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縁の下で考える(その2)の巻 [折々散歩]

昨日の記事で話題にした、30年も前の「全国教研』で、私が参加したのは『国語』分科会でした。生活綴り方運動、作文教育などで知られる国分一太郎先生らも助言者のお一人で、夜の酒席も含めて身近に接する機会もありました。不思議なことにどんなお話を伺ったか、ほとんど覚えていません。
記録によると1985年ご逝去とありますから、最晩年のお姿を拝見したことになります。85年の札幌市での集会では、お元気だった記憶がありますが、その年の2月に逝去されたようです。その前後の記憶はまったくあいまいです。
その後、、県内の教研(教育研究)集会には参加してきましたが、全国教研には参加する機会がないまま、時が過ぎました。
記憶と記録をひもとくうちに、一気に時代は変わり、1998年1月に滋賀県で開かれた教研に参加したことが、思い出されました。
その頃には、労働組合運動をめぐる動きを反映して、教職員組合運動にも大きな変動がありました。要求と運動を、政府・財界の許容する枠内に「自粛」する「連合(日本労働組合総連合会)」路線への傾斜を強める日教組「主流」が、組織内外の批判と懸念を押し切って「連合」加盟を強行したのを機に、日教組から離脱した単組(都道府県本部)などを中心に、全日本教職員組合協議会を結成(1989年)、後に日高教も合流して、全教(全日本教職員組合)が結成されます(1991年)。こうした元で、日教組、日高教共同開催という全国教研は幕を閉じ、全教・日高教主催の全国教研から、今日の「実行委員会」主催の教研へと発展しています。
そんな歴史の過程で、1998年の教研に参加した模様を、こんな文章にしたことがありました。

  今年で10回目を迎えた全国教研集会に、初めて(合同教研時代は別として)参加しました。
 「行く春をあふみの人と惜しみけり(芭蕉)」の句からの連想からか、なぜか、湖水朦朧としたのどかな情景を思い描いてしまうのですが、「防寒対策を」との事前レクチュアどおり、近江の冬は格別の厳しさでした。
 連山に雪を戴き、周辺の道路脇にも積雪の残る全体会場は、右翼街宣車の騒音や機動隊の警備のものものしさとはうらはらに、うちとけた親密さと、明るい熱気に包まれていました。10年ぶり、20数年ぶりの知己の顔もちらほら見え、懐かしいひとときを味わうことができました。
 主催者挨拶、基調報告も、現場の苦悩と希望への共感に裏付けられた、真摯で温かいメッセージと、私には感じられました。そして、何よりも、米倉さんの記念講演に、感銘を受けました。
 分科会は、レポート報告者という任もあって、「特設1 子どもから地域からの教育改革」に参加。私の出番は、分科会初日の最後で、「『こんな高校をつくろう』高教組『高校像検討委員会』の提言づくりに参加して」と題して、岡山県の教育事情と県の進める高校再編の動きにふれながら、我々の対案としての「提言」(特に、提言①「こんな高校をつくろう」の部分)の紹介を行いました。時間の制約もあって意を尽くさぬ報告となった上に、全体の論議の流れと噛み合いにくかったせいもあってか、質問もコメントもないまま終わり、やや疲労感の拭えぬ一日でした。ただ、望外にも、翌日の情宣紙に「参考になる」との参加者の声を載せていただき、いくらか報われた思いでした。
 「教育改革」という遠大なテーマを扱う分科会であることから、レポートも、多様な学校種別・分野にわたり、また、議論の内容も、教育政策の全体を扱うものから、運動論にかかわるもの、学校外・地域の教育のありかたなど、多岐にわたったため、自分がどう議論に参加していいか戸惑っているうちに時間が過ぎ、正直、消化不良のまま、多分に欲求不満が残ったことは否めません。
 そのなかで、印象に残った点だけを幾つか書いて、分科会紹介に代えます。
(中略)
  ところで私は、基本的に「特設1」分科会に出席するつもりでしたが、せっかく来たのだからという欲心から、分科会の「ハシゴ」をしてしまいました。
 二日目の朝、T商のT先生の導きで、分科会開始前の移動時間に、ちょっと寄り道して近隣の史蹟を見学することに。愉快な弥次喜多道中のしめくくりとして、メンタムで知られる「近江兄弟社」ゆかりの「近江兄弟社学園」を(幼稚舎が、明治期の洋風校舎の面影を残していると)訪ねたところ、ふと見ると、校門前に「特設分科会2 子どもの権利条約」の案内看板。なんと、(うかつといえばうかつですが)、同学園の施設が、分科会場になっていたのです。
 これも何かの縁と、午前中は二人でその分科会に参加。出てみてよかった。「子どもが本音でのれる行事」を通して荒れを克服し自治を育てるとりくみ(滋賀・小)や「たっぷり遊んだ子どもは元気がいいぞ」(東京・父母)と題する学校施設を利用した子ども・青年の「遊び場・たまり場」づくりの取り組みなど、わくわくするレポートと、熱い意見交換が、刺激的でした。
 最終日は、どうしても出たかった「中等教育」分科会に出席。「青年期教育の実践」「中・高の接続はどうあるべきか」「子ども・青年はどんな学校を求めているか」という、個人的に関心をそそられるテーマは、すでに前日までに終わっていて残念でしたが、当日の報告は、中高連携(高知)、高校統廃合(北海道)、学校移転に抗して生徒・教職員・父母・市民ぐるみでとり組んだ学校づくり(私学)など、「特1」分科会と通いあう内容で、私の内部では首尾が整い、満足でした。最後に紹介された、日高教定通部・日本の教育改革をともに考える会の、それぞれの提言は、深く学び、合意を広げていきたい内容でした。  

今回参加した分科会は、私の希望によるものではなく、運営の必要に応じて、たまたま割り当てられたものでしたが、「文化活動・図書館」という名前の分科会でした。
でも、その内容は、期せずして20年前の問題意識と響き合うものでした。

あくまでも、縁の下で支える裏方に徹するつもりでいましたが、レポート発表や議論が興味深く、ついつい聴き入ってしまいました。
この分科会の共同研究者(「助言者」ではなく、こう呼ぶことにも、この教研集会のともに歩もうとする姿勢があらわれています。)のお一人、増山均先生は、「遊びは子どもの主食です」という印象的なフレーズを、キーワードとして紹介してくださいました。

上は、日本小児科学会の提言ポスターです。
下のブックレットは、増山先生の著作です。

内容紹介の一部をコピーしてご紹介します。


子どもの権利条約31条。これまで意識してきませんでしたが、その重要性を改めて痛感させられました。

 第31条
1.締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。
2.締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。

日本ユニセフ協会による抄訳はこちら
話題は次回に続きます。
今朝の散歩写真です。







虹が出ていました。




今日はここまで。

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縁の下で考えたこと、の巻 [折々散歩]

適切な言葉がなかなか浮かばないもどかしさを、しょっちゅう経験します。
先日の教研(教育研究集会)分科会でも、要員としての自己紹介で「枯れ木も山の賑わい」と言ってしまいましたが、本当に言いたかったのは「縁の下の力持ち」として役立ちたいと言うことでした。
前回、岡山で全国教研が開かれたのは、1975年1月の第24次教研(1974年度)だったそうです。その頃は、小中学校教職員中心に組織する県教組(研教職員組合)が加盟する日教組(日本教職員組合)と、私たち高校;障害児学校教職員中心に組織する高教組(高等学校教職員組合)が加盟する日高教(日本高等学校教職員組合)の共同開催でした。
その後、教職員組合運動の組織的変遷を経て、この合同教研は歴史を閉じ、今回の「みんなで21世紀の未来をひらく教育のつどい-教育研究全国集会2017)は、高教組が加盟する全教(全国教職員組合)など、「つどい実行委員会」の主催で開かれます。実行委員会は、教職員団体、学者研究者などの他、教育と子育てに心を寄せるはばひろい労組、市民団体等によって構成されています。私たち退職者の会も、その一員です。
誰しも、集会の成功に貢献したい気持ちは、山々です。この酷暑のさなか、高齢の要員には、熱い日射しの中での業務は避け、出来るだけ涼しい場所での仕事を割り当てるよう配慮するので、積極的に応援してほしいと依頼され、三日とも協力できますよと申し出ましたら、初日の全体集会は、会場地下通路付近の「警備」を割り当てられました。物理的な警備の主体は若く屈強な警察官が担ってくれますので、私たちは「ご苦労様です」と声をかけつつ、通行人に通行止め箇所の周知と、経路の案内をする役目です。全体会そのものの内容が十分には聞こえないのは残念でしたが、同一部署に割り当てられた友人と、ゆったりと四方山話が交わせたことは、ありがたく、心豊かな時間でした。
二日目三日目の分科会は、会館責任者・分科会責任者という、私には少々肩の荷が重い役目がわりあてられ、心身に常ならぬ緊張と疲労を覚えたことでした。「縁の下」の徹するつもりが、少しは明るみに姿を現さねばならない羽目になりました。
ただ、分科会の様子を、最初から最後まで、会場内で傍聴できたことは、久々の知的刺激で、遙か昔の記憶がいろいろと蘇ってきたのも、余禄でした。
共同研究社の先生が、昔は冬に、体育館でストーブを焚いて行ったこともあったと改装しておられましたが、そう言えば、私がかつて実際に参加したことがある全国教研は、下記の通りですが、いずれも内容よりも、寒かった記憶だけが、真っ先に蘇りました。

続きは次回、今日はここまでです。

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大規模街頭宣伝??名付けに疑問、の巻 [時事]

今朝は7時前のバスに乗って、町へ出かけました。
お出かけ先の会場に駐車場が確保できないので、久々のバス利用です。
バスの車窓から見ると、あちらこちらにこんな看板が立っています。


もうずいぶん前から県下各地の街角に立てられていて、何事だろうかと市民を不安がらせています。
バスを降りてから、近づいて見てみます。

「大規模街頭宣伝」とは聞き覚えのない言葉です。
町の中が、朝からなにやら物々しい雰囲気です。



ちょっとトリミングしてみると、、、。

車両の表示に、「愛媛県警察」とあるのにお気づきですか?
「応援部隊」らしいです。
実は今日から3日間、岡山市を会場に、「みんなで21世紀の未来をひらく教育のつどい―教育研究全国集会2017」(教育のつどい=同実行委員会主催)が開かれているのです。
s-画像2.jpg

「憲法と子どもの権利条約がいきて輝く教育と社会を確立しよう」をテーマに全国の教職員、保護者、研究者、市民らが集まります。今日は、開会全体集会と七つのフォーラムが開かれ、明日明後日は、30の分科会が開かれます。
先輩のIさんが、facebookのこんな記事を投稿しておられました。一部分をちょっと拝借して、紹介させていただきます。

初日の今日は岡山シンフォニーホールで開会の全体集会と7つのフォーラム。全国の教職員、保護者、研究者ら1300人が集まっていたようです。明日からは30の分科会に分かれて、一人ひとりの子ども達が生き生きと成長できる教育めざして語り合いが始まります。
退職教員も何かお手伝いをと、私はこの二日間、会場要員を務めることに…

まったく同様に、私も3日間、お手伝いをさせていただきます。「要員」という言葉も、世間では聞き慣れない言葉ですね。友人のU女史が、「要人」と「要員」との違いは?などと突っ込みを入れておりました。
下の写真は、IさんのFacebookから拝借しました。許可はいただきました(笑)






会場の外では、何台もの街宣車が、大きな声で口汚くののしり声を上げ続けていました。
岡山県には「拡声機暴騒音規制条例」というものがあります。右翼の迷惑な暴騒音を口実に、労働組合や民主団体など県民・市民の表現の自由を制限するもの、という反対を押し切って、強行成立させたイワクツキの条例です。
ウィキペディアにはこうあります。

 1984年に岡山県が初めて制定した。それ以降、全国に広がっていった。

全国に先駆けて作った条例ですが、右翼の迷惑な暴騒音と市民への威嚇を取り締まるためには、ほとんど何の役にも立っていませんね。
もちろん、暑い中で立ち続けで警備する警察官諸君には、ご苦労様の思いを禁じ得ませんが、警察のやり方は、どう見ても、右翼集団を存分に泳がせることで、市民県民の迷惑感を煽り、右翼集団に対してと同じ程度に、彼らにあしざまに攻撃される団体や運動に対してもいわれのない恐怖感を醸成しようとするものと言うしかありませんね。
恐怖ゑ

取り急ぎ速報まで。

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盆明けスケッチの巻 [折々散歩]

早いものです。お盆も明けて、早や8月も下旬です。
疾風のような勢いで、集まっては離れましたが、お互いの存在を確かめ合った家族のひとときでした。
二日続けて、庭や近くの広場で、花火を楽しみました。メンバーは若干の変化がありましたが、、。
14日の夕方です。
「忍者玉」という、煙ばかりを噴き出す花火。いがらっぽい煙の匂いがスゴイ。

これ、家族です。まだ欠けてますが、大勢集まったものです。

翌日は8月15日。
朝から雨でしたが、次男の車で、実家までママと姫を迎えに行き、その足で私の郷里の老父母の家を訪ねました。
県内と言っても高速道路を利用しないと遠いです。山深い土地ですので、トンネルが必須です。

この子も、鯉のエサやりが大好きです。



保護色で、黒いバックに体色をあわせた幼いアマガエルです。

デンデンムシが何匹もいました。触ってみたいのに、指がこわばって、尻込みしてしまいます。。

夕方、従兄妹と一緒に花火です。
ちょっと雨が降った後ですが、これを逃すとチャンスがないので、ある限りの花火につぎつぎと点火します。








おもしろうてやがてかなしき花火かな(2013年8月)の記事に「打ち上げ花火も、轟音一発、空一面を彩って大きく花開いたあとの闇と静寂が、もの悲しさを募らせますが、線香花火の刹那の美こそ、『あはれ』
の極と思えます。」と書きましたが感慨は同じです。
次男一家もきのうは無事大阪に帰着、今日は職場、保育園ともに日常生活の再開のようです。
近所に住む孫たちは、夏休み宿題の仕上げに追われる日々です。
絵も描きました。
小4生が、常山が見える稲田の風景を描きました。

小1の孫は、家族が常山をバックに並んでいるという設定で似顔絵を描きました。

これは今朝の常山。



雨も降ったので、稲葉に水玉の雫がたっぷり宿っています。





暑さがぶり返した昼間、「宿題疲れ」の小学生兄妹と、魚掬いです。

今日はこれにて。

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「人づくり革命」って何よ?の巻 [時事]

しばらく前から書きかけてなかなか完成しなかった記事を、とりあえず掲載します。
アベ内閣が最近強調する「人づくり革命」なるものが、不気味です。
スポニチAnnex2017年8月6日付けが、こんな記事を載せています。
安倍改造内閣 看板政策ネーミング「人づくり革命」大不評

 政治風刺コントを手掛ける戯作(げさく)者の松崎菊也氏は「安倍政権のスローガン政治の典型だが、あまりにも厚かましい言葉。どんな人間がつくられるのか全然分からないし、そんな高慢な方々には人をつくってもらいたくない」と厳しく批判。また、日本大の岩井奉信教授(政治学)は「政治学的に言うと、革命とは支配者と被支配者が逆転すること。いわばちゃぶ台返しなのだが、なぜこの言葉を使ったのか。安倍政権は1億総活躍のころから、言葉だけが躍ってきている」と疑問を呈した。
影響は意外なところにも。都内の外資系会社で働く女性は英訳が見つからないと頭を悩ませる。「英訳できない大臣をつくらないでほしい。革命を"revolution"と訳すと、海外では体制を転覆させるような危険な印象になる。"1億総活躍"ができた時も頭を抱えたが、これはもう異次元。そもそも日本語でも趣旨がよく分からない」とため息をついた。


 まあ、こうした不評や揶揄も当然だろう。だいたい「人づくり革命担当大臣」を無理やり直訳したら“Minister in Charge of Revolution of Creation of Human”とでもなろう。まったく頭が沸いているとしか言いようがない(ちなみに、日本政府の公式訳は“Minister for Human Resources Development”に決まったが、これを訳し直すと「人材育成大臣」といったところ。さすがに「革命」はヤバいと思ったらしい)。
だが、気になったのは、安倍首相はなぜ“目玉政策”に「人づくり革命」なる噴飯モノの名称を用いたのか、ということ。そこでふと思い出しのが、しばしば極右教育の文脈あるいは日本会議周辺で「人づくり」という単語が使われてきたという事実だった。
 周知の通り、日本会議といえば日本最大の右派組織で、安倍政権の熱烈な支持層だが、その設立宣言にはこうある。
〈我々は、かかる時代に生きる日本人としての厳しい自覚に立って、国の発展と世界の共栄に頁献しうる活力ある国づくり、人づくりを推進するために本会を設立する。〉
 また、この日本会議の中心に「生長の家」元信者らがいたことは周知の事実だが、その生長の家・創始者の谷口雅春が提唱した「人類光明化運動」(第二次五カ年計画、1964年発表)なるものをめぐっても「人づくり、国づくり」という言葉が使われていた。
 さらに、この「人づくり」という言葉は、日本会議に連なる極右文化人や評論家、政治家がやたら好んで口にしている。たとえば、日本会議とも関係の深いモラロジー研究所が出した『日本再生と道徳教育』(渡部昇一、岡田幹彦、梶田叡一、八木秀次の共著)の前書きには、廣池幹堂・モラロジー研究所理事長の言葉としてこんな宣言がおかれている(なお、廣池理事長は日本会議の代表委員でもある)。
〈「国づくり」とは「人づくり」です。先人たちが長い歴史の中で育んできた「日本が世界に誇るもの」──伝統文化や勤勉・正直・礼節・質素・忍耐・倹約・親孝行などの「よき国民性」を今こそ取り戻し、二十一世紀を担う子供たちに、しっかりと伝えていかなければなりません。〉
 ということは、もしかして、今回も安倍首相がまたぞろお仲間の極右団体の影響を受けて、こんなトンデモな命名をした。そういうことなのだろうか? 

8/11付「まぐまぐニュース」の記事も興味深く読みました。
記事は、こういう書き出しで始まっています。

 捨て身の覚悟で「加計学園問題」の告発を行った前川喜平前文科省事務次官。安倍政権は当時、すぐにメディアなどを使って前川氏への個人攻撃を始めました。しかし、メルマガ『国家権力&メディア一刀両断』の著者で元全国紙社会部記者の新 恭さんは、前川氏の発言にはウソ偽りが感じられず、あの「告発」以降、国民の心が急速に安倍政権から離れ始めたのは起こるべくして起こったことだと持論を展開しています。
安倍政権の支持率を急落させた前川喜平氏の人間力
「ここだけの内緒の話ですが、2015年9月18日の夜、国会正門前に私はいたんです。シールズの連中がね、ラップのリズムで集団的自衛権はいらない、とコールしている。私も一個人としてみんなに混じって声を出してました」
前の文科省事務次官、前川喜平氏が先日、福島市内で開かれたイベント「前川さん大いにかたる─加計・憲法・夜間中学などなど」で話した内容だ。
公衆の面前で「内緒の話」もあるまいが、そう言うからには今回が初披露なのだろう。

更に興味深いのが「教育論」に関するこのくだりです。

 こと教育論に限っても、前川氏は安倍首相のアンチテーゼといえる存在だ。教育再生を謳い、「人づくり革命」と意味不明の新スローガンを繰り出した安倍首相は「国のために命を懸ける」人づくりを教育の眼目とする。
それに対し、前川氏は人それぞれの個性の違いを重視する。「いじめ」についても、道徳教育が足りないと安倍首相は考えるが、前川氏は違う。
この日のイベントで、参加者の一人が前川氏にこう質問した。
「前川さんは、いじめがひどいのであれば学校に行かなくていいと仰っていましたが、そう思ったきっかけは」
前川氏は自身の不登校体験を語りはじめた。親の仕事の都合で奈良から東京に転居した小学校三年生の時、東京の言葉や担任の先生になじめず、学校に行く直前になると吐き気や頭痛がして欠席した。
当時、奈良の学校にはプールがなく、泳げなかった。プールのある東京の学校の水泳の授業が怖かった。四年生になって、別の学校に転校し、担任の先生が優しかったこともあって、ようやく溶け込めたという。そういう児童期の体験が、前川氏の教育観をつくりあげたのかもしれない。
「学校の規則や、人間を規格にはめようとする教育には抵抗感をもっていました…そういう人間が文科省で事務次官をやってはいけないのかもしれませんが…」

上のエピソードが念頭にありましたので、先日の記事(啄木とその父のこと)への majyo様からのコメントに、わたしはこう書きました。再掲させさせていただきます。

 前川さんは、福島市内での講演で、学校の規則や人間を規格にはめようとする教育の対極として、大阪市立大空小学校の教育を挙げ、木村泰子元校長の「スーツケースではなく、風呂敷のような学校」という言葉を紹介して、こうおっしゃったそうです。「スーツケースのような一つの型に入れようとすると息苦しくなって逃げたくなる。大空小学校はどんな問題を抱えている子でもすべて受け入れて個別に対応する。どんな形の子供でもそれぞれの個性を生かしながらやわらかく一つに包みこんで共同体をつくっていく。そのとき、守るべきルールはたったひとつ。自分がされて嫌なことは他人にしない。それだけは守りなさい、と」
こんな文科省なら、信頼します。

昨日は72年目の終戦記念日でした。
痛恨の戦争体験を経て、戦後日本は、二度とその轍を踏まないために、国家のために国民をつくる教育を改めて、民主主義に立脚した自立的な市民をつくるための教育を目指しました。
1947年に制定された教育基本法は、全文にこう謳っていました。

 前文
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

この基本法が憲法と一体のものであることを宣言し、「個人の尊厳」「真理と平和を希求する人間の育成」「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」を特筆しました。
そして第一条では「教育の目的」をこう定式化しました。

 第1条(教育の目的)
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。

一人ひとりの子どもを、個人として大切にし、その子その子の持ち味を生かして人格の完成をめざすのが教育であり、「平和的な国家及び社会の形成者」「真理と正義を愛し」「個人の価値をたつとび」「勤労と責任を重んじ」、「自主的精神に満ちた」を育てることが強調されたのです。
その1947年版教育基本法は、2006年12月、アベ第一次内閣のもとで、野党・国民の反対を押し切って全面改定されました。
2006年版教育基本法は、前文をこう変えられました。

 新法前文
 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

「日本国憲法の精神にのっとり」という文言が申し訳程度に挿入されていますが、旧法の特徴だった「日本国憲法との一体性」は、剥ぎ落とされています。
「真理と平和を希求する」が「真理と正義を希求し」に変えられました。
「平和」とは、一般に戦争や武力紛争のない状態をいい、より積極的には人々の基本的な人権が尊重され、飢餓や貧困や不安が除去され、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保障された状態を言うでしょう。その意味で「平和」という概念には解釈の違いが存在する余地はありません。しかし「正義」となると、個々人の価値観によって、10人10色であり、これを振りかざして子どもたちを一方向に誘導することは、とても危険です。
教育の目的を述べた第1条では、真理と正義を愛し」「個人の価値をたつとび」「勤労と責任を重んじ」、「自主的精神に満ちた」が捨て去られています。

 新法第1条(教育の目的)
 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

そして、第2条に「教育の目標」を項立てし、国家が国民に求める具体的な徳目を、列挙しています。その際旧法で重んじられていた「自主的精神に満ちた……国民の育成」(前文)「自発的精神」(第1条)の文言は、消えています。

新法第2条(教育の目標)
 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

 一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

  
 二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の
   精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度
   を養うこと。

 三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。 
   

 四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

 五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
   

一人ひとりの子どもを伸ばす「人格形成」から、国家や企業の求める「人材育成」へ、教育の目標を大きくねじ曲げようとする企図が、はっきり読み取れます。

「人づくり革命」なるものも、この方向でなにか具体化をはかろうとしているのですかね?

「人づくり革命」の担当閣僚は、茂木敏充経済財政再生担当大臣の兼務だそうで、結局、経済政策の土俵の上の相撲であることは間違いないようです。


今年のお盆、大阪の次男は、一足先に我が家に帰省し、別行動だったママと姫に合流し、昨夜は我が家に一泊しました。

いとこたちたちは、入れ替わり立ち替わり再会があって、テンション高く、賑やかでした。

一昨日の夜明け頃→朝の風景です。
常山が見える場所。

















朝が涼しくなりました。



麦飯山の上空が朝焼けです。

今日はここまで。


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啄木かるた補遺、の巻 [文学雑話]

昨日の記事に、古い授業プリントをご紹介しましたが、その冒頭にこんな意味不明な一節がありました。

  授業メモ
*私と啄木  
       ①啄木カルタ
       ②屋根裏の古書
       ③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝

少しだけ補足説明させていただきます。
「①啄木カルタ」というのは、これです。

色もあせ、散逸、破損しているのはもっともな話で、大昔の少女雑誌「少女の友」の付録だったものらしいのです。

これの元の持ち主は、妻の亡くなった母親。彼女が少女時代に買ってもらった雑誌の付録を、大切に保管してきて、娘であるわが妻に譲ってくれたものであるらしい。年季が入った「お宝」です。
ネットで確かめてみますと、どうやら、昭和10年代、そしておそらく昭和14(
1939)年1月号のものらしいです。
amazonの商品広告(復刻版)を引用します。該当部分を赤字にしました。

 

昭和10年代前半に、中原淳一の表紙画で黄金期を築いた伝説の少女雑誌『少女の友』。
その創刊100周年を記念して、若き日の中原淳一が企画・デザインした超豪華な雑誌付録5点に、『少女の友』のピークともいうべき昭和13年1月号の完全復刻版を加えたプレミアムセットです。
雑誌の付録とは信じがたい愛らしく手の込んだ品々は、その大半が戦災で失われましたが、奇跡的に残っていたアイテムを使ってオリジナルの世界を忠実に再現しています。
【お宝その1】フラワーゲーム(昭和13年1月号付録)
一枚一枚異なる花が描かれた美麗な48枚の札と、12枚の蝶の札からなる花占いカード。まるで小さな宝石のよう。「札合せ占い」「待人占い」「蝶の占い」「時間占い」の4つの占い方をくわしく解説したリーフレットつき。
お宝その2】啄木かるた(昭和14年1月号付録)
時代を超えて愛される石川啄木の歌と、淳一の見事なコラボレーション。発刊当時、読者から大変な反響があった付録を、当時のケースもそのままの形で復刻しました。

【お宝その3】花言葉枝折(昭和8年10月号付録)
精緻な型抜きが施された、重層的な作りのしおり付きカード。凝りに凝った作りの、驚くべき付録。内側の小さな封筒にはしおり5枚が。雲の模様の部分をめくると、花言葉があらわれます。
【お宝その4】バースデーブック(昭和10年1月号付録)
手のひらサイズのサインブック。家族や親しい方に誕生日の日を選んでサインしてもらいます。「その方々のお誕生日の日にお祝いのお手紙をおあげになればどんなにかお喜びになるでせう」(あとがきより)。北原白秋らの詩72編がページを彩ります。
【お宝その5】青い鳥双六(昭和8年1月号付録)
『少女の友』でデビューした半年後、まだ19歳の淳一が描いた双六。童話「青い鳥」をモチーフに描かれた不思議な魅力が漂う作品。淳一の作風の変化を知る上でも貴重。
【お宝その6】『少女の友』昭和13年1月新年号
《おもな記事》木村伊兵衛(グラビア)「新春」/中原淳一(口絵)「雪の夜」/松本かつぢ(漫画)「お正月漫画アルバム」「くるくるクルミちゃん」/吉屋信子(小説)「伴先生」/ブデル原作・岩下恵美子訳(翻訳小説)「花籠」/横山隆一(漫画)「ポチをさがして三千里」/川端康成(小説)「乙女の港」/山中峯太郎(小説)「聖なる翼」/平井房人(雑記)「宝塚秘話スター生立記 萬代峰子の巻」/吉川英治(時代小説)「やまどり文庫」


啄木かるた

啄木かるた

  • 作者: 中原 淳一
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2001/12
  • メディア: 単行本
『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション

『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション

  • 作者: 実業之日本社
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2009/03/13
  • メディア: 単行本


すでに日中戦争の戦火は拡大し、がんじがらめの国家総動員体制が敷かれていく過程にありながら、まだ日米開戦前というこの時代。がちがちの軍国調ではない、このようなやさしげな付録が、少女たちを育んでいたことは、むしろ意外な感に打たれます。
それからわずかの年月に、国中が狭量な軍国主義に染め上げられていき、「女々しい」啄木カルタなど潔く放擲して惜しがらない「忠良な」軍国少年、軍国少女たちが育てられていくことになるのでしょう。
この記事に書かれた疎ましい時代が、目の前に待ち受けているのです。
◇溶けそうな暑さすべなく空を見る
◇青空に背いて栗の花匂う

 so-netブログの大先輩落合道人様のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。
 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
 ▼
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年

さて、手元の啄木カルタをじっくり見てみます。
上に並べたのが、読み札。啄木の短歌が書いてあります。
下の絵札は、中原淳一の挿絵。

その絵札の裏に、下の句が印刷されています。
これが取り札になります。

戦前・戦時の日本の少女たちに、このような、優美なカルタ遊びを楽しむことができる瞬間があったことが、儚い幻のように痛ましく思われてなりません。
さて、明後日は、72年目の終戦記念日。
この72年間は、少年少女たちの、穏やかなしあわせの記憶が、少なくとも戦争という凶悪な暴力によって、踏みにじられ破り捨てられる事態だけは、辛うじて食い止め続けてきています。そのささやかな幸せの思い出が、これから先も永遠に、いつまでも壊されることなく、彼ら彼女らの心に生き続けますように。そしてその弟や妹、こや孫の代までも、憲法に謳われた平和が、揺るぐことなく引き継がれますようにに、と、願わずにはいられません。

「②屋根裏の古書」、「③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝」については
、また改めて触れる機会があるでしょうか?
昨夜は、久々に涼しさを感じ、心地よい眠りを得たせいか、目覚めも快適でした。大阪から帰省している次男が、岡山は涼しい、と連発しますが、確かに今日の午前中のしのぎやすさは特筆ものです。ただ、さすがに日が高くなり、強い日射しが室内に入り込むようになると、エアコンのお世話にならないではいられません。
夕方ちょっと畑に行き、草の茂った様子を確かめ(草抜きをしようとわずかに試みて、すぐに断念)たり、オクラを収穫したりなどしてきましたが、汗の量も着替えが不要なレベルでした。
今日の田園風景です。

正面に見えるのは常山。

正面右の嶺が金甲山、左が怒塚山。

稲はすくすくと成長しているようです。
今日はこれにて。

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啄木とその父のこと [文学雑話]

昨日の記事で、啄木のこの短歌を引用しました。

石をもて追はるるごとく
ふるさとをでしかなしみ
消ゆる時なし

啄木が、「石をもて追はるるごとく」ふるさとを出たのはなぜか?
というような話題に進もうとして、昨日は力がつきました。
以前、こんな記事を書きました。一部抜粋します。
棄てかねしフォルダにあまたのファイルあり ふるき切なき恋文のごと(2014-07-25)

昔(二〇世紀です)、夜間定時制高校に勤めていた頃、4年生(最上級学年)で出題したテスト問題を、ファイル庫から見つけました。18歳もいれば、成人もいる多彩な顔ぶれでした。定型詩の調べは、彼らの胸に響くようでした。
相当昔のこと故、個人情報とか、「学習指導要領」との整合性などなど、ややこしいことは、もう「時効」でしょうし、なにか特段の差し障りはないものと思い、紹介することにします。
(中略)
(6)本名は一(はじめ)。岩手県に生まれる。
岩手県日戸村の曹洞宗常光寺の住職の子として生まれる。父が渋民村(しぶたみむら)の宝徳寺に転じたので、彼もここで成長し、渋民小学校を経て盛岡中学校に入学。在学中、上級生のⅣ  らに刺激され雑誌「」に傾倒(けいとう)、詩歌を志す。
一六歳の秋中途退学して上京するが、病で帰郷。渋民小学校の代用教員をしながら小説「雲は天才である」などを書くが、免職(めんしょく)となり、北海道に渡る。函館、小樽、釧路などを転々とした後上京、小説などを書くが成功せず、朝日新聞社の校正係となる。生活苦・結核の進行などの現実の中で、初期の浪漫的傾向から、実生活の感情を日常語で歌う生活派へと変貌した。
第一歌集「」は、上京以後の短歌551首を収録。自然や季節の描写といった、それまでの短歌形式から離れ、故郷の渋民村や北海道生活の感傷的回顧、窮乏生活の哀感、時代への批判意識など、生活に即した実感が三行分かち書きという新形式によって表現されている。死後に出版された第二歌集「悲しき玩具(がんぐ)」は、貧困と病苦、生後間もない愛児の急逝(きゅうせい)、重苦しさを深める時代・社会状況など、深刻な現実を見据えながら、「新しい明日」の到来を願う思いを歌った。彼の歌は、その平明さと切実さによって広く親しまれ、今も愛唱されている。
注 空白部にはそれぞれ、Ⅳ金田一京助 Ⅱ明星 Ⅴ一握の砂が入ります。

啄木にとっての「ふるさと」とは、岩手県渋民村です。この地にあった宝徳寺に父・石川一禎が住職として赴任し、幼い啄木(一=はじめ)も、ここで育ったのでした。
啄木が、この「ふるさと」を追われることになった最大のきっかけは、父一禎が宗費滞納という金銭トラブルで、宝徳寺住職を罷免、家族とともに放逐された事件によります。1905年 明治38年、啄木 満18歳のときでした。
そのあたりのいきさつを、授業プリントにもまとめたことがありました。何回か使い回して使用しましたが、今手元にあるのは、1997年作成のプリントです。該当箇所を、赤字で強調してみます。。

 
国語Ⅰプリント「短歌」1       97.5
 
授業メモ
*私と啄木  
       ①啄木カルタ
       ②屋根裏の古書
       ③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝
*代表作品
小説「雲は天才である」明治三九(1906)年(21歳)
歌集「一握の砂」明治四三(1910)年(25歳)
1.東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
2.頬(ほ)につたふ 涙のごはず 一握の砂を示しし人を忘れず
3.大海にむかひて一人 七八日(ななようか) 泣きなむとすと家を出でにき
4.砂山の砂に腹ばい 初恋の 痛みを遠くおもひ出づる日
5.大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり
6.ゆゑもなく海が見たくて 海に来ぬ こころ傷(いた)みてたへがたき日に
 
歌集「悲しき玩具」明治四五(1912)年(27歳)
7.呼吸(いき)すれば、 胸のうちにて鳴る音あり。凩(こがらし)よりもさびしきその音!
 
石川啄木 歌抄
* 少年時代の追憶
8.その昔 小学校の柾屋根(まさやね)に 我が投げし鞠いかにかなりけむ
9.己(おの)が名をほのかによびて 涙せし
 十四の春にかへる術なし
 
10.不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心
11.教室の窓より逃げて ただ一人 かの城あとに寝に行きしかな
12.晴れし空仰げばいつも 口笛を吹きたくなりて 吹きてあそびき
13.夜寝ても口笛吹きぬ 口笛は 十五の我の歌にしありけり
14.よく叱る師ありき 髭の似たるより山羊と名づけて 口真似もしき
15.学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず
16.その後に我を捨てし友も あの頃はともに書(ふみ)読み 共にあそびき
 
* 恋17.師も友も知らで責めにき 謎に似る わが学業のおこたりの因(もと)
18.先んじて恋の甘さと 悲しさを知りし我なり 先んじて老ゆ
19.我が恋を 初めて友にうち明けし夜のことなど 思い出づる日
20.城跡の 石に腰かけ 禁制の木の実をひとり味わいしこと
 
  ☆盛岡中128人中10番で入学→1年25番→2年46番→3年86番→4年カンニング→5年1学期赤点多数、欠席207時間→退学(16歳)。 この中退が、彼の生活を貧困に追い込む。
代用教員給料8円。 朝日新聞校正係25円←→漱石200円
 ☆20歳で節子と結婚した啄木は、小学校の代用教員として、8円の低賃金で生計を立てるが、「日本一の代用教員」という自負を持って、教職に情熱を傾ける。当時の封建的気風に対して、子どもの個性を尊重した教育を目指す(小説「雲は天才である」参照)。子どもたちの立場を守って校長排斥のストライキを指導し、解雇。
一方宝徳寺という寺の雇われ住職だった父一禎は、息子の学資、生活費を工面するために寺の公金を使い込み、それが元で、寺から追い出される。
 ふるさとを追われた啄木は、北海道へ渡るが、以来二度と故郷渋民村へ帰ることはなかった。北海道でも、代用教員、新聞記者などを転々としながら作品を書くが、本格的な創作生活にはいるため、明治四一(1908)年、23歳の時、上京する。苦境のもとで、「帰りたくても帰れない」故郷への思いはつのる。
 
*北海道で 
 
21.かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の 声の荒さよ
22.かの年のかの新聞の 初雪の記事を書きしは 我なりしかな
23.しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな*望郷の念
24.石をもて追はるるごとく ふるさとを出でし悲しみ
 消ゆる時なし
 
25.かにかくに渋民村は恋しかり
 おもひでの山
 おもひでの川
 
26.病のごと
 思郷のこヽろ湧く日なり
 目にあをぞらの煙かなしも
 
27.ふるさとの訛(なまり)なつかし
 停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
 そを聴きにゆく
 
28.やはらかに柳あをめる北上の
 岸辺目に見ゆ
 泣けとごとくに
 
29.ふるさとの山に向かひて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
 
30.別れをれば妹いとしも
 赤き緒の
 下駄など欲しとわめく子なりし
 
31.やまひある獣のごとき
 わがこころ
 ふるさとのこと聞けばおとなし
 
32.なつかしき
 故郷に帰る思ひあり、
 久し振りにて汽車に乗りしに
 
33.それとなく
 郷里のことなど語りいでて
 秋の夜に焼く餅のにおいかな
 
34.あはれかの我の教えし
 子等もまた
 やがてふるさとを棄てて出づるらん
 
* 生活苦、苛立ちと涙
35.はたらけど 
 はたらけどなおわが生活(くらし)楽にならざり
 じっと手を見る
 
36.何故こうかとなさけなくなり、
 弱い心を何度も叱り 
 金借りに行く
37.たわむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
 
38.わが泣くを少女(おとめ)らきかば
 病犬(やまいぬ)の
 月に吠ゆるに似たりといふらむ
 
39.こころよく
 われにはたらく仕事あれ
 それをし遂げて死なむと思ふ
 
40.高きより飛び降りるごとき心もて
 この一生を
 終るすべなきか
 
41.青空に消え行く煙 さびしくも消えゆく煙 われにし似るか
42.「さばかりの事に死ぬるや」
 「さばかりの事に生くるや」
 止せ止せ問答
 
43.雨降れば
 わが家の誰も誰も沈める顔す
 雨はれよかし
 
44.友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
 花を買ひ来て
 妻としたしむ
 
45.何か一つ不思議を示し
 人みなのおどろくひまに
 消えむと思ふ
 
46.非凡なる人のごとくにふるまえる
 後のさびしさは
 何にかたぐへむ
 
47.なみだなみだ
 不思議なるかな
 それをもて洗へば心戯(おど)けたくなれり
 
48.負けたるも我にてありき あらそひの因(もと)も我なりしと 今は思えり
49.わがこころ けふもひそかに泣かむとす 友みなおのが道をあゆめり
50.こころよく
 人をほめてみたくなりにけり
 利己の心に倦(う)めるさびしさ
 
51.ある日のこと
 室(へや)の障子をはりかえぬ
 その日はそれにて心なごみき
 
52.誰が見ても
 われをなつかしくなるごとき
 長き手紙を書きたき夕べ
 
53.人といふ人の心に
 ひとりづつ囚人がゐて
 うめくかなしさ
 
* 愛児の死
☆明治四三年10月4日.長男真一誕生。この日、処女歌集「一握の砂」出版の契約成立し、20円の稿料を得る。が、10月22日、長男死去、稿料は葬儀代に消える。
54.夜おそく つとめ先よりかえり来て 今死にしてふ児を抱けるかな
55.死にし児の 胸に注射の針を刺す 医者の手もとにあつまる心
56.かなしみの強くいたらぬ さびしさよ わが児のからだ冷えてゆけども
57.かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり
 
58.真白なる大根の根の肥ゆる頃
 肥えて生まれて
 やがて死にし子
*不治の病
59.呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!
60.目閉づれど、 心にうかぶ何もなし。 さびしくも、また、目をあけるかな。
61.今日もまた胸に痛みあり。 死ぬならば、 ふるさとに行きて死なんと思う。
62.何処(どこ)やらむかすかに虫の なくごとき こころ細さを今日もおぼゆる
63.真夜中にふと目が覚めて、
 わけもなく泣きたくなりて、
 蒲団をかぶれる
64.病院に来て
 妻や子をいつくしむ
 まことの我にかへりけるかな
 
65.子を叱る、あはれ、この心よ。
 熱高き日の癖とのみ
 妻よ、思ふな。
 
66.新しきからだを欲しと思ひけり、
 手術の傷の
 痕を撫でつつ
 
67.まくら辺に子を座らせて、
 まじまじとその顔を見れば、
 逃げてゆきしかな。
 
68.その親にも、
 親の親にも似るなかれ-
 かく汝(な)が父は思へるぞ、子よ。
 
69.かなしきは、
(われもしかりき)
 叱れども、打てども泣かぬ子の心なる。
 
70.猫を飼はば、
 その猫がまた争ひの種となるらむ、
 かなしき我が家(いえ)。
71.児を叱れば、
 泣いて、寝入りぬ。
 口少しあけし寝顔にさはりてみるかな。
 
72.何思ひけむ-
 玩具をすてておとなしく、
 わが側に来て子の座りたる。
 
73.昼寝せし児の枕辺に
 人形を買ひ来てかざり、
 ひとり楽しむ。
 
* 社会変革への願い
74.百姓の多くは酒をやめしという。 もっと困らば、 何をやめるらん。
75.友も妻もかなしと思うらし 病みても猶、 革命のこと口に絶たねば。
76.「労働者」「革命」などといふ言葉を
 聞き覚えたる
 五歳の子かな。
 
77.新しき明日の来たるを信ずという 自分の言葉に 嘘はなけれど-----
78.何となく 今年はよい事あるごとし 元日の朝晴れて風無し

☆その明治四十五年一月、母喀血。三月母死去。四月十三日、啄木死去(27歳)。六月十四日次女誕生、六月二十日第二歌集「悲しき玩具」出版。翌大正二年五月五日、妻節子死去(28歳)。

大雑把すぎるまとめでした。
少々補足しておきます。
1904年(明治37年)2月10日日露戦争開戦。1905年(明治38年)5月27日日本海海戦。統合元帥率いる日本艦隊がバルチック艦隊を破ったというニュースの国中が沸き立っていた頃でした。啄木自身、旺盛な創作活動を展開し、『明星』『時代思潮』、『帝国文学』(3月)、『太陽』、『白百合』等に次々と作品を発表する一方で、恋人堀合節子との婚約が整い、新婚生活への希望に満ちた時期でもありました。
 そんな1904年12月26日 父一禎は、宗費113円滞納のため、住職罷免の処分を受けます(曹洞宗宗報第194号)。 処女詩集『あこがれ』刊行のため上京していた啄木は、年を越してもこのことを知らず、与謝野寛が題名と後書きを、上田敏が序詩を寄せて『あこがれ』が世に出ることになった3月、父からの手紙で、一家を経済的苦難のどん底に突き落とす「住職罷免」の処分を知ることになるのでした。
貧困と病気と孤独に彩られた啄木の生涯を、たどってみることはまた別の機会に譲るとして、今日は、一足飛びに、父・石川一禎の終焉の地に目を向けてみることにします。
ずっと前、こんな記事を書きました。2013年8月の記事です。

高知の夏は、静かな雨だった。


 駅前(南広場)の片隅に、石川啄木とその父の歌碑を見つけました。なぜ高知に啄木?というミステリーは、少し好奇心をくすぐりました。
Imgp1093.jpg
歌碑に刻まれている歌の紹介掲示です。
Imgp1094.jpg
啄木の話題は、又の機会に触れてみたいと想っています。

「又の機会」と書いてから、年月が経ちました。
上の歌碑の碑文を写すことで、ひとまず締めくくることにします。

 啄木の父石川一禎は嘉永三(一八五〇)年岩手県に生まれた。渋民村の宝徳寺住職を失職、一家は離散。次女とらの夫山本千三郎が神戸鉄道局高知出張所長として一九二五年に赴任し、一禎も高知に移住した。穏やかな晩年を過ごし、一九二七年二月二〇日に所長官舎(北東約一〇〇m)で七六歳の生涯を閉じた。三八五〇余首の歌稿「みだれ蘆」を残し、啄木の文学にも影響を与えた。

よく怒(いか)る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ   啄木

寒けれど衣かるべき方もなし
かかり小舟に旅ねせし夜は    一禎

二〇〇九年九月一二日
啄木の父石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会 建之

この碑文にある「次女とら」は、啄木の姉に当たる人のようです。
小樽市hpの「おたる文学散歩」第3話に、こんな記事が載っています。

 石川啄木一家は、明治40年9月、新しい新聞社、小樽日報社に赴任するため小樽に来たとき、まず姉夫妻の家に滞在しました。姉の夫、山本千三郎は北海道帝国鉄道管理局中央小樽駅(現小樽駅)の駅長となっていて、その官舎は現在の三角市場付近にありました。
 啄木は新聞記者として熱心に仕事をしました。自分が執筆した記事の切り抜き帳に『小樽のかたみ』と名付けたものが、今も残されています。
 かの年のかの新聞の初雪の/記事を書きしは/我なりしかな
 かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ
 けれども社内の争いにより、12月には小樽日報社を退社。翌明治41年1月19日、小樽駅を発ち、釧路へ向かいました。
 子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな(小樽駅前歌碑歌)
 忘れ来し煙草を思ふ/ゆけどゆけど/山なほ遠き雪の野の汽車
(短歌はいずれも石川啄木『一握の砂』より)
 なお、石川啄木が世話になった山本千三郎は、小樽駅の初代駅長の後、岩見沢駅長、室蘭運輸事務所長を歴任。四国、高知駅長を最後に退職し、鉄道員として生涯を全うしましたが、啄木の老父や、妻であり啄木の姉であったトラを最期までみとりました。

今朝は少し涼しいかなと感じた散歩でしたが、やはり、帰る頃には相当の暑さでした。












今夜→明日未明、「ペルセウス座流星群」の活動がピークになるそうですが、さてどうでしょうか?
きょうはこれにて。

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山の日にふるさとの山を思う、の巻 [今日の暦]

今日は「山の日」だそうです。
「山」と言えば、いつも啄木のこの歌が思い浮かびます。

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

啄木の第一歌集「一握の砂」に収められた歌です。

「一握の砂」から、他にも「ふるさとの山」を歌った歌を拾ってみましょう。


二日前に山の絵見しが
今朝になりて
にはかに恋しふるさとの山

汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来くれば
襟えりを正ただすも

かにかくに渋民村しぶたみむらは恋しかり
おもひでの山
おもひでの川





「山」に限らず、「ふるさと」は啄木にとって、格別の存在だったのでしょう。

「一握の砂」におさめられた歌だけでも、「ふるさと」を詠んだものがこんなにあります


ふるさとの父のせきするたび
咳のづるや
めばはかなし

あかじみしあはせえり
かなしくも
ふるさとの胡桃くるみくるにほひす

ふるさとのなまりなつかし
停車場ていしやばの人ごみの中に
そをきにゆく

やまひあるけもののごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎ひごときしすずめの鳴くを
三年みとせ聴かざり

ふるさとの
かの路傍みちばたのすて石よ
今年も草にうづもれしらむ

このごろは
母も時時ときどきふるさとのことを言ひ
秋にれるなり

田もはたも売りて酒のみ
ほろびゆくふるさとびと
心寄する日

あはれかの我の教へし
子等こらもまた
やがてふるさとをててづるらむ

ふるさとをし子等の
相会あいあひて
よろこぶにまさるかなしみはなし

ふるさとの
村医そんいの妻のつつましき櫛巻くしまきなども
なつかしきかな

その名さへ忘られし頃
飄然へうぜんとふるさとに来て
せきせし男

せうしんの役場の書記の
気のれしうはさに立てる
ふるさとの秋

わが思ふこと
おほかたはただしかり
ふるさとのたよりけるあした

ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足かろくなり
おもれり

ふるさとにりてづ心いたむかな
道広くなり
橋もあたらし

そのかみの神童しんどうの名の
かなしさよ
ふるさとに来て泣くはそのこと

ふるさとの停車場路ていしやばみち
川ばたの
胡桃くるみの下に小石ひろへり

ふるさとの空とほみかも
たかにひとりのぼりて
うれひてくだ

ふるさとの寺の御廊みらう
みにける
小櫛をぐしてふを夢にみしかな

はたはたときびの葉鳴れる
ふるさとの軒端のきばなつかし
秋風吹けば

旅の子の
ふるさとにて眠るがに
げに静かにも冬のしかな

ふるさとの
麦のかをりをなつかしむ
女のまゆにこころひかれき


かれの「ふるさと」への思いは、この原体験によって、いっそう増幅したのだったでしょう。

 石をもて追はるるごとく
ふるさとをでしかなしみ
消ゆる時なし

以下、次回に話題は続きます。
きょうは、ふるさとの山の中腹にあるお墓参りに、都合がついて行けるものだけ行ってきました。
この前刈った草が、もう存分に伸びているので、少し草刈りもしました。
栗の毬がたわわに、ふくらんでいました。

炎天下、アマガエルの姿を複数匹見ました。







午後、にわか雨がありました。
このカエル君たち、喜んだことでしょう。
沢ガニ、今日も元気そう。

この池の鯉たちのなかには、何十年も生きているものもいます。ショップで稚魚のとき買った錦鯉のほか、老父が、ずっと以前、川で釣り上げてきた野鯉も何匹かいます。
孫たちは、餌をやるのが大好きです。
この孫たちの親も、子どもの頃、喜んで餌をやったものでした。

先日、N先輩が、朝鮮北部の「文玉面」周辺の地図(のコピー)を送ってくださった(下の記事参照)のにくわえて、新たに、満浦の航空写真についてのネット上の情報を教えてくださいました。

思いがけないプレゼント、の巻


コピーして父に渡すと、懐かしがっていました。生まれてから、わずか数年のことですが、ほかならぬ「ふるさとの山、ふるさとの川」ですから。
今日はここまで。

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こどものともとながさきのひ、のまき [今日の暦]


昨日は、長女が「チケットが3枚あるから」とこんな催しに誘ってくれました。



「こどものとも」発刊元の福音館のFBやHPの記事から、催しのあらましを引用します。

●こどものとも創刊60周年記念「絵本とおともだち」展は、倉敷へ。
倉敷天満屋にて明日から開催!

2016年に創刊から60年を迎えた月刊絵本「こどものとも」。記念イベント「絵本とおともだち」展はまだまだ続きます。夏休み期間の7月25日(火)~8月21日(月)まで、岡山県倉敷市の倉敷天満屋にて開催されます。

実際に乗って写真撮影ができる「ぐりとぐらのたまごのくるま」や、のぞいて楽しむ「暗い世界」など、子どもたちが絵本の世界を体感できる展示のほか、作品原画、「こどものとも」の礎を築いた作家・画家の愛用品展示、20人の絵本作家の記念メッセージボードなど、大人のかたにじっくり味わっていただける展示もご用意しています。また、会期中には、ライブペインティング、読み聞かせ会、「こどものともスタンプラリー」など、盛りだくさんなイベントも開催されます。どうぞご家族みんなで倉敷天満屋にいらしてください。
http://www.tenmaya.co.jp/webchirashi/kurashiki/00566_1/



倉敷駅の景観は大きく変わりました。
新しくなってから、来るのは初めてです。

左前方にあるデパートが会場です。
県知事さんの会社です。

スタバはあるけど、砂場はありません、、。

こんな催しがあっても、デパート内はひっそりとしています。
アベノミクスで庶民の懐は潤っているのですか?

お昼時とあって、まずは腹ごしらえ。



パスタ・イタリア料理グループと、ラーメン・四川料理グループに分かれました。

私はあんかけ焼きそば。
美味でした。

撮影禁止場所がおおく、会場の様子はお伝えできません。
余裕があれば美観地区など歩いてみようかと思っていましたが、そうも行かず、駐車場近くの白壁の建物をパチリ。



以前この子らと倉敷を歩いたのは、↓この時でした。

倉敷のそぞろ歩きは孫の供(2014年8月)


 商店街(アーケード街)は、定休日のお店、お盆休みのお店が多く、閉店・休業状態のお店も少なくないようで、さしずめシャッター街の趣でした。

それでも開いているお店を覗き覗きしながら、行き当たりばったり、周辺を歩きまわり、こんな所に行きました。

阿智神社

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 美観地区

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なぜか、こんな所も通りました。駐車場は遠かった。

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 兄は冷たいうどん、弟はラーメンを食べたいと行って譲りません。ラーメン屋とうどん屋は何軒もありましたが、スルーです。和風のお食事処を覗きますが、ラーメンとうどんのリクエストが両立できません。

車で移動することにし、ファミレスなら両方のメニューがあるかもと、入ってみましたが、残念、当て外れ。兄がオムライスで妥協し、弟はお子様ラーメンで満足して、午前中のデートは終わりました。


兄がもっと小さいとき、ばあばとともに美観地区周辺を歩いた記憶があるのですが、はっきり思い出せません。ばあばによると、高橋大輔の凱旋パレードに出くわしたというのです。ネット情報によると、どうも2010年4月6日のことらしいですが、写真が見つかりません。年月が経つと、記憶も記録もアイマイになり、何事につけても諸行無常を感じます。
今日は長崎の原爆記念日。
72年前のできごとを、決して風化させないで、人類の記憶と記録にとどめなくてはと思います。
毎日新聞のweb版記事はこう伝えています

長崎は9日、72回目の「原爆の日」を迎え、早朝から祈りに包まれた。長崎市の平和公園では平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約5400人が出席した。田上富久市長は平和宣言で、7月に国連で採択された核兵器禁止条約の交渉会議に参加しなかった日本政府の姿勢を「被爆地は到底理解できない」と厳しく非難し、条約を批准するよう迫った。一方、安倍晋三首相は6日の広島市での平和記念式典でのあいさつと同様、条約に言及しなかった。
 長崎は9日、72回目の「原爆の日」を迎え、早朝から祈りに包まれた。長崎市の平和公園では平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約5400人が出席した。田上富久市長は平和宣言で、7月に国連で採択された核兵器禁止条約の交渉会議に参加しなかった日本政府の姿勢を「被爆地は到底理解できない」と厳しく非難し、条約を批准するよう迫った。一方、安倍晋三首相は6日の広島市での平和記念式典でのあいさつと同様、条約に言及しなかった。

「積極的平和主義」などと言う勇ましいスローガンを掲げながら、核兵器禁止条約に消極的で妨害的な姿勢をとり続けた、唯一の被爆国の首相の名前も、人類の記憶と記録に刻んでおかねばなりますまい。
以前、この日には、こんな記事を書きました。


 小3の孫が、8月6日、広島、テニアン島、B29、エノラ・ゲイ、リトルボーイ、8月9日、長崎、8月15日、降参、等の言葉を覚えました。
日本が戦っていた相手国はどこか、同盟を結んでいた相手はどこか、原爆を投下した国はどこか、、、などの話題に、中学生も首をかしげています。ポツダム宣言は知らないそうです(つまびらかではない、という首相とどちらが上等かわかりませんが)。
戦争体験の伝承は、このように薄らいでいることは確かです。
今日は長崎の日。
(中略)
中学生の孫は、広島は知っていましたが、長崎が浮かびませんでした。
知識がすべてではないでしょうが、知らなければ思うこともできないでしょう。


今日はこれにて。

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野分のまたの日、の巻 [今日の暦]

台風5号が通り過ぎました。
前日は、風の影響はあるものの、こんな青空でした。





それが、未明から風雨が強まり、定期検査を予約していた病院への行き帰りは、なかなかのどしゃ降りでした。。

瀬戸大橋は通行止めの表示が出ています。

すこし風雨が緩んだ午後、傘を差して散歩してみました。からだもカメラもぐっしょり濡れました。
雨に洗われる空蝉。

雨の中、声を張り上げて鳴くクマゼミ・



アブラゼミ。

一夜明けて、今朝は、すがすがしい青空です。
枕草子に「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。」という章段がありました。「台風の次の日は、めっちゃおもろうて、いけてるやん」というお話です。「あはれなり」(=しみじみとした情趣)と「をかし」(=知性を刺激する興趣)が、りょうほう味わえるというのですね。
白い芙蓉。

正面に見えるふた瘤の山。右が麦飯山でしょうか?



以前、◇ムルデルの干拓堤防、の巻の記事で、麦飯山(麦飯山)の説明を、「角川日本地名大辞典 33 岡山県」から引用しました。

  むぎいいやま 麦飯山<玉野市>
玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ,浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。

これはいつもの常山です。


昨日が立秋でした。
まだまだ、秋は遠い、と毎年同じようなことを書いています。2014年の記事を引用します。
秋立つやなまあたたかきかぜなれど

 そういえば、台風の影響もあるのでしょうが、今朝は少し涼しく感じます。実際、朝8時の気温は26℃と、散歩中も快適でした。。日中の最高気温も、31℃~32℃と予想されており、真夏日とはいえピーク時からは随分しのぎやすくなりそうです。

もちろんまた、暑さのぶり返しはありましょうが、だんだんに秋に向かっていることは間違いなさそうです。
散歩中に出会う蝉も、最も暑い頃が発生のピークというクマゼミの姿が薄れ、やや涼しさを好むとされるアブラゼミの比率が増してきたようです。
(中略)
今日にちなんだ歌を一つ。

秋立つ日よめる
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる  藤原 敏行

【解釈】  暦の上では立秋の今日、「秋がやってきた」と、目にははっきり見えないけれど、吹く風の音にはっと気づかされることだよ。

 「来ぬ」は、「きぬ」と読みます。カ行変格活用の「来(く)」の連用形に、完了・強意の助動詞「ぬ」の終止形がついたもので、「来た。来てしまった」の意味になります。

もしこれを「こぬ」と読むと、 カ行変格活用の「来(く)」の未然形に、打消の助動詞「ず」の連体形がついたことになり、「来ない」の意味になります。

「ぬ」は連用形接続、「ず」は未然形接続の助動詞ですから。→試験に出るよ(笑)。
形容動詞「さやかなり」は、動詞「冴ゆ」につながる言葉です。現代語の「冴える」も、くっきり、はっきり、クリアーに感じられる意味です。「さやかなり」は「冴えてる」ってカンジですかね。

「おどろかれぬる」は、動詞「おどろく」+自発の助動詞「る」+完了の助動詞「ぬ」がつながったものです。

古語の「おどろく」には、①目が覚める。②はっと気づく、③びっくりする、などの意味があります。ここでは②の意味です。

助動詞「る」には、①受身(~によって~される)、②尊敬(~なさる)、③可能(~できる)、④自発(自然と~される)の用法があります。④が、この語の本来の意味だったようです。この歌の場合も、④です。

ちなみに最後の語「ぬる」は、完了「ぬ」の連体形ですが、文の終わりなのに連体形であるわけは、上に、強調の係助詞「ぞ」が用いられているので、「係り結びの法則」がはたらいているわけですね。
古典文法入門のお時間はここまで。お粗末でした。

 この歌は、古今集に収められている藤原敏行の歌で「秋立つ日よめる」と詞書(ことばがき)にあるとおり、立秋の日に読んだ歌です。
ですからありのままの実景を詠んだと言うよりは、「立秋」というお題にこと寄せて、頭の中で考えて「理屈」で作り上げた歌と言うべきでしょう。このような傾向は、「理知的」「論理的」と称される古今集の歌風の特徴ともされます。

とはいうものの、肉眼には見えない秋の訪れが、一瞬の聴覚のはたらきによって、はっきりと感じ取られるという繊細な季節感覚は、う~んと、納得せずにいられません。「う~ん、参った」という感じですか。

独断かも知れませんが、視覚よりも聴覚、聴覚よりも嗅覚が、より生理的、より原初的、より直感的な感覚であるように思えますから、まず聴覚で季節の推移を感じるというのは、よくわかります。


黄色く色あせた古びたノートを元に授業する老教師の風情ですな。老教師の風情ですな。だが、その老教師はのたもうたそうな。「真実は一つ」。
栗毬が、大きくなっています。
小さい秋?




柿の実も、少しずつ大きくなっています。

今日はこれにて。

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も一度一本の鉛筆、の巻 [雑話]

昨日の記事で氷川きよし君が歌った「一本の鉛筆」について書きかけました。
きょうはそのつづき。何の義理も恩義もありませんが、NHKの回し者みたいな記事を書くことになります。。
8月5日に放送された「思い出のメロディ」という番組を、見るともなく見ていました。
NHKの予告広告をコピーします。






「紅白歌合戦」や、そのほかの歌番組(最近「歌番組」などというものもほとんど目にしませんが)に比べて、格段に心惹かれる歌手や歌曲が多く、話題にすれば切りがないのですが、印象深かったものを二つに絞ってご紹介します。
一つは、倍賞千恵子さんの歌を久々に聴いたことです。何を隠そう、私は隠れ倍賞ファンです(威張っていうことではないですが)。
こんな記事を書いたことがありました。

散歩道のモズが思い出させたこと、の巻


 「俺がいたんじゃ お嫁にゃ行けぬ
わかっちゃいるんだ 妹よ
いつかおまえの 喜ぶような
偉い兄貴に なりたくて
奮闘努力の 甲斐もなく
今日も涙の 今日も涙の
日が落ちる 日が落ちる」
と寅次郎が無条件に愛する妹「さくら」のイメージが強いですが、「歌手」倍賞智恵子サンを、私かなり好きです。レコード、音楽テープ、CD、、、何枚か持ってます。最初に買ったLPレコードは、この人のものだったかも知れません。買うのは、ちょっと照れくさかったのですが、クラシック好きの友人にちらりと打ち明けると、彼も評価していて、安心した覚えがあります。「島原の子守歌」が特に好きかも。

その倍賞さんが、葛飾柴又で「さくらのバラード」を歌いました。じーんときました。
ネット上にこんな投稿が掲載されていましたが、いずれも同感です。


もう一つ、特筆したいのが、昨日も書いた氷川きよしの「一本の鉛筆」。
ネット上でも大好評でした。







美空ひばりと「一本の鉛筆」については、以前も、書きました。

「一本の鉛筆」から始まった、の巻


 ウィキペディアにはこうあります。
 ひばりが最初の広島平和音楽祭に出演するにあたって、総合演出を担当していた映画監督、脚本家の松山善三が作詞を、作曲を映画音楽の作曲で有名な佐藤勝が作曲をそれぞれ手がけた。なお、当初は平和音楽祭の実行委員長も務めていた古賀政男が作曲する予定であったが、古賀が体調を崩したため佐藤勝の作曲となった。『一本の鉛筆』と『八月五日の夜だった』は、ともに広島市への原子爆弾投下について描かれた作品である。
ひばりは、父の増吉が徴兵され、母の喜美枝がその間辛い思いをしていたのをそばで見て育っており、自身も横浜大空襲を体験していたこともあって、戦争嫌いだったという。そのようなこともあってひばりは広島平和音楽祭の出演依頼を快諾したという。
リハーサルでは冷房付きの控室が用意されており、広島テレビのディレクターがひばりを冷房付きの部屋に誘導したところ、ひばりは「広島の人たちはもっと熱かったはずよね」とつぶやき、ずっと猛暑のステージのかたわらにいたという。ステージの上からは「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさを忘れることができません」と観客に語りかけた。
それから14年が経った1988年、ひばりは第15回の「音楽祭」に二度目の出演を果たした。当時、ひばりは大腿骨骨頭壊死と慢性肝炎で入院した翌年であり、歩くのがやっとで段差を1人で上ることさえ困難な状況だった。ひばりは出番以外の時は音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという。翌1989年6月に、ひばりは死去した。

 一本の鉛筆があれば
  私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば
  戦争はいやだと 私は書く

一本の鉛筆があれば
  八月六日の朝と書く
  一本の鉛筆があれば
  人間のいのちと 私は書く


この時の記事では、スペースの関係で、歌詞の一部分だけを引用したのでした。しかし、氷川君の歌を聴いて、どの歌詞にもゆるがせに出来ない深い意味があることに気づかされました。それほどに、思いを込めて歌う氷川君に、教えられた思いがしたのでした。

サークルおけらの「おけら歌集」にこの 一本の鉛筆の歌の歌詞や音源、その他紹介文が掲載されています。


過去記事で引用しなかったこの部分を、改めてしみじみと胸に刻んだことでした。

一枚のザラ紙があれば
私は子どもが欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば
あなたを返してと私は書く

昨日も引いた棘三吉の詩と、なんと響き合うことでしょう。

 

 ちちをかえせ 
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ 
わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

ちなみに広島の平和祈念公園には、この詩が刻まれた詩碑が建てられており、裏面には大原三八雄氏による英訳が刻まれています。



確か私も、自分で写した写真があるはずなのですがすぐには見当たらず、ネット上からお写真を(無断で)お借りしました。
MITTY様こと三登 浩成様のブログ「広島の視線」の2014年11月25日付の、峠三吉の詩碑 の記事中のお写真です。なお、三登 浩成様は、面識はありませんが、「広島の平和公園でガイドをしているFIGの代表で、胎内被爆者」 (プロフィールより)だそうで、学ぶことの多い記事と、美しく優しいお写真でブログを綴っておられます。



台風5号が接近中で、未明から強い風と雨が、わが地方にも影響を及ぼしています。学童保育はお休みのようで、孫たちの守をしてやれば良いのですが、あいにく今日は午前中、私の通院日。(これから出かけます。)
孫たちは、兄妹仲良く、家の中で、おとなしく、留守番をしている、はずです。
今日はこれにて。


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86を次世代に伝える番組欄 [今日の暦]

72年目の「原爆の日」です。
去年はこんな記事を書きました。

夏が来れば思い出す、の巻(8月に寄せた学級通信3)


 1988年の、一年生のホームルーム担任をしていた頃のものが見つかりました。その25号が、8月6日付「原爆忌特集」と銘打っています。
(中略)文章部分を書き起こしてみます。
夏が来れば思い出す
8月に寄せて

♪♪夏が来れば思い出す---の歌ではないが、蝉鳴き、入道雲の湧く季節になると、8月6日、9日、そして15日のことが思い出される。戦争と平和の問題は、常に考え続けなければならない問題であって、限られた一時期だけ、年中行事のように取りざたするだけでは不足ではないかとも言えようが、でも、年に一度だけでも、考えないよりはマシというものだろう。
戦争体験の「風化」と言うことが言われて久しい。あの、敗戦の日から数えて.早や42年.戦後生まれの世代が日本人口の過半数を占めるに至り、成人として戦争を体験した人々はすでに多くは現役を退いている現在、戦争体験を語り継ぎ、聞き継ぐ機会がきわめてわずかになっていることは、否めない事実だろう。
戦後は遠くなりにけり?
♪♪戦争が終わってぼくらは生まれた、戦争を知らずにぼくらは育った----と、北山修がうたい、いわゆる「戦無派」が青春時代を謳歌していたころ、《政治的には70年安保改定とそれにひきつづく沖縄・小笠原ね返還をめぐる事態が国民世論を二分していたころ、そしてケネディ、ジョンソン、ニクソンと続いたベトナム・インドシナへの侵略が国際的批判をおしてますます泥沼化していたころ)ちょうど君たちは生まれたわけだ。
そうしてみれば、「戦争を知らない」世代のはしりである私などに比べてさえも、君たちにとってあの15年戦争が、言ってみれば明治維新や西南の役などと同様の、遠い過去の歴史上のできごとと思えるのも無理からぬことと言えるかもしれない。
(中略)
永久に”戦争を知らない子ども”でありつづけるために
しかし、それは、君らおよび、君らの後の世代の子どもたちが、永久に「戦争を知らない子どもたち」であり得ることを意味しているのだろうか。「戦争を知らない」つもりが、実は「戦争について無知である」ことであってはなるまい。現に、「何にも知らないうちに」「だまされて」無謀な戦争に駆り立てられてしまった、との痛恨は、42年前の日本国民の共通の思いであったはずだ。そして平和は他から与えられるものではなく、やすやすと自然に成立するものでもなく、主権者である国民一人ひとりが、真実をしっかりと見抜き、英知と勇気をふりしぼってみずからの手でまもりぬく以外にないという教訓もまた、切実なものであったはずだ。
地球上のすべての地域から戦火が絶え、この国を含めてどの土地からも新たな戦争の火種が消えた時に初めて、真に「戦争を知らない子どもたち」が誇らかに胸を張り”平和の歌を口ずさむことが可能なのだと私は思う。そして、願わくば、その日の近からんことを。
(中略)
今日は広島原爆忌。事態は30年近く前の、この記事の頃とどう変わったでしょうか?
(中略)アベ内閣のもとで、ついに、集団的自衛権の行使をも合憲と強弁して、戦争法(「安保法制」)を強行し、夏の参院選で得た多数議席を背景に、明文改憲への企図をむき出しにしてきています。今次の内閣改造では、公明党以外の全閣僚を、日本会議など、超右翼・タカ派の靖国派が占有し、中でも防衛大臣に、カルト的狂信性を隠さない名うてのタカ派稲田朋美を任命するなど、好戦的姿勢をむき出しにしています。

奇しくもここで話題にした稲葉サンは、日報隠匿問題や都知事選での応援演説など、不適格の上にも不適格をさらして、内閣改造を待たず辞任に追い込まれました。そのほかの面々も、失言・不祥事・不適格のオンパレードで、内閣支持率下落に「大貢献」しました。先日の「第三次安倍第三次改造内閣」では、お詫び・陳謝を口にしながら、首のすげ替えで「疑惑隠し」をはかることで、支持率回復にわずか期待をかけておられるようですが、そもそも、不支持理由の第一は、「首相が信頼できない」(読売)「人柄が信頼できない」(日経)と、はっきりしてます。疑惑の張本人がそのままでは、誰も納得しません。
今日の「原爆の日」。広島での平和式典の模様を朝日新聞digitalはこう伝えています。

 広島は6日、被爆72年目となる「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では午前8時から平和記念式典が開かれ、広島市の松井一実(かずみ)市長が「平和宣言」を読み上げた。7月に国連で採択された核兵器禁止条約に触れ、日本政府に「核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい」と求めた。一方、続いてあいさつした安倍晋三首相は、条約に言及しなかった。
(中略)
 松井市長は平和宣言で改めて核兵器を「絶対悪」と強調。「核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です」と述べた。
 また、核兵器禁止条約が122カ国の賛同で採択された点を「廃絶に向かう明確な決意が示されました」と評価。「各国政府は『核兵器のない世界』に向けた取り組みをさらに前進させなければなりません」と訴えた。
 日本政府は「核兵器国と非核兵器国の対立をいっそう深め、両者の協力を重視する我が国の立場に合致しない」(岸田文雄・前外相)などとして、核保有国とともに条約交渉をボイコットし、署名もしない方針を明らかにしている。

「平和宣言」の全文はこちらにあります。全文引用したいところですが、印象に残った部分を、少しだけご紹介させていただきます。

  平和宣言
皆さん、72年前の今日、8月6日8時15分、広島の空に「絶対悪」が放たれ、立ち昇ったきのこ雲の下で何が起こったかを思い浮かべてみませんか。鋭い閃光がピカーッと走り、凄まじい放射線と熱線。ドーンという地響きと爆風。真っ暗闇の後に現れた景色のそこかしこには、男女の区別もつかないほど黒く焼け焦げて散らばる多数の屍(しかばね)。その間をぬって、髪は縮れ真っ黒い顔をした人々が、焼けただれ裸同然で剝(は)がれた皮膚を垂らし、燃え広がる炎の中を水を求めてさまよう。目の前の川は死体で覆われ、河原は火傷(やけど)した半裸の人で足の踏み場もない。正に地獄です。「絶対悪」である原子爆弾は、きのこ雲の下で罪のない多くの人々に惨(むご)たらしい死をもたらしただけでなく、放射線障害や健康不安など心身に深い傷を残し、社会的な差別や偏見を生じさせ、辛うじて生き延びた人々の人生をも大きく歪めてしまいました。
このような地獄は、決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄(ほの)めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨(むご)たらしい目に遭(あ)うのは、あなたかもしれません。
(中略)
市民社会は、既に核兵器というものが自国の安全保障にとって何の役にも立たないということを知り尽くし、核を管理することの危うさに気付いてもいます。核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です。そのような核兵器を保有することは、人類全体に危険を及ぼすための巨額な費用投入にすぎないと言って差し支えありません。
(中略) 

今年7月、国連では、核保有国や核の傘の下にある国々を除く122か国の賛同を得て、核兵器禁止条約を採択し、核兵器廃絶に向かう明確な決意が示されました。こうした中、各国政府は、「核兵器のない世界」に向けた取組を更に前進させなければなりません。

特に、日本政府には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と明記している日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい。
(後略)

広島市長 松井 一實


この宣言は、ひとり松井市長個人の訴えではなく、原子雲の下で灼かれたヒバクシャたちと、その家族、それにつながる無数の人々の、血の叫びといえるでしょう。
峠三吉の「原爆詩集」の序が、今こころにとみがえります。

 ――一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

「被爆者の心に寄り添う」と、録音再生機械のように繰り返し口になさるアベさん。この、無数の老若男女の声が、かすかにでも聞こえていますか?
かつて、授業したことのある教え子の一人が、今広島の世界大会に参加しているとの由、Facebookに何度も投稿してくれています。その中の一つに、こんな画像がありました。
タテに読むと、(広島の)新聞人の心意気が伝わってきます。これを支えている広島市民の心意気、というべきか?アベさん、あなたの心に伝わっていますか?








今日、当初書きたいと思っていたのは別の話題でした。昨日の夜のNHKの歌番組が良かったです。
なかでも、氷川きよし君が歌った「一本の鉛筆」。美空ひばりさんが大切にしたという歌。氷川君が、その張りのある男声で心を込めて歌うと、圧倒的な説得力を感じ、じーんときました。
また、改めて書くかも知れません。
きょうはこれにて。

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思いがけないプレゼント、の巻 [家族]

きのうの「しんぶん赤旗」の13面「西日本のページ」に、こんな記事が載っています。

一部を引用します。

 高知大学の卒業生らでつくる高知大学オー ル革新の会は2日、9 月に同大学の朝倉キャンパスで自衛官の採用試験が行われる問題で、同大学と懇談し再検討するよう求めました。.
同会から代表で日本共産党の春名直章県委員長、益善一事務局長、米田稔党県議らが出席。同大学の浅井務財務課長らが応対しました。
春名氏らは「学問の自由が基礎になり、権力から独立していないといけない大学で、なぜ、自衛隊の採用試験を行うのか」などとただしました。

この記事のことをメールで教えてくださったのは、この交渉にも参加されたN先輩でした。N先輩についてはこの記事で「N氏」として紹介させていただいています。

夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて


上の記事にも、また次の記事にも、 登場していただいた方たちが、この大学との懇談に出席されたようです。

強行採決にまつわる記憶のエトセトラ、の巻
夏の終わりの土佐の旅、の巻(その1)


ところで、N先輩は、この記事の紹介とは別に、こんな手紙を付けて、思いがけない郵便物を送ってくださったのです。

前略
「ナードサークの四季」 を拝見していたら、 「平安北道江界郡文玉面」 と記された戸籍らしきものがアップされていたので、 少し調べさせていただきました。
①手元に 『最新 韓国基本地図』 (平成元年発行) なるものがあります。 韓国で発行されたものに、 日本語のルビを振って日本の帝国書院が出版したものです。 韓国は 「北朝鮮」 の行政区の変更を認めていないためか、 行政区が昔のままです。
②それによると、平安北道にはいくっかの「郡」と「市」があります。そのうち「江界郡」を黄色で塗ってあります。塗ったなかに「文玉面」はありません。
③「江界郡」のなかに島のような状態で「満浦市」と「江界市」があります。おそらく「江界郡」 のなかの幾つかのムラが合併して 「市」 に昇格したものでしょう。
④ブログには、近くに鴨緑江があったとあります。したがって、鴨緑江の岸にある今の「満浦市」のなかに「文玉面」が含まれていたのではないかと推察しました。
⑤そこで、インターネットに「満浦市」と「江界市」を入力して検索すると、次のようなことが分かりました。
1937年、文玉面が満浦面に改称
1940年、満浦面が満浦邑に昇格
1946年、満浦邑が満浦面に昇格降格
1949年、満浦面ほか4面が新設の満浦郡に編入
1967年、満浦郡が満浦市に昇格
⑥以上の変遷からみて、 文玉面を中心にして現在の満浦市へ発展してきたものと思われます。
⑦インターネットによると、 満浦市は国境の要衝で、 鴨緑江を挟んだ対岸の中国吉林省集安と鉄道橋 (l937年建設) で結ばれています。 この橋は大日本帝国の満州支配のための交通路の一つとなりました。植民地時代には、満浦には税関支署や守備隊がおかれ、 1920年ころには満州で活動する抗日パルチザンの攻撃を受けています。 また朝鮮戦争のときは、 中国人民志願軍が集安から満浦に越境したそうです。 鉄道橋は貨物専用ですが、 いまも1日1本国際列車が通過するそうです。「北朝鮮」の幹部が北京に行くときに通るのではないでしょうか
(あるいは「将軍様」も…)。
以上、 とりあえずお知らせします。
草々

同封していただいた『最新 韓国基本地図』 の該当箇所です。

下は,N先輩が注を加えてくださったもの。

少しトリミングして拡大してみます。

N先輩は、大学での専攻は歴史。さすがに考証が緻密で、上質の謎解き小説を読むようにスリリングです。
生まれた育った土地をもういちど訪れてみたい、という思いを父は長く温めていたようですが、政治環境のせいで願いはかないそうになく、攻めて地図で確かめたいということをもらしていたので、素人委考えでいろいろ調べてみた顛末はここで書きました。

縁は異なもの、「青頭鳥」再考、の巻


その時、アマゾンで手に入れた地図は、

朝鮮半島全図 地図– 2012/6/22



N先輩の「韓国は 「北朝鮮」 の行政区の変更を認めていないためか、 行政区が昔のままです。」というご指摘には、目から鱗。疑問が解けてすっきりしました。送っていただいたこの地図を、早速父にも見せたいと思います。N先輩ありがとうございました。



昨日の午前中は炎天下、育成会などが主催するイベントで、小学生はグランドゴルフを楽しみ、ジイジは送り迎えと、参観です。じっとしていても暑いです。
部活から帰る中学生を合わせて3人の孫に昼ご飯(焼きそば。前日のスパゲッティが、具が多すぎて不評でしたので、野菜の分量をセーブしました)を食べさせ、ほぼ業務終了。
クーラーの効いた部屋で録画番組を見ながらうとうととしていますと、長女から電話。父ちゃんが遅いので、夕食を一緒に食べに来ることになりました。食べきれないからと、大きなスイカを持ってきてく入れました。
たまたま近くに住む孫の誕生会で、我が家でみんなで夕食とケーキを食べる成り行きになりました。よく冷えたスイカが、季節感を添えるプレゼントになりました。「みんなで」といっても、パパは仕事でいつも通りに帰りが遅く、小4生は暗くなるまでサッカーの練習(ナイター設備のあるグランドです)で、なかなか全員はそろいませんが、、、。
成り行きついでに、1歳、2歳、小1の三人の女の子を、じいじがお風呂に入れることになりました。従妹同士の女子会の成り行きはいかに?実はもう一人、大阪に3歳の女の子がいますので、お盆には4人の女子会が催されますかどうか?



ここのところ雨も降らずかんかん照りが続くことに辟易しています。雷注意報が出ても、何日も雨は一滴もなく、畑のサツマイモの葉も、赤茶色に焼け、枯れしおれかけけているのに気づきます。さすがに見かねて昨日の夕方には、子守の合間を見て、20lのポリタンク二杯分、車で運んでに水やりをしてきましたが、焼け石に水、いや焼け土に水のようです。
台風五号の接近の影響か、昨日あたりから風が強く吹いていますが、空気はからからです。豪雨災害被災者の皆様には申し訳ないのですが、少しだけ雨がほしいです。



今朝は、雲が厚く、風も寄り強く吹いていますが、なかなか雨は降りそうにありません。南の地方では、早や強い影響が現れているようですが、被害のないことを祈ります。







朝散歩では、こりもせず朝露のマクロ撮影を楽しんでいます。
気温が上昇すると、息切れはする、汗は目に入る、レンズは曇るで、撮影どころではなくなります。
今朝は、風がここち良くて汗もそれほどではなかったのですが、水玉も吹き飛ばされてか、撮影に成功しませんでした。
2.3日前の写真を載せます。
稲葉に宿る朝露
稲葉に宿る朝露 posted by (C)kazg 稲葉に宿る朝露
稲葉に宿る朝露 posted by (C)kazg 稲葉に宿る朝露
稲葉に宿る朝露 posted by (C)kazg 稲葉に宿る朝露
稲葉に宿る朝露 posted by (C)kazg IMGP7450
IMGP7450 posted by (C)kazg 稲葉に宿る朝露
稲葉に宿る朝露 posted by (C)kazg L5019320
L5019320 posted by (C)kazg 稲葉に宿る朝露
稲葉に宿る朝露 posted by (C)kazg L5019337
L5019337 posted by (C)kazg 稲葉に宿る朝露
稲葉に宿る朝露 posted by (C)kazg 稲葉に宿る朝露
稲葉に宿る朝露 posted by (C)kazg


今朝のマクロ撮影は、カボチャの花にミツバチ。

センニチコウ。



雫は見当たりません。
きょうはこれにて。

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葉月の朝のプチ散歩、の巻 [折々散歩]

25℃を超える夜を「熱帯夜」というそうです。でも明け方、室温計が25℃や26℃を指していたら、涼しさを感じてしまいます。最近の就寝時の室温は32℃、エアコンの温度設定は28℃でも寒いほど。
先日ベトナム出身の留学生に「お国の夏とどっちが暑い?」と聞いたら、すかさず「ニッポン」と答えました。「今年の暑さは格別」という会話が、朝の散歩中あちこちから聞こえてくるお決まりの挨拶になっています。
薄暗いうちの散歩が、涼しくていいです。
今日は、寝苦しさのせいで何度も目が覚め、二度寝三度根の後に目覚めると、6時近くになっていました。
玄関先の温度計は、27度Cを超えていました。exifデータで確かめると、5時55分の撮影です。

室内温度はさらに高く、28度Cを超えています。〈6時ジャスト)

今日は小学生孫二人のお供で午前中用事があるので、散歩は諦めました。
ここ数日の朝散歩。薄暗いうちから出かけています。







だんだんと日の光が強くなり、気温も一気に上昇していきます。





朝日を浴びる月見草(小待宵草?)

猫じゃらし(エノコログサ)




ツチガエルが何やら深い思索にふけっています。





稲葉の朝露とイトトンボ。
朝露とイトトンボ
朝露とイトトンボ posted by (C)kazg 朝露とイトトンボ
朝露とイトトンボ posted by (C)kazg kazg 朝露とイトトンボ
朝露とイトトンボ posted by (C)kazg 朝露とイトトンボ
朝露とイトトンボ posted by (C)kazg 朝露とイトトンボ
朝露とイトトンボ posted by (C)kazg
朝露とイトトンボ
朝露とイトトンボ posted by (C)
日が高くなると、汗が噴き出し、ゆっくり撮影しようなどという心のゆとりは、失せてしまいます。
今日これにて。

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シニア割引大歓迎、の巻 [家族]


facebookというsnsサービスは、時々あらでもがなのお節介をしてくれます。誕生日をお友達に知らせてくれるサービスも、知った以上おめでとうを言わなくちゃと言う心境を誘うらしく、大勢のお友だちから、ありがたいメッセージを戴きました。でも、なんかくすぐったくて、落ち着きません。こんな感じ方をする私は、お友達のお誕生日に、おめでとうのメッセージを寄せたことがありません。10代の少年時代ならまだしも、なんかてれくさいのです。
そして、過去の記事や写真を「思い出」として思い出させてくれたりします。これも、余計なお節介と感じるのですが、4年前の今日のこの写真を、私はお友達にシェアしてしまいました。




この姫も小1。最初の夏休みを満喫しています。
今日は中学生も部活がなく、3人ともお休みというので、ちょっとどこかへ連れて行こうかと考えて、久しぶりに岡山後楽園を訪ねてみることにしました。
前回行ったのは、どうもこの日のようです。
小春日や古りたるフィルムいとほしむ(2016-11-11)
久しぶりにフィルムカメラを持ち出してみたのは、去年の11月のことでした。

それからまもなく、「年間パス」が期限切れになりました。65歳を超えるとシニア割引が大きいことを考えると、更新に躊躇がありました。そのためここ数ヶ月、この楽しみを封印していたのです。
皆様のブログ記事を拝見していますと、古代蓮=大賀蓮を話題にされている記事が目に止まります。後楽園でも見頃かなあ?と思いつつ、訪問の機会が一日延ばしになっていたのでした。
820円也のシニア代金を払って、年間パスポートの更新がセイルツ。今日からは、駐車料金だけの負担で何回でも入園できます。
中学生一人、小学生2人の料金は?と尋ねますと、高校生未満は無料だそうです。おどろきでした。
木陰は涼味を感じられますが、強い日射しです。
予報では35°C超えが予想され、岡山県にも高温注意情報が発令されていました。



強い光です。









期待の大賀蓮〈古代蓮〉は、もう咲き終わりの状態でした。



わずかに一本だけ、ツボミがありました。

ウチワヤンマ。

シオカラトンボ、

チョウトンボ。




正門近くの花葉の池に咲く、白い大輪の「一天四海」はまだ盛り。別名「大名ハス」とも呼ばれる豪華な花です。






子どもたちは、日差しの中を走り回って飽きることがありません。

茶屋でかき氷とソフトクリームをぺろり。


そう言えば、この茶屋は、この記事に登場します。
台風の狭間にしばし散歩かな

  というのは、次男のお嫁さんの出産予定日は、昨日だったのですが、まだ兆候がありません。彼女は、毎日一所懸命、歩いたり軽い運動をするよう心がけていますが、雨の日は困ります。売り場面積の広い大店店舗や、商店街のアーケード街などを、ウインドウショッピングがてら歩いたりしています。

さて、今日は、妻を公民館におろした後、私とお散歩デートすることにしました。家で留守番していてもらっても、もちろん結構なんですが、ひょっと産気づいて産院へ急行する必要ができたりすると心配だ、というわけで、同行してもらったわけです。
台風の激しい雨風を覚悟して、デパート、商店街、美術館、図書館などの利用を検討していましたが、思ったよりも雨風の影響がないので、岡山後楽園という庭園を歩くことにしてみました。
彼女は、小学校の行事以来だそうです。私も、単独で入園することは、今年も何回かありましたが、デートは何十年ぶりという事になります。イヤ待てよ、保育園の孫と外周を歩いて、かき氷食べたのは、去年の夏でしたか?

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今日の付録。
蓮畑のアオサギです。

獲物は?ドジョウのようにも見えますが、、、。

きょうはこれにて。

小鳥の森がアブナイ?の巻 [折々散歩]

前回の記事で農業後継者の問題に少しだけ言及しましたところ、M師から、「ナードサークで農業改革について触れておられたので、お伝えしなければと思いました。」と、昨日、次のようなメールをいただきました(一部抜粋)。
 (前略)三徳園というのは元は農業研修施設だったようですが、ご承知のように現在は別名「小鳥の森」として県民に親しまれている公園です。この公園に国から五億円の予算がついて農業従事者を育成するための施設を作ることが決まったようです。かなりの木を伐採し資料館(高松農高から移設された木造建築で三徳園のシンボルになっている。)も改築されるようです。
 周辺住民にこのことが知らされたのは、工事を行う業者も決定し工事が始まる直前の7月初めでした。多くの木が伐採されると(すでに巨木が惜しげも無く伐採されております。)小鳥の住む環境が破壊されてしまいます。これを知った地域の方、野鳥愛好家、県野鳥の会などが県に話し合い、申し入れを行いましたが、県からは通り一遍の回答で作業はどんどん進んでおります。マスコミにも連絡しましたが、RSKが木が伐採されている様子を放映し県の説明を流しただけでした。ただ木の伐採はノコギリとかチェンソーでの伐採ではなく重機を使って大木を根こそぎ倒してゆくまさに破壊的映像で、見た人には衝撃を与えたようです。
 F先生は専門家である自分達の意見を聞くこともなく事業が進められることに憤っておられました。農業施設を作るなら別の場所がいくらでもあるのではないか、平地にこのような森林施設があるところは稀であり貴重だと言っておられます。私も小鳥の森に出かけた時に、よく保育園児や車椅子の方などをお見かけしました。山には出かけられない人でも気軽に出かけられる森林施設です。県に申し入れをしても担当者の通りいっぺんの回答があるだけなので、現在知事に直訴する手はないかなど検討されています。
 (後略)
「三徳園」の工事計画については、少し前にもM師から概略を伺っており、山陽放送(RSK)のニュース番組での報道予定についても教えていただいていました。録画予約をしていたのですが、時間は正しかったのですが、日にちを間違えて一日遅れで録画しており、見損ねました(汗)
「三徳園」、「小鳥の森」は、当ブログの過去記事でも、しばしば訪問して、野鳥や樹木、花などの撮影を楽しませてもらっている場所です。たとえばこんな記事。

上を向いて歩いていたら、の巻

青い鳥尋ねあてたる年はじめ

縁は異なもの、「青頭鳥」再考、の巻

故郷の川面におはすミサゴかな

再生の象徴 楷の葉は緑

時至れば花咲くならんおのづから

笹鳴くや鶯宿の主おはすらん

お名前は? 鶯宿、紅さし、そして南高

春の夜の夢途絶えさせ地震(なゐ)震ふ

冬の日や鏡の上の巫女秋沙

豊饒の小鳥の森の日の光

私が初めてトラツグミに会ったのも、この場所でした。

われもまた たずねあてたり とらつぐみ

の記事で、「場所は、敢えて伏せますが、県内某所」と書きました。心ない観察者によって場所が荒らされることを警戒しての配慮でしたが、今では時効でしょうね(笑)。この時も、M師に教わった情報でした。
その大恩あるM師は、昨日のメールで「お暇な時に現地取材をされ(現在入場禁止ですがどこからでも入れます)ナードサークで取り上げていただければ大きな力になると思います」と書き添えてくださいました。「大きな力」にはまったくほど遠いですが、たとえお一人・お二人にでも、お伝えしないわけには行くまいと、早速「現地取材」に出向いてきました。
施設の大部分にロープが張り巡らされ、物々しい立ち入り禁止の表示があちらにもこちらにも掲示されています。











(上の図は、HPからコピーしました)
この工事について、岡山県のHPには、こんなQ&Aが掲載されています。
Q&A [PDFファイル/106KB]
 三徳園の再整備に関するお問い合わせ (Q&A)
(問1)
なぜ、 三徳園に農業の担い手育成の拠点施設を整備するのですか。

・ 三徳園は、 昭和 9年に現在の第一生命保険(株)の創始者である矢野恒太氏が若手農業者を養成する施設である 「三徳塾」 を創設し、 その後県に寄付されたもので、昭和43年に現在の三徳園に改称されるまでの間、約1, 400名の卒業生を輩出 しています。
・現在は、古農具等の展示や農業者等が交流する建物のほか、農作物や郷土樹木等の展示園を有する農業公園として、 山林エリアに整備した小鳥の森と合わせ、 多くの県民にご利用いただいておりますが、 建物につきましては、 いずれも50年以上が経過して老朽化が進み、 利用者の安全を確保することが困難な状況になっております。
・また、 本県農業の現状をみますと、 この10年間で農業就業人口が約4割減少し、 農業者の平均年齢も7 0歳となるなど、 担い手の育成は喫緊の課題となっております。
・ このため、 三徳園に本県農業の担い手を確保 ・ 育成するための拠点施設を整備することで、 次代を担う人材育成の加速化を図り、 併せて、 公園利用者の安全性や利便性を確保することとしたものです。
「農業の担い手育成」は、もとより重要ですが、「公園内の森を切り開いて畑にしなければならない理由がどこにあるのか」という疑問に答えることもなく、市民の声に耳を傾けることもないまま、工事は進んでいるようです。
いずこも同じです、、、、か?

重機が間断なく轟音を響かせて山肌を削り続けています。
傷跡が無惨です。自然災害による壊滅ではなく、人為による破壊・蹂躙であることが、皮肉なことです。
正面の建物は、M師のメールでも「三徳園のシンボル」と紹介されている農業展示館(明治35年に建設された高松農業高校の本館を移築復元した建物)です。その、文化的価値を思えば、修復・保全が望ましいと思えますが、コストがかかりますかね?安上がりに、「公園利用者の安全性や利便性を確保」するには、「改修」がおトクということですかね?

廃墟に似合う鳥と言えば、カラスでしょうか?





左側へ進むと、小鳥の森エリアです。

「小鳥の森」へは、何カ所か入り口があり、それは工事によってもふさがってはいません。

次のような立て看板から、森や樹木への愛情と畏敬が読み取れます。







このコメントに込められた自然感と、工事強行を譲らない県の姿勢との間には、計り知れない落差があるように思えてなりません。
県HPのQ&Aの続きに、小鳥の森に関わる記載があります。
(問2)
三徳園には小鳥の森もありますが、 どこの樹木を伐採するのですか。
・三徳園は、 総面積が18.1ha(園地9.0ha、 山林9.1ha)あり、 このうち山林エリアの一部を小鳥の森(4ha)としていますが、 このたびの工事は、 園地内の
一部を対象とした整備であり、 山林(小鳥の森)は対象にしておりません。
園地エリア、山林エリア、工事対象エリア及び小鳥の森の位置は、 こちらをご覧ください。
・ 工事対象エリア内の樹木は、 郷土樹木園の一部など、 必要最小限の範囲で伐採を行いますが、 移植可能な樹木は植え替えるとともに、 新たな植樹も予定するなど、 引き続き、 野鳥観察などもできる緑豊かな農業公園となるよう努めることとしております。
工事対象エリアの詳細は、 こちらをご覧ください
「郷土樹木園の一部など、 必要最小限の範囲で伐採」とあり、「移植可能な樹木は植え替える」などとも書いてありますが、移植に適さない季節との指摘もあり、性急な工事強行は嘆かわしい限りです。

「郷土樹木園」というのは、県内に自生する樹種約500種のうち,245種を自然に近い形で植栽展示。自然環境の違いによって植生を分類し,県下の自然の復元を目指すというユニークな庭園です。特筆すべきは、樹木にそれぞれ名鑑がつけられていて、私など、樹木にまったく詳しくない人間にとっては、この上なくありがたい配慮と、つねづね思ってきました。


今から20年数年前の1993年(平成5年)岡山県議会で、当時の長野史郎知事が、三徳園についてこんな答弁をしているのを、偶然見つけました。
故矢野恒太翁が農業の若い担い手を育成するため,昭和9年に創設したもので,農山村の伝統と文化的遺産を保持する施設を初め,各種樹木園を整備し,青少年の農業研修や交流の場として年間約12万人が利用しているところであります。  
御指摘の郷土樹木園には現在241種を植栽しておりまして,植生上,非常に育てにくいホンシャクナゲやレンゲツツジなど200種のものが残されております。今後とも,土壌改良や日照等を含めた植生の環境改善に十分配慮しながら,いまだ植えられていない樹木の収集に努めてまいりたいと思います 
当ブログでは、長野史郎元知事の県政の負の「業績」について、幾度か批判記事を書いてきましたが、この答弁からは、三徳園への、ある種の思い入れを感じ取ることができるような気がして、好感を覚えてしまいました。
(郷土の)自然にたいする愛着と畏敬、胸の奥深く刻み込まれた思い入れを蹴散らして、「本県農業の担い手を確保 ・ 育成するための拠点施設」づくりを優先させる発想は、「もはや、農政の大改革は、待ったなしであります。何のための改革なのか。強い農業を創るための改革。農家の所得を増やすための改革を進めるのであります」と叫ぶアベ農業改革の、ドライで無神経で威勢の良い、白々しくて脳天気なかけ声と、奇妙に響きあっているように思えます。
「国から五億円の予算がついて」という一言に影響された先入観、色眼鏡による印象かも知れません。けれども、「行け行け、ゴーゴーどこまでも」と、行き先も確かめず地獄までも疾走するのが、とりもなおさずアベ流というものですから、農業再生のためにも、アベ農政(アベの所為=momotaro様)にNOを突きつけることがまず肝要と思われます。。
「あわてない、あわてない。ひと休み、ひと休み」(一休さん)という姿勢が大切に思われてなりません。

さて、Q&Aのつづきがあります。
(問3)
三徳園は鳥獣保護区内にありますが、 樹木の伐採は問題ないのですか。
・ 三徳園は、 鳥獣保護管理事業計画において指定されている鳥獣保護区内にある施設であることから、 このたびの工事では、 当該計画を踏まえた上で、 必要最小限の範囲で樹木の伐採を行うこととしております。
・なお、 このことについては、 当該計画や鳥獣保護管理法を所管する部署とも協議し、 問題ない旨を確認しており、 引き続き、 工事期間中におきましても、法令等を遵守して取り組むこととしております。

「当該計画や鳥獣保護管理法を所管する部署」との協議や、「法令等」の「遵守」は、当たり前過ぎるほど当たり前の必要条件といえます。それだけこと足れりとするのは、「関係法令に基づき適切に実施」(加計問題でのアベ答弁)と、「法令遵守」を口実に、それ以外の重要な社会の要請をシャットアウトするアベ内閣の手法とソックリです。

ことは県立「公」園の運営に関わる、進め方の問題です。「法令遵守」にくわえて、その道の専門家や、地域住民・市民・県民、公園利用者、自然愛好家の声に耳を傾け、その妥当性を社会的に検証することが、つよく求められているのではないでしょうか?

今日はこれにて。


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