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嵐の中の帝釈峡散歩、の巻 [折々散歩]

昨日の記事の続きです。
台風22号接近の中敢行された「錦秋の神石高原町」を訪ねる旅について、同行のお仲間が、すでにfacebookに記事を寄せておられました。
まずは、行き帰りのバスで私と隣り合わせに座っておしゃべりを楽しんだOさん。


そして、バスでは一つ前の席に座っておられたI先輩。

お二方のこの記事が、簡にして要を得たレポートになっていて、付け加えるべきことはありませんが、備忘的に、少しだけ遅ればせの蛇足記事を書きます。
時間調整のため、往路は予定を変更して、180号線を北へさかのぼり、高梁→新見を経由して広島県へと県境を越え、東城、上帝釈へと向かいます。
増水した高梁川を眺めながら、途中、トイレ休憩に立ち寄った絹掛の滝(新見市草間)は、過去にも何度か通りかかったことがありますが、これほどの名瀑だとは思いませんでした。台風による降水のおかげでしょうか。









これらの写真を撮っただけでも、台風をおしてこのツアーに参加した価値はあったと、ひそかに思ったことでした。
車窓の風景を見ながら、四方山ばなしに花が咲けば、時間が経つのも忘れます。
若山牧水ゆかりの哲西町を過ぎるとすぐに広島県です。
以前、こんなことを書きました。
白玉の 歯にしみとほる 出会いかな(意味不明)

 若山牧水と新見市とのつながりは、牧水が早稲田大学在学中に、病身の父の見舞いも兼ねて郷里の宮崎へ帰省する途中、花袋の「蒲団」の舞台となった新見市を訪ね、中国路を旅した時、哲西町二本松峠の茶屋「熊谷屋」でつぎの二首を詠んだことにちなみます。
 幾山河こえさりゆかばさびしさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく
この先、幾つの山や川を越えて旅していけば、さびしさの尽き果ててしまう世界にたどり着くのだろうか!今日もこの思いを抱えながら旅をする私である。

けふもまたこころの鉦をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く
巡礼者が鉦(かね)をうち鳴らしながら旅を続けるように、この私も、こころの鉦を鳴らし鳴らししながら、心がさまよい出るような旅を、今日もまた続けていることだよ。
二本松峠は、岡山県新見市哲西町(平成の大合併以前は、阿哲郡)と、広島県庄原市東城町の境に位置する峠です。
ここには、牧水、妻の喜志子夫人、長男の旅人氏の、親子三人の歌碑が建てられています。



道の駅「遊YOUサロン東城」で早い昼食を摂り、屋内施設である時悠館を見学します。

1万2000年前の「無文土器」を初め、帝釈峡岩陰遺跡群の出土遺物を中心に、石灰岩台地特有の動植物や東城地域の民俗文化財などが豊富に展示されています。旧石器・縄文・弥生時代の人々の生活に思いを馳せます。
やがて雨も小やみになるなか、帝釈峡(上帝釈)のぶらり散歩です。足もとはぬかるんで歩きにくいし
、いささか光が不足していて撮影には不向きなコンディションですが、水かさの増した清流と、色づき始めた紅葉、苔むした老木など、悠久の時間を宿した渓谷の全体が、すっかり雨に潤っている様は、より幽玄の趣を増して感じられます。
駐車場から雄橋まで、往復の際に写した写真を、フォト蔵に掲載しています。まずは、スライドショーで一端をご覧ください。






、今日はこれにて。

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冬の気配、の巻 [折々散歩]

台風22号の影響で、昨日は朝から土砂降り。

「不要な外出」は避けたいところですが、実は大事な約束がありました。

私が属している退職同業者の親睦団体主催の「自然歴史探訪」が計画されていて、参加の約束をしていました。この行事は、年に2回のペースでひらかれていて、今回で第47回を数えるそうですが、私が参加するのは今回で二度目です。去年の5月の回を、この記事で紹介したことがありました。

「良い風が吹きますねえ」とすれ違う

今回は「成羽川上流に佇む天空の里-錦秋の神石高原町」と題して、広島県神石高原町を中心に訪ねる計画です。集合が我が家から小一時間かかる総社市で、9時出発とあって、7時過ぎには自宅をでなければなりません。台風接近で、悪天候が確実視される中ですが、中止の連絡もないので、とにかく集合場所まで行ってみることにしました。

すると、方針は揺るがず計画断行とのこと。約束時間までに続々と全員が集合し、予定通りに出発です。ただ、時間の経過とともに台風の影響が衰えるのを期待して、訪問順序を入れ替えて、帝釈峡「ほろばの里=時悠館」という屋内施設を先に観光したり、食事を済ませた後、やや小降りの中を帝釈峡を見学。つづいて、「とよまつ紙ヒコーキタワー」を訪ねた頃には雨も上がり、青空がのぞくほどでした。

解散場所の総社駅前に到着したのは五時過ぎ。そこから我が家に向かう途中、備中国分寺五重塔が見えましたので、ちょっと立ち寄り、写真に収めておきました。















とっぷりと日が暮れました。



五重塔前の田園光景。







手前はコスモス畑です。



一夜明けた今日。台風一過で、すっかり晴れました。

東京などでは木枯らし一号が観測されたと言います。

気温が下がり、風が強いので余計に寒さを感じます。

散歩がてら、畑の様子を見に行ってきました。新しく買った歩数計で測ると、一万歩を少し越えました。

今日のお散歩写真です。













アオサギもお散歩中。







上空を飛ぶのは、ダイサギかな。



トリミングします。







猛禽類らしい鳥が突如上空に現れると、慌てます。もたもた、カメラの用意をしているうちに、相手はもう後ろ姿を見せて飛び去ってしまっています。







この姿、特徴的ですね。

チョウゲンボウ?



よく見ると、何か獲物をつかんでいます。



電線に止まったところを見ると、魚のようですね。





これは別の鳥だと思います。















これも猛禽類ですね。モズです。



最近、猛禽類を見る機会が増えました。

先日トビ?と書いたこの鳥は、ノスリだろうとM師が指摘してくださいました。

いわく、「可愛い顔をしていますから。」





今朝はカワセミにも会いました。



小ガモの群れが、近くの小川に、今年もやってきました。



M師は、キビタキ、ムギマキ、オオルリなどの情報も、写真を添えて教えてくださいました。冬鳥の季節になってきたようです。

今日はこれにて。


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半田山植物園の花野散歩、の巻(3) [折々散歩]


午後から天気が崩れると聞いて、午前中は畑仕事でもと目論んでいました。が、朝起きてみると、もう雨音がしていて、かなりの本降りです。

傘を差して、ちょっとだけ散歩してみました。風も強くて、手足が濡れます。防塵防滴仕様のFUJIFINEPIXS1を持ち歩いたのですが撮影チャンスはほとんどありませんでした。

刈り入れ前の稲田が、雨風に打たれています。



これは?

トビでしょうね。



こんな日に限って、カワセミに出会います。

暗くて遠くて、雨降りで、、手ぶれを避けられません。



デジタルズームで大きくしてみました。ぶれてます。



というわけで、今日も、先日の半田山植物園散歩の続きです。

自転車のブレーキのような、なじみのある鳴き声がすると思ったら、ジョウビタキ♂でした。
トリミングします。


シジュウカラです。







ウラナミシジミ?







トリミングします。



ヤマトシジミ?



トリミング。



タマスダレです。













以前、こんな記事を書きました。

タマスダレ


 この花をよく見かけます。
花壇などで園芸的に栽培されているというのではなくて、農道脇や用水路のほとりに自生しています。 
タマスダレでしょうか?別名レインリリー。ゼフィランサスというおしゃれな名前もあるようです。
和名のタマスダレは、純白の花を玉にたとえ、葉が並んでいる様子を簾(すだれ)に見立てた命名だそうです。

古語で「玉簾」は、「美しい簾」。「玉」は美しいという意味の接頭語。
おなじみの「伊勢物語」にこんな場面があります。
むかし、男、みそかに語らふわざもせざりせば、いづくなりけむ、怪しさによめる。

  吹く風にわが身をなさば玉すだれひま求めつつ入るべきものを
返し、
  取りとめぬ風にはありとも玉すだれ誰が許さばかひもとむべき 
   第 64 段 (玉簾)

【解釈】

昔、男が、ひそかに愛を語り、睦みあうこともなく、文を交わすばかりの女がいて、「あの女はどこに住んでいるのだっただろうか」と不審に思って詠んだ歌。



我が身を吹く風ヘンシンさせちゃえば、玉すだれの隙間を探し求めて、あなたのおられる部屋の奥深くまで入り込むこともできるのですが。



女の返歌、



確かに、つかまえることが出来ない風ではありましょうが、玉すだれのすき間を、一体誰の許しで、探し出せるのかしら?




黄色いヒガンバナといった風情のショウキズイセン。











「ショウキズイセン」「ショウキラン」とも呼ばれるそうです。

名づけの由来は、黄色い花から「正黄蘭」と呼ばれたともいいますが未詳。花の様子を、鍾馗の髭に見立てたとの説も。

鍾馗について、ウィキペディアはこう説明しています。

 鍾馗の縁起については諸説あるが、もともとは中国の唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布している。
ある時、唐の6代皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり床に伏せた。
玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。
夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。
この伝説はやがて一般に広まり、17世紀の明代末期から清代初期になると端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた。



坂道を上りながら★印のあたりまで来ると、「一本松古墳」と案内板が出ています。





こんな説明文が書いてあります。

一本松古墳
標高85m程の丘陵上に営まれた、全長65mの前方後円墳である。
後円部径約43mで、南の平野側に向けた前方部がやや短く低いのが特徴である。埴輪や葺石は認められない。
後円部の頂上は戦時中に高射砲陣地となった時、大きな穴があけられたが、ここに竪穴式石室があった。
東京国立博物館に保管されている副葬品には、鉄槍や一部に金を張った冑などの武器類に加え、鍬を鍛えるのに用いた金槌やヤットコがあり、この古墳に埋葬された
首長と鍛冶集団の関わりが注目される。
この古墳は、以上のような特徴から、古墳時代中頃、西暦5世紀半頃の築造とみられている。
なお、この古墳のすぐ南の尾根筋など、周辺部には、小規模な方形の古墳数基や、弥生時代の墓地などが所在している。 

頂上付近の大きなくぼみは、高射砲陣地跡だったのですね。驚きました。











今日の最後は芙蓉です。



今日はこれにて。


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半田山植物園の花野散歩、の巻(2) [折々散歩]

明日からまた天気が下り坂らしいので、今日のうちに農作業をと、田舎に帰ってきました。

こんな秋景色を見ながらのドライブでした。逆光だと、レンズの汚れが目立ちます。







こんなトンボがいました。



ツワブキの花にとまるツマグロヒョウモン。



ところで、昨日の半田山植物園でも、ツマグロヒョウモンに出会いました。



























ところでこの小菊の種類は何でしょうね?

昨日の散歩で★印あたりまで紹介しましたが、その先で「菊」と名の付く花はと言うと?



アシュウメイギクは特徴がはっきりしているのでわかります。



















色違いのこれも同種でしょうか。。







昨日紹介した「ハマギク」のほかに、「コハマギク」というのもあるようです。





そして「ダルマギク」という名も。















後で画像を見ても、どれがどれだったかわかりません。



「新渡戸菊(ニトベギク)」と表示のある、きわめて丈の高い菊が、2~3輪咲き始めていました。これも特徴があるので印象にのこります。









目測3メートル以上もの見上げる高さに大きな花が咲いています。

ペンタスは、







ペンタスについては、例えばこの記事など、何度か書いた覚えがあります。

懐かしの切り抜きメモ、の巻


 「ペンテ」はギリシャ語で5の意味。5角形の星のような花の形から名づけられたそうです。

そういえばペンタゴン(アメリカ国防総省本庁舎)も、5角形、5階建てだそうですね。

深山公園の、入り口付近の花壇にも植栽されています。

ツワブキ。名前の通り、葉もつやつやしていますが、花もまた光沢を放っています。











これはなんでしたっけ??







今日はここまで。


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半田山植物園の花野散歩、の巻(1) [折々散歩]

昨日散歩した半田山植物園では、入り口でこんなプリントをくださいました

地図の下の方にある入り口をはいって上を見あげると、レンガ造りの階段と水路が見え、その両脇にバラ園が目に入ります。




そちらには向かわず、地図の左方向へ進みます。
サルビアレウカンサと、地図に書いてあります。
サルビア・レウカンサは、中央アメリカ原産のシソ科サルビア属の植物で、「レウカンサ」とは「白い花」の意味だそうです。





赤紫色や紫色の萼の中に、白や紫のビロード状の花が咲き、別名「アメジストセージ」、「メキシカンブッシュセージ」とも呼ばれるそうです。
更に進むと、ハマギクが咲いています。








その先には、マリーゴールドの咲き乱れるエリアがあります。
小型のフレンチマリーゴールドと、大柄なアフリカンマリーゴールド。

















眩しいほど鮮やかな黄色、オレンジ色が、光を発しているかのようです。
コスモスも、あでやかに咲き誇っています。






まだ入り口をはいって少し歩いただけですが、今日はここまででさようなら。

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歩数計のつかないケータイに機種変更したら不便だった、の巻 [折々散歩]


最近、携帯電話の調子が悪く、先日の吉備路散歩の日(秋の吉備路の歴史散歩、の巻(1))には、前日からまったくダウンしてしまって電源さえ入らない状態でした。

そのため、ヨシエさんからの欠席連絡も受けられず、当日待ち合わせ場所で、トラブルなく面々にお会いできたのが不思議なくらいでした。帰宅後、ショップへ駆け込み、店員さんに訴えると、少しの間あれこれいじって、「直りましたよ。」「電池が充電不足になっています。」で、幕。

「充電も効かない状態だったんだけど」と、一言言い残して、まあ、直ったのならいいか、とそのまま使い続けてきましたが、数日前から、今度は液晶画面が妙な色に変色するトラブルが発生。一昔前のノートpcの液晶のレベルに比べれば、まだ我慢して使えなくもないですが、やはり目に負担がかかり、ストレスが高じることは否めません。

というわけで、機種変更することにしました。スマホではなく、ひきつづきガラケーです。ただ、わずかながらでも使い勝手が変わることは、何かと不便です。些細なことですが、以前の機種についていた、歩数計機能が今度はない、というのもちょっと辛い。以前から持っていた歩数計が、少なくても2、3個、どこか家の中にあるはずなのですが、探し当てることができません。

昨日は深山公園、今日は半田山植物園を散歩してみました。かなり歩いたつもりですが歩数がわからないというのは、なんとなく画竜点睛を欠く思いです。

ところで、半田山植物園の散策は、実に久しぶりです。この記事を書いたのが2015年の10月でした。

三百円也で花野を散歩かな

こんなことを書いていました。

 せこい話になりますが、岡山後楽園は駐車料金が一時間100円です。市街地のほかの駐車場を利用するよりは割安なのですが、長時間駐めると負担感があります。一方、半田山植物園は、時間制限なしの300円です。ということは、長時間駐める時には、半田山がオトクということになりますね。

当時持っていた年間パスポートの期限がまもなく切れようかという時期でしたが、しばらくパスポートを更新しないまま時が過ぎるうちに、更新のきっかけを失い、時が経過しました。というのも、六五歳以上になると、シニア料金になるのに、敢えて割り引き前の金額で更新することが不経済に思えたため、六五歳の誕生日まで、しばらくはご無沙汰という状態が続いたのでした。

そうするうちに、今年になって、六五歳の誕生日前に、市から封書が届き、中には「シルバーカード」なるものが同封してありました。説明書きを読むと、このカードを持参すると、いくつかのシニア特典が受けられるそうで、半田山植物園も無料で入園できるというのです。せっかく手に入れたその特典を、享受する機会がない日が経ちましたが、今日はせっかくの秋晴れでしたので、おにぎり弁当を持って出かけてみました。







今日の散歩の画像は次回にまわすことにして、今日の記事では、昨日の深山公園の写真をお届けします。

セイタカアワダチソウに、ツマグロヒョウモンの♀。







いつものようにヤマガラ登場。

















































カモたち。



ヒドリガモ





白鳥



紅葉はこんな具合。



今日はここまで。


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嵐が明けて、見えてきたもの、の巻 [時事]

嵐の中の総選挙。
嵐のような選挙結果。
前評判通りの、自公「圧勝」---の結果に、気が滅入ります。
が、投票日翌朝のこんな情景は、少し気持ちを落ち着かせてくれました。
深呼吸したい朝景色です。
正面に小さく見えるのは、ファーマーズマ-ケットの尖塔です。

落ち着いて考えてみると、自公圧勝と言うけれど前回総選挙の結果と比べてどうなの?気になったので調べてみました。
グーグルで検索すると、AKBの総選挙の記事ばかり出てきます(笑)
ウィキペディアの記事を拝借します。

自民は、増えてはいません。

公明は減らしています。
野党側は、「希望」の介入と民進のごたごたによる混乱のなかでも、立憲民主の旗揚げで、市民と野党の共闘が進み、立憲民主が躍進したことが特徴でした。
選挙結果はけっしててアベ政治に無条件の承認を与えたわけではありませんし、出口調査の結果はなお一層手厳しいアベ批判の民意が示されています。ましてや国民の多数が、「改憲」公約にイエスを投じたわけでもありません。勝負はこれから、、、ですね。
そうであればあるほど、野党共闘の発展に尽くした共産党が9議席を失ったことは残念至極。しかもわが中国ブロックも、議席を失ったことは痛恨の極みです。でも、立候補調整により野党共闘をすすめて得た議席は、改憲勢力を押しとどめる貴重な力になるはずですし、市民と野党の共闘を更に広げていくしかありますまい。「この道しかない」はアベさん好みのセリフですが、この際ですから、使わせていただきます。
ネット上で、いろいろと教えられる記事を拝見し、元気づけられています。そのうちのひとつ、フランス哲学者、西谷修さんのブログに、こんな記事がありました。

 衆院選挙の結果がほぼ出た。自公の与党は改憲発議に必要な3分の2の議席を確保。解散の正当性もないまま、ひたすら森友・加計疑惑から逃れるために臨時国会での冒頭解散を打った安倍首相は、これでまた堂々と居座れることになる。だがそうか? 議席数大幅減(80議席減)も覚悟して、当初安倍首相は勝敗ラインを与党過半数(233)と設定した。それからすると、タナボタのような自民党の圧勝である。
 最大の「功労者」は、つい先ごろの都議選で自民党を震え上がらせた小池東京都知事と、小池氏が選挙間際に立ちあげた「希望の党」に、独断で自党を城ごと譲り渡そうとした前原民進党代表だろう。これが野党側に大混乱を巻き起こし、何とか重ねていた準備態勢をも瓦解させて、野党は急ごしらえの間に合わない状況で選挙になだれ込まねばならなかった。有権者はあれよあれよのドタバタに呆れ不信をもって自民党に戻り、あるいは棄権する、といったところだったろう。その結果が、無法で強引な解散だったにもかかわらず、自民党が圧勝することになった。
(中略)
今度の選挙のもっとも注目すべきことは、希望の党への合流を拒否して、枝野幸男がまず独りで旗揚げした立憲民主党が、わずか数日で78人の候補をそろえ、民進党流れを抱え込んで全国に235人を擁立した希望の党を凌いで、野党第一党の地位を獲得したことだ。
(中略 )
 この党には新しい特徴がある。それは、既存の大政党でもなく、政治家の数合わせで離合集散する政党でもなく、市民が作らせた政党だということでだ。このことは枝野代表や福山幹事長が演説のたびに言っている。それは大衆受けをねらった美辞麗句ではない。3年ほど前から始まった新しい市民運動がある。それは安倍政権による安保法制強行の際に大きな盛り上がりをみせ、国会前を10万の人で埋め尽くした。どんな組織の動員でもない人びとが集まり、安倍政権の政策やそのやり方、日々の生活の足場からに怒りの声を挙げた。
 その運動は、安倍政権の強行採決を食い止めるために「野党の共闘」を要求し、法案成立後は昨年の参議院選挙で「野党共闘」を呼びかけ、一人区での野党候補の統一を実現した。そのために、多くの人びとが生れてはじめて選挙運動に手弁当で参加したのである。(中略)
 枝野幸男の背中を押し、旧来の政党から一歩踏み出すよう促したのはそういう市民の声であり、その声は政治家としての身を託すに足るという思いである。いつも国会前の集会にきて市民の声を背に国会内で闘うことをアピールしていた福山哲郎には、その実感があっただろう。
 だから枝野は「立憲民主党」という党名を選んだ。「立憲主義」とは、この間、立憲デモクラシーの会などの喚起によって流布した憲法に関する考え方だ(近代国家は憲法を軸にした法治体制をとるが、憲法は国民を拘束するのではなく、権力者の恣意から国民を守るためにある)。そしてデモクラシー、つまり国家でも党でもなく、市民が主役の市民のための政治ということだ。

ガッテンガッテン、です。
「市民連合」
の「見解」が発表されています。一部引用させていただきます。

10.23【第48回衆議院議員選挙に関する見解】
10月22日に投票が行われた第48回衆議院議員選挙において、自民党・公明党の与党が3分の2の議席を確保する結果となりました。市民連合は、安倍政権がこの多数基盤の上に、憲法の基本精神を破壊する方向でその改定を具体化することを強く危惧します。
 選挙戦の中で行われたいくつかの世論調査では、内閣支持率が低下し、不支持率を下回るものもありました。その意味で、国民は安倍政権を決して信頼したり、評価したりしているわけではないことは明白です。投票率も戦後最低レベルに留まってしまいました。与党の巨大な議席は、勝者にボーナスを与える小選挙区制度がもたらした、民意からの乖離といわなければなりません。
しかし、立憲民主党が選挙直前に発足し、野党協力の態勢を再構築し、安倍政治を憂える市民にとっての選択肢となったことで野党第一党となり、立憲主義を守る一応の拠点ができたことは一定の成果と言えるでしょう。この結果については、自党の利益を超えて大局的視野から野党協力を進めた日本共産党の努力を高く評価したいと考えます。社会民主党も野党協力の要としての役割を果たしました。
 そして何よりも、立憲野党の前進を実現するために奮闘してきた全国の市民の皆さんのエネルギーなくして、このような結果はあり得ませんでした。昨夏の参議院選挙につづいて、困難な状況のなかで立憲民主主義を守るための野党共闘の構築に粘り強く取り組んだ市民の皆さんに心からエールを送ります。
(以下略)

まったく賛同いたします。
これに対して、共産党の志位和夫委員長さんが、こんなツイートをしておられます。


同じく今日のツイッター記事です。内田樹さんがこんな投稿をしておられます。


「抑制のきいた大人」とは、このような姿勢を言うのでしょうか?↓




最初の構想が大きくずれて、政治ネタの記事で終わりました。散歩ネタは、次回に回します。今日はこれにて。

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自然環境体験公園の雨、の巻 [折々散歩]

雨が続きます。台風の影響で今日は当地にも、軒並み大雨警報がだされています。
選挙の開票速報が始まりましたが、前評判通りに自公「圧勝」の勢い、、だそうです。野党勢力では、一人立憲民主の健闘が光りますが、憲法、くらし、平和をめぐる前途はますます多難。草の根からの大反撃が求められますね。
雨の中、この2~3日、散歩コースに自然環境体験公園を選んでみました。
独特の形状の辛夷の実が、赤く色づき、その割れ目から赤いつつやつやした種子が、顔をのぞけています

鮮やかに燃える紅葉葉楓(モミジバフウ)を、雨粒が伝っています。













これはハナミズキの紅葉。







散歩道も水浸しです。

池には、、、オオバン。







カイツブリ。








親子かな?

ジョウビタキ♂今シーズン初めて見ました。

今日はこれにて。

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投票日を前にkazgの考えたこと、の巻 [時事]

いよいよ明日が総選挙投票日です。
降ってわいた無法解散。
わが敬愛する「お友だち」のみなさんが、こんな発信をしておられます。
まずSさんのfacebook投稿(10月16日付)。いつも、幅広く素早い情報提供に感謝しています。すべてをご紹介したいところですが、とりあえずこの記事を。

 今度の選挙は日本の民主主義が生き残るか死に絶えるかの重大な岐路に立つものだ。
選挙に行こう。
自公に鉄槌を!
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そして、ATOM先輩のfacebook投稿記事(10月14日付)。

 憲法改悪勢力が300議席を獲得する情勢だという。また戦前の様な保守と反動勢力の2大政党政治になるのか⁈戦前と僅かに違うのは、戦前は非合法下で、命懸けで戦争反対を訴え、多くの命を捧げた人々の意思を忘れず、ぶれず、闘い続けた共産党が、今は世界が認める、日本で一番政党らしき政党の体を成していると認められている政党として存在している事、分裂したとはいえ、立憲民主党が反共の嘘に取り込まれているが、良心的に護憲を願う、多くの人達の受け皿として立ち上げられた事、様々な間違いを経て護憲の立場をしっかり維持し続けている社民党の連合がある限り、この選挙の結末は下駄を履くまでわからないと言う事だろう。北朝鮮の挑発をうけ、強い制裁を主張する政治家と其れに影響されて思う庶民の北朝鮮への強い圧力は本質的に違う。政治家のそれは、改憲への誘導であり、庶民のそれは平和への願いだから。北もアメリカもいくら馬鹿であったにせよ、自らの周りの愛する人の事は考えるだろう。どちらの陣営が先制したとしても、まずその次に最悪の悲劇を見るのは日本であるだろう。この小さな島国で54基世界第三位の数を持つその国は、平和主義以外のどんな防衛手段も有効でない事ぐらいは、我が国の指導者が余程稚拙な正義感を持つ人間でない限り限り自明だろう。僅か一度の地震による事故で壊れ、未だに収拾の目処も立たない日本。もう誰もアメリカの嘘にも騙されず、北朝鮮の脅しも恐れないが、ただ、このところの日米中国北朝鮮の最高指導者のうちの誰かが、本物の馬鹿でない事を祈っているのだ。始まりは終わりだ。そして怖いのは、立憲民主党を除く日本の新しく出来た政党の多くが、稚拙な未来感しか持てず、過去の価値観の中での理想しか世界を見ようとしていない事だろう。未来の世界の指針となれるのはただ日本の憲法9条の目指す所だけだ。改憲派が増える事は、未来の大戦を意味し、生き残った人々とその生きる環境の悪化は最早生きるに値しない世界になる事だろう事は予想できる。

まったく同感です。美しく優しい会が(少女の絵が素敵)を描かれるATOM画伯の心を、かくも激しく怒りに燃え立たせるアベ内閣、そして日本の政治状況の愚かしさ。喝!です。
そして、O先輩のfacebook投稿記事(10月16日付)
つぎは、H女史が、いつも紹介してくださるいろいろな記事。ちょっとだけコピーさせてください。

 









ソネブロでは、MITURUさんのブログ「平和に生きる権利」が久しぶりに記事を更新されました。懐かしく、ご健在を喜び、かつ、記事内容に深く共感しました。

憲法9条を守りぬく選挙 
いよいよ明日、10月22日は、日本の平和主義の大黒柱である憲法9条をまもるのか、アメリカと一緒に戦争する国にしてしまうのかの岐路となる総選挙です。
(中略)
小選挙区という与党に有利な選挙制度のもとで、市民と野党の統一候補が1人でも多く当選して、比例代表では市民と野党の共闘の要である日本共産党が議席を伸ばすことが、憲法9条を守りぬくために必要です。そのことを皆さんに訴えます。

本論部分を省略して結論だけを引用するのは大変失礼ですが、ぜひリンクをたどって内容をお読みくださるようおすすめいたします。
おもえば、MITURUさんは大昔、私が30代、MITURUさんが大学卒業したばかりのころ、仕事つながりで親しくしていただいていました。その後、長い間離ればなれでいたものが、ソネブロつながりでまた「再会」できたのでした。最近諸般の事情から更新が減り、寂しく思っていましたが、いよいよこの選挙は、黙っていられない情勢ゆえの、満を持しての発信でしょう。

私自身も、日頃、当ブログでは、個人のナマの政治信条については、表明を控えるよう心がけていますが、今回ばかりは、いつになく深入りして意見陳述したく思います。自公2/3占有は、困りますし、その他の改憲勢力が増えるのもゴメンですので。

今回選挙に向けてのkazgの意見。
1今度の選挙の焦点は、憲法を守らないアベ自公政権と、その亜流=改憲勢力を厳しく審判するかどうか。
2小選挙区では、市民と立憲野党の共同を育て、自公・補完勢力を1議席でも減らすこと。
#比例は共産党
 


この間インタネット上で入手した情報を、とりあえず投票日前の今日の間に紹介させていただきます。














保守主義者を自認し大東亜戦争肯定論、改憲論を説く漫画家、評論家、小林よしのり氏も、こんなブログ記事を書いておられます。


わしは以前、投票するなら、一に立憲民主党、二に希望の党と言ったが、考えが変わった。
一に立憲民主党、二に共産党だ。
共産党は立憲民主党と選挙協力をして、自党の議席を減らすダメージを負いそうになっている。
これは良くない。
希望の党はもう見捨てよう。
一に立憲民主党、二に共産党だ。
それが仁義というものだ。

共産党は国会の開会式で天皇陛下の前に出席するようになったし、イラク戦争も反対したし、安保法制も反対したし、共謀罪も反対した。立派だ。
反グローバリズムも「保守」の思想だ。
一に立憲民主党、二に共産党が利口な投票コードだな。

立場は様々ですが、これらの方々の発言からも、いまの政治状況が浮き彫りにされる思いがします。

台風接近という悪条件のなかですが、アベ暴走という国難から身を守るためには、何をおいても選挙権の行使が

不可欠と思います。




最後に、下の動画、おすすめです。

とくに、政治に幻滅、失望を覚えておられる若い方々にも、ご紹介ください。
http://www.jcp.or.jp/hyh/
https://www.facebook.com/kyosanto/videos/750827315105404/
https://www.facebook.com/kyosanto/videos/1455253827922103/
取り急ぎ今日はこれにて。


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蓮田のシギ、の巻 [獺祭魚]

カワウソが、とらえた魚を岩に並べて祭りを行う故事に倣って、撮りためた作品を並べて一人楽しむコーナーです。

今日は、久しぶりに雨が上がりましたので、郷里の畑作業や庭木の剪定などをしてきました。せっかくの良い光がありましたが、カメラは使う機会がありませんでした。明日(今夜?)からまた雨のようです。
雨の日は、車の中から鳥を狙うという方法もあると、心を慰めています。
先日、M師からいただいたメールに、こんな情報がありました。
 昨年シマアジが居た水田にシギチがいました。
タカブ
タシギ
トウネン

これは?コアオアシシギのようです。 
 ぼつぼつシギチが藤田に来だしたようです。  

一昨日、雨の中、行ってみました。いくつかの種類のシギチを見たように思いますが、見分けがつきません。
レンズが飛沫で濡れるのが気になりますが、窓ガラスを開けて車の中から写します。
たぶんこれがタカブシギでしょうか?


  

10月の蓮田のタカブシギ(2017)
10月の蓮田のタカブシギ(2017) posted by (C)kazg 10月の蓮田のタカブシギ(2017)
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10月の蓮田のタカブシギ(2017) posted by (C)kazg 10月の蓮田のタカブシギ(2017)
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10月の蓮田のタカブシギ(2017) posted by (C)kazg 10月の蓮田のタカブシギ(2017)
10月の蓮田のタカブシギ(2017) posted by (C)kazg

これはサイズが小さいので、違う種類だとはわかります。
トウネンでしょうか?
10月の蓮田のトウネン(2017)
10月の蓮田のトウネン(2017) posted by (C)kazg 10月の蓮田のトウネン(2017)
10月の蓮田のトウネン(2017) posted by (C)kazg 10月の蓮田のトウネン(2017)
10月の蓮田のトウネン(2017) posted by (C)kazg 10月の蓮田のトウネン(2017)
10月の蓮田のトウネン(2017) posted by (C)kazg 10月の蓮田のトウネン(2017)
10月の蓮田のトウネン(2017) posted by (C)kazg

リテラのこの記事(2017.10.19)↓に共感します。少しだけ引用します。
中村文則「この選挙は決定的な岐路に」

中村文則が警鐘「この選挙は日本の決定的な岐路になる」このまま自公が圧勝すれば、安倍政権の横暴をすべて認めたことになってしまう
「ぜひ、あなたの声を聞かせてください」──テレビをつけると大量にオンエアされている自民党のCMでは、最後に安倍首相がこんな台詞を吐いている。よりにもよって自分に批判的な市民を「こんな人たち」と呼ぶあなたが言うか?と呆れ果ててしまうが、今回の選挙の争点は、とどのつまり「この男が総理大臣でいいのか」に尽きるだろう。
 そんななか、総理大臣としての安倍晋三という存在、そして「安倍現象」と呼ぶべき社会の変化についての鋭い論考が朝日新聞(10月6日朝刊)に掲載された。寄稿者は、『土の中の子供』で芥川賞を受賞し、今年8月発売で全体主義社会を描いた最新作『R帝国』(中央公論新社)も評判となっている作家の中村文則だ。
(中略)
 そもそも安倍首相は「こんな人たち」発言からも顕著なように、自分を批判する層のことはハナから相手にしていない。しかし中村は、現在の安倍首相は「中間層」に対しても説明なく押し通しても大丈夫だと高を括っているのではないかと見る。それは、あれだけ多くの国民が反対していた安保法制を強行的に可決した翌年の参院選で自民党が勝利した、あの成功体験がもとになっているのではないか、というのだ。
 しかし、そうやって見くびられた結果、今回の選挙で安倍自民党がまた勝てば、どうなってしまうのか。中村はこう綴る。
〈現政権が勝利すれば、私達はこれまでの政権の全ての政治手法を認めたことになる。政権は何でもできるようになる。あれほどのことをしても、倒れなかった政権ならすさまじい。友人を優遇しても何をしても、関係者が「記憶にない」を連発し証拠を破棄し続ければよい。国民はその手法を「よし」としたのだから。私達は安倍政権をというより、このような「政治手法」を信任したことを歴史に刻むことになる〉

私は、そのような「政治手法」を信任するつもりはありません。

 〈改憲のための様々な政治工作が溢れ、政府からの使者のようなコメンテーター達が今よりも乱立しテレビを席巻し、危機を煽る印象操作の中に私達の日常がおかれるように思えてならない。現状がさらに加速するのだとしたら、ネットの一部はより過激になり、さらにメディアは情けない者達から順番に委縮していき、多数の人々がそんな空気にうんざりし半径5メートルの幸福だけを見るようになって政治から距離を置けば、この国を動かすうねりは一部の熱狂的な者達に委ねられ、日本の社会の空気は未曽有の事態を迎える可能性がある〉
 この中村の予測は、確実に現実のものになるだろう。なぜなら実際にわたしたちは、もうすでにそのレールの上に安倍首相によって立たされているからだ。だが、中村はただ悲観するのではなく、だからこそわたしたちに訴えかける。選挙に行かなくてはならない、と。
〈この選挙は、日本の決定的な岐路になる。歴史には後戻りの効かなくなるポイントがあると言われるが、恐らく、それは今だと僕は思っている〉

痛切にそう思います。私も、期日前投票済ませました。
今日はこれにて。

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深山公園秋深し、の巻 [獺祭魚]

カワウソが、捕らえた魚を岩に並べて祭りを行う故事に倣って、撮りためた写真を並べて一人楽しむコーナーです。
先日散歩した深山公園、赤松池には、今年もカモたちが渡ってきていました。長旅お疲れさん。
ヒドリガモ。



オナガガモも飛来しています。
















この日、ここで、カワセミに出会ったことは書きました。



雨に濡れた豆柿。

キノコいろいろ。







まだ青い紅葉。

色づき始めた紅葉。




ドングリも色が濃くなってきました。

今日はこれまで。

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10月の深山公園のヤマガラ、の巻 [獺祭魚]

カワウソが捕らえた魚を岩に並べて祭りを行う故事に倣って、撮りためた写真を並べて一人楽しむコーナーです。
ところで、先日の◇秋たけなわの散歩道、の巻で話題にした対馬のカワウソは、採取したフンのDNA鑑定では、ニホンカワウソではなく、韓国南部などに棲息するユーラシアカワウソらしいとのこと。日本経済新聞web版(10/12付)の記事を引用します。

 対馬のカワウソ、韓国から漂着か ニホンカワウソ否定

環境省は12日、今年2月に国内では38年ぶりに生きた野生のカワウソが確認された長崎県・対馬で現地調査したところ、カワウソは韓国から海を越えて流れ着いた可能性が高いとの調査結果を発表した。専門家を派遣してフンなどを採取し、DNAを分析した。同省が絶滅宣言しているニホンカワウソである可能性をほぼ否定した。
同省は7~9月に2回に分けて対馬の川沿いなどを調査。計6個のフンから朝鮮半島や中国北部にすむユーラシアカワウソのDNAを検出した。高知県に残るニホンカワウソの標本のDNAと比べると、両者の特徴は異なっていた。

 6個のフンのうち5個からは同じDNAが見つかった。対馬にいるカワウソは1匹か、血縁がある数匹だとみている。

 ユーラシアカワウソが分布する韓国南部から対馬までは海を挟んで約50キロメートル。台風などで漂着物が対馬へ届くことも多い。韓国のカワウソが漂着物に乗って対馬へ渡り、住み着いた可能性が高いという。

 対馬のカワウソは琉球大のチームが設置したカメラが2月に1匹を捉え、環境省が調査に乗り出した。ニホンカワウソは明治時代まで日本に広く分布していたが、毛皮を狙う乱獲で激減。1979年に高知県須崎市で生きた姿が目撃されたのが最後とされ、同省は2012年に絶滅を宣言している。


今日は久しぶりに晴れましたが、何かと多様で、散歩もままならない一日でした。
先日(先週土曜日)、深山公園を散歩して出会ったヤマガラの画像を載せて、終わりにします。

10月の深山公園のヤマガラ
10月の深山公園のヤマガラ posted by (C)kazg 10月の深山公園のヤマガラ
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10月の深山公園のヤマガラ posted by (C)kazg
今日はここまで。

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秋の吉備路の歴史散歩、の巻(5)復元版(最終回) [折々散歩]

先週の吉備路への旅の記事の続きです(最終回)。

国分寺、国分尼寺の散策のついでに、その近くにある「こうもり塚古墳」も訪ねました。



全長100mの前方後円墳です。



総社観光ナビのこの記事に、紹介があります。

 こうもり塚古墳(こうもりづかこふん)
 吉備の大首長の墓と考えられる前方後円墳で、後円部には棺を納めた横穴式石室があります。
 この横穴式石室は、全長19.4mで巨大な石を組み合わせて造られており、岡山県下三大巨石墳の一つに数えられています。また、全国でも、確認されている横穴式石室の中では第4位の規模を誇ります。
 玉砂利を敷き詰めた石室には、井原市産出の貝殻石灰岩で造られた家形石棺、土を焼いて作った陶棺、そして木の棺が安置されていました。盗掘を受けていましたが、須恵器や土師器などの土器のほか、大刀や馬具をはじめとした鉄器などが多数出土しています
 この古墳は,かつて仁徳天皇に愛された吉備のくろひめの墓とされ、くろひめ塚古墳と呼ばれていました。しかし、この古墳が6世紀後半に造られたもので、仁徳天皇の時代とは100年以上も隔たりがあることから、名前の変更が考えられ、石室内にこうもりがたくさんいたことからこうもり塚古墳と改名されました。

ほとんど無数といえるほど、古代遺跡が吉備路のあちらこちらに横たわっています。もとより、すべてを訪ね尽くす訳にもいきませんので、次の見学地として、作山古墳(つくりやまこふん)と角力取山古墳(すもうとりやまこふん)を、車で案内していただきました。

作山古墳については、総社観光ナビの紹介を引用します。

 作山古墳(つくりやまこふん)
 作山古墳は、全国第10位、岡山県下第2位の規模を誇る前方後円墳で、岡山市の造山古墳(全国第4位、岡山県下最大)に次いで、5世紀中ごろに築造されたものです。
 丘陵を三段に整形加工した斜面と平らな面からなる墳丘は、現在草と木で覆われ一見山にしか見えませんが、築造当時は平らな面に5千本以上もの埴輪(はにわ)が立て並べられ、斜面には石が敷き詰められていました。
 自然の景観の中にある巨大なモニュメントは、吉備の大首長の権力を誇示したものと思われます。
 しかしながら、作山古墳は畿内の大王墓と異なり、後円部は正円ではなくだ円形で、前方部も台形状の突出がみられるなど、不整な形態をしています。また、前方部の前面には丘陵の一部が、取り除かれないまま残されていることから、作山古墳に葬られた吉備の首長は、畿内の大王ほど、古墳築造にかける余力がなかったのではないでしょうか。
 造山・作山の両古墳は天皇の墓とされていないため、中に立ち入ることができる最大の古墳です。作山古墳は12月に下草刈りをするため、このころは古墳の形がよくわかります。

角力取山古墳(すもうとりやまこふん)とは、面白いネーミングです。

これまた総社観光ナビから引用です。

 角力取山古墳(すもうとりやまこふん)
 旧山陽道を北にのぞむ低丘陵上に築かれた古墳で、吉備では最大級の方墳です。
 墳丘の外表構造については、斜面を覆う葺石(ふきいし)や、段の有無も明らかではありませんが、墳丘に立てられた埴輪(はにわ)が少量ながら採集されています。埴輪の形状から、5世紀後半に造られた古墳と考えられますが、内部の埋葬施設の構造については、まったく明らかになっていません。
 戦前は、古墳の西側に土俵を設け、御崎宮の祭りの際に奉納相撲が行なわれていたことから、「角力取山古墳」と呼ばれているようです。なお、この古墳の上には、県指定天然記念物の樹齢約450年を経たクロマツが枝を大きく広げています

このクロマツについて、ウィキペディアにはこうあります。、

 天然記念物
  • 角力取山の大松
    角力取山古墳の墳丘上に生育するクロマツ。樹高18メートル、目通り周囲5.4メートルを測る。樹齢は約450年と推定される。戦前にはさらに数本の老松があったというが、現在は1本を残すのみとなっている。1972年(昭和47年)12月9日指定[4

こんな巨大な松、見たことがありません。







帰り道の車窓から見る五重塔。名残は尽きません。



秋の吉備路散歩、消失記事の復元はここまでとします。



氷雨のような雨が続き、冬支度が間に合いません。(特に気持ちの上で)

土曜日の朝は、中学生の部活動で、隣の市に車で送るように頼まれて、その帰り、雨が少し上がっているようなので。深山公園を歩きました。

すると、いろいろな鳥に会いました。そのご報告は、会を改めるとして、今日は予告編。



そのまま保育園に向かい、運動会を参観しました。

先週は大阪の孫も運動会だったようですが、写真を送ってもらって満足しておきます。



こちらの二歳児(もうすぐ三歳)は、お遊戯の途中で機嫌を壊したのか、身じろぎ一つしなくなってみたり、



ママと一緒の親子競技で、上機嫌で三輪車を走らせたり、、、



なかなか楽しませてくれました。

この競技の途中から小雨が降り始め、終わった頃にはかなりの本降りになりました。自転車で来ていましたから、途中で引き揚げましたが、濡れました。

それ以来、ずっと冷たい会い目が降り続いています。昨日は郷里に帰りましたが、畑仕事などできるコンディションではありませんでした。

今日は仕事日ですが、さすがに上着を着用しないと寒いです。

秋と言うより初冬の気配です。皆様、お風邪など召しませぬよう、お達者で、、、、。

今日はこれにて。

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秋の吉備路の歴史散歩、の巻(4)復元版 [折々散歩]

昨日、ほとんど仕上がっていたのに、何の弾みか、すっかり消失してしまった記事の復元を試みることにします。

木曜日から降り始めた雨の影響で、ぐっと冷え込み、昨日は終日20度弱、今日も20度そこそこの気温。上着が手放せない寒さでした。数日前の30℃前後という陽気がウソのようです。
先日の、吉備路散策も、まさにその暑さの中、汗をかきながら歩いたことでした。
造山古墳を見学後昼食を摂り、次に向かったのは備中国分寺、国分尼寺のエリア。当ブログでも過去に何度も訪ねた場所です。
◇新緑の五重塔、の巻
◇重ね来し久遠の刻や秋の塔
◇備中国分寺で青い鳥を見た
◇足守の先は吉備路の紅葉かな
◇ハッチョウトンボの他にも
◇六月の花 紫陽花 総集編
◇猿沢の池かとまがう水田(みずた)かな
◇仏塔に寒の戻りの晴れ間かな
◇春まだき鄙路ゆけば何処やらん古人のさざめく聞こゆ
一部引用します。。
 今日はちょいと足を伸ばして、万葉の昔に思いをはせ、「吉備路風土記の丘」周辺の、備中国分寺五重塔、備中国分尼寺跡などをぐるりと散策してみました。

 春まだき鄙路(ひなみち)ゆけば何処(いづこ)やらん古人(いにしえびと)のさざめく聞こゆ

万葉集の話題ですので、今日は短歌で迫ってみました。お粗末。
この五重塔は、天平13年(741)の聖武天皇の勅願を機に、8世紀後半に創建されたものが、鎌倉時代末期または南北朝時代の初め頃、兵火または落雷による火災で焼失。その後江戸時代になって宝永7年(1710)に日照山国分寺として再興されたそうです。 (◇春まだき鄙路ゆけば何処やらん古人のさざめく聞こゆ)


奈良時代に建立されたのは七重塔だったそうですが、江戸時代に五重塔として再建され、現在、岡山県内唯一の五重塔として残っています。







手前に広がる田圃には、赤っぽい穂の稲が、穂を垂れています。赤米と呼ばれる古代米のようです。
そう言えば、赤米についても、重ね来し久遠の刻や秋の塔の記事で触れていました。
 赤米は、紀元前以来、日本各地で、長い栽培の歴史を持ちながら、白米に淘汰されて、「下等米」として扱われてきたようです。しかし、病害虫に強く、低肥でもよく育つ上に、ビタミン、ミネラル、ポリフェノール、食物繊維が豊富であることが、最近注目され、美容・健康の上から関心を集めています。
赤米は、赤飯のルーツともいわれ、神聖な米とされてきたようです。長崎県対馬市の多久頭魂神社、鹿児島県種子島の宝満神社と並んで、総社市の国司神社では、今日まで、神饌米として赤米の栽培が続けられてきたそうです。 

この田んぼの赤米は、「総社赤米大使」の歌手・相川七瀬さんが、市内の親子と共に田植えイベントで植えた苗が育ったものなのですね。

た。(後略)

今年のイベント記事はこちら↓
https://faavo.jp/okayama/project/2088

チューターのSさんによると、ずっと以前は、塔にもっと自由に近づくことができ、直接手で触ることもできたそうです。そして、当内部に入ることもでき、階段で塔の上の階へものぼれたと言います。それが、落書きなど見物客のマナーの悪さのせいで、現在では立ち入り禁止の柵がめぐらしてあり、やや興ざめな感は否めません。

塔頂までの高さは、34・3メートル。

塔を見あげると、初層の頭貫の上に、十二支の禽獣彫刻がはめ込まれているのが目につきます。
寅。



辰。

己は、別の面にありますが、床下に目をおとすと、こんなものが、、、。

最初は抜け殻かと思ったのですが、抜け殻にしては色が違うと口々に言いながら、じっと目をこらして観察しますが、身動きする様子がありません。死んでるのかナ???などと思案しているうち、「脱皮中では?」と誰かが推理し、なるほどと納得した次第でした。余りに暑いので、蛇も上着を脱ぎ棄てたのですかね。
本堂。

大師堂。


続いて国分尼寺跡へ、徒歩で向かいます。

コスモスが見事に群生しています。





ウィキペディアにはこう紹介されています。
 国分寺の東方に位置する。寺域は東西108メートル・南北216メートル。南北朝時代の戦火で焼失したとされるが、多くの礎石・遺構が残っている。
伽藍は以下に示すもの(南から)で、南北の軸上に配置されている。
南門 - 小規模な3間1戸。
中門 - 礎石が見られず、詳細は不明。
金堂 - 良好な状態をとどめている。桁行5間・梁間4間。
講堂
尼坊または食堂
かつて尼僧が修行に励んだ広大な敷地が、今は蕭蕭とした松林の中にひっそりとしたたたずまいを見せており、久遠の時のながれを偲ばせます。
元の記事は、まだ続くのですが、今日の復元はここまでとします。

ところで、今朝は、久々に心に快哉を叫んだニュースがありました。朝日新聞DEGITALの記事から一部引用します。
 「九条守れ」俳句訴訟、掲載拒否は「不公正」 
地裁判決集団的自衛権の行使容認に反対するデモについて詠んだ俳句を「公民館だより」に掲載することを拒まれたのは、憲法が保障する表現の自由などに反するとして、作者のさいたま市の女性(77)が、公民館を所管する市に慰謝料を求めた訴訟の判決が13日、さいたま地裁で言い渡された。大野和明裁判長は公民館側が「思想や信条を理由として掲載しないという不公正な扱いをした」などとして原告の訴えを一部認め、市に5万円の支払いを命じた。
「一方で、表現の自由を侵害されたとの原告側主張については「公民館だよりという特定の表現手段を制限されたにすぎない」として退け、句の掲載請求も認めなかった。」などの限界はあるものの、原告勝訴は揺るぎません。
この「事件」については、↓こんな記事で話題にしたことがありました。
◇いざ子ども九条危篤夏椿
◇蜂あれこれ
後者から少し引用します。
 埼玉県のある公民館で活動する俳句サークルは、毎月、会員互選の1句を「公民館だより」に掲載してきましたが、7月号に掲載予定だった会員の互選句が、「偏った意見」だとして掲載を拒否された事件があったそうです。
70代の女性の句で、
梅雨空に『九条守れ』の女性デモ
というもの。
msn産経ニュースによると、概要は次のようです。
 
「憲法9条守れ」の俳句、掲載見送る さいたま市公民館「一方に偏った意見、ふさわしくない」  2014.7.4 12:51
さいたま市大宮区の三橋公民館が発行する月報に、俳句サークルが「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という市民の句を掲載しようとして館側が掲載を見送っていたことが4日、分かった。市は「掲載すると公民館や市の考え方だと誤解される可能性があり、判断は妥当」としている。
公民館を管轄するさいたま市生涯学習総合センターなどによると、三橋公民館は毎月、「三橋公民館だより」を発行。俳句欄があり同館で活動する俳句サークルが掲載する句を決めていた。6月24日、サークルが7月号用として女性が詠んだ9条の句を選び掲載を依頼、公民館側とセンターは相談の上、掲載を断った。
センターの小川栄一副館長は「公民館は政治的に偏った特定の事業を行ってはならないと法律で定められている。集団的自衛権をめぐる句と受け取られる可能性もあり、世論が大きく二つに別れるような問題で、一方に偏った意見を載せるのはふさわしくないと考えた」と話している。
この問題に触れて、「埼玉新聞」8月17日付けweb版が、「九条守れの俳句掲載拒否 俳人・金子兜太さん『文化的に貧しい』」という表題の記事を掲載しています。
その一部を引用します。 
金子さんは旧制水戸高時代の18歳の時に俳句を始め、俳句歴は今年で77年に及ぶ。加藤楸邨氏に師事し、戦後は社会に生きる人間を詠む「社会性のある俳句」を唱え、「社会性俳句の旗手」と呼ばれた。
 「それまでは、俳句は花鳥風月を詠むものという高浜虚子の影響力が強かった。それに対して、昭和初期の新興俳句運動や戦後になって私や仲間たちは『自然とともに社会に生きる人間を詠みたい』と主張した。今では自然そして社会に生きる人間を詠み取ろうとするのは、俳句の世界では当たり前になった。今回の句もそういう自由な気持ちの中で詠んだ句で、このような句は毎日、どこかで作られている」
 今回の俳句掲載拒否の問題を戦前の治安維持法による新興俳句運動弾圧と重ねる見方もあるが、金子さんは今回の方が根深い問題を含んでいると言う。
 「新興俳句運動の『現実を俳句に書く』とするリアリズムが危険視された。だから取り締まりは、新興俳句系の俳誌だったり運動を担っていた人たちで、俳句を詠む一般の人たちにはそれほど影響がなかった。今回は一庶民の一つの句をやり玉に挙げて大げさな問題にした。こんな拡大解釈のようなことが、お役人だけでなく社会で行われるようになったら、『この句は政府に反対する句だから駄目』などと、一つ一つの句がつぶされる事態になりかねない。有名な俳人だけでなく、一般の人たちも萎縮して俳句を作らなくなる。俳句を作る人の日常を脅かすもので、スケールは小さいが根深い問題だ」と警告する。
■新興俳句運動
 高浜虚子の弟子の水原秋桜子(しゅうおうし)が1931年ごろ始めた文芸運動。水原は自然だけでなく、人間の胸のうちや生活の事実を詠むことを主張した。主張に多くの俳人が共感し運動は広がっていった。この運動から、加藤楸邨(しゅうそん)、中村草田男(くさたお)ら有力な俳人が輩出した。純粋な文芸運動だったが、治安維持法によって、40年に「京大俳句」、41年に金子さんが投句していた「土上(どじょう)」など有力俳誌が弾圧され、新興俳句運動は壊滅する。
 
私は、以前、この記事で、リボンプロジェクトの「せんそうのつくりかた」という絵本に触れたことがありました。(中略)
このサイトこのサイトこのサイトで実物を見ることができましたので、ご紹介させていただきます。
その 中にはこんな文章が出てきます。
 
戦争のことは、ほんの何人かの政府の人達で決めていい、というきまりを作ります。
ほかの人には、「戦争することにしたよ」と言います。時間がなければ、あとで。
政府が戦争するとか、戦争するかもしれないと決めると、テレビや新聞やラジオは、政府が発表したとおりのことを言うようになります。
政府につごうのわるいことは言わない、という決まりも作ります。
みんなで、ふだんから、戦争のときのための練習をします。
なんかへんだな、と思っても、「どうして?」と聞けません。
聞けるような感じじゃありません。
 
公民館の職員のような、住民と直に接し、その文化的要求に具体的に応えることを職務とするような役目の人までが、ヒラメのように上ばかり向いて、「お上の意向」を先取りしてそれを具現することを第一義に考えるような空気が、世の中全体に広がっていくことが、この絵本の危惧した一情景ではなかったでしょうか?
 仮に、国民の間に意見の相違があって、よしんば、それがマイノリティ(少数派)に属するものであったとしても、各人の信念によってそれを心に抱き、また表明することは、かりそめにも民主主義の社会においてはなんびとも妨げられることのない、基本的な権利です。ましてや、俳句を含めて文学や芸術の表現を、「思想」や「意見」というフィルターを通して評価する事自体、芸術・文化のなんたるかを知らない粗野なふるまいと言わざるを得ませんし、その『思想』に難癖をつけて排除するなどは、暗黒時代の再来と言うべきでしょうか?しかも、問題の俳句に詠みこまれているのは、作者自身の意見というよりは、世の中の実際の「現象」、見過ごしがたい「世相」として確実に存在する実景に他なりません。 
 作者が、「女性デモ」を題材とした時点ですでに、それに共感しているかも知れないから、そこには暗黙裏に作者の意見が表明されているという強弁を労したとしても、それは、偏った意見とは言えないでしょう。
先ほど私は、「マイノリティ(少数派)に属するものであったとしても」と書きましたが、このニュースの場合は、少数派どころか、ほかなかならぬ「九条守れ」という国民多数の「意見」です。今年の実施されたどの種の世論調査でも、九条改訂反対が賛成を上回り、その差は開く傾向にあります。自前の改憲案まで掲げて世論喚起をはかってきた『読売新聞』でさえ、その世論調査(2014年3月15日)の結果は、こんな具合です。
Q、憲法9条は改正した方がよいと思いますか
   思う  30%     思わない 60%    その他 10%
9条第1項「戦争の放棄」については
  思う 17%    思わない  76%     その他6%
9条第2項「戦力の不保持」については   
  思う 39%    思わない  52%    その他 9%
こうした状況を踏まえれば、「九条守れ」を、偏った意見と言ってのけること自体、きわめて偏った意見ではないでしょうか?
ましてや、立憲主義のもとでは、憲法は、国家権力に縛りをかけ、国家権力の濫用を防止して国民の自由と権利を保障するために存在するものです。ですから、「九条」に限らず、行政なり公務員は、憲法を遵守することを義務づけられているのですし、公務員はみんな、憲法遵守を誓約・宣誓して任に就いたはずではないですか?
そのような大前提を足もとから掘り崩して、憲法を擁護する「意見」が時の政府の意向に沿わないからといって「偏っている」と断じていく空気は、なんかへんです。
なんかへんだな、と思っても、「どうして?」と聞けません。聞けるような感じじゃありません。---こんな事が重なっていくと、、、怖い怖い。
今日はこれにて。

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9条改憲勢力が議席を占有?困ります、の巻 [時事]

今日書いていた記事がまたまた消滅してしまい、ショックで立ち直れません。
気力を振り絞って、一部分だけ復元の努力をしてみます。



昨日の共同通信社世論調査によると、自公300議席超ですと?
「希望」も、改憲を明言していますから、この「二極」とその周辺をどう組み合わせても結局は「改憲」「財界・資産家とアメリカファースト」の勢力が国会を席巻することになる?御免こうむりたいものです。
諦めずに必ず選挙に行って、一票を行使したいもの。
ユーチューブで最近話題になっていて、今の時点で改めて必見と痛感した動画を、遅ればせながら紹介しようと思ったら、削除されて見られなくなっていました。
どうやらこんな事情らしいです。
日本経済新聞web版10/6付
を引用します。

 公益財団法人「明るい選挙推進協会」と総務省が共同製作した投票啓発動画「希望の党☆」が5日までに、動画投稿サイト「ユーチューブ」から削除された。小池百合子東京都知事が立ち上げた新党と同じ名称のため、ネット上で注目されたが、公正な選挙を啓発している協会が特定政党への見解を表明したと誤解される可能性があるとして削除を求めていた。

 動画は「ガメラ」シリーズなどで知られる金子修介さんが監督。小池氏の新党と同じ名前の架空の政党が政権を奪取し、世の中が変容する様子を描いている。協会が2005年に公開し、いったん終了したが、12年に金子さんが投稿していた。

 今年9月25日の新党名公表後にネット上で話題となり、動画へのアクセス数が急増。協会は同29日に削除を求め、10月5日未明に、ユーチューブ側から削除したとの連絡があったという。
 協会は「選挙啓発としては非常に効果的な作品だったが、架空の党が現実になり、誤解を招く恐れがある」としている。〔共同〕



削除された投票啓発動画「希望の党☆」の内容を、日刊ゲンダイのこの記事がまとめてくれていましたので、念のためにメモしておきます。

 「今、映画撮影のため中国に来ているんですけど、日本のニュースを見てビックリしました。12年前に僕が作ったショートムービーを日本の政界が後追いしてるみたいなんだもの」
 こう言うのは「ガメラ」シリーズや「デスノート」などで知られ、最新作「リンキング・ラブ」の公開を控えている映画監督の金子修介氏だ。
 前述のショートムービーとは、総務省と財団法人「明るい選挙推進協会」の依頼で金子監督が作った20分間の短編映画「希望の党☆」のこと。物語はこうだ。
 主人公はごく平凡なサラリーマン。翌日に国政選挙を控え、“大事な選挙だから”と娘から投票を勧められるが、どうせ誰に投票しても世の中変わらないと棄権してしまう。
 ところが、選挙の結果、過半数を獲得して政権を握ったのが「希望の党」なる政党。誰も注目していなかったのに、若者世代の圧倒的な支持を得て、次々と斬新な改革に着手していく。動物虐待に重罰、痴漢は死刑。3年間、選挙に行かなかった国民からは選挙権を剥奪、その代わり、選挙権を高校生にまで引き下げる……。「冤罪というリスクを冒しても犯罪者を許さない」と勇ましい党首に熱狂していた国民だが、次第にエスカレート。ある日、徴兵令が敷かれ、娘も戦場に……。
「政治に無関心だとこうなりますよ。みんなで選挙に行きましょう」というメッセージが込められた作品だが、まさに今の日本の状況にそっくり。
「12年前は『戦争反対! 日本は戦争しないって決めたんだ』という父親の絶叫も不偏不党のセリフとしてごく当たり前に使われていましたし、ムービーを見た官僚も笑って喜んでいましたが、今や“戦争反対”は“反日”のレッテルを貼られかねない時代ですからね」(金子監督)

「政治に無関心だとこうなりますよ。みんなで選挙に行きましょう」
改めて肝に銘じたいものですね。

今日の記事の大部分は、吉備路散策の続きで、備中国分寺、国分尼寺を中心とするエリアの見学記でした。これを、もう一度記憶を掘り起こして復旧する気力はありません。

カリフォルニア州の火事。被害者のブドウ農家の方が茫然自失する姿が報道されていました。いたわしいことです。それと同一視するのは気が引けますが、喪失感は並大抵ではありません。



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秋の吉備路の歴史散歩、の巻(3) [折々散歩]

連続記事の続きです。
吉備津神社→鯉喰神社の次に、チューターのSさんが案内してくださったのは、楯築(たてつき)遺跡です。なお、移動にはSさんのワゴン車を使い、運転も一切Sさん任せ。至れり尽くせりです。
公式観光サイト「倉敷観光web」のHP中の楯築神社の記事の紹介文を引用します。

 倉敷市域北東の岡山市と境を接するあたりに広がる王墓山丘陵の北端、楯築神社の境内を中心とする弥生時代後期の墳丘墓です。
自然地形を利用し盛り土を行って整えられて墳丘の規模は、現在知られている弥生時代の墳丘墓としては最大級です。円丘部は径約50m、高さ5m。墳丘頂部には5個の巨石が立っており、墳丘斜面には円礫帯がめぐっています。
岡山大学考古学研究室による発掘調査の結果、朱の敷き詰められた棺とそれを納めた木製の槨の痕跡が発見され、鉄剣と大量のガラス小玉、土製の勾玉などもみつかりました。弥生時代から古墳時代にかけての社会の変化を研究するうえで、触れずにすますことのできない全国的にも重要な遺跡のひとつです。

この近辺には多くの古墳や墳墓が存在しますが、この楯築遺跡は、弥生時代のものだと言いますから、大変古いものだそうです。



厳重に鍵のかかった保管庫があります。

怪しい男?がのぞき込んでいます(笑)

中に安置されているのはこれ。「弧帯文様」が刻まれた石です。

ウィキペディアの記事にこうあります。

 墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれる。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれている。ここにも吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっている。

「主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分だけでも高さ・幅とも1メートルあまりで20個ほどの列石がめぐらされ」(ウィキペディア)、ストーンヘンジさながらに古代史の謎への興味をかき立てます。

次なる見学地は、造山古墳(つくりやまこふん)。

吉備路には、「つくりやまこふん」と呼ばれる古墳が、「造山」と「作山」の二つあります。いずれもチョー有名な古墳ですが、名前を知るだけで訪ねたことがありませんでした。

岡山旅ネットというサイトに造山古墳のページがあります。

記事を少々引用します。

全国第4位の規模をも持つ5世紀前半の前方後円墳。
全長約360m、後円部径約224m、高さ約27~32.5m。
三段築成。後円部墳頂には形象埴輪が、墳丘斜面の各段には大量の葺石と円筒埴輪列が認められる。
墳丘上まで上がれる全国最大の前方後円墳として知られる。6基の陪塚(ばいづか)があり、馬形帯鈎が出土した榊山古墳、直弧文が彫られた石障をもつ千足古墳が著名。
(第1・2・3・4・5・6古墳)


また、岡山市のHPの中に、「埋もれた歴史再発見」というコーナーがあり、「史跡造山古墳」というページがあります。一部引用します。

全国第4位の規模は、この古墳の築造時には最大規模であったと考えられます。第1位の大山古墳(伝仁徳天皇陵=全長486m)と第2位の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵=全長425m)とは、造山古墳より後の時期であり、第3位の石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵=全長365m)が同時期でほぼ同規模ですので、従来の全国最大規模の渋谷向山古墳(伝景行天皇陵=全長300m)を、大きく更新した最大規模観で出現していたと評価されます。

駐車場に車を駐めると、その広場のあたりに男の方がおられて、「ボランティアガイドですが、ご案内しましょうか?」と声をかけてこられます。わがチューターのSさんは、ちょっと思案して、即座に「お願いしましょうか」ということになりました。
説明の合間合間に、一行の面々がいろいろと細かい質問をはさみ、ボランティアガイドさんも興に乗っていろいろと話してくださるという具合で、ちょっとしたアカデミックな、プチブラタモリのような楽しい時間があっという間に過ぎました。


6基の陪塚(ばいづか)のうち、榊山古墳から出土した、馬形帯鈎のレプリカにも触らせてもらいました。馬の姿をデザインしたオシャレなベルト用のバックルです青銅製だそうで、当時日本には青銅鋳造技術はなかったそうで、朝鮮半島から伝わったものだそうです。

倉敷考古館のhpのこの記事には、こうあります。

  
ただし日本国内での出土例は、僅かに2遺跡に過ぎない。これと同類の物は、全て朝鮮半島の遺跡出土品なのである。
 考古館蔵品は、既に半世紀近くも前の収蔵品であるが、当時より朝鮮半島での出土品という認識であった。しかし日本の古墳時代遺物の中に展示するには、岡山県・吉備国であるからこそ意味があるからだった。
 日本出土遺跡が2例しかないといったが、その1例は今から百年ばかり前の出土例。現在は岡山市となっている、備中の加茂新庄にある巨大前方後円墳・造山古墳(長径360m)の正面に位置している、円墳・榊山古墳(径35m)からの出土で、今は宮内庁蔵品である。2001年に長野市浅川端遺跡から1点発見されるまでは、長く吉備の国の出土例が、日本で唯一のものであった。 


広場にはこれまた陪塚の一つ、千足古墳から出土した石障の復刻オブジェが飾られています。この石障に刻まれている模様が直弧文で、楯築遺跡の弧帯文との意匠的類似性が、興味をそそります。





駐車場広場から、造山古墳の全景望みます。予想を遙かに超える巨大さです。
巨大な前方後円墳の、右の小高い丘が円墳部分、左が方墳部分です。

下の航空写真はウィキペディア所載の画像をお借りします。

民家との比較で大きさがわかります。
Tsukuriyama Kofun, Okayama air.jpg

いよいよ、古墳の上を散策します。

仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵などと伝えられる他の巨大前方後円墳は、宮内庁に管轄されるため管理が厳しく、それを足で踏みつけるなど、恐れ多くて許されません。「実際に登ることのできる最大の古墳』なかなかのインパクトではありませんか。





古代キノコ?




古墳の頂から見下ろす田園風景です。

豊かな穀倉地帯が広がります。


他の田圃が碁盤状に区画整理されているのに、この正面下方に、いびつな形のエリアがあります。

どうやら、いつの時代か古墳が削られて、その跡が農地にされてしまったもののようです。


今日はこれにて。

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秋の吉備路の歴史散歩、の巻(2) [折々散歩]

昨日の吉備路散策の記事の続きです。
一昨日、故旧の面々とともに訪ねたのは、備中国一宮である吉備津神社で、吉備の中山の北西麓に北面しています。。同じ吉備の中山の、北東麓にある吉備津彦神社は、備前国一宮であり、両社とも、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祭神としています。その吉備津彦命に退治された鬼=温羅にまつわる伝説を、今日は話題に取り上げてみます。
現職時代、私も所属していた岡山高生研(全国高校生活指導研究会岡山支部)のHP(現在は閉鎖中)に、こんな記事がありました。温羅に関する記事を一部引用させて戴きます。

温羅太鼓(ダイジェスト)目次

1990年岡山・倉敷市で開かれた高生研第28回全国大会で,現地実行委員会が発行した情宣紙の題名が「温羅太鼓」。
「さりげなく,だが力強く」を現地スローガンに掲げ,明るく楽しいトーンを大切にとりくんだ全国大会が,岡山高生研に残した財産は何だったか?あらためて確認してみたいものです。
なお「温羅」は「うら」と読み,古代吉備の伝説上の人物。近年岡山県では,町おこしの一環として,この「温羅伝説」にスポットライトをあて,「市民参加型のまつり」として「うらじゃ」祭りが盛大に取り組まれています。
このまつりが始まったのが,1994年だそうですから,岡山高生研の「温羅太鼓」のほうが,4~5年も先輩ということになります。自慢するわけではないですが...。(2007年9月記)
No 発行年月日 主な記事
1 1989/8/2 20年ぶりの開催 来年は岡山で会いましょう 現地実行委員長の言葉

アンチ桃太郎 
温羅太鼓とは?

この情宣紙「温羅太鼓」は,岡山に伝わる温羅(うら)伝説にちなんでいる。
岡山というと「桃太郎」が思い起こされるが、温羅伝説によると桃太郎の原型は吉備の国を侵略した大和政権の吉備津彦である。「温羅」とは吉備の国の王、百済から渡来し国を豊かに拓き、乞われて王となった。
凄惨な戦いの末ついに温羅は斬首されるが,その怒りの咆哮はいつまでも続き、民人の嘆きの号泣を誘ったという。今に伝わる吉備津神社の御釜殿での鳴釜の神事をはじめたのも、この亡国の人々ではなかったのだろうか。
そして私たちも「現代の温羅」なのである。

2 1989/8/2 ようこそ岡山へ

吉備の王 温羅を探る
鯉に姿を変えて吉備津彦と戦ったが

 昔温羅(うら)という大男が百済から渡ってきて吉備の国の「鬼の城」の山頂に城を築いた。温羅は新しい学問を広め平野を耕し水路をひらき山を拓いて鉄をつくり生産は豊かに国力は大いにふるった。女子供までが敬い慕い温羅は選ばれて吉備の王となった。

侵略軍がやってくる

 一方天皇家を長とする大和政権はその頃日本全土を平定しようとしており台頭する吉備の国を討つため兵をすすめてきた。彼らは自らを吉備津彦と名乗り温羅を鬼と呼んで八方に流言を飛ばした。
 侵略軍は中山に陣を張って進軍し温羅の軍勢は鬼の城で迎え撃った。吉備津彦が矢を放つと温羅は石を投げ矢と石は空中で火花を散らし戦いはいつ果てるともしれなかった。
 この時の故事によってできた「矢喰神社」というお宮がいまだに残っておりちょうど鬼の城と吉備津彦神社の中間に建てられている。

血に染まりながら

戦いにそろそろ疲れが見え始めた頃吉備津彦が2本の矢を射たところ一本は温羅の投げた石にあたりもう一本は温羅の目を射止めた。温羅は傷つき鯉に姿を変えて血に染まった川を下った。今ではこの川を血吸川と呼び下流の地方に赤浜という地名を残している。

首を食いちぎられた

 吉備津彦は鵜に姿を変えて鯉を追い詰め温羅はとうとう首を食いちぎられた。この時のことを物語るように「鯉喰神社」というお宮がある。
温羅の首は首村の刑場にさらされたがなおもカッと目をむき真っ赤な口をあけて怒りの咆哮を続けた。その声は野越え山越え国を失った民人の嘆きの号泣をさそって幾日幾夜もとどろきわたったということである。

鳴釜で吉凶を占う 
温羅の怒りの声が聞こえる

吉備津神社には古くから「吉凶占い」として有名な大釜がある。この吉凶占いは神主がご祈祷している間に巫女さんが大釜に火を入れて炊き大釜が熱くなってきて鳴り出すとそれは『よい運勢だ」というふうに行われるこれは「鳴釜神事」と呼ばれ,神のご託宣を受ける儀式とされている。

大釜の底に首が

昔吉備の国を征服するため吉備津彦が調停から派遣されこの地方を支配していた温羅との戦いに勝ちその首をはねた。温羅の首はさらし者にされたが何年もほえ続けた。そこで吉備津彦は温羅の首を大釜の底に埋葬することにした首はそれにもかかわらず13年もの間その地方の至る所に響くほどほえ続けた。

夢の中に温羅が

ある夜吉備津彦の夢の中に温羅が現われこういった。
「私の妻,阿曽姫にこの釜で米を炊くように伝えてください。そうすれば私は吉凶占いをして見せます。あなたはこの後神様におなりください。私はあなたの下僕となりましょう。」
 吉備津彦はこの後吉備津神社の主神として祭られておりその裏には温羅の魂を鎮めるための「お釜様」がある。

以下略

「温羅太鼓」と名付けられたこの情宣紙は、1990年8月2日までに34号が発行されています。私も、当時、情宣係の一員として、この発行のお手伝いをし、大会期間中は会場となっていたホテルの一室にとまりこんで早朝から深夜まで、一日数回発行の速報の編集に携わったことが思い出されます。また、現地実行委員会が提供する文化行事として、「温羅」とその一族に焦点を当てた群読劇にも取り組み、私も演者の末席を汚したものでした。このとりくみの中心を担ってくれたのが、当ブログでも何度か紹介済みの畏友H氏でした。その彼は、早々と文字通りの「鬼籍」に入ってしまわれました。また、現地実行委員長を勤めてくださったYさんは、この行事を「花道」としてこの年退職されましたが、ほど経ずして逝去され、またほぼ時を同じくして、敬愛するM先輩も旅立たれました。
思えば、1990年の頃は、岡山の民主的高校教育運動・文化運動が、最も輝いていた時期、従って私自身にとっても、最も幸せなりし日々であったと言えるかも知れません。
とともに、感慨深いのは、先日岡山でひらかれたの全国教育研究集会=教育のつどい」を、縁の下で支えた退職者や年配の現職者の多くが、やはり、1990年の『全国大会』を支えた現地実行委員会のメンバーと重なっていることです。



ところで、温羅の話題は、更にさかのぼります。
以前書いたこの記事から関連部分を、一部引用します。
◇昨日の「今日の暦」---「パパママバイバイ」のこと

  この事件(注:横浜米軍ジェット機墜落事件)を題材に、以前私が勤めていた高校の演劇部が、創作劇として演じたことがありました。手元の資料を探ってみると、1982年のことでした。「ハトポッポのうた」という題名で、中国大会にまで出場しています。墜落事故によって大やけどを負い、ついには息を引き取った林裕一郎君(当時3歳)がいまわの際に残した言葉が「パパママバイバイ」でしたし、弟の康弘ちゃん(当時1歳)も、「ハトポッポ」の歌を口ずさみながらあと追うようにして亡くなったのでした。「ハトポッポのうた」は、このエピソードに基づいてつけられた題名でした。
私は、当時事情により学校を離れていましたので、直接はこの演劇を観ることはできなかったのですが、手元には「鬼から鬼へ」と題する玉野高校演劇部創作脚本集(玉野高校演劇部OB会発行)という冊子がありましたので、改めてひもといてみました。若者の感受性と正義感の確かさに、深く励まされる思いがします。
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なお、冊子の「鬼から鬼へ」という標題は1979年の中国大会で優勝し、1980年の全国大会に出場した作品「鬼よさらば」と、1988年の中国大会で優勝し、1989年の全国大会に出場した作品「温羅のうら」にちなんだネーミングなのでしょう。後者は、古代吉備の国「鬼の城(きのじょう)」を本拠地とする鬼=温羅の伝説に題材を採り、平和に暮らしていた吉備王国の心優しい王が温羅(うら)であり、彼らを暴力によって滅ぼした大和朝廷の、歴史の偽造により、後に鬼に仕立て上げられたのではと問うのです。
最近、町おこしの一環として、岡山県をあげたイベントとして賑やかに取り組まれる「うらじゃ祭り」などが、まだ始まる前のことで、整備される前の荒れ山だった「鬼の城」にも登って取材したと、当事者から聞いたことでした。 

今回の吉備路散策では、温羅の根城と伝えられる鬼の城(きのじょう)も、最後の見学地として訪ねる計画でした。でも、一つ一つの見学地での滞在時間がそれぞれ長引き、今回は残念ながら割愛となりました。
造山古墳から眺めた山の山頂にぼんやり見えるのが、鬼ノ城ではないでしょうか?

トリミングしてみると、復元された城門らしきものが見えます。

チューターのSさんによるレジュメでは、こうあります。

鬼ノ城 (標高約400m)、 朝鮮式山城、 石垣・列石・水門・土塁などあり
斉明天皇・・・白村江の戦い(663年)で百済を援助するも唐と新羅の連合軍に敗退

ただ、この山城については、書物への記述が一切なく、未だに謎に包まれているようです。
伝説によると、この山に棲む温羅は石を投げ、吉備津彦は矢を射て戦ったといいますが、その矢を置いたというのがこの「矢置き岩」だそうです。

吉備津神社の見学を終えた一行は、次に鯉喰神社(倉敷市)に向かいました。倉敷市公式観光サイト「倉敷観光web」のHP中の鯉喰神社の記事にこうありました。

 吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅(うら)が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと、温羅はついに矢尽き、刀折れて、自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。

「鯉喰神社」といい「矢喰神社」といい。「血吸川」といい「赤浜」といい、異彩を放つネーミングです。「血吸川」という、おどろおどろしい名前のいわれを、Sさんはこう解き明かしてくれました。
この地方は、古代からたたら製鉄が盛んで、そのため、鉄さびが川を赤く染めたのだろう。ガッテン、ガッテンでした。



昨日は、長女が人間ドックを受診するというので、ジイジ・バアバで一歳児の子守を恃まれました。初めは寝起きで機嫌が悪かったのか、大声で泣き叫ぶので、虐待の通報を恐れるほどでしたが、程なく機嫌がなおり、診療期間近くの公園で、楽しく遊びました。
ハトが遊び相手です。



ナデシコが咲いています。

公示日で、選挙宣伝カーの声が聞こえてきます。この選挙区では県内唯一の立憲民主党、すなわち市民と野党の共同候補が立候補しています。
今日はこれにて。



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秋の吉備路の歴史散歩、の巻(1) [折々散歩]

昨日は、恒例のわが故旧のつどいがありました。
前回までのあらましは、↓こんな記事でご紹介しています。

◇深紅の薔薇咲くドイツの森、の巻
●上を向いて歩いていたら、の巻(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-13-1)
●またまた昨日の花見、の巻
(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-08)
●連日の花見、の巻(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-07)
●小豆島の旅、の巻(1)
(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2016-11-22)
●蛙棲む原生林に蝮草(マムシグサ)
http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2016-06-10)
●「故旧あい集いし森の青胡桃」
(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2014-06-11)
●故旧愉快梅雨の晴れ間の原生林http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2016-06-06
●ひなせの詩歌 第三回 土屋文明の歌、の巻
http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2016-03-04
●里村欣二は日生の生まれ、の巻
http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2016-03-01
海遠き故旧集うて牡蠣を食む
http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2016-02-29
●鵯(ヒヨドリ)の名に背きたるしとやかさ(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2016-10-12)
●五月雨を集めて垂水(たるみ)はやからん
(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2016-06-07)

●「故旧また集ひたる日や鹿を見つ」
(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2015-09-30

●「そのかみの十五の吾も仰ぎ見し大き銀杏はとこしえにあり
(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2014-11-23

●「故旧相和す刻愉快節分草(こきゅうあいわすときゆかい せつぶんそう)
(http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2014-03-07


今回は、秋の吉備路を楽しむ計画でした。退職後、関西から郷里の美作地方に居を移した面々にとっては、吉備路は興味を持ちながらもなじみが薄い場所とあって、歴史に造詣の深い案内人を依頼することを、私が仰せつかっていました。古代史・考古学専門の友人の顔などがすぐに浮かびましたが、現職教員ですので平日は勤務があって、依頼するわけにいきません。今回は、結果的に祝日でセッティングすることになりましたが、平日実施が通例ですので、退職者の友人の中から人選しなければと悩んでいたのです。偶然、8月の「教育のつどい」のとりくみ中にご一緒したSさんに、無理を承知ででお願いしたところ、快諾してくださり、ほっとしました。
あいにく今回は諸般の事情から、女性の参加者がゼロ。むくつけき男性5人の学術の香り高い歴史散歩となりました。
集合場所は、Sさんの提案により、吉備津神社駐車場。
Sさんは、丁寧に、地図、解説入りのレジュメ資料を用意してくださっていました。
早速、吉備津神社の見学から、歴史散歩が始まりました。
吉備津神社のあらましについて、レジュメの一部を引用させていただきます。

吉備津神社・ ・ ・吉備津彦命を祀る
創建 少なくとも平安時代初期(847年)までは遡る
1357年 (社記の楝札の写し) その後2度火災にあう。
再建 1401年に工事着工、1425年に完成(足利義満の死後)
真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ”(『古今和
歌集』905年)
建築様式・・・吉備津造、本殿の檜皮葺大屋根=比翼入母屋造
漆喰塗の基壇
本殿・拝殿=国宝(岡山県内の国宝の建物2十美術品7件) 

日々の寒暖差に面食らいます。先日の冬模様がウソのように、日射しを浴びると真夏さながらの暑さで、石段を歩くと汗が流れます。

室町時代に再建された比翼入母屋造の本殿。風格あるたたずまいです。



斜面に建てられているため、漆喰塗の基壇によって水平を保ち、その上に巨大な神殿を建てています。この技術力に脱帽です。

檜皮葺大屋根。近年葺き替え工事が行われたそうですが、桧皮を確保することが大変な難事だそうです。


銀杏の巨樹。葉はまだ緑色です。
吉備津神社に祀られている吉備津彦について、ウィキペディアにはこう解説してあります。

 伝承によると、温羅は吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。
討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。そうして温羅を討ったという。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。

私たちの見学中に、ちょうど鳴釜神事がおこなわれており、ジャストタイミングで、釜のうなる音が低く聞こえてきました。
吉備津神社は以前も、一人で何度か訪ねたことがありました。
ブログ記事に何度か書いたつもりでいましたが、どうやらこれくらいのようです。

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水車も秋模様
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落ち葉降り敷く石段」
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荘厳、雄大な回廊
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こけむした灯籠
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  ◇重ね着の紅葉の錦や村時雨(2013-11-27)
帰りの道すがら、吉備津神社にも立ち寄ってみました。ここの紅葉も見頃でした。
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ところで、この吉備津神社の近くに、吉備津彦神社というよく似た名前の神社があります。
この記事↓に書きました。

◇今日も「これなあに?」(2013-10-16-1)
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 先日、吉備津彦神社近くの「吉備の中山」中腹を散歩中に見つけました。初めて見る花でしたので、図鑑で調べるのに手間取りました。

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「龍神谷」の近くでした。 「龍神谷」とは、ミステリアスな名前ですが、近くには温羅神社の社もあり、神秘の風情が漂います。

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吉備津彦神社は備前国一宮で、この地の鬼(温羅)を退治したとされる吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祀っています。
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なお、備中国一宮は吉備津神社で、この中山の備中側のふもとにあります。


ちなみに、Sさんによると、吉備の国は備前・備中・美作(現在の岡山県の全域)・備後(現在の広島県の一部)に当たるそうです。古代において一大勢力を擁した土地であったことは、この二つの神社の規模の立派さからも推し量られますし、この日のほかの見学地の一つ一つがそれを証拠立てているように思えました。
今回は集合地兼最初の見学地、吉備津神社の話題だけでオシマイになりました。次回は、吉備津彦に「退治」されたという温羅の話題に少し触れて、その後訪ねた見学地の話題を順次書いていくつもりです。今日はこれにて。

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「多喜二の母」に思う、の巻(2) [文学雑話]

昨日の記事で山田火砂子監督の映画「母 小林多喜二の母の物語」を観てきたことを書きました。ネタバレの懸念もありますし、到底力の及ぶところでもないので、作品全体に関わる内容紹介や感想は避けますが、印象に残ったところ、そこから連想した事柄などを。思いつくままに述べてみることにします。
岡山県出身の画家、竹久夢二を話題にした先日の記事、愛酒の日?の巻
◇「宵待草」異聞、の巻にこんなことを書きました

ところで、「宵待草」の歌は、1910年(明治43年)、夢二27歳の夏、避暑旅行中に遭遇した長谷川カタとの淡い恋をモチーフにしているそうです。恋多き夢二の、青春のひとこまです。
それはそうに違いないのでしょうが、夢二のもう一つの側面に目を向けることによって、宵待草に別の解釈を与えることも可能なようです。 

週刊新聞「京都民放」のwebサイトに、『ほっこり京都』というコーナーがあって、戦前、治安維持法に反対して右翼暴漢に暗殺された京都出身の労農党代議士山本宣治(ニックネームは山宣)と竹久夢二との交友を、こう紹介しています。

 美人画で有名な竹久夢二と山宣は、神戸中学で2年違いの同窓生。夢二は8カ月で退学したので、二人の出会いは、大正元年(1912)11月23日から12月2日までに岡崎の府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」が開かれた時だと思われます。
 山宣は、夢二に正月を「花やしき」で過すように勧め、夢二は1月2日から5日間滞在しています。交流が深まり、夢二は大正5年(1916)11月、33歳で京都の東山の高台寺門前町に引っ越してきました。まもなく夢二が東山区の二年坂へ引っ越した時は手伝いにもいっています。(中略)
 山宣といっしょに夢二の引越しの手伝いをした安田徳太郎は、貧乏所帯の中でも多くの洋書やハイカラな洋食器をもっていた夢二のことを回想しています。また、「宵待ち草」などの絵を描いてもらった山田市蔵は、三高・東大と山宣の同級生だった山田種三郎の弟で、「テニス友だちに女の手ばかり描いている友人がいる」と山宣に夢二を紹介したともいわれています。当時、夢二は社会的には評価が低かったのですが、山宣は「ほんとうに民衆の心をつかんだ夢二さんの絵は50年、100年後になっても残り、時代がたつほどに素晴らしくなるだろう」とほめちぎったと言います。 
 「まてどくらせどこぬひとを 宵待ち草のやるせなさ こよいは月もでぬそうな」(宵待ち草)
 夢二は、22才のころ大逆事件のデッチアゲによって死刑となった幸徳秋水らが作った平民社機関紙『直言』にコマ絵を掲載し、平民社の荒畑寒村らと自炊生活もしていました。安田氏は夢二が「宵待ち草」の「詩に託して社会主義の到来を待った」と述べています。大逆事件被告処刑の翌年、明治45年(1912)に発表された「宵待ち草」の真意は定かではありません。

この文章に登場する安田徳太郎氏については、上述の◇「宵待草」異聞、の巻の記事で少し詳しく触れました。

 

安田徳太郎
やすだとくたろう
(1898―1983)

医師、社会運動家、著述家。京都生まれ。三高を経て京都帝国大学医学部卒業。京大在学中から従兄(いとこ)の山本宣治(せんじ)らと産児制限運動を行い、医療を通して社会運動に参加していった。1930年(昭和5)上京、31年東京・青山に内科病院を開業し、多くの活動家の診療に努めた。32年には共産党中央委員岩田義道(よしみち)の遺体を引き取り、病理解剖に立ち会い、また33年の小林多喜二(たきじ)の拷問死に際しては遺体解剖のため奔走したが警察に妨害されて果たせなかった。同年、共産党シンパの容疑で検挙されたが釈放。その後、転向者を含む獄中被告の救援活動に尽力。42年ゾルゲ事件に連座し、44年懲役2年執行猶予5年の判決を受けた。敗戦後、共産党公認で京都から衆院選に出馬したが落選。その後離党して文筆活動に入った。著書に、『世紀の狂人』、ベストセラーとなった『人間の歴史』全六巻、日本人の起源を推理して話題をまいた『万葉集の謎(なぞ)』、自伝的回想『思い出す人びと』など。おもな訳書に、戦前から戦後にかけて改稿を加えたダンネマンの『大自然科学史』全11巻別巻一がある。『山本宣治全集』『同選集』の編集にもあたった。[小田部雄次]
『『思い出す人びと』(1976・青土社)』
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

その著作「『思い出す人びと』の〈竹久夢二〉の項に「夢二さんは日本で最初の社会主義画家としてメーデーを描き、〈まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬさうな〉という詩に托して、社会主義の到来を待った社会主義詩人であった」とあります。
また、上述の◇「宵待草」異聞、の巻では、こんなことも書きました。

 ちなみに、その安田氏の義弟、高倉輝(タカクラ・テル)氏は、作家で戦後、衆議院議員、参議院議員となるがマッカーサー司令で公職追放された波乱の経歴の持ち主。そう言えば、先日市民劇場で鑑賞した演劇「春、忍び難きを」(俳優座)で、初めて選挙権を得た、文字の書けない農村女性サヨが、「タカクラテル」の文字を一所懸命覚えて投票する場面がありました。

ここまでは序。これから本題です。
昨日の映画で、多喜二が築地警察署で虐殺され、引き取られた遺体を母(ひさ)や同志たちが取り囲み、哀悼している場面で、この安田徳太郎さんが登場します。
母・せきは、この安田徳太郎の従兄が労農党代議士の山本宣治であること、そして山本宣治が、弱い者貧しい者の味方として奮闘したために、権力に憎まれ、右翼暴漢に暗殺されたことを教えられます。山本宣治と多喜二が重なり、改めて宣治の母のかなしみを思うのでした。
ところで、山本宣治については、過去にこの記事を書きました。
◇うすごおりの張りたる今日は山宣忌

  山本宣治についての記事は、この「宇治山宣会」のホームページや、「ほっこり京都」のこちらのサイト に詳しいので、勝手にリンクを張らせていただきます。山宣は、治安維持法の最高刑を死刑とする改悪に帝国議会内でただ一人反対し、発言を準備していたが強行採決によって阻まれ、その夜、宿舎で右翼のテロによって暗殺されたのでした。
その帝国議会出席のために上京する前に、大阪での全国農民組合大会でかれはこう挨拶しました。
「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・」ここで挨拶は中止させられたそうです。
この言葉は、大山郁夫の筆により、かれの墓碑銘として刻まれています。
権力は、この墓碑銘を、セメントで塗りつぶさない限り墓碑の建立を許さないという妨害を加えたそうですが、何度塗りつぶしても、いつの間にか民衆の手によってセメントがはがされ、また塗りつぶされ、、を繰り返し、1945年12月、戦後最初の追悼墓前祭で、墓石のセメントをノミではがし、墓碑は白日のもとによみがえったといいます。
このエピソードは、1960年(昭和35年)に大東映画が製作・配給した山本薩夫監督の映画『武器なき斗い』ぶきなきたたかい)のなかでも描かれていたように記憶しています。この映画の原作は、西口克己の小説『山宣』です。
山宣

山宣

  • 作者: 西口 克己
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2009/05
  • メディア: 単行本

 

山宣 (西口克己小説集)

山宣 (西口克己小説集)

  • 作者: 西口 克己
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1988/07
  • メディア: 単行本

 学生時代、先輩のTさんが16ミリ映写機と映画フィルムの巻かれたリールを重そうに抱えて、キャンパスを歩いておられるのに会いました。

「なんですか?」

と問うと、

「『武器なき斗い』の上映会をやるから、観に来てね」

といった具合で、観たのが最初だったと思います。

そのあと、いろいろな機会に、何度か観たことがありました。


昨日の記事でも登場する同業のO先輩は、ちょっと前、『武器なき斗い』をみて 感慨深かったと語っておられました。京都での学生時代、これを見て、深く感動した記憶が蘇ったそうです。その場にいあわせた何人かの友人は、比較的世代が下であるせいか、あまりピンと来ていない様子。「山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」の句を引こうかと思いながら、タイミングがなくてその話題は終わりました。少し心残りがありましたので、ここに記しておきます。



今日は予定通り、田舎へ帰ってきました。長女に声をかけると一緒に行くというので、一歳児もつれて、長女の運転でドライブです。
運転を人に任せると、車中から写真が撮れたりします。

芋堀りデビューです。

栗拾いにも行きましたが、イノシシのかじった後はありましたが、無傷の栗は三個だけでした。
山道を歩くのは楽しいようです。

この蛾は何者でしょう?

今日はこれにて。

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「多喜二の母」に思う、の巻 [文学雑話]

今日は郷里の父母を訪ねようと思っていたのですが、急に午前中用事が入りましたのでキャンセルしました。昨日会ったUさんが、今日の午後の予定を思い出させてくださいました。こんな映画の上映会があるのです。私もそのチラシをパソコン机の目につくところに張り出していました。このチラシを持参すると、当日券が三百円割引になるのでした。

同じ場に居合わせたO先輩は、すでに別会場(倉敷市)での上映を鑑賞してこられ、「良かった。泣いた。」とおっしゃっていました。
やはり見ておきたい気持ちになりました。
一日中雨の予報で、畑仕事もできそうにないので、かえって好都合だったかも知れません。
午前中の用事を終え、上映会場に向かいます。駐車場をどうするか悩んだのでが、久しぶりに後楽園の駐車場に駐めて、歩いてみることにしました。
あいにくの雨ですが、、、。
岡山城も雨に煙っています。
小学生の団体来意グループが大勢。










カラスの濡れ羽色のカラス(ン?当たり前か)

さて、この映画については以前、majyo様が、このブログ記事に書いておいででした。
◇母 小林多喜二の母の物語 を観て
その記事で、制作会社(現代プロダクション)のHPを紹介してくださっています。
http://www.gendaipro.com/haha/
当時、この記事にこんなコメントを投稿させて戴いておりました。再掲させていただきます。

 三浦綾子さんの「母」は、我が子多喜二を愛し、理解し、志を継いで学び成長を遂げていくおっかさんの、静かな、訥々とした語り口を通して、母性=無私の愛の気高さを描いて胸を打ちます。映画化、大いに期待していました。ホットタイミングでのご紹介、ありがとうございました。
遺体のひきとりから葬儀の一部始終に立ち会った作家・江口渙は、こう書いています。「お母さんは、小林の顔や髪になおも涙を落としながら、抑えきれない心の悲しみを、とうとう言葉に出して訴える。 『ああ、痛ましや。痛ましや。心臓麻痺で死んだなんて嘘だでや、子供のときからあんなに泳ぎが上手でいただべにーーーー心臓麻痺なんて、嘘だでや。嘘だでや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて、いきがつまって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべか。いきのつまるのが、いきのつまるのがーーーああ痛ましや。』 お母さんはなおも小林多喜二のからだを抱きかかえてはゆさぶり、また揺さぶっては抱きかかえる。そして、あとからあとからあふれでる涙に顔を一面ぬらしながら同じ言葉を訴えていたが、突然、『これ。あんちゃん。もう一度立てえ!皆さんの見ている前でもう一度立てえ!立って見せろ』と全身の力をふりしぼるような声でさけんだ

山田火砂子監督は、広告チラシにこんなことを書いておられます

 岡山県のみなさまへ
私は山田火砂子と申しまして、 85歳の老監督でございます。
これまで岡山では「岡山孤児院」の創設者・石并十次の人生を描いた『石井のおとうさんありがとう』 (松平健主演)、『筆子・その愛~天使のピアノ』 (常盤責子主演)、高梁市で生まれ育ち、 北海道に現在もある家庭学校を作り、 たくさんの子どもたちを救い、 不良少年の父と言われた留岡幸助の生涯を描いた『大地の詩~留岡幸助物語』 (村上弘明主演)などのロケーションをしてきました。私にとって岡山は、第二のふるさとのような気がしています。
このたび岡山県で初めて上映させていただいた 『母 小林多喜二の母の物語』 という映画は、 戦争で一番悲しいのはお母さんであり、 お母さんから最愛の子を奪う戰争はぜったいに反対という強い思いをこめてつくりました。(後略)

また、リーフレットにはこんなことも。

 本日は映画「母 小林多喜二の母の物語」をご鑑賞いただきましてまことにあリがとうございます。
最近の日本は共謀罪等が可決され、 戦前に近くなっているように思います。私、 山田火砂子も13歳まで戦争を経験し、 東京山手大空襲で、 家も焼け出されました。 食料もなくひもじい思いをしましたが、 辛うじて生きのびて、 もうすぐ86歳です。 二度と戦争はいやです。 軍国主義の日本に戻ることがあってはならないと思って生きてきましたが、 共謀罪は、 戦前の治安維持法と同じではないですか? 多喜二はこの治安維持法によって、 国家権力の警官によって3時間殴り通されて殺されたのです。 彼は、 戦争などしない平和な国を願い、 武器を作るお金があるなら貧しい人のために使うぺきという思いで小説を書きました。 その代表作が「蟹工船」です。 金持ちが全部搾取してしまう。 労働者は怪我をしてもなんの保証もない。 ストライキをしたら軍隊がくる。 弱者に対して言うことは、 働かざるもの食うべからず…。
福祉など全くなかった戦前、 二度とそんな時代が来ないでほしい、 その一心でこの映画を作リました。

上映前のステージで、監督あいさつにたたれた山田火砂子監督は、高齢ながら、凛とした張りのあるお声で、平和への思いを訴えておられました。「戦争で一番悲しいのは母。慈しみ育てた子どもを母から奪う戦争を二度と許してはいけない」「母、せき役の寺島しのぶさんは、我が子の命が奪われたりしたら、取り乱して自分を失ってしまうだろうに、もう一度立て、と呼びかけた多喜二の母は気丈だ。役だから演じるが、自分ならとてもできない、と漏らしていた」等、印象深いお話が、心に残りました。
小林多喜二は、これまでも、何度となく私の記事に登場してきます。
◇「宵待草」異聞、の巻
◇ブログ更新停滞の三つの言い訳、の巻
◇しもつきついたちの後楽園、の巻
◇夏の終わりの高知行、の巻(その5)
サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻
◇この道はいつか来た道 「密告フォーム」の行き着く先、の巻
◇自民HP密告フォームと「二十四の瞳」、の巻(1)
◇年金訴訟と朝日訴訟についてのおもいつくまま
道の辺に思ひ思ひや思ひ草
またまた3月15日の蘊蓄、の巻


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