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夏の終わりの土佐の旅、の巻(その3) [折々散歩]

しのぎやすくなりました。

昨日の朝はこんな感じでした。



さわやかな朝散歩ができました。











水たまりに映る空。





農業用水路に映る空。





朝焼けの空。







次は昼間の青空です。



1歳児の孫娘が40度近い発熱で、保育にいけませんので、昨日はママが早退して医者に連れて行くまでの間、午前中ジイジがお相手をしていました。今日は、ママも休暇を取って家にいますが、中1生と小3生の宿題総仕上げのためにつきっきり。1歳児をしばらく預かります。家の中ばかりでは退屈するので、時々外につれて出ると気が紛れます。涼しくてよいのですが、強い風が気にはなります。

夏休み最終日の兄弟は、それぞれ懸案の日記、作文、絵画を仕上げることができました。自由研究、セミの抜け殻調べも完成させました。この写真は途中経過で、完成番は撮り損ねました。





さて前回記事のつづきです。

高知の旅二日目の、朝食前の朝散歩で、まだ準備中か、開店早々の日曜市をぶらりあるいてみました。

高知は刃物の伝統的産地です。

とりどりの刃物が所狭しと並べられています。







木彫りのマスコット。



手作り銅細工。











みずみずしい新鮮野菜、果物。















薬草、民間薬、健康食品が多彩。



















季節の木の実、果物、野菜。











冷えた飲み物が涼を演出します。



なかなか本題に入れませんが、今日はここまで。
まだまだ次回に続きます。

夏の終わりの土佐の旅、の巻(その2) [折々散歩]

今回の高知行は、美作北部に住む木工作家サブローさんが、会場で展示・紹介するために作品を自動車で運ぶついでに、県南部在住のヨシミさんと私を途中で拾って、一緒に連れていってくださいました。いずれも当ブログの常連の登場人物です。
↓この記事では、工房の様子も紹介しました。
◆故旧あい集いし森の青胡桃
会場で作品を展示・紹介するサブローさん。

会場は高知城の近くでしたので、車で通りかかる頃、お城にまつわる学生の頃の思い出などが話題になりました。
「高知城は国宝だったかなあ」
「違うよね」
「重文(重要文化財)だったかなあ」
「小さな、地味な城だけど」
「城内に”ここで昼寝をしないでください”という掲示があった。学生だけでなく一般観光客に向けたものだった。実際に昼寝する人がいたんだろうね」
「今ならホームレスということもあるけれど、当時はまれだったろうし」など。
翌朝、朝飯前にお城を散歩してみました。
「国宝」の看板が大きくありました。


高知城のhpによると、昭和9年 1934 国宝に指定され、その後法規定の変更により昭和25年、文化財保護法により重要文化財となったそうです(昭和25年8月29日)。


高知城の重要文化財(重要文化財指定書及び附書より)は、次の十五棟だそうです。

天守

四重六階天守、本瓦葺

懐徳館(本丸御殿)

上段ノ間(床、棚、書院附)、二ノ間、三ノ間(茶所附属)、四ノ間、納戸、三畳二室、雪隠、入側、板間及び縁側より成る。一重、入母屋造、本瓦葺、溜ノ間(十三畳、七畳半、九畳及び四畳)及び玄関付属する

納戸蔵

八畳三室、四畳及び縁側より成る、一重、入母屋造、本瓦葺

黒鉄門

櫓門、入母屋造、本瓦葺

西多聞

一重櫓、本瓦葺

東多聞

一重櫓、本瓦葺

詰門

櫓門、北面入母屋造、南面廊下門に接続、本瓦葺

廊下門

櫓門、入母屋造、本瓦葺

追手門

櫓門、入母屋造、本瓦葺

天守東南矢狭間塀

延長六一・二メートル、銃眼十五所、本瓦葺

天守西北矢狭間塀

延長五・八メートル、本瓦葺

黒鉄門西北矢狭間塀

延長二三・〇メートル、銃眼五所、本瓦葺

黒鉄門東南矢狭間塀

延長一四・六メートル、銃眼三所、本瓦葺

追手門西南矢狭間塀

延長七一・二メートル、銃眼十三所、本瓦葺

追手門東北矢狭間塀

延長二七・六メートル、銃眼五所、本瓦葺




そういえば3年前の記事◆高知の夏は、静かな雨だった。にも「国宝高知城」と書いていましたっけ。

日曜市を歩いて、こんな記事も書きました↓。

あれま、動画撮影モードだった。とほほ。

3年前は雨で暗かったのと、カメラを動画モードで写したのが失敗で、後悔したのですが、今回はどうでしょう?



前夜の雨で、槙の葉に雫は宿っていましたが、雲間から朝日が射しています。



高知城の朝景色をアトランダムにのせておきます。

八月終わりの高知城朝景色

八月終わりの高知城朝景色 posted by (C)kazg 八月終わりの高知城朝景色

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八月終わりの高知城朝景色 posted by (C)kazg 八月終わりの高知城朝景色

八月終わりの高知城朝景色 posted by (C)kazg 



このあと日曜市が始まったばかりの街道ををぶらりと散歩して、コンビニで朝食のパンと牛乳を仕入れてホテルに帰着。そのあと、学生時代、下宿先も専攻もサークルも読書の嗜好も共通という、奇しき友人ハチロークンと連絡を取り、弥次喜多プチ散歩を企画しましたが、その顛末は次回に。

前回書いた「二つめの目標」とは?

それも次回に続きます。

きょうはこれにて。



夏の終わりの土佐の旅、の巻(その1) [友人]

重い地響きを伴って、ドン、ドンと鈍い重低音が繰り返し鳴り響いて、体の芯に不吉な胸騒ぎを感じて目が覚めました。午前3時頃でした。

落雷のような爆発音という形容はあるでしょうが、反対に空爆かミサイル攻撃の轟音かとまがう連続的な雷鳴でした。冗談ではなく、爆弾でなくてほっとしました。にわかに雨音が強まり、風の音も混じります。台風の影響もあって、お天気が不安定になっているのでしょうか。

中途半端な時間に起こされて、寝付けなくなってしまいました。昨夜から気になりはじめていたこともあり、雷が遠ざかるのを待って、寝室のパソコンのスイッチを入れ、ネット検索などするうちに夜が明けました。朝から大雨・洪水の警報が出ていて、大荒れの天気でしたが、夕方にはすっかり雨も上がり、夜筒もに肌寒いほどになっています。

実は、昨日、一昨日の土日に、高知まで一泊旅行をしてきました。

その目的は、三年前にブログを始めたばかりの書いたこの記事(◆夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて)から3年を経て、また開かれる同窓会に参加すること。

今回も喜寿を迎える方から還暦前の方まで、東は東京、西は宮崎から、世代を越えて集まり、夜遅くまで、楽しく交歓したことでした。

会場のある建物の一室の窓ガラスにはこんな紙が貼ってありました。



若い頃、私はルイ・アラゴンのこの言葉を、いろいろな機会に好きな言葉として引いたことがありました。このブログでも、過去記事のなかでいつか書いたかと思って探って見ましたが、思い違いのようでしたのようでした。ルイ・アラゴンで言うと、ヒロシマの「原爆詩人」峠三吉が愛した詩句として、「髪にそよぐ風のように生き、燃え尽くした炎のように死ぬ」(ルイ・アラゴン)を引用したことはありました。

◆なんと言っても峠三吉でした。

同期の友人で障害児教育の実践と研究を続けてきて、今岐阜で「発達・教育相談研究所」所長を務める石橋剛さんが、会の冒頭、「発達障害が生む新たな分断と選別」と題してプチ講演をしてくれました。副題は、「私たち中高年が今、できること」。子育てを終えて一息ついていたのに、まだ出番がもとめられるのか、と苦笑いさせられる一コマもありました。

土佐の名産料理と各地の土産・名酒を味わいながらの歓談では、学生時代の思い出話から、来し方行く末の話と、話題はつきません。趣味を広げ人生を楽しみ、かつ社会的活動にも旺盛にとりくむなど、現代の諸課題にたいしてもそれぞれのやり方でしなやかに立ち向かっておられる様子を窺うにつけ、深く感銘を受けるとともに、元気とエネルギーを充填することができました。

3年前の記事でもご紹介しましたが、大学同期の米田稔君(高知県議会議員)は、この会の実行委員の一人で、今回も閉会挨拶をしてくれました。



同じく同期で、病気のため勇退したものの高知県議を長く務めた牧義信君も参加してくれていました。学生時代に属したサークルは違うものの、同じ教育系サークルで、薄い間仕切りで隔てられた隣接する部室で活動していました。現在、伏見区を基盤に京都市議をしている赤坂仁君も、同期です。学生時代も、自治会執行委員長など、リーダーシップを発揮していました。そう言えば、学生自治会の委員長をつとめた歴代のメンバーが、サークルの隔てを超えて何人も参加してくれていました。全員を取り上げてご紹介したいところですが、限りがありませんので割愛します。世代はことなり、若干すれ違ってはいますが、やはり隣室の教育系サークルで活動し、自治会執行委員長等もつとめたという縁で、元衆議院議員の春名なおあきさんも、多忙な中出席。彼のブログの8月28日付け記事に、この会のことが掲載されています。一部引用しておきます。






 私は○研の部員ではなかったのですが、同じ教育系サークル「○○教育研究会」の一員で、○○文化研究会と合わせて教育系サークル”御三家”だったよしみで
混ぜてもらったものです。米田県議、牧元県議、赤坂仁京都市議など、そうそうたるメンバーが県内外から50名も参集、昔話と明日の未来に花が咲きました。

二次会までは参加して、まだ後ろ髪引かれる思いは残りましたが、三次会は遠慮してホテルに戻ることにしました。が、思いがけず、かなり激しい雨です。用意してきていた傘は、開会の前にチェックインしてホテルに預けておいたカバンの中に、入れたままでした。コンビニで傘を調達するというアイディアも浮かびましたが、ま、夏のことですので、濡れていくことにしました。あいにくチョンボは重なるもので、どこをどう歩いたか、かなりの大回りをして、ようやくホテルにたどり着いたことでした。

途中こんな碑がありました。







さすがに自由民権運動のメッカ。日常の当たり前さの中に、ごくさりげなく、数々の歴史の刻印がしるされていることに驚きます。

そういえば、昔、受験生時代の心境をこんな歌にしてみたことがありました。(◆悪夢のインフルエンザ体験(追憶の昔語り)参照 )

この土を  維新の志士も民権の若者達も踏みて駆けしや



ところで、今回の高知行にはもう一つひそかな目当てがありました。

昨夜から気になりはじめ、未明に雷鳴で目覚めた後寝付かれず、確かめるためにネット検索などに時間を費やしたのも、それに関わる件でした。

思わせぶりですが、委細は次回。今日はこれにて。

チョウのストック画像のつづきと、「トビモノ」少々、の巻 [折々散歩]



てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った

安西冬衛

前回につづき、この詩にちなんで、チョウのストック画像を掲載します。

ヒメウラナミジャノメ
ウラナミジャノメ posted by (C)kazg

ヒメウラナミジャノメ
ヒメウラナミジャノメ posted by (C)kazg

ヒメウラナミジャノメ
ヒメウラナミジャノメ posted by (C)kazg
漢字で書くと「姫裏波蛇目」。「裏波蛇目」よりも小型ということですか。
石の上のルリタテハ
石の上のルリタテハ posted by (C)kazg
「瑠璃立羽」です。
ミスジチョウ
ミスジチョウ posted by (C)kazg
「三筋蝶」とも「三条蝶」とも書くようです。

「トマリモノ」ばかりでなく「トビモノ」もあればよいのですが、最近のストックにはそれがありません。

オオスカシバでしょうか。

クチナシの木によくやって来ています。巧みなホバリングを見せてくれますが、すばしこく動き回るので、カメラを向けても、まともな画像が残りません。

それは、チョウではなくて蛾だろうですって?失礼しました。
では、ホバリングが得意なところで、、これはいかが?








県警ヘリ「わしう」だそうです。

今降りてきたこちらは、セスナ172 スカイホークだそうです。









上空を舞っているこちらは、Bombardier(ボンバルディア) DHC-8-300だそうです。カナダのデ・ハビランド・カナダ社が1980年代初頭に開発した双発ターボプロップ旅客機で、Bombardier社に買収された後も生産が続けられた由。これは、国土交通省航空局所有の機体であるようです。











子どもたちの夏休みも残りわずかとなりました。一昨日の水曜日、中学生の孫の宿題の「絵」の題材を求めて、バアバと弟も一緒に、「ロケハン」してみました。

児島湖の眺望。







遠くに常山を望む景観。







しかしやや曇り気味であるのと、風によって波立ち、水も濁っていて、ちょっとがっかりでした。

数日前のこんな情景を期待したのでしたが。















お天気の機嫌はママならず、なかなか思うようにはいきません。

別のスポットをtずねて少し場所を変え、四方をを眺めてみると、遠くに岡南飛行場が見えました。



いっそ、飛行場の側まで行ってみようということになりました。

これは先日の撮影です。



これほど青空が鮮やかではないですが、飛行機のいる風景も、子どもは無邪気に喜ぶのではと思ったのでした。







この飛行場は、以前は岡山の空の表玄関として、旅客機も発着していました。正月の民族移動のラッシュの緩和策として、かつて、一度だけこの飛行場からYS11に搭乗して東京羽田まで飛んだ経験があることは以前書きました。当時は送迎の客で賑わった展望デッキは、飛行場見学者に無料で一般開放されていいるので、せっかくの機会ですので、エレベーターであがってみました。

上の「トビモノ」の写真は、この展望デッキからのものです。









こんなかんかん照りの青空が、もう何日も続いていて、列島各地では豪雨災害に見舞われた方々も追いなk、少しは雨がほしい、等と口にするのはばかられますが、まさに本根。それが今日の夕方、県下広域に大雨洪水警報が発表されました。

それでもからからっからと言うのが最近の常なのですが。

今日は夕方にわかに雲が垂れ込めて風邪も出てきました。











この写真は、グラウンドがある場所から常山の方向を見たものですが、なぜここにいるのかというと、小3の孫のサッカーの練習に送ってきたところです。

今日はほとんど一日中、たまっていた宿題と格闘し、とどめはこれでした。

「警報も出ているし、雨が降りそうなのに練習はあるの?」と聞いてみると、孫の言うには「どしゃ降りでない限り決行と言われている.どしゃ降りになったら迎えに来て」とのことで。取りあえずそこにおろして家に帰りましたが、程なくして、にわかに土砂降りの雨が降り始めました。すわと、迎えに戻りますが、チームは雨の中練習を続けていますので、車の中で待ちます。まつこと、一時間半。結局予定時間の最後まで、濡れ鼠になって練習していました。ずぶ濡れで冷たくなった体を家まで送り届けましたが、なかなか記憶に残る一日ではなかったでしょうか?

今日はこれにて。


海峡を汝(なれ)も渡るか黒揚羽 [文学雑話]


てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った
安西冬衛

昨日の記事で引用した詩ですが、その「てふてふ」に、いろいろな蝶を当てはめて想像してみるのも楽しいのではないでしょうか?

たとえば、この記事で書いた、我が家の庭出身のツマグロヒョウモンとアゲハ。

◇庭で生まれたツマグロヒョウモンとアゲハのサナギ、の巻

アゲハの誕生は、こちらで書きました。


◇ウルフを倒した膵臓癌に思う、の巻

◇気になる都知事選、の巻

また、ツマグロヒョウモンの誕生はこちら。

雨の日の赤紫蘇調達、の巻


◇飼育中のツマグロヒョウモンすべて羽化、の巻


さらに、つい最近、クロアゲハも羽化しました。



























大海原を、風に吹かれながら、ひらひらと飛翔して行く姿は見られませんかね。

今日の付録は、これもつい先日、深山公園で写したツマグロヒョウモンです。

ツマグロヒョウモン♀

ツマグロヒョウモン♀ posted by (C)kazg ツマグロヒョウモン♀

ツマグロヒョウモン♀ posted by (C)kazg ツマグロヒョウモン♂

ツマグロヒョウモン♂ posted by (C)kazg ツマグロヒョウモン♂

ツマグロヒョウモン♂ posted by (C)kazg ツマグロヒョウモン♂

ツマグロヒョウモン♂ posted by (C)kazg ツマグロヒョウモン♂

ツマグロヒョウモン♂ posted by (C)kazg


いかめしい豹紋のチョウですが、飛翔力はさて、どうでしょう?韃靼海峡はもとより、瀬戸内海をさえ。渡りきることができますかどうか?



前回をまねて、これらのチョウの名を漢字で書いてみます。

アゲハチョウ=「揚羽蝶」

ナミアゲハ=「並揚羽」

クロアゲハ=「黒揚羽」

ツマグロヒョウモン=「褄黒豹紋

ずいぶん印象が変わるような気がします。

今日はこれにて


サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻 [文学雑話]

昭和初期の詩に

てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った
という、際だって短い作品があります。

ドイツ文学遊歩ホームページというwebサイトの、「ただ一度だけ」という項目の冒頭に、
◇ てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った。
と題する秀逸な文章が掲載されています。

nureinmal2.jpg

その一部を、無断で引用させて戴きます。


 

安西冬衛の一行詩「春」。
 詩集『軍艦茉莉』(昭和4年刊)所載。
 初出はその2年前、詩誌「亜」。
  「てふてふ」は旧仮名遣いで、今日では「ちょうちょう(蝶々)」。
 「韃靼海峡」はシベリアと樺太(サハリン)の間の海峡で「間宮海峡」のこと。
 作者は大連(旧満州)の港にいて、実際に蝶が一匹大陸から樺太の方に向かって飛んで行くのを見た、それがきっかけだという。
 とはいえ、想像やフィクションの要素がない、とばかりは言えないだろう。本当に一匹だったのか、春だったのか、など…。
 ともあれ、ある種の蝶は海を渡って移動する。
 アサギマダラという種類らしい。

asagimadara.jpg



アサギマダラ

以上がこの詩についての基礎知識。
 もともとは

 てふてふが一匹 間宮海峡を渡って行った  軍艦北門の砲塔にて

 となっていたらしい。
 さらに、もし「てふてふ」が「ちょうちょう」、「韃靼海峡」が「間宮海峡」となって…「ちょうちょうが一匹 間宮海峡を渡って行った」…では、内容は同じなのに、詩にならない。
 どうして? について多言を弄するのは野暮であろうが、「韃靼海峡」には音声面での効果があって、それに比べると「間宮海峡」は響きがおとなしい。「てふてふ」との対立・落差がなくなり、緊張感が消える。
 意味的なイメージの点でも、実際の韃靼人=タタール人や間宮林蔵とは無関係に、「韃靼海峡」には「間宮海峡」にない荒々しさがある。勇猛豪胆な「韃靼」の荒海(海峡)と、はかなげにして優雅なる「てふてふ」の対比、強大なるものにか弱きものが挑むけなげさ、だけでなく、そこはかとない諧謔味もこの詩にはただよう。「てふてふ」にはユーモアがある。
 その上、「てふてふ」と「韃靼」の字から来る視覚的な対蹠性が加わる。
 「韃靼」は画数も多く、音声面に劣らず剛直で猛々しい感じを与えるのに対して、「てふてふ」は前聴覚的・視覚的に蝶の羽の動きを模していて、声に出して「ちょうちょう(蝶々)」と読んでも、脳裏にはなお「てふてふ」の残像が残って、蝶が揺れながら舞い飛ぶさまが目に浮かぶ。
 最終バージョン・決定稿でなければ後世に残らなかっただろう。
この詩は高校生時代に読んで印象深く記憶していましたが、ぼんやりと抱いていた感想が、この解説によってはっきりとし、すとんと飲み込めた気がしました。この場を借りて感謝を申し上げます。
ところで、「ダッタン海峡」と題する冊子が、私の手元にあります。
以前この記事で、触れたことがありました。

◇多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻



高知出身の 反戦詩人槇村浩(まきむらこう)の生誕一〇〇周年を記念して刊行された冊子です。表題の「ダッタン海峡」は、槇村のこの詩にちなみます。



ダッタン海峡
――ダッタン海峡以南、北海道の牢獄にある人民××同志たちに――
槇村浩


春の銀鼠色が朝の黒樺を南からさしのばした腕のように一直線に引っつかんで行く

凍った褐色の堀割が、白いドローキの地平を一面に埋める

―――ダッタン海峡! ふいに一匹の迷い栗鼠が雪林から海氷の割れ目え転げ落ちる

とたん、半分浮絵になった銅チョコレート色の靄の中から、だ、だ、ただーんと大砲を打っ発した



峡瀬をはさんで、一つの流れと海面からふき出した一つの島がある

土人は黒龍江を平和の河と呼び、サハリンを平和の岩と呼んだ

かつて南北の帝国主義の凝岩がいがみ合ったところ

いま社会主義の熔流が永遠の春を溶かそうとする



見はるかす

シベリヤ松とドウリヤ松の平原の釘靴帯

粘土の陵堡砦が形造る部落部落のコルホーズ

孤立したパルチザンの沼沢をめぐる麦と煉瓦と木材の工場群

おゝ、サヴェスチカヤ湾………おゝコモールスカヤ市………おゝバム鉄道………

その名を聞くたびに身内をめぐる新鮮な身震いを感じ

ウスリの少女らが頭に巻くハネガヤの花のような芳醇さを疲れた胸に吹き込む

それらの名前は

数万の、ロシヤと中国とウクライナと白ロシヤと高麗と日本の定住した民族の生活圏を、美くしく合成する第二次五ヶ年計画の完成を貫いているんだ!

おゝ希望の湾………おゝ青年の市………おゝ、北東の頭蓋を覆う××(1)鉄道………



(後略)


「青空文庫」に依ります。伏せ字は「革命」だそうです。

ネット上に槇村浩生誕一〇〇年(2012年)について述べた、記事がいくつかありました。まずは、槇村の出身地高知県の地元紙「高知新聞」の記事から。


『小社会』
 

2012.06.02 朝刊   

 きのうは高知市出身の反戦詩人槙村浩(こう)の生誕100年だった。記念の講演会がきょう、同市内で開かれる。槙村は悪名高い治安維持法違反で逮捕され、激しい拷問がたたって26歳で早世した



▼生前の槙村と親しかった人を、一人だけ知っている。県選出の社会党衆議院議員だった故井上泉さん。もう20年以上も前に、「槙村浩全集」を贈っていただいたことがある。井上さんは全集の編集・発行人の一人だった



▼槙村の最初の反戦詩「生ける銃架」、代表作「間島パルチザンの歌」…。ほとばしる波のように紡がれる言葉の迫力に圧倒された。槙村の早熟の天才ぶりを示すいくつかの逸話も、全集で知った



▼井上さんは兄と親しかった槙村の影響で、「プロレタリア文学」などに投稿し始めた。槙村は井上さんを実の弟のようにかわいがり、静かな口調ながら、厳しく原稿を手直ししてくれたという(「遠き白い道」高知新聞社)



▼井上さんは同著で「槙村とともに闘った旧友が次々と亡くなる中、今に生きる私が槙村を語るのは、ある意味で努めでもありましょう」と話していた。閃光
(せんこう)のように散った詩人の青春の記憶を、時はいや応なしに押し流す。一方で作品を通じて研究が深まり、再び見直しの機運があるのは喜ばしいことだ



▼もし槙村が生きていれば100歳。「神童」とうたわれた若き俊英の命はその4分の1ほどで奪われた。つくづく戦争の愚かさを知る。



高知新聞社





つぎは、槇村が属し、その故に治安維持法による弾圧の対象となった日本共産党の機関紙「赤旗」の記事です。




文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ

 高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。

 児玉由紀恵記者



 〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉

 印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。

 貧窮にあえぐ朝鮮民族の姿や、「大韓独立万歳!」を掲げた19年3月1日の朝鮮全土での蜂起と日本軍の大弾圧。さらに国際連帯を奏でる200行近い長詩が劇的に展開し、終連近くではこううたわれます。

 〈おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現れなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!〉

 この詩が発表されたのは、プロレタリア作家同盟の機関誌『プロレタリア文学』1932年4月臨時増刊号でした。



多喜二虐殺の時代

 前年9月には、「満州事変」が勃発。天皇制の専制政治、アジアへの侵略に反対するプロレタリア文化運動の刊行物などは、発売禁止となり、持っているだけで捕らわれたりしました。33年には、小林多喜二が虐殺されています。

 この詩が、発表の数年後には、舞台である間島地方に伝えられていたことが明らかになりました。延辺に住んだ作家の戸田郁子さんが、『中国
朝鮮族を生きる』で、そのことを伝えています。戸田さんの恩師、延辺大学の歴史学者が小学生のころ(35、36年ころ)の話。日本に留学経験のあった教師
が、授業中に朝鮮語でこの詩を朗読した、というのです。

 日本の植民地時代に間島でこの詩が読まれていたとは! 衝撃を受けた戸田さんは2009年11月、高知を訪ねました。

 「延辺をたった時は50㌢積もる大雪でした。高知に着いて南国のシュロの木や日差しの温かさに驚き、ここで育った詩人が、あの間島の風景
や厳しい冬の季節を描いたのかと、胸に迫るものがありました」と戸田さん。若い日、韓国で歴史を学びながら、槙村のこの詩に民主化をめざす韓国の人々のた
たかいを重ねていました。「戦時中にこれほど朝鮮人に寄り添った日本の詩人はいません。どれほど尊いことかと思います」

 2日に高知市で開かれた「槙村浩生誕100周年記念のつどい」。戸田さんは、ここで講演し、槙村の詩でつながった延辺と高知をさらに太くつなぐ「懸け橋になろう」と呼びかけました。

 槙村浩の会会長で詩人の猪野睦さんは語ります。「あの時代に槙村の詩が伝わっていた話にはびっくりしました。7年近く前、文学の集いで延辺に行った時、槙村のこともこの詩のことも知られていた。槙村はここで生きていると思いました」

 「記念のつどい」の成功に向けて尽力してきた高知市内の「平和資料館・草の家」の館長、岡村正弘さんは言います。「文化的な重みで〝北の多喜二、南の槙村浩〟と言いたい。9月には延辺への旅も計画しています。友好のきずなをさらに強めたいと思います」

 「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。



 槙村浩(まきむら・こう)は、1912年6月1日、高知市生まれ。本名・吉田豊道。幼時から抜群の記憶力、読書力を示し、「神童」と報じられます。海南中学時代、軍事教練に反対し、30年、岡山の中学校に転校処分。『資本論』を読み、マルクスに傾倒。

 31年、高知でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、共産青年同盟に加盟。32年、兵士の目覚めを促す「生ける銃架」、「間島パルチザ
ンの歌」を発表。日本共産党の党員候補に推薦されます。高知の連隊の上海出兵に反対行動を展開し、4月に検挙。治安維持法違反で懲役3年に。拷問などで心
身を壊し、35年6月に出所。獄中で構想した革命への情熱あふれる詩「ダッタン海峡」や「青春」「バイロン・ハイネ」、論文「アジアチッシェ・イデオロ
ギー」などを一挙に書き、東京の貴司山治に出版を託します。

 36年、高知人民戦線事件で再検挙。翌年、重病で釈放され、38年9月3日、病没

 貴司山治に託された原稿は、官憲の捜索や空襲から守られ、64年、『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』刊行の基に。84年、『槙村浩全集』刊行。

(2012年06月24日,「赤旗」


ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。 以前こんな記事を書きました。
防災の日に寄せて、の巻

 この「大雨の中を嬉しき宅急便」の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。


懐かしいポスターです。
大学に入学仕立ての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。

K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」日曜版の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。


実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。

さらに実は、今週末、ここに書いたN先輩らのお骨折りで、当時の知己や遠い先輩、後輩たちが集う同窓会が高知で予定されています。

前回は2013年の夏に開かれ、↓この記事にあらましを紹介しました。私にとっては、肺癌手術を終えて、退院直後の頃でした。


懐かしい方々との再会に心弾み、指折り数えて週末を待っているところです。

 



ダッタン海峡を越えた蝶はアサギマダラだろうかと言われているそうですね。

 

以前、強い風が吹いた翌日、風に飛ばされてきたらしいアサギマダラを偶然カメラに収めたような記憶があるのですが、画像を探しても見あたりません。となると記憶そのものが疑わしく思えてきます(汗)

ところでこのチョウは?

先日郷里からの帰り道に、回り道をして和気町・自然保護センターに立ち寄った際に、見かけたチョウです。

サトキマダラヒカゲ

サトキマダラヒカゲ posted by (C)kazg 


下の二枚は、つい最近、深山公園で撮影しました。

サトキマダラヒカゲ

  キマダラ  ヒカゲ posted by (C)kazg  


サトキマダラヒカゲ
サトキマダラヒカゲ posted by (C)kazg

画像整理の段階で、同一種だと気づき、孫の協力も得て図鑑で調べましたら、ヒカゲチョウの仲間ではあるらしいのですが、ヤマキマダラヒカゲ、ヒメキマダラヒカゲ、キマダラモドキ、ヒカゲモドキ、クロヒカゲモドキ、などなど、いずれもそっくりに見えて区別がつきません。

その中でも、より特徴が一致するのは、サトキマダラヒカゲでしょうか?

そういえば、この記事でも、サトキマダラヒカゲか?と書いていました。

名にし負う虫の原っぱ虫三昧

ところで、サトキマダラヒカゲは、漢字では「里黄斑日陰蝶」と書き、里に住む黄色の斑模様をもつ日陰蝶という趣旨の名付けでしょう。一方、アサギマダラは「浅葱斑」。浅葱色 (薄い葱の葉のような、藍染の薄い青色)の斑模様にちなんだネーミング。「浅葱」を「浅黄」と書く場合がありますがこれは誤用、ということらしい。

というわけで、まったく関連のないアサギマダラとサトキマダラヒカゲを強引に結びつけた今日の記事は、これにておしまい。お粗末でした。

 


炎天に灼かれて探鳥散歩かな [折々散歩]

東の方は、台風の影響で大荒れのお天気のようです。ご無事でしょうか?
我が地方は、相も変わらず炎天がつづいています。
朝七時頃の空です。
雲はありますが、猛暑を予感させる陽射しが降り注いでいます。

雲の形状は、少し秋めいてきたでしょうか?

今朝は、中1の孫が部活動の試合だそうで、アッシーを頼まれました。七時に家を出て、会場の体育館まで送ります。その方角でどこか足をのばす場所はないかと考えて出かけた先は、岡南飛行場の近辺。到着したとたんに後悔しました。何しろ遮るものもない日射です。
このちょっとものものしい鉄条網は、軍事基地ではありません。

進入をはかるスズメも、阻止されることはありません。のどかなものです。

空には、ぽっかり朝の月。


飛行場の敷地の向こうに、遠くいつもの常山が見えます。画面中央です。



画面右寄りです。




時間が少し経過すると、雲の様子がまるで変わります。

望遠で写します。

方角を変えて、これは金甲山方面。



秋から冬にかけては渡り鳥のメッカである阿部池も、今は閑散としています。

「風光明媚」と、言えなくもないですが。
残暑の阿部池遠望
残暑の阿部池遠望 posted by (C)kazg

残暑の阿部池遠望
残暑の阿部池遠望 posted by (C)kazg

残暑の阿部池遠望
残暑の阿部池遠望 posted by (C)kazg

残暑の阿部池遠望
残暑の阿部池遠望 posted by (C)kazg

残暑の阿部池遠望
残暑の阿部池遠望 posted by (C)kazg

残暑の阿部池遠望
残暑の阿部池遠望 posted by (C)kazg

残暑の阿部池遠望
残暑の阿部池遠望 posted by (C)kazg

残暑の阿部池遠望
残暑の阿部池遠望 posted by (C)kazg

阿部池を背にして、児島湖方面を眺めると、ちょっとした景勝地ではないですか。
残暑の児島湖遠望

中央右寄りに見えるのは、またまた常山です。
残暑の児島湖遠望 posted by (C)kazg
残暑の児島湖遠望
残暑の児島湖遠望 posted by (C)kazg

炎天下、よろめきながら歩きましたが、出会えた鳥はと言いますと、、、、。

カワウです。池の沖の方にいましたので、豆粒です。トリミングしました。

滑走しながら飛んでいきました。
上空を見上げると、、、。

オスプレイ(ミサゴ)です。

タッチアンドゴー。

獲物は取り損ねたらしいです。

飛行場の草原の方から、チッチッチと、声が聞こえます。
スズメのような小鳥が見えましたが、鳴き声はスズメじゃありません。
大幅トリミングしてみますと、、、セッカでしょうか?






今日持ち歩いたカメラは、OLYMPUS E620+ZUIKO Digital70-300mm+1.4×テレコンEC14と、E-PM1+LUMIX G14mm/F2.5。いずれも最近出番の少ない組み合わせですが、軽くてコンパクト、というコンセプトでチョイスしてみました。

前者は、olympus(フォーサーズ)機としては最近出動頻度が高いE3に比べて、同じレンズを装着した場合でも、測距に迷うケースが多いように感じます。テレコンEC14の影響も大きいでしょうが。それともう一つ、コンパクトフラッシュカードの代わりに、SD→CFアダプターを介してSDカードを装着しているせいでしょうか、書き込みに時間がかかり、その間シャッターが反応せずシャッターチャンスを逃すもどかしさがあります。それを除けば、おおむね良好という印象、コンパクトさはありがたいので、また持ち歩く機会を増やしましょうかね。

ちなみに、コンパクトさで言えば、OLYMPUSのE420、E410という軽快シリーズ(中古購入)を愛用していましたが、二台とも背部液晶が表示しなくなり(バックライトのせい?)、あわせて、日時設定が毎回リセットされてしまう(内部電池の消耗?)という二重苦で、使い物になりません。

世の中は、マイクロフォーサーズに全面移行する流れですが、レンズをそろえ直すのは辛い。せっかく中古やアウトレットで集めたフォーサーズレンズ(スタンダードタイプばかりですが)を、有効活用しないのは悔しい。フォーサーズ→マイクロフォーサーズアダプターを利用する選択肢もありますが、測距スピードのストレスを思えば、実用的とは言い難い。、、、というわけで、メーカーから見放されたフォーサーズ機を、まだまだ使い続けたいのですが、、、。

家庭用ビデオでも、ベータ方式に裏切られ、VHSへの以降を余儀なくされたのに、そのVHSも今や家庭用レコーダーは手に入りません。仕方なく、ハ○○オフで買ったジャンクの再生装置を、今も使い続けています。この夏休みも、図書館で借りた「トムとジェリー」や、昔テレビ録画したガメラやゴジラのシリーズを、頻度高く孫が視聴してくれています。

8ミリビデオは、Hi8、Digital8へと知らぬ間に「進化」し、その都度追従を強いられましたが、カメラも再生装置も、久しく使いません。

録音装置としては、カセットテープレコーダが、今なお健在であることをありがたく思います。昔の資産が今なお劣化なく聞くことができるのは奇跡的ですし、新たに録音することも簡便です。何しろ、頭出しや、検索が、テープの巻き加減を目で見て確認できのは、うれしいことです。

カセットテープレコーダを駆逐したかに思えたMDも、今や過去の遺物で、録音済みディスクは、かろうじてカーオーディオでのみ聞くことができます。小3の孫が選んでかける曲は、中島みゆきです。まさに、時代は回ります。

パソコンにおける記憶装置も、フロッピーディスク、ZIP、MOなどと変遷し、しかも接続方法もパラレルポート、scsi(スカジー)、USBとややこしいことでした。現在主流のUSBは、さすがに「ユニバーサル・シリアル・バス」と名付けられるだけあって、「一般的、普遍的。共通」に、誰でも気軽に使える便利さではピカ一です。この便利さに慣れたら、あともどりはできませんね。

では、ミラーレス一眼カメラが、望ましい進化の方向かと問われると、いささか疑問は残ります。背面液晶にせよ、ビューファインダーにせよ、その視認性は、光学ファインダーの爽快さには大きく劣ります。フィルムカメラ時代のファインダーの、抜けるような鮮明さを求めるのは難しいとしても、たとえばPENTAXK10レベルのファインダーで覗く世界は、撮影の愉しさを増してくれるもので、カメラにとって棄てがたい要素だと思います。

ところで、マイクロフォーサーズ機のなかでも、E-PM1は非常にコンパクトです。LUMIX G14mm/F2.5 も、廉価ながら単焦点のパンケーキレンズで、描写も決して悪くはありません。なぜ出番が少ないかというと、私の中ではPENTAXQと競合するのです。または、RICOH GX200と。(もちろん、イメージセンサの大きさで比較すると大差がありますので、画質のレベルを比べること自体、フォーサーズにたいして失礼かもしれませんが。)あるいは、メインカメラに、広角までカバーするズームレンズを装着すると、もはやE-PM1+LUMIX G14mm/F2.5を持ち歩くのは余分に感じられます。

というわけで、不遇な機材なのですが、使ってみると操作感も軽快で、写りも悪くない気がします。これも、出番を増やしてやろうかとおもいました。

ところで、私にとってメイン機の位置づけにあるのは、PENTAX K5Ⅱです。自分の中では、退職記念にと張り込んで買ったもので、ほとんど不満はありません。問題はレンズで、同じく退職記念のつもりで、smcPENTAX-F
☆ 300mm F4.5 という「スターレンズ」を、思い切って中古で買いました。急に腕が上がったかと錯覚するような、ほれぼれする写りを見せてくれましたが、時々、露出に狂いが生じます。細かく気にしなければ、失敗も愛嬌で済ませることもできたのですが、念のためにカメラ店に修理と点検を依頼してみました。都合二度ほど修理に出し、帰ってきた結論は、「旧機種のため、メーカーに修理部品がありません」とのこと。それを承知で、末永くつきあうつもりのある日、どうしたことかレンズ側からコンクリート上に落下し、見事真っ二つに「折れて」しまったのです。慌てて修理に出しましたが、やはり、「旧機種のため、メーカーに修理部品がありません」。以前、この記事で書きました。↓

これなあに?尋ねているのはジョウビタキ

広角-中望遠は、満足できるレンズの組み合わせがありますので、その日の気分で選べます。問題は、遠くにいる鳥さんを狙う場合です。ここで、C社やN社に鞍替えしたのでは、これまでの人生が否定される(大げさ)ことになりますし、なにより経済的に成立しません。

したがって、乗りかかった船で、PENTAXとOLYMPUSから解を見つけ出したいと、苦慮しているところです。

○Sigma AF 120-400mm f/4.5-5.6 DG OS HSM APO---操作性。描写、機能については特に不満はありません。手持ち撮影も可能です。やや、重くてかさばるため、ぶら下げて散歩するのが苦痛です。

○AFborg(1・4×AFアダプタ+ミニBORG45EDII、または、ミニBORG 60ED)。AFアダプターが作動するのに必要な明るさに調整するため、クローズアップレンズを併用します。ミニBORG45EDIIには、no5が適当、ミニBORG 60EDには、no4でも可のようです。当然クローズアップレンズの号数が小さいほど、望遠効果は高くなります。もっと明るい(大口径の)BORGを使えば、クローズアップレンズも不要で、より望遠倍率を稼げますが、これも経済が許しません。上記の組み合わせでは、AFがうまく働けば、画像は満足できます。手持ち撮影ではこの程度が適当かもしれませんが、もう少し倍率と明るさを求めたいとも思います。しかし、それは
、ハンディさ、コンパクトさとは相反しますし、、、。

できるだけ軽くコンパクトに、AFも効いて、シャッターを切る瞬間のタイムラグがなく、写す快感を伴い、写りも鮮明な、そんな撮影装置があればなあと夢見ていますが、どの組み合わせも、帯に短し襷に長しです。

今日はこれにて。

月と鳥とたいまつと,の巻 [折々散歩]

夜空の明月を写すチャンスがありませんでした。

今朝の空に、明るい月が浮かんでいましたので、とりあえず写しておきました。



先ほどお邪魔した
yakko
様の記事有り明けの月にも高知から見た今朝の月が紹介してありましたので、刺激されて、岡山から見た同じ月を、載せておきます。



当ブログ、探鳥ブログを志したつもりではありませんが、それでも鳥の写真が撮れると嬉しくて、しばしば掲載させていただきました。しかし、「夏枯れ」の季節というものがあるそうで、滅多にめぼしい鳥に巡り会いません。
もちろん、スズメとか、







サギなどは、身近に姿を見せてはくれますが、











いつもも同じ鳥ばかり載せるのも気が引けます。
そんなとき、M師から、秋鳥の季節到来とメールを戴き、少し胸をときめかせているのですが、目下のところ空振りです。
先日、孫と深山公園に行きました。主な目的は、夏休みの「自由研究」の、セミの抜け殻集めのためでした。その目的はほどほどに、野外遊びを存分に楽しみました。

   














カブトムシの死骸や、



カナヘビの赤ちゃんなども出てきて、飽きません。


でも、鳥にはあいにく会えません。
昨日は土曜日で、パパママがお休みで、孫から少し手が離れますので、午前中、一人で深山公園を散歩してみました。
松の木の林で、エナガの群れに会いました。

























高い木の枝先なので、大幅トリミングしています。
同じく松の木に、コゲラもいました。








こちらはヤマガラです。






















毛繕い中のキジバト。







こちらは、ペアでしょうか?



珍しい鳥には会えませんでしたが、久しぶりの鳥の写真でした。



緊急追伸。

「戦争絶滅」を訴え続けた反骨のジャーナリスト、むのたけじさんが亡くなられました。101歳でした。

朝日新聞記者として終戦を迎え、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と退社。故郷の秋田県で 週刊新聞「たいまつ」を創刊。その後も、著作や講演活動を通じて平和への信念を貫き通しました。(朝日新聞デジタル 8月21日7時38分配信 参照)

詞章「たいまつ」は、学級新聞などにもよく引用させてもらいました。

 

詞集 たいまつ〈1〉 (評論社の新書 (114))

詞集 たいまつ〈1〉 (評論社の新書 (114))

  • 作者: むの たけじ
  • 出版社/メーカー: 評論社
  • 発売日: 1976/03
  • メディア: 新書




むのさんの言葉から、少しだけ引用させて戴きます。

 学ぶことをやめれば、人間であることをやめる。生きることは学ぶこと、学ぶことは育つことである。

卑屈の特徴は、自分がまじめに生きようとしないだけでなく、まじめに生きている他人をせせら笑うことだ。

 進歩を望むなら、まず物ごとに対する感受力を鋭くきたえることだ。

 希望の根は絶望の深さに沿うて張る。希望を希望するなら、絶望に絶望せよ。絶望が本当なら、希望も本当だ。

安らかにお休みください。
きょうはここまで。

「これなあに?」3連発、の巻 [今日の「これなあに」?]

今日の記事には、不快画像(残酷画像)が含まれています。閲覧にはご注意ください。

先日、ジイジバアバと(8/14)孫たちと、深山公園を訪ねました。

夏の雲が勢いよく育っています。







ツクツクホウシが盛んに泣いています。







今日のこれなあに?その1。



セミヤドリガの幼虫だそうです。




今日のこれなあに?その2。



























シマヘビに喰われるツチガエルでしょうか?

古い記事を引用しておきます。

芋の葉を日傘に幼き蛙哉







 彼らの姿、動き、表情は,見ていて飽きません。



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カエルと言えば草野心平氏の詩を思い出す人も多いことでしょう。

「第百階級」という詩集の題名からして、市民を意味する「第三階級」(僧シェイエス)より、いっそう格段に底辺に生きる存在への共感が根底にある。カエルは、力弱く、心優しく、底辺に生きる存在であり、詩人もまたその同類なのでしょう。



「第百階級」から一編紹介しておきます。



ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉 草野心平             

  痛いのは当り前じゃないか。

  声をたてるのも当りまへだらうじやないか。

  ギリギリ喰はれているんだから。

  おれはちっとも泣かないんだが。

  遠くでするコーラスに合はして歌ひたいんだが。

  泣き出すことも当り前じゃないか。

  みんな生理のお話じゃないか。

  どてっぱらから両脚はグチヤグチャ喰ひちぎられてしまって。

  いま逆歯が胸んところに突きささったが。

  どうせもうすぐ死ぬだらうが。

  みんなの言ふのを笑ひながして。

  こいつの尻っぽに喰らひついたおれが。

  解りすぎる程当然こいつに喰らひつかれて。

  解りすぎる程はっきり死んでゆくのに。

  後悔なんてものは微塵もなからうじゃないか。

  泣き声なんてものは。

  仲間よ安心しろ。

  みんな生理のお話じゃないか。

  おれはこいつの食道をギリリギリリさがってゆく。

  ガルルがやられたときのやうに。

  こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。

  そしたらおれはぐちゃぐちゃになるのだ。

  フンそいつがなんだ。

  死んだら死んだで生きてゆくのだ。

  おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるように。

  ドシドシガンガン歌ってくれ。

  しみったれいはなかったおれじゃないか。

  ゲリゲじゃないか。

  満月じゃないか。

  十五夜はおれたちのお祭じゃあないか。





今日のこれなあに?その3。

昨日、自然環境体験公園を時ジイジバアバと小3の孫と訪ねました。

冬の間はカモの群れが憩う池に、今見えるのは。

カイツブリ。



オオバン。



 

ウチワトンボ。





イトトンボ。











などですが、池の中州あたりから、猫のけんかの声のような大きな声が聞こえて来ます。

鳴かすまで猫が池を泳いでいけるかどうか、妻と議論になりましたが、結論を得られません。

と、池の水面をかなりのスピードで横切るものがあります。







トリミングしてみます。



最初、泳ぎ方からヌートリアかと思ったのですが、どうも違うようです。

以下、トリミング画像です。











写りが鮮明でないですが、どうも前方はウシガエルのように見えます。そしてそれをくわえて泳いでいるのは、細長くてしっぽも長い獣のように見えます。

しばらくして今度は逆方向に泳いでいく生物が、よく似た生き物のようです。



トリミングします。手前のオオバンの無効を泳いでいる生物は?



以前写したイタチの画像ですが、どうでしょう似ているような気がするのですが、、、。





ところで、ウシガエルは、名前の通り、通常モーモーと低い声で、牛に似た鳴き声で鳴きます。しかし、危急の際には、猫の威嚇の鳴き声に似た警戒音を発するそうです。youtubeに、その音声入りの動画を見つけ、まさにこの声だと納得した次第です。



最後に今日の写真です。地元の図書館付近からの眺めです。

この山は、名前を知りません。その形のおもしろさから、いつも気になる山です。



常山を、この方角から望みます。



手前はグラウンドです。ナイター設備などもあり、児童から少年、市民にも広く利用されています。小3の孫も、週二回ほど、ここで練習します。



今日はこれにて。


「被爆地ヒロシマが被曝を拒否する」ことを応援する、の巻 [時事]

昨日の記事で、お化粧直し前の寂びた長福寺の写真をアップするつもりが、失敗していました。あえて掲載するほどのものでもありませんが、記事の整合性のために、少しだけご覧ください。夏と初冬の季節違いのバージョンをご紹介しておきます。
改修前の美作長福寺


 改修前の美作長福寺 


  改修前の美作長福寺
 

改修前の美作長福寺
  改修前の美作長福寺

 

改修前の美作長福寺


  改修前の美作長福寺
  
改修前の美作長福寺
改修前の美作長福寺 posted by (C)kazg



話変わって、伊方原発が12日、無理強いに再稼働しましたが、発電と送電を開始したその15日、山口県で震度3の地震がおき、伊方原発3号機がある愛媛県伊方町でも震度2を観測しました。

8/17付日刊ゲンダイは、こう指摘しています。







 

 愛媛県の中村時広知事は「(伊方原発で)福島と同じことが起こることはない」と断言しているが、何を根拠に言っているのか。武蔵野学院大の島村英紀特任教授(地震学)がこう言う。



「熊本地震以降、震源地は周辺地域に広がってきています。今回の震源地の伊予灘は伊方原発のすぐ隣にある。非常に怖い場所で起こったといっていい。中央構
造線断層帯沿いは、これまで地震が繰り返され、地震に弱い岩盤が広がっていて、不安要素は多いんです。しかも、福島第1原発事故の本当の原因は、まだ地震
か津波か、はっきりしていない。そうした段階で、伊方原発を『安全』と言い切るのは早すぎるでしょう」

《中略)
そもそも、いま危険な「伊方原発」を再稼働させる理由はほとんどない。電力業界は「電力の安定供給に原発は欠かせない」と説明するが、原発稼働がゼロで
も、電力は十分足りている。しかも、原油安の影響で火力発電の燃料費も安く済んでいる。「原発のほうがコストは安い」という言い分も、事故対応や廃炉への
費用を考えると、正しい見方とはいえない。

 ジャーナリスト・横田一氏はこう言う。

「電力会社が再稼働を急ぐのは、すでに燃料も買って施設もあるからです。初期投資が大きい原発では、なるべく長期で使用したほうが、経営上はプラスにな
る。政治家側も、現在は電力会社から直接の政治献金はありませんが、選挙時に運動員を出すという人件費の無償提供を受けている。『脱原発』という候補に
は、『応援しないぞ』と脅しをかけるケースも多い。選挙を“人質”に取られ、原発推進にならざるを得ないんです」




また同じく8/17付け毎日新聞社説はこう述べています。








そもそも、原子力防災の観点から見ると、伊方原発は、日本の原発の中でも格別に不安材料が多い。


東西約40キロ、最小幅は約800メートルと細長い佐田岬半島の付け根に位置していることが最大の問題だ。原発の西側には約4700人が居住するが、原発事故が起きれば、住民は逃げ道を塞がれかねない。


 しかも、原発の沖合約6〜8キロには国内最大級の活断層「中央構造線断層帯」が走っている。四国では南海トラフ巨大地震の発生も懸念される。大地震と原発事故との複合災害が起きてもおかしくない。佐田岬半島は地盤がもろい箇所も多い。


 県などの避難計画では、事故発生時、原発の西側の住民は車や船などを使って半島から脱出する。だが、複合災害が発生した場合、陸路も海路も使えない恐れがある。


 住民はその場合、自宅や避難所で一定の間、屋内退避をする。被ばくを避けるためだ。


 ただし、震度7の揺れに2度襲われた熊本地震のような場合は、自宅に退避し続けることすら難しい。


 公設の避難所も万全ではない。伊方町には放射線防護対策施設が7カ所ある。ところが、うち四つは土砂災害警戒区域内にあるのだ。


 高浜原発が司法判断で運転停止中のため、伊方原発はウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料を使う国内唯一のプルサーマル発電となる。MOX燃料
は通常の核燃料に比べ制御棒の利きが悪くなるなどの問題が指摘されてきた。使用済みMOX燃料は、具体的な処理方法すら決まっていない。


 避難計画の策定義務は自治体にある。内容が不十分でも原発の再稼働が認められるのは、規制委の安全審査の対象外で、再稼働の要件ではないためだ。本来なら、第三者機関が避難計画の実効性を原発の稼働前に審査する仕組みが必要だ。


 四電は伊方3号機の稼働による収益改善効果を年間約250億円と見込む。ただ、今夏の全国の電力会社の供給力には余裕がある。電力需給面から再稼働を急ぐ必要はない。


 複合災害対策を先送りしたまま、原発に回帰する政府や電力会社の姿勢を認めることはできない。





伊方原発関連では、以前こんな記事を書きました・

充実の昨日、鬱々たる今日、の巻
一部を再掲します。
 さてM師からいただいたメールに、こうありました。
(大学時代の)○○部同期は卒業の時に「将来この木の下で花見会をしようと約束して桜の苗木50本程を植えました。
退 職後私が現地世話人として10回程花見会をしましたが段々と鬼籍に入る人は増えて来たんで一旦中断し、4月の第一土曜日に呼びかけはしないが来られる人は 食べ物飲み物各自持参で集まろうと言う形にして継続しています。今年は8人程しか集まりませんでしたがその中に広島から来たHと言う男もいました。
彼が広島原発の被爆者であると言う事は薄々知っていました。今回は「被爆地ヒロシマが被爆を拒否する」というパンフを持って来ました。なんと「伊方原発運転差止広島裁判」の原告団長をしていると言うので驚きました。(本日9日《注2016.4.9》のしんぶん赤旗13面「土曜人とき」に取り上げられているので読んでやって下さい)
学生の頃は、彼がこんな運動にかかわるとは意外でした。被爆の影響か色々と病気をし数年前に悪性リンパ腫になった時は一時余命2週間と言われた事もあると言っておりました。痩せてはいましたが元気で何よりいつも気難しい顔をしていたのが和やかな優しい顔付になっているのが印象的でした。自分の残された命はこのような運動に捧げると決めた者の落ち着きでしょうか。同じ後期高齢者になりこれからは小鳥や草花を愛でながらのんびりと暮らそうと考えていた私はガーンと一撃食らった感じです。
 自分の出来る応援をしなければと思いました。伊方原発広島裁判応援団のwebサイト:http://saiban.hiroshima-net.org/ です。覗いてみてやって下さい。
 

 まだ前期高齢者なのに、小鳥や草花を愛でながらのんびりと暮らそうと考えている私にも、ガ―ンと一撃でした。

つい先日、そのM師から、丁重な(手書きの)お手紙を頂戴しました。一冊のリーフレットと資料や案内が同封されていました。53年前の学生時代の凛々しいお姿や、新聞の切り抜きも添えてありました。
リーフレットの表紙です

リーフレットの中にはこんなページもありました。
ヒロシマ原爆被爆者でもある原告団長の堀江 壯(ほりえ そう)さんの言葉が胸を打ちます。(前回記事では、Hさんとイニシャルにしましたが、改めて本名でご紹介します。)

リーフレットの内容をすべてご紹介したいところですが、「なぜ私たちは裁判を起こすのか」と訴訟の意義を訴えておられる一文だっけを、伊方原発広島裁判応援団のwebサイトから引用してご紹介し増す。.
 伊方原発は、広島市からちょうど100kmの佐田岬半島に、瀬戸内海に面して立地しています。伊方原発で福島第一原発事故並みの苛酷事故が起こった場合、広島市はひどい放射線被曝を強いられることが、原子力規制委員会の行ったシミュレーションで示されています。
 伊方原発は、発生が予想されている南海トラフ巨大地震の震源域ぎりぎりに位置しています。また「中央構造線」という世界有数の大断層帯のほぼ真上にあります。伊方原発が巨大地震に見舞われ、それが引き金となって苛酷事故が発生する蓋然性はかなり高いはずです。またそれが、福島第一原発事故並みで収まるという保証はどこにもありません。
 原発苛酷事故で放出される大量の放射性物質によって汚染された土地には、誰も住みたくありません。ふるさと広島を、放射能汚染で失うことはできません。現在の政治状況はやみくもに原発再稼働にのめっています。私たちは、司法に訴えることにしました。島根原発と伊方原発の位置広島市の1週間の予測実行被曝線量

愛媛県に立地する伊方原発が、単に四国地方のみならず、被爆都市ヒロシマをはじめ、わが岡山をも含む瀬戸内海地方全域に直接的な影響が及ぶことを、このリーフを読んで改めて痛感したことでした。

できることは限られていますが、応援団には参加させて戴きました。



今日の常山です。







いつもとは違うアングルです。

今日もサイクリングです。

一昨日とは逆方向に向かいます。























こんな公園までいって、ひと遊びして帰りました。

きょうはこれまで。

盆中日の美作長福寺三重塔、の巻 [折々散歩]

美作の国長福寺については、これらの記事に書きました。



みんな違ってみんないい、の巻
寂れたる師走の里や塔朱し
ニッポニア・ニッポンとグルス・ジャポネンシスと、もう一つの重要文化財

先日の郷里からの帰り道、立ち寄ってみました。

長福寺の来歴について、真新しい看板が立っています。



強いまぶしい陽射しのため、逆光気味の写真はほとんど、美しくないフレアでボツ。レンズ保護フィルターがひどく汚れていたことに、あとで気がつきました。


美作長福寺の睡蓮

美作長福寺の睡蓮 posted by (C)kazg盆の美作長福寺

盆の美作長福寺 posted by (C)kazg盆の美作長福寺

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盆の美作長福寺 posted by (C)kazg盆の美作長福寺

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以前写した、改修前の写真を少し並べておきます。

周囲の自然との調和という点では、年経て寂びた感じの趣が好ましく思われたのですが、新しい塔も、もうしばらく経つと周囲の光景になじむのでしょうか?

きょうはここまで。


核兵器先制不使用を拒む被爆国首相の怪!の巻 [時事]

NHKNEWSWEBの7/15付け大統領訪問で変わる被爆証言

という記事に目がとまりました。

東広島市在住の被爆者飯田国彦さん(74)は、三歳の時、爆心地からおよそ900メートルの母親の実家で被爆し、母親と姉を亡くしました。出征していた父親は沖縄戦ですでに亡くなっていたため、飯田さんは家族をすべて失いました。

記事はこう伝えています。
あの惨状を伝え残したいと、飯田さんは、被爆体験を語る証言活動を始めましたが、途中で気分が悪くなる子どももいました。

それ以来、生々しい描写をためらうようになり、地図を使って、人の被害よりも建物の壊れ方を詳しく語るようにしてきました。

あまり詳細に語ると、子どもたちの中で怖さが先行してしまい、被爆体験が伝わらないのではないかと、みずから歯止めをかけていたそうです。 しかし、本当のありさまを伝えなければならないという思いもあり、飯田さんは葛藤していました。 

そんな飯田さんは、オバマ大統領が現職米大統領として初めて広島を訪問し、平和公園で語った内容に心を動かされ、特に次の一節に強く共感したといいます。

「私たちはあの日、目にした光景に恐れおののき困惑した子どもたちの気持ちに思いをはせなければなりません。私たちは彼らの悲鳴にも耳を傾けます」

記事のつづきです。

 飯田さんもあの日、目の前の光景に恐れおののいた子どもの1人でした。

だからこそ、ためらわず目にした通りの光景をきちんと伝えるべきだと考えを新たにしたのです。

ありのままの惨状伝えたい



大統領の広島訪問に背中を押された飯田さんは、早速、原爆資料館のデータベースからあの日の光景がよみがえる絵を選び、証言に取り入れることにしました。


そして7月。静岡から平和学習で訪れた中学生に新たな内容で証言を行いました。

ニュース画像
飯田さんが選んだのは、爆心地から1キロ余り離れた横川橋という橋の下の様子が描かれた絵。

着ていた服はすべて焼け、皮膚まで焼かれた真っ赤な姿で、多くの人が折り重なっている様子が描かれています。


それは、飯田さんが被爆直後に目にした大人たちの姿と重なりました。


ニュース画像


そして、さらに爆心地に近い学校の惨状を描いた絵も紹介しました。


一瞬にして焼けた子どもたちの骨が校庭に並ぶ様子が描かれた絵を、飯田さんは子どもたちにこう説明しました。


「『お母ちゃん、助けて』と言う余裕もなく、一瞬で亡くなって白骨化した。原爆の被害をよく見てほしい。本当の惨状をよく見てほしい」

飯田さんは、まだ幼い小学生には少し控えた表現で説明し、中学生にはなるべく詳細に71年前の被爆の実態を伝えていくつもりです。


証言を終えた飯田さんはこう語りました。


「原爆資料館には原爆で焼け焦げた三輪車が展示されていますが、三輪車が焦げただけじゃないのです。そこには、三輪車に乗って遊んでいた子どもがいたんで
す。同じように、黒こげの弁当箱の傍らにはその弁当を楽しみにしていた子どもがいたんです。そのことを知ってほしい。ありのままを伝えていくことが私の使
命です」





記事には、この写真も添えられていました。

ニュース画像

オバマ大統領のことばを、最も間近で聞いていたのは、アベさんでした。そのアベさんは、こともあろうに、オバマ大統領の核先制不使用方針に反対したのだそうです。耳を疑いました。彼は、どこの国の首相ですか???

yahooニュースからの引用です.

 【ワシントン会川晴之】米ワシントン・ポスト紙は15日、オバマ政権が導入の是非を検討している核兵器の先制不使用政策について、安倍晋三首相がハリス米
太平洋軍司令官に「北朝鮮に対する抑止力が弱体化する」として、反対の意向を伝えたと報じた。同紙は日本のほか、韓国や英仏など欧州の同盟国も強い懸念を
示していると伝えている。

(中略)

 同紙は複数の米政府高官の話として、ハリス氏と会談した際、安倍首相は米国が「先制不使用」政策を採用すれば、今年1月に4度目の核実験を実施するなど
核兵器開発を強行する北朝鮮に対する核抑止力に影響が出ると反対の考えを述べたという。(中略)

 日本政府は、日本の安全保障の根幹は日米安保条約であり、核抑止力を含む拡大抑止力(核の傘)に依存しているとの考えを米国に重ねて伝えている。先制不使用政策が導入されれば、「核の傘」にほころびが出ると懸念する声がある。

【ことば】核兵器の先制不使用

 核保有国が、他国から核攻撃を受ける前に先に核兵器を使わないこと。核兵器の役割を他国からの核攻撃脅威を抑止することに限定する。核兵器を使用する
ハードルが高くなり、核軍縮への理念的な一歩と見なされる。すべての国が対象だが、核保有国同士の約束の側面が強い。核拡散防止条約(NPT)で核兵器保
有が認められている米、露、英、仏、中国の5カ国の中では現在、中国のみが先制不使用を宣言している。

核先制不使用に反対ということは、相手が核攻撃をしてこなくても、アメリカの先制核攻撃を認めるということです。先制核攻撃を加えると言うことは、三歳の飯田さんが体験したヒロシマの悲劇を、そしてそれにひきつづくナガサキの悲劇を、繰り返すということです。「同盟国」の手による新たな被爆者の出現に、進んで加担するということです。「恐れおののき困惑した子どもたち」「彼らの悲鳴」で地球上を満たすということです。

それだけではありません。アジアにおける最大の攻撃拠点はこの日本ですから、必ず報復核攻撃は、日本に(アメリカ本土ではなく)向けられます。米軍による(とくにアジア極東地域における)核先制使用は、必ず日本への報復核攻撃を招き、ヒロシマ、ナガサキ、そして、ビキニ、フクシマにつづく核被害をもたらす、「亡国」の選択に他なりません。

核兵器の先制不使用は、核兵器の不使用ではありません。ましてや、核兵器の廃棄でもありません。「核なき世界」の理想からみれば、きわめて限定的・部分的な措置に過ぎません。これに対して、「抑止力が弱体化」などと賢しらげにクレームをつけたのが、こともあろうに「唯一の戦争被爆国」の首相であることに、驚愕と屈辱を感じないわけにはいきません。



今朝の景色です。

本の短時間の散歩で、引き返しました。

初秋の田園朝景色

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午前中、ここ数日追われていたちょっとしたデスクワークが、やっと片付きました。

午後の暑い盛り、小3の孫にサイクリングの誘いを受けました。抵抗はしたのですが、押し切られました。

かなりの距離を走りました。

景色の変化をご覧ください。



































余りの日差しに、影を求めて右側通行。



サイクリングの途中で見えた景色です。見慣れた光景とも言えますが、それでもなぜか新鮮です。

残暑厳しき田園昼下がり

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71年目の終戦記念日の日常雑話、の巻 [今日の暦]

71年目の終戦記念日です。

地元紙「山陽新聞」の今日付夕刊の第一面は、見出しに

終戦71年 戦没者追悼式 

首相「加害」に触れず 

陛下、再び「深い反省」


と、ズバリ。

そして、記事のリードでは、「安全保障関連法の本格運用や憲法改正論議の加速が見込まれ、平和の在り方も問われる中、安倍晋三首相は式辞で『戦争の惨禍を決して繰り返さない』と強調。ただ2013年以降3回の式辞と同様に、歴代首相が触れたアジアへの加害と反省には言及しなかった。天皇陛下はお言葉で、昨年につづき、『深い反省』に触れられた。」と、書いています。記事本文でも「首相は、(中略)過去3回と同じく『不戦の誓い』との文言は使わなかった。」と指摘しています。

これを見た妻が.「こんなことを書いたら、また自民党が怒るで」とつぶやきます。

「easops tongue」という言葉が思い出されます。直訳すれば「イソップの舌」「イソップの言葉」といったところでしょうか。「奴隷の言葉」と訳されたりします。専制独裁の元で、身の安全を保つためには、遠回しの言い方が求められたということなのでしょうが、今やあたかも、時代の約束事に成り上がっている感もあります。オソロシヤ。



一昨日立ち寄った蒜山(ひるぜん)高原の眺めです。









高速道を通って、実家に向う途中、夕日が見えました。運転中ですので撮影などできません.ロケーションはいまいちですが、ちょっとした停車スペースに車を停めて、証拠写真を残しておきます。







その夜の月です。



トリミング画像です。



一夜明けて、翌朝の故郷の景色。







稲穂が、ここまで実っています。

さらに県北部の寒冷地帯では、もっと田植えが早いので、稲穂の生育も早いはずです。















故郷の初秋の朝景色

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先週受けていた半年に一度のCT,MRIの検査結果を聞きに、今朝は病院へ行ってきました。手術後三年目にして転移の兆候はなし。おかげさまで順調です。

昨日は保育園児の姉と、小三の男の子と一緒に深山公園へ行き、蝉の抜け殻などたくさん拾ってきました。田舎のおじいちゃんも、拾ってくれていました。それらを元に、小3生は今日は夏休みの自由研究を我が家で、兄の中学生は自分の家で、貯まっている宿題をフル稼働。明日が提出日のものもあるそうです。お盆を過ぎると、急に夏休みの終わりが見えてくるようです。

きょうはこれにて。

炎昼のなかを孫らと墓詣で [家族]

深夜の高速道路上で、車のトラブルに見舞われ、キャリアカーのお世話になって途中で引き返したため、翌日の11日(木)の夜、大阪在住の孫たち一家が一日遅れで、高速バスを利用して帰省してきました。聞くと、単純なバッテリートラブルではなく、発電機《ダイナモ》の故障だそうで、悪くするとハンドルもブレーキもコントロールを失い大事故につながりかねなかった由。未然に防げて、ラッキーだったとも言えます。

それにしても、長旅ご苦労なことでした。

2才の孫にとっても、印象深い旅になったことでしょう。

経路を地図上でたどって見ました。



1が出発点。3は、高速バスの最寄りの停留所。ここまで迎えに行き、4の我が家に帰ります。

その夜と翌12日(金)は我が家でしばしくつろぎ、従兄妹たちともビニールプールや花火で楽しく遊びました。









13日(土)は、当初の予定どおり、5の地点に近い私の老父母のもとを訪ねました。

お盆といえども仕事や用事が入っているバアバ、長男、長女のムコ殿をのぞいて、家族全員が集まって、賑やかなお昼ご飯を楽しみ、灼熱の日差しの中、お墓参りも済ませました。

かなりの山道です。



チロ(犬)の墓にも手を合わせます。



「炎昼」という言葉が思い出されます。

昔、高校時代、「炎昼や墓石(ぼせき)の影が黒い」という句を作りました。(「暗い』だったかもしれません)。

いつかの過去記事で、この句に触れたような気もしていましたが、検索してもヒットしません。句会で、「字足らず。」「わかるが、放哉の 墓のうらに廻る の、二番煎じになっていないか」などと評されました。ばれたか。

そういえば「炎昼」という語は、この記事でも使っていました。

子どもの夏

青空に白い雲がまぶしい、故郷のお盆の景色です。

百日紅の紅も鮮やかです。



周囲を眺めてみます。







G地点には、大阪の孫のママのお父さん(孫から見ればもう一人のじいじ)の実家があり、お母さん(ばあば)は現在旅行中で、じいじはここに滞在中なので、お盆休暇の後半はそちらですごします。急なアクシデントで車が使えなくなったので、私の車で送っていくことにします。

蒜山(ひるぜん)高原という、鳥取県境にほど近い冷涼の地です。お家は、高速道路(米子道)の出口のほど近くにあります。ご挨拶がてら、初めてお宅までお邪魔しました。「今日は、墓掃除をしたら暑かった」とおっしゃいますが、「下界」に比べると、過ごしやすい暑さです。

「道の駅」が近くにあります。名産品の野菜、果物や乳製品が、お手頃価格で販売されています。









その「道の駅」の近くに、人だかりがしている場所がありました。



















見物客の姿が映り込んだ『作品』は、肖像権の許諾を得ていませんので、掲載は避けることにします。

さて、私はG地点から、5地点近くの実家まで明るい内に帰りましたが、そのあとさらに4地点まで帰るのはおっくうなので、実家に一泊することにしました。

何かとせわしい山の日は暑かった、の巻 [今日の暦]

「山の日」という休日が新設されたことを忘れていました。

大阪の孫一家が、昨夜帰省してくるはずでした。パパの仕事が上がってから、夜中に車を走らせて、深夜~未明に到着するはずが、pm11時過ぎに連絡があり、高速の途中でバッテリートラブルに遭い、JAFを呼んだ由。それからしばらくして、修理は困難で、レッカー車で引っ張って、大阪にひきかえすことになったとのことでした。大事故につながらなくて余暇ってものの、不運な盆休みです。
結局、高速バスの今夜の便に空き席があったので、pm10時ころ到着予定。ご苦労なことです。
今朝は、ひんやり過ごしやすい朝でした。

朝散歩から帰ったころは、かなり気温が上がり始めています。

そして、夕方には、、、。

朝散歩はいつものコース。稲の背丈がかなり伸びています。
冬の訪れが早い県北部では、田植えが早いので、もう7月の頃から稲穂が実っていますが、こちらはまだまだすくすくと成育中です。

早朝から農作業。というより、早朝こそが作業の適時でしょう。



今朝の稲穂の雫。

トリミングします。

路傍の朝顔。




田圃の中のこの花の名。また忘れました。



唐辛子も色づいて。








セセリチョウですが、、チャバネセセリかイチモンジセセリか、見分けられません。

全部、チャバネセセリでいいのかな?














夏休み中の孫のお供で、今日もメダカ取り。






日中は余りに暑いので、夕方5時前頃に出かけましたが。まだまだ暑い。

今日はこれにて。


溶けそうな暑さすべなく空を見る [私の切り抜き帳]

おかやま人権研究センター刊行の「人権21 調査と研究」という雑誌の、2016.6(No.2429)号に掲載されている吉永隆光先生の「戦時中の国民学校教科書の実相」という文章について、先日来これらの記事で紹介させて戴いています。

◇日本よい国 きよい国 に思う、の巻 

◇御国のために死ねと教えた教科書、の巻
『音楽』のつづきです。
教科書には載っていないがラジオを通して国民に歌われた歌として、何曲かを挙げておられます。その一つ。


 『欲しがりません勝つまでは』
作詞・山上武夫 作曲・海沼実
どんな短い鉛筆も
どんな小さい紙片(かみきれ)も
無駄にしないで使います
そうです僕たち私たち
欲しがりません勝つまでは
(二--四番略)


これは一九四二(昭和一七)年に大政翼讃会と新聞社が大束亜戦争一周年記念に国民決意の標語を募集した時に入選したものを歌の題にした曲で、天才童謡歌手川田正子が歌つてラジオを通してよく歌われた。 これは実のところは少国民でさえ耐えているのだからと、大人に倹約質素を強制するキーワードとして活用されたといえょう。空襲警報のない日でも、ラジオから川田正子の戦時童謡が流れない日はなかったという。
『欲しがりません勝つまでは』という戦時標語については、過去の◇青空に背いて栗の花匂うの記事で、こんなことを書きました。

 so-netブログの大先輩落合道人様のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。

 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
 ▼
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
笑止!というよりも、痛ましささえ覚える人間喪失ぶりです。
はだしのゲンにもこんな場面がありました。


終わりの「ブ-ッ」は、町内会の竹槍訓練に駆り出されたゲンの父親中岡大吉が、やる気なく放屁する場面です。こうした非協力的な態度や、「こんなもので戦っても銃で攻撃されたら皆殺しにされるだけで無駄なこと」「日本は他の国と仲良くしなければならない」等の言動から、非国民と排撃されれることになります。
少女歌手川田正子は、こんな過去記事でも取り上げたことがありました。

◇桑畑の歌から始まった、の巻
 導入で紹介された歌は、「汽車ぽっぽの歌」。
誰もが知っている童謡で、歌詞はこうです。
汽車(きしゃ) 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
僕等(ぼくら)をのせて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
スピード スピード 窓(まど)の外
畑(はたけ)も とぶ とぶ 家もとぶ
走れ 走れ 走れ
鉄橋(てっきょう)だ 鉄橋だ たのしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
汽笛(きてき)をならし
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆかいだ ゆかいだ いいながめ
野原だ 林だ ほら 山だ
走れ 走れ 走れ
トンネルだ トンネルだ うれしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
けむりをはいて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆこうよ ゆこうよ どこまでも
明るい 希望が 待っている
走れ 走れ 走れ
がんばって がんばって 走れ
が、その元の歌詞は、こうだったと、H先輩はおっしゃいます。
 (一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳
歌の題も「兵隊さんの汽車」といい、御殿場小学校教師であった作詞者が、出征する兵士を見送る内容の歌として作ったもので、戦意を鼓舞するために歌われたが、戦後、今の歌詞に改められたのだそうです。
ウィキペディアの記事にはこうありました。
1937年(昭和12年)にレコード用の童謡『兵隊さんの汽車』として世に出た。歌詞も現在のものと一部異なり、蒸気機関車(汽車)に乗って出征する兵士を見送る内容であった。
作詞者の富原は静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)で教員として働いており、旧陸軍の演習場があった御殿場線の御殿場駅で見た光景を歌詞にしたという。
後に川田正子の歌唱によるレコードが発売され、1945年(昭和20年)の大晦日にNHKラジオの『紅白音楽試合』(NHK紅白歌合戦の前身)で川田により この曲が歌われることになった。その際に近藤積ディレクターから終戦後の時代にあった内容への改作を依頼され、富原自身の手によって現在の題名と歌詞に改められた。 
ネット検索してみると、一番から三番までの歌詞はこのようだったそうです。
 兵隊さんの汽車
作詞:富原 薫
作曲:草川 信
歌唱:川田正子
制作:滝野細道
    (一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳
 
    (二 )
汽車汽車 來る來る
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
窓からヒラヒラ日の丸の
旗を振ってく兵隊さん
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳

    (三)
汽車汽車行く行く
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
まだまだヒラヒラ日の丸の
旗が見えるよ汽車の窓
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳



◇美作は海遠けれど


 栗と言えば、童謡「里の秋」が思い出されますね。
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

wikiには、こう記載されています。
「1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では夜空の下で遠くにいる父親を思う様子、3番では父親の無事の帰りを願う母子の思いを表現している。」 
そして、小学校の教師だった作詞者斎藤信夫が、昭和16年、この「里の秋」のもとになる「星月夜」という作品を書いていたことも紹介されています。

こちらのブログに、詳しい解説がありますので、参照させていただきます。 
http://blogs.yahoo.co.jp/gojukara11/2540856.html

「星月夜」の1・2番は、「里の秋」と全く同じですが、3・4番は、こうなっていたそうです。
 きれいなきれいな 椰子の島 しっかり護って 下さいと 
 ああ父さんの ご武運を 今夜も一人で 祈ります

 大きく大きく なったなら 兵隊さんだよ うれしいな 
 ねえ母さんよ 僕だって 必ずお国を 護ります

日本が、太平洋戦争に突入する時期であったことを反映して、子どもたちに戦意の高揚を煽る内容になっていました。自らもそう固く信じて、子どもたちを戦争に 送った教師の一人として、斎藤は深い悔悟にとらえられたと言います。「教え子を再び戦場に送るまい」という、戦後教師の共通の悲願は、この作者の思いでも あったでしょう。



朝夕は少し涼しさを感じるようになったとはいうものの、日中は驚異的な暑さです。


テレビニュースで、インタビューを受けた人が、「もう溶けそう」なあどといっています。同じセリフがつい口をついて出てくるので、笑えます。

わけもなく空を見上げてしまいます。













さすがに夕方になると、少しはしのぎやすくなります。

2歳児の孫を自転車に乗せて、近所をぐるぐるあやして回ります。

こんな光景に出会うと、ちょっと自転車を止めて、撮影します。









先日も、2歳児を載せた自転車から、空と雲を写しました。


8月の雲と空

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8月の雲と空
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8月の雲と空


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8月の雲と空


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8月の雲と空




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8月の雲と空

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8月の雲と空


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朝景色も少し貼っておきます。

8月の田園の朝景色

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8月の田園の朝景色


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8月の田園の朝景色


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薄明光線(はくめいこうせん)というものがあるそうです。

ウィキペディアには、こうあります。

 薄明光線(はくめいこうせん、英語: crepuscular rays)は、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象の俗称。通常とは逆に、雲の切れ間から上空に向かって光が出ることもある。おもに、地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方に見られる。世界中の人々の間で美しい自然現象と認識されており、写真撮影における人気も高い。
名称

「薄明光線」のほか、別名が多数ある。気象現象としては「薄明光線」、一般的には「天使の梯子」がよく知られている名称。

    天使の梯子、天使のはしご(てんしのはしご、angel's ladder)
    天使の階段(angel's stairs, angel's stairway)
    ヤコブの梯子、ヤコブのはしご(Jacob's ladder)
    レンブラント光線
    また、単に光芒と呼ぶこともある。

ヤコブの梯子、天使の梯子という名称は、旧約聖書創世記28章12節に由来する。この記述では、ヤコブが夢の中で、雲の切れ間から差す光のような梯子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされる。このことからやがて自然現象もそのように呼ばれるようになった。

レンブラント光線という名称は、レンブラント・ファン・レインがこれを好んで描いたことに由来する。その結果、絵画表現上においては、コントラストが強くなり、光の当たる部分と闇の部分との対比を強調され非日常的な雰囲気や宗教的な神々しさを表現することに成功した。

    晩年の開高健は、しばしばテレビなどで好んで「レンブラント光線」という言葉を口にした。
    宮沢賢治はこの現象を「光のパイプオルガン」と表現している。

 

 

「天使のはしご」「天使の階段」 「光の階段」という言葉は、聞き覚えがあります。 宮沢賢治の「光のパイプオルガン」は記憶にありませんでした。彼の詩集「春と修羅」は読んでいたはずなのですが

この詩が収められています。

 

三八四  告別

一九二五、一〇、二五、



おまへのバスの三連音が

どんなぐあひに鳴ってゐたかを

おそらくおまへはわかってゐまい

その純朴さ希みに充ちたたのしさは

ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた

もしもおまへがそれらの音の特性や

立派な無数の順列を

はっきり知って自由にいつでも使へるならば

おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

泰西著名の楽人たちが

幼齢弦や鍵器をとって

すでに一家をなしたがやうに

おまへはそのころ

この国にある皮革の鼓器と

竹でつくった管(くゎん)とをとった

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで

おまへの素質と力をもってゐるものは

町と村との一万人のなかになら

おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも

五年のあひだにそれを大抵無くすのだ

生活のためにけづられたり

自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは

ひとにとゞまるものでない

ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、

おれは四月はもう学校に居ないのだ

恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり

きれいな音の正しい調子とその明るさを失って

ふたたび回復できないならば

おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは

すこしぐらゐの仕事ができて

そいつに腰をかけてるやうな

そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき

おまへに無数の影と光の像があらはれる

おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら

いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり

そらいっぱいの

光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ
 

 きょうはこれにて。


プライベートビーチの昼下がり、残暑と言うには余りの暑さ、の巻 [折々散歩]

小3の孫が、8月6日、広島、テニアン島、B29、エノラ・ゲイ、リトルボーイ、8月9日、長崎、8月15日、降参、等の言葉を覚えました。日本が戦っていた相手国はどこか、同盟を結んでいた相手はどこか、原爆を投下した国はどこか、、、などの話題に、中学生も首をかしげています。ポツダム宣言は知らないそうです(つまびらかではない、という首相とどちらが上等かわかりませんが)。
戦争体験の伝承は、このように薄らいでいることは確かです。
今日は長崎の日。
以前、こんな記事を書きました。中学生の孫は、広島は知っていましたが、長崎が浮かびませんでした。
知識がすべてではないでしょうが、知らなければ思うこともできないでしょう。
今年の立秋は8月7日だったそうですが、秋とは名ばかり、各地で体温を上回る酷暑が続いています。我が地方も、昨日、今日と36℃台と会って、これを「残暑」と呼ぶことには抵抗があります。
過去に、立秋にちなんでこんな記事を書きましたが、今年はなかなかその気になれません。
秋立つや白きひかりのなほ白き
秋立つやなまあたたかきかぜなれど
それでも、日の出時刻は次第におそくなり、日没は早まって来ているようです。
それにしても。朝から強い日差しです。
正面に見えるのは、いつもの常山です。




ひまわりも少し疲れ気味。





余りに暑いので、海へ行こうかという話になりました。
実は昨日もパパと泳ぎに行ったそうで、上の中学生は今日は遠慮すると言うので、小三生だけ連れて、じじばばで出かけました。
↓この記事は、もう一昨年のことになります。上の男の子が小4でした。
プライベートビーチ
↓これはその翌年。2014年の夏でした・
土用丑むまとむなぎのえとせとら
同じ場所です。『日の出海岸』と言います。














まぶしい空です。

今日はこれにて。

御国のために死ねと教えた教科書、の巻 [私の切り抜き帳]


先日の日本よい国 きよい国 に思う、の巻の記事のつづきです。雑誌「人権21」掲載の吉永隆光先生の「戦時中の国民学校教科書の実相」という文章から、「芸能科音楽」の話題をたどります。


歌には不思議な力があり、ある時期、その歌になじむと、めったに忘れることがない。(中略)そればかりではなく、その歌になじんた頃の自分の生活体験を思い出すことすら珍らしくなぃ……その歌とかかわった期間の記憶を抽出するキイの役割を果すのである。これは山中恒の『ぼくら少国民と戦争応援歌』のまえがきの文章である。
まさにその通りで、著者も学校で習つた歌や、当時唯一 の電波マスコミであったNHKのラジオ放送を通して繰返し聴いた軍国童謡や歌謡は、歌い出しの部分を聴くとメロデイが自然に口に出るのである。 


少し端折って先を読みます。


 ここで、音楽の教科書の内容を分析してみたい。
一年生では「キミガヨ」が最初に出て、続いて「ヒノマル」、最後の方で「兵夕イゴッコ」「ヒカウキ」の教材となる。
二年生になると「君が代」と「きげん節」と儀式の歌が最初に出、冒頭で引用した「日本」の歌詞が伊勢神宮内宮のカラーの絵とともに出る。また「富士の山」(神の山とあがめる)「兵たいさん」の歌詞がいづれも楽譜つきでみられる。
三年生になると、軍国主義の教材が二六教材のうち、一二教材となり、学校で最も重視された四大節(一月一日、紀元節、天長節、明治節)の歌が掲載された。
四年になると儀式の歌と軍国日本を謳歌する教材が二六教材中一七教材と一挙に増大する。
五年生では軍国教材が二六教材中二〇教材、 六年生では二七教材中二〇教材となる。ここに軍部からの要求が反映している。自然や季節、年中行事などの分野が急減している。特に時局を反映した歌の一部をあげると、
「潜水艦」「軍旗」「三勇士」…三年生
「靖国神社」「入営」「無言のがいせん」…四年生
「大八洲」「赤道超えて」「忠霊塔」「戦友」「大束亜」「特別攻撃隊」「母の歌」「白衣の勤め」…五年生
「肇国(はつくに)の歌」「少年産業戦士」「落下傘部隊」「船出」「満州のひろ野」…六年生
などである。


題名からだけでもおおよそ察しがつくように、忠良な軍国少年・少女を育成するためのプログラムがてんこ盛りです。子どもたちにとって最も信頼すべき学校が、その権威をバックに、彼らの魂に刻みつけたものは、、、。




『靖国神社』
1、ああたふとしや、大君に
命ささげて、国のため
たてしいさをは、とこしへに
光りかがやく靖国の神。
二、ああ、かしこしや、櫻木の
花と散りても、忠と義の
たけきみたまは、とこしへに
国をまもりの靖国の神。『音楽』 四年生用
 




『大東亜』
一、椰子(やし)の葉に鳴る海の風。峯にきらめく山の雪。
南十字と北斗星、連ねて広き大東亜
二、ここに生まれし十億の人の心はみな一つ。
盟主日本の旗のもと、ちかひて守る鉄の陣。  『音楽三』五年生用・三番略



『無言のがいせん』

一、'雲山(うんざん)万里をかけめぐり、
敵を破つたをぢさんが
今日は無言で帰られた。
(二番略)
三、み国の使命にぼくたちも、
やがて働く日が来たら、
をぢさんあなたが手本です。  『音楽二』四年生用

 


 『特別攻撃隊』
一、一挙にくだけ、敵主力。
待ちしはこの日、 この時と、
怒涛の底を矢のごとく、
死池に乗り入る、艇(てい)五隻
(二~四番略)
五、ああ、大東亜聖戦に
みづくかばねと誓ひつつ、
さきがけ散りし若桜。
仰げ特別攻撃隊。   『音楽三』五年生用

次のまとめは、実に的確です。


 これらの歌は、なにがなんでも「国のために死する」ことを最高の美であることを知らしめ、「無言のがいせん」では「おぢさんあなたが手本です」と死をすすめるような内容にまでになっている。「特別攻撃隊」は、緒戦のハワイ真珠湾を奇襲攻撃した特殊潜航艇で戦死した乗組員が、 後に九軍神として英雄視された事を讃美したもので、歌うことによりその忠勇に感激させ忠君愛国の精神を養わせるものであった。
このように教材の多くは神国日本を礼讃し、大東亜戦争を聖戦とし児童を皇国民として錬成する役割を受けもったのが音楽科であったのである。

子どもたちにとって、最も信頼すべき学校・教師が、その権威の力を背景に、子どもたちを勇んで戦場におもむかしめる魔法の刷り込み。これこそ『洗脳』というべきものでしょう。これに疑問を覚えたり、異を唱えたものには「非国民」として排斥・迫害され、その声も消し去られてしまったのですから、『洗脳』の効果は絶大といわねばなりません。。






上野博子作詞、荒木栄作曲「子供を守る歌」の一節が、脳裏をめぐります。

「御国の為に 死ねと教えた昔
命を散らした教え子の顔が

目に浮かぶ 目に浮かぶ」

過去にもこれらの記事で触れました。

◇さらにもう一つの11月3日、の巻

◇だまされも だましもせぬと 誓うた日 

◇八日目の蝉もをるらん原爆忌 


この曲の歌詞とメロディが、うたごえサークルおけらのhpに掲載されていますので、この際紹介させて戴きます。



今、このような歴史を美化し、その再現をはかろうとする勢力が勢いを増しています。くどいようですが、イナダ防衛相の過去の発言を、majyo様の記事から引用して再掲します。

ここまで来たか防衛大臣

 新聞やテレビでは伝えていないのだろう
彼女の発言を列挙するけれど 知らない方は驚く
極右のタカ派です

命を捨てて国を守れ
国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです




靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです




祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にモラルもないし、安全保障もあるわけがない。そんな国をこれから誰が命を懸けて守るんです




「教育体験のような形で、若者全員に一度は自衛隊に触れてもらう制度はどうですか」「草食系」といわれる今の男子たちも背筋がビシッとするかもしれませんね」




どこの世界に自国を自分で守らないと宣言する国があるでしょうか



もちろん核武装論者です


 



イナダ防衛相はごめんですが、朝の稲田は美しいです。





8月の朝の稲田
8月の朝の稲田 posted by (C)kazg 

 

今日もまた、似たような稲葉の露のクローズアップ写真を並べてみます。

カメラはOlympusEP2、レンズは、古い28mm F1.8 を、リバースアダプターで逆さに装着。マクロ効果を狙ってみました。

この撮影方法は、過去記事でも話題にし、そのたびに困難を感じて専用マクロレンズの優位を感じて来たところですが、性懲りもなく、またまた実験です。

◇マクロレンズは楽しいな

◇白玉か何ぞの露に朝日かな

◇果てなきマクロの珍冒険

◇葉月晦の薀蓄!!

 

なかなかピント位置が浅くて、たくさん写したなかで見られそうなのはこれくらいでしょうか。手持ち撮影では厳しいかな?

 稲葉の朝露

葉の朝露 posted by (C)kazg 

 

  稲葉の朝露

 稲葉の 朝露 posted by (C)kazg

 

稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg  

 

稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 


稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted b  y (C)kazg 


稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 


稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 

 

稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 


稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 



夕景色も心引かれます。


8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 

 

8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 

 

8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 

 

8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 

 

8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 


8月の夕空
8月の夕空 posted by (C)kazg

今日はこれにて。


はだしのゲンを思い出す。(8月に寄せた学級通信4) [私の切り抜き帳]

先日、部屋の掃除で古い学級通信を引っ張りだしたのをきっかけに、その年その年に原爆忌に寄せて書いた文章を、ご紹介しています。
今日はその4回目です。
前回掲載した1年生の生徒に向けて書いた通信の、第43号。1987年11月24日付とあります。


この年の秋、学校の映画鑑賞行事で「はだしのゲン」を観た後の、生徒たちの感想文をもとに書いた記事でした。
「はだしのゲン」は、もちろん、自身の被爆体験に基づいて描かれた中沢啓治さんの長編マンガです。

本棚の奥の方に、汐文社版の全10巻を見つけました。
我が家の子どもたちも読みましたが、「学級文庫」において生徒に貸し出したこともありました。
これを原作に制作された実写版映画(1976年、監督:山田典吾、現代ぷろだくしょん)でした。

はだしのゲン [DVD]

はだしのゲン [DVD]

  • 出版社/メーカー: 北星
  • メディア: DVD




前回同様「手書き新聞」で、読みにくいですので、TEXTに起こしてご紹介します。

 くり返すまいゲンの悲劇
11月19日に鑑賞した「はだしのゲン」についてみんなの感想文が寄せられたので、その一部を紹介します。
自由な目でいろんな角度から受け止めており、教えられるところも少なくなかった。九通しているのは、戦争はイヤだという思い。ーーーまったく同感!

父中岡大吉の生き方をどう思うか?
○非国民といわれながらも、ただ一人で戦争に反対した生き方は、勇気のあることを証明したと思う。(H)
○美しい心の持主だと思う。(H)
○自分の意見をはっきり言ってすばらしいと思う。(Y)
○自分の意志をつらぬいて正しいと思う。(M)
○とてもリッパだと思う。(K)
○戦争中にはっきり戦争反対をいったのはえらいと思った。(S)
○非国民といわれても自分の考えをつらぬくところはすごいと思う。(M)
○自分の意志を他人に影響されずつらぬく立派な生き方だと思う(O)
○自分の信念をつらぬいてりっぱな生き方だと思う。(Y)











ちなみに、この中岡大吉を演じたのは、三國連太郎でした。

三國連太郎といえば、私などが思い出すのは、「飢餓海峡」で演じた、陰影に富んだ凄みのある演技でした。老人役を演じるために、健康な歯を上下10本も抜いた(家城巳代治監督『異母兄弟』)などのエピソードからも、近寄りがたい個性派俳優という印象が強い役者さんでした。

その三國連太郎が、戦争反対の信念を持つゆえに「非国民」扱いされながらも節を曲げず、しかも常に自然体に、時におおらかなユーモアと余裕を持って生きる父親役を好演して、作品も奥行きを確かなものにしています。「非国民の子」といじめられることを厭って予科練に志願していく長男浩二が乗る汽車を、万歳で見送るような、人間味と妻子への深い愛情も、心をうちます。徴兵を忌避して逃走していたところを、母に密告されて戦場におくられたという悲痛な体験が、おのずとにじみ出ていると感じるのは、あながちこじつけとは言えないでしょう。ウィキペディアの記事を借ります。

 1943年(昭和18年)12月、20歳の三國は大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆に戻り、甲種合格後、実家へ戻った。すると「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。自分に赤紙(召集令状)が来たことを知った三國は、「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。何とか逃げよう」と考え、同居していた女性とすぐに郷里の静岡とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。
逃亡四日目に無賃乗車で乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から韓国を経て中国大陸へ行くことも書きそえた。
数日後、佐賀県の唐津呼子で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まり連れ戻された。しかし処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の歩兵第34連隊に入れられた。
中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、三國は母親が家のために黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。家族が村八分になるのを恐れ涙を呑んでの決断だったという。
中国大陸の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは二、三十人にすぎなかった。戦地へ向かう途中、三國は身体を壊し、熱病にかかる。十日間意識不明になり、死んだものだと思われて、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていたが、焼き場に運ばれいざ焼く番になってむしろを剥がしたら目を覚ましたという。漢口の兵器勤務課に配属されてこの部隊で終戦を迎えた。

映画の中岡大吉を見て、「kazgそっくり」と評した生徒がありました。30代初めの私としては、ちょっと年寄り扱いされた気はしましたが、密かに満悦を覚えたことでした。「我ながらこころおごりせられし」というやつです。それ以来、なおのこと、特別に気になる俳優でした。晩年の「釣りバカ日誌」で見せた、飄々としたなかに、人間としての弱みも威厳も寂しさもあわせもった老社長「スーさん=鈴木社長」も、今では忘れることのできないはまり役でした。ごく最近亡くなられた、という印象ですが、調べて見ると 没年は2013年でした。寂しいことです。

学級通信の続きです。

 兄浩二の生き方をどう思うか?
○浩二には浩二の考えがあったと思う。(H)
○家族のために自分を犠牲にするやさしい心を持っている。(K)
○父が非国民といわれ、つらいからといって海軍へ志願したのはちょっと、、、。でも、弟や英子のためという点ではしかたがないかも、、、。(K)
○なぜ戦争にいきたがるのかわからなかった.(U)
○父を非国民といわれ、他にどうしようもなかったのだと思う。(Y)
○非国民といわれたからといって、自分から海軍に志願するなんて、なんてバカなやつだと思った。もっと自分の命を大切にすればいいのにと思った。(T)
○私でも心ではゲンみたいに
思っても、お兄さんみたいな生き方でいくと思うからしかたないと思う。(H)
○他人の目ばかり気にしてもっと父の気持ちもわかってあげるべきだったと思う。(T)
○家族思いのいい人だけどいまいち親心がわかっていない気がする。(S)






ウィキペディアから引用します。

中岡 浩二(なかおか こうじ)

中岡家の第一子・長男。登場時17歳。病理学の研究家を志していた。戦時中は家族が非国民として迫害されるのを撥ね返すため、海軍の予科練に自ら志願。軍隊の内部から戦争の悲惨さを実感し、また同期の花田の自殺を訓練中の事故死として処理され、国のために息子が死んだことを喜ぶ花田の両親を見て、父の言っていたことが正しかったと改めて知る。 

学級通信のつづき。
 ゲンの生き方をどう思うか?
○たくましい。(K)
○いたずらだけど、しっかりしていると思う。(S)
○子供として父の考えを理解しきれなかったが、後にわかってたくましく生きていったところがすばらしい。(F)
○男らしくまっすぐな生き方。(O)
○みんなから悪者の目で見られても、小さいのにがんばったなあって思うし、勇気があると思う。(E)
○いたずらをよくするけど、父の生き方をよく理解していて、いざとなったときしっかりしていたと思う。(A)
○自分が犠牲になっても人を助けることができるところがいいなと思う。(S)
○「非国民の父ちゃんはきらいだ」と言っていたけど話を聞き、父さんが正しいということがわかり、それに従い後にはお母さんを守りながら生きていき、まだ小さいのにすごいと思う。(W)

町内会長やその息子をどう思うか?
○人間として許しがたいほど悪く思う。(F)
○大きらい。(R)
○町内会長や息子がゲンたち家族にしたことは、いまでいうと”いじめ”だと思うけど、実際その時代にすんでいる人にとっては当たり前であるという感覚がこわい。(F)
○じつにきたないけど、こういう人が一般的でよい人だと思われていた日本はもっときたない。(J)
○少し悪いなと思ったけれど、実際こういう立場だったらみんな町内会長の息子のようにしたと思う。(M)
○なにも言えない.(Y)
○この時代なので、それがふつうだと思う.(N)

朴さんに対するゲンたちの態度は?
○とても朴さんがかわいそうだった。同じ人間なのにどうしてこんなに差別されなくてはいけないのかなあと思った。(M)
○朴さんは傷ついただろうと思った。(S)
○ゲンたちもつらいけれども、朝鮮人は死ぬまで朝鮮人だということをわかってあげてほしかった。こんなふうに戦争のために、つらいおもいをしていたことを考えると悲しくなった。(I)
○まわりの人々によって、ゲンも、朝鮮人は差別されるものだと思いこみかけている。早くその間違った考え方に気づいてほしいと思った。





ちょっと前、公共図書館からマンガ「はだしのゲン」を貸し出し禁止にしたとの報道が注目を集めました。
 

はだしのゲン:松江市教委、貸し出し禁止要請「描写過激」


毎日新聞 2013年08月16日 19時22分(最終更新 08月16日 21時28分)
 漫画家の故中沢啓治さんが自らの被爆体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」 について、松江市教委が市内の全小中学校に対し、児童生徒に貸し出さないよう要請していたことが分かった。「描写が過激」として昨年12月、教師の許可な
く自由に閲覧できない閉架措置を求め、全校が応じていた。出版している汐文社(ちょうぶんしゃ)(東京都)によると、学校現場におけるこうした措置は聞い
たことがないという。
 ゲンは1973年に連載が始まり、87年に第1部が完結した。原爆被害を伝える作品として教育現場で広く活用され、約20カ国語に翻訳されている。
松江市では昨年8月、市民から「間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に提出された。同12月の本会議で全会一致
で不採択となったが、市教委が漫画の内容を改めて確認。「首を切ったり、女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」と判断し、その月の校長会でゲンを
閉架措置とし、できるだけ貸し出さないよう口頭で求めた。 
現在、市内の小中学校49校のうち39校がゲンを全巻保有しているが、全て閉架措置を取っている。古川康徳・副教育長は「ゲンは平和教育として非常に重要
な教材。教員の指導で読んだり、授業で使うのは問題ないが、過激なシーンを判断の付かない小中学生が自由に持ち出して見るのは不適切と判断した」と説明す
る。
 一方、汐文社の政門一芳社長は「原爆の悲惨さを子供に知ってもらいたいとの願いで描かれた作品。閉架によって風化しないか心配だ。こんなに悲しいことはない」と訴える。
 
「ゲン」を研究する京都精華大マンガ学部の吉村和真教授は「海外で注目される中、松江市教委の判断は逆行している。ゲンは図書館や学校で初めて手にした人
が多い。機会が失われる影響を考えてほしい。代わりにどんな方法で戦争や原爆の記憶を継承していくのか」と話した。【宮川佐知子】

この件について、2013年12月の記事で、話題にしたことがありました。

郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第8回

 こどもたちに平和を愛する心を育てるには、子どもたち自身が、平和で穏やかな環境のもとで健やかに育てられるよう、心を砕くべきだという。優しく、柔らかで、美しいものや思いやりの心に囲まれて、温かくヒューマンな情操を育てることが、肝要だという。

その意味では、残虐な犯罪や猟奇的な事件が毎日のように報道され、一方では希望を失って自死する人の数が記録を更新しつづける、こんな殺伐とした世相に、慣れっこになって欲しくはない。
だからといって、「はだしのゲン」の描写が残酷だからと、図書館から撤収して子どもたちの目から遠ざけるという「教育的配慮」は、まったくナンセンスだろう。歴史の中で、現に人間が為した「悪魔的行為」を、未来において繰り返しも繰り返されもせぬためには、事実を正確に知り、冷厳に受け止めることは、決定的に必要であるはずだ。
私の作品の殺戮場面は、もちろん「歴史の事実」というわけではなく、あくまでも想像に基づく創作である。ただ、その着想のきっかけには、「ソンミ村事件」があったと、今ふり返ってみて思い至る。「カリー中尉」ほか、当事者の証言によって、この虐殺事件が明るみに出たのだが、さしずめ「特定秘密法」なんかでは、国家の威信を傷つける秘密みたいなことになって、話した兵隊さんも、報道機関も、関係省庁の役人も、みんな罰せられるんじゃないかと心配なんですが。


マンガ「はだしのゲン」を、子どもたちの目から隠す理由を、残虐場面のせいするのも不当ですが、アベ政権の台頭に勢いづく右翼国粋主義・排外主義勢力は、「反日漫画」「自虐史観に基づく極左プロパガンダ」などと口を極めてその「思想」を指弾しています。その偏向ぶり、その狭量さにあきれるとともに、今思えば、当時の高校生がいかに柔軟で公平な分別を有していたかに思いをいたしているところです。


 ところで、この「8月に寄せて」のシリーズを読んでくださったイギリス在住の友人sparky女史から、次のようなコメントをいただきました。

ニューズウィーク日本版のこの記事に書かれている英国議会でのやりとりをテレビで見ました。労働党のジェレミー・コービン党首が言っていることが道理にかなっていると私は感じたのですが、この論理はイギリスでは通用しないようです。
http://www.newsweekjapan.jp/sto・・・/world/2016/07/eu-35_1.php

 

 

 


 
 英語ですが、動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=ho9mfuxuI18
 

 この夏は、「オバマ効果」で例年になくヒロシマ来訪者が多いそうです。そんな今こそ、「核なき世界」に向けて日本の果たす役割は、大きいはずです。

 ところが、過去に「日本独自の核保有を、単なる議論や精神論ではなく国家戦略として検討すべき」(正論2011年3月号)と公言してきた超タカ派イナダ氏を防衛相に据えたタカ派アベ首相は、躍起になって取り繕おうとしていますが、「核なき世界」への熱意はみじんも感じられません。残念なことです。

 
 

稲田防衛相の核巡る発言、首相「政府方針と矛盾しない」


朝日新聞デジタル 8月6日(土)11時39分配信

安倍晋三首相は6日、広島市内で記者会見し、稲田朋美防衛相が将来の日本の核兵器保有を否定しない発言をしていることについて、「我が国は核兵器を保有
することはありえず、保有を検討することもありえない。稲田防衛大臣の発言はこのような政府の方針と矛盾するものではない」と述べた。




稲田氏は過去に核保有を「国家戦略として検討するべきだ」と述べていた。3日の防衛相就任会見で見解を問われ、「将来的にどういった状況になるかということもあろうかと思うが、現時点で核保有を検討すべきではない」と述べ、将来の核保有を否定しない発言をしていた。


 

 今日の写真は、相も変わらず田園の朝景色です。

PENTAXq7+標準レンズ01 STANDARD PRIMEです。

8月の田園朝景色
8月の田園朝景色 posted by (C)kazg 

 

 8月の田園朝景色


8月の田園朝景色


  8月の田園朝景色


  8月の田園朝景色


 


  8月の田園朝景色

 8月の田園朝景色

稲葉に宿る朝露。これも、PENTAXq7+標準レンズ01 STANDARD PRIMEで。

稲の葉の朝露

以下は、pentaxq10+smc PENTAX-DA40mmF2.8 XS。kマウント→qマウントアダプタを介して装着します。望遠効果が高いので、マクロレンズ並の接写が期待できますが、ピントを合わせるのはなかなか骨が折れます(手持ち撮影なので余計に)。
 稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露
稲の葉の朝露 posted by (C)kazg

 こんな望遠撮影も、精細度を求めなければ可能です。センダンの木の手前のさぎをねらったのですが、、、、。

8月の田園朝景色

きょうはこれにて。


夏が来れば思い出す、の巻(8月に寄せた学級通信3) [私の切り抜き帳]

8月を題材にした古い学級通信シリーズの三回目です。

先般の部屋掃除で見つけた昔のスクラップファイルのうち、より古い時代のものとして、1988年の、一年生のホームルーム担任をしていた頃のものが見つかりました。その25号が、8月6日付「原爆忌特集」と銘打っています。

ごらんのように、懐かしの「手書き新聞」です。



これでは読みにくいので、文章部分を書き起こしてみます。


夏が来れば思い出す

8月に寄せて


♪♪夏が来れば思い出す---の歌ではないが、蝉鳴き、入道雲の湧く季節になると、8月6日、9日、そして15日のことが思い出される。戦争と平和の問題は、常に考え続けなければならない問題であって、限られた一時期だけ、年中行事のように取りざたするだけでは不足ではないかとも言えようが、でも、年に一度だけでも、考えないよりはマシというものだろう。

戦争体験の「風化」と言うことが言われて久しい。あの、敗戦の日から数えて.早や42年.戦後生まれの世代が日本人口の過半数を占めるに至り、成人として戦争を体験した人々はすでに多くは現役を退いている現在、戦争体験を語り継ぎ、聞き継ぐ機会がきわめてわずかになっていることは、否めない事実だろう。



戦後は遠くなりにけり?

♪♪戦争が終わってぼくらは生まれた、戦争を知らずにぼくらは育った----と、北山修がうたい、いわゆる「戦無派」が青春時代を謳歌していたころ、《政治的には70年安保改定とそれにひきつづく沖縄・小笠原ね返還をめぐる事態が国民世論を二分していたころ、そしてケネディ、ジョンソン、ニクソンと続いたベトナム・インドシナへの侵略が国際的批判をおしてますます泥沼化していたころ)ちょうど君たちは生まれたわけだ。

そうしてみれば、「戦争を知らない」世代のはしりである私などに比べてさえも、君たちにとってあの15年戦争が、言ってみれば明治維新や西南の役などと同様の、遠い過去の歴史上のできごとと思えるのも無理からぬことと言えるかもしれない。

ひきつづく朝鮮戦争やベトナム戦争、あるいは最近のフォークランド紛争、イ・イ戦争、グラナダ、ニカラグァなどでの争いも、いわばブラウン管のなかだけの、自分とはかけ離れた絵空事と思えるかもしれない。



永久に”戦争を知らない子ども”でありつづけるために

しかし、それは、君らおよび、君らの後の世代の子どもたちが、永久に「戦争を知らない子どもたち」であり得ることを意味しているのだろうか。「戦争を知らない」つもりが、実は「戦争について無知である」ことであってはなるまい。現に、「何にも知らないうちに」「だまされて」無謀な戦争に駆り立てられてしまった、との痛恨は、42年前の日本国民の共通の思いであったはずだ。そして平和は他から与えられるものではなく、やすやすと自然に成立するものでもなく、主権者である国民一人ひとりが、真実をしっかりと見抜き、英知と勇気をふりしぼってみずからの手でまもりぬく以外にないという教訓もまた、切実なものであったはずだ。

地球上のすべての地域から戦火が絶え、この国を含めてどの土地からも新たな戦争の火種が消えた時に初めて、真に「戦争を知らない子どもたち」が誇らかに胸を張り”平和の歌を口ずさむことが可能なのだと私は思う。そして、願わくば、その日の近からんことを。



だから戦争(の真実)を知ろう

「昔の若者は立派だったのに---、近頃の若い者は苦労を知らない。辛抱ができない。礼儀知らずで、自分勝手で、人トのため、社会のため、国のために尽くすということを知らないetc.」という式の説教と一体という印象があってか、「戦争の話なんか願い下げだ」という人も少なくはなかろう。あるいは戦争や平和の考えたりすること自体、話題を話し合ったり、考えたりすること自体、シンキクサクて、カッタルクて、ネクラのイメージで、---という感じがいておっくうがる人もいるかもしれない。

しかし、七夕ではないが、せめて年に一度、この時期くらいは、国民的な(人類的な)体験としての被爆の実相と、これを頂点とする戦争の惨劇を改めて見つめ直し、マジに考えてみる機会を持ちたいものだ。



今日は広島原爆忌。事態は30年近く前の、この記事のころとどう変わったでしょうか?

国際的には、おびただしい紛争やテロによる血なまぐさい犠牲がうずたかくつみあげられましたし、国内的には、憲法上の制約を次々と突破して、自衛隊の海外進出を歯止めなく広げてきました。そして、アベ内閣のもとで、ついに、集団的自衛権の行使をも合憲と強弁して、戦争法(「安保法制」)を強行し、夏の参院選で得た多数議席を背景に、明文改憲への企図をむき出しにしてきています。今次の内閣改造では、公明党以外の全閣僚を、日本会議など、超右翼・タカ派の靖国派が占有し、中でも防衛大臣に、カルト的狂信性を隠さない名うてのタカ派稲田朋美を任命するなど、好戦的姿勢をむき出しにしています。

稲田新防相について、so-netブログのお仲間majyo 様がこんな記事を書いておられますので、ご紹介させていただきます。

ここまで来たか防衛大臣


新聞やテレビでは伝えていないのだろう
彼女の発言を列挙するけれど 知らない方は驚く
極右のタカ派です

命を捨てて国を守れ
国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです


靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです


祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にモラルもないし、安全保障もあるわけがない。そんな国をこれから誰が命を懸けて守るんです


「教育体験のような形で、若者全員に一度は自衛隊に触れてもらう制度はどうですか」「草食系」といわれる今の男子たちも背筋がビシッとするかもしれませんね」


どこの世界に自国を自分で守らないと宣言する国があるでしょうか

もちろん核武装論者です



海外からも、「安倍首相、防衛相に強硬派の国粋主義者を任命」(英「フィナンシャル・タイムズ」)、「(防衛相就任後の4日の記者会見で日本の戦争を侵略と考えるかどうかの問に)”個人的見解を表明する立場にない。”と明言しなかった」(米「ABCテレビ」)、「(同会見で)靖国神社を参拝するかどうか明言を避けた」(ロイター通信)、「強行派で国粋主義者として有名な稲田朋美氏を防衛相に指名」(フィリピン「マニラ・タイムズ」)などと警戒の声が上がっています。



30年近く前のこの願いを、もう一度繰り返して表明しておきたいと思います。 「地球上のすべての地域から戦火が絶え。この国を含めてどの土地からも新たな戦争の火種が消えた時に初めて、真に「戦争を知らない子どもたち」が誇らかに胸を張り”平和の歌を口ずさむことが可能なのだと私は思う。そして、願わくば、その日の近からんことを。」



冒頭のHR通信は裏表の二面刷りで、裏面には、この詩を中心的に紹介するとともに、「戦争と平和を考える本」の紹介などに紙面を割いています。


今月の詩
 
仮繃帯所にて


あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち


血とあぶら汗と淋巴液(リンパえき)とにまみれた四肢(しし)をばたつかせ
糸のように塞(ふさ)いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう


焼け爛(ただ)れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶(くもん)の埃(ほこり)に埋める


何故こんな目に遭(あ)わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない


ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)


おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった

にんげんのむすめだった日を


この詩は、以前、なんと言っても峠三吉でした。

という記事でも紹介しました。また峠三吉については、

八日目の蝉もをるらん原爆忌

『原子雲の下より』 のことなど

等の記事で書きました。峠三吉については、まだまだ語り足りない、学び足りない思いがありますが、また後の機会に譲ることにします。

今日は、常になく早い時間帯のアップロードですが、8月6日の朝、投稿することに意味を求めたくて、急いで書きました。が、残念、今正午の時報を聞きました。

最後に8月にちなんで、蝉百態です。



8月の朝の蝉

8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg




8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の午後の蝉


8月の午後の蝉 posted by (C)kazg



8月の午後の蝉


8月の午後の蝉 posted by (C)kazg
今日はこれにて。

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