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ひとりゐてつれづれわぶる大晦日 [折々散歩]

大晦日です。

昨日の記事の終わりに、「今年はこれにて」と書いて、筆納めにしたつもりでしたが、今日は日中ひとりぼっち。掃除洗濯をしたり、年賀状の出しそびれを郵便局に持って行ったり、窓ガラス拭きをしたり、部屋の片付けの続きで古い書類やはがき、手紙類を整理したり、、、整理のつもりが部屋に広げて読みふけったり、、、、ちっともはかどりませんが、すっかりくたびれて、早々に切り上げました。

部屋の掃除をしながら、埃だらけのレコードプレーヤーが不憫に思えて、久しく触っていなかったレコードプレーヤーに通電してみました。ターンテーブルに何年も載せたままのレコードに針を落としてみますと、期待以上のゆかしい音が聞こえました。なんと、第九でしたよ。我ながら趣味がよろしい(笑)。

若かりし日に買ったプレーヤーが故障して、長い間放置していたのですが、断捨離圧力に押されて、スピーカーや、他の写真用品(焼き付け機など)などと一緒に、古道具屋へ持ち込みましたら、六〇〇円だかの馬鹿馬鹿しい値段がつけられて、いっそあきらめがついて売り払いました。すっきりしたけれど、少し寂しくて、ほど経ずして、ハ○ド○フで中古(ジャンク?)品を買いました。カートリッジは新調したので、これが一番高くつくことになりました。アンプやスピーカーも、中古やジャンクでそろえて、それなりのオーディオ環境を整えました。退職でもしたら、心のどかに音楽を楽しむこともあろうかと心算しておりましたが、病気入院前後からでしたか、気力が伴わなくなって、時々横目で見ながらも放置しっぱなしでした。部屋の中で、かなりのスペースを占めながら無用な邪魔者あつかいをされて気の毒な存在ですが、こうして「一人ぼっち」の時間が増えるなら、時々はお相手してもらうことに決めました。
徒然草には「つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。(なす事もなくひとり手持ちぶさたな状態をを苦痛と感じる人は、どういう心なのだろう。心が乱されることなく、ただ一人でいることだけが、よいことなのだ。)」とありますが、それでも、つれづれをもてあまします。やはり、今日も記事を書くことにしました。

これまで、大晦日には、こんな記事を書いてきました。
◇存分に撮り納めして歳暮るる

◇大晦日の蘊蓄 その他

◇大晦日のカワセミ



もはや、蘊蓄はネタ切れです。

今日は、散歩していませんので、先日の散歩でのストック画像を掲載させていただきます。

pentaxk5Ⅱ+AFBORG45edを持って、児島湖界隈を歩きました。

常山が、この大きさで映ります。







茅原に騒いでいるのは、スズメでした。

トリミングしています。









カワセミもいました。



一枚だけ写したら、気づかれて逃げられました。



児島湖には、三々五々、カモたちが群れています。

これは?

キンクロハジロとスズガモの見分けがつかないのですが、後ろ頭の冠羽が見えるようですから、キンクロハジロでしょうか?

















ウのパフォーマンス。









ダイサギの舞。



ユリカモメの舞。































































これは、ホシハジロ?







よいお年を。


弱り目に祟り目、はやり目に祟り目、の巻 [折々散歩]

年の瀬も押し迫って参りました。

何がなし、心せく思いに駆られます。

今年一年、何ができたかな?と反省したりなぞすれば、ふさぎ込むしかありません。まずまず無事長らえて、病院のベッドではなく自宅で、行く年を送ることができそうなことを、めでたいとしなければなりますまい。

気温は低いが明るい陽射しがあるので、散歩収め、カメラ納め(?)をと考えて、深山公園へ行ってみました。道の駅で、焼き芋用の芋を追加仕入れしておく心積もりもありました。

最初に道の駅を覗いてみました、正月用の食材や飾りが並び、客も大勢ありますが、近隣の農家の方が出品している農作物の棚は、もうあらかた売り切れ間近の状態のようでした。めざしてきた安納芋も、番田芋(玉野市番田地区特産のブランド芋)も、一般的な鳴門金時や紅はるかも、もう並んでいません。仕方がありません。スーパーで仕入れるしかないでしょう。

カメラバッグを肩に、散歩を始め、公園中心部に向かうエントランス周遊道にさしかかった辺りで、活発な小鳥の囀りと、枝から枝へと飛び移る影が見えました。ヤマガラ、シジュウカラ、エナガなどの姿がまず確認できました。他にもいると嬉しいです。

はやる心で、バッグからカメラを取り出して、構えてみると、なんと、SDカードを挿していません。そういえば、昨日の散歩で撮影した画像をパソコンに取り込んだものの、処理する気力が沸かず、カードリーダーに挿入状態で放置したまま、出かけてきたのでした。仕方がない、車の中には予備機を積んでいましたので、取り替えにもどります。pentaxk10d+TAMRON AF18-250mmで、鳥見散歩には、望遠側が不足ですが、割り切って、近くの鳥を中心に狙うことにして、もと来た道をもう一度歩きます。

梢に小鳥の群れが見えます。

250mmでは非力ですが、シジュウカラをファインダーに捕らえました。ところが、、、何だかカメラの動作がヘンです。

やっとの事で写した証拠写真がこれ、相当トリミングしています。



ついにシャッターがまったく反応しなくなったぞ、と思ったら、電池切れ表示です。がっかりして散歩の気力も失い、駐車場まで引き返します。

よほど悲しかったのか、涙が滴る感覚があります。それと、目が痛がゆい。その自覚は何日か前からありました。孫二人のウィルス性結膜炎は、抵抗力が落ちていると、時には大人にも感染することがあるらしいと聞いています。
念のために眼科に寄ってみようか、と考えて散歩は切り上げることにしました。年末ですので、患者さんが混み合って、相当の待ち時間を覚悟しなければならないでしょうが、我慢我慢。目薬をいただけば、数日の内には回復するでしょうから、今日が良いタイミングでしょう。

と思って眼科医に向かったのですが、なんと、年末年始の休診で、またまた肩すかし。「弱り目に祟り目」、いや、「はやり目に祟り目」でした。

どうも今日は運勢が悪いと見えますので、さっさと家に帰ることにします。帰り道に、ファーマーズマーケット(岡山市サウスビレッジ)のロードサイドマーケット
(農産物直売所)に立ち寄って、懸案の薩摩芋を物色してみることにしました。すると、、、ありました。安納芋と番田芋。お正月のおもてなし料理に、焼きもはいかがでしょう?

年の瀬の大掃除、もう何年も、手抜きです。少しだけでも自分お部屋の片付けをしましょうかと、あっちにあるものをこっちに並べ、、、するうちに収拾がつかなくなり、ゴミ袋二つゴミを放出したことで終わりにしました。少しも片付いてはいませんが、一つだけ成果がありました。

どこへしまい忘れたか、あきらめかけていた、これが、見つかりました。

CABIN CABIN コンパクトフィルムスキャン 35 CFS-2.5

CABIN CABIN コンパクトフィルムスキャン 35 CFS-2.5

  • 出版社/メーカー: キャビン工業
  • メディア: Camera






早速、使い勝手を確かめます。ネガフィルムを、瞬時に反転表示してくれるところが、他の方法に勝る長所だと再確認できます。夕方の時間帯に、ネガフィルム一〇本ほども、内容確認できました。A4印刷などを考えると、画質的に不足はありますが、web利用などの用途ならば、これで十分かなと思えてきました。

装着してあったSDカードに、以前デジタル化保存したこんな画像が残っていました。









常山です。

ずいぶん埃や傷を読み込んでいます。



柿の実。



次はリバーサルフィルム(ポジ)を取り込んだもの。

このままではネガに変換されています。



レタッチソフトで、ポジに再変換します。

旭川に逆さに映った岡山城でした。











さて、今日の作業であらわれた「作品」も少しだけご紹介しておきます。











日暮れ時の田舎家が、背後から夕日を浴びて影絵のような趣きを漂わせていたのを面白く思って写しました。二〇年以上前の写真です。この家は、もうずいぶん前になくなっています。

倉敷川の澪標(みおつくし)です。

1994年と撮影時が刻まれています。









ビニールハウスの鉄柱の上にシラサギが止まっています。

純白のシラサギの羽根が、夕焼けのために赤く染まっていました。

これも94年の撮影です。



昔の写真が出てくると、その頃のことが思い出されたり、まったく記憶になかったり、思いがけないタイムトラベルを経験することになります。

では、今年はこれにて。

皆様、佳いお年をお迎えください。


古いモノ、使ってやりたいけれど、骨が折れます、の巻 [趣味]

昨日は、中1、小3、保育園年長組の孫を連れて、郷里へ餅をもらいに行ってきました。

郷里の水田はもう長く知人に預け、収穫した米の一部をいただくようにしており、正月用の餅つきに間に合うだけの餅米はいただけるので、毎年年の瀬になると老父母が電動餅つき器で搗いてくれます。

今年は、その知人も高齢で体調を崩し、今年は耕作を他に委ねた由。餅を搗くのも今年が最後、来年からは市販の餅を買うかと申しております。
孫たちも、みんな餅は好物だそうで、「焼いて醤油で」、「おれは砂糖醤油」、「海苔で巻いて」、などと、好みを披露してくれます。片道60kmの道のりで、道中狭い車の中で退屈ですが、機嫌良くつきあってくれました。到着したころ、ちょうどあんこが炊けたところだそうで、ちょっと味見。近年、あんこ嫌いの若者もある由ですが、孫たちは、美味しいと喜んで暮れるので、老母も作りがいがあることでしょう。
田舎への往復が、一日仕事。この日は、ママが仕事納めで帰りは少し遅くなるというので、夕方は、保育園へ行っている下の妹を、ジイジバアバでお迎えです。
ママ職場も、ちょっと以前は、仕事納めの日は、課長さんをはじめ、みんなで早く帰ろうという雰囲気があったけれど、今は、仕事に追われてか、みんななかなか席を立たない傾向になってきたそうな。かけ声だけでなく、実効ある「働き方改革」、お願いしますよ。ジイジバアバが近くにいない子育て家庭も、安心して働ける環境がなかったら、少子化スパイラルに歯止めはかかりません。

そんなことを考えていましたが、記事を書く元気もなく、晩酌後すぐに眠くなってしまいました。

それと、今朝の新聞トップを飾るオバマ、アベの真珠湾での「所感発表」というイベントを、テレビで見ての感想も、まとめる気力なく終わりました。

NHKのwebページに動画入りで演説の模様が掲載されています。


ソネブロのお仲間momotaro様のパールハーバーで世界に発信!majyo様の仲良き事は美しきかな ?などの記事および、それへの多数のコメント投稿が、それぞれ的確な指摘をされていますので、二番煎じは控えます。

ところで、momotaro様の記事へのコメントに,私はこう書き込みました。

 朝、NHKが点いていて、実況中継が流れていました。
原稿もなく、棒読みでもなく、声高の演説調でもなく、一語一語に感情をこめて、静かに切々と語りかける、思慮深い紳士、、、のような演技ができる人なのですね。momotaro様ご指摘の文言の他にも、敵国同士だった日米を結んだ「寛容の心、the power of reconciliation、=和解の力」などの強調も、お見事でした。(屈服しない者への非寛容は尋常じゃありませんが)
いつもながらの美辞麗句に、「空々しい、、、」とは感じつつも、国内外に向けて発した言葉なのですから、それに責任を持たせること、言葉と行動との乖離をゆるさないこと、も、意識する必要があるのでしょうか?

これは、真珠湾での演説への第一印象のようなものですが、「原稿もなく」と書きましたのは、私の驚きの第一がそこにあったからです。私などは、どんな小規模の集まりでも,何か発言しようと思うと、前夜は、ああでもない、こうでもない、と原稿をまとめるのに筆舌に尽くせない苦労をして何度も校正を重ねて、いざ本番となると、緊張して言葉が浮かんでこず、マイクの前で立ち往生するか、さもなくばそれを避けたいがために、原稿を目で確かめながら話さないことには落ち着いて話すこともできないという経験を幾度となく繰り返しています。凡人の故と指摘を受ければ、ごもっともと引き下がらずににはおられませんが、アベ氏の落ち着きぶりには、正直感心して、一目置きかけたところでした。

が、いろいろな方が、カンペ、プロンプターの存在を指摘されていて、よくよく画像を見ると、なあんだ、と興ざめでした。

この角度の写真からは丸見えでした(たぶん)。



有能なライターに、書いてもらった原稿を、さももっともらしく読み上げるだけのことなら、アベくんにできても不思議はないですよね。

リテラの安倍首相“真珠湾訪問”の欺瞞を衝く!という記事が、とどめを刺します。


 1941年12月8日の真珠湾攻撃と同日には、英領マレーへの奇襲上陸、フィリピン空爆(翌1月に首都マニラを占領)、香港戦(12月25日に攻略)開始など、一斉にアジア各地で侵攻を始め、さらに翌年1月にはインドネシア、ビルマ、2月にはシンガポールと、次々と占領している。

 また、日本は真珠湾攻撃の前年から、大東亜共栄圏を掲げて仏領インドシナへの侵攻を始めており、さかのぼっていけば37年には日中開戦(盧溝橋事件)が、31年には満州事変がある。

そして、これらの国で日本は真珠湾攻撃とは比べものにならない虐殺行為を繰り広げてきた。それは、南京事件や重慶爆撃だけではない。たとえば日本が傀儡政権を樹立したフィリピンでは45年のマニラ戦で市街が壊滅。約10万人の市民が犠牲になったとされる。また、ベトナムでは44年から45年にかけて日本の軍部が物資確保のため食糧を徴発し、そこに米軍の空爆や凶作が重なって大飢饉が発生。これによる餓死者は200万人以上とも言われている。こうした各国の民間人を含む多大な被害事実もまた、日本の戦争責任と呼ばなくてはならないものだ。

 だが、安倍首相は「真珠湾訪問で『戦後』を完全に終わらせる」と嘯き、こうした加害事実や戦争犯罪をまるごとすべて過去のものにしようとしているのだ。しかも、前述したように、日本のマスコミは今回の真珠湾訪問を“歴史的快挙”のように報じるばかり。安倍の言う「『戦後』を終わらせる」ということが、実際には何を意味しているかにほとんど触れようとしない。

 そんななか、25日には映画監督のオリバー・ストーンや高橋哲哉・東京大学教授など、日米韓の学者ら53人が安倍首相の歴史認識を問いただす公開質問状を発表した。

 質問状はまず、〈親愛なる安倍首相〉から始まり、1941年12月8日に日本が攻撃した場所は真珠湾だけではないと指摘したうえで、安倍首相の歴史認識に関して3つの質問をしている。

1)あなたは、1994年末に、日本の侵略戦争を反省する国会決議に対抗する目的で結成された「終戦五十周年議員連盟」の事務局長代理を務めていました。その結成趣意書には、日本の200万余の戦没者が「日本の自存自衛とアジアの平和」のために命を捧げたとあります。この連盟の1995年4月13日の運動方針では、終戦50周年を記念する国会決議に謝罪や不戦の誓いを入れることを拒否しています。1995年6月8日の声明では、与党の決議案が「侵略的行為」や「植民地支配」を認めていることから賛成できないと表明しています。安倍首相、あなたは今でもこの戦争についてこのような認識をお持ちですか。

 2)2013年4月23日の国会答弁では、首相として「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と答弁しています。ということは、あなたは、連合国およびアジア太平洋諸国に対する戦争と、すでに続行していた対中戦争を侵略戦争とは認めないということでしょうか。

 3)あなたは、真珠湾攻撃で亡くなった約2400人の米国人の「慰霊」のために訪問するということです。それなら、中国や、朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万にも上る戦争被害者の「慰霊」にも行く予定はありますか。〉(ピース・フィロソフィー・センターHPの質問状全文より)


 このように質問状は、安倍首相が歴史修正主義の運動に積極的に加担してきた事実をどう考えているのか、先の戦争における日本の侵略戦争の評価について言葉を濁すのはなぜか、そして、真珠湾で「慰霊」するにもかかわらずなぜ他の被害国にはまったく「慰霊」に向かわないのか、という実に本質を突く疑問を投げかけている。

 

今日は、ママがお休みで、孫たちとのお相手も赦免されそうですので、久々のカメラ散歩に出かけたり、過去のフィルム資産のデジタル化の作業を楽しもうかと胸をふくらませていました。まずは、ネガフィルムのデジタル化にめどを立ててから心おきなく散歩に出かけようかと、もくろんだのは甘すぎました。

これまでストックしているネガフィルムは膨大な量で、逐一、接写→ポジ化→画質調整の作業を施すのは無理というものです。しかも、この辛気くさい作業をやってみて初めてボツ写真であることがはっきりするという徒労感は、かなり滅入らされます。しかも、試しに仕上げてみた「作品」はせいぜいこのレベル。

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もっと効率よく処理する方法を見つけ出したいところです。

以前使ったフラットベッドスキャナーを、引っ張り出して、埃を払ってつないでみました。

ところが、ここでトラブル。このフラットベッドスキャナーは、EPSON GT8200UFという型式のwindows98時代の製品で、中古で手に入れて2000、XPの頃に使用していた旧機種のため、windows10のドライバが提供されていないのでした。何度試行錯誤しても、無理。使えません。

あきらめて、現在使用しないで眠っているXPパソコンを再活用しようかとまで思ってみますが、やっかいです。

そんな時、ネット上に、パソコンに偽の情報を与えて別機種のドライバをつかうという方法が紹介されているのを発見(http://blogwizhook.blog.fc2.com/blog-entry-76.html)。試してみました。

試行錯誤の末やっと動くようにはなりました。

ただ、以前の記憶通り、スキャニングにはかなり時間がかかり、待たされるいらいら感は並大抵ではありません。そんなことをしている内にお昼が近づき、形ばかりの散歩に出かけました。その際の出会いについては、回を改めてご紹介します。

午後は、ムコ殿が忘年会で寂しい長女が、9ヶ月の孫を連れて来訪。 お土産に、どっさり持ってきてくれた殻付き牡蠣で、リッチな夕食をごちそうになりました。

今日はこれにて。

 


縁は異なもの 備前と備中、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

朝から雨。

散歩には向かないお天気です。

今日も、朝から孫たち兄妹をお預かりしています。
ウィルス性結膜炎で保育園をお休みしていた年少組の妹は、治癒証明を得てめでたく今日から登園。

残りの3人が今日のお客様です。 

保育園年長組の姉は、今日お昼の予約で診察を受け、治癒証明が出れば自由の身です。長い「闘病生活」でした。

中学生と小学生の男の子は、すでに冬休みで、宿題の大荷物を持ってきていますが、まずはゲームの時間です。

同じ託児所業務でも、これくらいの年齢になると、一人遊びもできますし、気が向けば子どもたちだけで一緒に遊んだりできますから、手がかかりません。彼らの気配を背中で感じながら、パソコンに向かうことも可能です。

というわけで、先日来の記事の続きを書き進めることにします。
まず、早島町のHPから、 干拓のまち、早島という ページを一部引用させていただきます。

早島はその名が示すように、かつては瀬戸内の海に浮かぶ島の一つでした。
前潟干拓絵図

宇喜多堤

吉備の穴海と呼ばれた早島周辺の海も、高梁川などの運ぶ土砂によって、しだいに干潟化していきました。今から約400年前、このあたりを支配していた戦国大名宇喜多秀家は、この児島の海の干拓を思い立ち、高松城水攻めの堤防築造の指揮者であった岡豊前守勝利と千原民部九右衛門に命じ、汐止めの堤を築かせました。
堤は早島の東端多聞カ鼻から倉敷の向山に至り、そこからさらに酒津に至る大規模なもので「宇喜多堤」と呼ばれました。現在、早島の街中を走る県道倉敷妹尾線はこの堤の跡と言われています。
以後、児島湾の干拓事業は、昭和38年の児島湾締め切堤防の完成まで営々と続き、早島町はその先駆けの町となりました。


 「吉備の穴海」の名は、◇縁は異なもの、の巻(3)高崎という地名の記事でも 紹介しました。

その際、 「岡山の風 郷土史」様から、この図絵をお借りしました。
 
戸川家記念館には、下の絵が展示してありました。

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 岡山シティミュージアムの記事「岡山の干拓物語」 にこうあります。
 
現在の岡山平野の耕地は約25000ha。そのうち、約20000haが干拓によって生み出されたものと言われ、時代によって地図がどんどん描き替えられています。

近世以降の岡山平野の歴史は干拓史の上に形成されたとも言えそうです。

耕地面積は全国規模でみても、8世紀末に約100万ha、16世紀末には約200万ha、19世紀後半には約400万ha、20世紀半ばで約600万haと飛躍的に拡大していることが分かります。
なかでも日本三大干拓と言われるのが、秋田県の八郎潟干拓地と九州の有明海沿岸、そしてわが岡山県の児島湾というわけです。

   
 
 

宇喜多開発

岡山城主・宇喜多秀家は、積極的に新田開発を行いました。主なものとしては、1584年(天正12年)、千原九右衛門に命じて、現在の倉敷市東部から早島にかけて行われた干潟の干拓があります。千原九右衛門は高松城水攻めのとき、足守川をせき止めたり、岡山城の改築も担当した人物です。
当時早島は海辺の村で、あちこちに干潟が形成されていました。
千原九右衛門の手がけた堤防は全長約3・5キロで、宇喜多堤(うきたつづみ)と呼ばれています。土地の面積などは資料がなくて不明です。
また、堤の場所も現在、早島の町中を東西に走る県道沿いから倉敷市二日市の山までとする説などありますが、定かではありません。
この宇喜多堤のほか、灌漑用水として大井手を補強し、新たに八か郷用水を開いたのもこのころです。
1584年(天正12年)には東高梁川に酒津堤防を築き、低湿地の開発を進めました。その後、備中国奉行の小堀政一父子や備中松山藩主池田長幸父子によって堤防が延長され、1618年(元和4年)児島は陸続きになりました。
 
 
ところで、早島町観光センターホームページには、名所案内として、備前・備中国境標石 を紹介してこう書いています。
早島の歴史は、宇喜多堤築堤に始まる児島湾干拓の歴史でもあります。
まちの南東に広がる干潟(後の興除新田)の開発をめぐり、備中の村々と対岸の備前児島の村々が激しく対立し、争いは、約100年にわたって繰り広げられました。

その結果、幕府は、もともとあった備中方の新田の堤を備前・備中の国境とし、それより南の干潟と海は備前領とする裁定が下しました。この干潟は、備前領の村々によって拓かれ「興除新田」と名づけられました。
備前・備中国境標石は、文化11年(1814)の裁許の後、国境を示すために建てられた10本のうちの1つです。住所 早島町前潟742


最近JRを利用すると、「宇野みなと線」という聞き慣れない路線に気がつきます。従来の「宇野線」が、今年の春からこう呼ばれるようになったようです。

ウィキペディアから引用します。 

 かつて四国と本州を行き来していた宇高連絡船との接続路線として賑わった。瀬戸大橋開通後も、岡山駅 - 茶屋町駅間は瀬戸大橋を渡る本四備讃線のアプローチ線として引き続き本四連絡の使命を担っており、本四備讃線・予讃線を含めた岡山駅  - 高松駅間に「瀬戸大橋線」という愛称がつけられている。茶屋町駅 - 宇野駅間は玉野市との都市間輸送中心の路線となった。2016年3月26日からは岡山駅  - 宇野駅間に対しても「宇野みなと線」の愛称が使用されている。英字表記は「Uno-port Line」となっている。


mapionから路線略図をお借りします。

 

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駅名に少し注目してみてください。

岡山から備前西市(びぜんにしいち)→備中箕島(びっちゅうみしま)→備前片岡(びぜんかたおか)→備前田井(びぜんたい)と、備前・備中があたかもアトランダムに入り交じっているかのように思えます。この謎を解く鍵は、上記の備前・備中国境の裁定にあったようです。この話題は、実は以前、原水爆禁止国民平和大行進でこの辺りを一緒に歩いた年若き友人(比較の問題です)Mさんが、四方山話がてら話して聞かせてくれたと記憶しています。

このMさんは、以前、◇もう一つの「今日は何の日」の記事でご紹介した「友人」のことです。

ところで、この水島地区に、亀島山と呼ばれる小高い丘があります。ここは現在、「亀島山花と緑の丘公園」として整備され、四季の花に彩られる、工場地帯のなかの憩いのスポットとしての趣を見せています。また「工場萌え」と称される一部の愛好家にとっては、林立する工場群(とりわけ工場夜景)の撮影スポットとしても知られているようです。

その亀島山の地下に全長約2000メートルの横穴が掘られています。平洋戦争末期に建設された三菱重工業水島航空機製作所(現:三菱自動車水島製作所)の地下工場の跡がそれです。三菱重工業水島航空機製作所は、空襲の被害を少なくするため、工場を分散疎開させましたが、その一つが亀島山地下工場だったのです。

この地下工場について、ずっと以前、ある機会に、こんなことを書いたことがありました。

倉敷市水島地区の亀島山の地下には,今も広大な地下トンネルが存在する。これは第二次大戦中,旧日本軍の戦闘機製造用地下工場として,秘密裏に掘られたもの。
この危険な工事に従事したのは,強制連行で徴用された朝鮮人労働者。作業中の事故,栄養失調と過労,病気,脱走への報復としての私刑などにより,多くの人々が犠牲となった。
これらを含む朝鮮人無縁仏の遺骨70数体が,引き取り手のないまま,岡山市内の大山実山住職のもとに保管,供養されていた。
これらの事実は,社会問題を学ぶ高校生たちの平和問題のとりくみのなかで掘り起こされ,あかるみに出された。生徒たちは,韓国の新聞社にいきさつを書いた手紙を出し,反響を呼んだ。これが縁となり,これら犠牲者の遺骨が,市内の高校生に抱かれて海を渡り,この4月(1990年)40数年ぶりに帰郷した。
(注 文章中の「朝鮮人」の呼称は,国籍を表すものではなく,広義に朝鮮半島出身者を意味している。)        

思い起こせば、一九九〇年。今から25年も前のことですね。
当時は、「強制連行」とか「強制徴用」という概念も、まだ歴史の闇に隠されていて、発掘途上の「史実」でした。今、「歴史修正主義」の方がたが、「強制連行はなかった」「強制徴用はなかった」「従軍慰安婦はなかった」「侵略はなかった」「植民地支配はなかった」と、百万遍繰り返されようとも、この遺骨の意味を塗り替えることは不可能でしょう。
今も、この地下工場跡を保全し、歴史に学ぼうという、 市民運動が続けられていますが、その中心的活動に取り組んでいる「亀島山地下工場を語りつぐ会」 には、私の親しい友人も参加しておられます。

その友人が、昨日はローカルニュースに登場して、その活動の重要さを語っておられました。

横道にそれました。
芋づるのように、いろいろな記憶がつながりを見せ、面白いものです。
そうこうするうちに夜になり、冷え込みが厳しくなっています。
治癒証明を期待した年長組の姫は、まだ充血が取れないので、もうしばらく目薬の投与が必要とのことでした。
眼科医への通院のついでに、年賀状を郵便局に投かんし、そのまたついでに道の駅でサツマイモを仕入れ、今日もまた焼き芋を作りました。 
今日はこれにて。

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庭に二羽ニワトリのゐて睦まじき [折々散歩]

冷たい雨の一日でした。

それだけでも散歩には不向きですが、今日も朝から託児所です。

中学生、小学生は冬休みに突入していますし、二人の保育園児はウィルス性結膜炎で登園禁止となっていますから、仕方ありません。

先に結膜炎になった下の園児は、今朝がたお医者に行き、明日からの登園許可を得たそうですが、今日はじいじがお預かりするということで、総勢4人がそろいました。

年賀状の仕上げもはかどりません。印刷ミスもありますから、はがきの枚数が足りないことに途中で気づき、子連れでコンビニまではがきを仕入れに出かけたり、昼飯に特製焼うどんを作ったり、おやつに焼き芋を焼いたり、なかなか忙しい一日でした。

さようなわけで、今日の記事は、安直にストック画像の紹介で終わりますが、悪しからずお許し下さい。

まず最初は、昨日書いたフィルム資産デジタル化の試みの一環。

20年以上も前、私の長男長女がまだ小学生のころ、庭で二羽、ニワトリを飼っていました(ホントです)。妻のお友達からチャボをいただいて、買い始めたのが最初でした。後でひよこから買い始めた2羽のニワトリが、瞬く間で体格では追い抜きましたが、支配権はチャボにありました。実は、飼い犬のチロも、このチャボには頭が上がらず、このチャボに叱られるとシュンとして、従順に従っていました。

下の写真はそのころ白黒フィルムで写し、たしか自分で現像したもののように記憶しています。そのネガフィルムが出てきましたので、デジカメで撮影し、画像ソフトでネガ→ポジ反転を施したものです。これを写したのは、DIGITAL 35mm F3.5 Macroが健在だった時ですが、なかなかノープロブレムで撮影できました。残念ながら、そのあと落下故障してしまいましたが(涙)。



この写真、来年が酉年だということで、年賀状のデザインに使わせてもらうことにしました。

レタッチの方法によってはこんな雰囲気にもなります。





こんな句を添えました。
 行く年や睦まじかりし庭の鶏



鳥つながりで、最近であった鳥をご紹介しておきます。

センダンの木にとまるヒヨドリです。





ガマズミの枝にとまるツグミ。



シメかな?



ホオジロ。







カワラヒワ























いかにしつつかながよはわたる、の巻 [趣味]

「いかにしつつかながよはわたる」というフレーズが、何かにつけて脳裏に浮かびます。

出典は、ほかでもない山上憶良の「貧窮問答歌」です 。

一昨年の記事になりますが、こんなことを書きました。

◇われもまた たずねあてたり とらつぐみ








 『貧窮問答歌』は、作者=山上憶良自身を投影した一人の貧者が、よりウルトラ・スーパー・ハード・スペシャルな極貧者に問いかけ、極貧者がそれに答えるという設定の長歌と、付属の短歌からなります。


『貧窮問答歌』 山上憶良  

風雑(まじ)り 雨降る夜(よ)の 雨雑り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆさけ) うち啜(すす)ろひ
て 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに  しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)をおきて 人はあらじと  誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさふすま)
 引き被(かがふ)り  布肩衣(ぬのかたきぬ) ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを  我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ  
妻子(めこ)どもは 吟(によ)び泣くらむ   この時は いかにしつつか 汝が世は渡る  

天地(あめつち)は 広しといへど 吾(あ) が為は 狭(さ)くやなりぬる  日月は 明(あか)しといへど 吾(あ)が為は 照りやたまはぬ  人皆か 吾(あ)のみやしかる わくらばに 人とは
あるを  人並に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の  海松(みる)のごと 乱(わわ)け垂(さが)れる かかふのみ 肩に打ち掛け  伏廬(ふ
せいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて  父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に  囲み居て 憂へ吟(さま
よ)ひ 竈には 火気(けぶり)吹き立てず  甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて   ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を  端切ると 云へるが如く 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は  寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 
かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道(892)

短歌   世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(893)



例のごとく、地方言葉に訳してみます。

【地方語訳】

《貧者の問い》 風 交じりの雨が降る夜で、雨交じりの雪が降る夜はどねーにもしようがのぅ寒いけぇ、固ぇ塩をなめちゃあ糟湯酒(かすゆざけ)をすすりすすりして、咳ぅしちゃ
あ鼻水ぅ垂らぇて、はっきりありもせん髭をなでて、「ワイをおいてマシな人間はおるまぁ。と自慢はしてみるんじゃが、寒うてしょうがねぇけぇ,麻のふとん
をひっかぶり、ぼろ着をあるだけ重ね着しても、寒い夜じゃのに、ワイよりも貧しい人の 父母は飢え凍えよぅるじゃろう。妻や子どもらぁは 力無ぅ泣きよぉ
るだろうに。この時ぁ、あんたらぁどねぇして暮らすんかのぉ。

《極貧者の答え》  天地は広いゆうけど、わしにゃぁ狭うなってしも うた。お日さんやお月さんは明けぇというけど、わしのためには照らしちゃあつかぁさらんのかのお。ほかの人もみなそうなんじゃろうか。わしだけなんじゃろ
うか。人として生まれ、人並みに働きょうるのに、綿も入っとらん海松(ぬるぬるの海藻)みてぇにぼろぼろになって垂れ下がった衣ばぁ肩にかけて、つぶれか
けた、曲がった家の中には、地べたにわらをばらかして敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、ワシを中に囲んで座って嘆き悲しみよんじゃ。かまどには煙
も立たず、炊飯器にゃあにクモの巣がかかって、飯を炊くことも忘れて、ぬえ鳥のようにかぼそい声を出してうめきょうるとこへ、「短い物の端ぅ切る」ゆうよ
うに、鞭を持った里長の声が、寝床にまで大声を出ぇて何回も呼びかけてくるんじゃ。 こねぇにもどねぇしようようも無ぇもんじゃろうかのぉ、世の中いうもんは。
短歌 この世の中を「つらいのぉ」、「身もやせるようで生きるのも恥ずかしいのぉ、嫌じゃのぉ」と思うけど、飛んで往んでしまうわけにもいかんのんじゃ、わしぁ鳥じゃぁねえけぇ。 



「生活派歌人」、「社会派歌人」、「人道派歌人」としての山上憶良の面目躍如たる代表作で、心に残る名作といえるでしょう。




「年金生活者」になって、金欠の病に心身を脅かされています。

「年金生活者」といっても、基礎年金部分の支給がはじまるには、あと数か月かかりますので、「不完全年金生活者」とでもいうべきでしょうか?

数か月後、基礎年金部分が支給され始めたからと言って、決して生活が潤うわけではありません。それほどに基礎年金の水準は低劣です。

職域年金部分を得てさえ苦しい生活ですのに、基礎年金だけでやりくりしなければならない高齢者の方は、どうやって「健康で文化的な」生活を維持しておられるのでしょうか?さらに、その貧弱な支給水準をさえも、「短き物を  端切ると 云へるが如く」、無慈悲に削っていく年金カット方針は、高齢者からも若者からも、未来への希望をはぎ取っていく所業にほかなりません。



ところで、「いかにしつつかながよはわたる」のフレーズは、まったく脈絡もなく、こんな時にも浮かぶのです。デジカメの便利さに、口を挟むつもりはありませんが、フィルムカメラ時代の「資産」を、皆さんはどうやって活用しておられるのでしょう?

こんなことを思ったきっかけの一つは、常山・常山城跡の記事を書きながら、かつて常山にのぼった際に、確か女軍の墓などを撮影した写真があったはずだが、とアルバムを探ってみますが、見当たりません。整理しかけては何度も挫折している膨大なネガの中にきっとあるはずですが、砂漠に針を探すがごとき徒労感に絶望を禁じえません。

デジタル化しておけば、わずかながらも再利用に便利かと思い、これまでもいろいろな方法を試してみました。

専用のフィルムスキャナーは高価に過ぎたので、中古購入したフィルム対応のフラットベッドスキャナーで、ネガの読み取り、保存にチャレンジしました。しかし、この方法は意外に時間もかかり、てっもかかり、挫折。特に、プリンターをスキャナー機能搭載の複合機に変えたころから、スキャナー専用機の出番は各段に減りました。

もう少し手軽な方法として、「コンパクトフィルムスキャン」という選択肢を選んでみました。フラットベッドスキャナーの比べると読み取りが早く、パソコンなしでSDカードに記録できるのは便利でした。しかし、時代相応の画素数不足が、今となっては残念、起動ごとにファイル名がリセットされるという仕様は、ちょっと不便、などの不満が残りました。

CABIN CABIN コンパクトフィルムスキャン 35 CFS-2.5

CABIN CABIN コンパクトフィルムスキャン 35 CFS-2.5

  • 出版社/メーカー: キャビン工業
  • メディア: Camera


そんなこんなで、「フィルム資産」は利用されることもなく10年以上も眠っているのですが、この記事なども一つのきっかけとなって、銀塩写真への愛惜が萌すようになってきました。

小春日や古りたるフィルムいとほしむ

しかし、冒頭にも書きました通り、慢性の金欠病にさいなまれる身。新たな出費はご法度です。となると、既存の資産の有効活用が、至上命題となります。

そこで幾多の比較検討と、涙ぐましい試行錯誤の末(そんなに大げさなものじゃありませんが、全部書いても退屈至極の過程を経て)、一定の到達を得ましたのでご報告させていただきます。

「nikon スライドコピーアダプター ES-1」なる物を使う方法です。


Nikon スライドコピーアダプター ES-1

Nikon スライドコピーアダプター ES-1

  • 出版社/メーカー: ニコン
  • メディア: 付属品

 



注文していた品物が、昨日届きました。

行き当たりばったりで、OLYMPUS PEN E-P2+OLYMPUS OMアダプター マイクロフォーサーズシステムマウント用 MF-2 +ZUIKO
DIGITAL 35mm F3.5 Macroにスライドコピーアダプター ES-1を装着してみました。ほぼ完璧に使えそうです。ルンルンで成功体験記事を書きつつあったある瞬間、テーブルの上に置いていたカメラ一式が、ガチャンと床に落ちてしまったのです。見たところ無傷と見えたのですが、どうも動作がおかしい。よく確かめると、レンズの鏡筒部分が破損して、正しく動作しません。

つまらぬことで大事なマクロレンズを台無しにしてしまった。とほほです。

とりあえず、ほかの組み合わせはないか?Olympus、PENTAXの持ち合わせの機材をあれこれ試してみましたが、どうも今一つのところでうまくいきません。

そんな時、ふとやってみた組み合わせは、ricohGX200を用いる方法。







案外使えるかもしれません。

とりあえず、かなり昔、リバーサルフィルムで写していた後楽園の写真を、デジタル化してみました。















デジカメ写真とは一味違う味が出ているように思いますが、いかがでしょう?

この先、少しずつ、フィルム写真のデジタル化を試みて、気が向けば掲載させていただこうかと考えています。

リバーサルフィルムのポジ画像は、比較的容易にデジタル化できることがわかりましたので、次にはネガフィルムも試してみるつもりです。

年賀状が、まだまだ仕上がりません。

孫とのお付き合いも少しはしておかなければなりません。

その合間をかいくぐって、フィルム写真低価格デジタル化という禁断の果実と戯れたクリスマスでした。

今日はこれにて。


青い鳥幽かに見ゆるクリスマス [折々散歩]

先日、M氏からルリビタキについて教えていただきました。

 ルリビタキはチェッ、チェッと軽く舌打ちしているようなグゼリ(地鳴き)をします。そして移動の時はプルルッと羽音が聞こえます。静かに耳をすましてこの音を頼りに探すと見つけられます。ジョウビタキはチェでなくカチッ、カチッもっと高い音を出すので子どもの頃ジョウビタキはヒンカチと呼んで居ました。メジロはツイーと鳴きます。この3種の小鳥はよく一緒にいますがジョウビタキが一番強いのでルリビタキは追い払われます。しかし近くに潜んでいますのでジョウビタキが移動すると出てきます、その気で観察していると見つけられます。メジロとは一緒に行動していることがよくあります。ヌルデの実がなっている場所で観察しているとメジロの群れがやってくるとその後でルリビタキが出てくるということがよくあります。

そして写したばかりの写真を添えてくださいました。











観察スポットも、詳しく教えてくださいました。

心はやる思いはありましたが、託児所業務はじめ、避けられぬ所用のために願い果たせずおりました。

さて、今日は土曜日で、しかもクリスマスイブ。孫たちは、パパもママもお休みで、楽しいイブを水入らずで過ごしております。郷里の老父母を訪ねる予定もありましたが、私の単独行となりました。

これ幸い(笑)と、寄り道してみることにしました。

立派な巨砲カメラを携えた方々が、何人かいらっしゃいます。

標的を見つけ、カメラを構えておられる場面にも遭遇し、その方角をたどってみると、高木の梢に小さな鳥影が伺えます。



トリミングしてみるとこんな具合です。







暗い、ピンぼけ、手ぶれと、何拍子もそろった不鮮明画像ですが、どうやら、そうではないとは言えなくもない(紛らわしい表現!)写真です。今日の到達はこのレベルでした。次回に期待をつなぎます。

今日の付録。

実家のお隣の庭に、同じヒタキでも色違いの、ジョウビタキがいました。











付録の付録に、ストック画像の中から、最近のジョウビタキの写真をフォト蔵にUPしたのですが、どうもフォト蔵のアクセス状況が思わしくないのか、うまくリンクができません。

とりあえず一枚だけ貼っておきますので、ご興味をお持ちいただけたらクリックしてみてください。別ウインドウにフォト蔵の画像が開き、そのページ内の操作によって別の画像も閲覧いただけると思います。

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_K528643 posted by (C)kazg


今日はこれにて。

縁は異なもの 庭瀬城跡?行ったことあります!の巻 [あれやこれやの知ったか話]

岡山県古代吉備文化財センターのHPに、 岡山の中世城館跡というページがあります。

こちらに、目次をコピーしてご紹介させていただきます。

このうち、庭瀬〈にわせ〉城跡の記事にこのような記述があります。








  現在は、JR山陽本線庭瀬駅西側の住宅地となっていますが、かつては足守川の河口に広がる沼沢地に立地していました。港に接したこの平城は、岡山城や備中高松城とも道で結ばれており、水陸交通の要衝として重要な位置を占めていたようです。

 庭瀬城のはじまりは明らかではなく、築かれた場所についても定かではありません。ただ、天正年間には城代として毛利氏の部将が在城していることから、宇喜多領との境界にある「境目七城」の一つとして重視されていたようです。

 天正10(1582)年、備中高松城をめぐる戦いに際して、この城でも激しい攻防戦が繰り広げられました。その後、宇喜多領となったこの城には重臣の岡利勝〈おかとしかつ〉が入城しますが、この際に整備された「本壇」が、現在、県史跡に指定されている「撫川城跡」と推定されています。幅15mの堀を掘削した土砂を盛り上げて造成した曲輪は、東西77m、南北57mあり、その南辺の中央には渡り土手を築いて出入口を設けています。また、一部に土塁が残る曲輪の周囲には、自然石を野面積みした石垣が築かれています。

(中略)
さて、慶長4(1599)年の家中騒動を機に宇喜多家から離れた戸川達安〈とがわみちやす〉は、関ヶ原の戦いの功により、翌年この地に入って庭瀬藩(2万9千石)を開き、「撫川城跡」の東側に藩庁(陣屋)を設けました。江戸時代の絵図によると、清山神社と公園の周辺が「内屋敷」、「馬場」、「庭園」を配した御殿にあたるようです。神社の周囲には内堀が、さらにその200m北側にある「表御門」の前には外堀がめぐっていました。この表御門は、岡山城下と支藩のある鴨方を結ぶ鴨方往来に向かって開いており、庭瀬はその宿駅としても大いに賑わったようです。

 戸川家は4代で断絶しますが、一族の達富〈みちとみ〉が旗本(5千石)として「撫川城跡」に知行所を置きました。その後、庭瀬藩は、久世家(5万石)、松平家(3万石)、板倉家(2万石)と藩主が変わりながらも明治時代まで存続します。


そこ、行ったことがあります。

以前、こんな記事を書きました。

◇大賀ハス開花記念日!

◇蓮の花あれこれ vol2 大賀博士の故郷に咲く純粋種の古代ハス


一部引用します。








 大賀一郎博士の出生地が、岡山県賀陽郡庭瀬村(現・岡山市)である縁から、岡山市後楽園に大賀ハスが植えられていることは繰り返し書きましたし、写真も掲載しました。



また、岡山市庭瀬の備中庭瀬城跡の濠堀に、地元の庭瀬城跡保存会・吉備地区地域活性化推進実行委員会の方々が、大賀ハスを育てておられます。

以前に2~3回訪ねたことがありましたが、時期が早すぎたり遅すぎたりで、ベストタイミングを逃しておりましたが、果たして今日はどうでしょうか?

仕事場を早々に退散して、午前中のハスの花を見に、車を走らせましたところ、、、

咲き始めの、初々しい花が2輪、恥じらいがちにピンクに頬を染めていました。
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水面に映る姿もあでやかです。


堀に植えられている大賀ハスのことしか書いていませんね。

庭瀬城跡、撫川城跡の近辺を少しは散歩してみたのでしたが、記事にしていませんでした。



上記HP掲載のアクセスマップです。

庭瀬城跡アクセスマップ

お堀に浮かぶ大賀ハス(古代蓮)の花びら。







正面奥に見えるのが、清山神社でしょう。



〒701-0153 岡山県岡山市北区庭瀬828 清山神社の地図

清山神社は、庭瀬城後南の旧庭瀬藩邸内に建てられ、藩主板倉氏祖にあたる板倉内膳正重昌ならびにその嫡子板倉主水正重矩がまつられています。藩に残った宝物は清山神社の宝物として吉備公民館に展示、保管されているそうです。

庭瀬城跡の案内板があります。



地元サッカーチーム「ファジアーノ」の応援のぼりの足下をご覧ください。











法万寺川(農業用水路)は、庭瀬と撫川の境目とされた川だそうです。



旧庭瀬港(内港)の常夜灯の石積護岸の一部と約3m四方の基礎(地伏石)を使用して常夜灯を再建し、当時の旧庭瀬港(内港)の景観が復元されています。

















江戸時代、岡山藩は岡山城下を中心に放射状に6つの官道を整備しました。それぞれ、金毘羅往来、鴨方往来、松山往来、津山往来、牛窓往来、倉敷往来と呼ばれます。そのうち、金毘羅往来、鴨方往来、倉敷往来は、庭瀬まで共通で、「庭瀬往来」と称されました。



町並みにその面影が偲ばれます。


















今日は祝日で、ママがお休みですから、孫たちの来訪はなく、散歩もできましたし、年賀状の作成も、ほぼできました。このブログ記事も、まずまずはかどり、しかも、古いストック画像も使えて、嬉しいことです。

そうこうするうちに、「コンニチワ、コンニチワ」という姫の声が聞こえました。退屈をもてあましてじっとしていないので、とママが連れてきてくれました。

バアバも帰っていますから、いま、穏やかに、楽しく遊んでいます。昨日、百円ショップで買った粘土がお気に入りで、天使のように機嫌良く遊んでくれています。ちょうど仕上がったこの記事をアップして、託児所の本務にもどることにいたします。

今日はここまで。


縁は異なもの 常山城と戸川家、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

まったく何の予備知識もなく、たまたま訪ねた「戸川家記念館」でしたが、うかつといえばうかつなことに、常山城との縁にはすっかり驚かされました。
「角川日本地名大辞典33岡山県」から、常山と常山城についての解説を引用して、こちらに紹介させていただいています。
↓青文字をクリックすると別ウィンドウにページが開きます。

●常山


頂上には常山城跡があり, 天正3年の常山合戦の折, わずか4日で落城した。頂上の本丸跡に城主の腹切岩,二の丸跡に城主の妻鶴姫を記念した女軍の墓が苔むした石垣とともに往時の古戦場をしのばせている。(中略)  その後桜も植えられ, 常山合戦の古戦場としての千人岩,飲料水の底なし井戸, 山麓にある戸川秀安 (幽林) の墓などが大々的に顕彰された。

●常山城


 (上野隆徳の)のちの城主は宇喜多直家の臣,戸川肥後守秀安で, その号を幽林といい,  2万5,000石を知行。 その後, 毛利との手切れで, 天正7年毛利勢が児島に侵攻したが,事なきを得た。関ケ原の戦後,小早川秀秋の領地となり,家臣伊岐遠江守真利が在城,池田忠継の時, 慶長8年廃城という。


常山麓に戸川肥後守秀安(幽林)の墓所があることは、うっすらと知っておりましたが、その子戸川達安(みちやす)と早島の関係については、存じませんでした。

「常山」を「角(つの)山」と呼んだかも知れないというのは、よく納得できます。

山頂が角(つの)のようにとがっています。見る方角によっては、あたかも般若面のように見えることもあります。





そびえるアンテナが、なおのこと角のようですね。





広葉樹が、赤や黄色、茶色の錦をまとっていますが、薄暗いので色が出ません。







これらの写真は、PENTAXQ10+ペンシルボーグ (p25)によります。かなりの高倍率レンズになります。


 







早島町HPの、旗本のまち、早島 というページを再度引用します。

 (達安は)父秀安の代から宇喜多家の重臣として常山の城を預かっていましたが、お家騒動のため関東に下り、関が原合戦には東軍に加わりました。そして合戦では、敵将石田三成の懐刀と言われた島左近を討ち取ったと伝えられ、その功により備中庭瀬2万9200石の大名として賀陽、都宇の二郡を与えられました。

大河ドラマ「真田丸」では、玉置 孝匡 (たまき たかまさ)さんが演じた島左近。

登場人物 島 左近 (玉置 孝匡)|NHK大河ドラマ『真田丸』


 石田家重臣。知勇に優れ、実戦が苦手な三成を参謀として支える。「治部少に過ぎたるものがふたつあり 島の左近に佐和山の城」と謡われた。
関ケ原合戦で、東軍黒田長政隊の放った鉄砲に撃たれて、戦死したというのが通説のようですが、東軍加藤嘉明隊の先鋒を務めた戸川逵安(みちやす)の軍勢が島左近を討ち取ったとも伝えられ、「戸川家記念館」には、「島左近兜忍緒」なるものが展示されています。この兜の忍緒はその時、島左近が身に着けていたものと言われ、由緒書きには血痕累々とありました。
その信憑性には疑問符がつきますが、その首実検がなされてないこともあり、島左近の最期には諸説あり、合戦後も生き延びて別の地で死んだという伝承が各地にあり、島左近の墓なるものも複数存在するようです。
広島の銘酒「白牡丹」は、代々、島左近のご子孫一族が経営してこられたそうな。現社長の島治正さんも、島姓です。







白牡丹株式会社ホームページを見ると、こんな記事があります。



蔵元紹介
広島酒 西条酒の中で最も古い歴史をもつ日本酒白牡丹の創業

  
古書によると「慶長五年九月 関ガ原の戦に、島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に破れ、長男新吉戦死す。 次男彦太郎忠正母と共に京都に在りしが、関ケ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。
彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年(西暦1675年)酒造業を創む」とあります。




今日の昼間は、曇りで時々小雨がぱらつく感じ。昨日が冬至というのに、ヘンにむっと生暖かい空気です。十月下旬か11月中旬の気温だそうです。

一日、姫二人を預かりました。六歳児であっても、姉が一緒にいるだけで少しは気が紛れるようですし、小中学生は終業式で、昼には帰ってきましたので、昨日よりはいくらか時間が早く流れましたが、天気が思わしくなくて外出もままならず、姫の感情もぐずつき気味です。雨の中なのに、出歩きたがって(といっても抱っこです)困ります。

夕方は雨が強くなってきました。それとともに寒気が呼び込まれて、ぐっと冷え込むらしい。お気を付けください。

糸魚川の火災。大変なことです。お見舞い申します。



今日の付録です。

PENTAXQ10+ペンシルボーグ (p25)の画像です。









暗いのでストロボ焚きました。







今日はこれにて。

縁は異なもの 早島弥次喜多旅、の巻 [折々散歩]

10月にM君のお供として楽しんだ弥次喜多道中の続きです。
私の居住地近くの彦崎貝塚と、その出土品が展示されている灘崎歴史文化資料館を見学した記事は、前回書きました。



次の目的地は早島でした。
ここも縄文遺跡や貝塚が存在し、「歴史民俗資料館」という施設もあるのでそこを訪ねてみれば概要がわかるのでは、というのがM君の動機であった由。
「地元民」である私が、助手席でナビをつとめますが、どうもスムーズにはたどり着けません。
早島町は、これまでに行ったことがないというわけではありません。核兵器廃絶を求める「原水爆禁止国民平和大行進」の一環として、何度か、早島町役場から倉敷市役所までのコースを歩いたこともありました。真夏の焼けつく日射しと、道路脇の稲葉の青々としたうねりが、印象深く記憶されています。
でも、経路や方角の細部がアイマイで、いざナビを試みようとすると、いつも通りに行き当たりばったりに終始します。
とにかく町役場にたどり着き、通りすがりの人に、これこれの資料館をご存じないかおたずねしたところ、親切にも、たぶんこれかな、と自動車で先導して案内してくださいました。
そこは、予想だにしない、 「戸川家記念館・戸川家陣屋跡」という場所でした。

案内板の表示を拡大してみます。







まったく予備知識なしの見学でした。
早島町hpに、次のようなページがあります。
青色文字をクリックすると、リンク先が別ウィンドウに開きます。
 早島町の歴史
いずれも興味深い記事が掲載されていますので、一読をおすすめしますが、旗本のまち、早島 というページを 引用してご紹介させていただきます。

戸川家

江戸時代、早島を治めたのは旗本の戸川家でした。戸川家の家祖、戸川達安(みちやす)は父秀安の代から宇喜多家の重臣として常山の城を預かっていましたが、お家騒動のため関東に下り、関が原合戦には東軍に加わりました。そして合戦では、敵将石田三成の懐刀と言われた島左近を討ち取ったと伝えられ、その功により備中庭瀬2万9200石の大名として賀陽、都宇の二郡を与えられました。

旗本戸川家六流

その後庭瀬藩を継いだ達安の嫡子正安は、寛永5年(1628)弟の安尤(やすもと)に3400石を安利(やすとし)に3300石を分地し、旗本として早島知行所、帯江知行所をおこさせました。その後も戸川家は分家を繰り返し、庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾・中島の6家となりましたが、本家の庭瀬は絶家したため、撫川の戸川家が名跡を継ぎ4000石を加増され交代寄合に叙せられました。

早島戸川家

寛永5年、早島知行所をおこした安尤は、旗本として江戸木挽町築地に屋敷を拝領し、慶安2年(1649)領主として初めて早島に入りました。元禄6年(1693)二代安明は、陣屋を早島の塩地に定め、17年の歳月をかけ宝永6年(1709)三代安貞の時に完成させました。安貞は日蓮宗への帰依が厚く、本町の妙法寺に自筆の陀羅尼品一巻を奉納しています。また、鶴崎神社には四代安晴が正徳6年(1716)に奉納した江戸上野寛永寺の絵馬が伝わり、九代安悌(やすちか)は文化5年に国鉾神社へ見事な石灯篭を寄進しました。
早島戸川家最後の領主となった13代戸川安宅(やすいえ)は、元治元年(1864)の長州征伐に出兵した後、明治元年には兄に代わり上洛し、朝廷に忠勤を誓い、早島に入部しました。明治7年、安宅はキリスト教に入信、牧師として伝道に従事しました。また明治36年には「文学界」に新体詩『桂川』『明智光秀』を発表するなど、文学にも深い関心を示しました。

突如「戸川達安(みちやす)は父秀安の代から宇喜多家の重臣として常山の城を預かっていました」などという記述に出くわすと、面食らいます。
話題は次回に続きます。
これは先日、ムルデルの干拓堤防付近から眺めた常山です。

今日は、結膜炎のために登園禁止・自宅待機となっている1歳9ヶ月の保育園児を、じいじ一人で夕方までお預かりしました。
機嫌がよい時は良いのですが、ちょっとむずかり始めると、へそを曲げて、「ママ、ママ」の連呼。あるいはまた「バアバ、バアバ」と泣き叫びます(泣きたいのはこちらです)。
車に乗せて走るのが好きで、泣いていても機嫌がなおる、という情報を得ていましたので、おだてすかして外出の服装を着せ、靴も履かせて、いざチャイルドシートに座らせようとしたら、また突然に前身で抵抗を始めます。「拒否権発動」というヤツですか。
万事窮して、乳母車に乗るかと打診してみましたら、イエスだそうです。
濃霧注意報の出されている朝でした。
いつもの宮川用水路が、霧に覆われています。

田園の中のこちらの用水路には、コガモの群れ。姫の機嫌も直って、ちょっと興奮気味です。




五里霧中で、ちょっと先が見通せません。
いつもなら、向こうに常山が見えるはずなのですが。





乳母車におとなしく乗っていてくれたのもこのあたりまででいったんスイッチが入ると、敢然として抱っこをせがみます。このあと帰り道の2kmほど、片腕に姫を抱っこ、片手に乳母車押手を支えて、ブラブラと帰るのは、体力的消耗も並一通りではありません。
そのくせ、気が向くと俄然ハイテンションです。
今日は比較的寒気がゆるみ、11月並の暖かさだそうで、軽装で走り回ることができました。








ところで、年長組の姉も、目が赤いので、午後、眼科を受診しました。
常山がこんなに近くにあります。







視察結果は、やはりウイルス性の結膜炎で、一週間は保育園のお休みが必要とか。
こういう次第で、明日からは、姫二人をお預かりすることになります。ますます、ブログ更新・訪問がおろそかになりそうですが、あしからずお許しください。
今日はここまで。

赤い目、の巻 [折々散歩]

1才10ヶ月になる姫が、2,3日前から目が真っ赤です。

昨日、医者に診てもらうと、ウィルス性の結膜炎だそうで、保育園に行けません。きょうは、妻のパートがお休みで、ばあばとじいじの二人で託児所をしています。少しもぐったりしているわけではないので、おつきあいするにも、なかなかくたびれます。

あすは、じいじひとりでお世話をしなければなりません。ちょっと緊張します。

いずれにしても、パソコンに向かうゆとりはありません。ブログの更新と訪問、滞るかも知れません。あしからずお許しください。


今日も、まとまった記事を書く余裕と気力がありませんので、ストック画像でお茶を濁します。

昨日の朝の散歩で、自然環境体験公園をぶらりとしました。

深い霧でした。

霧の朝のカイツブリ

霧の朝のカイツブリ posted by (C)kazg

オオバンがたくさんいます。

目が赤いです。

霧の朝のオオバン

霧の朝のオオバン posted by (C)kazg 霧の朝のオオバン

霧の朝のオオバン posted by (C)kazg 
 霧の朝のオオバン

霧の朝のオオバン posted by (C)kazg

霧の朝のオオバン

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霧の朝のオオバン

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霧の朝のオオバン

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霧の朝のオオバン

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霧の朝のオオバン

霧の朝のオオバン posted by (C)kazg

ホシハジロも目が真っ赤。

霧の朝のホシハジロ

霧の朝のホシハジロ posted by (C)kazg

霧の朝のホシハジロ

霧の朝のホシハジロ posted by (C)kazg

霧の朝のホシハジロ

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霧の朝のホシハジロ

霧の朝のホシハジロ posted by (C)kazg

霧の朝のホシハジロ

霧の朝のホシハジロ posted by (C)kazg

霧の朝のホシハジロ

霧の朝のホシハジロ posted by (C)kazg

遠くの方から、鋭い鳴き声が聞こえてきました。

目をこらしてよく見ると.ケリでした。

目が赤いです。











これは先月の画像ですが、カンムリカイツブリも、目が真っ赤。


鴨川のカンムリカイツブリ(2016.11)
鴨川のカンムリカイツブリ(2016.11) posted by (C)kazg

鴨川のカンムリカイツブリ(2016.11)
鴨川のカンムリカイツブリ(2016.11) posted by (C)kazg


一昨日、阿部池で写したハシビロガモも、ついでにご紹介しておきます。

阿部池のハシビロガモ

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阿部池のハシビロガモ

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阿部池のハシビロガモ

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阿部池のハシビロガモ

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阿部池のハシビロガモ

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阿部池のハシビロガモ

 

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阿部池のハシビロガモ

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ついでにマガモです。

阿部池のマガモ

阿部池のマガモ posted by (C)kazg 阿部池のマガモ

阿部池のマガモ posted by (C)kazg 阿部池のマガモ

阿部池のマガモ posted by (C)kazg 阿部池のマガモ

阿部池のマガモ posted by (C)kazg 阿部池のマガモ

阿部池のマガモ posted by (C)kazg 阿部池のマガモ

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今日はこれにて。


彦崎貝塚訪問記、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

もうちょっと調べてから書きたいと思ったまま、ずっと放置してきた話題があります。

10月のこの記事◇土日の日記を駆け足で、の巻に、こんなことを書きました。


(前略)
その午後は、倉敷で、懐かしの旧友との集い。
(中略) 
京都ナンバーのこんな車。

このステッカーに見覚えありますか?
この記事でも登場のM君の車です。ほっこりと四国弥次喜多ぶらり旅(1)

このたび、改めてステッカーを確認してみると、「ちひろ美術館」のステッカーに、オスプレイのNOのステッカーを貼り加え、「子どもの未来のために」と印刷された文字に「丹後地方には」「米軍基地は要らない」と、地元の要求を手書きで書き添えた、手作りステッカーでした。
もとのちひろステッカーはこれ?

M君作成のステッカーの拡大画像。

道行く人へのアピール力は、小さくはないでしょう。
(中略)
 翌日の日曜日はM君と行動をともにし、またまた愉快な弥次喜多道中を堪能したのですが、後日機会があればご紹介するとして、今回は割愛いたします。
そのM君とともにした行動のご報告です。
先日、 私の入院を心配して、そのM君がお見舞いのメールをくれました。ありがたいことです。

◇二日目のお四国弥次喜多ぶらり旅 の記事でもご紹介しましたように、M君は、生物・理科分野、もっと厳密に言うと水産分野が専門ですが、歴史・地理分野への造詣と関心が並々ならぬものがあります。中でも一番興味があるのが縄文遺跡巡りだそうです。香川県荘内半島の紫雲出山を訪ねたのも、そこの縄文遺跡が一番のお目当てだったのです。残念ながら、「紫雲出山遺跡」は、縄文時代ではなく弥生時代の集落跡だったのですが、、、。

歴史音痴・地理音痴を自負する私などは、行動力抜群の彼の後についていくといろいろと面白いことに出会えるので、楽しいのです。
このたびの10月の「弥次喜多道中」も、縄文遺跡を訪ねる(つもりの)旅だったのです。

倉敷考古館も彼の念頭にあったそうですが、連休のさなかゆえ、混雑を避けて、倉敷近辺の遺跡を訪ねるつもりとか。私も、常のごとくお供することにしました。

はじめに、山陽自動車道沿いにあったという粒江の船元貝塚、福田貝塚という二つの貝塚跡をめざしますが、地元の人に聞いてもどうもよくわかりません。最初は彼と私、二台の車で移動していたのですが、機動性が悪いので、彼の車に同乗させてもらい、わたしは、運転手つきの、優雅な歴史紀行を楽しむことになりました。

この車で狭い路地裏や街道を走りましたから、良いアピールになったかも知れません。



結局、目的場所には行き着けず、次に。彦崎貝塚を訪ねることにしました。彦崎貝塚については、↓ここでも触れました。

◇縁は異なもの、の巻(3)高崎という地名


私の居住地のごく直近で、彦崎駅周辺は日常の生活エリアに属すのですが、この地に暮らして30年余り、貝塚そのものはだいたいの位置が思い浮かぶ程度で、実際に訪ねたことはなかったのです。一方のM君は、前日すでに下見をしていて、地元民の私を案内してくれたのでした。

こんな立派な碑が立てられていました。





彦崎貝塚については、下記サイトにこんな解説がありました。
 国指定史跡ガイドの解説

ひこざきかいづか【彦崎貝塚】



岡山県岡山市南区彦崎にある貝塚遺跡。瀬戸内海に面した旧児島湾の南岸に所在する、縄文時代前期から晩期にかけての貝塚である。2003年(平成15)から発掘調査が行われ、縄文時代前期には南北約100m、東西約80mの範囲に西日本最大の貝塚がつくられ、縄文時代晩期まで続いていたことが明らかになった。貝層は同一地点に重層的に形成され、厚さが1.7mあることが確認された。また、丘陵先端の低湿地部ではドングリ貯蔵穴が見つかっている。屈葬埋葬の人骨25体が発見され、なかには胎児がいる女性人骨も含まれる。数多くの土器や石器が発見され、土器は「彦崎式土器」として縄文時代前期および後期の標式土器として扱われている。出土品には、貝や骨でつくった腕輪などの装飾品などや、貝や獣骨、魚骨などの自然遺物も多い。縄文時代前期から晩期にかけての集落構造とその変遷過程が明らかになった大規模貝塚として、2008年(平成20)に国の史跡に指定された。JR宇野線彦崎駅から徒歩約5分。


岡山県古代吉備文化財センターのこどもホームページ 内の、 遺跡紹介コーナー 〈貝塚〉 に、こんな記事があります。

 彦崎貝塚ではこれまでに何度か発掘調査がおこなわれ、縄文時代前期<約6,000年前>には約100mの範囲に及ぶ、西日本最大の貝塚がつくられ、縄文時代晩期<約3,000年前>まで続いていることがわかりました。 この彦崎貝塚では貝がらや動物の骨などといっしょに、縄文土器や石器のなど多くのものが残っていました。他にも貝や骨でつくった腕輪(うでわ)やペンダントなどの装飾品(そうしょくひん)も見つかっています。また、たくさんのお墓とともに人骨が多く見つかっています。


上から見た彦崎貝塚
 現在の彦崎貝塚を上から見たところ。彦崎貝塚は写真中央あたりにあります。(岡山市教育委員会提供)

縄文時代の墓 イノシシの牙でできたペンダント
 縄文時代中期<約5000年前>の丸く掘られたお墓。葬(ほうむ)られていたのは女性でした。(岡山市教育委会提供) イノシシの牙でつくられたペンダント

(岡山市教育委員会提供)


岡山市のHPに、こんな記事があります。







 

収蔵品紹介 第74回



彦崎貝塚出土の縄文土器












名称 縄文土器(じょうもんどき)
出土遺跡 史跡 彦崎貝塚(ひこさきかいづか) 岡山市南区彦崎(ひこさき)
時期 縄文時代前期  
 この土器は、彦崎貝塚から出土の縄文時代前期(約6,000年前)の土器です。このタイプの土器は中国四国地方では初めて発見されました。外面と口唇部には、羽状縄文(うじょうじょうもん)を施します。胎土には、結晶片岩や火山ガラスを多量に含みます。文様のモチーフは関東地方の土器の影響を受けています。

 縄文時代前期後半は、各地で個性的な土器群が成立しますが、製作技法や施文、文様意匠等を見るとそれぞれ影響しあうなど、地域間の交流のようすがうかがえます。


収蔵品紹介 第82回



彦崎貝塚出土の「謎の骨」

名称 謎の骨(なぞのほね)
出土遺跡 史跡彦崎貝塚

(ひこさきかいづか)
岡山市南区彦崎(ひこさき)
時期 縄文時代前期~晩期

 人骨? 動物骨? 魚骨?いったい何の骨なのでしょう。全国から集った名だたる動物考古学者100人がウーンとうめき声をあげたまま黙り込んでしまいました。

 この骨は、岡山市灘崎町彦崎貝塚から出土しました。縄文時代前期(約6000年前)から晩期(約2800年前)のものです。近隣の貝塚からは見つかっていませんが、長期間瀬戸内海に生息した生物だったことは間違いありません。誰か私の名前を教えてください!



 その後の調査で、トウカイハマギギというナマズの仲間の骨であることがわかりました。





トウカイハマギギをネット検索してみますと、こんな記事がヒットしました。

日本経済新聞web版 2010/12/3付記事、 縄文貝塚に熱帯魚の骨 岡山・佐賀で相次ぎ確認

 岡山市南区の彦崎貝塚で見つかった「トウカイハマギギ」の頭の骨=共同

岡山県や佐賀県の縄文貝塚遺跡で、現在は熱帯や亜熱帯の河口域にすむナマズの一種「トウカイハマギギ」の骨が相次いで確認された。当時は今より日本の気温や海水温が高かったことが理由とみられ、縄文期の気候や生物を研究する上での史料といえる。


 岡山市南区の彦崎貝塚で2003年、約6千年前の地層から耳たぶのような形をした左右対称の骨2点が出土した。


 奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長(環境考古学)が調査。今年6月、古生物学が専門の大江文雄愛知県自然環境保全審議会代表委員とともに、頭の骨の一部が肥大化するという特徴をもとにトウカイハマギギと特定した。


 佐賀市の東名遺跡から07年に出土した骨も同様に特定。彦崎貝塚からはこれまでに50匹分以上の骨が見つかっており、食料だったとみられる。


 縄文期は海面の上昇や気温の変化など地球環境に大きな変動があったとされ、熱帯種の出土について松井センター長は「当時の気候を考える上で重要」と強調している。〔共同〕



また、産経ニュース 2015.11.16 付記事 縄文の瀬戸内海温暖化を裏付け 岡山の貝塚から現在生息しない魚の耳石



国史跡の彦崎貝塚(岡山市南区彦崎)で、現在の瀬戸内海には生息せず温暖な海に棲む魚「トウカイハマギギ」の耳石を国内の貝塚で初めて発見したと、岡山市教育委員会が発表した。耳石は魚の頭部の三半規管内で平衡感覚や聴覚をつかさどり、魚によって特徴が異なる。市教委は「トウカイハマギギが捕られていたことは、縄文時代の瀬戸内海が温暖化していたことを裏付ける」と話した。


 今回見つかったのは、トウカイハマギギの耳石2個(大きさ約1センチ)とホンニベの耳石3個(大きさ約2センチ)の計5個。トウカイハマギギの耳石は国内の貝塚では初の発見で、ホンニベの耳石発見は国内の貝塚で2例目という。いずれも現在の瀬戸内海には生息しておらず、東シナ海などの熱帯・亜熱帯の海に生息している。


 市教委は平成15年から彦崎貝塚の発掘調査を始め、奈良文化財研究所と出土品の共同研究を進めている。22年12月にトウカイハマギギの骨約50点を発見。さらに26年12月から縄文前期(約6千年前)の地層を今年4月にかけて調査した結果、魚の耳石120個が発見された。


 耳石は魚の種類によって模様や形、大きさが異なっているため、種類を識別できる。出土した耳石を調べた結果、5個がホンニベとトウカイハマギギのものと特定された。他はスズキなど現在も瀬戸内海に生息する魚の耳石だったという。


 共同研究に参加した耳石研究を専門とする大江文雄・同研究所客員研究員は「耳石から当時の瀬戸内海にホンニベなどがいたことを証明したのはひとつの成果といえる」と言及。市教委は「耳石によってどんな魚を当時の人々が食べていたのかが特定でき、新たな研究分野が確立するのでは」と話した。


彦崎貝塚の出土品などが収蔵・展示されている「岡山市灘崎文化センター (おかやましなださきぶんかせんたー)」は、孫たちがよく利用する図書館や公園の一角にありますから、何度か入館して、展示物は一通り見学したり、解説リーフレットなどもいただいたりしていたのですが、改めてその遺産的価値に思いを馳せたことでした。

さて、弥次喜多の一行は、そのあと、もと来た道を引き返し、次なる目的地「早島」をめざしました。続きは次回といたします。

今日の付録。

昨日の散歩で写したミコアイサです。

k5-2+AFborg60ed+1.4×テレコンバーターGR。



















♂はよく目立つのですが.♀は少し地味ですね。







大勢のカモたちの前を滑るように泳いでいるのは、ミコアイサ♀でしょうか?







上空をこんな鳥が飛んでいます。









こんな小型機でも、心がざわつくエンジン音がとどろきます。

事故原因の究明も行われないうちに.早くもオスプレイの飛行再再開が強行されるそうな。その爆音に心臓が握りつぶされそうな住民の不安を、わが政府はどこまで共感できているのでしょうか?沖縄の心に寄り添うとは、この不安を除去するために誠実に力を発揮することでしかありますまい。

今日はここまで。


岡南逆さ富士、の巻 [折々散歩]

先日書いた、◇ムルデルの干拓堤防、の巻の記事で、麦飯山(麦飯山)の説明を、「角川日本地名大辞典 33 岡山県」から引用しました。


  むぎいいやま 麦飯山<玉野市>

玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ,浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,

南麓は国道30号が通る。

ここに「金甲山・怒塚(いかづか)山」という山の名前が出てきます。

金甲山は、地元民にとっては比較的よく知られた山の名ですし、また機会を改めて話題にするかも知れません。

今日の話題は、怒塚(いかづか)山。

難読地名の一つでしょうね。

名前の由来などが気になりましたので、「角川日本地名大辞典 33 岡山県」で調べてみましたが、残念ながら見あたりません。

ネット上に細川英明さんのブログ岡山の風というサイトに岡南富士 「怒塚山」 歴史編というページがありました。記事の一部を借用してご紹介します。


 
岡南富士怒塚山いかつかやま


地図です.クリックすると別窓に開きます。

http://www.mapion.co.jp/m2/34.58746749531399,133.95378826184054,15

 

岡山市南区郡~玉野市八浜の境に位置し、 金甲山に次いで

児島半島で2番目に高い、標高332mの山です。



かつて、「児島」が浮かんでいた吉備の穴海 (現、岡山平野~

児島湾~児島湖)の海岸線からそびえ立ち、現代の岡南地域

(下記)に雄々しい姿を魅せる山容から 「岡南富士」(こうなん

ふじ)と呼ばれています。










岡南(こうなん)

江戸時代から数世紀に亘って行われた児島湾干拓のうち

特に藤田組(現、同和鉱業株式会社)により明治時代から

行われた児島湾内の大規模な干拓 「藤田開墾」 によって

埋め立て・造成、新田開拓・宅地開発・工業・商業立地され

た岡山県岡山市南部、旭川(東)から笹ヶ瀬川(西)に至る

地域です。



1964年(昭和39年)、同地域を中心とした岡山市・玉野市・

倉敷市、及び周辺町村とともに新産業都市建設促進法に

基づく 「岡山県南新産業都市」 に指定されました。

 (中略)


怒塚城跡
山頂に室町・安土桃山時代の城跡、「怒塚城」跡(土塀・堀切)が

あります。

古代の児島を開拓し、備前国児島郡三宅郷
(下記)を治めてい

た土豪(首長) 三宅氏
(下記)の一族、宇多見氏(児島郡波智

荘歌見:現、玉野市八浜町見石大雲寺周辺出身)の居城です。






これまでの過去記事中に、それと知らずに掲載した画像の中に、何度か金甲山と並んで、あるいは見る方角によっては単独でご紹介したことがあったように思われます。

今朝の散歩で撮影したこの山が、おそらくその怒塚山ではないかと思います。



霧の朝でした、墨絵の逆さ富士のようなたたずまいです。「岡南富士」(こうなんふじ)の命名もむべなるかなと納得できます。

霧の朝の児島湖の眺望です。



方角を変えて見ると中央右寄りに常山が見えます。







今日はこれにて。

深山公園のこれなあに?の巻 [今日の「これなあに」?]

寒さが続きます。

鳴り物入りの過大演出のあげく、ウラジ-ミルとファーストネームで呼ぶなど、卑屈なまでに親愛感をアピールしながらも、何らの成果も得られず、落胆ばかりを国民に与えることになったアベパフォーマンスも、お寒い限りでした。

まだ大統領職についてもいないトランプのもとに尻尾を振って馳せ参じ、プーチンに対しても国民が赤面するほど屈辱的にすり寄り、まつろわぬ自国の民に対しては、居丈高に押さえつけようとかかる、困ったちゃんここに極まれりです。

ウクライナ問題をめぐってG7がロシアに経済制裁を続けているまっただ中、また、米民主党へののハッカー攻撃へのプーチンの関与が名指しで指摘されるなか、売名のためにロシアにすり寄った見返りに、忠誠の証として相応の償いをアメリカに支払わねばならないことは、素人の算術計算でも自明と言えましょう。二股膏薬の悲哀でというものでしょうか。

そのタイミングで進行中のオスプレイ事故。我ながら少々くどいかと思いますが、「不時着」か「墜落」か!やはり皆さん、同じ感想をお持ちのようで、意を強くしたところです。

「不時着」は、米側の強いアピールによるもので、日本政府は率先してそれを受け入れた模様ですね。

沖縄タイムスの記事です。











【東京】稲田朋美防衛相は14日未明、防衛省で記者団に「オスプレイが不時着水する事案が起き、大変遺憾」と述べた上で、「コントロールを失った状況ではなく、自発的にその場に着水したという説明を受けている」と話し、墜落ではないとの認識を示した。


名護市安部の海岸で発生したオスプレイ事故への対応について説明する稲田朋美防衛相=14日午前3時半すぎ、防衛省
名護市安部の海岸で発生したオスプレイ事故への対応について説明する稲田朋美防衛相=14日午前3時半すぎ、防衛省


リテラのこんな記事を見て、ははんなるほどと腑に落ちると同時に、ますます寒くなりました。




osprey_161214.jpg
YouTube『ANNnewsCH』より





沖縄県名護市海上に米軍輸送機・MV22オスプレイが墜落した事件は、あらためて安倍政権がいかに沖縄県民の命を危険に晒しているかを露呈させた。主翼が真っ二つに割れて大破した機体を見るにつけ、「あれがもし集落に墜落していたら……」と思うと背筋が凍る。だいたい、事故現場から300メートルの場所には民家があったのだ。



 しかし、こんな重大事故が起こったというのに、政府の発表はどうにか矮小化させようと必死。稲田朋美防衛相は「オスプレイが不時着水する事案が起き、大変遺憾」と言い、菅義偉官房長官は「パイロットの意思で着水したと報告を受けている」などと宣った。


 だが、もっと呆れたのは、報道のほうだ。



 地元紙である琉球新報、沖縄タイムスの両紙は「墜落」と表現したが、他方、全国紙の見出しはすべて「不時着」。読売新聞にいたってはタイトルに「着水」と打った。



 一方、テレビはNHKおよび在京民放が、やはりほぼすべての番組で「不時着」と表現。他番組に比べれば沖縄問題に関心を払っている『報道ステーション』(テレビ朝日)も歯切れ悪く「重大事故」として扱う体たらくで、唯一TBSが、夜の『NEWS23』ではっきりと「墜落」と伝え、夕方の『Nスタ』でも「不時着と説明されているが実態は墜落ではないか」と疑義を呈したくらいだ。



 昨日も本サイトは追及したが、大破した機体を見るかぎり、あれは誰がどう見ても「墜落」したと呼ぶほうがふさわしい。事実、米軍の準機関紙である「星条旗新聞」や、米・FOXニュース、英・BBC、ロイターなどの海外メディアは「Crash」(墜落)と報じている。



 米軍や政府の“大本営発表”に右倣えで「不時着」という表現に留める。そんな報道のあり方で、国民の知る権利に応えていると本土のメディア人は言うつもりなのだろうか。



 しかも、本土メディアはそうして政権の意向を忖度するだけではなかったらしい。ある沖縄のメディア関係者は、本サイトにこんな驚くべき話を明かしてくれた。



「じつは、沖縄の放送局・琉球朝日放送は当初から『墜落』との表現をすると決定していた。でも、キー局であるテレビ朝日からの圧力で『不時着』との表現をせざるを得なくなったらしい」




そして、今度はこの報道に接して、頭がかっかと熱くなりましたよ



琉球新報米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ墜落事故を受け、安慶田光男副知事が14日、北中城村のキャンプ瑞慶覧で在沖米軍トップのローレンス・ニコルソン四軍調整官に抗議した。安慶田副知事は面談後、報道陣に対しニコルソン氏が「住宅や県民に被害を与えなかったことは感謝されるべきだ」と抗議に不快感を示したことを明かした上で「植民地意識丸出しで、とんでもない感覚だ。配備すら反対しているのに、事故を起こすなんてとんでもない」と強く反発した。



 安慶田副知事によると、ニコルソン氏からは「抗議書の中にパイロットに対する気遣いがあってもいい」「政治問題化するのか」などの発言も聞かれ、怒りを示す場面もあったという。抗議に加え、オスプレイの飛行中止と配備撤回を要請した安慶田副知事は「謝罪も全くなかった。抗議文を渡す時も顔色を変えて怒っていた。人間性を疑う」と憤った。面談は約30分、非公開で行われた。



 ニコルソン氏はその後の会見で一転、「今回のことは誠に遺憾。申し訳ないという思いだ」と謝罪の意を示した。一方で「訓練にはリスクを伴い、危険も伴うことはある。ただそのリスクは、お互いの国の防衛を守る意味で必要だ」と訓練における事故を前提としたような発言もあった。



 墜落場所については「沖縄の人を守るために、近くの海に降りたことは良い判断だった」とパイロットを賞賛。今後の運用については「私自身が問題ないと確信するまで飛行しない」と明言した。切断されたホースがプロペラを損傷させた墜落原因については「オスプレイのシステムによる問題ではない」と強調した。



 翁長雄志知事は同日夕、県庁で会見し、「感謝されるべき」との発言について「(これまでも)高圧的な発言が多かった。今回もそういう態度で発言があったと聞いている。米軍と県民の考え方に大きな違いがあり、県民や日本政府の考え方も伝わっていないのではないか」と不快感を示した。



この話題で、わが友人たちはみんなカッとして、血圧が心配です。

ちょっとクールダウンのために癒しの画像をupします。

今日の散歩で出会った小鳥たちです。

深山公園を歩きました。


不思議なことに紫陽花が咲いていました。





桜の花も。



ヒマエラヤザクラと言うそうです。





いつものようにヤマガラは、快く出迎えてくれます。







アオジもお出ましです。

今シーズン初撮影です。



ホオジロ。

枝かぶりですが、証拠写真として残しておきます。





メジロです。





満開のサザンカの花に吸蜜しています。





サザンカとメジロ

サザンカとメジロ posted by (C)kazg サザンカとメジロ

サザンカとメジロ posted by (C)kazg サザンカとメジロ

サザンカとメジロ posted by (C)kazg



さて、今日のこれなあに?

ウグイスでしょうか?

鳴き声は、ちっ、ちっと聞こえます。

冬のウグイスの舌打ちするような地鳴きのことを「笹鳴き」というと、季語辞典にあります。



笹鳴に逢ひたき人のあるにはある 鷹女



























鳥インフルエンザの蔓延が心配されますが、池には鴨たちが大勢くつろいでいます。

オナガガモ。







ヒドリガモ。



きょうのこれなあに?その2。

カルガモにも見えますが、、、。



アイガモでしょうか?



今日はこれにて。

柿と小鳥と水仙と、の巻 [折々散歩]

厳しい寒さが続きます。
お風邪など召してはおられませんか?
近所に住む孫一家が次々にダウンし、昨日今日と保育園園長組の姫が腹痛で欠席、我が家で療養しています。ちょうど妻もパートがお休みで、二人がかりで託児所をやってます。今日はよほど回復したのか、あれして遊ぼう、これして遊ぼう、公園へ行きたいなどと、退屈をもてあましています。それは結構なのですが、カメラ散歩はもとより、パソコンに向かうこともままなりません。
昨日の朝散歩の画像でお茶を濁します。





キーキー、コツコツという声が聞こえますが、薄暗くてよく見えません。
よくよく探してみると柿の木の枝に、ジョウビタキ♀のようです。
余りに暗いので、ストロボを使ってみました。
赤目にならなかったのはよいのですが、肝心な目が隠れています。

これはよそ見中。

これはお腹ばかり。

とりあえず、記録写真として残しておきます。
柿の木でお食事中のヒヨドリ。
これは車のフロントガラス越しに写しましたので、画像不鮮明です。





車の外に出て写すと、歴然と鮮明な画像になりました。
でも気づかれて、すぐに、逃げられてしまいます。



これは別の日の画像ですが、柿の実にむらがるムクドリの群れ。



食欲旺盛な鳥たちです。
M氏がメールをくださいました。
風邪気味で、室内でおとなしくしておられるところへ、こんなお客様が訪ねていらっしゃったそうです。

エナガさん。可愛いです。
しかも、群れで、水浴びして帰ったそうです。




「寒いのに小鳥たちは元気です。私も少し元気をもらいました。」と書いておられました。まったく同慶の至りです。
エナガ元気で何より。
オナガさん、ますますお元気で頑張って!!
オスプレイ事故 翁長知事が上京して抗議  沖縄でアメリカ軍のオスプレイが不時着しようとして大破した事故について、翁長知事が首相官邸などを訪れ、抗議するとともに沖縄への配備撤回を訴えた。

 翁長知事は15日午後、外務省、防衛省、首相官邸を相次いで訪れ、稲田防衛相には「県民が配備に強く反対してきたオスプレイの事故に怒りを禁じえない」として、飛行中止と配備撤回を求めた。一方、稲田防衛相は在日アメリカ軍の司令官から「安全確認ができるまで飛行停止をする」との返事があったと説明し、事故情報の公表や安全確認に取り組みたいと応じた。

 翁長知事「今回はぜひとも私たちが、なるほどというような検証をしてください。そして発表してくださいという話をさせてもらったわけです」

 また翁長知事は、今回の事故は「不時着」ではなく「墜落」だとの認識を示した。
 

今日の付録。
我が家の庭の水仙が、数日前から咲いています。
雨の雫を宿して咲く水仙。



青空のもと、清らかに咲く水仙。








週末から寒さがゆるむそうですが、、、

今日はこれにて。

縁は異なもの、「青頭鳥」再考、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

ちょっと前、こんな記事を書きました。

◇「青頭鶏」川に潜る「牛留鳥」?、の巻

 足桧木之 山川水之 音不出 人之子垢 戀渡青頭鶏

【訓読】あしひきの 山川水(やまがはみづ)の 音に出(い)でず 人の子ゆゑに 恋(こ)ひわたるかも

【解釈】山の川の水の流れのように、音をたてずひそやかに、あの人は人の妻であるので、ひそかに恋し続けることですよ。

【解説】「あしひきの」は、山にかかる枕詞。「人の子ゆゑに」は「人妻ゆゑに」と同義。「恋ひわたる」の「わたる」は、時間的、空間的に同じ状況・動作が続くこと。

「青頭鶏」は「かも」と読み、詠嘆の終助詞。中国の文献に「青頭鶏者鴨也(青頭鶏は鴨なり)」と記したものがあることを踏まえています。

青い頭の鶏とは、どんな種類の鴨でしょうかね。

わが家の近くの用水路にやってきているコガモです。

これも、顔が青いと言えば青いですがね。


この記事へのコメントで、Enrique様、じゅんじい様が 、こう書いてくださいました。


 最初の写真に写っているコガモ,私のデコイの色になっていました。
http://classical-guitar.blog.so-net.ne.jp/2016-06-12
こちらの写真には無いですが,マガモのオスは青首とか言いますが,首から上がつるんつるんのグリーンです。それを言っているのではないでしょうか。

by Enrique (2016-11-09 07:12) 


 マガモはアオクビ(青首)と呼ばれますので、
もしかすると、マガモの事かもしれませんね。

by じゅんじい(2016-11-10 20:21) 
その時、私はこうお答えしておりました。


 Enrique様 精巧なデコイですね。微妙な色がそのままです。 マガモの♂、今年はまだ撮っていないので載せませんでしたが、確かに青首ですよね。納得です。

じゅんじい様
ありがとうございます。確かに青首の名のごとく、マガモのオスの頭部は目を引くの緑色ですね。今シーズンはまだマガモにお目にかかっていません。

昨日一昨日と、阿部池や児島湖周辺の散歩で、マガモの群れを確認しました。
手前が♀、向こうが♂ですね。♂はまさしく青首ですね。


手前が♂。











児島湖の景色。雨は上がっていますが、雲が厚く、風があるので、湖面が波立っています。






朝の漁をする小舟があります。


常山が見えます。



ところで、久しぶりに阿部池あたりをカメラ散歩したのは、児島湾干拓事業の話題のつながりからでした。そもそも、 病室雑話 藤田という地名でも書きましたように、このゴイサギに会う、の巻で触れた学習会が、これら一連の記事のきっかけでした。つまり、児島湾の干拓が同和鉱業(=現社名DOWAホールディングス)の前身藤田組によるものであることを再認識したのが始まりでした。

一昨日、退院の報告がてら郷里の父を訪ねた時も、この話題になり、昔、阿部池で釣りをして大釣果をあげた思い出話も出ました。県北部在住の父ですが、県最南端のこの地域一帯が、勤め先の会社の所有地であったことから、何かとなじみが深かったようです。

一昨日、父を訪ねたには、もう一つ用件がありました。

実は、父の出生地は、植民地時代の朝鮮半島でした。5才の頃までそこで育ち、冬の寒さ、松の実をよく食べた記憶、オウリョッコウが近かった記憶、など、いろいろとかすかな記憶があるようです。かねがね、一度は訪ねたいと思ってきたが、もう今となっては無理ながら、せめてどんな場所だったか、地図があったら探してほしいと、ずいぶん前、頼まれていました。

戸籍簿の記述に、朝鮮平安北道江界郡云々とあるのを頼りに、地図を参照してみますが、なかなか難渋しました。



なにしろ、国交断絶状態にある北朝鮮に属するだけに、余計に地図情報などが入手しにくい事情もあるのかも知れません。観光旅行向けの案内書や地図のようなものも見あたりません。アマゾンで、地図を入手し、中身も確かめないで送っておいたのですが、「平安北道江界郡」なる場所は見つかりません。

先月、一番下のゼロ歳児の孫とその母親(私の長女)と一緒に田舎を訪ねた際、ことの次第を話していると、長女がスマホで、ちょこちょこっと検索ながら、「オウリョッコウって、鴨という字を書く?」と尋ねます。父も私も、とっさには返答できず口ごもっているあたりで検索作業はお預け、話題が他へ移りました。

「オウリョッコウ」は「鴨緑江」。疑う余地はないはずなのに、いざ問われると、動転して迷ってしまう。

ウィキペディアにこうあります。







 鴨緑江(おうりょくこう、北京語:Yālù Jiāng、ヤールージャン、満州語:ᠶᠠᠯᡠ

ᡬᠢᠶᠠᠩ 転写:Yalu giyang、朝鮮語:압록강[2])は、中華人民共和国(中国)東北部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国境となっている川である。白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注ぐ。水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある。

(中略)


さらにこうもありました。







 日露戦争時には日本軍とロシア軍が激戦を繰り広げた(鴨緑江会戦)。また、朝鮮戦争時には北朝鮮軍を支援する中国軍が鴨緑江を越え、国連軍が両国を結ぶ鴨緑江沿いの要衝に爆撃を行った。

そうでした。なぜとっさに思いださないのでしょう。地理音痴、歴史音痴の面目躍如です。

「朝鮮平安北道江界郡」を地図上で確かめることにしばし難儀したのですが、結論は次の通りと考えて良さそうです。

「江界郡」をウィキペディアで調べると、「 江界市」に行き当たります。







 江界市(カンゲし)は、朝鮮民主主義人民共和国の慈江道の道都。人口約22万人(1993年)。

おや?「平安北道」ではなくて「慈江道」?

ヒントは同じくウィキペディアのここにありました。







 平安北道 (日本統治時代)

平安北道(へいあんほくどう、ピョンアンプクト)は、日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平安北道・慈江道を合わせた地域にあたる。道庁所在地は新義州。

旧平安北道が、今は平安北道と慈江道に分割されていて、江界郡(現江界市)は慈江道に属するということですね。

我が家の古い「平凡社百科事典」をひもとくと、こうありました。







  慈江道 Jakangdo 朝鮮北部の道。鴨緑江をへだてて中国に接し,他は両江道,威鏡南道,平安南・ 北道の4道にかこまれている。
1949年新設された道で, もとは平安北道と咸鏡南道の一部に属していた。面概約15,400㎞, 首都は江界市。

〔自然〕 (中略) 鴨緑江およびその支流と清川江の流域が道のほとんどを占めており鴨緑江の本流の過半(約4ookm)は道内を流れている。気温は北部の中江で年平均3.6
℃, 1月平均-21.1℃, 8月平均21.6℃である。南部の熙川(きせん)地方では,年平均7~8℃, 12~3月間は月平均0℃以下である。
中江は朝鮮の最低記録地で. 1933年に一43.6℃を記録した。雨量は年平均800mm以h.で, 熙川地方は年1,300一で最も多い。

〔産業〕土地利用率は7%で, そのうら水田面積の比率は10%未満である。 耕作地の大部分は火田で, 蓋馬台地, 茂山高原の火田が大きな比重を占めている。
そのうえ,生物の成長期間が短いので農業はふるわない。農作物は耐寒作物を主とし, トウモロコシ, ダイズ, アワ,亜麻.、大麻, タバコを産する。畜産業も盛んで.
慈城・満浦・中江郡には国営農牧場・種畜場があり,羊,豚, メンヨウが多い。(後略)


知れば知るほど、鴨緑江と深い縁がありました。

鴨緑江の「鴨」は、やはりマガモでしょうか?

【今日の付録】

実家に向かう途中、三徳園を訪ねてみました。

ジョウビタキに会いました。



















実は、違う色のヒタキに会いたいと期待していたのですが。かないませんでした.ひょっとして、チラッと姿を見かけたような気もしましたが、カメラを構えようとしているうちに飛び去ってしまいました。

大きなレンズのカメラで、木の梢を狙っておられるかたがありました。枝から枝へと、ひょいひょい飛び移る小鳥の姿がありました。とても遠いのですが.念のために写しておきました。思い切ってトリミングしてみると。











どうやらメジロのようでした。

今日はこれにて。

不時着と言うには無残!オスプレイ [時事]

書きかけていた記事を急遽差し替えます。

オスプレイの事故を、so-netニュースから引用します。(出典はTBSニュース)




名護市安部の海岸です。干潮時刻が近づき、大破したオスプレイの機体が見え始めています。海面から突き出している2つの棒のようなものはプロペラ部分です。そしてバラバラになった尾翼など機体の一部が海岸に打ち寄せられ、衝撃の大きさを物語っています。

 海上保安庁などによりますと、オスプレイは13日午後10時ごろ、名護市のキャンプシュワブ近くの浅瀬に不時着を試みて大破しました。オスプレイは普天間基地所属で、事故当時は訓練を行っていたということです。搭乗していた5人は救助され、このうち2人がけがをしたということですが、詳しい容体は分かっていません。

 オスプレイをめぐっては、安全性が懸念される中、2012年に普天間基地に強行配備された経緯があり、日本国内で初めて起きた重大事故に、今後、大きな反発が広がることは必至です。
 オスプレイが大破した事故を受け、沖縄県の翁長知事は「とんでもない出来事だ」と述べ、強い不快感を示しました。
 「本当にとんでもない出来事。法治国家ではない」(翁長 沖縄県知事)  翁長知事は沖縄防衛局長らを沖縄県庁に呼んで、抗議しています。
 「本当に一歩間違えれば、それこそ大惨事になる。恐れていたことが現実のものになった。本当にびっくりした」(稲嶺 名護市長)
 「できればオスプレイは基地に持ってきてほしくない、基地があるから、そういうのも来ると思うので考えてほしい」(宜野湾市民) 「嫌です、基地はなくなってほしい」(宜野湾市民)(14日11:32)
TBS Newsi

朝のニュースでは、「オスプレイが不時着」と聞きました。「不時着」と「大破」では印象がずいぶん違います。たまたま今回は海上でしたが、民家や商業施設の上空、病院や学校、保育所の上空だったら、どんな悲劇が起こらなかったとも限りません。

オスプレイについては、過去に記事にも何度か書いてきました。

2014年1月の記事。

◇はつはるや とりどりの鳥 撮りました



ミサゴは、英語でオスプレイと言うそうです。

沖縄はじめ、日本への配備が問題となっている垂直離着陸機のニックネームですね。


天空から猛スピードで思いっきりよく海中に突入し、勇猛果敢に獲物を捕らえるこの猛禽の、颯爽とした美しさ、勇ましさにちなんだ名づけでしょうか?

でも、その、航空機のオスプレイの方は、あまりにも事故が多くて、ウィドウ・メーカー( widow maker, widowmaker)=「後家製造器」「未亡人製造器」と揶揄される欠陥機だそうな。

折しも、一月八日付の「琉球新報」web版に、「第15回北方領土返還平和条約締結促進全国誌上川柳大会」(北方領土川柳社主催)で、県川柳協会会長の大田かつら(洲鎌恵子)さん(66)=
豊見城市=の作品「沖縄の平和遠退(とおの)くオスプレイ」が特選に選ばれた、という記事が載っています。

大田さんは、昨年末の仲井真弘多知事の辺野古埋め立て承認について、

人間のエゴがジュゴンの海奪い


ジュゴンすむ海札束で売った知事


と詠んで批判したとも記されています。全くもっともなことです。
安全性も確認できないまま、世界でもまれな大量配備を強行するのは、アメリカが、いまだに日本を属国と見下し、とりわけ沖縄を準「占領地」と見なしていることのあらわれですか?

いやそれよりも、安倍さんを筆頭に、歴代日本政府とオエライさんが、沖縄県民を初め日本の国民の思いに、いささかも心を寄せようとせず、ジャイアン親分の鼻息ばかりうかがってきたことの延長線でしょうかね。

そんなとき、同じ「琉球新報」今日付WEB版に、米国やオーストラリアなどの世界的に著名な文化人や識者ら29人が7日(日本時間8日)、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を中止し、即時返還を求める共同声明を正式に発表した、と報道されています。声明の呼び掛け人には言語学者のノーム・チョムスキー氏、アカデミー賞受賞の映画監督オリバー・ストーン、マイケル・ムーアの両氏、ノーベル平和賞受賞者のマイレッド・マグワイア氏、ピュリツァー賞受賞者のジョン・ダワー氏ら29人が名を連ねた、とあります。
さて、どうする?日本人!

そしてこちらは、同じく2014年7月の記事。
◇沖縄の方々の気持ちにより添うってどういうこと??

 昨日は、カーラジオから流れてくる安倍さんの施政方針演説を、聞くともなく聞いていました。

 第168回国会の代表質問を前に、突如辞任された第一次安倍内閣の頃に比べて、お声にも張りがあり、若々しく、お元気そうで何よりでした。
演説の内容も、安定多数の余裕のためか、年齢的成熟のためか、ソフトタッチで、一般国民の日常に根ざしたささやかな喜怒哀楽の心情にも配慮しつつ、レトリック的にも論理と情緒の均衡において破綻の少ない、ソツのない演説とお聞きしました。

しかし、最近露骨には表に出ることの少なかった、「戦後レジームの転換」という持ち前の「信念」が、衣の下から見え隠れしているという印象は、強く感じました。

(中略)


あの名護市長選挙で、保守候補の応援に立った元官房長官の野中さんの発言が、こんな記事に紹介されていました。


 「沖縄の人たちを札束でしばき、踏みつけるような手法を取ってはならない」。野中広務元官房長官は18日、沖縄県名護市で街頭演説し、安倍政権の米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)移設問題への対応に苦言を呈した。
 安倍晋三首相は昨年12月、普天間飛行場の移設先とする名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を仲井真弘多知事から得る際、3000億円台の沖縄振興予算を2021年度まで確保すると表明した。野中氏はこうした経緯が念頭にあるとみられ、演説では「今回の一連の流れに怒りを持ってきた」と語った。
 小渕内閣の官房長官などを務め、沖縄の基地問題に深く関わった野中氏は当時、頻繁に沖縄を訪れ、名護市を含む本島北部地域の首長らと膝詰めで話し合うなどした。それだけに、着工に前のめりな安倍政権の姿勢に不満が募ったようだ。


 このような政友からの「ブレーキ」にも、まるで斟酌の様子もなく、話題は安全・安心の問題に及び、自衛隊員の献身性への慰労、感謝、激励、賛美の言葉が続きます。続けて、「積極的平和主義」「集団的自衛権」などの持論が展開され、日米同盟・在日米軍の重要性が強調されます。その文脈の中で、沖縄問題が語られるのです。


 在日米軍再編については、抑止力を維持しつつ、基地負担の軽減に向けて、全力で進めてまいります。
特に、学校や住宅に近く、市街地の真ん中にある普天間飛行場については、名護市辺野古沖の埋立て申請が承認されたことを受け、速やかな返還に向けて取り組みます。同時に、移設までの間の危険性除去が極めて重要な課題であり、オスプレイの訓練移転など沖縄県外における努力を十二分に行います。
 沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら、「できることは全て行う」との姿勢で取り組んでまいります。


 でも、安倍さん。「沖縄の方々の気持ち」とは、「沖縄の苦難を他の地方に押しつけない。」、「沖縄を二度と侵略の足場にさせない。」 、「核も基地もない緑で平和な、自然豊かな沖縄をまもる」、「札束で心は売らない。」ということではなかったでしょうかね?


そして、「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」というなら、先の戦争が、他国に対しては侵略の、自国民に対しては抑圧と暴虐の歴史に他ならなかったこと、そして唯一戦場とされた沖縄の悲劇の大本はその点にあることを、まず真摯に認める所から出発しなければならないのではないでしょうかね?


オスプレイはウィドウ・メーカー( widow maker, widowmaker)=「後家製造器」「未亡人製造器」とよばれるほどの事故多発機で、危険であるだけでなく、耐え難い騒音で迷惑千万、という当然の住民感情を尻目に、日米政府は、高江ヘリパッド工事強行をはじめ、沖縄、本土へのオスプレイ導入をはかっています。先の熊本地震でも、災害支援物資の運搬のためにあえてオスプレイを投入し、PRにつとめました。

政府と御用言論家は、「オスプレイは安全」と、まことしやかに言いつのっていますし、ネットを探ると、そうした論がかなり幅をきかせているようですね。

そんな話題を検証する上で、こんな記事が参考になりましたのでご紹介しておきます。

◇オスプレイ事故率 「民間航空機より低い」 産経サイト、一部記述を削除

 【GoHooレポート4月22日】産経新聞は4月20日、ニュースサイトに「一部メディアのオスプレイ叩きに被災者から批判の声 『露骨な政治的パフォーマンスでは…』」と見出しをつけた記事を掲載した。当初、この記事には、オスプレイMV-22の事故率が海兵隊平均より低く、「この数字は大韓航空や中華航空よりも低いという」と記されていたが、同日中にこの部分を含む一部記述が削除された。サイトには、この記述を削除したことや訂正文は記されていない(参照=産経新聞ニュースサイトの記事)。
〔中略)

この記事は、熊本地震で在日米海兵隊の垂直離着陸輸送機オスプレイMV-22が支援活動に当たったことについて、複数の日本メディアが批判的に報じたことを問題視したもの。削除された部分は「米当局が明らかにしたMV22のクラスA事故率は1・93で、海兵隊の平均事故率2・45を下回る。この数字は大韓航空や中華航空よりも低いという」と記載されていた。この「クラスA事故率」とは、10万飛行時間あたりの「クラスA」の事故率で、防衛省が2012年に米側資料に基づいて公表されている。米軍独自の基準で、被害総額が200万ドル以上あるいは死亡等の重大な結果を引き起こした場合が「クラスA」とされている(参照=防衛省の2012年9月発表資料)。

一方、民間航空機については、たとえば国際ビジネス航空協議会(IBAC)が10万飛行時間あたりの事故率を公表しているが、米軍の「クラスA」と同様の方法で事故率が発表されている事実は確認できなかった。そのため、MV-22の「クラスA」の事故率が「大韓航空や中華航空よりも低い」という指摘は、裏付けとなるデータがなかった可能性が高い。

産経の記事は当初、20日午前7時26分ごろにニュースサイト上に掲載された後、同日正午ごろに差し替えられたとみられる。記事は22日正午現在、産経ニュースサイトで過去1週間のアクセスランキング1位となっている。Yahoo!ニュースに掲載された記事も、同じ箇所が削除され更新されていたことを確認した。

産経の記事で削除された記述は、以下のとおり(削除されたのは太字部分)。

一部メディアのオスプレイ叩きに被災者から批判の声 「露骨な政治的パフォーマンスでは…」

…(略)…


そもそも、日米同盟がある以上、被災地支援に利用できる米軍の航空機を使用するのは当たり前で、政治的な判断を必要とするのも当然だ。オスプレイ投入を政治利用と腐し、自衛隊の存在そのものに否定的な勢力の論法だと、自衛隊の災害派遣も、自衛隊を正当化する政治利用だということになりはしないか。


こうしたメディアが振りかざすオスプレイの危険性も事実からは遠い。


米軍は事故について、死者や200万ドル(約2・1億円)以上の損害が出た事故をクラスA、より軽微な事故を順番にクラスB、Cとランク付けしている。


米当局が明らかにしたMV22のクラスA事故率は1・93で、海兵隊の平均事故率2・45を下回る。この数字は大韓航空や中華航空よりも低いという。


これまでもオスプレイは沖縄県の普天間飛行場への配備時など、執拗な批判にさらされてきた。しかし、物資輸送をはじめ、災害発生間もない被災地のさまざまな需要に応じるため、オスプレイを活用しない理由はない。主力輸送ヘリCH46と比べ、速度は約2倍、航続距離は約4倍で、積載量も約3倍といずれの性能も上回るからだ。


救援活動での活躍は、ことさらオスプレイの危険性を強調し、過剰ともいえる議論をリードしてきた一部メディアにとっては“不都合な真実”になりかねない。しかし、露骨な反対運動のアピールは、逆に被災者や関係者の怒りや失望を買うだけではないか。


(産経新聞ニュースサイト2016年4月20日07:26掲載)


「米当局が明らかにしたMV22のクラスA事故率は1・93で、海兵隊の平均事故率2・45を下回る。この数字は大韓航空や中華航空よりも低いという。」と、鬼の首を取ったような論が、ネット上でも繰り返されています。

これに対して、琉球新報の次の記事は、完膚無き反駁となっています。

◇<社説>オスプレイ事故率 重大事故の危機自覚せよ
政府や米軍が喧伝(けんでん)する「安全性」は信用に値しない。即刻、沖縄の空から去るべきだ。

 垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの10万飛行時間当たりのクラスA(重大事故)の事故率が、普天間飛行場に配備された2012年の1・93件から、15年末時点で3・69件に増加したことを米海兵隊が明らかにした。

 わずか3年余でクラスA事故率が約2倍になった。政府は「一般に飛行時間の増加に伴い(事故率は)低減する」と説明してきたが、それとは逆のことが起きているのだ。

 民間機ならば同型機の飛行を止めるような異常事態だ。バッテリー発煙トラブルを起こしたボーイング787は原因を究明するために4カ月間、飛行停止した。これが航空機の安全運航を維持する上でのルールであろう。

 しかし、在沖米海兵隊は重大事故が起きてもオスプレイの飛行を続けてきた。政府はこのような無謀な飛行を見過ごしてはならない。住民の安全を守る観点から、飛行停止を米側に求めるべきだ。米軍機を特別扱いする理由はない。

 ところが、そのような強い姿勢が政府には皆無だ。そればかりか、オスプレイの安全性や事故率に対する関心の薄さが露呈した。

 防衛省が15年5月に公表したクラスA事故率は14年9月段階の2・12件であり、14年10月に北アラビア湾で発生した重大事故を反映した数値は公にしていない。同省は、既に発表したものから更新された数値は把握していないと答えている。事故率公表に及び腰では、「安全性」を説く資格はない。

 オスプレイをめぐっては隠蔽(いんぺい)や偽装が付きまとってきた。

 10年にアフガニスタンで起きた空軍のオスプレイ墜落事故で、「機体に問題があった」とする調査報告を「人為的ミス」に改めるよう軍上層部が圧力をかけていたと米誌が報じた。整備記録のミスなどの不適切な整備作業も米国防総省監査室の調査で判明した。

 配備に関しても、防衛省はSACO(日米特別行動委員会)の交渉の時点(1996年)から辺野古新基地へのオスプレイ配備計画を把握していたのに、16年間も事実を隠した。

 政府と米軍が住民の安全確保を軽視したままオスプレイの飛行が続けば、悲惨な事故が起きかねない。住民が重大な危機にさらされていることを厳しく自覚すべきだ。

「政府と米軍が住民の安全確保を軽視したままオスプレイの飛行が続けば、悲惨な事故が起きかねない。住民が重大な危機にさらされていることを厳しく自覚すべきだ。」という指摘が、改めて現実味を帯びてきています。
沖縄タイムスも、衝撃的な事実を伝えています。
◇米海兵隊オスプレイ、アフガンでの運用率1% 事故率は41倍(2016年1月15日 11:27  沖縄タイムス)

(前略) 

事故は全機種平均の41倍

 米海軍安全センターが公表した「海兵隊航空機アフガニスタン事故報告書」によると、同国に配備された海兵隊航空機12機種の飛行時間は計12万3645・3時間。これに対し、オスプレイの飛行時間は計723・6時間と極端に低い。


 オスプレイの飛行時間を年度別にみると、10年度が15・4時間(ヘリ機能を持つ6機種の合計は1万8509・3時間)で運用率は0・08%、11年度が632・4時間(同2万7562・6時間)で2・30%、12年度が75・8時間(同2万5121時間)で0・30%。3年間で計723・6時間(同7万1192・9時間)で運用率は1・02%となっている。


 全12機種のクラスA~Dの事故率(10万飛行時間当たり)は26・69で、3746・8時間に1件の割合で発生。これに対し、オスプレイの事故率(同)は1105・56で全機種平均に対し約41倍、90・4時間に1件の割合で発生。クラスAの事故率(同)は138・19で、12機種平均に対し21倍。ヘリ機能を持つ6機種の平均に対し、30倍となっている。


 当地で起きたオスプレイのクラスA~Dの事故は計8件。被害規模が最も大きい「クラスA」(200万ドル以上の損害や死者)は、機内の後部ドアから海兵隊員が転落死した1件で、地上での機体の整備中などに起きたクラスC(5万ドル以上、50万ドル未満の損害や軽度の負傷者)は7件となっている。


 機種別ではヘリの事故率が最も高く、2004年に沖縄国際大学に墜落したヘリと同型機のCH53D大型輸送ヘリが6件、米軍普天間飛行場にも配備されているCH53Eが8件。同報告書は総括で「MV22、CH53D、CH53Eの(10万飛行時間当たりの)クラスA~Dの事故発生率は85・16でその他の航空機は11・25」とヘリ事故の高さを強調。また「オスプレイのクラスCに分類される地上での事故が目立つ」と注釈している。


■オスプレイ「実戦で使えない」 元米国防研究所主任分析官リボロ氏


 【平安名純代・米国特約記者】米国防研究所(IDA)の元主任分析官でオスプレイの専門家、レックス・リボロ氏は12日、米海軍安全センターがまとめたアフガニスタンにおける米海兵隊航空機の事故報告書について沖縄タイムスの取材に対し、「現地でのオスプレイの利用率の低さと事故率の高さは驚異的で恥ずべき数字だ。実戦で使い物にならなかったことを立証している」と述べた。


 リボロ氏は「同報告書で注目すべきは事故率の高さではなく、利用率の低さだ。これはオスプレイは本来の目的のために使えないことを示している」と強調。「(報告書のなかで)海兵隊のオスプレイ保有数は250機とあるがアフガニスタンでの飛行時間はたったの723時間。一方で、150機のUH1Yヘリの飛行時間は1万6千時間以上だ」と両者の差を指摘。2006年に2機を比較検証した際に、戦地での任務遂行機能に大差がないとのデータを得ていたことを明らかにした。


 また、オスプレイの10万飛行時間当たりの事故率が1105・56件となっていることについて「通常、戦地での事故率は平時より高い。平時の事故率が10万飛行時間当たり約6件なのに対し、ベトナム戦時のヘリの事故率は約100件だった。私がオスプレイの機能分析を担当した1992年から2006年時、同機の事故率はおそらくベトナム戦時のものを上回るだろうと予測していたが、1105件という驚異的な数字は想像すらできなかった」と指摘。


 02年に当時の海軍長官らに対し、「同機の戦地における事故率は10万飛行時間当たり約100件に達するだろう」と警鐘を鳴らしたところ、「ありえない話だ」と一笑に付されるなど、米軍幹部らが検証結果を軽視していた経由なども説明した。


 リボロ氏は、オスプレイがアフガニスタンで運用されなかった理由について「事故発生への懸念」を挙げ、自身が07年から08年にバグダッドに赴任していた際も同様の理由で「ほとんど運用されなかった」と述べ、「残念だが私の過去の予見はすべて的中している。海兵隊は給油が不要な長距離飛行などの特別任務を除き、オスプレイの大半を退かせることになるだろう」と予見した。

幸い人命に被害のなかった〔と報道されている)今回の事故を契機に、お国にお帰りいただくのが最善と存じます。
謙虚に真摯に、「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」べき政権党のヒトたちが、沖縄の心を敵視している以上、いくら「遺憾」を繰り返しても、根本的な反省がないかぎり、事態の深刻さは変わりません。
「反省」どころか、こんな発言を思い出します。
「沖縄の2つの新聞は潰さないといけない」百田尚樹氏発言



自民党議員の質問にこたえたものです。



オスプレイの事故?確率低いので、杞憂です、という論もまことしやかに語られています。

以前、こんな記事を書きました。

◇杞の人の憂いや如何冬菜花(故事成語シリーズ第五回) 

杞の人の取り越し苦労を笑える人は幸いです。

今の世の中、空が落ちてこないとは、誰にも言えません。

地面がいつも確かに我々を支えてくれるとも、誰にも言えません。

隕石が原発の上におちてくる可能性はきわめて低く、それは杞憂だと、原発推進派の方々はおっしゃいますし、どこかの国が原発をミサイル攻撃するなどの可能性も考慮に値しないと、その方々はおっしゃいます。「今後も活発な噴火活動が続くと考えられる」という桜島から50㎞しか離れていない川内原発に、降灰が何らかの影響をもたらすなどの心配も、杞憂、、、、。実に、剛胆な、頼もしいお方だすなあ。


せやのに、同じ穴に棲む方々が、「日本を取り巻く安全保障環境は大きく変わり」、集団的自衛権も行使せんならん、憲法九条も実態に合わせて変えんならん、、、と力説なさるのは、杞憂とは言わしまへんのかいな?ほんま、ビックリポンやわ。


(放映中の朝ドラは、視聴率もまずまずだそうですが、個人的にはなぜか今ひとつ感情移入できずに、流し見している程度ですが、上方弁の言い回しだけはなぜか耳に残り、記事を書いてもケッタイナ上方弁の真似っこをしてしまいます。関西の皆様、決して悪意はございません。お許し下さい。)

今日も、児島湖と阿部池を散策してきました。

午前中、雨は上がっていましたが、強い風がありました。

工場の排煙が真横にたなびいています。



ミサゴ(オスプレイ)が、獲物を運んでいます。



トリミングしてみます。



これは別の個体・


今日はこれにて。

阿部池に師走の雨やミコアイサ [折々散歩]

今朝の散歩で、ミコアイサに会いました。





今シーズン初対面です。ミコアイサについては、過去にこんな記事を書きました。会えると嬉しい鳥の一つです。
◇ミコ殿に遭うて嬉しやプチ散歩
◇牡丹雪や遊ぶタゲリにミコアイサ
◇冬の日や鏡の上の巫女秋沙
記事の一部を引用します。
冬の日や鏡の上の巫女秋沙
巫女秋沙はミコアイサと読み ます。何年か前、何も知らずに水鳥にカメラを向けていますと、通りかかりの女性が、「さすがですね。」とか、声をかけて来られました。
何やら分からずポカ ンとしてますと、「ミコアイサですね。」と、教えて下さいました。その時の写真は、ぶれぶれのボケボケでした。対象物が遠すぎるし、技術も機材も、追いつ かずでも、エレガントなその容姿は強く印象に残りました。パンダに似ているという顔の黒い模様も、強く自己アピールしています。
次には、ちゃんと写したいなという思いがつのりましたが、それ以来、ミコアイサを見る機会もありませんでした。
今年になって、遠くいに見かけることはあったのですが、今日もそれらしい鳥が浮かんでいるので、一応シャッターだけは切っておきました。
はるか遠くの、点のような被写体を、拡大してみると、、、。
 
 
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今朝ミコアイサに会ったのは、阿部池の畔です。

〒702-8055 岡山県岡山市南区築港緑町2丁目 阿部池の地図

朝から雨模様で、カメラを濡らすのはいやなので、防塵防滴のFuji finepix s1だけを持って、歩きました。
案の定、散歩の途中、ぽつりぽつりと雨に打たれました。
光量もなく、鳥の撮影には不向きな条件ですが、今日の目的は、阿部池を写すことにありました。
というのも、この阿部池も、児島湾干拓に関係の深い場所だからです。




「角川日本地名大辞典33岡山県」の記述を紹介します。
 あべいけ 阿部池<岡山市>
岡山市浦安南町にある感慨・排水用の池。面積82ha。 大正初年から藤田組が着手した第三・五区の児島湾干拓工事に対して, 児島湾沿岸漁業組合は開墾反対の行政訴訟を起こ し, 昭和13年行政裁判所評定官阿部文治郎の斡旋で和解した。その内容は,澪筋を中心に貯水池を築造し, 干拓地内の過剰悪水を一時貯水し, 干潮時に海に排水して浸水の被害を免れるようにするものであった。 この貯水池を評定官の名をとって阿部池と命名した。 第2次大戦中立川飛行機会社が池を買収したが,戦後再び藤田興業会社が買い戻した。戦時中, 貯水池の附帯施設である導水路を理没し水門を破壞したため授水や塩害が生じ,復旧が行われないまま,戦後藤田興業が淡水漁業を営んだため, 開拓農民と池をめぐって利害が対立した。昭和25年に池の所有権は藤田興業株式会社, 水利権は岡山市浦安水利組合とする和解が成立した。 池の南部には岡山空港(現岡南飛行場)が昭和37年完成している。阿部池一帯は旅鳥の探鳥地としても知られており,ハジロカイツプリ・カンムリカイツプリ・クロツラへラサギ・マガン・力モ類・ミサゴ・チョウゲンボウ・キョウジョシギ・ダイシャクシギ・ハジロクロハラアジサシ・トラフズク・ コミミズクなどが観察できる。

行政裁判所評定官阿部文治郎にちなんだ命名だったのですね。

日本野鳥の会岡山県支部のHP
に、「岡山の探鳥地」を紹介するページがあります。その5「阿部池」に、こうあります。
岡山の探鳥地 5    阿 部 池(あべいけ )
カモたちの楽園

 岡山市内における水鳥観察のメッカである阿部池は、農業用のかんがい・ 排水用の池として50年ほど前に造られ、現在は民間会社の所有となっています。

 阿部池とその隣の児島湖一帯には毎年秋になると多数のカモ類が渡来し、 最盛期にはその数は2万5千羽以上になります。阿部池・児島湖でのバードウオッチングの中心は何といってもカモ類です。 ここでは、これまでに21種類のカモが確認されており、西日本では珍しい天然記念物のマガンが 越冬することもあります。

 阿部池に来るカモ類はおもにオナガガモ、ヒドリガモ、コガモなどの いわゆる淡水ガモが中心で、時には純白の羽が美しいミコアイサの群れもあらわれます。

 一方、児島湖に多いのはホシハジロ、キンクロハジロ、スズガモといった海ガモで、 彼らは水に潜って餌をとっています。湖の中心に陣取った海ガモの群れは2万羽を超すこともあります。

 カモ以外では阿部池に隣接する岡南飛行場の滑走路周辺にいるタゲリや、児島湖の中の杭にとまる ミサゴも一見の価値があります。
 また、最近は毎冬、阿部池のアシ原でツリスガラの群れがよく観察されています。 西日本一帯で数の増加が伝えられるこの鳥がどこまで増えるのか注目されています。

阿部池の野鳥に関するパンフレットを作りました。探鳥会などでご希望の方にお配りしています。

 

いろいろな水鳥が、あちらこちらに群れをなしています。


一番よく目につくのは、マガモです。















オオバンもいます。



猛禽類も空を舞います。





ツグミの姿が増えました。







きょうはこれにて。

ムルデルの干拓堤防、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

昨日の朝散歩で、児島湾干拓第一号、第二号堤防と呼ばれる遺跡を見てきました。

一昨日書いたこの記事(ムルデルの樋門など、ご近所の干拓遺跡、の巻)でも紹介したおかやまの歴史的土木資産というhpから、児島湾開墾第一区第一号・第二号干拓堤防の記事を引用します。

 児島湾干拓第一区第一号堤防

見どころ


 江戸時代から始まった児島湾の大規模な干拓は、明治時代には政府から開発を請け負った藤田伝三郎(でんざぶろう)(1841~1912)によって事業が進められることになりました。
 初めに着工された第1区では、明治32年から翌年末に潮止(しおど)め工事が完了しました。その工事で築かれたのが第一号と第二号堤防です。軟らかい地盤の上に堤を築くことは困難を極め、藤田組の技術者が工夫を重ねてようやく成功したものです。

 第一号堤防のある加茂崎地区(玉野市)は、前面の海が干拓されておらず、完成当初の堤防がそのまま残っている貴重な場所でしたが、平成18年頃に改修されました。第二号堤防のある高崎地区(岡山市・玉野市)は、前面の海が後に干拓されたため陸地に取り残される形になりましたが、延長約2㎞の石積みの堤防跡が続く干拓地らしい風景を見ることができます。


出典:「あなたの街の近代化遺産ガイドブック」岡山県教育委



下に略地図を載せます。



石積みが破損、崩壊の危険があったためか、最近補修工事が行われ、石積み堤防の面影は残しながらもコンクリートで固定されています。































正面辺りに見える山は、麦飯山(むぎいいやま)。この山の頂には、戦国時代、毛利方の城が置かれました。







鴨川に映る麦飯山。



「角川日本地名大辞典33岡山県」から麦飯山の記事を引用してご紹介します。

 むぎいいやま 麦飯山<玉野市>

玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ,浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。



むぎいいやまじょう 麦飯山城く玉野市>

中世の山城。玉野市八浜に所在。城跡は2つ重なっている山を利用し,高い山の方に本丸・二の丸・三の丸の主要部分を設け,低い山に出丸・馬場などをおいた。弘治~文禄年間,近くの常山城主明石景行の弟の明石源三郎が在城していたといわれる。
羽柴秀吉の中国平定のとき,宇喜多氏にその先陣を命じたので,浮田忠家は毛利勢のこの城を攻めるため大軍を八浜に送った。両車は近くの大崎の柳畑の海辺で激突した。これを俗に八浜合戦という。



この辺りから、常山もごく間近に見えます。







小川に映る常山。別名児島富士と呼ばれますから、逆さ児島富士、と、以前もご紹介しました。



頂上には、戦国時代から江戸時代初めにかけて城が置かれ、上野氏・戸川氏・伊岐氏等が居城としました。

過去の記事◇逆さ児島富士の一部を再掲します。







 児島湖に常山(児島富士と呼ばれる)が映って、逆さ富士が現出します。

真夏の空がまぶしい季節です。(7/6撮影)

_igp8981.jpg

こちらは、水田に映った逆さ児島富士です。

_igp8933.jpg



富士の世界文化遺産登録が話題を呼ぶ中、「○○富士」が脚光を浴びています。

常山は、かつて児島半島が瀬戸内海に浮かぶ島であった時代、海に面して聳える小高い山でした。戦国時代、ここには山城が築かれ、城主は幾代かにわたって交代しましたが、女軍の戦で知られる「常山合戦」は、現地の案内板には次のように記されています。



常山合戦案内
ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えていました。

本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、領主隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。
しかし、女軍達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や広葉に囲まれて静かに眠っています。


   平成15年11月11日   玉野市教育委員会  「常山合戦案内」板より


この鶴姫は、毛利勢によって滅ぼされた備中松山城主・三村元親の妹に当たります。



上空を舞うのはトンビでした。

このあたりでよくミサゴの漁を見るのですが、この日はお目にかかりませんでした。





この碑のある一帯が第二号堤防であるらしい。





堤防の左側が陸地、右側が海だったようです。

後の工事で、右側の一帯も干拓されて、今では広々とした田園が広がっています。

石積み堤防は、石垣として、痕跡をとどめるだけになっています。







しかしよく見ると、カキ殻などがこびりついているのは、かつて海中であった名残です。









用水路のそばに、こんな鳥がいました。



















アヒルでしょうかね?

その近くに、何かが動きます。

画面中央ですが、わかるでしょうか?





トリミングしてみます。



ちょうど魚を捕らえたところでした。



今日はここまで。

久しぶりの散歩記事、の巻 [折々散歩]

M師が、鳥情報がてら、お散歩写真を送ってくださいました。
アオサギ。

コガモ。


コチドリ。

カイツブリ。

オオバンとカイツブリ。

シジュウカラ。

エナガ。

ノスリ。

ジョウビタキ。


鳥たちに誘われるようで、そわそわと、心が騒ぎます。
実は昨日は、朝散歩のあと、もうひとまわり歩いてきました。

最近の歩数記録はこんな具合です。(歩数計を身につけてない時もありますから正確ではありませんが。)







 11/30  6916
12/1   3033   夜入院
12/7     17   救急病棟から一般病棟へ
12/3    285
12/4    777
12/5    999
12/6    1815
12/7     516   退院
12/8    4334
12/9   1806
12/10  6082

昨日の午後の散歩行き先は、自然環境体験公園。

冬の小鳥に会えるかと期待しましたが、ハズレ。

ツグミはいました。



ジョウビタキもおでまし。

ニシキギの植え込みに止まっています。













池には、コガモが多いようですが、オオバンの姿も目立ちます。

M師のメールには、「古くからの野鳥の会の人によるとオオバンは最近になって増えた、以前は希少な鳥だったそうです。」とありました。

オオバン振る舞いの大サービス。あるいは、オオバン狂わせの総出演です。











これは?ホシハジロでしょうか?赤い目が印象的です。

















これは?

オカヨシガモ♀でしょうか?

地味なカモです。











帰り道、電柱の上のこの鳥は?トンビではなさそうです。ノスリでしょうか?





















たくさん写したのに、手ぶれの量産。pentaxk5Ⅱ+Sigma APO 120-400mm F4.5-5.6 DG OS HSMですが、よくよく考えてみると、カメラとレンズ両方の手ぶれ補正をONにしていたようです。私の所有レンズの中で、手ぶれ補正の効くのはこれ一つだけですので、いつもは意識して、気をつけているのですが、久しぶりの使用で、うっかりの凡ミスでした(トホホ)。

昨日は、夜の間に雨があったようです。

朝はまぶしい日が当たり、雨に洗われた散歩道が、キラキラとしています。



昨日の記事に書いた鴨川の干拓堤防のあたりまで歩いてみました。

見慣れた景色ですが、光の加減でくっきり鮮やかな田園風景です。











路傍の草花も、露を宿して輝いています。

オニノゲシ?



ヒメジョオン?









ホトケノザ。



コスモスもまだ咲いています。



鴨川に着きました。

昨日ご紹介したオブジェ=樋門開閉ハンドルです。最近の補修工事で、コンクリートでしっかり補強されています。



広角レンズで捕らえますと、真ん中より少し右のあたりに、小さく見えます。



近寄るとこんな具合です。











フィルムカメラ時代から、この存在感が面白くて何度も写しましたが、今日の画像が比較的上出来かも知れません。満足しています。

水鳥たちが悠々と、水面を滑っています。

















olympusE630+zuiko degital18-180mmという、広角も望遠も物足りない、中途半端なレンズなので、鳥の撮影などには不満が残りますが、かなりクローズアップ撮影も可能ですし、お散歩のお供には楽しいレンズです。

干拓堤防について、すこし付け足したいことがありますが、機会を改めてご紹介することにします。

今朝の散歩で、8080歩が記録されていました。

歩数だけでいえば、まずまずの運動量です。汗も出て、さすがに少々、くたびれました。午後には、孫たちとスーパーにお買い物に行き、店舗の中を歩いたおかげで、めでたく一万歩を突破しました。

今日はこれにて。

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