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彼岸の入りあれこれ、の巻 [今日の暦]

今日は「彼岸の入り」だそうです。
「暑さ寒さも」というとおり、涼しさが心地よい季節になりました。
今日は、自転車で数キロ走りましたが、さわやかな汗でした。
ここ2~3日の朝の散歩の写真です。
涼しくなって、コスモスが、ようやく生気を取り戻したようです。

路傍の朝顔が、まだまだ元気です。

こんな品種も咲いています。

カボチャの葉に、雨露が宿っていました。

約束したように、ヒガンバナが咲いています。







過去記事で、ヒガンバナは度々取り上げていますが、一番古い記事はこれのようです。
続 今日の「これなあに?」
少し引用して再掲します。

  ヒガンバナというと新美南吉の「ごんぎつね」のワンシーンが浮かびます。「ごんぎつね」は南吉の17歳の時の作品といいます。

「ああ、葬式だ」
と、ごんは思いました。
「兵十の家のだれが死んだんだろう」
お昼が過ぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんの陰に隠れていました。いいお天気で、遠く向こうには、お城の屋根瓦が光っています。墓地には、彼岸花が、赤い布のように咲き続いていました。と、村の方から、カーン、カーン、と、鐘が鳴って来ました。葬式の出る合図です。
やがて、白い着物を着た葬列の者たちがやって来るのが、ちらちら見え始めました。話し声も近くなりました。葬列は墓地へ入って来ました。人々が通った後には、彼岸花が踏み折られていました。
ごんは、伸び上がって見ました。兵十が、白い裃をつけて、位牌を捧げています。いつもは赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、今日は何だかしおれていました。
「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」
ごんは、そう思いながら、頭を引っ込めました。(「ごんぎつね」より)

彼岸の時期に咲くこと、墓地の周辺に群れ咲くことが多いなどから、死人花、地獄花、幽霊花などの不吉な別名も与えられています。剃刀花、狐花、捨子花、はっかけばばあなどの名も、wikiでは紹介されています。
その妖しい不吉さを北原白秋はこう歌います。

曼珠沙華  北原白秋
GONSHAN.(ゴンシャン). GONSHAN..何処へゆく
赤い御墓(おはか)の曼珠沙華(ひがんばな)、
曼珠沙華、
けふも手折りに来たわいな。

GONSHAN. GONSHAN. 何本か。
地には七本、血のやうに、
血のやうに、
ちやうど、あの児の年の数(かず)。

GONSHAN. GONSHAN.気をつけな。
ひとつ摘(つ)んでも、日は真昼、
日は真昼、
ひとつあとからまたひらく。

GONSHAN. GONSHAN. 何故(なし)泣くろ。
何時(いつ)まで取っても、曼珠沙華、
曼珠沙華、
恐(こは)や赤しや、まだ七つ。 (「思ひ出」より)
仏典に由来する「曼珠沙華」の名も一般に普及しています。法華経が説かれるとき天から訪れる「天上界の花、赤い花」をサンスクリット語で「マンジューサカ」と呼ぶそうです。

曼珠沙華と書いてマンジュシャゲと読むと思っていたら、山口百恵ちゃんは、マンジュシャカと謳いました。


去年の秋、lこのブログ記事とともに、私が写した彼岸花の写真をカラー印刷して、アジア人留学生に配った上で、新美南吉「ごんぎつね」を教材として読んでみました。(ほとんど期待した反応は得られ、空振りでしたが)。そのとき印刷に使ったのは、NEC5600cという激安のカラーレーザープリンタでした。

そのプリンタが、ちょっと前からエラー表示が続き、どうやっても直りません。これまで何度もトナーの交換を行い、最近はずっと互換トナーを使っていて、そのことが原因かも知れないトラブルは数多く経験しましたが、今回はどうも駄目のようです。
インクジェット機が他に一台あるにはあるのですが、試験問題用に、鮮明な印刷をとしたいと思って、レーザープリンタを使おうとしたのですがこのような次第で、思い切ってモノクロレーザープリンタを新調しました。
たちまち明日の授業プリントの印刷に必要なので。


モノクロとは言え、レーザープリンタが一万円で買える時代です。ほとんどインク代や、トナー代の値段です。
というわけで、今日、これを買ってきたのです。早速快適に印刷できています。
それにしても、台風が去ったと思うと解散風。なんとも気まぐれな 自分勝手な解散ですね。
「第3次安倍第3次改造内閣」なるものを「仕事人内閣」などと鳴り物入りで発表したのは、8月。この閣僚たちは一度も閣僚として国会に出席して大臣答弁に臨む機会がないままに、早くも解任ですって。なんともお気の毒なことです。
なぜこのタイミングで解散?と、いちばん腹に据えかねているのはこの方たちかも?と同情します。
素人考えでも、このタイミングでの解散判断は、次のような思惑によるもの?
①モリ・カケ疑惑をはじめ、政府・自民党内の一連の不祥事・「劣化」にフタをする。
②北朝鮮のミサイル騒動を奇貨として、不安と危機意識を煽って、日米軍事同盟と現政権への支持をつなぎ止める。
③世論調査でわずかに支持が回復したと見て、これを好機に議席をかすめ取る。
④民進党のごたごた、野党共闘の未成立状況を最大限利用する。
⑤解散総選挙を強行することで、党内での「安倍一強」体制を回復する。
でも、そうだとすると、余りにミエミエで、余りに安直、余りにご都合主義と言わないわけにはいきません。いや、まさかね。いやしくも、国のトップリーダーたるお方が、そんな見え透いた打算で解散に踏み切るはずがない。きっと、もっと高尚な、奥深い、天下国家の行方に関わる、抜き差しならない大義があるはずだ、、、等と思いかえしてみるのですが、私などの凡庸な頭では、どうにも思い至りません。
いずれにしても、選挙中は「消費税の使い道」「経済優先・国民生活優先」などを目いっぱい喧伝し、選挙が終わるや否や、得意のてのひら返しで、改憲・軍事化への道を進んでいく魂胆でしょう。柳の下のドジョウを狙う、見え透いた手口。これまた、ミエミエ過ぎますね。
くよくよ考えていても埒があきませんので、その野望を打ち砕く方策を練らねばなりませんね。ただし、「共謀罪」でとがめられないやり方で、、、。つくづく、物騒な世の中ですね。
今日はこれにて。

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即席ラーメン記念日?の巻 [今日の暦]

今日は「即席ラーメン記念日」だそうです。世界初のインスタントラーメン=「チキンラーメン」が発売されたことに由来するのですって。知りませんでした。
地元新聞「山陽新聞」の今朝のコラム「滴一滴」にこんな記事がありました。

 「食足世平(しょくそくせへい)」(食足りて世は平らか)は、日清食品の創業者、故安藤百福さんの造語である。著書によれば、終戦で廃虚となり、飢餓状態の人があふれる大阪の街を歩きながら、戦後の復興は「食」だと強く思ったという▼お湯さえあれば、すぐ食べられるラーメンをと、世界最初の即席めん「チキンラーメン」を世に出したのが1958年のきょうだった。当初はみな半信半疑だったが人気が爆発。類似商品も多く出回った。続いて71年に誕生したのが「カップヌードル」だ▼いまや、世界の即席めん市場は年約1千億食に上る。保存がきき、簡単で、場所を選ばない。日本が誇る「食の革命」の一つだろう▼

戦後の復興は「食」。もっともです。ミサイルや戦車では決してなかったということですね。
これにちなんで、今日のお昼御飯は、インスタントラーメンです。
他のメニューに比べて、孫たちの反応は、圧倒的に歓迎です。
現代のお袋の味は「袋入り食品の味」と揶揄されて久しいですが、いまや袋入り食品は、現代日本人のソウルフードといっても過言ではないですね。
いや、日本人に限らず、留学生の昼食をチラッと見ると、みんなとりどりのカップ麺をすすっています。ほとんど毎日となると、栄養の偏りが気になりますがね。
インスタントとは食品とは言え、栄養バランスを配慮して、、野菜・肉をフライパンで炒め、鍋で沸かした熱湯に溶かした全員分のスープと混ぜ合わせ、別鍋でゆでた麺を3分間でさあっと上げ,ザルでお湯を切ってどんぶりでスープと合体。と、ひと手間かけて作った特製インスタントラーメンですが、孫たちにはありがた迷惑のようで、できあいのスープと麺のシンプルな取り合わせが一番お好みのようです(汗)。
夏休みも終末が近づき、宿題も「仕上げ」モードに突入の模様で、「面倒くさい」といいながら、作文を書いたりなどしていました。



昨日の記事に、「この道」の歌詞を載せました。
そう言えば、以前も何度か触れた二木紘三のうた物語のサイトに、この道(作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰)が音源入りで紹介されています。
昨日、音楽交差点のオーナー・コンダクターの小笠原知代子さんは、「この道」の他、「出船」「宵待草」を、ご自身のピアノ伴奏つきで歌ってくださいました。
これまた二木紘三のうた物語から、該当曲をご紹介します。

出船(作詞:勝田香月、作曲:杉山長谷夫、唄:藤原義江 他)



 

作詞の勝田香月が、啄木にあこがれ、小樽で着想を得たと知り、感慨を覚えます。

 宵待草(作詞:竹久夢二、補作:西條八十、作曲:多忠亮、唄:高峰三枝子他)


「蛇足」とい銘打った解説文も一部引用します。

 『宵待草』は明治45年(1912)6月に作った小唄で、 大正2年(1913)発行の彼の処女詩集『どんたく』(実業之日本社)に掲載されました。
大正7年(1918)、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)でバイオリンを学んでいた多忠完(おおのただすけ)が、 この詩に感動して曲をつけました。その楽譜が出版されると、『宵待草』はまたた<間に全国に広がり、多くの人々に愛唱されるようになりました。
夢二が亡くなってから4年後の昭和13年(1938)、 夢二人気に便乗して『宵待草』という映画が企画されました。 その際、 3行詩だけでは映画の主題歌としては短すぎるということで、夢二と親しかった西條八十が2番の歌詞を作ることになりました。
八十は最初、2番の2行日を「宵待草の花が散る」としていました。
しかし、宵待草の花は、散らずに、茎についたまましおれるのが特徴です。それを人に注意された八十は、のちに上のように詩を変えました。
八十は抒情詩人として出発しただけに、このフレーズも美しく、 1番ともよ<マッチしています。いきさつを知らなければ、夢二が2番とも作ったと言われても、疑う人はあまりいないでしょう。
しかし、どういうわけか、今日まで2番が歌われることはほとんどありません。




半年ほど前の写真です。今日はもう見つけられませんでした。

2013年の8月。このブログを始めたばかりの記事です。

美食家のコガネムシ



 コガネムシが、みずみずしい黄色の花を美味しそうに食べています。顎の動きに合わせて、咀嚼の音まで聞こえてきそうな、ヘルシーで、ジューシーで、グルメな朝餉です。smallImgp0057.png
月見草と子どもの頃は呼びました。富士に似合うと太宰治が言ったのはこの花でしょう。「待てど暮らせど来ぬ人を」と、竹久夢二が歌った宵待草もこれですかね。標準和名「マツヨイグサ」、「オオマツヨイグサ」か?

明け果てて月はいづこや月見草
やるせなき宵待草を朝餉かな
露しげき花のサラダを朝餉かな
金色を食うて光るやコガネムシ

岡山後楽園の入り口近くに、この詩句を刻んだ石碑があります。
後楽園のhpから画像をお借りします。

碑は、地図の①の位置に立っています。

上の地図の右上にある逢来橋を渡ったところに、「夢二郷土美術館」という瀟洒な建物があります。

「夢二郷土美術館」のHPはこちらです。
現在、下のチラシの企画展が行われているようです。



夢二の故郷瀬戸内市には、「夢二郷土美術館・分館(夢二生家・少年山荘)」があります。以下、HPからの引用です。

 夢二生家(ゆめじせいか)
夢二生家は、竹久夢二が生まれ、16歳までを過ごした家です。現代では珍しくなった茅葺き屋根の伝統的な日本家屋は、約250年前に建てられました。夢二の子ども部屋や、建物や庭など外観も夢二の生前そのままに保存し、公開しています。夢二生家内でも、夢二の掛け軸や屏風、スケッチなどの作品の展示を行っています。 夢二生家入口には有島生馬氏が記した「竹久夢二ここに生る」の碑がみなさんをお迎えします。

少年山荘(しょうねんさんそう)
少年山荘は、竹久夢二が自らデザインを手がけた洋風建築を、夢二生誕95年を記念し、1979(昭和54)年夢二の次男、不二彦氏の協力で復元したものです。
1924(大正13)年、夢二は東京にアトリエ付き住居を建てました。少年山荘の名前は、中国の「酔眠」という漢詩の中の一節から、少年の日のように春の長い一日を過ごしたい、との願いを込め夢二が名付けました。
建物の周りにはサンキライやクヌギなど、少年山荘の周りに夢二が植えた木々も育っています。雑木林の中の「少年山荘」での夢二の暮らしの風情を感じながら、建物の中では、夢二生前の写真などを展示しています。

ところで、「宵待草」の歌は、1910年(明治43年)、夢二27歳の夏、避暑旅行中に遭遇した長谷川カタとの淡い恋をモチーフにしているそうです。恋多き夢二の、青春のひとこまです。
それはそうに違いないのでしょうが、夢二のもう一つの側面に目を向けることによって、宵待草に別の解釈を与えることも可能なようです。
と、思わせぶりな文句を書いて、以下次号といたします。

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愛酒の日?の巻 [今日の暦]

今日は何の日?

愛酒の日


だそうですね。
こちらのページから引用します。

 酒をこよなく愛した歌人・若山牧水の1885年の誕生日。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり」と詠んだ。
関聯記念日

過去記事でも、何度か牧水(と酒)の話題に触れたことがありました。

重陽の節句あれこれ。最後は酒の話。


白玉の 歯にしみとほる 出会いかな(意味不明)


牧水余談


一番下の「牧水余談」の記事はこんな書き出しです。

 今朝方、M女史(わがブログではヨシミさんとお呼びすることもあります)から電話があり、昨日付けのブログを見たが、ちょうど昨日はヨシエさんと牧水の碑を尋ねたところだった由。(ヨシミ・ヨシエのお二方は、私のブログネタともなる種々の探訪をしばしば企画してくださる友人で、この記事をはじめ、何度か登場していただいています。)

さて、牧水が生まれた1885年(明治18年)の1月25日には北原 白秋が、翌1886年(明治19年)の2月20日には、石川啄木が生まれています。近代短歌のみならず、日本近代文学の牽引者としてそれぞれ独自の輝きを放つ彼らは、お互いに私生活上の交友もあったようです。
こちらのHPを少々参照させていただきます。
 歌人 若山牧水
早稲田の学生同士の牧水と白秋の交友がこのように描かれています。

 北原白秋を知って牧水の文学への情熱はさらに高まった。ちょうどそのおり、萬朝報の歌壇に投稿した歌が第一席に選ばれた。「明星」の与謝野晶子の選だった。
 この日は、昨夜半からしくしく痛み出した虫歯のため満足に眠れずに朝を迎えた。不快だった。だが萬朝報第一席入選はさすがにうれしく、歯痛をこらえて登校した。
 中林、北原らも新聞を見て承知していた。
 『ついにやんなすったね』
 牧水の肩をぽんとたたいて祝ってくれた。
 中林は、福岡県の出身で早稲田大学入学早早の四月十三日、教室で同じ九州出身ということで自己紹介して以来、よくつきあって、互いの下宿に行き来していた。
 名を春人、号を蘇水といった。
 後には、牧水、射水(白秋)、蘇水と並べて『早稲田の三水』と称して三人ともいささか得意気であった。

今日は、私もささやかにお手伝いをしている「年金者組合」の地元支部の集まりがありまして、年金裁判の現状などを学習しました。上述のヨシミさんの姿もありました。会場は、以前この記事の際にも利用した音楽交差点。

ゴイサギに会う、の巻


この施設のオーナーで「コンダクター」の小松原先生が、会の終わりにご自身のピアノ伴奏でを歌唱を聴かせてくださいました。
その中の一曲が、「この道」。北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡です。

 この道はいつかきた道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ

この道はいつかきた道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ

あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の枝も垂れてる

懐かしく美しい「この道」が目に浮かび、心が洗われる気がいたしました。
きな臭く、軍靴で踏まれ、ぬかるんだアベ様御用達の「この道」は、御免被りたいものです。

北原白秋と啄木の交わりについて、北原白秋記念館のHPの、作品「邪宗門」を紹介するページにこんな記事があります。

 1909年(明治42年)3月、白秋が24歳のときに発表した処女詩集。
明治39年4月から41年末に書いた121の作品を収録しています。
「今後の新しい詩の、基礎となるべきものだ」
白秋と親交のあった歌人・石川啄木は、この詩集を読んで、日記にこう綴っています。
二人は、当時開園したばかりの浅草の遊園地近くで、啄木は白秋の詩人としての成功を、白秋は啄木の就職を、互いに黒ビールで祝い合ったといいます。


また、若山牧水と啄木との交わりは、先ほどのHP 歌人 若山牧水に、こう紹介されています( 歌 の 友 石 川 啄 木 の 死)。

  初夏の 曇りの底に 桜咲き居り
       おとろへはてて 君死ににけり

  明治四十五年四月十三日、歌の友石川啄木が死去しました。
  牧水は前日雑誌のことで啄木を訪ずれました。
  啄木は病床に臥していて枕の許にあった小さな薬の箱を牧水
 に示して、「僕はこの薬を飲めば病気は治るのだが買う金がない 君貸してくれないか」と云います。
  牧水も金は持ちませんので友だちにたずね歩きましたが出来
 ませんでした。
  帰ってふと啄木の机の上を見ますと啄木の死後に出版された
 歌集 『悲しき玩具』 の原稿がありましたのでその原稿を
 東雲堂書店に持参して二十円を借りて啄木に与えました。
  啄木は涙を流して喜びました。
  牧水は啄木の気分もよいので下宿に帰ってやすみました。
  翌朝早く啄木の夫人から危篤だとの報せが来ました。
  牧水が急いで行きますと夫人が啄木の耳許に口をあて「牧水
 さんが見えましたよ、わかりませんか」と呼びつづけますと奇跡
 的にも眼を開いて牧水の顔を見てにっこり笑い、昨日の金の礼
 を云い薬を買って飲んだことや雑誌のことなど話していましたが
 再び危篤に陥りました。
  牧水はすぐ医師を迎えに走り、帰って啄木の枕許を見ますと
 啄木の長女の京子の姿がありません。
  牧水はさがしに外に出て桜の落花でままごとをしていた京子
 を抱いて啄木の枕許に連れて来た時はすでに息を引きとって
 いました。
          そのときのことを詠んだ歌

         君が娘は 庭のかたへの 八重桜
         散りしを拾い うつつとも無し
  牧水は一日中独りで走り廻って啄木の葬式の準備をしました。
 夜の十時頃までは数人の通夜の客も居ましたが夜半を過ぎる
 頃になると啄木の枕許には啄木の父と牧水の二人でした。
  夫人は同じ胸部疾患が重いので隣室に伏していました。
  明け方近くになると啄木の父と牧水は話すことも無くなりまし
 た。
  この時、啄木の父は牧水に一筆書いた紙片をわたしました。
  牧水がそれを読みますと
   母みまかりて中陰のうちにまたその子うせければ」
            と題して

    親とりの ゆくえたづねて 子すゝめの
          死出の山路を いそぐなるらむ

 とありました。
  牧水はこれを読んて、子を思う親の愛情に堪え兼ねて
 悲しみの余り、その日の啄木の葬儀には参列することは
 出来ませんでした。


石川啄木の臨終に立ち会ったのは、当時北海道室蘭の娘婿(山本千三郎)のもとに身を寄せていた父一禎(啄木とその父のこと参照)と、妻節子、幼い娘京子、そして若山牧水でした。啄木の親友であった金田一京助は、啄木危篤の報せを受けてかけつけますが、小康を保っている啄木の様子を見て、牧水に後を託して、大学での講義に向かうのですが、間もなく啄木は息を引き取ります。
明治45年(1912年)4月13日、午前9時30分のことです。
金田一京助は啄木50年忌にこんな歌を詠み、岩城之徳氏に寄せています。(岩城之徳著「石川啄木」おうふう)

 頼まれても病気の母子をいかにすべきせんすべ知らず息を詰めつつ
 友の臨終になぐさめの言葉ひとつ言へず腑甲斐なかりし身をとはに責む
 八時からの授業に若しや送れぬかといまはの友の我をいたはり
 病人のすすむるままに学校へ我が起ちたりき永久の別れ
 帰りくればもう息あらず少しの間中座をしらるこのしれ者
 悔ゆれどもとはに及ばずをこ故にあやまり暮らす生きの限りを
 病む妻と幼な子のこし何事もなきかに逝きし友の静けさ
 夢のごと時の流れて五十年きのふのごとく我のかなしき

参考サイト石川啄木 漂泊の詩人
 
「愛酒の日」ですので、久しぶりにウイスキーを買ってみました。


ちびりちびりやりながら記事を書いておりましたが、ついに酩酊し、収集がつかなくなりました。きょうはこれにて。

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山の日にふるさとの山を思う、の巻 [今日の暦]

今日は「山の日」だそうです。
「山」と言えば、いつも啄木のこの歌が思い浮かびます。

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

啄木の第一歌集「一握の砂」に収められた歌です。

「一握の砂」から、他にも「ふるさとの山」を歌った歌を拾ってみましょう。


二日前に山の絵見しが
今朝になりて
にはかに恋しふるさとの山

汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来くれば
襟えりを正ただすも

かにかくに渋民村しぶたみむらは恋しかり
おもひでの山
おもひでの川





「山」に限らず、「ふるさと」は啄木にとって、格別の存在だったのでしょう。

「一握の砂」におさめられた歌だけでも、「ふるさと」を詠んだものがこんなにあります


ふるさとの父のせきするたび
咳のづるや
めばはかなし

あかじみしあはせえり
かなしくも
ふるさとの胡桃くるみくるにほひす

ふるさとのなまりなつかし
停車場ていしやばの人ごみの中に
そをきにゆく

やまひあるけもののごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎ひごときしすずめの鳴くを
三年みとせ聴かざり

ふるさとの
かの路傍みちばたのすて石よ
今年も草にうづもれしらむ

このごろは
母も時時ときどきふるさとのことを言ひ
秋にれるなり

田もはたも売りて酒のみ
ほろびゆくふるさとびと
心寄する日

あはれかの我の教へし
子等こらもまた
やがてふるさとをててづるらむ

ふるさとをし子等の
相会あいあひて
よろこぶにまさるかなしみはなし

ふるさとの
村医そんいの妻のつつましき櫛巻くしまきなども
なつかしきかな

その名さへ忘られし頃
飄然へうぜんとふるさとに来て
せきせし男

せうしんの役場の書記の
気のれしうはさに立てる
ふるさとの秋

わが思ふこと
おほかたはただしかり
ふるさとのたよりけるあした

ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足かろくなり
おもれり

ふるさとにりてづ心いたむかな
道広くなり
橋もあたらし

そのかみの神童しんどうの名の
かなしさよ
ふるさとに来て泣くはそのこと

ふるさとの停車場路ていしやばみち
川ばたの
胡桃くるみの下に小石ひろへり

ふるさとの空とほみかも
たかにひとりのぼりて
うれひてくだ

ふるさとの寺の御廊みらう
みにける
小櫛をぐしてふを夢にみしかな

はたはたときびの葉鳴れる
ふるさとの軒端のきばなつかし
秋風吹けば

旅の子の
ふるさとにて眠るがに
げに静かにも冬のしかな

ふるさとの
麦のかをりをなつかしむ
女のまゆにこころひかれき


かれの「ふるさと」への思いは、この原体験によって、いっそう増幅したのだったでしょう。

 石をもて追はるるごとく
ふるさとをでしかなしみ
消ゆる時なし

以下、次回に話題は続きます。
きょうは、ふるさとの山の中腹にあるお墓参りに、都合がついて行けるものだけ行ってきました。
この前刈った草が、もう存分に伸びているので、少し草刈りもしました。
栗の毬がたわわに、ふくらんでいました。

炎天下、アマガエルの姿を複数匹見ました。







午後、にわか雨がありました。
このカエル君たち、喜んだことでしょう。
沢ガニ、今日も元気そう。

この池の鯉たちのなかには、何十年も生きているものもいます。ショップで稚魚のとき買った錦鯉のほか、老父が、ずっと以前、川で釣り上げてきた野鯉も何匹かいます。
孫たちは、餌をやるのが大好きです。
この孫たちの親も、子どもの頃、喜んで餌をやったものでした。

先日、N先輩が、朝鮮北部の「文玉面」周辺の地図(のコピー)を送ってくださった(下の記事参照)のにくわえて、新たに、満浦の航空写真についてのネット上の情報を教えてくださいました。

思いがけないプレゼント、の巻


コピーして父に渡すと、懐かしがっていました。生まれてから、わずか数年のことですが、ほかならぬ「ふるさとの山、ふるさとの川」ですから。
今日はここまで。

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こどものともとながさきのひ、のまき [今日の暦]


昨日は、長女が「チケットが3枚あるから」とこんな催しに誘ってくれました。



「こどものとも」発刊元の福音館のFBやHPの記事から、催しのあらましを引用します。

●こどものとも創刊60周年記念「絵本とおともだち」展は、倉敷へ。
倉敷天満屋にて明日から開催!

2016年に創刊から60年を迎えた月刊絵本「こどものとも」。記念イベント「絵本とおともだち」展はまだまだ続きます。夏休み期間の7月25日(火)~8月21日(月)まで、岡山県倉敷市の倉敷天満屋にて開催されます。

実際に乗って写真撮影ができる「ぐりとぐらのたまごのくるま」や、のぞいて楽しむ「暗い世界」など、子どもたちが絵本の世界を体感できる展示のほか、作品原画、「こどものとも」の礎を築いた作家・画家の愛用品展示、20人の絵本作家の記念メッセージボードなど、大人のかたにじっくり味わっていただける展示もご用意しています。また、会期中には、ライブペインティング、読み聞かせ会、「こどものともスタンプラリー」など、盛りだくさんなイベントも開催されます。どうぞご家族みんなで倉敷天満屋にいらしてください。
http://www.tenmaya.co.jp/webchirashi/kurashiki/00566_1/



倉敷駅の景観は大きく変わりました。
新しくなってから、来るのは初めてです。

左前方にあるデパートが会場です。
県知事さんの会社です。

スタバはあるけど、砂場はありません、、。

こんな催しがあっても、デパート内はひっそりとしています。
アベノミクスで庶民の懐は潤っているのですか?

お昼時とあって、まずは腹ごしらえ。



パスタ・イタリア料理グループと、ラーメン・四川料理グループに分かれました。

私はあんかけ焼きそば。
美味でした。

撮影禁止場所がおおく、会場の様子はお伝えできません。
余裕があれば美観地区など歩いてみようかと思っていましたが、そうも行かず、駐車場近くの白壁の建物をパチリ。



以前この子らと倉敷を歩いたのは、↓この時でした。

倉敷のそぞろ歩きは孫の供(2014年8月)


 商店街(アーケード街)は、定休日のお店、お盆休みのお店が多く、閉店・休業状態のお店も少なくないようで、さしずめシャッター街の趣でした。

それでも開いているお店を覗き覗きしながら、行き当たりばったり、周辺を歩きまわり、こんな所に行きました。

阿智神社

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 美観地区

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なぜか、こんな所も通りました。駐車場は遠かった。

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 兄は冷たいうどん、弟はラーメンを食べたいと行って譲りません。ラーメン屋とうどん屋は何軒もありましたが、スルーです。和風のお食事処を覗きますが、ラーメンとうどんのリクエストが両立できません。

車で移動することにし、ファミレスなら両方のメニューがあるかもと、入ってみましたが、残念、当て外れ。兄がオムライスで妥協し、弟はお子様ラーメンで満足して、午前中のデートは終わりました。


兄がもっと小さいとき、ばあばとともに美観地区周辺を歩いた記憶があるのですが、はっきり思い出せません。ばあばによると、高橋大輔の凱旋パレードに出くわしたというのです。ネット情報によると、どうも2010年4月6日のことらしいですが、写真が見つかりません。年月が経つと、記憶も記録もアイマイになり、何事につけても諸行無常を感じます。
今日は長崎の原爆記念日。
72年前のできごとを、決して風化させないで、人類の記憶と記録にとどめなくてはと思います。
毎日新聞のweb版記事はこう伝えています

長崎は9日、72回目の「原爆の日」を迎え、早朝から祈りに包まれた。長崎市の平和公園では平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約5400人が出席した。田上富久市長は平和宣言で、7月に国連で採択された核兵器禁止条約の交渉会議に参加しなかった日本政府の姿勢を「被爆地は到底理解できない」と厳しく非難し、条約を批准するよう迫った。一方、安倍晋三首相は6日の広島市での平和記念式典でのあいさつと同様、条約に言及しなかった。
 長崎は9日、72回目の「原爆の日」を迎え、早朝から祈りに包まれた。長崎市の平和公園では平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約5400人が出席した。田上富久市長は平和宣言で、7月に国連で採択された核兵器禁止条約の交渉会議に参加しなかった日本政府の姿勢を「被爆地は到底理解できない」と厳しく非難し、条約を批准するよう迫った。一方、安倍晋三首相は6日の広島市での平和記念式典でのあいさつと同様、条約に言及しなかった。

「積極的平和主義」などと言う勇ましいスローガンを掲げながら、核兵器禁止条約に消極的で妨害的な姿勢をとり続けた、唯一の被爆国の首相の名前も、人類の記憶と記録に刻んでおかねばなりますまい。
以前、この日には、こんな記事を書きました。


 小3の孫が、8月6日、広島、テニアン島、B29、エノラ・ゲイ、リトルボーイ、8月9日、長崎、8月15日、降参、等の言葉を覚えました。
日本が戦っていた相手国はどこか、同盟を結んでいた相手はどこか、原爆を投下した国はどこか、、、などの話題に、中学生も首をかしげています。ポツダム宣言は知らないそうです(つまびらかではない、という首相とどちらが上等かわかりませんが)。
戦争体験の伝承は、このように薄らいでいることは確かです。
今日は長崎の日。
(中略)
中学生の孫は、広島は知っていましたが、長崎が浮かびませんでした。
知識がすべてではないでしょうが、知らなければ思うこともできないでしょう。


今日はこれにて。

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野分のまたの日、の巻 [今日の暦]

台風5号が通り過ぎました。
前日は、風の影響はあるものの、こんな青空でした。





それが、未明から風雨が強まり、定期検査を予約していた病院への行き帰りは、なかなかのどしゃ降りでした。。

瀬戸大橋は通行止めの表示が出ています。

すこし風雨が緩んだ午後、傘を差して散歩してみました。からだもカメラもぐっしょり濡れました。
雨に洗われる空蝉。

雨の中、声を張り上げて鳴くクマゼミ・



アブラゼミ。

一夜明けて、今朝は、すがすがしい青空です。
枕草子に「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。」という章段がありました。「台風の次の日は、めっちゃおもろうて、いけてるやん」というお話です。「あはれなり」(=しみじみとした情趣)と「をかし」(=知性を刺激する興趣)が、りょうほう味わえるというのですね。
白い芙蓉。

正面に見えるふた瘤の山。右が麦飯山でしょうか?



以前、◇ムルデルの干拓堤防、の巻の記事で、麦飯山(麦飯山)の説明を、「角川日本地名大辞典 33 岡山県」から引用しました。

  むぎいいやま 麦飯山<玉野市>
玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ,浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。

これはいつもの常山です。


昨日が立秋でした。
まだまだ、秋は遠い、と毎年同じようなことを書いています。2014年の記事を引用します。
秋立つやなまあたたかきかぜなれど

 そういえば、台風の影響もあるのでしょうが、今朝は少し涼しく感じます。実際、朝8時の気温は26℃と、散歩中も快適でした。。日中の最高気温も、31℃~32℃と予想されており、真夏日とはいえピーク時からは随分しのぎやすくなりそうです。

もちろんまた、暑さのぶり返しはありましょうが、だんだんに秋に向かっていることは間違いなさそうです。
散歩中に出会う蝉も、最も暑い頃が発生のピークというクマゼミの姿が薄れ、やや涼しさを好むとされるアブラゼミの比率が増してきたようです。
(中略)
今日にちなんだ歌を一つ。

秋立つ日よめる
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる  藤原 敏行

【解釈】  暦の上では立秋の今日、「秋がやってきた」と、目にははっきり見えないけれど、吹く風の音にはっと気づかされることだよ。

 「来ぬ」は、「きぬ」と読みます。カ行変格活用の「来(く)」の連用形に、完了・強意の助動詞「ぬ」の終止形がついたもので、「来た。来てしまった」の意味になります。

もしこれを「こぬ」と読むと、 カ行変格活用の「来(く)」の未然形に、打消の助動詞「ず」の連体形がついたことになり、「来ない」の意味になります。

「ぬ」は連用形接続、「ず」は未然形接続の助動詞ですから。→試験に出るよ(笑)。
形容動詞「さやかなり」は、動詞「冴ゆ」につながる言葉です。現代語の「冴える」も、くっきり、はっきり、クリアーに感じられる意味です。「さやかなり」は「冴えてる」ってカンジですかね。

「おどろかれぬる」は、動詞「おどろく」+自発の助動詞「る」+完了の助動詞「ぬ」がつながったものです。

古語の「おどろく」には、①目が覚める。②はっと気づく、③びっくりする、などの意味があります。ここでは②の意味です。

助動詞「る」には、①受身(~によって~される)、②尊敬(~なさる)、③可能(~できる)、④自発(自然と~される)の用法があります。④が、この語の本来の意味だったようです。この歌の場合も、④です。

ちなみに最後の語「ぬる」は、完了「ぬ」の連体形ですが、文の終わりなのに連体形であるわけは、上に、強調の係助詞「ぞ」が用いられているので、「係り結びの法則」がはたらいているわけですね。
古典文法入門のお時間はここまで。お粗末でした。

 この歌は、古今集に収められている藤原敏行の歌で「秋立つ日よめる」と詞書(ことばがき)にあるとおり、立秋の日に読んだ歌です。
ですからありのままの実景を詠んだと言うよりは、「立秋」というお題にこと寄せて、頭の中で考えて「理屈」で作り上げた歌と言うべきでしょう。このような傾向は、「理知的」「論理的」と称される古今集の歌風の特徴ともされます。

とはいうものの、肉眼には見えない秋の訪れが、一瞬の聴覚のはたらきによって、はっきりと感じ取られるという繊細な季節感覚は、う~んと、納得せずにいられません。「う~ん、参った」という感じですか。

独断かも知れませんが、視覚よりも聴覚、聴覚よりも嗅覚が、より生理的、より原初的、より直感的な感覚であるように思えますから、まず聴覚で季節の推移を感じるというのは、よくわかります。


黄色く色あせた古びたノートを元に授業する老教師の風情ですな。老教師の風情ですな。だが、その老教師はのたもうたそうな。「真実は一つ」。
栗毬が、大きくなっています。
小さい秋?




柿の実も、少しずつ大きくなっています。

今日はこれにて。

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86を次世代に伝える番組欄 [今日の暦]

72年目の「原爆の日」です。
去年はこんな記事を書きました。

夏が来れば思い出す、の巻(8月に寄せた学級通信3)


 1988年の、一年生のホームルーム担任をしていた頃のものが見つかりました。その25号が、8月6日付「原爆忌特集」と銘打っています。
(中略)文章部分を書き起こしてみます。
夏が来れば思い出す
8月に寄せて

♪♪夏が来れば思い出す---の歌ではないが、蝉鳴き、入道雲の湧く季節になると、8月6日、9日、そして15日のことが思い出される。戦争と平和の問題は、常に考え続けなければならない問題であって、限られた一時期だけ、年中行事のように取りざたするだけでは不足ではないかとも言えようが、でも、年に一度だけでも、考えないよりはマシというものだろう。
戦争体験の「風化」と言うことが言われて久しい。あの、敗戦の日から数えて.早や42年.戦後生まれの世代が日本人口の過半数を占めるに至り、成人として戦争を体験した人々はすでに多くは現役を退いている現在、戦争体験を語り継ぎ、聞き継ぐ機会がきわめてわずかになっていることは、否めない事実だろう。
戦後は遠くなりにけり?
♪♪戦争が終わってぼくらは生まれた、戦争を知らずにぼくらは育った----と、北山修がうたい、いわゆる「戦無派」が青春時代を謳歌していたころ、《政治的には70年安保改定とそれにひきつづく沖縄・小笠原ね返還をめぐる事態が国民世論を二分していたころ、そしてケネディ、ジョンソン、ニクソンと続いたベトナム・インドシナへの侵略が国際的批判をおしてますます泥沼化していたころ)ちょうど君たちは生まれたわけだ。
そうしてみれば、「戦争を知らない」世代のはしりである私などに比べてさえも、君たちにとってあの15年戦争が、言ってみれば明治維新や西南の役などと同様の、遠い過去の歴史上のできごとと思えるのも無理からぬことと言えるかもしれない。
(中略)
永久に”戦争を知らない子ども”でありつづけるために
しかし、それは、君らおよび、君らの後の世代の子どもたちが、永久に「戦争を知らない子どもたち」であり得ることを意味しているのだろうか。「戦争を知らない」つもりが、実は「戦争について無知である」ことであってはなるまい。現に、「何にも知らないうちに」「だまされて」無謀な戦争に駆り立てられてしまった、との痛恨は、42年前の日本国民の共通の思いであったはずだ。そして平和は他から与えられるものではなく、やすやすと自然に成立するものでもなく、主権者である国民一人ひとりが、真実をしっかりと見抜き、英知と勇気をふりしぼってみずからの手でまもりぬく以外にないという教訓もまた、切実なものであったはずだ。
地球上のすべての地域から戦火が絶え、この国を含めてどの土地からも新たな戦争の火種が消えた時に初めて、真に「戦争を知らない子どもたち」が誇らかに胸を張り”平和の歌を口ずさむことが可能なのだと私は思う。そして、願わくば、その日の近からんことを。
(中略)
今日は広島原爆忌。事態は30年近く前の、この記事の頃とどう変わったでしょうか?
(中略)アベ内閣のもとで、ついに、集団的自衛権の行使をも合憲と強弁して、戦争法(「安保法制」)を強行し、夏の参院選で得た多数議席を背景に、明文改憲への企図をむき出しにしてきています。今次の内閣改造では、公明党以外の全閣僚を、日本会議など、超右翼・タカ派の靖国派が占有し、中でも防衛大臣に、カルト的狂信性を隠さない名うてのタカ派稲田朋美を任命するなど、好戦的姿勢をむき出しにしています。

奇しくもここで話題にした稲葉サンは、日報隠匿問題や都知事選での応援演説など、不適格の上にも不適格をさらして、内閣改造を待たず辞任に追い込まれました。そのほかの面々も、失言・不祥事・不適格のオンパレードで、内閣支持率下落に「大貢献」しました。先日の「第三次安倍第三次改造内閣」では、お詫び・陳謝を口にしながら、首のすげ替えで「疑惑隠し」をはかることで、支持率回復にわずか期待をかけておられるようですが、そもそも、不支持理由の第一は、「首相が信頼できない」(読売)「人柄が信頼できない」(日経)と、はっきりしてます。疑惑の張本人がそのままでは、誰も納得しません。
今日の「原爆の日」。広島での平和式典の模様を朝日新聞digitalはこう伝えています。

 広島は6日、被爆72年目となる「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では午前8時から平和記念式典が開かれ、広島市の松井一実(かずみ)市長が「平和宣言」を読み上げた。7月に国連で採択された核兵器禁止条約に触れ、日本政府に「核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい」と求めた。一方、続いてあいさつした安倍晋三首相は、条約に言及しなかった。
(中略)
 松井市長は平和宣言で改めて核兵器を「絶対悪」と強調。「核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です」と述べた。
 また、核兵器禁止条約が122カ国の賛同で採択された点を「廃絶に向かう明確な決意が示されました」と評価。「各国政府は『核兵器のない世界』に向けた取り組みをさらに前進させなければなりません」と訴えた。
 日本政府は「核兵器国と非核兵器国の対立をいっそう深め、両者の協力を重視する我が国の立場に合致しない」(岸田文雄・前外相)などとして、核保有国とともに条約交渉をボイコットし、署名もしない方針を明らかにしている。

「平和宣言」の全文はこちらにあります。全文引用したいところですが、印象に残った部分を、少しだけご紹介させていただきます。

  平和宣言
皆さん、72年前の今日、8月6日8時15分、広島の空に「絶対悪」が放たれ、立ち昇ったきのこ雲の下で何が起こったかを思い浮かべてみませんか。鋭い閃光がピカーッと走り、凄まじい放射線と熱線。ドーンという地響きと爆風。真っ暗闇の後に現れた景色のそこかしこには、男女の区別もつかないほど黒く焼け焦げて散らばる多数の屍(しかばね)。その間をぬって、髪は縮れ真っ黒い顔をした人々が、焼けただれ裸同然で剝(は)がれた皮膚を垂らし、燃え広がる炎の中を水を求めてさまよう。目の前の川は死体で覆われ、河原は火傷(やけど)した半裸の人で足の踏み場もない。正に地獄です。「絶対悪」である原子爆弾は、きのこ雲の下で罪のない多くの人々に惨(むご)たらしい死をもたらしただけでなく、放射線障害や健康不安など心身に深い傷を残し、社会的な差別や偏見を生じさせ、辛うじて生き延びた人々の人生をも大きく歪めてしまいました。
このような地獄は、決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄(ほの)めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨(むご)たらしい目に遭(あ)うのは、あなたかもしれません。
(中略)
市民社会は、既に核兵器というものが自国の安全保障にとって何の役にも立たないということを知り尽くし、核を管理することの危うさに気付いてもいます。核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です。そのような核兵器を保有することは、人類全体に危険を及ぼすための巨額な費用投入にすぎないと言って差し支えありません。
(中略) 

今年7月、国連では、核保有国や核の傘の下にある国々を除く122か国の賛同を得て、核兵器禁止条約を採択し、核兵器廃絶に向かう明確な決意が示されました。こうした中、各国政府は、「核兵器のない世界」に向けた取組を更に前進させなければなりません。

特に、日本政府には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と明記している日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい。
(後略)

広島市長 松井 一實


この宣言は、ひとり松井市長個人の訴えではなく、原子雲の下で灼かれたヒバクシャたちと、その家族、それにつながる無数の人々の、血の叫びといえるでしょう。
峠三吉の「原爆詩集」の序が、今こころにとみがえります。

 ――一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

「被爆者の心に寄り添う」と、録音再生機械のように繰り返し口になさるアベさん。この、無数の老若男女の声が、かすかにでも聞こえていますか?
かつて、授業したことのある教え子の一人が、今広島の世界大会に参加しているとの由、Facebookに何度も投稿してくれています。その中の一つに、こんな画像がありました。
タテに読むと、(広島の)新聞人の心意気が伝わってきます。これを支えている広島市民の心意気、というべきか?アベさん、あなたの心に伝わっていますか?








今日、当初書きたいと思っていたのは別の話題でした。昨日の夜のNHKの歌番組が良かったです。
なかでも、氷川きよし君が歌った「一本の鉛筆」。美空ひばりさんが大切にしたという歌。氷川君が、その張りのある男声で心を込めて歌うと、圧倒的な説得力を感じ、じーんときました。
また、改めて書くかも知れません。
きょうはこれにて。

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笹の葉の雫もゆかしき逢瀬かな [今日の暦]

七夕の今日は、朝から雨。

畑仕事ができればと、早朝から郷里へ向かいました。

雨脚は、激しくなったり緩んだりですが、畑土は水を含んで耕作には向きません。

伸び放題の草を刈り払う仕事も、コンディションが悪い模様。

することもないので、思うままに生い茂った庭木の剪定などをして、お茶を濁しました。

ツユクサが、雨に洗われて潤いを増しています。

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これはショウガの花。
よく見るとまん中あたりに写っているのは、蟻ですか?
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擬宝珠(ギボウシ)の花。
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ヒオウギズイセン(姫檜扇水仙) でしょうか?
クロコスミア モントブレチア、トリトニアヒメ等の別名もあるとか。
またまたソリッドモノカラーで遊びます。
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昼過ぎには雨が上がり、日射しもあらわれるとともに、気温もうなぎ登りに上昇してきました。
作業できる余地はないかと畑を見回ってみると、なんと、すくすくと育って花をつけ実もなり始めているサンド豆(インゲン豆)のはが、何者かにすっかりむしり食いされています。土の上の残った足跡を見るとどうやら、鹿の仕業らしい。
例年、鹿やイノシシによる農作物被害があるので、畑の周りには防護網を張ってはいるのですがそれを押し破るか飛び越えて侵入したらしい。熱中症警報が法相で流されるなか、汗をかきながら少々網の補強をしてはみたのですが、気休めに過ぎません。
ご近所さんいお裾分けにいただいたという初物の桃。
甘くみずみずしいお味でした。
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いつものように野菜をどっさりもらい、今日は七夕ですので、竹笹の枝を少しばかりもらって帰りました。
どうやら、せっかくの七夕も、夕方から夜にかけて、雨雲に覆われている模様です。
さて、既報の通り、退職同業者の作品展が日曜日まで開催されています。

一昨日は、受付案内係を半日つとめながら、じっくりゆっくり鑑賞させていただきました。

出品者には、顔見知りの方も、そうでない方もおられますが、どの作品も、人生を楽しみ味わっておられる姿がにじみ出ていて、あやかりたいあやかりたいという思いが湧きました。

詳細なご紹介もできませんし、個人情報を配慮して、お名前の紹介も控えつつ、全体の雰囲気だけをお伝えします。

絵画や写真や書。

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工作、工芸。
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手芸、服飾など、多彩な作品が独自の世界をつくりだしています。
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私も、写真作品を出品しました。
そのご紹介は、、、、はずかしながら次回に。
今日はこれまで。

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五番煎じの半夏生、の巻 [今日の暦]

当ブログ「ナードサークの四季」は、2013年の夏に書き始めました。「退職記念」と銘打ちましたが、もっと直接的には、「肺癌手術記念」とも言えます。七月に入院手術した頃の日録や退院直後の日録を綴り始めたのが出発でした。
そうこうするうちに、もうすぐ4年目を迎えようとしており、「5年生存率九〇%」といわれた、その5年目を生きて迎えることも、まんざら夢ではなさそうです。
それにしても、時々過去記事を見ていると、二番煎じ三番煎じが重なり、ネタ切れ状態を痛感するところです。
「二番煎じ」で思い出しましたが、落語の題材にありますね。火事は江戸の華といわれるように、大火が絶えないので、商家のだんな衆が交代で、火の用心の巡回をします。ウィキペディアから、あらすじの引用です。

 (前略)厳しい寒さに耐えかねて横着をきめこみ、手を出したくないので懐の中で拍子木を打ったり、冷えた金棒を握りたくないので紐を腰に結わえて引きずって鳴らしたり、提灯を股ぐらに入れて暖をとったりする。「火の用心」の掛け声を試行錯誤しているうちに謡のようになり、新内節のようになり、端唄をうたっていくうちに、遊び自慢の雑談になってしまう。
組が交替となり、最初の組が番小屋で火鉢を囲んで暖をとっていると、ひとりが栓をした一升徳利(ふくべとも)を出してくる。中には酒が入っており、皆に勧める。夜回り中の飲酒は禁止されていたが、「これは風邪の煎じ薬だ」と皆でうそぶき、燗をしてこっそり飲む。「苦い風邪薬の口直し」としてししの身、味噌、焼き豆腐、ネギなどが用意され、しし鍋を作るに至り、即席の酒宴になる。
その時、番小屋を管轄している廻り方同心が、外から小屋のにぎやかな声を聞きつけ、「番! 番!」と呼ぶ。酔っ払った旦那衆は最初「野良犬が吠えている」と勘違いしたが、戸を開けると侍だったために大きくあわてる。旦那衆のひとりは火鉢の鍋の上に座って鍋を隠すが、酒は隠しきれず、同心にただされる。旦那衆のひとりが「これは酒ではなく、煎じ薬だ」と言うと、同心は「身共もここのところ風邪気味じゃ。町人の薬を吟味したい」と言って酒を口にし、「うむ、結構な薬だ。もう一杯ふるまわんか」。結局同心は鍋も目ざとく見つけ、鍋も酒もすっかり平らげてしまう。旦那衆が「もう煎じ薬がない」と告げると、同心は、
「しからば、いま町内をひと回りしてまいる。二番を煎じておけ」

先日、こんなCD集を買いました。10枚組九八〇円の4巻セットです。これまでも何枚か、レンタルCDをコピーしたり、百円ショップで落語CDを見つけて買ったものをもっていて、自動車運転中の娯楽として重宝していますが、同じものを何度も聞いて、飽きが来るのと、繰り返し聞くうちにCDが傷んで音飛びするようになったりで、思い切って買いました。古い音源からの録音で、雑音が多かったり音が小さくて聞き取りにくかったりで、決して高級なものではありませんが、費用対効果は高く、満足しています。
落語名人寄席 CD全40枚組セット

落語名人寄席 CD全40枚組セット

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: コスミック出版
  • 発売日: 2012/07/01
  • メディア: CD


このなかに、春風亭柳橋 師匠の 「二番煎じ」が収められておりました。

さて、今日のラジオで半夏生の話題が流れていましたので、今日の記事はこれを題材にしようと思ったのですが、確かめてみると、過去にこんなに何度も書いていました(汗)。
たとえば去年の記事。
稲苗に朝露繁き半夏生

 今日は一年の折り返し点。一年のちょうど真ん中の日だそうです。
(中略)
去年の「半夏生」の日にはこの記事を書きました。

せせらぎのかそけき音や半夏生
今日も危うく、同じ題材で終わりそうでした。

一昨年の七月二日に書いたのがこれ。せせらぎのかそけき音や半夏生

 今朝の地元紙=「山陽新聞」のコラム「滴一滴」に、しばし考えさせられました。
指揮者小澤征爾さんが、24歳で国際指揮者コンクールで優勝した時の、わざと間違って演奏された楽器の音をすべて聞き分け、正したという予選でのエピソードが紹介され、「安倍さんには国民の声がどれだけ耳に届いただろう」と問いかけています。
そして、5月1日付の文化面での内橋克人さんの言葉を引用しています。
「戦争はある日ここからといって始まるのではない。いつしらず、せせらぎの流れのように始まる。」
そしてコラムは、こう結びます。

最初はせせらぎのようにかすかな軍靴の響きも、やがて勢いを増す恐れがある。意に沿わない叫びに“耳”を貸さない為政者では、国は危うい。

本当に、何度も耳にたこができるほど聞き、口が酸っぱくなるほど繰り返し行ってきたこの懸念が、いまほどリアリティを増したときはないかも知れません。

聞き飽きて、またか、まさか、と多くの人が受け流してしまいかねない、今のご時世。まだまだ、内閣支持率の下降が緩やかなうちに、「多数議席」を活用してやれることはやってしまおうという算段でしょうが、それだけにますます、せせらぎの音に耳を澄まさねばなりますまい。


なんと、いつもいつも同じ繰り言を重ねるブログだわいと、われながら「感心」しますが、しかし、事態が少しも良くなっていない以上、今後も繰り返すしかないでしょうね。
「半夏生」については、この記事でふれましたので再掲してしておきます。
半夏生ですか?それとも別の方?

 スーパーの魚コーナーにパートに出ている妻が、「半」に「夏」に「生」と書いてどう読む?尋ねるので、うろ覚えで「ハンゲショウ」と答えました。

「たこ」に関係ある?と聞くので「知らない」と答えたものの、気になるので、ネット検索してみました。

「デジタル大辞泉」にはこうあります。

1 雑節の一。太陽が黄経100度にある日で、夏至から11日目。7月2日ごろにあたる。このころから梅雨が明け、田にカラスビシャク(半夏)が生えるのを目安に田植えの終期とされてきた。半夏(はんげ)。《季 夏》「いつまでも明るき野山―/時彦」

2 ドクダミ科の多年草。水辺に生え、高さ約80センチ。全体に臭気がある。葉は長卵形で互生。6、7月ごろ、上部の葉が数枚白くなり、これと向かい合って花
穂を出し、白い小花が咲く。名は1のころ咲くからとも、葉の下半分が白いので半化粧の意ともいわれる。かたしろぐさ。

農家では、この日までに田植えを終わらせる節目の日とされ、地方によっていろいろな伝承があるようです。

この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたこともあったそうです。三重県では、ハンゲという妖怪が徘徊るとされ、この時期の農作業を戒めたようです。

玄米の餅を作り食べる(奈良、大阪)、蛸を食べる(関西)、焼き鯖を食べる(福井)、うどんを食べる(香川)などの習慣があったそうです。これをもとに、7月2日は、「たこの日」、「うどんの日」「「半夏生サバの日」などに認定され、商戦のネタにされているようです。


「2ドクダミ科の多年草」とある『ハンゲショウ(かたしろぐさ)」の写真は、この記事にも載せました。
七夕雑話



深山公園の水生植物園への道端で、例年よく見かけたのですが、先日の散歩では見当たりませんでした。空梅雨のせいでしょうか?
ハンゲショウまでに田植えを済ませるべきことが、農村では言い伝えられてきた由。





「梅雨の晴れ間」なのでしょうが、夏空が顔をのぞけています。
かくして「半夏生」の記事、都合、五番煎じになりました。
小1の女の子が、一昨日の学校帰り、転んで、おでこにたんこぶをこしらえ、鼻血で服や運動靴を赤く染めて、泣いて帰ってきました。傘と水筒で両手がふさがっていて、とっさに手を付けず顔面衝突したらしいです。一緒に帰っていた上級生が助けてくれて、学童保育の先生を呼んで、我が家まで一緒につれてかえってくださったのでした。
パパママは仕事中ですから、我が家でしばらく様子を見ましたが、特に大事ではない模様。しばらくして仕事から帰ってきたママが、念のためお医者に連れて行きました。鼻が腫れるだろうが、骨やそのほかに異常はないとのこと。まずは一安心でした。
昨日は、4年生の兄のサッカーの試合を、元気に応援に行き、今日は、小学校の日曜参観日。学校から帰って、午後は、市のイベントで田植え体験をさせていただいたそうです。(中2の兄から2歳児の末妹まで。皆で田圃に入り、どろあそびを満喫したようでした、。)
夏の花が元気に咲いています。
ヒマワリ。

白いキョウチクトウ。

アガパンサス。

ヒメジョオン(姫女苑)ですよね。
二歳の孫が、この花を摘んできて。「目玉焼き」と言います。
そういえば、、、。



赤いタチアオイ。



ソリッドモノカラーで遊んでみました。

キキョウ。
秋の七草で「朝顔」と呼ばれるのはこのキキョウのことらしい。

これもソリッドモノカラーで、、、。





白いキキョウ。

アジサイ。

ムクゲ。



ヒマワリ。

どの色がカラーになるのかわかりません。行き当たりばったりです。
最後はアガパンサス。

今日はこれにて。
追伸、ネットでこんな記事を見ました。

安倍首相は都議選の応援演説で、ヤジを飛ばす聴衆に「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と力説しました。かなり離れた場所で、黙って演説を聞いていたお年寄りが「こんな人ってなんだ。都民だ、国民だよ」と急に声を上げました。震えながら声を出す姿が印象的でした。



開票速報が始まっています。
さて、都民の審判やいかに?

憲法くんは七〇歳、わが老父は九〇歳、いずれも五月生まれ、の巻 [今日の暦]

憲法記念日にちなむ記事、さらに続きます。
「憲法集会」のメインプログラムの一つは、中島茂樹さん(立命館大学名誉教授)の講演。「対米従属的軍事大国化から対米追随的共同派遣型戦争国家へ―「軍事大国化への途と安倍『改憲』戦略の視点から―」。長いタイトルです。しかも、12ページに及ぶレジメと、資料付きです。
いやはや、急にこんなハードな環境に放り込まれると、じんましんが出そう、、、と恐れたのですが、講義は、笑いあり笑いありそして笑いありの、爽快なものでした。五月晴れの空のように、何だか見晴らしが良くなった気がします。
皮切りは、今年の流行語大賞は何だろうか?という問いかけ。
会場からもすかさず「忖度!」と声が上がりましたが、中島さんも、きっと「忖度」が選ばれるだろう請け合い、かくも根深く「忖度」がはびこる日本社会の、とりわけ日本政治の特異性をあばきます。
その背景にあるのは?レジメから、かいつまんで引用します。
権威的集権システムの形成
1)国のあり方(統治構造)の抜本的改革
・政治改革(1994年)
小選挙区制・政党国庫助成の導入で、小泉郵政選挙に顕著に見られるように、政党執行部が「政党公認の可否」を盾に議員の生殺与奪の権限を握り、異論を排除する傾向を強めてきたこと。
・行政改革(1996~2001年)―内閣と内閣総理大臣の機能強化、中央官庁再編、など
2)第二次安倍政権下での「官邸主導」の拡大・強化・深化
1内閣官房  
「国家安全保障会議」の事務局・国家安全保障局や内閣人事局を設置
2内閣人事局の設置(幹部公務員の実質的な政治任用)
3独立行政機関への政治介入
・NHK
・日銀
・内閣法制局の専門性の破壊
・最高裁への人事介入
ウーン、ガッテンガッテンです。

もう一つのメインプログラムは、松元ヒロさんの4年ぶりの岡山公演。全編これ、涙と笑いと共感のひとときでした。
公演に先立ち、主催者側から、写真・動画の撮影や録音をご遠慮くださいとアナウンスがあり、著作権上の配慮が示されましたので、その意向を受けて、もちろん写真はなし。内容紹介も概要にとどめます。
ちなみに、松元さんの公認サイトはこちら。ヒロポンのインターネット大作戦 | information - winterdesign.net


また、「時事ドットコムニュース」に、「憲法70歳、まだまだ元気」=一人芝居で理念伝える-コメディアン松元ヒロさんという記事がありますので参考までにリンクを貼らせて戴きます。

1947年に日本国憲法が施行されてから、3日で70年を迎える。社会風刺を得意とするコメディアン松元ヒロさん(64)は、自ら憲法に成り切った一人芝居「憲法くん」を20年前から上演。自民党などの改憲論に対し、「僕がリストラされるって本当ですか」と問い掛ける。憲法の理念を8分間に込めた芝居は、昨年亡くなったタレント永六輔さんらに絶賛され、絵本にもなった。松元さんは「憲法はまだまだ元気」と訴えている。
(中略)
 「憲法くん」は絵本になり、昨年12月に講談社から出版された。絵本には、焼け野原となった街に憲法くんがたたずむ場面がある。「二度と戦争はしないと誓ってできたのが憲法。現実に合わないからと変えるのはおかしい」と松元さんは力を込める。


この日の公演では、案に相違して、おなじみの演目「憲法くん」そのものは演じられず、代わりに絵本「憲法くん」の紹介を等して、日本国憲法の意義とそれへの思いが熱く語られました。
出版元の講談社BOOK倶楽部のこのページに、松元ヒロ・ソロライブ「こんにちは、憲法くんです!の動画が掲載してあります。

今回の公演で、時間をかけて語られたのは、永六輔さんとの心温まる交流。特に、亡くなる数カ月前、「憲法9条をよろしく」と託されたというエピソードには、胸が熱くなりました。
他に、印象に残った話題にこんなものがあります。
・「押しつけられた憲法」と悪口を言う人があるが、良いものなら、「押しつけられた」とは言わず、ありがたく思って大事にする。
・外国のものは駄目と言うが、もともと日本のものは何?私は鹿児島の出身。人間のからだでたとえると、右足の伸ばしたつま先にあたる場所。昔は薩摩と呼ばれ、サツマイモの名で知られる。でも、私の地方ではサツマイモと言わずにカライモという。「唐」つまり中国から伝わった芋だから。
ところで、私がこの記事を書きながら、大いに触発された一つの話題について、いみじくもgonntan様が、この記事ノスタルジーの原点で触れておられます。

 このブログでは内田樹氏のブログを常時貼り付けているのですが、神奈川新聞昨日版に寄せた記事を読むと、この国の現状や政治家を含めた民意がハッキリとわかります。全文を読んでいただかないといけないのですが、要点だけ記せば
 【 安倍政権とその支持者たちの「かつて主権国家であった大日本帝国」に対する激しいノスタルジーは「主権のない戦後日本国」に対する屈辱感の裏返しである。 】
 【 日本の指導層の抱え込んでいる「主権国家でないことの抑圧された屈辱感」は日本国民に「主権者でないことの屈辱感」を与えるというかたちで病的に解消されることになった。それが特定秘密保護法、集団的自衛権行使の閣議決定、安保法制、共謀罪と続く、一連の「人権剥奪」政策を駆動している心理である。 】

 氏の確かな分析に納得します。

同じ内田樹さんの文章を、私もコピっていました(http://www.kanaloco.jp/article/248588)。二番煎じになりますが、少しだけ引用させてください。

 いま日本で起きている絶望的なまでの「公人の劣化」は何に由来するのか。結論から言ってしまえば「日本はアメリカの属国でありながら、日本人がその事実を否認している」という事実に由来する。日本社会に蔓延(まんえん)している「異常な事態」の多くはそれによって説明可能である。
 ニーチェによれば、弱者であるがゆえに欲望の実現を阻まれた者が、その不能と断念を、あたかもおのれの意思に基づく主体的な決断であるかのようにふるまうとき、人は「奴隷」になる。「主人の眼でものを見るようになった奴隷」が真の奴隷である。彼には自由人になるチャンスが訪れないからである。
日本はアメリカの属国であり、国家主権を損なわれているが、その事実を他国による強制ではなく、「おのれの意思に基づく主体的な決断」であるかのように思いなすことで自らを「真の属国」という地位にくぎ付けにしている。
(中略)
日本人は心のどこかで「属国であること」を深く恥じ、「主権の回復」を願っている。けれども、それは口に出されることがない。だから、その抑圧された屈辱感は病的な症候として表れる。安倍政権とその支持者たちの「かつて主権国家であった大日本帝国」に対する激しいノスタルジーは「主権のない戦後日本国」に対する屈辱感の裏返しである。
 けれども主権回復のための戦いを始めるためには、まず「日本は主権国家でなく、属国だ」という事実を受け入れるところから始めなければならないが、それはできない。痛苦な現実から目をそらしながら少しでも屈辱感を解除したいと思えば、「大日本帝国」の主権的なふるまいのうち「今でもアメリカが許諾してくれそうなもの」だけを選び出して、政策的に実現することくらいしかできることがない。それが対外的には韓国や中国に対する敵意や軽侮の表明であり、国内における人権の抑圧、言論の自由や集会結社の自由の制約である。
 (中略)
 改憲への熱情もそれによって理解できる。憲法に底流する国民主権のアイデアはアメリカの統治理念そのものである。それを否定することで、対米屈辱は部分的に解消できる。そして「国民に対してだけは主権的にふるまう」ことで国家主権を持たないストレスも部分的に解消できる。
 自民党改憲草案は近代市民社会原理を全否定し、むき出しの独裁政権を志向する病的な政治文書だが、それが全篇(ぜんぺん)を通じて「決してアメリカを怒らせないような仕方で対米屈辱感を解消する」というねじれた政治目標に奉仕しているのだと思えば、理解できないことはない

ああなんというさもしい「奴隷」根性!
サツマイモは中国伝来だけど、良いものは良い。日本の文字(漢字、平仮名、片仮名)は中国伝来の文字がもとになっているけれど、良いものは良い。日本国憲法は、権利章典、アメリカ独立宣言、アメリカ合衆国憲法、フランス人権宣言、ワイマール憲法など、世界の価値ある先見的な章典の精神を引き継いでつくられたものだが、良いものは良い。
アメリカとの友好関係は、他の諸国との友好関係と同様に大切だが、主権を棄てた従属的な「日米同盟」は、駄目。駄目なものは駄目。そこを認めないで、「美しい国」を云々し(注:デンデンではありません)、「決してアメリカを怒らせないような仕方で」自主憲法の制定を唱えても、ちっとも美しくないのです。
五月五日こどもの日は、郷里の老父母の元に家族が集まり、父の満九〇歳を祝いました。
小1の孫が手渡しているのは、生年月日に発行された新聞のコピーです。こういうサービスがあることを見つけたママが、手配して、老父(1927年)と老母(1930年)のものを手に入れてくれました。

庭のクレマチスも、毎年のことですが清楚な花を咲かせてくれています。

小4の孫が「地味に控えめな」四つ葉のクローバーを見つけました。

シュンギクに花が咲き、ベニシジミが吸蜜しています。

紫陽花の葉に、生まれたばかりのバッタの幼虫が、希望に燃えて大志をふくらませています。

慌ただしく連休が終わり、孫たちのはしゃぎ声で賑やかだった我が家も、閑寂を取り戻しています。大阪の孫一家も、無事帰り着いたそうです。次の再会はお盆です。
二歳児の手足口病は回復し、すっかり元気に遊んでいますが、今度は従妹の一歳児が感染し、ご機嫌ななめです。居住地が離れていますし、この間特に接触もしていないので、別ルートでの感染なのでしょう。いやはや、子どもはかくも頻繁に、次から次へと流行病にかかるものかと、改めて感心しています。
今日はこれにて。

知らざりしこと多きかな皐月晴 [今日の暦]

昨日の憲法記念日の記事の続きです。
「憲法集会」開会前の会場ステージです。

要項の表紙。

資料には、日本国憲法前文、第9条とともに、「あたらしい憲法のはなし」の一部分が紹介してありました。

集会では、開会挨拶の後、「新俳句人岡山支部」の大森恒夫さんが、故三上史郎さん(2015年没)の俳句をいくつか紹介しながら、お話をされました。

三上さんは、生前この憲法集会で俳句を披露されたこともあるそうです。あいにく、私は参加していない回だったようです。
ところでこの三上さん、思い返すと、ずっと昔、お目にかかったことがあります。正確に言うと、学習会で講義を受けたことがあるのです。講義の内容は、俳句?ではなくて、社会科学分野の学習会でした。岡山県北の新見市で学習塾をしておられたその教室を会場に、安保条約や平和や民主主義を学んだのだっただろうと思います。教職に就いたばかりの20代前半のことだったはずですが、まったく記憶は薄らいで、夢かうつつか、判然としません。


それより何より、その三上さんが俳句をなさっていたことなどまったく存じ上げませんでした。うかつにして知らないことばかりです。
紹介された句、どれも印象的ですが、2句だけ引用させていただきます。




次に岡山合唱団による合唱を聴きました。
最初は中島みゆきさんの「命の別名」。
実は私、どういうわけか、数少ない音楽CD(昔はカセットテープ)のうち、中島みゆきさんのものがいくつかあります。我が子がまだ幼い頃から、長距離ドライブするときたいてい車で繰り返し聞いていたものの一つがそれでしたから、物心ついてからは飽きられて別の曲をかけさせられるようになりました。
いまも、車で駆けることが多いので、孫がメロディを覚えていたりします。
ところで、この「命の別名」という曲は、私の手元にあるCDの中では比較的新しく、確か「大銀幕」というアルバムに収められていたと思います。 このアルバムは、おもに1990年代、TVドラマや映画で用いられた彼女の楽曲を集めたものであるらしい、とはうすうす知っていましたが、実際のドラマそのものは見たこともなく、それぞれどのようなことを歌った歌なのか知らないまま、運転中のBGMとして聞き流してきたのが実際のところです。
そのようなじじょうながら、「命の別名」という曲は、その絶唱が胸を騒がせる、また歌詞のひとことひとことがつよく訴えてくる、気になる曲の一つでした。


切れ切れに聞こえてくるフレーズを、勝手に解釈しながらも、こんな一言には、まったくそうだよなあとうなずきながら聞きます。


そして、命につく名前を「心」と呼ぶという痛切な一句を、しかも万感の思いを込めて声を張って歌唱する中島さんの歌声には、深く心を揺さぶられるのでした。

ユーチューブにこんなページがあります。

https://youtu.be/LwbX5fxH3Us
歌詞はこちらを参照ください。
http://j-lyric.net/artist/a000701/l0000c3.html
岡山合唱団の方が、歌唱の前に、この曲の解説を一言加えてくださいました。
去年の夏に相模原市で起きた障害者施設殺傷事件と類似の障害者蔑視に基づく残酷な事件(1995年に茨城県水戸市で発覚した知的障害者に対する暴行・強姦事件)をモデルとしたテレビドラマ『聖者の行進』のために、中島みゆきさんが書き下ろしたのが「命の別名」なのだと。
いやいや、うかつにして知らないことばかりです。
もう一曲、オリジナルのこんな曲も歌ってくださいました。

メインの、中島茂樹先生{立命館大学名誉教授)のお話と、松元ヒロさんの公演について書く気力と余裕がなくなりました。
手足口病の孫はすっかり回復。大きなはしゃぎ声を上げて兄姉と遊んでいます。



いろいろな花が次々と咲いています。





今日はこれにて。

祝!憲法君70歳、の巻 [今日の暦]

憲法記念日です。
過去の憲法記念日には、こんな記事を書きました。
2014年。お誕生日おめでとう。日本国憲法さん!

  今日は憲法記念日。
憲法の理想を現実に生かそうと考えるのか。
それとも、、憲法の定めを「解釈」によって限りなく「現実」に合わせていこうとしつづけるのか?
はたまた、その行き詰まりを手っ取り早く打開するため、憲法そのものをきれいさっぱり書き換えるのか?
いよいよ改憲論議も大詰めですね。

近代的な「立憲主義」の立場では、憲法というものは、政治権力の恣意的支配に対抗し、国民が権力を制御するためのものだそうです。
安倍さんが成立に熱意を燃やしているという自民党憲法草案(わかりやすい対照表をアップしてくださっています。また、ヤフー知恵袋のこのページも、参考にさせていただきました)は、どうも、国家権力が国民を縛るための道具にしたいらしいですね。

「外国から押しつけられた憲法」という古い論調が何か意味ありげに聞こえるとするなら、いま、日本国民自身が、腹の底から、もう一度この日本国憲法を選びなおす時だと思いますね。



 この先ご健勝であれば、2年先の2017年には「古希」を迎えられることになります。昔から、古来まれなものとして、その長寿を祝う年齢です。
いま、わがくにの平均寿命は、ずっとのびていますから、70歳といえども、「後期高齢者」にもとどかぬ「若さ」ですが、世界中の憲法さんのなかでも、最長寿に属する事は間違いないでしょう。
「寄る年波」というものもありまして、時の政権担当者の思惑で、本意ならざる「解釈」やら、「運用」やらを施され、若かりし日の輝くばかりの清新さには痛々しいばかりの影が差している事は否めません。
とはいえども、あなたのお陰で、私達日本人は、これまで68年間の長きにわたり、ただの一人も、戦争で人を殺すことがなく、一人の戦死者を出す事もないという「古来希」なる僥倖を享受とができたのでした。
(中略)
なんとしてでも、2017年の70歳を、無事健やかに迎えていただきたいものです。さらにその先、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、米寿(88歳)、白寿(99歳)のお祝いを、国民みんなで祝賀することができればと思うのですが、、、、。


 戦後70年・被爆70年の去年、憲法学者がこぞって「違憲」と指摘するなか、集団的自衛権容認の「戦争法」を数を恃んで強行したアベ内閣は、今度は「緊急事態条項」など戒厳令条項の導入をはじめとする明文改憲の動きをあらわにしています。選挙中はダンマリを決め込んで、選挙後にやりたい放題、のつもりでしょうが、その手は桑名の焼き蛤です。
(中略)
もちろん、憲法は金科玉条でなく、時代の変化に応じて充実・発展させるべきで、そのため、タブーなくフランクな議論が盛んに行われることは、憲法自身が望んでいることに違いありません。自らの国の最高法規について、国民ひとりひとりが、親しみを持って語り、理解し、愛し、誇りに思い、使いこなすことは、言うまでもなく大切なことですから。
 一方、憲法を国民議論の俎上に載せようとする人たちのなかには、、あらぬ難癖をつけて悪罵の限りを投げつけて憲法の尊厳をおとしめ、汚い唾まで吐きかけようとする人たちが存在することも軽視はできません。おそらく日本国憲法が世界に先駆けて指し示す、平和で自由な、徳高い民主国家のあり方を、まぶしすぎると感じたり、あるいは煙たく窮屈に感じる人々が、ごく少数ながら存在するのでしょうか。たとえば、憲法の平和的・民主的精神を除去することによって、何らかの利益を手中にできるような人々とその手下、雇い人の類でしょうか?(どんな人たちなんでしょうかね?)
市井の一市民が、憲法に対して何を考えようが、何をしゃべろうが、それは自由であって、誰からもとがめられることはありません。
しかし、たとえば、アベさんのこんな無礼な発言を、憲法九十九条は許していないはずなのです。
みっともない憲法
 あの、日本国憲法の前文にはですね、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したと書いてあるんですね。つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと、言っている。そして、エエ、専制と隷従、圧迫と偏狭をこの地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う、自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているんじゃないのですよ。
国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、いじましいんですけどね、みっともない憲法ですよ、はっきり言って。これは日本人が作ったんじゃないんですからね。こんな憲法を持っている以上ですね、外務省も自分たちが発言するというのは、憲法上、義務づけられていないんだから、それは国際社会に任せるんですからね。精神がそうなってしまっているんですね。まあ、そこから変えていくと言うのが私は大切だと思います。
自分の国語力・読解力のなさを棚に上げて、ちんぴらやくざの言いがかり同然のイチャモンをつける態度は、明白に公務員の憲法遵守義務違反です。
憲法第九十九条は、こう定めています。
 第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

さて、今年は、超党派の国会議員らでつくる「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根康弘元首相)が5月1日開いた会合で、安倍総理は、「機は熟した。今求められているのは具体的な提案だ。理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときで、しっかりと結果を出さなければならない」、「この節目の年に必ずや歴史的一歩を踏み出す。新しい憲法を作っていくことに全力を傾けると誓う」などと豪語し、憲法記念日の今日は、日本会議が主導する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の改憲集会にビデオメッセージを寄せ、そのなかで、2020年をめざして9条を改正して、自衛隊を明文で書き込む、などと踏み込んだ発言をしています。
朝のNHK番組では、戦後文部省が作成した教科書「「新しい憲法のはなし」とその復刻版の紹介が、珍しく丁寧にされていました。

あたらしい憲法のはなし (小さな学問の書 (2))

あたらしい憲法のはなし (小さな学問の書 (2))

  • 作者: 童話屋編集部
  • 出版社/メーカー: 童話屋
  • 発売日: 2001/02
  • メディア: 文庫

また、9時からの政党討論会のテーマは「憲法(改憲)」でした。午前中はちらちらそれを見ながら、孫のお相手。
午後は、「憲法の集い」に参加してきました。集会のプログラムには、4年ぶりという松元ヒロさんの公演も含まれていて、大笑いしながら、ガンバレ日本国憲法君!の思いを新たにしました。その話題は、回を改めてまた後ほど。

憲法くん

憲法くん

  • 作者: 松元 ヒロ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/12/16
  • メディア: 単行本

今日の画像は、掲載しそびれていた4月の花々です。
めざす鳥に会えなかった深山公園は、ソメイヨシノが散って八重桜が咲き誇っていました(昨日行ったら、これも散っていました)











いろいろなツツジが、山一杯に咲き広がっています。(これは現在も見頃が続いています。)











よく見ると、右の方に年配のアベック?蛾腰を下ろしてツツジのお花見です。

花の色もいろいろです。



これはシャクナゲ。

トネリコ?



花ではありませんが、紅葉の若葉が美しい。



今日の付録。
故郷からの帰り道、山のあちらこちらを彩っていた花。
確かに藤の花も花盛りで、山を薄紫に彩っているのですが、よく似た色のこれは、、、桐の花でしょうね。

花言葉は「高尚」だそうですね。敢えて愛でる人も少ないでしょうが、よくよく見れば気品があります。
今日はこれにて。

若草の刈り払われて薫りけり [今日の暦]

カレンダーの今日の欄に「清明」と印刷してありました。

はて、何のことかしら?

陰陽師の安倍晴明に関係あるのかな?(清と晴の違いはありますが――)

ところで、安倍晴明って安倍晋三と関係あったっけ?ウィキペディアによりますと、「(奈良県にある安倍文殊院には、)平成22年(2010年)には、安倍氏と関わりがあるとされる安倍晋三が『第90代内閣総理大臣
安倍晋三』名義で石塔を寄進している。」とあります。

デンデン殿の遠い先祖が安倍清明に繋がるかどうか、その辺のところは眉唾ですが、今渦中の人安倍昭恵夫人が、陰陽道どころか、神がかり的な現象やスピリチュアルな世界にめっぽう興味がおありの様子は、あれこれ漏れ聞こえて参ります。それだけじゃなくて、夫のデンデン殿も相当のものとネットでは話題になっておりますな。出典は、言論サイト「BLOGOS」に掲載されたという、安倍昭恵総理夫人と社会学者の西田亮介氏との対談。少々孫引きいたします。

 
「日本の精神性が世界をリードしていかないと地球が終わる」 安倍昭恵氏インタビュー

安倍:あと先祖を信じていて。うちの実家は森永製菓というところなんですけど。曾祖父(森永太一郎氏)がアメリカに渡って、向こうでお世話になったのが牧師さんで。日本に帰ってきてから会社のシンボルをエンゼルマークにするんですよね。

お菓子の会社が、ある程度の大きさになった時、父方の方の曾祖父(松崎半三郎氏)に社長が変わるのですが、その後、太一郎はずっと全国を布教して歩くんですね。子供たちがきちんと栄養を摂れて、幸せに暮らせるようにということをずっと考えていた人なので。

森永太一郎は佐賀の伊万里出身なんですけど、今も私は九州の方に向いている感じがしちゃうんですよね。そこに立ち返って行っているような。誰かの意志がいつも降りてくる感じ。

例えば、大本教の出口なおさんとか。最近だと、広島で折り鶴を織って、10歳で亡くなった佐々木禎子さんとか。なんだか導きがあって、パールハーバーの折り鶴を見たら、そのあと連絡がありました。

佐々木さんの甥子さんと会って話をしたり、ニューヨークで「グラウンドゼロのところに寄贈した鶴があるんで、観に行ってください」と言われたりとか。

「折り鶴の平和プロジェクト作りましょうよ」みたいな話が出てきたりとか。ちょっと行くと、物事がバーっと動いていくのは、私の力ではなくて、何かに動かされて、そこにいて。それこそ渦を巻いていってるんだなって。

主人自身も特別な宗教があるわけじゃないんですけど、毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人なんですね。


西田:何をお祈りされているんですか?

安倍:感謝の言葉を。

西田:それは誰に対してですか?

安倍:神様なのか、先祖なのか、分からないですけど。何か自分の力ではないものに支えてもらっていることに対しての感謝を。

西田:どこに向かって?虚空に向かってなんですかね?

安倍:分からないです。多分、自分に言い聞かせているのかもしれないけど、よく分からないです。

【BLOGOS 2016.11.9.】


「 毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人」「どこに向かって?」「分からないです。」――――ちょっとコワイ、、。

なんてとりとめもない考えをめぐらせておりましたら、ニュースで、今日は、二十四節気の一つ、「清明」だと教えてもらいました。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典にはこうあります。

清明
せいめい
二十四節気の一つ。太陰太陽暦の3月節 (3月前半) のことで,太陽の黄経が 15°に達した日 (太陽暦の4月5日か6日) に始り,穀雨 (黄経 30°,4月 20日か 21日) の前日までの約 15日間であって,その頃季節的にすがすがしい南東の風が吹くので,清明と名づけられた。現行暦ではこの期間の第1日目をさす。昔中国ではこれをさらに5日を一候とする三候 (桐始華,田鼠化為じょ,虹始見) に区分した。それは,桐の花が咲きはじめ,もぐら (田鼠) が家鳩 (じょ) に化け,虹が見えはじめる時期の意味である。


ちなみに沖縄地方では「清明」をシーミー、ウシーミー(お清明)と呼び、一族でお墓にお参りするしきたりがあるそうですね。

昨日今日と、二日続けて、郷里の老父母のもとを訪ねてきました。

きのうは、今春中2、小4,小1になる孫を連れて、昼飯をごちそうになりに行きました。一歳児を連れた長女も合流し、賑やかで楽しいひとときを過ごしました。

庭に咲いていたラッパ水仙。







梅も咲いていました。



ハナモモです。




庭のフキノトウ。



野原のヒメオドリコソウ。



タンポポの綿毛。



畑の野菜に花が咲いています。











春たけなわ。いい季節になりました。

が、思わぬアクシデントがありまして、みんなが外出から帰ってきて、一足先に車から降りて、家の入り口の鍵を開けようとしてくれていた父が段差で転倒し、肩を強打。念のために病院を受診すると、骨折。入院の必要はないが、三角巾で固定して一ヶ月ほど加療が必要ということでした。

不幸中の幸いと申しますか、はたまた好事魔多し、花に嵐と申しますか、人生一筋縄では行きません。



今日は届ける物もあり、一人で郷里まで往復してきました。

上天気で、清明の名にふさわしく、草木の勢いもきわめて盛んです。と言うことは、冬の間じっと我慢してきた雑草も、春の気を受けて旺盛な生命力をみなぎらせています。

慣れない草刈り機を使って、近くの畑の周辺の草刈りをして来ました。春というには強すぎる陽射しで、汗びっしょりになりました。

刈り払われた草の青い香りが、鼻腔深くに快くしみこみます。平安の憩いを邪魔されたアマガエルや昆虫たちが、ぴょんぴょんと何匹も飛び出してきます。残念ながら、カメラを携行する余裕はありませんので、目で見て楽しんだだけでした。

春分の日に春分の日を考える、の巻 [今日の暦]

きょうは春分の日。

 ウィキペディアには、「春分の日」をこう解説してありました。
春分の日(しゅんぶんのひ)は、日本の国民の祝日の一つであり、春分日(天文観測により春分が起こるとされる日)が選定される。通例、3月20日から3月21日ごろのいずれか1日。

しばしば、「昼と夜の長さが同じになる。」といわれるが、実際は昼の方が長い。詳細は春分を参照のこと。また、本項において、国民の祝日となる日を「春分の日」、天文学上の春分が生じる日を「春分日」と区別する。

国民の祝日

「春分の日」は、日本の国民の祝日の一つである。1948年(昭和23年)に公布・施行された国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年法律第178号)によって制定された。祝日法第2条では「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」ことを趣旨としている。「春分の日」の日付については後述。

休日としては、1878年(明治11年)改正の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治11年太政官布告第23号)による春季皇霊祭から続くもので、1947年(昭和22年)に廃止される休日ニ關スル件(昭和2年勅令第25号)までこの名称だった。

(中略)

日付

「春分の日」の具体的日付は、たいてい3月20日から3月21日ごろのいずれか1日となる。祝日法の上では「春分の日 春分日」つまり同法上の「春分の日」を「春分日」とすることのみが規定され、日付は固定されていない。実際の各年の「春分の日」は、国立天文台が作成する『暦象年表』という小冊子に基づき閣議において決定され、決定する日の前年2月第1平日付の官報で暦要項として公告される。すなわち、天文学における「春分日」は、天文観測に基づいて地球の運行状態などが変わらないと仮定できる範囲で2年後以降のものも計算により特定できるが、国民の祝日としての「春分の日」は前年の2月にならなければその通りとまでは確定できない。ただし、これまでのところ天文計算によって求められた「春分日」以外が「春分の日」とされたことはない。


読んでもよくわかりません。けっこうややこしいのですね。

国立天文台のHPにこんな記事がありました。

まず、春分の日・秋分の日はいつどのようにして決まるのでしょうか。

祝日としての春分の日・秋分の日は、前年の2月1日に、春分の日・秋分の日の日付が書かれた「暦要項(れきようこう)」が官報に掲載されることによって、正式決定となります。例えば、2001年2月1日の官報には、2002年の春分の日・秋分の日が書かれた暦要項が掲載されています。逆に、それより前には、春分の日・秋分の日は「まだ正式には決まっていない」ということになります。(ただし、行政機関の休日には官報が発行されませんので、2月1日が該当する場合には翌日以降の掲載となります。)

しかし、カレンダーを作っていらっしゃる方や、何年か分の行事予定を立てられている方などの中には、来年、あるいはさらに先の年の春分の日・秋分の日を知りたいと思っている方はたくさんいらっしゃるようです。実際、「正式決定でなくてもよいので、もっと先の春分の日・秋分の日を教えてほしい」というご要望をいただくことがよくあります。

日本の祝日を定めている「国民の祝日に関する法律」によれば、春分の日は「春分日」、秋分の日は「秋分日」を採用するとされています。「春分日」「秋分日」というのは天文学上の呼び名で、次のように定義されています。

太陽は星々の間を移動していて、その通り道を「黄道」といいます。また、地球の赤道を天にまで延長したものを「天の赤道」といいます。黄道と天の赤道は、お互いが傾いているために2点で交わり、その交点のうちの一方を「春分点」、もう一方を「秋分点」と呼びます。そして、太陽が春分点・秋分点の上を通過する瞬間がそれぞれ「春分」「秋分」と定義され、「春分」「秋分」を含む日のことを、それぞれ「春分日」「秋分日」と呼ぶのです。

地球の運行状態などが現在と変わらないと仮定すると、将来の春分日・秋分日を計算で予想することができます。計算結果を下に載せておきます。ただし、地球の運行状態は常に変化しているために、将来観測した結果が必ずしもこの計算結果のとおりになるとは限りませんので、あくまで参考としてご覧になってください。
表1 西暦2000~2030 年の春分日・秋分日 西暦年 春分日 秋分日
2000年 3月20日(月) 9月23日(土)
2001年 3月20日(火) 9月23日(日)
2002年 3月21日(木) 9月23日(月)
2003年 3月21日(金) 9月23日(火)
2004年 3月20日(土) 9月23日(木)
2005年 3月20日(日) 9月23日(金)
2006年 3月21日(火) 9月23日(土)
2007年 3月21日(水) 9月23日(日)
2008年 3月20日(木) 9月23日(火)
2009年 3月20日(金) 9月23日(水)
2010年 3月21日(日) 9月23日(木)
2011年 3月21日(月) 9月23日(金)
2012年 3月20日(火) 9月22日(土)
2013年 3月20日(水) 9月23日(月)
2014年 3月21日(金) 9月23日(火)
2015年 3月21日(土) 9月23日(水)
2016年 3月20日(日) 9月22日(木)
2017年 3月20日(月) 9月23日(土)

2018年 3月21日(水) 9月23日(日)

(以下略)


ちなみに、国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の定めはこうです。

第2条
「国民の祝日」を次のように定める。

元日1月1日年のはじめを祝う。
成人の日1月の第2月曜日おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
建国記念の日政令で定める日建国をしのび、国を愛する心を養う。
春分の日春分日自然をたたえ、生物をいつくしむ。
昭和の日4月29日激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
憲法記念日5月3日日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。
みどりの日5月4日自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
こどもの日5月5日こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
海の日7月の第3月曜日海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。
山の日8月11日山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する。
敬老の日9月の第3月曜日多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。
秋分の日秋分日祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。
体育の日10月の第2月曜日スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。
文化の日11月3日自由と平和を愛し、文化をすすめる。
勤労感謝の日11月23日勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。
天皇誕生日12月23日天皇の誕生日を祝う。


善良な国民としましては、「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」という法の定めの通り今日一日を過ごす所存です。

朝のゴミ出しをかねて、朝散歩。昨日と同じようなコースをたどってみます。

手前にシルエットで写っているのがコブシの木。小川を挟んで正面にソメイヨシノの並木道が続いています。遠い連山の陰から、朝日が顔を出します。



大きな花を咲かせている枝もあります。




こちらは、モクレンのツボミ。



真ん中の木がモクレンです。



これは別のモクレンの木です。ご近所のオタクの庭にそびえています。大きな白い花弁がつぎつぎとひらきはじめています。



野菜の黄色い花が朝日を浴びています。



路傍のヒメオドリコソウ。今日も霜を宿しています。



ピンクの木瓜のつぼみ。





 ご近所のスノーフレーク。



キタテハですか?日中暖かくなると、蝶の姿をちょくちょく見かるようになりました。



拡大します。



ツグミは、依然としてよく姿を見せます。



農機具と並んで、なんか面白い気がしました。



先日、M師から、大変珍しい種類のツグミの情報を教えていただきました。

図鑑にも載ってない珍しい鳥だそうです。

まずこれは、ギンムクドリというそうです。











そして、これはカラムククドリだそうです。







撮影はM師。著作権もM師に属しますから画像のコピーはお控えくださいね。撮影場所は、ご友人のお庭だそうです。驚きです。

「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」ことへの、思いを強くしたことです。

ところで、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ためには、普天間基地の辺野古移設、駄目でしょう。ジュゴンだけじゃない、美しい沖縄の自然と生物にとってメーワクこの上なし。もちろん、県民のくらしや安全にとっても、、、、。

オスプレイの飛行訓練、駄目でしょう。

osupureihikou.jpg


共産党山下芳生議員の国会質問(3/13)によると、CV22オスプレイの横田基地配備にあたり、2015年に米軍が作成した環境レビューには「鳥類は飛行場周辺における巣作りをやめる可能性が高く、他の場所に巣を作るだろう」と記載されている由。「鳥類はいなくなるけど、他で巣をつくるからいいんじゃないのと。こんな無責任な環境レビューはない」(山下氏)。まったくです。

無差別空爆、駄目でしょう。昨日の記事にも書きました。戦争は最大の自然破壊です。平和実現の道を探ることこそ最大の自然愛護、生命尊重でしょう。

とくに、最大の自然破壊兵器は、なんといっても核兵器です。核なき世界実現へと向かう世界の流れに、唯一の被爆国日本の政府が消極的?駄目でしょう。

原発再稼働、駄目でしょう。「自然」と「生物(人間を含む)」への壊滅的な損害は、取り返しがつきません。

またまたとりとめのない素人政治談義に終わった春分の日でした(汗)。

夜になってから、かなり大きい雨だれの音がきこえています。春に一歩近づくのでしょうか?春だというのに、インフルエンザ罹患者がまた増えました。小三の孫が熱を出し、休日診療医を受診したところ、やはりA型だそうです。恐るべしインフルエンザですね。

きょうはこれにて。


洒落にもならぬ911の119、の巻 [今日の暦]

身の回りのことであれこれしている内に、ブログ更新が滞っています。

前号記事が9/11付けでした。

9.11のできごとについて書きかけていました。

このブログを始めたばかりの2013年の9月に、こんな記事を書きました。

◆もうひとつの911

 今日、9月11日は、サルバドール・アジェンデ大統領の命日!です。1973年、あれからもう、40年になるのですね。

wikiの「チリクーデター」の記事から引用します。
東西冷戦の最中の1970年、サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。なおこれは、南アメリカにおいて自由選挙で社会主義政党が選ばれた初めての例であった。
しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部、さらにドミノ理論による南アメリカの左傾化を警戒するアメリカ合衆国は反発し、アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。そして、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト将軍らの軍部が軍事クーデターを起こした。
首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごと爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった

(中略)

なお、一般に「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。 

ピノチェト率いるクーデター軍に包囲され、激しい銃撃を受けながら、アジェンデは勇敢に最後のラジオ演説を行います。私は、学生時代、この最後の演説が録音されたテープを手に入れ、銃声が響く中、毅然として国民に静かに訴えるアジェンデの肉声を心に刻みました。選挙で選ばれたアジェンデ人民連合政権は、当時の若者達にとって希望の灯台でしたが、初めて聞いた大統領の肉声が、最後の声とは、皮肉なことでした。
ユーチューブに「アジェンデ最後の演説日本語字幕つき」を見つけました。

http://www.youtube.com/watch?v=SG3f08LVwhE


一方のアメリカ同時多発テロから、すでに15年。感慨を禁じ得ません。

このテロを契機として、アメリカはアフガニスタン侵攻、ひきつづくイラク戦争につきすすみますが、それはテロの根絶に結びつかないばかりか、新たな憎悪の連鎖、報復の連鎖を生み、その泥沼から抜け出す道を人類は未だ見いだしていません。

これまでも、繰り返し引用しましたが、当時書いたこんな記事が、なお過去のものになっていないことは、痛ましい限りです。


◆ジャイアンとスネ夫に関する覚え書き、の巻


 2003.2.15

それにしても、イラク・朝鮮半島情勢は、人類史を逆戻りさせる愚劣さです。「ならず者国家」を成敗する先頭を、一番のならず者が突っ走るの図。泣くに泣けず笑うに笑えぬ出来損ない笑劇に、どこまでつきあわねばならないのでしょうか?

「空爆」は、民衆の側から見れば、「空襲」です。逃げまどう民衆を念頭に入れないアメリカの視点は、ベトナム以来変化なしということか?「戦場」が常に自国の外にあったアメリカにとって、逃げまどう民衆の姿はイマジネーションの限界の外にあるのかもしれません。

では、日本の姿勢はどうなの?「悪い政府」の統治下であろうがなかろうが、各地の大空襲とヒロシマ・ナガサキの辛酸を嘗めた日本の民衆の視座からは、「空爆やむなし」の結論は、生まれる余地のないもの。にもかかわらず、NATO傘下のヨーロッパ諸国に比べてさえもふがいない追随三昧。嘆かわしい限りです。

2003.2.26 

フランスのリベラシオン紙のコラムは、ブッシュを裸の王様にたとえたと言います。前々からそう思ってました。「王様は裸だよ」の声を、率直に伝えてあげる方が忠義かつ親切というものでしょうに。「お美しい」「お似合いでげす」のおべっかを、自分ばかりか周囲にも強要する幇間(太鼓持ち)の罪は如何?リンク集を緊急編成しました。

2003.4.20 ブッシュさん、3歳児をひねりつぶして、「勝った勝った」と誇っても、誰も腹でケーベツするだけ。ただ、手のつけられない乱暴者のやることだから、顔をしかめて黙って見ているまでのこと。

でも、ブッシュさんは気づいているのかしら?あなたに突如「ならず者国家」の烙印をおされ、第2第3のイラクとしての標的にさらされるおそれを感じている国々が、このイラク戦から何を学ぶか?について。

「力こそ正義」という、ブッシュ流の新しい(実は西部開拓時代以前の未開野蛮な)むき出しの力の政策の前では、国連中心の国際秩序を誠実に遵守することは愚挙であり、ましてや国連査察に誠実に応じたり、大量破壊兵器の廃棄など馬鹿正直に実行するなどもってのほか。細菌兵器、化学兵器、核兵器、無差別テロ攻
撃・・・いずれをとわず、物量に勝るアメリカに「軍事的」に対抗する道すなわち無限の軍拡の連鎖、憎悪と報復の連鎖への道をひた走るしかない、と、向こう見ずな破滅的な決意を促したに違いないことを。

ブッシュ=アメリカをジャイアンに喩えた人がいました。ジャイアンは、自分のコンサ-トを誰もが歓迎しているに違いないと信じているのでしょうね。メーワクに感じながら、「いや」と言い出せないのは、ジャイアンに正義が存するからではなく、彼の腕力をはばかる故であることは、誰もが知っています。知らぬはジャイアン一人でしょう、かわいそうなジャイアン。

そして、ジャイアンの正義は、彼の腕力を上回る力(ドラエモン由来の)によってついえ去るしかないのです。ジャイアン少年は、心底、真の友情を求めながら、たまたま他を圧する腕力と粗暴さを備えていたが故に、怯えと追従と憎しみをもって遇されるしかなかったのです。もしも彼が、平凡な腕力の少年であったなら、その純朴な個性はより好ましい輝きを増し、周囲から真に愛され、好ましい友情を獲得できたに違いないのに・・・。

リンカーンの国、ホイットマンを生んだ国、民衆愛と寛容な民主主義の伝統ある朗らかなアメリカが、なぜこんなにも野蛮で狭量なふるまいしかできないのでしょうか。ベトナム戦争への苦い反省も忘れたかのように。ソ連、東欧の自滅をへて、対立軸を失い、「一人勝ち」してしまったことの不幸なのでしょうか?ジャイアンの不幸、孤独との相似が、なにやら真実味を帯びてきました。



また、今年7月、◆英チルコット委員会報告で際だつ日本の頬被り体質?の巻では、こう書きました。

アメリカでは独立調査委員会が2005年3月、イラクの大量破壊兵器(WMD)の問題を巡る米情報機関の判断は『完全に過っていた』とする報告書を公表しました。

オランダでは、独立調査委が10年1月、「イラク侵攻は国際法上の権限がなかったとする約550ページの報告書を公表しました。

「ブッシュのプードル」と揶揄されたブレア政権がイラク戦争支持を表明するよりも早く、ブッシュ演説のわずか3時間後、「アメリカのポチ」を演じ続けるわが日本政府は、全世界に先駆けてイラク戦争支持を表明したのでした。(当時、その小泉内閣で官房副長官をつとめていたのがアベさんでした。)

さて、その日本政府の政策決定の是非は、どう検証されたのでしょうか?

(中略)
日本政府は2012年12月、「対イラク武力行使に関する我が国の対応」という短い報告書を発表。開戦の大義名分とされた大量破壊兵器(WMD)が発見さ
れなかったことを「厳粛に受け止める」としましたが、公表されたのはA4・4枚の「概要」だけで、報告書の全容は、「公開すると関係国との信頼関係を損なう恐れが高い情報が多く含まれている」(外務省)として公にされていません。
昨年の「戦争法案」審議においても、アベ首相は「大量破壊兵器を所有していないことを証明できなかったイラクが戦争を招いた」などと、大義なきイラ ク戦争への支持・加担の責任を回避し続けています。

過去の過ちへの検証も反省もないまま、なし崩し的に新しい過ちに足を踏み出すのは、日本の保守政治の(あるいは日本人の?)お家芸なのでしょうか?

すでに周到に戦争法も秘密保護法もととのい、近く「アベノミクス選挙」と称するカモフラージュでまんまと議席の2/3をかすめ取ろうものなら、一気呵成に「悲願」の改憲もやってのけ、自由に戒厳令体制をしくことができるフリーハンドを手に入れた暁には、地球のどこかでアメリカが引き起こす戦争に、当事者として「わが軍」を心置きなく参戦させられる『美しい日本』が現出するはずと、アベ一族のお歴々、うっとりと夢見ておられるのでしょうか。しかしそれは、「無知の無恥」というものですぞ。

9/10(土)は、じいじ.ばあばは郷里の実家を訪ね、ちょっとだけ草掃除の手伝いをし、野菜をたくさんもらって、帰り道、娘のアパートに寄って、お裾分けして帰りました。生後一〇ヶ月の孫が、ハイハイとつかまり立ちを見せてくれました。

家の近所に住む四人の孫たちは、それぞれ、部活やサッカー、保育園の行事などで大忙しだったようです。

翌日の9/11(日)、上の記事を書きかけていましたら、ママが、一歳半の孫娘を連れて来て、昨日から熱があって手が反せないので、家事の間、ちょっと預けて帰りました。

いつものように、ジイジ、バアバ二人がかりで、あやしたり機嫌を取ったりしていましたが、突然フラッとして後ろに倒れそうになったり、急に目を見開いて怖いものを見たような大声を上げたかと思うと、ひきつけを起こしてけいれんを始めました。

慌てて、バアバがママのところに抱いて帰り、私が119番に電話をしました。

 大昔、自分の娘が二才の頃、顔を割れたガラスで切る大けがをして救急車を呼んだことがありましたが、その時の法が平静でいられたようで、今回は我になく取り乱し、声がうわずってしまいました。幸い、10年ほど前から、ごく近所に消防署の出張所があり、そこに救急車も常置してあるらしく、思いもかけない素早さで、サイレンが聞こえ、安心しました。幸い、最寄りの総合病院の救急外来で診察を受け、二時間ほど点滴してもらって、無事に帰りました。40℃を超えていたらしい高熱も下がり、昨日一日保育園を休ませましたが、境南愛護ともなかったように登園しています。

 救急車をタクシー代わりに使うべからずというキャンペーンを、もっともなことと思うので、極力危急の時にかぎって利用するつもりですが、そうはいっても、これまでも何度かお世話になりました。

中一の孫は、幼児の頃、鍋のなかの熱い味噌汁を浴びてやけどをし、初めてお世話になりました。二度目は、熱けいれんで。一人で二度も救急車で運ばれた経験は、必ずしも多くはないでしょう。ママ曰く、前回の経験があるので、今度は落ち着いて対処できたたようで、救急隊員の質問への応答ぶりから、「医療従事者ですか?」とたずねられたそうです。

最初の味噌汁事件では、親・大人の監督責任をとがめられたようですが、いずれの経験も、「タクシー代わり」と非難されようもない重篤な症状でしたので、救急隊・病院ともに懇ろな対応をしてくださり、感謝に堪えません。

と、考えをめぐらせているうちに、ふと思いました。このように、一市民の生命・健康が優先されることは、人間として当然の権利には違いありませんが、時と場合と条件によってはそれが満たされないことも希ではないのではないか。たとえばテロ、たとえば空爆、たとえば自然災害といった危急の事態のもとでは、人一人の命はいきおい軽んじられざるを得ないのでしょう。

「恵まれた環境に感謝」「日本に生まれてよかった」と言う感想に終わるのではなく、人一人の命と健康が、ひとしく重んじられる世界、世の中を、展望したいと切実に思うのです。

9/12(月)は、パソコン作業には追われたのですが、ブログ更新に手が回りませんでした。
それにしても、涼しくなりました。

9/13(火)は、未明から激しい雷鳴がして、土砂降りの雨でした。

雨がやっと上がった昼前に、少しだけ散歩しました。





昨日、今日の散歩道で出会ったアオサギをご紹介します。



























きょうはこれにて。

71年目の終戦記念日の日常雑話、の巻 [今日の暦]

71年目の終戦記念日です。

地元紙「山陽新聞」の今日付夕刊の第一面は、見出しに

終戦71年 戦没者追悼式 

首相「加害」に触れず 

陛下、再び「深い反省」


と、ズバリ。

そして、記事のリードでは、「安全保障関連法の本格運用や憲法改正論議の加速が見込まれ、平和の在り方も問われる中、安倍晋三首相は式辞で『戦争の惨禍を決して繰り返さない』と強調。ただ2013年以降3回の式辞と同様に、歴代首相が触れたアジアへの加害と反省には言及しなかった。天皇陛下はお言葉で、昨年につづき、『深い反省』に触れられた。」と、書いています。記事本文でも「首相は、(中略)過去3回と同じく『不戦の誓い』との文言は使わなかった。」と指摘しています。

これを見た妻が.「こんなことを書いたら、また自民党が怒るで」とつぶやきます。

「easops tongue」という言葉が思い出されます。直訳すれば「イソップの舌」「イソップの言葉」といったところでしょうか。「奴隷の言葉」と訳されたりします。専制独裁の元で、身の安全を保つためには、遠回しの言い方が求められたということなのでしょうが、今やあたかも、時代の約束事に成り上がっている感もあります。オソロシヤ。



一昨日立ち寄った蒜山(ひるぜん)高原の眺めです。









高速道を通って、実家に向う途中、夕日が見えました。運転中ですので撮影などできません.ロケーションはいまいちですが、ちょっとした停車スペースに車を停めて、証拠写真を残しておきます。







その夜の月です。



トリミング画像です。



一夜明けて、翌朝の故郷の景色。







稲穂が、ここまで実っています。

さらに県北部の寒冷地帯では、もっと田植えが早いので、稲穂の生育も早いはずです。















故郷の初秋の朝景色

故郷の初秋の朝景色 posted by (C)kazg 故郷の初秋の朝景色

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先週受けていた半年に一度のCT,MRIの検査結果を聞きに、今朝は病院へ行ってきました。手術後三年目にして転移の兆候はなし。おかげさまで順調です。

昨日は保育園児の姉と、小三の男の子と一緒に深山公園へ行き、蝉の抜け殻などたくさん拾ってきました。田舎のおじいちゃんも、拾ってくれていました。それらを元に、小3生は今日は夏休みの自由研究を我が家で、兄の中学生は自分の家で、貯まっている宿題をフル稼働。明日が提出日のものもあるそうです。お盆を過ぎると、急に夏休みの終わりが見えてくるようです。

きょうはこれにて。

何かとせわしい山の日は暑かった、の巻 [今日の暦]

「山の日」という休日が新設されたことを忘れていました。

大阪の孫一家が、昨夜帰省してくるはずでした。パパの仕事が上がってから、夜中に車を走らせて、深夜~未明に到着するはずが、pm11時過ぎに連絡があり、高速の途中でバッテリートラブルに遭い、JAFを呼んだ由。それからしばらくして、修理は困難で、レッカー車で引っ張って、大阪にひきかえすことになったとのことでした。大事故につながらなくて余暇ってものの、不運な盆休みです。
結局、高速バスの今夜の便に空き席があったので、pm10時ころ到着予定。ご苦労なことです。
今朝は、ひんやり過ごしやすい朝でした。

朝散歩から帰ったころは、かなり気温が上がり始めています。

そして、夕方には、、、。

朝散歩はいつものコース。稲の背丈がかなり伸びています。
冬の訪れが早い県北部では、田植えが早いので、もう7月の頃から稲穂が実っていますが、こちらはまだまだすくすくと成育中です。

早朝から農作業。というより、早朝こそが作業の適時でしょう。



今朝の稲穂の雫。

トリミングします。

路傍の朝顔。




田圃の中のこの花の名。また忘れました。



唐辛子も色づいて。








セセリチョウですが、、チャバネセセリかイチモンジセセリか、見分けられません。

全部、チャバネセセリでいいのかな?














夏休み中の孫のお供で、今日もメダカ取り。






日中は余りに暑いので、夕方5時前頃に出かけましたが。まだまだ暑い。

今日はこれにて。


そのとき十歳の私は、補遺 [今日の暦]

昨日の記事の仕上げの頃は、ほとんど居眠りをしながら作業していましたので、集中力が続きませんでした。そうでなくとも長い文章になっているので、ほどほどに切り上げりのは妥当と言えましょうが、もう一つだけ、胸を打たれたエピソードに紹介をしておきたいと思います。

昨日の記事に、「戦争は、一〇才の子どもたちの手元から大切なものを次つぎともぎ取っていき、岡山空襲は、いわばとどめに、街を、家を、家族を、友人を焼き尽くしました。」と書いた時に、もう一つ念頭にあったのはこのエピソードでした。







 クレパスの涙

その夜、ぐっすり眼っていた。祖母のただならぬ声。醒めきらない目に、 一面赤く染まった縁側のカーテンが映った。蚊帳の中を通いながら祖母は、「たえこ、くにこ空襲よ。たえこ、くにこ、早う、うはよう」

と線り返しながら、一年生の弟を抱えるように蚊帳をたぐっていた。

えっ空襲。

昼間の空襲警報の不気味なサイレンの音は何度も聞いて敏感になっていたが、サイレンの音は聞こえない。

同じ布団に寝ていた妹を揺り起し、手を引っ張って玄関から防空壕に逃げ込んだ。気が付くと妹は金魚柄、私は朝顔柄の浴衣の寝巻ににランドセルを背負っていた。

前後して父が四歳と二歳の第を、母は一歳になったばかりの弟を抱いて防空壕に入った。そこへ、一週問ほど前に離れへ疎開してきている親戚の年寄りと子どもが入ると、畳一枚ほどの防空壕は身動きできない。

この玄関前の防空壕は私の誕生記念に祖母が植えた八重桜の木を伐ってその跡に父が掘ったものだった。

一人で防空域の外に立って様子を見ていた父は「こりゃひどい。家が焼けだしたら危ない。橋の下へ迷げよう」と、家族と観戚を次々に防空壕から出した。

轟音と共に黒い機影が不気味に一機また一機と頭上をいく。機影が視界から消えた合間に小腰を屈めて二人、三人と順番に地続きの畑の東側を流れる用水へ急ぐ。

用水の岸辺から見る南の空は燃え上がって赤く、その明かりに照らされたおびただしい数の機影が旋回し交錯しながら腹から焼夷弾の束を吐き出す。後からあとから降る黒い塊は、落ちながら火を噴き二十にも三十にも炸裂し、辺りを照らす。還くで、近くでドーンドーン、ドーン、ザッザザーッ。止む間もな<聞こえる。

「あっ、来たっ」機影が近付くと目を瞑って橋の奥に逃げこむ。息を凝らして身を寄せ合っていると爆音が違のく。そっと橋の下から覗く。その間に父は家に駆け込み、先ずは先組の位牌を、次に箪笥の引き出しを一本ずつ持ち出す。父が家に入つている間、心配で妹と抱き合つて「爆弾が落ちませんように」と析った。

空を焦がす炎は拡がるばかりだった。

「学校に落ちた」

誰かが叫んだ。いっも見償れた二階建ての校合がまたたく間に燃え上がり、燃え盛る炎の中に、一段と高く立っていたドームのてっべんの尖塔が一瞬浮かびあがり、そして崩れ落ちた。私の御野国民学校が焼けた。

「クレパスが、クレパスが焼ける!」

とっさに頭をよぎった。泣き出したいほど胸が震えた。 学用品配給の籤引きで当たった、えんじ色の箱に入つた十二色サクラクレパスだった。私の宝物だった。

その日の前目、ハンカチに包んだクレパスと開墾用の鍬を持って登校した。クレバスは机の中に置いて三野公園下の旭川の中州に向かった。慣れない開塑と暑い陽の中を往復四キロも歩いて学校へ戻った私は、二階の教室へ寄る気にもなれず帰宅していた。

夜が白みかけたころ、ようや爆音は止み、機影も消えた。幸いみんなが最も心配していた隣の兵器廠も兵舎も被爆を免れた。家も家族も無事だった。

(中略)

人の波がいっとき途切れたときだった。煤けた顔の若い母規が晒のおんぶ紐で赤ちゃんをおんぶして、前を見やったまま裸足で歩いてきた。片手で小さな風呂敷包みを胸に抱きかかえ、他方の手を後ろに回し、赤ちゃんのお尻のあたりを支えていた。しかし弟と同じくらいの赤ちゃんは、胴体だけで頭は無かった。私は声も出なかった。祖母に駆け寄ったが、何といえばいいのやら、ただ祖母の胸に蹲っているだけだった。

低く垂れこめた空から、生ぬるい黒い雨がしょぼしょぼと降りだした。〈後略)


十歳の少女が引き受けるには、余りにもむごく、痛ましい体験です。いま、地球上のどの子どもも、決してこのような辛さを味わうことのない、平和で理性的な世界を築かねば、と強く思います。「集団的自衛権」の名のもと、他国(アメリカ)がひきおこした地球の裏側の戦争にまでも、「わが軍」を派遣して戦闘に参加させ、「殺し、殺される」事態を招来するアベ流の「積極的平和主義」はごめんこうむりたい。消費税引き上げ延期、アベノミクスの評価を問うなどとして、選挙の争点をぼかしながら、あわよくば2/3の与党議席を獲得した暁には、一気呵成に「明文改憲」に突き進む、なんてシナリオ、なおさらごめんですよね。

今日掲載のアジサイは、六月二〇日の深山公園。
またまた枚数が増えました。




深山公園のアジサイ2016

深山公園のアジサイ2016 posted by (C)kazg 


深山公園のアジサイ2016
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深山公園のアジサイ2016
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深山公園のアジサイ2016

深山  公園のアジサイ2016 posted by (C)kazg 
深山公園のアジサイ2016
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深山公園のアジサイ2016
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今日はこれにて。


取り急ぎ、岡山空襲の日を走り読み、の巻 [今日の暦]

今日は何かと時間に追われる一日で、よほどブログ更新はお休みしようかと思ったのですが、「今日は何の日」の話題に一言触れないわけにはいかないと思い、取り急ぎ雑文を綴ります。
きょうは、「岡山空襲の日」です。
ウィキペディアの記事を借ります。


 岡山空襲(おかやまくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)6月29日の午前2時43分から午前4時7分にかけてアメリカ軍により行われた岡山県岡山市に対する空襲。計画段階では戦略爆撃だったが、ほとんど無差別爆撃として実行された(後述)。この空襲ではアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB-29およそ140機[1]が用いられ、空襲警報が出されず全くの不意打ちであったため死者が1737人にも及んだ。
6月29日には岡山市・佐世保市のほか宮崎県延岡市、福岡県門司市(現:北九州市門司区)が空襲を受け、夜には長崎県佐世保市が空襲を受けた(佐世保大空襲)。

ちょうど今、「第39回岡山戦災の記録と写真展‐空襲とわたしのまち岡山」と銘打って、岡山空襲の実相を伝える展示が、↓ここで明日まで催されています。、

岡山シティミュージアム/岡山空襲 展示室 - 岡山市

また、過去の展示の記録も見ることができます。

・2015年開催【第38回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2014年開催【第37回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2013年開催【第36回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2012年開催【第35回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2011年開催【第34回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2010年開催【第33回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2009年開催【第32回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2008年開催【第31回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2007年開催【第30回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2006年開催【第29回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>



岡山空襲に先立つ六月二〇日の水島空襲について、去年はこれら↓の記事を書きました。

もう一つの「今日は何の日」

四歳の目に焼きつきし夏の空
ここには、四才で水島空襲を体験されたM先輩の「手記」を紹介させていただきました。
そして、先日は、一〇才で岡山空襲・終戦を体験された方々の手記をもとにした朗読/演劇に接する機会がありました。


概略は、この記事に書きました。

沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3) 
今日は少し補足をしようと思います。
この朗読/演劇の原作は、 「操山高校五期生の会」のは、約二年の月日をかけて編集発行された手記「その時10歳の私は」。





実は、ちょっとしたいきさつから、我が家の本棚に、その冊子を一冊をおあずかりしています。



というのは、この本の編集・発行の中心を担われたお一人が、同業の先輩(しかも職場も長くご一緒していただきました)の高垣章二さんで、昨年夏の同業者の作品展(この記事参照七夕雑話、

)にこの本を出展されたのですが、片付けの際に、成り行きで私にしばらく保管をゆだねられたのでした。内容を拝読するにつけ、いつかこのブログで紹介したいものと思っておりましたが、このたびの演劇/朗読の機会は、良い潮時と言うべきでしょうか。

舞台の最初のシーンは、校庭らしき広々とした場所に壇が据えられていて、そこに校長が登壇し、全員起立の子どもたちに訓話をたれる場面です。

校長役は、私も親しい同行のお仲間で、地元で演劇活動にも取り組まれているIさんでした。しっかり板について、すごみさえ感じる演技でした。

原作本の冒頭にある「出征する教師を送る」と題された手記が元になっているようです。







天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて還らじと、誓う心の勇ましさ

この歌はかっての日本陸軍の出陣の歌です。私の小学校時代のこの歡にまっわる悲しい出来事(思い出)を、お話ししようと思います。

私は父が満鉄(南満州鉄道株式会社)の技術者であった関係で中国(旧満州国)の撫順という所で生まれ、敗戦後日本に引き揚げて来ました。学校は満鉄の社員子弟のための学校でしたので、生徒は殆んど満鉄社員の子弟で仲間意識が強い集団でした。もちろん生徒は全員日本人でした。
そのような学校が昭和二十年頃から雰囲気が少し変わってきました。

ある日の朝、学校に登校すると学級担任が教室に来て、全員講堂に集合せよとの事、教室前の廊下に整列して識堂に行くと、上級生は全員すでに集つていました。四年生以上の生徒が全員集合すると、
校長と一人の教師が登壇し、校長の話が始まりました。

「まことにおめでたいことに、先生(校長と一緒に登壇した教師)は、お国のために出征されることとなりました。先生のご活躍を析って、本校の教師、生徒全員でお送りいたしましょう。」

そして儀式の最後に冒頭の陸軍の出陣の歌を全員で合唱し、万裁三唱しておめでたい儀式は終了しました。

教師を送る儀式は、この後度々行われ、戦争が激しくなってきたことを肌で感じることとなりました。



たまたま、昨日は、今年の作品展の展示作業日で、かの高垣章二さんも顔を見せておられ、短時間でしたがお話できる時間がありました。

岡山の小学校でも、満州の小学校ほどの儀式はなかったものの、途中で出征していく教師はあった。その後は、まだ十代の代用教員が補充した。とのことでした。

高垣さんの手記は、浦吉ゆかさんが、是非にと希望して朗読された由。最初の文章そのままではなく、朗読用に幾分加筆調整されたそうですが、手記の原文から少し引用させていただきます。







 あの日、あの炎

北の空だけ暗かった。 パラパラと幾つか燃えながら落ちてくる。一つの火がパッと幾つかに分かれて拡がり、また、拡がる。火は次々に落ち、拡がり、空を赤黒く染め、ゆっくりと落ちて来る。”あれが焼夷弾か、燃えながら落ちるんだ。何故あんなにゆっくりなんだろ〟道路わきに造られた防空壕が目に入る。慌てた母親が、私の腕を掴んで引き戻し、耳元で「そんな所に入ったら死んでしまう!」”でも空襲だよ?防空壕に入ると死ぬって?〟母の厳しい表情に思わず言葉を飲み込む。

大勢の人が、道幅いっばいに北に向かって急ぐ。”岡山に、こんなに人がいたんだ〟誰も大声では話さない。ただ急ぐ。”待てよ、あの火の弾は、頭上を通過して後ろの方に、南に流れていく。だから、北に向いて逃げてれば良いのか〟”でも、飛行機は何処かな?B29は?〟と探してみるが機影なし、爆音も聞こえない。と、またもや「何をキョロキョロしてるの!
しっかり歩きなさい!」

道の真ん中でメガホンを持つた男が「道を逃げるな!」

と怒鳴つている。服装から兵隊でも警察でもない、警防団か。”道を逃げるなって?〟「田圃に入つて散らばれ。 バラバラに逃げろ!」”そうか、そういうことか〟今度は私が母親を引っ張って田圃に降りた。

私は、家を出るとき〔あの靴〕で逃げようと決めた。 数日前くじで引き当てた新品の運動靴。 そのため靴紐を通したりと手間がかかった。手早く支度した母親が、外で待っている。っいに、「何をぐずぐずしてるの」と入つて来るや「何故そんなもの履く!」”だって、学級に二足だけ配給があったんだよ。くじで当てたんだ〟「バカね。そんな靴履いて」むっとした私は、”だったら、何を履くの!〟すかさず「長靴を履きなさい」″えっ、ナガグツ…〟と云いかけたが、逆らえる雰囲気ではない。
不承不承、長靴を履いた。

たしかに、まだ水こそ入つてはいないが、田植え前の田圃、〔あの靴〕で田圃に入る気にはならなかったろう。


こうして九死に一生を得て、避難先から戻ってくると、途中で風向きが変わったおかげか、家は奇跡的に焼け残っており、あの運動靴も無事。ところが、喜んで履いてみると、何日もしないうちに靴底が破れ、粗悪なボール紙がのぞく始末。落胆の顛末が思い出となったそうです。「運動靴一つが、どんなに貴重に思えたか、今の子どもにはわからないだろうね」と、笑っておられました。

浦吉ゆかさんについての話題も、興味津々でした。

高校演劇の全国大会は、県予選・中国大会を経て、翌年度行われるので、予選を勝ち抜いた有力メンバーが卒業して、新しい体制で挑むことになるのですが、玉野高校が初めて全国大会に出場したとき、浦吉さんは一年生で出場することになったとか。演目は「鬼よさらば」以前この記事で、ちょっと話題にしたことがありました。

昨日の「今日の暦」---「パパママバイバイ」のこと

こんな事を書いていました。







 手元には「鬼から鬼へ」と題する玉野高校演劇部創作脚本集(玉野高校演劇部OB会発行)という冊子がありましたので、改めてひもといてみました。若者の感受性と正義感の確かさに、深く励まされる思いがします。

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なお、冊子の「鬼から鬼へ」という標題は1979年の中国大会で優勝し、1980年の全国大会に出場した作品「鬼よさらば」と、1988年の中国大会で優勝し、1989年の全国大会に出場した作品「温羅のうら」にちなんだネーミングなのでしょう。後者は、古代吉備の国「鬼の城(きのじょう)」を本拠地とする鬼=温羅の伝説に題材を採り、平和に暮らしていた吉備王国の心優しい王が温羅(うら)であり、彼らを暴力によって滅ぼした大和朝廷の、歴史の偽造により、後に鬼に仕立て上げられたのではと問うのです


本題に戻ります。

すべてに渡ってご紹介もし、感想なども述べたいところですが、力に余ります。印象的なシーンだけをピックアップしてみます。







 人生最悪の日一愛犬チェリ-との別れ

ある日、町内会長さんが「犬をお国のために供出してください。別れが辛いでしょうがお願いしまずと玄関にに出た母に気の毒そうに云って帰られた。

隣の部屋で間いていた私は「おかあちゃん私いやよ、いやよ」と母のひざをたたいて泣いた。母の私の背中を摩って無言で泣いていた。

我が家の愛犬チェリーは、:私の誕生祝いにと父の会社 の人が贈つてくれた生後二ヶ月位の血統書付きの茶色の柴犬だった。私と同年で一緒に育った。雌なので兄がチェリーと名付けたそうだ。家族全員に良く懷きとても利口
で、家族の誰かが帰つて門に近付くと「ヮンー、ヮンー 」と鳴いて知らせた。

「お父ちゃん、チェリーは連れ.で行かれたらどうなるの」「淑子はもう三年.生だから本当の事を教えよう。戦争で寒い北国で戦つている長隊さんの防寒服に使われるんだよ」「じゃあチェりーは殺されされるの?」「そういう事に.なるな」苦しそうに父は俯いて腕を組んだ。私は目の前が真っ暗になった。

戦争は、一〇才の子どもたちの手元から大切なものを次つぎともぎ取っていき、岡山空襲は、いわばとどめに、街を、家を、家族を、友人を焼き尽くしました。

岡山市のHPに、市内に残る戦災の遺跡というページがあり、こんな記述があります。


 昭和20年6月29日市内中心部を焦土に変えた岡山空襲。
 65年以上経った今でも被災した建築物が各地に残っています。
 現地を訪ねると、当時の惨状を思い浮かべるとともに平和の尊さを感じずにはいられません。




(右写真は『岡山市史 戦災復興編』より)
 岡山市役所の焼け跡の写真
 岡山城石山門跡の写真  

5 岡山城石山門跡(丸の内一丁目)



 



 石山門は、廃城となった富山城(矢坂山)の大手門を移築したものと伝えられ、西の丸の石垣と南側の方形の石垣の上に渡り櫓を構えた櫓門で、石垣の間が通路になっていました。
 岡山城廃城の後も残り、天守閣と共に国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により焼失してしまいました。
 石垣に残る赤茶けた焼け跡が空襲の激しさを今に伝えています。




          平成8年3月説明板設置


 岡山城天守台の写真  

9 岡山城天守台(丸の内二丁目)



 



 岡山城の天守閣は慶長2年(1597年)に竣工、その外観から烏城または金烏城とも呼ばれ、戦災前は国宝に指定されていました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により市街地は焼け野原となり、天守閣は焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色してしまいました。
 その後、天守閣は再建され、石垣も一部が修復されたものの、今も焼けて変色したままであり、空襲の激しさを伝えています。




          平成9年3月説明板設置





岡山城も、後楽園も、再建されて現在はこの静かな穏やかなたたずまいを見せていますが、むごたらしく焼け焦がされたのでした。










東京大空襲についても、この記事(昨日の「今日の暦」ーーー3月10日のえとせとら)をはじめ何度か話題にしたことがありますし、イラク、シリア等への空爆のニュースにも、爆撃に焼かれる子どもたちのことが思われてなりません。大昔つくっていたhpの更新履歴に、こんな事を書きました。


  2003.2.15 トップページと作品のページを多少更新しました。

それにしても、イラク・朝鮮半島情勢は、人類史を逆戻りさせる愚劣さです。「ならず者国家」を成敗する先頭を、一番のならず者が突っ走るの図。泣くに泣けず笑うに笑えぬ出来損ない笑劇に、どこまでつきあわねばならないのでしょうか?

「空爆」は、民衆の側から見れば、「空襲」です。逃げまどう民衆を念頭に入れないアメリカの視点は、ベトナム以来変化なしということか?「戦場」が常に自国の外にあったアメリカにとって、逃げまどう民衆の姿はイマジネーションの限界の外にあるのかもしれません。

では、日本の姿勢はどうなの?「悪い政府」の統治下であろうがなかろうが、各地の大空襲とヒロシマ・ナガサキの辛酸を嘗めた日本の民衆の視座からは、「空爆やむなし」の結論は、生まれる余地のないもの。にもかかわらず、NATO傘下のヨーロッパ諸国に比べてさえもふがいない追随三昧。嘆かわしい限りです。



2003.2.26 フランスのリベラシオン紙のコラムは、ブッシュを裸の王様にたとえたと言います。前々からそう思ってました。「王様は裸だよ」の声を、率直に伝えてあげる方が忠義かつ親切というものでしょうに。「お美しい」「お似合いでげす」のおべっかを、自分ばかりか周囲にも強要する幇間(太鼓持ち)の罪は如何?リンク集を緊急編成しました。



2003.4.20 ブッシュさん、3歳児をひねりつぶして、「勝った勝った」と誇っても、誰も腹でケーベツするだけ。ただ、手のつけられない乱暴者のやることだから、顔をしかめて黙って見ているまでのこと。

でも、ブッシュさんは気づいているのかしら?あなたに突如「ならず者国家」の烙印をおされ、第2第3のイラクとしての標的にさらされるおそれを感じている国々が、このイラク戦から何を学ぶか?について。

「力こそ正義」という、ブッシュ流の新しい(実は西部開拓時代以前の未開野蛮な)むき出しの力の政策の前では、国連中心の国際秩序を誠実に遵守することは愚挙であり、ましてや国連査察に誠実に応じたり、大量破壊兵器の廃棄など馬鹿正直に実行するなどもってのほか。細菌兵器、化学兵器、核兵器、無差別テロ攻撃・・・いずれをとわず、物量に勝るアメリカに「軍事的」に対抗する道すなわち無限の軍拡の連鎖、憎悪と報復の連鎖への道をひた走るしかない、と、向こう見ずな破滅的な決意を促したに違いないことを。

ブッシュ=アメリカをジャイアンに喩えた人がいました。ジャイアンは、自分のコンサ-トを誰もが歓迎しているに違いないと信じているのでしょうね。メーワクに感じながら、「いや」と言い出せないのは、ジャイアンに正義が存するからではなく、彼の腕力をはばかる故であることは、誰もが知っています。知らぬはジャイアン一人でしょう、かわいそうなジャイアン。

そして、ジャイアンの正義は、彼の腕力を上回る力(ドラエモン由来の)によってついえ去るしかないのです。ジャイアン少年は、心底、真の友情を求めながら、たまたま他を圧する腕力と粗暴さを備えていたが故に、怯えと追従と憎しみをもって遇されるしかなかったのです。もしも彼が、平凡な腕力の少年であったなら、その純朴な個性はより好ましい輝きを増し、周囲から真に愛され、好ましい友情を獲得できたに違いないのに・・・。

リンカーンの国、ホイットマンを生んだ国、民衆愛と寛容な民主主義の伝統ある朗らかなアメリカが、なぜこんなにも野蛮で狭量なふるまいしかできないのでしょうか。ベトナム戦争への苦い反省も忘れたかのように。ソ連、東欧の自滅をへて、対立軸を失い、「一人勝ち」してしまったことの不幸なのでしょうか?ジャイアンの不幸、孤独との相似が、なにやら真実味を帯びてきました。

これを引用しながら、2013年秋のオバマよ!お前もジャイアンか!の記事ではこう続けて書いています。

 一方、アメリカは、オバマの登場で、人権と民主主義の方向に劇的に舵を切る大刷新が果たされるかと、世界中が期待しました。社会保険制度、医療制度の改善の分野では、たしかに大きな胎動を感じます。

でも、大量破壊兵器である化学兵器を使ったとして、シリアへの空爆に走る姿は、やはりジャイアンでした。「オバマよ、お前もか?」です。


さらに、アメリカCIAによる盗聴の標的が「友人」たちにまで向けられていたことに、激しい怒りが集中しています。


一方、我らが安倍さんは、アメリカのシリア空爆方針を受けて、8月28日の記者会見で、こう述べました。


「日本政府としては、シリアにおいて化学兵器が使用された可能性が極めて高いと考えています。化学兵器の使用はいかなる場合でも許されるものではありません。シリア情勢の悪化の責任は、人道状況の
悪化を顧みないアサド政権にあることは明らかであります。日本政府は、事態の改善のため国際社会と緊密に連携していきます。 」


そして、記者の質問に対しても、たびたび「国際社会との連携」を口にしました。



も、その国際社会はというと、国連は、ロシアと中国の反対で、武力行使に賛同することはなく、アメリカが頼りにしていたイギリスも、議会が武力介入を否決
し、ドイツも米国に協力せず、「国際社会」は総じてイラク空爆に批判的です。その状況の下で、国際社会と連携するとは、アメリカにきっぱりNOということ
でしょうが。日本はやっぱり、性懲りもなくスネ夫を演じるのでしょうかね。



そして、戦争法(安保法制)強行前夜の昨年夏、

ジャイアンとスネ夫に関する覚え書き、の巻

の記事でこう書きました。

 このころは、「安倍さん」と、漢字で表記していました。これまた感慨深いです。

引用だらけのつぎはぎ記事ですが、ひとまず、これにてオシマイ。

呆気なき記事消失や桜桃忌 [今日の暦]

今日、かなり力を入れて書いた記事が、また何かの弾みで消失しました。ほぼ完成間近になった頃、一歳児の求めに応じて近所を散歩して帰って、仕上げに取りかかろうとした矢先、何が起こったのか編集ソフトが緊急終了し、再起動してみると何のデータも残っていません。愚痴を言う元気もありません。

思い出して再構築するのは、又の機会に譲ります。

ですので、簡単に今朝の散歩のご報告です。

昨夜から今朝にかけて、かなりの勢いで雨が降っていました。心配だったのは。昨日掘りあげて軒下に乾かしているジャガイモが、雨のしぶきを浴びて濡れてしまっていること。家の中に持ち込んで、扇風機で乾かしたのち、新聞紙でくるんで冷蔵庫に保管することにしました。常用の冷蔵庫は日常の食材のために手狭ですので、いつもは電源を入れていない来客用の小型冷蔵庫におでまし願いました。入り切らない残りは、台所において、早めに使い切ることにします。

午前中傘を差して散歩してみました。「防塵防滴」のFuji FINEPIX s1を携行しました。

湖のようにも見えますが、水が張られた水田です。



直まきの田んぼでしょう。









こちらの田んぼは、田植えの準備が整っています。





こちらも、湖とも美枝舞うsが、目をこらすと、わずかに緑井との者が水面にぽちぽちと首をのぞけています。田植えが終わったばかりの苗が、雨による増水のために、見え隠れしているのでしょう。


この苗を機械で植えます。



あちらこちらで田植えが終わっています。



















昨日栗の花の写真を載せましたが、今日は、可愛い毬栗になっていました。




道ばたにほおずきの花が咲いていました。



今日は桜桃忌。

太宰治の誕生日ですが、多摩川上水に入水した遺体が発見された日でもあります。

『桜桃』の、後半の一節を引用します。

「涙の谷」

 そう言われて、夫は、ひがんだ。しかし、言い争いは好まない。沈黙した。お前はおれに、いくぶんあてつける気持で、そう言ったのだろうが、しかし、泣い
ているのはお前だけでない。おれだって、お前に負けず、子供の事は考えている。自分の家庭は大事だと思っている。子供が夜中に、へんな咳(せき)一つしても、きっと眼(め)がさめて、たまらない気持になる。もう少し、ましな家に引越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてならぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手が廻(まわ)らないのだ。これでもう、精一ぱいなのだ。おれだって、凶暴(きょうぼう)な魔物ではない。妻子を見殺しにして平然、というような「度胸」を持ってはいないのだ。配給や登録の事だって、知らないのではない、知るひまが無いのだ。……父は、そう心の中で呟(つぶや)き、しかし、それを言い出す自信も無く、また、言い出して母から何か切りかえされたら、ぐうの音(ね)も出ないような気もして、 

(中略)

生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴(ふ)き出す。

 私は黙って立って、六畳間の机の引出しから稿料のはいっている封筒を取り出し、袂(たもと)につっ込んで、それから原稿用紙と辞典を黒い風呂敷に包み、物体でないみたいに、ふわりと外に出る。

 もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして、酒を飲む場所へまっすぐに行く。

「いらっしゃい」

「飲もう。きょうはまた、ばかに綺麗(きれい)な縞(しま)を、……」

「わるくないでしょう? あなたの好(す)く縞だと思っていたの」

「きょうは、夫婦喧嘩でね、陰(いん)にこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊るぜ。だんぜん泊る」

 子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。

 桜桃が出た。

 私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓(つる)を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚(さんご)の首飾りのように見えるだろう。

 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐(は)き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。


この春実った、鉢植えの桜桃です。







今日はこれにて。

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