帰る夫を東京駅で見送ったまま、白蓮は東京の宿にも帰らず、そのまま姿をくらましてしまったというのです。そしてやがて、伝右衛門に宛てた絶縁状が新聞に載る。「私は今貴方の妻としての最後の手紙を差し上げます」という一文で始まる、とんでもない文面です。それが満天下に公開された。
 さあ、これで世間も新聞社も蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。そこに伝右衛門の談話が発表される。「天才的の妻を理解していた」という見出しです。

 やがて白蓮は東京帝国大学の宮崎竜介という青年と駆け落ちしていたことがわかるのですが、それがわかればわかったで、今度は外野席や帝大の教授たちもいろいろのことを論評するようになり、ついに姿をあらわせなくなっていくんですね。その後、白蓮は「ことたま」というすばらしい歌誌を主宰して、詩集・戯曲・随筆を書きつづけたにもかかわらず、その白蓮を世間はついに"認証"しなかったのです。
 時雨はこう書いています、「ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間の交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽くせようか」と。

 もう一人の"遠き麗人"とよばれた九条武子についても、ちょっとだけお話しておきます。そのころから細川ガラシャ夫人と並び称されてきた女性です。時雨はこんなふうに書き出している。
 「人間は悲しい。率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字も書けない」。

 これでなんとなく察せられるように、九条武子という人は現代にはまったく存在していないような、信じられないほど美しい女性です。多くの美人伝を綴ってきた時雨にして、一行も書けなくなるような、そういう女性です。生まれは本願寺21代法主の大谷光尊の次女で、お兄さんが英傑とうたわれた大谷光瑞。西域の仏跡探検家でもあり、多くの支持者をえた仏教者です。妹の武子は親が生まれる前から決めていた九条家に輿入れして、九条を名のるのですが、時雨は「武子さんはついに女を見せることを嫌ったのだ」と書いています。
 残したのは「聖女」のイメージと歌集だけ。明治20年に生まれて、昭和3年に敗血症のために、深窓に閉じられたまま死んでいく。そういう人がいたんです。
 だから、どういう人だったかは、歌を読んで推しはかるしかありません。それ以外にほとんど情報がないんです。その歌も、なんとも切ない歌ばかり。『金鈴』『薫染』(くんぜん)『白孔雀』といった歌集がありますが、ちょっと拾って読みます。

  ゆふがすみ西の山の端つつむころひとりの吾は悲しかりけり
  緋の房のふすまはかたく閉ざされて今日も寂しくものおもへとや
  百人(ももたり)のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
  夕されば今日もかなしき悔いの色昨日(きそ)よりさらに濃さのまされる
  何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
  君にききし勝鬘経のものがたりことばことばに光りありしか

  ただひとり生まれしゆえにひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は

 3首目の「百人のわれにそしりの火はふるも‥」の歌については、『白孔雀』の巻末に柳原白蓮が、「この歌に私は涙ぐんでしまいました」と書いていました。吉井勇もまたこの歌に痛切な感動をおぼえたと綴っています。「ただひとり生まれしゆえにひとりただ」も凄い歌ですね。

 ここにもあるとおり、白蓮は、15歳(数えで16歳)で子爵北小路資武と結婚しますが、それは愛のない、「わが十六の涙の日記」にほかならず「親を恨みし反逆者」の日々だったのです。一子をなしたものの、5年で破婚し、実家に戻ります。
当時の心境を彼女はこう歌います。

ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身

「蓮様(れんさま)」が、問題含みの転入生として朝ドラに登場したのが、この時期のことでした。それ以後のドラマの展開は、ほぼ史実を踏まえているようです。
その後、明治44年27歳の時、九州の炭鉱王と称された伊藤伝右衛門(朝ドラでは嘉納伝助)と結婚、大正4年に処女歌集『踏絵』を発表します。

踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前

誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥

ともすれば死ぬことなどを言ひ給ふ恋もつ人のねたましきかな

年経ては吾も名もなき墓とならむ筑紫のはての松の木のかげに


贅を尽くした、何不自由のないとも言える筑豊での暮らしぶりは、旧伊藤伝右衛門邸の様子からもしのぶことができます。しかし白蓮にとっては、この結婚生活は、心の満たされるものであったようです。


そのような中で、のちに社会運動家で弁護士でもあった宮崎龍介(ドラマでは宮本龍一)と出会い、決意の駆け落ち事件、世にいう「白蓮事件」を引き起こし、これがマスコミ各社のスクープ合戦となって一大センセーションを巻き起こします。
テレビドラマは、ただいまこのあたりを進行しているようですね。

天地(あめつち)の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きぬ

ひるの夢あかつきの夢夜の夢さめての夢に命細りぬ

当時、明治憲法下では、「姦通罪」の定めがありました。姦通は,妻が行った場合は,夫の告訴によってその妻と相手の男とが処罰されますが,夫が行った場合は,その相手が人妻でない限り処罰されませんでした。男尊女卑の時代の反映でした。
従って、二人の駆け落ちという決断は、いわば命がけの行動と言えました。
最終的には、伝右衛門は告訴することなく、離婚を認め、白蓮は龍介との間に一男一女をもうけ、安らぎの家庭を得る事ができたそうです。

その白蓮を襲う思いがけない悲しみについては、また、朝ドラの展開とあわせて、話題にするかも知れません。


ここで、思わせぶりに予告した「思いがけない悲しみ」についてはこの記事で触れました。

政変のニュース痛まし麦の秋

 NHK朝ドラ「花子とアン」で、白蓮さんが、与謝野晶子「君死にたまふ事なかれ」の載った『明星』を、吉太郎に渡しますね。

「君死にたまふ事なかれ」

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや


堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり


君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ


あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる


暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ


 
皮肉なことに、後に世を賑わせた「白蓮事件」の当事者=白蓮さんと、駆け落ち相手の宮崎隆介氏との間に生まれた愛息の香織氏は、早稲田大学政経学部在学中
に学徒出陣し、1945年(昭和20年)8月11日、所属基地が爆撃を受けて戦死します。享年23。終戦のわずか4日前でした。

ドラマの進行に即して、この記事も書きました。
いまさらに君死に給うことなかれ

享年23。終戦のわずか4日前でした。

柳原白蓮は、その悲しみを、こう詠んでいます。

たった四日生きていたらば死なざりしいのちと思ふ四日の切なさ


幼くて母の乳房をまさぐりしその手か軍旗捧げて征くは


英霊の生きて帰るがあると聞く子の骨壷よ振れば音する


写真(うつしえ)を仏となすにしのびんや若やぎ匂ふこの写真を 


 この記事にも書きましたが、「蓮様」が、意に染まぬ結婚話への悩みを抱えて花子の実家を訪ねた場面で、軍人志望の吉太郎に、与謝野晶子「君死にたまふ事なかれ」の載った『明星』を渡す場面がありました。


皮肉なことに、 吉太郎は憲兵として白蓮夫妻を排撃する立場になり、最愛の息子は、彼女がかくも厭うた戦争によって命を奪われます。無数の白蓮、無数の母たちの嘆きを、今
の世に再現させることがないように、「君死にたまふ事なかれ」を再録し、ちょっと現代語訳を試みてみました(グリーンの文字が原詩、灰色文字が訳詩)。


「君死にたまふ事なかれ」


あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや



ああ、わたしのおとうと!あなたのためにわたしは泣くわ。
あなた、しんじゃだめ!
すえっこのあなただから、
とうさまもかあさまもあなたをとてもかわいがったわ。
そのとうさまやかあさまはあなたに軍刀を握らせて、
ひとをころせとおしえたかしら?
ひとをころしてしねとおもって、あなたを二十四歳までそだてたかしら



堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり



じゆうなまち堺の商人の、
代々ほこりたかい旧家のあるじで、
あととり息子のあなたなのだから、
あなた、しんじゃだめ!
ロシアの旅順がほろびても、
ほろびなくてもかまわないわ。
あなたはしらないでしょうね!商人の
わがやの掟にはないことよ!


君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ



あなた、しんじゃだめ。
へいかはいくさに、
ごじしんではおいでになりませんが、
おたがいにひとの血をながして、
あさましいけものの道でしね、とか、
しぬことがひとの名誉だ、とかは、
へいかの慈愛はふかいので、
もとより、どうしておぼしめしましょうかしら?



あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる



ああ、わたしのおとうと!
あなた、しんじゃだめ!
そのむかし、いとしいとうさまに、
さきだたれなさったかあさまは、
深いかなしみなげきの上に、
わが子をいくさに召し上げられて、ひとりでいえをまもりぬき、
安泰と聞くご治世なのに、
かあさま白髪が増えました



暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ



お店ののれんに隠れて泣く、
可愛い若いにいづまを、
あなたお忘れ?それとも愛してる?
わずかとつきの新婚ぐらし、はなればなれに引き裂かれた
おとめごころを思ってご覧。
この世にひとりのあなたをおいて、
ああ!他のどなたを頼りにしよう。
あなた、絶対、しんじゃだめ!

私のブログ記事で「花子とアン」を初めて話題にしたのはこの記事だったようです。
その御名はいづれも尊き薔薇(そうび)どの
 

ところでバラの花といえば、以前書いたこの記事のように、シェークスピア「ロミオとジュリエット」の、このセリフを想起させます。

ュリエット「ああ、ロミオ様、ロミオ様! なぜあなたは、ロミオ様でいらっしゃいますの? お父様と縁を切り、家名をお捨てになって!
もしもそれがお嫌なら、せめてわたくしを愛すると、お誓いになって下さいまし。そうすれば、わたくしもこの場限りでキャピュレットの名を捨ててみせますわ」


ロミオ「 黙って、もっと聞いていようか、それとも声を掛けたものか?」


ジュリエット「わたくしにとって敵なのは、あなたの名前だけ。たとえモンタギュー家の人でいらっしゃらなくても、あなたはあなたのままよ。モンタギュー ――それが、どうしたというの?
手でもなければ、足でもない、腕でもなければ、顔でもない、他のどんな部分でもないわ。ああ、何か他の名前をお付けになって。名前にどんな意味があるというの?
バラという花にどんな名前をつけようとも、その香りに変わりはないはずよ。ロミオ様だって同じこと。ロミオ様という名前でなくなっても、あの神のごときお姿
はそのままでいらっしゃるに決まっているわ。ロミオ様、そのお名前をお捨てになって、そして、あなたの血肉でもなんでもない、その名前の代わりに、このわ
たくしのすべてをお受け取りになって頂きたいの」


新潮文庫 『ロミオとジュリエット』シェークスピア作 中野好夫訳

ところで、昨年の定年退職以降の、生活習慣の変化の一つは、「朝ドラ」を観るようになったことです。「あまちゃん」の頃はまだその習慣はありませんでした
が、「ごちそうさん」を何となく観はじめ、「花子とアン」に続いています。今年は4月から、週三日のアルバイト生活に入っていますが、出勤時間には余裕が
あって、ほぼ欠かさず観ることが出来ます。朝観られなくても、録画というものもありますし。
その「花子とアン」で、はなが女学校の文化祭に「ロミオトジュリエット」のシナリオ・演出を引き受ける一場面がありました。
その一こま(第26話
「ロミオ・モンタギュー、あなたの家と私の家は互いに憎しみ合う宿命 …
その忌まわしいモンタギューの名前をあなたが捨ててくださるなら、私も今すぐキャピレットの名を捨てますわ」
「名前が何だというのであろう ~ ロミオの名前を捨てたところで私は私だ!」
「ええ、バラはたとえほかのどんな名前でも、香りは同じ … 名前が何だというのでしょう?」


というシェークスピアのセリフが、はなには納得できず、

もしバラがアザミとかキャベツなんて名前だったら、あんな素敵に感じられるかしら?私のお父が吉平ではなく権兵衛って名前だったら、お母は好きになってるかしら?」

と、思案します、とはいえ、にわかに書き直すいとまもなく、時間をせかされて、稽古を続けていたところ、ロミオ役の醍醐亜矢子の、名前が何だというのであろう ~ ロミオの名前を捨てたところで私は私だ!」のセリフを受けて、ジュリエット役の葉山蓮子(白蓮さん)が、即興でセリフをこう改変したのでした。





「ロミオ様、それはどうでしょうか …
もし、バラがアザミやキャベツという名前だったら、同じように香らないのではありませんか?
やはり名前は大事なものです」

ネット情報によると、このセリフは、本家本元モンゴメリの「赤毛のアン」のエピソードらしい。「赤毛のアン」のシリーズはもちろん、大昔、好んで読みましたが、ディテールは忘れておりました。


「そうかしら」アンは思いに耽った顔をした。「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇が薊
(あざみ)とか座禅草(スカンク・キャベツ)とかいう名前だったら、あんないい香りはしないはずよ」(第五章「アンの生いたち )



名前は大事というのは、「アン」自身もこだわったことのようでした。


佐佐木信綱のお弟子さんは、これだけじゃありません。聞きかじりの知ったかぶり記事は、なおも次回に続くのダ!



今日は雨が残る一日でしたが、合間をついて、倉敷市の種松山公園を訪ねてみました。お目当ては雨に濡れたアジサイです。その画像はまたの機会に譲り、今日は、雨に濡れたバラをアップさせていただきます。3000本の薔薇が植えられているそうです。















































「名前は大事」といいながら、お名前がわかりません。

今日はこれにて。

道の辺に思ひ思ひや思ひ草 [折々散歩]

昨日の演説会.会場までどうやって行くか迷ったのですが、無料送迎バスが運行されると知り、徒歩五分の最寄りのバス停で拾ってもらいました。出発地点からは一時間近くかけて、私の最寄りのバス停を通り、目的地の会場まではまた小一時間かかります。バスには、昔の顔見知りの方が幾人かは同乗しておられ、懐かしい再会でした。
2000人収容できるという会場ですが、一階スペースは満席、二階もほとんど満席、混雑を避けて私の座った三階も、空席は数えるほどでした。

直接挨拶できた方、遠目に確認できた方、などなど、嬉しく心強い出会いのひとときでもありました。

熱気あふれる、新鮮な演説会でした。民進党県総支部連合、社民党県連、津山市長、奈義町長など、多彩な方々からのメッセージ。登壇して挨拶された「おかやまいっぽん(安保法制の廃止と立憲主義の回復をもとめるおかやまいっぽんの会)」共同代表大坂さん、岡山弁護士会前会長の吉岡さんも、それぞれの切実な思いを発言。アベ政治の暴走に、居ても立ってもいられない「普通の市民」の思いが、全国三十二の選挙区で野党共闘を実現したのだと、改めて腑に落ちました。

野党共闘の実現により、選挙区予定候補者を辞して比例区に移ることになった共産党予定候補植本かんじさん。お子さんがこの春高校生になって、戦争と平和の問題がより切実に感じるようになったそう。定年退職された元自衛官の方が「日本が攻撃されたら命をはって国を守るつもりだったが、戦争法は米軍を守るもの。若者を米軍の戦争に送る訳にはいかない」と、今日の演説会にも参加されている、と。

続いて登壇の黒石健太郎野党統一候補(民進公認)は、まず「植本さんの思いをしっかり受け、2人分以上の奮闘をしたい」と決意を披瀝。学生時代に憲法を学んだ長谷部教授はじめ大多数の憲法学者が違憲と指摘する中、それを押し切って施行された安保法制=戦争法を許さないときっぱり。会場近くの商店街にあった生家は、戦争中B29による爆撃(岡山空襲)で一帯が焼け野原になり、親族も大きな被害を受けた経験から、二度と悲惨な戦争をしてはいけない、安保法制=戦争法は日本にあってはならないと強調します。

同じく比例区で、中国四国地方を中心に活動する春名なおあき元衆院議員。春名さんについては、以前こんな記事で触れたことがありました。

きょうもまた散歩せざるの記

「るみおばあちゃん」のうどん 続報、の巻

そこにこんな事を書きました。
 ところで、本題とはなんの関係もない余談ですが、春名なおあきさんは、高校、大学ともに私にとっては後輩に当たります。年齢差もあって、リアルタイムで面識があるわけではありませんが、縁は感じますから、活躍に注目しています。
あちらこちらで何度かお目にかかっていますが、この日はまた格別に元気で、輝いていました。「けんちゃん、かんちゃん、はるちゃんトリオ」と笑いを誘います。

最後に共産党市田副委員長が登壇。初めからおわりまで、文字に起こしてご紹介したいおもしろさでしたが、メモもとらずに聞き流しましたので、記憶にとどまっている断片だけを備忘的に記しておくことにします。
・野党共闘を「民共合作」と揶揄する向きもあるが、中野晃一上智大学教授も指摘するとおり、「民共合作」とは過去の中国大陸における「国共合作」を参考にした表現。そう呼んだのは誰か、『大日本帝国』だ。やはり、大日本帝国を再興させたいと思っているから民共合作が怖いんだ。もう1つ、国共合作は大日本帝国の侵略をはねのけて追い出した!負けると自覚しているわけだ。

・「野合」というが、自公と補完勢力こそ野合。野党共闘は国家権力の暴 走を止める方向性では一致している。

・今度の選挙は「自公対民共」ではなく「自民とその補完勢力対4野党対プラス広範な市民・国民」の対決。

・「野党は共闘」の市民・国民の声に応えて、清水の舞台から飛び降りる覚悟で決断した。私も穀田国対委員長も京都出身で、「清水から飛び降りて死んだ人はない」と言ってきた。後で聞くと、死んだ人が4人あったらしい(笑い)。自己変革が求められるが、共同の力で政治を変える。

・アベノミクスの破綻は明白。1税金の集め方、2税金の使い方、3労働者の働き方の「3つのチェンジ」で格差をただし、経済にデモクラシーを貫くのが対案。

・消費税10パーセントは延期ではなく中止。税金は能力に応じて納める原則に転換し、大企業や富裕層に必要な負担を求める。「富裕層」と聞いて心配される向きもあろうが、ここにおられる皆さんは含まれない(笑)。たとえば、ユニクロ社長の年収、数字を見ただけではイメージしにくいが、1時間あたりに換算すると6000万円。6000円ではない。時給6000円でも夢のようだが、桁が違う。アベノミクスで恩恵を被っているこのような一握りの高額所得者や、不当に減免税されている大企業から応分の税金をいただく。

・めざすのは、国民が栄えて、大企業もそこそこ設ける社会。

・書記局長時代、一度も勝利の記者会見をしたことがない(笑)。厳しい時代も正しいと信じる道を貫いたが、今は、がんばれば勝てるチャンス。今がんばらなければいつやるか、と言っていたら、断れなくなった。ここで引退の予定だったが、比例区9人目に立候補。もう一期務めると、80歳になる。

大腸がん手術をされたのは、十五年も前でしたか。無事回復されたようで、お元気そのもの。まったく衰えを感じない気力・精神力に脱帽です。


さて、前回予告の通り、歌人佐佐木信綱についてのあれこれを書き散らします。相当マニアックなお話になりそうですゆえ、退屈とお感じでしたら一気に飛ばし読みをしていただき、終わりの数行だけお読みください。

もともと私は、近代短歌や歌人の情報にはきわめて疎く、教科書に取り上げる歌人のうちでもわずか数人のわずか数首が頭に浮かぶ程度で、お恥ずかしいかぎりです。この佐佐木信綱についても、名前はおぼろに知ってはいましたが、業績についても作品についても、直ちには浮かんできません。
というわけで、困ったときの魔法のランプ、若い頃に奮発して月賦で買いそろえ、引っ越しのために重い荷物としてあちらに運びこちらに運び、今も今の書棚にほこりをかぶって鎮座している筑摩書房「現代日本文学大系」全97巻!もちろん、飾ってあるだけで、ろくに読んではいません(キッパリ!)しかも最近は、本棚の後列に隠れ、前列は近刊の軽い本や雑誌が占拠しています。要らないものなら処分したら?と言われますが、古本屋に持ち込んでも、運搬のためのガソリン代にもならないでしょう。
そういえば、以前こんな記事を書きました
断捨離に 草臥(くたび)れて候 秋の空

それぞれに愛着と思い入れのあるこれらも、他の人から見れば無用の長物でしょう。これまでにも、一念発起して、古書店に持ち込んだことはあります。
何箱かの段ボール箱に詰め込んだうち、わずか数冊だけについて、合わせて数百円の値がついたものの、他は「お引き取りできません」ときたもんだ。持って帰
るのもしゃくなので、「処分しておいて下さい」ということになります。
目の利かぬ世俗の衆生に、宝物の価値を不当に傷つけられたような、屈辱と義
憤が入り交じった後味の悪さを感じて、それ以来、いっそ新聞や古雑誌と一緒に、処分しようと決めました。一昔前なら、ティッシュペーパー位には化けたもの
が、今はそれもないのですが、「断捨離」を言うのなら、いっそさばさばしていいだろう、という理屈です。

大型スーパーの駐車場に、古新聞紙や古雑誌を投げ込むと、重量で商品券と交換できるポイントがつくという「エコステーション」と称するシステムが設置されているので、これを利用することもあります。

そうやって何度か決行した廃棄作戦によっても、本棚がいっこうに空かなくて、段ボールに詰まった本が押し入れや廊下を占拠しているのは、確かに気鬱ではあります。開封して、中を整理しようなどと思うと、もはや収拾がつかず、本棚に戻してしまうのが落ちですので、滅多なことでは触れません。

退職後の日々は、そういうものに目をやる機会が多くなります。落ち着いたら読むとして、しばらく段ボール箱につめておいた全集ものを、もう一度本棚に並べてやらないと、読まないままに終わってしまう可能性が現実のものになりつつあります。


こうして大切に「死蔵」してきた全集です。せめてこんな時には役立ってもらわねば困る。

というわけで、全巻の背表紙を何度も確認してみました。全97巻の内訳は次の通りです。(出版元のこの記事参照)

政治小説 坪内逍遙 二葉亭四迷 他集
福沢諭吉 中江兆民 徳富蘇峰 他集
尾崎紅葉 広津柳浪 内田魯庵 他集
幸田露伴集
樋口一葉 明治女流文学 泉鏡花 他集
北村透谷 山路愛山集
森鴎外集(一)
森鴎外集(二)
徳冨蘆花 木下尚江集
正岡子規 伊藤左千夫 長塚節集
国木田独歩  田山花袋集
土井晩翠 薄田泣菫 蒲原有明 他集
島崎藤村集(一)
島崎藤村集(二)
徳田秋声集
正宗白鳥集
夏目漱石集(一)
夏目漱石集(二)
高浜虚子 河東碧梧桐集
柳田國男集
岩野泡鳴 真山青果 上司小剣 他集
幸徳秋水 堺枯川 田岡嶺雲 他集
永井荷風集(一)
永井荷風集(二)
与謝野寛 与謝野晶子 上田敏 他集
北原白秋 石川啄木集
高村光太郎 宮澤賢治集
若山牧水 太田水穂 窪田空穂 他集
鈴木三重吉 森田草平 寺田寅彦 他集
谷崎潤一郎集(一)
谷崎潤一郎集(二)
秋田雨雀 小川未明 坪田譲治 他集
武者小路実篤集
志賀直哉集
有島武郎集
長与善郎 野上弥生子集
里見弴 久保田万太郎集
斎藤茂吉集
島木赤彦 岡麓 中村憲吉 他集
魚住折蘆 安倍能成 阿部次郎 他集
千家元麿 山村暮鳥 福士幸次郎 他集
佐藤春夫集
芥川龍之介集
山本有三 菊池寛集
水上滝太郎 豊島与志雄 久米正雄 他集
宇野浩二 広津和郎集
室生犀星 萩原朔太郎集
滝井孝作 網野菊 藤枝静男集
葛西善蔵 相馬泰三 宮地嘉六 他集
尾崎士郎 石坂洋次郎 芹沢光治良集
横光利一 伊藤整集
川端康成集
大仏次郎 岸田国士 岩田豊雄集
片上伸 平林初之輔 青野季吉 他集
宮本百合子 小林多喜二集
葉山嘉樹 黒島伝冶 平林たい子集
中野重治 佐多稲子集
村山知義 久保栄 真船豊 他集
前田河広一郎 徳永直 伊藤永之介 他集
小林秀雄集
林房雄 亀井勝一郎 保田与重郎 他集
牧野信一 稲垣足穂 十一谷義三郎 他集
梶井基次郎 外村繁 中島敦集
堀辰雄 三好達治集
井伏鱒二 上林暁集
河上徹太郎 山本健吉 吉田健一 他集
金子光晴 小熊秀雄 北川冬彦 他集
尾崎一雄 中山義秀集
林芙美子 宇野千代 幸田文集
武田麟太郎 島木健作 織田作之助 他集
高見順 円地文子集
丹羽文雄 岡本かの子集
阿部知二 丸岡明 田宮虎彦 他集
中島健蔵 河盛好蔵 中野好夫 他集
石川達三 火野葦平集
石川淳 安部公房 大江健三郎集
太宰治 坂口安吾集
中村光夫 唐木順三 臼井吉見 他集
本多秋五 平野謙 荒正人 他集
椎名麟三 梅崎春生集
野間宏 武田泰淳集
加藤周一 中村真一郎 福永武彦集
森本薫 木下順二 田中千禾夫 他集
花田清輝 杉浦明平 開高健 他集
大岡昇平 三島由紀夫集
井上靖 永井龍男集
堀田善衛 遠藤周作 井上光晴集
阿川弘之 庄野潤三 曽野綾子 他集
深沢七郎 三浦朱門 有吉佐和子 他集
島尾敏雄 小島信夫 安岡章太郎 他集
現代名作集(一)
現代名作集(二)
現代詩集
現代歌集
現代句集
文芸評論集
現代評論集

なぜか佐々木信綱の名前が出てきません。

94巻に「現代歌集」というのがあります。掲載されている歌人をたしかめてみました。
 現代日本文学大系94 現代歌集

尾上 柴舟 , 尾山 篤二郎 , 西村 陽吉 , 松倉 米吉 , 土田 耕平 , 石原 純 , 松村 英一 , 五島 茂 , 結城 哀草果
, 吉野 秀雄 , 岡山 巖 , 渡邊 順三 , 坪野 哲久 , 佐藤 佐太郎 , 山口 茂吉 , 前川 佐美雄 , 宮 柊二
, 近藤 芳美 , 木俣 修 , 大野 誠夫 , 中野 菊夫著 , 鹿兒島 壽藏  
残念ながらここにも見つかりません。
この探索はあきらめて、同じく「死蔵」本の「研究資料現代日本文学 第5巻 短歌」(明治書院)というのを開いてみました。すると、歌人の活動年代順に、佐佐木信綱/
与謝野鉄幹/ 与謝野晶子/ 正岡子規/ 窪田空穂らが紹介されており、奇しくも最後が佐佐木幸綱でした。
巻頭に「概説 近代から現代の短歌」という記事があり、こんな一節があります。
近代短歌の潮流をたどるならば、明治二十六年に創設された落合直文の「あさ香社」であろうl。ここに参じた若い人びとによって、新派和歌の黎明期がはじまる。与謝野鉄幹は明治三十二年に新詩社を結成し、伝統の枠にしばられることなく、自己の声を信じることを中心におこうとした。また、尾上柴舟や金子薫園は、短歌における前期自然主義の役割をにない、みずみずしい自然を純粋に描出しょうとした。近代の源流、いわば前近代をふまえた歌人は、あさ香社の流れをくむものばかりではなかった。明治三十一年に『心の花』を創刊した佐佐木信綱は、伝統との折衷を残しながらも<広く深くおのがじしに>を提唱する。また、明治三十二年に根岸短歌会をおこした正岡子規は、伊藤左千夫や長塚節とともに、<写生>によって対象をリアルに見ようとする機連を培っていた。
自然主義の動きと関連するものではなかったが、広い意味でのリアリズムにつながるところがあった。

こうした三、四の風潮が渦巻いていたことによって、そこから新しい世代が輩出されたことによって、 自然主義を十分に消化しうる状況を迎えることができたのである。明治の二十年代と三十年代というものは、短歌が私性をとらえる文学として近代化するまでの、輝かしい前近代とみなすことができる。
 
『心の花』についてはこうあります。
心の花 (創刊の契機)明治三十一年一月、竹柏会の機関誌『いさゝ川』を終刊した佐佐木信綱は、同年二月『心の花』を創刊した。(創刊号の表紙は「古々露の華」。初期には「こゝろの華」、「ココロのハナ」等とも表記したが、第八巻以後「心の花」に統一した)。創刊号の奥付には、編集人石博辻五郎(千亦)、発行人井原豊作(義矩)とある。二人とも竹柏会の会員であった。新派和歌革新運動のさ中の時期である。新派と旧派の橋渡しの役を.、それには単なる竹柏会の機関誌から脱皮すべきである、という考えが創刊の契機であったようだ。翌三十二年、鶯蛙吟社の『詞林』と合同し、正岡子規をはじめ根岸派の歌人たちにも場を提供したのもそのためであった。誌名は、創刊号掲載の信綱の「われらの希望と疑間」に、<花てふものなからましかば、春秋のながめもいかにさびしからまし。歌てふものなからましかば、人々のおもひをいかでかやらむ。歌はやがて人の心の花なり。>による。
竹柏会短歌雑誌『心の花』は、今日もなお、信綱のお孫さんの佐佐木幸綱さんを編集発行人として、継続して発刊されています。(詳細はこちらのHP参照)
このHP内の心の花の歌人2のページから代表歌を引用させていただきます。
 願はくはわれ春風に身をなして憂(うれひ)ある人の門(かど)をとはばや

幼きは幼きどちのものがたり葡萄(ぶどう)のかげに月かたぶきぬ

春の日の夕べさすがに風ありて芝生(しばふ)にゆらぐ鞦韆(ゆさまり)のかげ

うつらうつら眠(ねむり)催す馬の上に見えては消ゆる古さとの庭

大門(だいもん)のいしずゑ苔(こけ)にうづもれて七堂伽藍(がらん)ただ秋の風

野の末を移住民など行くごときくちなし色の寒き冬の日

虻(あぶ)は飛ぶ、遠いかづちの音ひびく真昼の窓の凌霄花(のうぜんかづら)

山の上に初春きたる八百(やほ)あまり八十(やそ)のみ寺は雪に鐘(かね)打つ

誰(たれ)と知らず何処(いづこ)と知らずつくづくと冷たき眼して我を眺(なが)むる

ぽつかりと月のぼる時森の家の寂しき顔は戸を閉(と)ざしける

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

まつしぐら駒(こま)走らして縦横(じゆうわう)に銀の鞭(むち)ふる秋風の人

万葉集巻二十五を見いでたる夢さめて胸のとどろきやまず

現実の暴露(ばくろ)のいたみまさやかにここに見るものか曼珠沙華(まんじゆしやげ)のはな

人の世はめでたし朝の日をうけてすきとほる葉の青きかがやき

敷島のやまとの国をつくり成(な)す一人とわれを愛惜(をし)まざらめや

うぶすなの秋の祭も見にゆかぬ孤独の性(さが)を喜びし父

いつまでか此のたそがれの鐘はひびく物皆うつりくだかるる世に

道の上に残らむ跡(あと)はありもあらずもわれ虔(つつし)みてわが道ゆかむ

山の上にたてりて久し吾(われ)もまた一本(いつぽん)の木の心地するかも

白雲は空に浮べり谷川の石みな石のおのづからなる

山にありて山の心となりけらしあしたの雲に心はじまる

何をかもいきどほろしみこれの埴輪口くひしばり太刀(たち)ぬかむとする

少女なれば諸(もろ)頬につけし紅(べに)のいろも額(ひたひ)の櫛(くし)も可愛(かな)しき埴輪

春ここに生るる朝の日をうけて山河草木(さんかそうもく)みな光あり

あき風の焦土(せうど)が原に立ちておもふ敗(やぶ)れし国はかなしかりけり

あまりにも白き月なりさきの世の誰(た)が魂(たましひ)の遊ぶ月夜ぞ

人いづら吾(わ)がかげ一つのこりをりこの山峡(やまかひ)の秋かぜの家

花さきみのらむは知らずいつくしみ猶(なほ)もちいつく夢の木実(このみ)を
また、佐佐木信綱顕彰会のHPには、信綱かるたと銘打って代表作品五十首がカルタになっており、朗詠も聞くことができます。
幼き日の孫、幸綱を詠んだ歌もあります。



余談はこれくらいにして(笑)、次が本題。

佐佐木信綱の第一歌集は「思草(おもいぐさ)」でした。

ところで、彼は、万葉集の研究家としても知られますが、その万葉集に「思い草」を詠んだ歌が一首あります。

道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ (巻十2270)

【解釈】道端のススキの根もとで、うつむいて物思いしているような思い草のように、今さら改めて何を思い悩んだりしましょうか。

「さらさらに」は、風にそよぐススキの葉音であり、今更の「さら」でもあります。「さらに」という副詞は、下に打ち消し語を伴って「いっこうに、少しも、決して~ない」の意を表す事も多いおきまりの表現です。何をか思はむ」は、「何をもの思いしようか、いやしない」の意の反語表現です。「恋人の愛を信じているが故に、物思いはしない」との解釈がある一方で、「失恋の痛手を振り切って、きっぱりあきらめようとけなげに決断している」との解釈もされます。

ススキの根本で物思いにふける「思い草」とは?いろいろな植物が推定されていますが、最も有力とされるのはナンバンギセル(南蛮煙管)だそうです。この植物名は、寄生植物として、理科で習いましたっけ。

本居宣長『玉勝間』の、この記述が典拠とされます。

   お も ひ 草 十三

   末ひろくしげりけるかな思ひ草 を花が本は一もとにして
かくよめるこゝろは、戀の歌につねに、尾花がもとの思ひ草とよむなるは、そのはじめを尋ぬれば、萬葉集の十の卷に、「道のべのをばなが本の思草、今さらに何物か思はむ、といへる歌たゞ一(ツ)あるのみにて、これをおきては見えぬ事なるを、此一本によりてなむ、後にはひろくよむことゝなれるよしをよめるにぞ有ける、そも/\此思ひ草といふ草は、いかなる草にか、さだかならぬを、一とせ尾張の名兒屋の、田中(ノ)道麻呂が許より、文のたよりに、今の世にも、思ひ草といひて、 すゝきの中に生る、小き草なむあるを、高さ三四寸、あるは五六寸ばかりにて、秋の末に花さくを、其色紫の黒みたるにて、うち見たるは、菫(すみれ)の花に似て、すみれのごと、色のにほひはなし、花さくころは、葉はなし、此草薄(すすき)の中ならでは、ほかには生ず、花のはしつかたなる所の中に黒大豆ばかりの大さなる実のあるを、とりてまけば、よく生る也、されどそれも、薄の下ならでは、まけども植れども、生ることなし、古の思ひ草もこれにやあらむ、



若杉原生林で、道の辺にひっそりとたたずんで、物思いにふけっていました。











図鑑などでは紫色のものがよく紹介されていますが、白いものもあるようです。

名前を忘れてしまわないように、イチローさんのメモを写して帰りました。



今日はこれにて。

白く紅く木の花匂ふ森しづか [友人]

この季節、山には白い花が映えると、アキコ夫人がおっしゃっていたとイチローさんがおっしゃいます。この日、アキコさんは、靱帯損傷の怪我が癒えきらず、山歩きは遠慮された由でした。
しからば、白い花の情報をお土産にしようという次第。
ここにも、山法師(ヤマホウシ)が花盛りでした。



ここにも白い花。



親切に説明板が設置してあります。
沢蓋気(サワフタギ)、別名綿織木(ニシゴリ)だそうです。テニスの名手も、一族でしょうか?

これも白い花。







藪手鞠(ヤブデマリ)だそうです。
剪定ばさみで整えたような風雅な樹形です。





白ばかりでなく、ピンクの花も目につきます。











あれは何だろうという話題に反応して、当て推量に「ウツギの一種かな?」と言ってみますと、サブローさんも肯いて、「県外の友人が.白いウツギは見慣れているけどピンクのは珍しいという。我が家の周りの山にもたくさんあるので、枝を切ってあげた」とのこと。

そういえば、過去に記事でも、ウツギの種類について、聞きかじりを書いていました。

卯の花を簪にアジアイトトンボ

長くなりますが、一部を再掲します。







 マクロレンズを持って深山公園に行った時、目を引かれたこの花。



「ウ
ツギの花」と表示がありましたが、そういえば、幹が空洞なので空木(ウツギ)と名づけられ、「ウツギの花」がつづまって「ウノハナ」と呼ばれるようになっ
たとか、「ウノハナ」が野山を一面に彩る季節を「卯月(ウヅキ)」=旧暦四月の異名とよぶようになった、などの知識は、耳にもし、人にも語った事があった
はずでしたが、すっかり忘れておりました。

翌日、田舎の実家に帰る途中、ちょっとだけ立ち寄った「自然保護センター」でも、あちらこちらにこの花が咲いておりました。







同じ「ウツギ」の名がつく木に、幾つもの品種があるそうですね。この紅白の色鮮やかなのは、「源平ウツギ」?---「ハコネウツギ」でよろしかったかしら?



最初に紹介した真っ白い「ウツギ」=「ウノハナ」は、ユキノシタ科だけれど、この「ハコネウツギ」はスイカズラ科タニウツギ属だそうですね。赤い花を咲かす「タニウツギ」もよく庭木などとして珍重されるそうです。

ころで、昔(結婚したばかりの二〇代の頃)、ご近所さんからウツギの株を戴いて、各地を引っ越しする度に移植に移植を重ねてきました、丈夫な木で、ほとん
ど世話もしないのに、初夏(梅雨)の頃、律儀に可愛い花を咲かせてくれていました。余りに丈夫な木なので、切り詰めるだけ切り詰めて、世話らしい世話もし
ないでいるうちに、いつの間にか枯れてしまったようです。思えば、不憫なことをしました。
今では不確かですが、それは「タニウツギ」だったでしょうか?
芭蕉の「奥の細道」に登場する「卯の花」は、冒頭の写真の真っ白いウツギの花でしょうね。




「白川の関」     奥の細道

許なき日かずかさなるまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心を
とゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。
古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良 


【解釈】
わたくし芭蕉は、旧暦の四月二十日(新暦六月七日)、那須湯本から芦野の「遊行柳」を経て更に北へと旅し、国境をめざし、そのまま奥州街道を北へ歩いて白河(白川)領に入りました。

たくしは、3月に江戸を出発しました時から、歌枕(つまり古歌に歌われた名所)としてチョー有名な「白川の関」を訪ねてみたいとずっと思っておりましたの
じゃ。とっく昔に廃止されて何百年も経っておりますから、その場所は言い伝えによるしかないのですが、このあたりだったことは間違いありますまい。 
なかなか旅に慣れることができず、気持ちばかりがはやって着かない日々を重ねるうちに、目的の白河の関にさしかかり、ようやく本腰入れて長旅を続ける心構えが定まりましたわい。
むかし、平兼盛が、「たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと(「拾遺集」)」と、何とかして関越えの感動を都の人に知らせたいと歌ったのももっともですなあ。
 
数ある中でもこの関は、奥州三関の一つに数えられ、風雅を求める人が心を寄せた場所ですじゃ。わたくしの尊崇する旅の歌人西行法師も、「白河の関屋を月の
もるかげは 人の心をとむるなりけり(「新拾遺集」)」と詠んでおりますわい。また、能因法師が、「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関
(「後拾遺集」)」と詠んだ「秋風」の音を耳に聞き、同時に、「都にはまだ青葉にて見しかども 紅葉散りしく白河の関(「千載和歌集」)」という源頼政の
歌の「紅葉」を思いながら、眼前の青葉のこずえをながめていると、実にしみじみと心が動かされることですぞ。
折しも目の前には、青葉の中に卯の花が真っ白に咲いているところに、茨が白く咲き添って、まるで雪の中を、関を越えているような心地がいたします。ホント、いろんな季節がいっぺんに楽しめるようですわい。
この関を通るとき、古人(竹田大夫国行)は(能因法師の歌に敬意を表して)冠を正し、衣装を改めたと言うエピソードが、藤原清輔の「袋草紙」に書きとめられているそうですな。わたくしら一行にはその用意もありませんので、同行の弟子、曽良がこう詠んだものでした。
やつれた旅姿の私どもは、晴れ着の持ち合わせもございませんから、せめて卯の花をかざし(=かんざし。髪飾り)にして関を通ることにいたしましょうぞ。


そういえば、『奥の細道』では、奥州平泉を訪ねた場面でも、卯の花が登場します。

「平泉」の段については、以前、この記事でも触れたことがありましたが、今回はもう少し長い引用におつきあいください。

平泉

 
三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河
なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、えぞを防ぐと見えたり。さても、義臣すぐ
つてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり。」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。
  夏草やつはものどもが夢の跡
  卯の花に兼房見ゆる白毛かな  曾良 


【解釈】
   平泉
 奥州藤原氏三代の栄華も一眠りの短い間の夢のように、すっかり滅びて潰(つい)え去り、見渡せば、平泉館の大門の跡が一里ほど手前にあるわい。秀衡の住んだ館の跡は田野となって、彼が築いた金鶏山だけが当時のままの姿をとどめておる。
かくまわれた義経らの住まいであった高館に、まず登ってみると、北上川が眼下に見えるのお。これは南部地方から流れて来る大河じゃ。衣川は、忠衡の居城であった和泉が城を巡って、高館の下で北上川に流れ落ちておる。
泰衡らの住まいの跡は、衣が関の向こう、南部地方からの出入り口を固め、外敵の侵入を防ぐと見受けられる。
それにしても、義経は忠義の家来を選りすぐって、この高館にこもり、奮戦して名声を轟かせたが、それもひとときの夢と消え、その戦場のあたりは、いま、夏草が生い茂る草原となっておるわい。
国はほろびたが、山河は以前と変わらずにある。町には春が来て、草は青々と生い茂っている。」と、杜甫の「春望」の詩の一節を口ずさみ、笠を敷いて腰を下ろし、長い時間涙を落としてしまいましたよ。
その場で詠んだわたくしの句はこれです。
青々と生い茂る夏草!この野原は、昔、義経主従らが功名を求めて奮戦した末に、はかなく消えた名残の場所であることよ。

同行の弟子、曾良はこの句を詠みました。

白く咲く卯の花を見ていると、昔ここ高館で、主君義経のために白髪をふり乱して奮戦した老将兼房の姿が浮かんでくることだよ。            


これがピンクの花だったら、紅顔の若武者を連想させたかもしれませんね。

念のためにウィキペディアを参照してみますと、タニウツギについてこうありました。







 タニウツギ(谷空木、学名:Weigela hortensis)はスイカズラ科タニウツギ属の落葉小高木で、田植えの時期に花が咲くので「田植え花」としても知られる。梅雨の時期に山道を通ると新緑の中で咲くピンクの花はひときわ映えて見えるので見つけやすい。

やはり、タニウツギで正解でしょうかね?



ところで、いつものことながら、この散策の企画と運営をすべて取り仕切ってくださたヨシミさんから、ちょっと前、この同様の歌詞について尋ねねられたことがありました。彼女は、しばしば、ギター片手に歌声のボランティアをしておられますので、みんなでこの歌を歌う際に、歌詞が気になったということらしいです。





歌詞 『夏は来ぬ』

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて

忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の

窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ


特に、3番の「 窓近く 蛍飛びかい おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ」の歌詞の意味が、おたずねの中心でした。

そういわれるとこの歌、一番の歌詞はなじみが深く「夏は来ぬ」の「きぬ」「待てど暮らせど来ぬ人の宵待草のやるせなさ」の「こぬ」を見比べて、古典文法の説明によく使いますから。

たとえばこの記事(秋立つやなまあたたかきかぜなれど)では、こんな説明をしています。

 「来ぬ」は、「きぬ」と読みます。カ行変格活用の「来(く)」の連用形に、完了・強意の助動詞「ぬ」の終止形がついたもので、「来た。来てしまった」の意味になります。

もしこれを「こぬ」と読むと、 カ行変格活用の「来(く)」の未然形に、打消の助動詞「ず」の連体形がついたことになり、「来ない」の意味になります。


「ぬ」は連用形接続、「ず」は未然形接続の助動詞ですから。→試験に出るよ(笑)。

2番目以降の歌詞は、見たことはあったにしても、しっかりと記憶にとどめてはいないことに気づきました。おたずねの箇所などは特に、意識もしていませんでした。

とりあえずは、こんな返事を返しておきました。
 おこたりは、怠り、つまり怠けることでしょう。蛍雪の功のエピソードが踏まえられていて、蛍が学問への怠け心を諌め、叱咤激励してくれるというようなことでは?こんな歌詞があること気がつきませんでしたが。

道中、これを話題に「夏は来ぬ」談義に少々時間を費やしました。

その話題の一つ。この同様の作詞者が、佐佐木信綱であったこと。

その孫(間違えてこと言ってしまいましたが)佐佐木幸綱は、俵万智の師であったことなど。

調べてみると、佐佐木信綱の出身地鈴鹿市のHPに、佐佐木信綱記念館のページがあり、こんな記事が掲載されていました。

 明治5年6月3日、佐々木弘綱(文政11~明治24年)の長男として、信綱は現鈴鹿市石薬師町に生まれ、6歳(以下、数え年)までを過ごしました。信綱は5歳より、父弘綱から「万葉集」や西行の「山家集」の歌を暗唱するよう教えられ、6歳の時に初めて短歌を作りました。
 信綱は6歳から短歌を詠みはじめ、生涯に1万余首を作歌し、第1歌集『思草』(博文館 明治36年)から第9歌集『山と水と』(長谷川書房 昭和26年)や『佐佐木信綱歌集』(竹柏会 昭和31年)など、多くの歌集を刊行しました。また、明治30年頃より竹柏会を主宰し、機関誌『心の花』の創刊(同31年)や門人の育成・指導にあたるなど、歌人として活躍しました。
 一方、信綱は学者として、特に万葉集の研究者として、不滅の大業というべき『校本万葉集』(校本万葉集刊行会 大正13~14年)を刊行するなど、万葉集の研究と普及に尽力しました。
 そして、昭和12年4月28日、信綱は第1回文化勲章を受章しました。信綱は和歌・和歌史・歌学史の分野で認められ、66歳で受章となりました。
 このほか、信綱は忙しい著作の合間に、唱歌「夏は来ぬ」(小山作之助作曲)や童謡「すずめ雀」(滝廉太郎作曲)、軍歌、北海道から九州までの学校校歌等の作詞を多数手がけました。
 晩年は、静岡県熱海市の凌寒荘へ移り、約20年間過ごしました。この間、歌人・万葉学者としての集大成である著作物の数々や、『ある老歌人の思ひ出』(朝日新聞社 昭和28年)などの自伝をまとめました。
 昭和38年12月2日、信綱は凌寒荘にて92歳で亡くなりました。信綱はその一生を歌道と万葉集研究に捧げ、多くの業績を残しました。

■信綱は、なぜ「佐佐木」か?

 信綱は明治36年(32歳)、中国へ遊学をしました。
 その時に上海で名刺を作りましたが、出来上がってきた名刺は、紅唐紙(縦約24cm×横約12cm)に「佐佐木信綱」と印刷されていました。

 この名刺を見て信綱は「見た目がよい」と大変気に入り、以後の著作物などに好んで「佐佐木信綱」と使うようになりました。

さて次回は、この佐佐木信綱つながりの記事を少々書く予定です。



今日の午後、参議院選挙に向けた演説会があります。

野党統一候補の黒石健太郎さんが登場します。

日本共産党市田忠義副委員長も。

その市田さんのHPにこんな記事を見つけました。胸を打たれましたので無断で紹介させていただきます。

 母の句集に寄せて

 七十歳を過ぎてから短歌を作り始めた義父(妻の父)が、人生の証にと歌集「朝暮」を自費出版した。今年で八十八歳、米寿である。全くの偶然だが私の母も今年米寿をむかえた。けっして上手とはいえないが母は俳句を作る。
 父亡きあと、必死で働きながら私たちを育ててくれた母。なんの親孝行もせず、逆に心配ばかりかけてきた。せめてそのつぐないに句集でもと思いたち、妻や兄弟に相談したところ「それはよい、父と母の米寿を祝い、歌集と句集の出版記念会でもやろう」と話がまとまった。
イラスト  昨年夏の参議院選挙、京都市長選挙、そして今年の総選挙と知事選挙。私にとっては多忙きわまる時期であった。しかし、仕事のあいまをぬって滋賀県の実家に帰って母の作った俳句や短歌のノート、同人誌「木耳」などをもちかえった。選挙の連続で帰宅は深夜になることが多かったが、晩酌をしながら夜中に母の作品を整理するのは私の楽しみでもあった。
夜学び昼は勤めて得しお金肉など買えと送りてくれぬ
母がこんな歌を創っていたことなどまったく知らなかった。私が法律事務所や龍谷大学の図書館に勤めながら立命の二部に学び、わずかばかりの仕送りをしていた頃の歌だと思う。おもわず涙がこぼれた。
新しき学生服やピカピカの自転車届く暮れの園舎に
これは、母が幼稚園に住みこみで用務員として働いていた頃の歌である。高校一年だった私と中学一年の弟も一緒に住みこんでいた。高校を卒業して京都に就職していた兄が私に通学用の自転車を、弟には学生服を送ってくれた。とびあがって喜んだことを昨日のことのように思い出す。
我に似ず目鼻調う子に生まれ婚期来たれど嫁ぐといわず
父が死んだため、恋人との結婚を先にのばし、旭村役場(現在の五個荘町役場)につとめて一家をささえてくれていた姉のことをうたった歌である。
母は「まえがき」に「兄は弟を可愛がり、娘は父亡き後の一家を支え、文字どうり家族が肩を寄せ合って生き抜いてまいりました。」と書いている。
母のいうとおり、とくに姉と兄、そして現在滋賀県で母と一緒にくらし、世話をし てくれている弟夫婦には私自身も感謝の気持ちでいっぱいである。
いろんなことを心の中で思いめぐらしながら必死で整理した。
母はなかなか達筆だが楷書ではないし、変体仮名を使うのでノートや手紙の字は私には読みづらい。「この字はなんと読むのか」とよく母に電話をした。ふだんは、二、三ヵ月に一度ぐらいしか電話をかけないが、句集発行のおかげで月に何度も母の声を聞くことができた。
「忙しいのにすまんなあ」と恐縮しつつ、母も私の声を何度も聞いて喜んでくれている様子であった。
とにかく、ようやく一冊の本にまとめることができてホッとしている。俳句としてのできばえがどうかは素人の私にはよくわからない。季語のない句もある。本人も、「本にするようなものではない、はずかしい」といっていた。しかし、つたなくとも母にしか表現できないなにかがにじみでていて一つひとつの作品が私の胸をうつ。
母思い汲み置きくれし水槽の水一滴も無駄に使はず 
迫りくる積乱雲におびえつつ車引く足いとどせかるる
はじめに書いたように母は幼稚園の用務員として、住み込みで働いて私たちを育て、学校へかよわしてくれた。園児たちが手を洗ったりするための水槽に、手おしポンプでくみ出した水をいっぱいためるのが、毎朝の私と弟の仕事であった。母が病気のときは学校を休んで、少し離れた小学校へリヤカーをひいて給食をとりにいったこともあった。
この頃の園児たちが、二十年、三十年たった今も、時々嫁ぎ先から郷里にもどってくると母に「お元気ですか」「長生きしてくださいね」と激励にきてくれるそうである。
母は自分の子はもちろん、人の子も自分の子供のようにかわいがった。そして自分も貧乏をしているのに、困っている人をみるとじっとしておられない性格である。
人間にも動物にも自然にたいしても、――この世のすべてにやさしく、あたたかい。それが俳句にも短歌にもにじみでているように思う。
病む足も忘れ夕餉の一刻はギターに合せ我も唄えり
百万の富よりなお尊きは母子団欒(まどい)の夕餉一刻
食後の団らんの際に母から教わったことは多い。昔から小説や歌をはじめ本を読むのが好きであった。大変なロマンチストでもある。学校で習ったことよりも母から聞いた昔話や故事、ことわざの方をいまもよく覚えている。「人間万事塞翁が馬」だとか「燕雀何んぞ鴻鵠の志を知らんや」などということばはたしか幼い頃、学校で学ぶより早く母に教わったように思う。
母はまた「影をしたいて」「国境の町」など藤山一郎や東海林太郎の歌が大好きで、よく一緒に唄ったものである。
気が弱く涙もろいが、正義感が強く、まがったことがきらいなのも母の特徴である。
私が竜大の図書館をやめ日本共産党の専従活動家になったとき「なにもお前がせんとうにたたなくとも」と当初はしぶっていたが、いまでは心から応援してくれている。
まだまだ反共風土の根強い滋賀県の田舎で「忠義さんはどこにお勤めですか」と近所の人に聞かれて「日本共産党です」というのは、はじめはいいづらかったにちがいない。しかし今は、「なんにも息子は悪いことはしていない。人のため、世のためにがんばっている」と胸をはってのべているそうである。
私は実に多くのことを母から学んだように思う。兄にも姉も弟もおそらく同じ気持ちだと思う。
あらためて心から「ありがとう、お母さん」といいたい。
米寿とはいっても現在の平均寿命から考えればそんなに年老いたわけではない。大西良慶さんの例もある。いつまでも元気で長生きして俳句をつくりつづけてほしいし、子や孫たちを見守ってほしい。
そしてこんどは白寿を記念して第二の句集をもう一度みんなでつくってみたいと思う。
               1990年5月     市田 忠義 
(この文章は、市田志ん句歌集「幾山河」のあとがきとして書いたものです。なお母は、1993年6月、89歳で亡くなりました)

今日はここまで。

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