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人は神になり得たか [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。

 高三の秋の文化祭で、私の所属していた文芸部は、「神」というテーマで、発表する事になりました。

部員がそれぞれ、「神」にまつわる作品を創り、それを謄写版刷りの冊子の形で発表するとともに、教室の一つを展示会場として、「神」をテーマとした掲示や装飾物をレイアウトしました。
また、そのため、つてを通じて、隣市のキリスト教会を訪問し、数人で「体験礼拝」(そんな言葉はないでしょうが)したりしました。文章や映像をもとにした想像で理解している、教会内の光景や空気を、じかに肌で感じたことは、得難い体験でした。無信心の私は、形だけ信者のように装うことにギクシャクとした思いはありました。(年齢を重ねると、宗教や宗派の違うお葬式や法事などに参列する機会も多くなり、信仰の如何に関わらず、心をこめて故人を悼み、遺族を慰めるためにも、その宗派の作法を真似て、しかるべく振る舞うことは、 当然のことと割り切っていますが。)
あわせて、「神をどう思うか」といったようなアンケートをとり、これを発表したりもしました。

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「喜劇 せるふ・こむぷれいせんす」 最終回 「えぴろーぐ」 [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。


 「喜劇 せるふ・こむぷれいせんす」のつづきで、かつ最終回です(連載3回目)。

 高校時代に書いた400字詰め原稿用紙130枚あまりの「作品」の、ほんの一部分を紹介します。

今回は、「えぴろーぐ」(終章)と名づけた一節です。

前回載せた「プロローグ」のあとには、「第一章」~「第六章」の、未完の物語が展開するのですが、それは自ら読み返すだに恥ずかしい、独りよがりの代物で、とても世間様にお見せするわけには参りません。(とにかく、「せるふ・こむぷれいせんす」とは、和英辞典で調べた「独善」の英訳ですゆえ。)

では、ブログ掲載の前後三回分は、世間様にお見せできるのか?と追及しないでくださいませ(汗)。

改めて読み返してみますと、やっぱり、四〇数年経っても、精神レベルはちっとも変わってないなと感じます。いや、むしろ、一七歳の自分にエールを送られているような気さえするのです。
いやいや、またまた独りよがりでした。

 

 

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せるふ・こむぷれいせんす(その2) 「プロローグ」 [木下透の作品]

 木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。


 「喜劇 せるふ・こむぷれいせんす」のつづきです(連載二回目)。

 高校時代に書いた400字詰め原稿用紙130枚あまりの「作品」の、ほんの一部分を紹介します。

今回は、「プロローグ」(序章)と名づけた一節です。



 

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せるふ・こむぷれいせんす [木下透の作品]

 木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。


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草むしる老婆は今なく枯葎(かれむぐら) [木下透の作品]

木下透は私の高校生時代の筆名です。

そのころ、こんな句を作りました。

屈まりて草むしる老婆の背に真夏   透

 



「こごまりて」と読ませるつもりでした。
国語のM先生は、「こごまりて」は方言の匂いがするね、「かがまりて」と読む方が自然かも、と添削してくださったのでしたっけ。

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あるじなき庭に紅葉のほしいまま [木下透の作品]

木下透は私の高校生時代の筆名です。

国語の先生に勧められて、俳句づくりのまねごとをしたことがありました。

その頃の作品のひとつ。

 

あるじなき庭に山吹咲き乱る

あるいは、「庭の」だったかな?「咲き誇る」だったかな?記憶がはっきりしません。

とにかく、農村に過疎が進みつつある時代のものわびしさが、咲き誇る山吹の花のはなやかさとの対比で、いっそうつのるように思えたのでした。でも、感興がありきたりだとして、低評価でした。

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苗代の足跡に雨降りて澄む [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。


今日は、梅雨時期としては久しぶりに、朝から雨模様でした。降り始める前に、近所を散歩しようかと支度をしているうちにポツポツと雨音が聞こえてきましたので、大型のコウモリ傘を持って散歩道に向かいました。重い機材を運ぶのは億劫なので、コンデジをバッグに入れて出かけました。

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苗代の足跡に雨降りて澄む    透

この句は、梅雨時期の実景をもとに、割合にすんなり浮かんだもので、自分としては気に入っていました。周囲からは、ほとんど凡句の扱いで、スルーされたものですが、 今の季節になると不思議に思い出します。

苗代というものも、今では見かけることが少なくなりました。

ウィキペディアには、こう説明があります。

もともとは種籾(イネの種子、籾殻つきの米粒)を密に播いて発芽させ、田植えができる大きさまで育てるのに用いる狭い田を指した。

手植えの場合

田植機を用いない旧来のやり方では、おおよそ次の手順に従う。

    種籾(たねもみ)を植える場所の土を、幅1m位の短冊状に盛り上げ、土を軽く耕す。
    その上に1cm²辺り1粒程度の種籾(5日程度水につけて十分に水分を吸わせたもの)をまく。
    土や籾殻(もみがら)または燻炭(くんたん)を薄くかぶせ、軽く抑える。
    苗代の畝上が丁度浸かる程度に水を張り、発芽させる。
    苗が20~30cm(本葉が7~8枚)位のころに、苗を抜き取り、2~3本を1株として植える(田植え)。

子どもの頃は、小学校でも「農繁休暇」というお休みがありました。田植えの時期は、農家にとっては、猫の手も借りたい繁忙の時期で、子ども達も労働力として期待された事の名残です。

私の家などは、農業と行っても家族がかつがつ食べるだけの田畑しかありませんでしたから、実際の田植え経験は、今で言う「体験学習」レベルの思い出に過ぎません。でも近隣・組内総出の共同作業で、この田んぼあの田んぼと、田植えを済ましていった光景は、目に残っています。

我が家の耕地は、「なわしろ(苗代)」「しみずば(清水場)」「おちうだ(どんな漢字を当てるのでしょう?)」「はた(畑」」「はま(浜)」と呼ばれる、分散した小さな田畑が、すべてでした。この内、水田は、 「苗代」、「おちうだ」、「浜」の三カ所でした。

小規模農業を表す言葉に、「五反百姓」という表現がありますが、我が家の耕地面積は、わずかに一反余り、零細農家の内のさらにミクロの存在と言えるでしょう。一番広いのが川べりに広がった「浜」で、これが一反(約10アール)余り。この地方の川沿いの水田は、頻繁に起こる川の氾濫・洪水によって、冠水被害を受けることもたびたびで、そのため、大規模な護岸工事や圃場整備(ほじょうせいび)が行われ、今は違う土地が割り当てられています。
父が勤務の都合で田舎を離れて暮らしている間、ご近所の方に耕作を委ねていた流れで、退職・帰郷後も、その状態が続いています。従って、私はその位置も確かに知りません。
「おちうだ」と呼ばれた水田は、山かげの、日当たりの悪い、水の冷たい、小さな山田でした。はやりの「農業競争力」という概念の対極にあるような、ローパフォーマンスの土地です。周囲の景色も変わりましたから、いま、どうなっているか?

 「なわしろ」は、住まいと最も近い場所にある、これもごくごく小さな、一種の棚田です。実際に種籾を蒔いて苗を育てる「苗代」でした。が、今はその歴史的役割を終えて、野菜畑として遣われています。先日から話題にした桑の木も、この畦に茂っていました。

現在、手植えの光景は、特別なイベントの時などの他は見かけることもなく、ほとんどの農家では、 育苗箱で育てた苗を用いた機械植えが主流になっているようです。

ウィキペディアの記事の続きです。
機械植えの場合

植える場所の土をならす段階までは、手植えの場合と同じ。以下はその一例。

    用意した育苗箱に土を敷き、そのうえに催芽させた籾をまき、籾が隠れる程度に土を軽くかぶせる。
    育苗箱をならした土のうえに並べ、十分潅水する。
    ビニール(育苗シート)を被せ、発芽させる。
    苗が出揃ったらビニールを取り外す。
    苗が20cm(本葉が3~4枚)位のころに、田植機で移植する。

先日、ある友人と話しておりましたら、彼女の四国の実家での話題が出て、今では、自家で育苗する技術も継承されない状態にあり、多くの農家では農協で購入した苗をつかって田植えをしているのだとか。一方にTPPが攻めてきて、一方に突如安倍さんがぶちあげた「農協解体」という大暴風が襲って来るとなると、この「育苗」といういのちの大本も、独占大企業の、なかんずくアメリカの独占種苗会社かなんかの、牛耳るところとなるのでしょうか?生産性の低い農業(農地・農村)は淘汰され、荒廃の極にいたり、一定の生産性を見込まれる農業(農地・農村)は、独占大企業、なかんずくアメリカの独占種苗会社かなんかの儲けのターゲットとされるのでしょうかね。

さらにその先の、空恐ろしいのは、あの遺伝子組み換え技術をを駆使するモンサント社流の「ターミネーター種子」=「自殺する種子」などの、新たな餌食にされる未来図でしょうか?

 私の散歩道から見える田園風景は、広大な干拓地に広がる肥沃な水田地帯です。いつの間にか麦の刈り入れが終わり、水田いっぱいに水が張られています。


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苗代の足跡などとは比べものにならない、長距離の足跡でした。
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田植えが終わったばかりの田んぼに、今朝の雨はジャストタイミングですね。
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左下の謎の物体は?私のこうもり傘の柄が映り込んだものです。オソマツ。

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こちらは早朝から田植え作業中。
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正面の山は、戦国時代の城趾と、女軍伝説で知られる常山。その姿から、児島富士とも呼ばれます。
毎年この時期には、逆さ児島富士がみられます。


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鴨川の真上にそびえる常山
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鴨川から対岸を望みます。これも戦国時代の城趾のある麦飯山でしょうか。
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 これも鴨川の対岸風景。ちょっとヨーロピアンなムード?
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今日のオマケ。ケリでけりをつけましょう。
 
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ひとの死をさもありと聞く驟雨かな [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。

ひとの死をさもありと聞く驟雨かな

【解釈】「人の死」というきわめて重い事実を、「(無常のこの世であるから)そういうこともあるのだと聞いている自分がある。折しも表は、激しいにわか雨が降りしきっていることよ。

 初めは「他人の死を」と書いて「他人」に「ひと」というルビを振って、句会に出しました。一種の「偽悪」というか「露悪」の意識もあって、所詮他人の運命は、他人事なのだから、という虚無感を協調した傾向があったかもしれません。それは、エゴイズムの宣言と言うよりは、人間存在の孤立性への自覚または諦観といったものの誇張表現だったのでしょうが、さすがにそれが誰の目にも鼻についたようで、せめて「人」または「ひと」と表記することをすすめられました。

「ひとの死を」と改めてみて、句境が随分平凡になったような気が、当時はしていましたが、「さもありと聞く」よりほかにはいかようにもし難い、人間存在の否応なさが、自ずとあらわれているように、だんだん思えてきました。

昨夜お会いした友人たちとの話題に、いくつか「ひとの死」にまつわるお噂がありました。

その一つ、若かりし日の職場の先輩であったHさんが、数年前病気のため亡くなられたことは、事後聞き知っていました。

独身の新任時代以来、公私にわたって親しく時間をともにし、お互いのアパートを行き来し、居酒屋をはしごし、時には電車で小一時間をかけて街まで出かけ、「寅さん」や「ピンクパンサー」など、行き当たりばったりに映画を一緒にみたり、天下国家を論じたりした間柄でした。無理に頼み込んで、私の結婚式の司会を押しつけたこともありました。
他にも「一生のお願い」を何度かして、「こんな事で一生のお願いを使い果たしていいの?」とからかわれることもありました。

それほどに身近で、ほとんどなれ合い意識に近い感情で結ばれている、気の置けない存在と、ずっと思っていました。いつでもその気になればお返しはできるというか、改まってお礼を言うのも他人行儀と思える「bosom friend」-「腹心の友」(花子とアン)のはずでしたのに、突如遠いところに行ってしまわれました。

なぜか、私は、葬儀にも参列できず、お墓参りさえしていないのです。 記憶があやふやなのですが、おそらく、私自身の脳動脈瘤手術前後の時期に重なっていて、「人様」を見送る心のゆとりすらもなかったのでしょうか?

去年の4月になくなったもう一人のHさんを偲ぶ折々に、ふと、こちらのHさんの思い出がこみ上げてくることもしばしばでした。

話をもとに戻します。昨日お会いした方々のよもやま話の一つに、そのHさんの奥様も、最近亡くなられていたという情報を聞き、驚いたのです。

ひとの死をさもありと聞く驟雨かな

この句を久しぶりに思い出したゆえんです。

 

 


今日の写真は、生命を謳歌する方向へと、意図的にシフトして選んでみました。 

 

このさなぎは、ツマグロヒョウモンでしょうか?我が家の玄関先です。

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若いスズメとスモモの実 。「子どもの森」です。
スモモの実
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桃の実
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 梅の実
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 落ちてなお、甘く香ります。

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梨の実。忌み言葉では「有りの実」・
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クチナシ。
 
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 タチアオイ
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ベニシジミ
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ポピ-
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帰郷。秋の七草ですが、、、。
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どっぷりと首までつかりて睡蓮花 [木下透の作品]

木下透は、私の高校生時代の筆名です。

このコーナーでは、そのころの「作品」を、思い出すままに紹介します。



どっぷりと首までつかりて睡蓮花

この句は、この記事で掲載した作品と同じ頃のものだと記憶しています。時期はもう少し遅く、梅雨時分だったようにも思います。

「どっぷりと」の語感と睡蓮花の可憐さがミスマッチと評されたのでしたっけ?

「どっぷりと日常生活に埋没する」、「どっぷりとマンネリズムに陥る」などのありがちな表現は、しかし、当時はまだまだ聞き覚えのないものでした。ですから、この「どっぷりと」は、当時としてはそれほど安直な言い回しではなかったはず、と一言弁明しておきます。

「とっぷりと」の方が小振りの花の感じが出たでしょうか?
「首までつかりて」は、幼児などが風呂で「肩までつかりましょうね」なんて言われて、湯の中に懸命に身を沈める、あの様子を思ったのですが、「首まで」では中途半端でしたかね?「頸(くび)まで」または「顎(あご)まで」と言った方がリアルだったでしょうか?

とっぷりと顎まで漬かるや睡蓮花
これでは、談林派みたいになっちゃいますね。オソマツ。

いずれにしても、睡蓮の花を見るたびに、思わず口にしてしまう句なのです。


玉野市、深山公園の睡蓮。
公園の最も奥まったところにある「新池」の睡蓮が咲き始めていました。_K525444_R.jpg
 
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いろいろなトンボも飛びかっていました。
 イトトンボ
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 ムギワラトンボ
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シオカラトンボ
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この朱色のアカトンボは?
ナツアカネですか?
 
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 オマケ
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オマケその2
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KHAOS 木下透 [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。
このカテゴリーの記事は、彼の作品を紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。
でも、冬オリンピック競技での10代選手の活躍を見ていますと、技量についても人間性についても、年齢ゆえに未熟と言うのはおこがましい気がしてきますが、、、。



 

 

KHAOS
馬鹿に思い詰めている奴がいる。
自惚れにこりかたまった奴がいる。
無力を悟ったふりがいる。
どうにでもなれとうそぶく奴がいる。
退廃を享楽している奴がいる。
何にもしないで 一見ニヒリスティックな
風変わりがいるが、奴はただの怠け者だ。
おれは駄目だと嘆く奴が、実は哀れみを乞うている。
おれはあんまり不幸だと うるさいから、
思いっきりぶんなぐってやったら、死んでしまった。 
肉をむさぼる奴がいる。(そんなに美味くないことは、よく知っているのだが、奴にはそれしかやることがないのだから。)
つかれきった老いぼれがいる。
よせよせ くだらぬ と抜かしやがった。。
ひがんでいじけたがきがいる。
栄養不良で未発育の赤児がいる。
そいつはきっと死ぬだろう。
おととい死んだ奴が 今日生まれた。
そうそう、一番長生きした奴を、こないだある女が殺した。(葬式は昨日すませた)
詩を作っている奴がいる。
〈ああ私は〉なんぞとつぶやいている。。
馬鹿な奴だ。あいつの中には詩は いない。

隣でヘラヘラせせら笑っている、あいつの中に いるかもしれない。

シュールでしょ。

KHAOSは、英語綴りでは、chaos 。「カオス」です。ギリシア神話に登場する原初神で、「大口を開けた」「空(から)の空間」の意だと、wikiは解説してくれています。

一般に「混沌」と訳され、雑然としたさま、ぐちゃぐちゃなさまを表す表現として用いられることが多いですね。

高3の木下透の神経状態は、まさに雑然として、ぐちゃぐちゃだったのです。

ところで、「混沌」というと、中国古代の思想家「荘子」の一節に、こんな有名な文章がありました。


渾 沌

南海之帝為儵,北海之帝為忽,中央之帝為渾沌。

儵與忽時相與遇於渾沌之地,渾沌待之甚善。
儵與忽謀報渾沌之德,曰
「人皆有七竅以視聽食息,此獨無有,嘗試鑿之。」
日鑿一竅,七日而渾沌死。


 【書下し文】

南海(なんかい)の帝(てい)を儵(しゅく)と為(な)し、
北海(ほっかい)の帝を忽(こつ)と為(な)し、
中央の帝を渾沌(こんとん)と為(な)す。
儵と忽と、時に相(あひ)与(とも)に渾沌の地に遇(あ)ふ。
渾沌、之(これ)を待(たい)すること甚(はなは)だ善(よ)し。
倏と忽と、渾沌の徳に報(むく)いんことを謀(はか)りて曰(いは)く
「人皆七竅(しちきょう)有りて、以(もっ)て視聴食息(しちょうそくしょく)す。
此(こ)れ独(ひと)り有る無し。
嘗試(こころみ)に之(これ)を鑿(うが)たん」と。
日(ひ)に一竅(いっきょう)を鑿つに、七日(なぬか)にして渾沌死せり。

【解釈】
「儵」「忽」はこれを一語にして、儵忽(しゅくこつ)という言葉があるように、いずれも極めて短い時間、束の間(つかのま)という意味である。この、人間の束の間の生命を象徴するかのごとき、儵という名の南の海の支配者と、忽という名の北の海の支配者とが、ある時、その遙かなる海の果てから、世界の真中(まんなか) ── 渾沌の支配する国で、ゆくりなくも一緒にめぐりあった。「渾沌」とは、いうまでもなく、大いなる無秩序、あらゆる矛盾と対立をさながら一つに包む実在世界そのものを象徴する言葉にほかならない。

 訪れてきた儵と忽の二人を、渾沌は心から歓待した。儵と忽とは、束の間の生命を渾沌の国 ── 心知の概念的認識を超え、分別の価値的偏見を忘れた実在そのものの世界に歓喜した。そして渾沌の心からなる歓待 ── 生命の饗宴に感激した儵と忽は、何とかしてこの渾沌の行為に報(むく)いたいと思った。いろいろと相談した二人が、やっと思いついた名案は次のようなことであった。

  ── そうだ。人間には七つの竅(あな) ── 目耳口鼻の七竅(きょう)があって、美しい色を視、妙なる音を聴き、美味(うま)い食物を食い、安らかに呼吸するが、この渾沌だけには一つも竅(あな)がない。そうだ、せめてもの恩返しに、ひとつ七つの竅を鑿(ほ)ってやろう。

 二人は力を合わせて、せっせと渾沌の体に鑿(のみ)を揮(ふる)い始めた。最初の日に一つ、次の日にまた一つ、その次の日にさらに一つ・・・・・ かくて七日目にやっと七つの竅(あな)が鑿(ほ)りあがった。けれども、目と耳と口と鼻の七つの竅(あな)をととのえて、やっと人間らしくなった渾沌は、よく見ると、もはや空(むな)しい屍(しかばね)と化していた。―──荘子(朝日新聞社・中国古典選)】より引用 ──―


日本人として最初にノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹博士は、漢文の素養のある人だったそうで、こんな一文を残しておられます。

 小学校へ入る前から、漢学、つまり中国の古典をいろいろ習った。といっても祖父について素読をしただけである。もちろん、はじめは意味は全然わからなかった。しかし、不思議なもので、教えてもらわないのに何となくわかるようになっていた。習ったのは儒教関係のものが多く、「大学」からはじまり、「論語」「孟子」その他、「史記」「十八史略」なども教わった。
 「史記」などの歴史書は別にして、儒教の古典は私にはあまり面白くなかった。道徳に関することばかり書いてあって、何となくおしつけがましい感じがした。
  中学校に入ることには中国の古典でも、もっと面白いもの、もっと違った考え方の書物があるのではないかと思って父の書斎をあさった。「老子」や「荘子」をひっぱりだして読んでいるうちに、荘子を特に面白いと思うようになった。何度も読み返してみた。中学生のことではあり、どこまでわかったのか、どこが面白かったのかと、後になってから、かえって不思議に思うこともあった。
 それからずいぶんと長い間、私は老荘の哲学を忘れていた。四、五年前、素粒子のことを考えている最中に、ふと荘子のことを思い出した。

  南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌と為す。儵と忽と、時に相与(あいとも)に渾沌の地に遇へり。渾沌之を待こと甚だ善し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを計る。曰く「人皆七竅(しちきょう)有り、以視聽食息(しちょうしょくそく)す、此れ独り有ること無し。嘗試(こころみ)に之を鑿(うが)たん」と。日に一竅(いちきょう)を鑿(うが)つ。、七日にして渾沌死す。

 これは「荘子」の内篇のうち、応帝王第七の最後の一節である。この言葉を私流に解釈してみると、

 南方の海の帝王は儵と為し、北海の帝王は忽という名前である。儵、忽ともに非常に速い、速く走ることをいみしているようだ。儵忽を一語にすると、たちまち束の間とかいう意味である。中央の帝王の名は渾沌である。
  或るとき、北と南の帝王が渾沌の領土にきて一緒に会った。この儵、忽の二人を、渾沌は心から歓待した。儵と忽はそのお返しに何をしたらよいかと相談した。 そこでいうには、人間はみな七つの穴をもっている。目、耳、口、鼻。それらで見たり聞いたり、食べたり呼吸したりする。ところが、この渾沌だけは何もないズンベラボーである。大変不自由だろう。気の毒だから御礼として、ためしに穴をあけてみよう、と相談して、毎日一つずつ穴をほっていった。そうしたら、七日したら渾沌は死んでしまった。

 これがこの寓話の筋である。何故この話を思い出したのか。
 私は長年の間、素粒子の研究をして いるわけだが、今では三十数種にも及ぶ素粒子が発見され、それらが謎めいた性格をもっている。こうなると素粒子よりも、もう一つ進んだ先のものを考えなければならなくなっている。一番基礎になる素材に到達したいのだが、その素材が三十種類もあっては困る。それは一番根本になるものであり、あるきまった形を もっているものではなく、またわれわれが今知っている素粒子のどれというものでもない。さまざまな素粒子に分化する可能性を持った、しかしまだ未分化の何物かであろう。今までに知っている言葉でいうならば渾沌というようなものであろう、などと考えているうちに、この寓話を思い出したわけである。
  素粒子の基礎理論について考えているのは私だけではない。ドイツのハイゼンベルグ教授は、やはり素粒子のもとになるものを考え、それをドイツ語でウルマテリー(原物質)とよんでいる。名前は原物質でも渾沌でもいいわけだが、しかし私の考えていることとハイゼンベルグ教授のそれとは似たところもあるけれども、またちがったところもある。

 最近になってこの寓話を前よりもいっそう面白く思うようになった。儵も忽も素粒子みたいなものだと考えてみる。それらが、それぞれ勝手に走っているのでは何事もおこらないが、南と北からやってきて、渾沌の領土で一緒になった。素粒子の衝突がおこった。こう考えると、一種の二元論になってくるが、そうすると渾沌というのは素粒子を受け入れる時間・空間のようなものといえる。こういう解釈もできそうである。
 べつに昔の人の言ったことを、無理にこじつけて、今の物理学にあてはめて考える必要はない。今から二千三百年前の荘子が、私などがいま考えていることと、ある意味で非常ににたことを考えていたということは、しかし、面白いことであり、驚くべきことでもある。
  科学は主としてヨーロッパで発達していた。広い意味でのギリシャ思想がもとにあって、それを受けついで科学が発展してきたのだといわれている。最近亡くなったシュレーディンガー教授の書いたものをみると、ギリシャ思想の影響のないところには、科学の発展はないと言っている。歴史的にそれは正しいであろう。明治以降の日本をみても、直接ギリシャ思想の影響を受けたかは別として、少なくとも間接的にはそこから始まってヨーロッパで発達した科学を受けついでいる。
 過去から現在まで大体そうなっているのだから、それでいいとしよう。しかし、これから先のことを考えてみると、何もギリシャ思想だけが科学の発達の母胎となる唯一のものとは限らないだろう。東洋をみると、インドにも古くから、いろいろの思想があった。中国にもあった。中国の古代哲学から、科学は生まれてこなかった。たしかに今まではそうであったかもしれない。しかしこれから先もそうだと決めこむわけにはいかない。
 中国の古代の思想家の中で、私が最も興味を持ち、好きなのが、老子と荘子であることは、中学時代も今もかわらない。老子の思想は、或る意味で荘子より深いことはわかるのだが、老子の文章の正確な内容はなかなかつかめない。言葉もいい廻しもむつかしく、注釈を読んでも釈然としない点が多い。結局、思想の骨組みがわかるだけである。ところが荘子の方は、いろいろ面白い寓話があり、一方では痛烈な皮肉を言いながら、他方では雄大な空想を際限なく展開させてゆく。しかもその根底には一貫した深い思想がある。比類のない名文でもある。読む方の頭の働きを刺激し、活発にしてくれるものが非常に多い気がする。前の渾沌の話も、それ自身はべつに小さな世界を相手にしたものではなく、むしろ大宇宙全体を相手にしているつもりであろう。自然の根本になっている微少な素粒子とか、それに見合う小さなスケールの空間・時間を論じたものでないことは明らかである。ところが、そこにわれわれが物理学を研究して、ようやく到達した、非常に小さな世界がおぼろに出てきているような感じがする。これは単なる偶然とは言いきれない。そう考えてくると、必ずしも科学の発達のもとになりうるのはギリシャ思想だともいえないように思う。老子や荘子の思想は、ギリシャ思想とは異質なように見える。しかし、それはそれで一種の徹底した合理主義的な考え方であり、独特の自然哲学として、今日でもなお珍重すべきものをふくんでいると思う。
 儒教にせよ、ギリシャ思想にせよ、人間の自律的、自発的な行為に意義を認め、またそれが有効であり、人間の持つ理想を実現する見込みがあると考えるのに対して、老子や荘子は、自然の力は圧倒的に強く、人間の力ではどうにもならない自然の中で、人間はただ右へ左へふり廻されているだけだと考えた。中学時代には、そういう考えを極端だと思いながらも強くひかれた。高等学校の頃からは、人間が無力だという考え方に我慢がならなくなった。それで相当長い間、老荘思想から遠ざかっていた。しかし、私の心の底には、人間にとって不愉快では あるが、そこに真理がふくまれはていることを否定できないのではないかという疑いがいつまでも残った。
 「老子」に次のような一節がある。

 天地は不仁、万物を以て芻狗(すうく)と為す 聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗と為す。

 芻狗は草で作った犬の人形。祭が済んだらすててしまう。天地は自然といってもいいだろう。不仁というのは思いやりがないということであろう。老子はこういう簡単な表現で、言い切る。

「荘子」の方は、面白いたとえ話を持ち出す。

  人、影を畏れ、跡を悪(にく)んで之を去(す)てて走る者有り。足を挙ぐること愈々(いよいよ)數々(しばしば)にして、跡愈々(あといよいよ)多く、走 ること愈々疾(と)くして影身を離れず、自ら以為(おもへ)らく尚遅しと、疾(と)走って休まず、力絶って死す。知らず陰に処(お)りて以て影を休め、靜に処にて以て跡を息(や)むるを。愚も亦た甚し。

 ある人が自分の影をこわがり、自分のあしあとのつくのをいやがった。影をすててしまい たい、足あとをすてたい、そこからにげたいと思って、一生懸命ににげた。足をあげて走るにしたがって足あとができてゆく。いくら走っても影は身体から離れない。そこで思うのには、まだこれでは走り方がおそいのだろうと。そこでますます急いで走った。休まずに走った。とうとう力尽きて死んでしまった。この人は馬鹿な人だ。日陰におって自分の影をなくしたらいいだろう。静かにしておれば足あともできていかないだろう。

 このような考え方は、宿 命論的で、一口に東洋的といわれている考え方にちがいないが、決して非合理的ではない。それどころか今日のように科学文明が進み、そのためにかえって時間 に追われている私たちにとっては、案外、身近な話のように感ぜられるのである。私の心の半分はこういう考えに反撥し、他の半分は引きつけられ、それが故 に、この話がいつまでも私の記憶に残るのであろう。本の面白さにはいろいろあるが、一つの書物がそれ自身の世界を作り出していて、読者がその世界に、しば らくの間でも没入してしまえるような話を私は特に愛好する。その一つの例として、先ず「荘子」をとりあげてみたのである。

―湯川秀樹著『本の中の世界』「荘子」より引用―

 

 


昨日の記事で、アトリの遊んでいた木の名前がわからなかったので、おたずねしたところ、Sさんが、「楓(ふう)でまちがいないだろう」 と教えてくださいました。
そういわれると確かにそうで、合点がいきました。
今日は、久しぶりに雨。 気温も3月下旬並みとかで、暖かでした。
 
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撮影には向きませんが、雨傘をさして、深山公園を歩いてみました。「楓」の木立には覚えがありました。確かに、あの実がなっていました。葉っぱがあればわかったのですが、、
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メジロ
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 これはウグイスでしょうか?
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ウグイスとくれば梅 。遠くで鳴き声も聞こえました。春ですね。
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春 其の3 木下透 [木下透の作品]

私、このたび、kazgと改名しました。
以後お見知りおきを。
現実の世にも同名異人は多数あって、いろいろ面白い現象が起こります。
私の経験でも、県内の同業者の名簿をひもとくと、索引欄にずらりと、多いときでは6~7人も同姓同名が並んでいたことがありました。職業の枠を取り払い、居住地の枠を取り払えば、その数やいかんと、自然と想像されます。時には混同されることはあったかも知れませんが、自分でいうのもナンですが、品行方正の人士ばかりと見えて、おかげさまでトラブルに巻き込まれたことはありません。
郵便局の貯金(民営化前の話です)の名義人に同名の方があり、貯金額の確認を求められたこともありました。特に困ったわけではありません。
ですから、ネットの世界で、識別記号やらハンドル名などの類似や一致の可能性は、大いにあり得ることですし、このso-setブログでも、ニックネームの後ろに4桁の数字が与えられていて識別されることになっているそうですが、表示の際の混同はできるだけ避けた方がよかろうかと思い、g(爺)を付加する改名を行った次第です。


このカテゴリーに登場する木下透は、私の高校時代の筆名です。
この項の趣旨は、彼の作品を紹介する事にあります。
未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたいと思います。
しばらく前まで、このカテゴリーの文章は常体(「だ・である」調)で書いてきましたが、余りにも横柄な物言いになって、落ち着きが悪いので、路線変更で、今回から敬体(「です・ます」調)に戻すことにしました。

高校時代「春」という同一の題の詩を、何編か作った記憶があります。すべてをソネット(14行詩)形式で書いたと錯覚していましたが、この作品は違いました。定型に納めるほどの心の余裕がなかったせいでしょうか、生硬なままの感情の吐露が生々しく、公にすることも気恥ずかしいのですが、今なお、思い入れはある作品です。。
表題は、単に「春」とつけていましたが、ブログに掲載するに際して、便宜的に其の三と名付けることにしました。


春  其の三    木下透
俺はあれほど 恨んだのだが
――――――長すぎた冬を
俺はあれほど 呪うたのだが
――――――濁りきった時間を
俺はあれほど 厭うたのだが
――――――狭すぎる世界を

みんな みんな 忘れちまった
春だ 春だ 春だ 春 春・・・・
傲慢 侮蔑 自惚れ 闘争
被害妄想 猜疑 自虐

みんな みんな 消えちまった
春だ 春だ 春 春 春・・・・

俺は何も もってはいない
(俺は何も もってはいなかった)

呵々。俺は・・・・・・・・・・・・・・。 

ちょっと前に撮って、大事にしまい込んでいた写真を、季節外れになる前に小出しに掲載することにします。
まずは、シジュウカラとロウバイ。岡山後楽園で撮影。
 
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 岡山後楽園の紅梅です。
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 いろんな梅の写真がストックされていますが、どれがどこで写したものやら、、、。その都度整理しないから、記憶が混乱してしまう、、、。わかっていても改まリません。
後楽園、半田山植物園、子どもの森、近所の路傍の梅の木、、、などが記憶にありますが、いつ、どのカメラを持って歩いたか?もはや曖昧で、厳密にに思い出すだけの気力がありません。
GPS機能つきカメラが必要ですかね?

 
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これは近所の紅梅。
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戦前 戦中 戦後 戦後後 そして”戦前” 補遺   木下 透 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、この項の趣旨である。
未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

今日掲載するのは、以前掲載した作品の、後半部分を補足したものだ。

別の理由でモノ探しをした際に、散逸していたこの詩を見つけた。

あえて発表するほどのものでもあるまいが、「自主憲法制定」の動きかまびすしき時期が時期だけに、かすかな囀りといえども、たくさんの囀りの声を上げて奥に超したことはあるまいと考えた。

「天 皇元首化」「国防軍の保持」などを露骨に謳った「憲法改正草案」なるものが具体的に掲げられ、無制限とも言える恣意的な「解釈改憲」と競い合うように、 「明文改憲」への準備が急ピッチにすすめられている状況は、高校時代に私が漠然と警戒していた以上のただならなぬ気配ではないか。しかも、核武装を唱える元航空幕僚長のアナクロ都知事候補がネット上では首位を奪い、現実にも無視できぬ得票を得たり、この人物を、元の都知事(昔、三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地でのクーデター未遂自決に涙を流して「なぜ待ってくれなかった」と嘆いたっけ)や、「永遠の0(ゼロ)」などで人気の売れっ子作家(NHK経営委員)が、応援し、他の候補を「人間のくずみたいなもの」と誹謗するなんてことが、まさか起きようなどとは、私の生ぬるい想像力の適うところではなかった。

この詩は、最悪の未来図(シナリオ)のつもりで書いたのだが、現実がそれを追い越そうとしている。

この逆向きの流れを堰き止めるためには、木下君、きみはどうするの?



戦前 戦中 戦後 戦後後 そして”戦前”     木下 透

(1)

てんのうへいかさまは まずしいものを ごらんになって おあわれみになり きんすを おほどこしに なりました。
いやしいみぶんの ものどもは みんな なみだをながして よろこびました。
てんのうへいかさまの みよが ながく つづきますようにと いのりました。みんな、みんな。

(2)


てんのうへいかさまは ぜんせかいのにんげんが へいわにくらせるようにと せんそうを おはじめになりました。
にっぽんは しんこくですから かならずかつのですと こうちょうせんせいが おしゃいました。
こくみんは みんな よろこんで へいたいに なりました。
おくにのために だれもだれも よろこんで しにました。
てんのうへいかばんざい、 だいにっぽんていこくばんざい。
あじあのみんなが さかえますように。

(3)


てんのうへいかさまは にんげんで あらせられました。
にっぽんこくは へいわを ちかいました。
こくみんは だれもだれも よろこんで なきました。
ちちや ははや こどもを なくしたこくみんも よろこんで なきました。
たべものがなくて ひもじくても よろこんで なきました。
にっぽんこくは へいわを ちかいました。てんのうへいかさまは にんげんで あらせられました。

こくみんは じゆうと びょうどうと それぞれのけんりを ほしょうされました。
あめりかは にっぽんこくの ゆうじんとなりました。
あめりかも にっぽんこくも たがいにさかえますように こくみんは いのりました。
にっぽんこくは さかえました。
こくみんは ゆうふくに なりました。
しょとくは ばいぞう されました。
いっかに いちだい てれびが あります。
まちまちに ぬうどげきじょうと ぱちんこやが たてられました。
(となりのおくにが ちいさくみえます)
こくみんは たのしく くらしました。
にっぽんこくは へいわです。
にっぽんこくは こくみんの あんぜんを まもるために ぼうえいたいを つくりました。
こくみんの あんぜんは ほしょうされました。

すいがいや かさいのさいには なんにんものひとびとが たすけられました。
こくみんは ないて よろこびました
にっぽんこくは へいわです。
こくみんは じゆうです。

(5)

こくみんの だいひょうのひとりは むねをはって いいました。
ひとりびとりが くにをまもるいしきを みにつけよう。
こどもたちは むねを ときめかせました。
ほんとうに じぶんたちが ほんものの てっぽうをもって くにをまもることを ゆめみて よろこびました。

 


以上は前回掲載分

以降が補足分である。


 わるいやつらを うちころすのです。あかいやつらや めうえのひとにさからう きのちがったやちらを おもいきり ぶちのめすのです。
ほ んとうに じぶんのちからで くにを くにのはんえいを まもるのです。わるいてきを ころしたあとは きもちが せいせいします。にっぽんじんは えら いのです。にっぽんじんは つよいのです。にっぽんじんは いつでも ただしいのです。いつでも ただしかったのです。
にっぽんじんは えらくて つよくて ただしくて いさぎよくて りっぱでせいぎをあいし あくをにくみ しよくをすてて ぎりをおもんじ くにをあいし ちつじょをたっとび きんべんで・・・・
――だから にっぽんこくは さかえ 
――だから にっぽんこくは ますます さかえ
――だから にっぽんこくは あじあの てほん
――だから にっぽんこくは あじあの しどうしゃ・・・・
(あじあは ひとつ。あじあは なかま。)


にっぽんこくよ さかえよ。
あじあよ さかえよ。
そのためには くにを まもる ちからが いるのです。
にっぽんこくは せんそうを するためでない へいたいを ふやしました。
にっぽんこくは せんすいかんと みさいるを つくりました。
にっぽんこくは たしかないりょくを しるための かくじつな じっけんを くりかえしました。
(あとは じっさいに ころしてみるだけ)
「かくあれるぎいは こくみんの じかくによって とりのぞかれねばならない」
「かくさんげんそくは わがとうぜんたいの かんがえではなく しゅしょう おひとりの おかんがえであり しかして それは とうぜん 考え直すよちのあるものなのであります。
「げ んこうの けんぽうは てきこくと そのてさきであるところの ひくつなる ひこくみんの てによって わがくにの ちつじょを みださんことをいととし て つくられたものであり よってそのために わがくにには てんしさまを うやまうことをせず わがくにの はんえいさえも さまたげんとする ふらち なる たいだしゃが はびこることに なったのである。しかれば われわれは とうぜん この あくほうを かいせいして われわれのこくみんせいを そ んちょうし わがくにの じつじょうに あった けんぽうを つくるべきであろうと かんがえるので ある。」

「にっぽんこくは その こ ゆうの りょうどであるところの おきなわを とりかえさねば ならないのであります。おきなわを とりかえさぬうちは にっぽんの せんごは おわった とは いえないので あります。つまり にっぽんのりょうどが うばわれているかぎりは むかしの つよい にっっぽんでは ありえないので ありま す。」   

「おきなわは きょくとうの へいわには かかせぬ じゅうような ぐんじきち なのでありまして とうてい あめりかも むじょうけんの へんかんを しょうちするはずは ないので あります。むしろ われわれは 

ほんどの おきなわか そして ついには われわれじしんの てによる こくぼうを かんがえる べきで ありましょう。」

「こ くみんの あいこくしんを たかめるために こどもたちは しんわによって こっかの とういつのれきしを まなばねば ならない。しんわが とうじの  いせいしゃの けんいづけの ための そうさくであるとするのは きけんきわまりない おもいあがった しそうであり ひいては こっか せいふへの ふ しんを じょちょうさせるものである。きょういくは とうぜん こっかによって なされるものであり さもなくば じだらくで たいはいてきな あなあき ずむの まんえんにより こっかはすたれるであろう。こどもたちを けがれからまもるために 

こどもたちを けがれから まもるために きけんなしそうはだんあつされねばならない。」
にっぽんこくはつよくなりました。(終わり)


高校の頃、これを読んだ友人に「本気でそう思ってるのなの?」と、尋ねられたことがあった。
当然、皮肉、風刺、揶揄、ジョーク、おふざけのつもりだし、それは、言わずもがなの自明の理のはずだった。

現実の歴史では、為政者と教育・報道機関の合作により、もう少しもっともらしい巧言が世を覆い、そのなかで人々の心が戦争遂行へと動員されていったのだろうが、そのメカニズムをデフォルメし戯画化することで、時代へのささやかな警鐘としたかったのだが、、、、。

ところで、昨日アップした詩「春 其の2」は、「 うららかの春の一日(ひとひ)/萌える若草の香を淡く感じながら/私はひとり寝そべっていた/柔らかな空を 二つのかげが ゆうるりと舞うていた」とつづく。

二つのかげとは何だろう?などと疑問に思われる人はまずあるまいが、「戦争の影」なんてモノではなさそうだ。ましてや、グラマンだとかB29だとか、そんな即物的な形象でもまさかないだろう。

「ゆうるりと」と言う表現からも、文字通りのどかな、平和な情景にふさわしい、トンビかなんかだろうと思って間違いない。
「ゆうるりと」というフレーズは、文芸部の顧問でもあった恩師U先生の、お好みの表現だったように思う。そんな言い回しまで、知らず知らず感化を受けていたのだろう。

昨日、岡南飛行場近くの阿部池周縁を散歩していると、空を二つの影がゆうるりと舞うていた。

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これは、どうもトンビではなさそうだ。最近、近所の散歩道でも、ちょくちょく猛禽類の姿を見かけることがある。あわてるので、なかなかカメラに収めることができず、ピンボケ、手振れ写真の量産になってしまう。
ワシタカらしい鳥を見ると、なんだかそわそわして、特別扱いしている自分に気づくが、いかんせん、目視でその種類を見分けることができないので、写真を元に図鑑を調べる必要があるのだが、この不鮮明な写りではそれもできず残念だ。
 
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鳥に関してだけは、「タカ派」志向の要素なしとはいえない私だが、政治思想上のタカ派は、論理も行動も乱暴でデリカシーにかけるので、好きになれない。
特にあの、青年将校がよって立つ「問答無用」の論理(いや、正確には「無理」)を、私はもっとも厭悪するものだが、最近の世の風潮はこれを増幅させているようで、いやな気分だ。
ほら、あのマスゾエさんのしゃべり方、イシハラさん、ハシモトさん、乱暴なキメツケで扇情的に自己の特異な主張を押し通そうとする点でそっくりに見える。そんな人物をリーダーとして戴いている市民(シチズンという意味で)のレベルが、それだけお粗末だってことで、またまた気が滅入る。
 
 
 
 

 


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春 其の2 木下透 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、この項の趣旨である。
未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
今回は、高3の時の作品。「春」という同一の題の詩を、ソネット(14行詩)形式で何編か作ったうちの一つだ。
ブログに掲載するに際して、便宜的に其の2と名付けることにする。


 春 其の二 木下透

 うららかの春の一日(ひとひ)
萌える若草の香を淡く感じながら
私はひとり寝そべっていた
柔らかな空を 二つのかげが ゆうるりと舞うていた

耳元の小川のせせらぎ
――軽やかおまえのささやき
つつましいツメクサの花
――はにかんだおまえの笑み

確かに交わされた約束であるように
私はおまえを――あてもないおまえの訪れを
胸をときめかせて舞っているのだ。

私はおまえを知りはしないのだが
おまえは私を知りはしないのだが
ああ それはだれでもいいのだが――おまえ――


 「恋に恋する」という感傷を表現してみた。本当は、意中の「おまえ」はいたのかも知れないが、それはヒミツ。
散歩中、ツメクサの花を探してみたが、まだ蕾も見えない。しもやけたクローバーの葉が、まだ寒そう。

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これは何年か前に写したシロツメクサ(白色クローバー)の花。季節としてはもう少し暖かくなってから。
 
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ホトケノザは咲いている。

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  ナズナ。別名ペンペングサ。
 
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野菜の花。コマツナかな?
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 びわの花
 
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オオイヌノフグリ
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白梅
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麦畑
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春は、少しずつ近づいているはず。

 


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春 其の一 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、この項の趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

今回は、高3の時に、「春」という同一の表題で何編か作ったソネット(14行詩)形式の詩のうちの一つだ。便宜上、其の一と名付けておきたい。

 


春 其の一  木下透

 茶色い風が吹いてはいない
かわいたチリが舞ってはいない
古新聞紙が飛んではいない
静かな静かな春の訪れ

雨 しめやかに降りそそぐ
柳の新芽 青い水玉
枯芝の焼け焦げから 塗れた緑が一,二寸
しっとりぬれた砂の間に 私はそっと素足を潜らす

私は何も失くしてしまった
古こうもり傘を伝う雨つぶ
静かな静かな春の訪れ

私はやはりひとりなのだ
いやしかし・・・重いけだるさ
静かな静かな春の訪れ


 一昨日だったか、岡山市後楽園を散歩してみた。

芝生の焦げ目が、早春ならではのアクセントとなっている。。

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梅が盛りを迎えている。
 
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元町議(平成の大合併前)のAさんにネコヤナギをいただいた。
その肌触りの柔らかさは、孫達もお気に入りのようだった。
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 散歩中に見つけることもできた。
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風よお前は   [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

今回は、高2の時に作ったソネット(14行詩)形式の詩だ。「風よお前は」というフレーズは、荒木 栄作詞・作曲 の「星よお前は」という歌にも同一の呼びかけ出でてくるが、もちろん高校生の私が知るよしもない。また、ネット検索をしてみると、同様の表現がいくつか垣間見えるが、私の作品の成立年代は1969年頃で、おそらく私のものが先行しているだろうから、著作権上の追及はご容赦願いたい。念のため。



 
  風よおまえは    木下透
風よ おまえは ふさいでいた私に
微笑みかけ(姉の如き優しさもて)
忘れていた郷愁をくすぐった。
(そのとき空は暖かかった。春)
 
風よ 私は おまえに甘えたのだ。
おまえの清らかな笑みは 
荒んだ私の心を どれほど明るくしたことか。
(それをおまえは 戯れだったというのか)
 
 
おまえは 今でも
私のことを 想ってくれることがあるだろうか。
(私が慕っているのはたしかにおまえなのだ)
 
風よ おまえは 今 どこにいるのだろう。
もう冬だというのに。
(夕べ地上を凍らせたのはおまえだったのかしら)


 

ソネットというと、まず頭に浮かぶのは、このブログサービスの提供会社であるインターネットサービスプロバイダー「So-net(ソネット)」だろうか。   
実は私が初めてパソコン通信やインターネット接続を始めたのは、この「So-net」を介してだった。もちろん、電話回線を使用してのモデム時代。パソコンとのつきあいは、「遅咲き」で、OSもwindows3.1の時代だった。ジーコジーコと緩やかな、しかも高額な、インターネット体験を始めた頃、「so-net」提供の「ポストペット」というメーラーを時に利用した。10代だった子ども達と遊ぶには、可愛いペットだった。いまは、孫が時々、ペンギン君と遊んでくれるが--。
だが、私にとって、「ソネット」というのは、サービスプロバイダー「So-net(ソネット)」ではなくて、まず、14行詩「ソネット」のことだ。
私が、西洋詩の形式である「ソネット」に触れたのは、立原道造を通してだった。

たちはら-みちぞう ―みちざう 【立原道造】
(1914-1939) 詩人。東京生まれ。東大建築科卒。堀辰雄に師事。「四季」同人。ソネット形式を用いた造形的な詩と清純かつ典雅な叙情を特徴とする。詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」「暁と夕の詩」「優しき歌」など。(『三省堂 大辞林』より)



たとえば、彼の詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」などは、音楽にも似た美しいソネットの宝庫で、高校時代の私は、これに耽溺したものだった。たとえばこんな具合だ。 

はじめてのものに 立原道造

   ささやかな地異は そのかたみに
    灰を降らした この村に ひとしきり
    灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
    樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった

    その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
    窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
    部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
    よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

    ――人の心を知ることは……人の心とは……
    私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
    把へようとするのだろうか 何かいぶかしかつた

    いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
    火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
    その夜習ったエリーザベトの物語を織つた
 

 
エリザーベトとは、ドイツの作家シュトルムの「みずうみ」に登場する少女の名前だそうだ。当時の旧制高校では、ドイツ語の教科書にこの作品が採られていたと言う。高校生の私も、早速、新潮文庫を買って読んだ。

また次の作品なども、私のセンチメンタリズムを刺激してやまないものだった。

 のちのおもひに 立原道造

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう



 

 

 虹とひとと  立原道造

雨あがりのしづかな風がそよいでゐた あのとき
叢(くさむら)は露の雫にまだ濡れて 蜘蛛の念珠(おじゆず)も光つてゐた
東の空には ゆるやかな虹がかかつてゐた
僕らはだまつて立つてゐた 黙つて!

ああ何もかもあのままだ おまへはそのとき
僕を見上げてゐた 僕には何もすることがなかつたから
(僕はおまへを愛してゐたのに)
(おまへは僕を愛してゐたのに)

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

おまへの睫毛(まつげ)にも ちひさな虹が憩(やす)んでゐることだらう
(しかしおまへはもう僕を愛してゐない
僕はもうおまへを愛してゐない)

 

私は、この詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」の「萱草」を、「わすれな草(勿忘草)」のことだと、長い間思っていた。英語では forget‐me‐notといい、尾崎豊の曲にも歌われていた。また、倍賞智恵子の歌った「わすれな草をあなたに」も好きな曲だ。
 だが、萱草は、それとは違って、悲しみを忘れる効能があるとされる植物で、カンゾウとも呼ばれる。萱草(かんぞう)。藪萱草(ヤブカンゾウ)・野萱草(ノカンゾウ)などの種類があり、ユリ科またはキスゲ科に分類される。美しい花を咲かせ、若葉や根は食用にされ、甘味を含むという。

古くから、その、悲しみを忘れるという効能にちなんで、よく歌に詠まれた。
あの、大伴旅人(たびと)も、任地の大宰府にあって、故郷への慕情を断ち切りたいとの心情をこう詠んだ。
   忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため   大伴旅人
【解釈】忘れ草を私の腰ひもに付けてみた。香具山に近い住み慣れた古里のことをわすれるために。

息子の家持(やかもち)も、こう歌う。
忘れ草 我が下紐に 付けたれど 醜(しこ)の醜草(しこぐさ) 言にしありけり   大伴家持
【解釈】忘れ草を身につけて憂いを忘れようとしたけれど、忘れることなどできはしない。名前だけのダメダメの馬鹿草だなあ。


同じ「万葉集」の詠み人知らずの次の歌も、忘れられない恋の苦しさを歌う。

    忘れ草 垣も繁みに植えたれど 醜(しこ)の醜草(しこくさ) なお恋にけり  詠み人知らず
【解釈】恋の苦しみを忘れるため垣根いっぱいに生い茂るほど忘れ草を植えたのだが、 ダメダメの馬鹿草め! まだ恋しい想いが薄れることがないよ。

 


さて、私の作品だが、その出来はさておき、初めて「詩情」を意識して作った詩だった。そして、初めて作ったソネット(14行詩)だった。
「擬人法」による、風に呼びかけているとも、少女に呼びかけているとも分別しがたい、渾然とした効果を狙ってみた。

 

学生時代、「自由」と題するエリュアールの詩を、私は、熱く甘い恋の歌だと思って読み進み、最後の最後で「きみ」が何者かを知り、その渇仰の切実さに打たれた事がある。私の詩を、それになぞらえるつもりはないが、「擬人法」が有効に機能すると、不思議な力を発揮すると感じた次第である。

 

 

自由
ポール・エリュアール 
大島博光訳 

小学生の ノートのうえに
机のうえに 樹の幹に
砂のうえ 雪のうえに
わたしは書く きみの名を

読んだ本の ページのうえに
石や血や 紙や灰の
すべての白い ページのうえに
わたしは書く きみの名を

金塗りの 絵本のうえに
戦士たちの 武器のうえに
王たちの 冠のうえに
わたしは書く きみの名を

ジャングルや 砂漠のうえに
小鳥の巣や えにしだのうえに
少年時代の こだまのうえに
わたしは書く きみの名を

不思議な 夜のうえに
月日の白い パンのうえに
移りゆく 季節のうえに
わたしは書く きみの名を

わが青空の すべての切れはしのうえ
陽にかがよう 池のうえに
月に映える 湖水のうえに
わたしは書く きみの名を

野のうえ 地平線のうえに
鳥たちの 翼のうえに
そして陰の 風車のうえに
わたしは書く きみの名を

明けそめる あけぼののうえに
海のうえ 舟のうえに
荒れ狂う 山のうえに
わたしは書く きみの名を

泡だつ 雲のうえに
嵐のながす 汗のうえに
どしゃ降りの 雨のうえに
わたしは書く きみの名を

光りきらめく 形姿のうえに
色とりどりの 鐘のうえに
自然のものの 真実のうえに
わたしは書く きみの名を

生きいきとした 小道のうえ
遠く伸びた 大道のうえ
ひとの溢れた 広場のうえに
わたしは書く きみの名を

燈のともった ランプのうえに
また消えた ランプのうえに
わが家の 団欒のうえに
わたしは書く きみの名を

わたしの部屋と 鏡との
二つに切られた 果物のうえに
うつろな貝殻のようなベッドのうえに
わたしは書く きみの名を

食いしんぼうで敏感な愛犬のうえに
ぴんと立てた その耳のうえに
不器用な その脚のうえに
わたしは書く きみの名を

戸口の 踏台のうえに
使いなれた 道具のうえに
揺れなびく 聖火のうえに
わたしは書く きみの名を

許しあった 肉体のうえに
友だちの 額のうえに
差し出された 手のうえに
わたしは書く きみの名を

思いがけぬ喜びの 窓硝子のうえに
待ち受ける くちびるのうえに
また 沈黙のうえにさえも
わたしは書く きみの名を

ぶち壊された 隠れ家のうえに
崩れさった わが燈台のうえに
わが不安の日の 壁のうえに
わたしは書く きみの名を

ぼんやりとした 放心のうえに
まる裸かの 孤独のうえに
そして死の 行進のうえに
わたしは書く きみの名を

もどってきた 健康のうえに
消えさった 危険のうえに
思い出のない 希望のうえに
わたしは書く きみの名を

力強いひとつの言葉にはげまされて
わたしは ふたたび人生を始める
わたしは生まれてきた きみを知るため
きみの名を 呼ぶために

自由よ


 
 
 
訳詩者の大島博光さんは、最近亡くなられた、と書きかけて調べてみたら、2006年没とある。もはや、最近とは言えないか。

 

大島博光さんの業績をまとめたこんなページがあったので、無断でご紹介させていただくことにする。 以前話題にした、パブロネルーダの詩の多くも、この人の訳で読んだ。1980年代、ある会場で、間近でお見かけしたことがあった。それだけのことだが、、、感慨はある。

さて今日の写真は、居間のテーブルに置いてあるポット植えの花。二つとも、妻が、近所のスーパーの「売れ残り」で、一鉢100円で買ってきたもの。
人口減の我が家の癒し剤か。

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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第14回(最終回) [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第14回目。最終回である。



 郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出 

連載第14回(最終回)

臆病者?非国民?言いたい奴には言わしておけ。
銃を持つのを嫌がったぼくが非国民なら、銃を持って 敵兵を撃った奴は何だ――非人間!!そうとも。貴様らの撃った相手は、本当に貴様らの敵だったか。否。それは、貴様らと同じ農民であり、労働者であり、優 しき父であったり、頼もしき兄であったはずだ。貴様らの撃ったのは、貴様らの直接の敵じゃない。ならば、貴様は、何故に銃をとるのだ。国のため?国を守 る?家を守るように?ヘドだ。ぼくらが守りたいのは、自由と平和であり、ぼくらの家であり、妹や子供達の命であるのだが、貴様らが「守れ!」と命令された のは、国土であり、国家秩序であり、資本家達の営利・・・だったわけさ。
貴様らだってわかっているはずだ。わかっていながら、ぼくのことを国賊だ、臆病だとののしるってことは、どういうことだ。つまり、臆病なのは、貴様らの方だってことじゃないのか。そして、ぼくだって、もしも徴兵に応じていれ ば、やはり、立派な臆病者になれていたってわけさ。

案の定、ぼくは捕えられ、今、刑務所の固い寝台の上に座って、こうして昔を想っている。
学校での仲間たちは、今、戦場にいる。
ぼくは、こうして、非国民として牢獄の中にいる。
ばくはさんざんの非難と嘲笑を受けながら生きている。
ぼくの家族達も、きっと、村人達に白眼視されながら、ぼくのことを恨んでいるだろう。(けれど、母さんは、ぼくに言うだろうか。立派に殺して、死んでおいで・・・と)
ぼくは、今、とっても寂しい。そして苦しい。けれど、何だか快い。少しも自分を責めてはいない。
ぼくはとにかく戦った。とうてい歯の立たぬ相手ではあったが、そして、敗れはしたが、とにかくぼくは戦った。
爺さんも言ってたっけ。
「負けてもいいから戦え」と。
「負けたら泣けばいいんだ」と。
ぼ くには力がなくって、ぼく一人じゃなんにもできなかったけれど、どうか君。君もいつまでも、育児なく逃げ回ることはおよしよ。そして、はっきり見つめてご らん。君の目の前にいる本当の敵を。弱者同士、傷つけ合うのを喜んで眺めている輩を。人を傷つけなけりゃ、自分の幸福はあり得ないと、主張する輩を。ぼく ら弱者の血で、身を肥やしている輩を。そして、奴らに追従しようとしていたぼくら自身の卑屈さを。両のこぶしを固く胸に握りしめて、しっかりと目に留め て、忘れちゃならない。(つづく)
最後に(つづく)とあるが、この作品は、ここで終わっている。
執筆中、高校生の私は、「受験」でも終わって落ち着いたら、続きを書きたいと想っていた。「つづき」は、獄中記になるはずだった。
厳しいが希望のある、楽天的な抵抗の姿をかけないかと、ぼんやり思っていたが、果たせないまま、四〇年あまりが推移した。
 どういうきっかけが、私にこんな思いつきを与えたのか、記憶は定かではないが、おそらく住井すゑの小説「橋のない川」の感化があったかと思う。
 そして、たぶん、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」にも、インパクトを受けていただろうと思う。
橋のない川〈第1部〉

橋のない川〈第1部〉


 
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ
 
小林多喜二や、その他のプロレタリア文学、特に鈴木清の「監獄細胞」などを読んだのは、まだずっと先のことだった。
独房・党生活者 (岩波文庫)

独房・党生活者 (岩波文庫)

  • 作者: 小林 多喜二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/05/15
  • メディア: 文庫
本庄陸男 鈴木清集 (日本プロレタリア文学集)

本庄陸男 鈴木清集 (日本プロレタリア文学集)

  • 作者: 本庄 陸男
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1987/04
  • メディア: 単行本

 
 
 
また、宮本百合子と宮本賢治の「十二年の手紙」も同様だ。
十二年の手紙 上 (新日本文庫 A 8-2)

十二年の手紙 上 (新日本文庫 A 8-2)

  • 作者: 宮本 顕治
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1983/01
  • メディア: 文庫
十二年の手紙 下    新日本文庫 A 8-3

十二年の手紙 下  新日本文庫 A 8-3

  • 作者: 宮本 顕治
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1983/01
  • メディア: 文庫

 

 

 

だが、「戦争が終わってぼくらは生まれた」わけで、「戦争を知らない」世代としては、 戦争に反対して投獄、という設定がリアリティを持ちにくくて、この先を書けないまま、中断しているという次第だ。


 先ほど、リアリティに乏しいと一旦書いたものの、朝日歌壇に載った次の短歌は、しかしリアリティ十分だった。

徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも     石井百代

この歌の作者について述べた記事を見つけたので、引用・紹介しておく。

 
 
 
徴兵は命かけても阻むべし…の作者はどんな人

 〈問い〉 以前、「徴兵は命かけても阻むべし…」という歌があったと記憶していますが、作者はどんな人でしたか?(福岡・一読者)

 〈答え〉 「徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも」

 石井百代(ももよ)さん(1903年1月3日―82年8月7日)が、78年にこの短歌を詠んだのは75歳のときでした(同年9月18日付朝日新聞「朝日歌壇」に掲載)。福田赳夫首相が有事立法の研究を指示した情勢のもとで詠まれました。

 選者の近藤芳美さんは選評で「…『母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも』という結句にかけてなまなましい実感を伝えるものがある。一つの時代を生きて来たもののひそかな怒りの思いであろう」と書きました。

 戦争中は東京都に住み、3男4女の母でした。夫・正(ただし)さんは軍医としてマニラに。病弱だった大学1年生の長男・立(たつ)さんは火薬廠(しょう)に動員されます。二男は陸軍幼年学校、士官学校、航空士官学校を経て外地に。戦後、立さんが出版社に勤め労働組合運動に参加するようになり、その影響もあって夫婦は進歩的な考えを持つようになります。

 51年4月、夫は、静岡県相良町(さがらちょう。現・牧之原市)で耳鼻科の医院を開業。百代さんは、夫と一緒に読書会、映画研究会に入って地元の青年たちと交流。夫婦で日本共産党後援会の世話役もしました。

 「しんぶん赤旗」日曜版の「読者文芸 にちよう短歌」にもしばしば投稿。「マルクスの読書会終えわが夫と帰るこの夜の月澄みまさる」(65年12月5日号)と読書会のことを詠んでいます。

 69年8月に夫が亡くなってから、東京都世田谷区に住むようになりました。

 「徴兵は…」の短歌が発表されてから本紙記者が百代さんにインタビューしたとき「私は兄、おい、二人のいとこ、義弟を戦死させています。息子は病気で徴兵をまぬがれましたけど…」「でも私はあの戦争を聖戦と思い込んで、息子を戦争に差し出そうとしていたんです」と語っていました。

 罪ほろぼしのつもりで、と百代さんは女性の団体「草の実会」で平和問題などの学習をすすめます。そのなかで知った有事立法の動き。この短歌は体を張ってでも孫たちを戦場には送らないという彼女の決意でした。この歌は草色のスカーフに白く染め抜かれ、人々の口から口へと伝えられました。当時、自民党政府は有事立法に踏み切ることはできませんでした。

 選挙では日本共産党を応援しました。80年6月の衆参同時選挙の時、「投票は誰にしてよいか分からないのでいくまいと思う」という女性に、百代さんは「平和を守るために、ぜひ共産党へ投票なさい」とすすめています。(義)

 〔2006・6・10(土)〕

今日の散歩は、どんよりと垂れ込めた冬空から、時折氷雨がぱらつく悪コンディション。
 
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センダンの木に止まるキジバトも、いかにも寒そうでした。
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第13回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第13回目。

物語は、ほぼ終息に向かう。

「青臭い」長広舌が続くが、実は、今でも私の思いは、あんまり変わってないのだ。

前回までの掲載分も、文言や表記に若干の微細な補正を施してきたが、今回の部分は、高校生の私の限界から、 世間に公表するには、訂正を施したい箇所が少なくなかったが、ひつよう最小限の補正に留めた。文章中の斜体の部分がそれである。あらかじめ、お断りしておきたい。

 


 

郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出 

連載第13回

ぼくはついに思い知らねばならなかった。いつまでも逃げてはいられないのだ。今までぼくは、逃げて逃げて、そして逃げることのできない袋小路に追い詰められてしまった。さあ。どうすればいい。
どん底にあって、初めてぼくは知った。敵というのは、本当の敵というのは、他の誰でもない、ぼく自身だったのだ、と。こんなに弱いぼくが、こんなに手強い敵だったとは。こっけいではあるが、事実だ。
さあ、それではどうするのだ。さあ、ぼくはどっちを選べばよい。
このまま素直に銃を持って、愛国の勇士として戦うか。それとも、死を怖れる臆病者と言われながら、それを拒否するか。
ぼくは、確かに、死ぬのはこわい。
そして同時に、卑怯者、臆病者とあざけられる立場に身を置くことは苦しい。
さあ。それなら、どうすればよい。神よ。ぼくはどうしたら。否。神はそんな事には無関与だ。実際、神は至って無頓着だ。
《いったい、神は我々人間がどのようにふしだらに生きようと、あるいはまた、我々がいかにないがしろにしようと、そんなことはまるで無頓着だ。神は我らのいかな行為にも、それどころか神自身の存在に関してさえも、無頓着だ。オロオロしながら、その名を唱えればすばらしい回答を与えてくれた古(いにしえ)の神は、妄誕だ。神は、ぼくらに、己の欲するままに生きることを許された。――ぼくらはいつでも、自分で、自分だけで生きなければらない。――あくまでも自分で、自分の全良心、全霊かけてなされた行為ににこそ、神の意思はあるのかも知れない。・・・なくったっていい。――神は他の何処(いづこ)にもおわしはしない。神はほかの何者でもない。神は我らのうちに、だ。神の本質は“愛”だ。神は、我らの内なる“愛”だ。――
この認識は、ぼくにとって、決して新しい発見ではなかった。そう、爺さんから学んだ教訓のうちに、いつでも見いだせる認識だった。――爺さんの神、爺さんにとっての神は、やはり爺さんの性の奥底からあふれ出る愛だった。――生命あるものへの愛、自然への愛・・・大抵の人からは失われた、人間にとって最も懐かしく、そして善良な感情――。そして爺さんこそ、自分の神に最も忠実に生きた人だったかも知れない。―――このことは、子供の頃からいつでも感じていたことだのに、今になって改めて気づいたことのようにぼくを驚かせる。》

自己の内面に問いかけ問いかけて、最後の決定は自分自身で為されねばならない。
さあ。それなら、ぼくは、どうすればよい。
今度の戦争が始まる前に、ぼくらの学校でも、幾人かが立ち上がり、「戦争を始めちゃいけない。」と叫んで石投げて逮捕(つかま)った。
その自分、ぼくは仲間と一緒に酒場でワインをあおって騒いでいた。戦争なんて知らぬことさと、そっぽ向いて、女の噂や、明るい将来を話して騒いでいた。
そのうちに、知らぬ間に今度の戦争、始まっていた。
原因は定かには知らされなかったが、いつものように悪いのは相手国だった。(ぼくらの国はいつでも正しいのだから。)

ぼくの村――爺さんとぼくの村――あの水車小屋はもうないが、丘の上には爺さんのお墓がある――あのぼくらの村に、軍の基地ができた時の話を、風の便りに聞いた。
村の一部の人たち――なかでも、最も貧しい人たち――ぼくの親父や、他の小作人や、工場で働く労働者達――は、それに反対してクワやカマやむしろ旗を持って「おれ達の村から出て行け」と叫んだ。全くそれは、無理のないことなのだった。全生活の糧である狭い田畑や、やせた小作地さえ奪われては、彼らは生きていけないのだから。一握りの補償金が何の助けになったろう。
その基地がどんな用途に用いられるかは、誰にも知らされなかったが、 驚くほど広大な敷地が立ち入り禁止にされ、何でも、秘密の新型兵器の開発と貯蔵が行われているらしかった。村の自然と安全がおびやかされるだけでなく、真っ先に、敵の報復攻撃の対象とされることは容易に想像できた。
そういう思いから、最後まで戦い続けた
村の人々のことを話題にして、ぼくのいるこの都市(まち)では、こんな風にささやかれた。
「国の大事な時なのに、わがままはよせばいいのに。」
「そんなに国を愛せない奴らは、力尽くでも追い出して、敵を向かえなきゃ、国が危ない。」
「こんな時だから、国のためには少しのことは我慢しろ」・・・と。
――「国のために・・・」は、聞かせるね。国民の生活や安全を考えない国ってのがあるかい。それとも、貧乏人や少数者は国民じゃないのだろうね。
これは、弱者にとっては、いつも成り立つ命令だ。
「国のえらい人やお金持ちのために、食うことを我慢なさい。私心は捨てて、生きることも我慢なさい。わがままはよして、早くお死になさい。」

余儀なく銃を持たされた弱者達と、何も知らずに撃たれる弱者達。
撃たなきゃ殺される弱者達と、撃たれて死ぬ弱者達。恨みもないのに銃を撃つ弱者達と、恨みながら死んでいく弱者達。
父や母や兄を殺されても、誰を恨んでいいかわからない子供達。
そのすすり泣きに耳ふさぎ、折り重なった死体から目をそらして、さらに前進する兵士達。
今も。
まさに。
血を震わせる銃声。
甲高い悲鳴。
弱々しく止んで、静寂。
弱者の血。弱者の涙。
そして、なおも、銃持って戦地に送り込まれる若者達。
死体となって送り返される若者達。
――何も知らぬふりして、遊び興じる若者達。
――それらすべてを、ほくそ笑みながら眺めている、愛国的指導者達、愛国的お金持ち達。

 いま、ぼくのしなければならないことは、――遅すぎる。遅すぎるけれども――いま、ぼくにできることは・・・奴らの手先になることを拒否するという、消極的な行為のみ。

だから、だからぼくは、徴兵を拒否した。


 先日M先輩が、「ルリビタキ」「アトリ」「ミヤマホオジロ」などの画像を送ってきて下さいました。「環境保護センター」で撮影されたとの由。
私は、そこを訪ねたことはなかったのですが、実は、ちょいと足を伸ばせば郷里で、その経路沿いに、案内表示があることのを目にしながら、通り過ぎたことはありました。
この冬は、「ルリビタキ」「アトリ」「ミヤマホオジロ」いずれも、目にしていません。過去の写真も、ブッシュの中や薄暗い木陰、高い枝先など、悪条件の撮影で、満足できるものがありませんので、にわかに思いついて、出かけてみました。ラッキーな出会いに、淡い期待を抱いて。
走行距離は、片道およそ50Kmという感じでした。
結果は?
残念ながら、お目当ての小鳥には会えませんでした。

 

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鶴は、悠々と採餌していました。

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バンも、近くで観察できました。
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カルガモも、広々とした池を悠然と泳いでいます。
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コガモのオス
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こんな鳥も・・・
 
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山道で、ツツジの花を見つけました。
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この足跡はイノシシ?妻に命じられて写しました。
 
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 夕方、所用があるので、今日はここまで。

また今度の機会にと、期待を残して、散歩の快い疲れを土産に、現地をあとにしました。

ちょっと足を伸ばせば実家なのですが、これもまた日を改めることにしましょう。


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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第12回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第12回目。


連載第12回
爺さんの墓の周りには、毎年秋になると小さな白い雑草(くさ)の花が咲いた。
ある日ぼくは、一人の見知らぬ人をそこで見かけたが、それが誰だったかは、誰も知らない。
菜っ葉服を着た若い人――ちょうど、ぼくの父さんと同い年くらいの――で、右足が悪いらしく手。松葉杖をついていた。
爺さんの墓に向かって涙しながら、こんな風につぶやいていた。
「昨日戦地から帰りました.戦争は、まだ終わりません.母さんを奪ったのは.敵の誰でもなく戦争そのものだったことを、今になって知りました。」


君は今でも覚えているだろうかい。カルロス爺さんのこと。
  あゝ、あれは、みんな、もう今から十年も昔のことだ。
そして、ぼくはもう二十歳(はたち)
ぼくは今、とっても寂しいけれど、なんだか快い。
爺さんの教訓は、ぼくには難しすぎた。
学生時代を通して、ぼくは全くの逡巡者だった。いつもしりごみばかりして、できるなら、何事もなくあれかしという風だった。だからぼくは、いつでも易きを取るという卑屈な手段を取った。そんな自分を嫌悪しながらも。
なにしろ、ぼくには、何をしたらいいのかということさえわからなかった。
爺さんは、神と己をけがす敵と戦えと言った。
少年時代、ぼくは確かに戦った。体中をキリキリ尖らして、ぼくに近づく誰彼かまわず戦った。ある時は、それは親であり、幼友達であり、先生であったりもした。そのような戦いは、いつも必ず他愛なく始まり、そして必ず気まずく終結するのだった。
「独善」・・・いつでもそうだった。おまえが敵だとして戦った相手は果たしておまえの敵だったのか。そうではなくて、むしろおまえを愛してくれてさえいる味方ではなかったのかしら。――いつでも、ぼくの独りずもうだった。
ぼくには全くわかららなくなっていた。果たして、敵とは、本当の敵とは、一体何なのだろうか。
それでもまだ、ぼくはしばしば戦った。そしているも、あとに残るのは、やりきれない公開だけだった。果たしてそれが、おまえがそれほどまでに武装して戦わねばならぬ敵だったのか、と。
そのうち、ぼくは、戦えば戦うほど一人っきりになっていく自分に気づいた。寂しかった。楽しそうに談笑している友人達を羨望した。
そんなわけで、ぼくは、しだいにあの屈辱的な処世法を身につけていた。 できれば争わずにすます――強調・・・とんだ道化だったが、浮かれて騒ぐことは楽しかった。
ぼくは信じ始めていた。人には敵などありはしないのだ。 誰だってみんな仲間なんだ。小作人の息子と大地主の息子だって、日雇い労務者のせがれと工場主の子供だって、資本家の御曹司だって、みんな仲間だ。同じグラスでワインをあおり、女の話をする。みんな仲間だ。
この考えは、ぼくをうっとりさせた。しかし、その時のぼくは、大切なことを忘れていた。
そう。自分を圧し殺してえた強調は、決して真の平和には結びつかない。そしてまた、自分を主張して、自己を思い切り生かして、誰もが互いを尊敬し合うことができて初めて、神の望んでいらっしゃる「平等」が生まれるのだとは気づかずにいた。
しかし、とにかく、そんな風にして、ぼくは学生時代を何をするのでもなく、のんびりと過ごしていた。
だが、そのような退廃的な享楽に溺れていても、ぼくは何だか物足りなさを感じずにはいられなかった。聞き苦しい焦燥感さえ感じていた。
所詮、いつわりののどけさは、いつまでも続きはしなかった。終局は、当然予期されるべき方法で訪れた。ぼくだって予期せぬわけではなかったが、忘れていたかった。
――徴兵・・・・
つづく

今日は診療予約日。まず胸部のCTを撮って、受診。
予約時刻を過ぎても、なかなかお呼びがないと、画像診断に何か手間取っているのではないか、治療方針の見直し検討に時間がかかっているのじゃないか、などなど、あらぬ思いがふつふつと沸いて落ち着かない。
たまたま、昨日は、今年度退職予定の十数人の方々を前に、近況を話す機会があった。その大部分を、「病気自慢」に費やしたが、脳動脈瘤と肺腺癌という相次いで経験した「大患」を、平常心で切り抜けたかに振る舞ったけれど、なぜか、終わったあとの消耗感が拭えない。
考えてみると、実際の所、ここ何ヶ月かの日常生活の中で、人と接することだけでも思わぬエネルギーを要するのに、昨日は、無意識のうちにも「元気」を演じて人を「元気づける」ベクトルが働いたらしく、それは自己の「自然」にそぐわない、キャパシティ以上の負荷を加えたものらしい。それと、何を話したか話の中身は正確に思い出せないが、言わずもがなの放言を羞じる気持ちが、後味悪く、澱のようにまといつく。
そんなビミョーな心境で、診察を待ちながら、こんな句を戯れてみた。
俎(まないた)の鯉も心は揺れざらん

結局、診察は経過順調ということであっさりとすみ、CT検査の余禄として「脂肪肝」が指摘されたというオチで、お後がよろしいようで。

「脂肪肝」解消も目指して、午後、深山公園を歩く。
メジロ、シジュウカラ、アオジといったところを見かけたが、撮影はできず。
帰り際、夕暮れ近き「赤松池」の鴨たちを記念撮影して満足して帰る。

 
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第11回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第11回目。


郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出 

連載第11回
君は覚えているだろうか。水車小屋のカルロスじいさん。
あれは、そう、随分曇って、今にも降り出しそうな気配の夏の夕方。むし暑くって、風もなくて、何もかもが重苦しくおさえつけられているような、イヤな日だった。
僕はその日も、じいさんにお話ししてもらおうと思って、爺さん家へ出かけた。
あれ以来、ぼくの欠かせぬ友達になったあのチビ公を釣れて(チビって名をつけたけれど、もうたくましい成犬で、ふざけてじゃれついてはぼくを押し倒すくらいになっていた)。
チビ公、爺さんにすっかりなついてて、いつも真っ先に駆けてって、小屋の前に腰を下ろしている爺さんにじゃれついて遊んでいるんだが。
その日は、ぼくがおやつの黒パンをほおばりながら水車小屋まで駆けてった時、外には爺さんお姿は見えなかった。
どうしたのかなと思って、小屋の内に入っていくと、チビ公が急に悲しげに花を鳴らし始めた。
爺さん、ベッドのそばにひざまずいて、お祈りしているようだった。ぼくが声かけても、身動きしないので不思議に思って近づくと、爺さん・・・死んでた。
両手を組み合わせ、目を閉じて、その口元には、柔和な笑みさえたたえていた。
血の気の引いた青白い頬の色は、爺さんの顔をかえって気高くして見せた。
ぼくはちっとも恐ろしくはなかった。
ただ、とっても悲しかった。
もう、これっきり爺さんに会えないのだ、ということがわかりきるまでには、時間がかかった。
爺さんお葬式は、次の日ひっそりと行われた。
激しく雨が降りしきる中を、爺さんのひつぎはゆっくりと運ばれた。
むらの、大人達は、それを見送りはしなかったが、 子どもたちはみんな、その後をついて歩いた。びしょ濡れの服にかまわず、ひつぎを乗せた車を、黙々と押した。
村が見渡せる丘の上に、小さな白い十字架が立てられると、本当にもうこれっきりなのだと、初めて僕らは泣いた。ニールスも泣いた。
碑には、僕らの手によってこう刻まれるべきだった。
「勇気ある聖人ジーベル=カルロスここに眠る」

今日は、所用があって、日課の散歩は未遂。従って、本日撮影の画像はなし。
苦し紛れに探し出したこの写真は、6年前に天寿を全うした老犬チロが、まだ若犬だった頃のスナップ。
最近一子をもうけた二男が、まだこんなに幼かった。
 
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第10回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第10回目。


郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出 

 
 連載第10回

それから十数年が経った。
わしはヘンニィルを町の大学にやろうとした、どんなに貧乏してもヘンニィルには、好きな学問をやらせたかった。
しかし、ヘンニィルはそれを断った。
ヘンニィルは――馬鹿なヤツだ――わしのことを思って、ふふふ・・・、町の工場で働きたいとぬかしやがった。
わしに苦労をかけたくないからって、
「それに、学校なんか出なくっても、ぼくは立派に生きられる。神をあざわらうことなんか決してしやしない。」
とぬかしやがって、ヤツは本当に町に働きに出た。
そして月々決まって幾ばくかの銭を仕送ってくれた。
そして何年かの後、
「結婚もして子供もできたから、どうか父さんも町へいらっして下さい.一緒に暮らしたいと思っています」という便りが届いた。
わしはそれは会いたいとは思ったが、この町を離れる気は毛頭ないことを告げた。
実際こんなに暮らし良い村は他にはない。
小鳥のさえずりと小川のせせらぎ、それに可愛い素直な子供達。ねえ、ぽうや。爺さんは君たちから離れたくはないんだよ。・・・
そんなわけでヘンニィルとは、もう何十年も会っていない。けれどもきっと、平和に暮らしているだろうと思っている。

そう言って、爺さんのお話は終わった。
寂しいけれどすがすがしい笑い声が、爺さんの小屋に響いた。
外はもう、すっかり暗くなっていた。
ぼくを家まで送ってくれる爺さんの顔、月明かりでとっても気高く見えた。

夢に見るイエス様に、どこか似ていた。・・・

 


日記がわりに始めたこのブログだが、 几帳面な管理ができないので、用意した画像がいつ何処での撮影だったかをすぐに忘れてします。

ま してや、その時の機材の記憶は、すぐに曖昧になる。exifで確かめれば?というご意見はもっともだが、オールドマニュアルレンズや、リアコンバーターを 多用しているとmEXIFに記録が残ってくれない。なので、このブログ記事として記録しておけるといいかなと、最初の内は目論んでいたが.いまや画餅と帰 してしまった。

最近、メインで使っているXPパソコンの動きが怪しいので、HDDのプロパティをのぞいて みたら、残り容量がヤバイ状態。この中古パソコンは、PENTITIUM4,2.66gというスペックのビジネスパソコンOS付きを、1万数千円で買い、 memoryを、1Gの増設、HDDを40Gという非力な者を思い切って1テラに載せ替えたので、世代遅れの中古パソコンながら、有り余るスペックるス ペックという思いで使ってきたのだが、何年分も画像ファイルをため込むと、どんな大きな器も埋まってしまうということか?

ここ何日かかけて、久しぶりにファイルの整理整頓と、デフラグなるものをやって、少し持ち直した感じだが、その過程で色々なことを痛感した。

その第一は、デジカメ画像は、撮影日を即時に確かめことができるのは有り難いことだが、オールドレンズを多用すると、レンズ情報、露出データなんかが残らないので、それに関する記憶の欠落とともに、自己の過去も剥離・欠落していくような心細さにとらわれる。

そのようなわけで、できるだけこまめにメモしておくのがいいかなと思ったりしてみる。もちろん、三日坊主に終わるのだろうが。

 

 一昨日(12月12日)、龍ノ口グリーンシャワー公園の入り口あたりを散歩した時に撮影した、楓(フウ)や楓(カエデ)、ナンキンハゼなどの紅葉と落葉。

 

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olympuse420 レンズはもう忘れた。
たぶん、ズイコーデジタル 35mm F3.5 Macro+リアコン EC-14
 
 
 
 
 これは12月9日に半田山植物園を散歩した時に、群れて登場してきたエナガ。
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群れて遊ぶツグミ
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カメラはPENTAX k52s +smc pentax da55-300
 
 
 
 
 
これは今日の昼頃。家の近くの小川の前で。
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これも家の近くの電線に止まるムクドリ。
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OLYMPUS E420+ ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm
 
 
今日は保育園年長組の孫の、生活発表会(音楽発表会)。劇と、歌と、演奏。「千の風になって」ほかを堂々と演奏し、お礼の挨拶なんかもいっちょまえです。
もう「幼児」の域を越えつつあるのが、頼もしいやら寂しいやら。目頭を押さえている観客もちらほらありました。
くどいようですが、この子らの目を鬱ぎ、口を封じるような国家秘密が跋扈する時代はご免蒙りたいもの。
北朝鮮の無法に心が冷える思いをし、マンデラの勝ち取った自由の尊さ、ありがたさを世界中が噛みしめている時だけに。

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