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溶けそうな暑さすべなく空を見る [私の切り抜き帳]

おかやま人権研究センター刊行の「人権21 調査と研究」という雑誌の、2016.6(No.2429)号に掲載されている吉永隆光先生の「戦時中の国民学校教科書の実相」という文章について、先日来これらの記事で紹介させて戴いています。

◇日本よい国 きよい国 に思う、の巻 

◇御国のために死ねと教えた教科書、の巻
『音楽』のつづきです。
教科書には載っていないがラジオを通して国民に歌われた歌として、何曲かを挙げておられます。その一つ。


 『欲しがりません勝つまでは』
作詞・山上武夫 作曲・海沼実
どんな短い鉛筆も
どんな小さい紙片(かみきれ)も
無駄にしないで使います
そうです僕たち私たち
欲しがりません勝つまでは
(二--四番略)


これは一九四二(昭和一七)年に大政翼讃会と新聞社が大束亜戦争一周年記念に国民決意の標語を募集した時に入選したものを歌の題にした曲で、天才童謡歌手川田正子が歌つてラジオを通してよく歌われた。 これは実のところは少国民でさえ耐えているのだからと、大人に倹約質素を強制するキーワードとして活用されたといえょう。空襲警報のない日でも、ラジオから川田正子の戦時童謡が流れない日はなかったという。
『欲しがりません勝つまでは』という戦時標語については、過去の◇青空に背いて栗の花匂うの記事で、こんなことを書きました。

 so-netブログの大先輩落合道人様のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。

 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
 ▼
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
笑止!というよりも、痛ましささえ覚える人間喪失ぶりです。
はだしのゲンにもこんな場面がありました。


終わりの「ブ-ッ」は、町内会の竹槍訓練に駆り出されたゲンの父親中岡大吉が、やる気なく放屁する場面です。こうした非協力的な態度や、「こんなもので戦っても銃で攻撃されたら皆殺しにされるだけで無駄なこと」「日本は他の国と仲良くしなければならない」等の言動から、非国民と排撃されれることになります。
少女歌手川田正子は、こんな過去記事でも取り上げたことがありました。

◇桑畑の歌から始まった、の巻
 導入で紹介された歌は、「汽車ぽっぽの歌」。
誰もが知っている童謡で、歌詞はこうです。
汽車(きしゃ) 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
僕等(ぼくら)をのせて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
スピード スピード 窓(まど)の外
畑(はたけ)も とぶ とぶ 家もとぶ
走れ 走れ 走れ
鉄橋(てっきょう)だ 鉄橋だ たのしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
汽笛(きてき)をならし
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆかいだ ゆかいだ いいながめ
野原だ 林だ ほら 山だ
走れ 走れ 走れ
トンネルだ トンネルだ うれしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
けむりをはいて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆこうよ ゆこうよ どこまでも
明るい 希望が 待っている
走れ 走れ 走れ
がんばって がんばって 走れ
が、その元の歌詞は、こうだったと、H先輩はおっしゃいます。
 (一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳
歌の題も「兵隊さんの汽車」といい、御殿場小学校教師であった作詞者が、出征する兵士を見送る内容の歌として作ったもので、戦意を鼓舞するために歌われたが、戦後、今の歌詞に改められたのだそうです。
ウィキペディアの記事にはこうありました。
1937年(昭和12年)にレコード用の童謡『兵隊さんの汽車』として世に出た。歌詞も現在のものと一部異なり、蒸気機関車(汽車)に乗って出征する兵士を見送る内容であった。
作詞者の富原は静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)で教員として働いており、旧陸軍の演習場があった御殿場線の御殿場駅で見た光景を歌詞にしたという。
後に川田正子の歌唱によるレコードが発売され、1945年(昭和20年)の大晦日にNHKラジオの『紅白音楽試合』(NHK紅白歌合戦の前身)で川田により この曲が歌われることになった。その際に近藤積ディレクターから終戦後の時代にあった内容への改作を依頼され、富原自身の手によって現在の題名と歌詞に改められた。 
ネット検索してみると、一番から三番までの歌詞はこのようだったそうです。
 兵隊さんの汽車
作詞:富原 薫
作曲:草川 信
歌唱:川田正子
制作:滝野細道
    (一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳
 
    (二 )
汽車汽車 來る來る
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
窓からヒラヒラ日の丸の
旗を振ってく兵隊さん
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳

    (三)
汽車汽車行く行く
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
まだまだヒラヒラ日の丸の
旗が見えるよ汽車の窓
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳



◇美作は海遠けれど


 栗と言えば、童謡「里の秋」が思い出されますね。
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

wikiには、こう記載されています。
「1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では夜空の下で遠くにいる父親を思う様子、3番では父親の無事の帰りを願う母子の思いを表現している。」 
そして、小学校の教師だった作詞者斎藤信夫が、昭和16年、この「里の秋」のもとになる「星月夜」という作品を書いていたことも紹介されています。

こちらのブログに、詳しい解説がありますので、参照させていただきます。 
http://blogs.yahoo.co.jp/gojukara11/2540856.html

「星月夜」の1・2番は、「里の秋」と全く同じですが、3・4番は、こうなっていたそうです。
 きれいなきれいな 椰子の島 しっかり護って 下さいと 
 ああ父さんの ご武運を 今夜も一人で 祈ります

 大きく大きく なったなら 兵隊さんだよ うれしいな 
 ねえ母さんよ 僕だって 必ずお国を 護ります

日本が、太平洋戦争に突入する時期であったことを反映して、子どもたちに戦意の高揚を煽る内容になっていました。自らもそう固く信じて、子どもたちを戦争に 送った教師の一人として、斎藤は深い悔悟にとらえられたと言います。「教え子を再び戦場に送るまい」という、戦後教師の共通の悲願は、この作者の思いでも あったでしょう。



朝夕は少し涼しさを感じるようになったとはいうものの、日中は驚異的な暑さです。


テレビニュースで、インタビューを受けた人が、「もう溶けそう」なあどといっています。同じセリフがつい口をついて出てくるので、笑えます。

わけもなく空を見上げてしまいます。













さすがに夕方になると、少しはしのぎやすくなります。

2歳児の孫を自転車に乗せて、近所をぐるぐるあやして回ります。

こんな光景に出会うと、ちょっと自転車を止めて、撮影します。









先日も、2歳児を載せた自転車から、空と雲を写しました。


8月の雲と空

8月の雲と空 posted by (C)kazg 


8月の雲と空
8月の雲と空 posted by (C)kazg


8月の雲と空


8月の雲と空 posted by (C)kazg



8月の雲と空


8月の雲と空 posted by (C)kazg




8月の雲と空




8月の雲と空
posted by (C)kazg

8月の雲と空

8月の雲と空
posted by (C)kazg



8月の雲と空


8月の雲と空 posted by (C)kazg




朝景色も少し貼っておきます。

8月の田園の朝景色

8月の田園の朝景色 posted by (C)kazg



8月の田園の朝景色


8月の田園の朝景色 posted by (C)kazg



8月の田園の朝景色


8月の田園の朝景色 posted by (C)kazg

薄明光線(はくめいこうせん)というものがあるそうです。

ウィキペディアには、こうあります。

 薄明光線(はくめいこうせん、英語: crepuscular rays)は、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象の俗称。通常とは逆に、雲の切れ間から上空に向かって光が出ることもある。おもに、地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方に見られる。世界中の人々の間で美しい自然現象と認識されており、写真撮影における人気も高い。
名称

「薄明光線」のほか、別名が多数ある。気象現象としては「薄明光線」、一般的には「天使の梯子」がよく知られている名称。

    天使の梯子、天使のはしご(てんしのはしご、angel's ladder)
    天使の階段(angel's stairs, angel's stairway)
    ヤコブの梯子、ヤコブのはしご(Jacob's ladder)
    レンブラント光線
    また、単に光芒と呼ぶこともある。

ヤコブの梯子、天使の梯子という名称は、旧約聖書創世記28章12節に由来する。この記述では、ヤコブが夢の中で、雲の切れ間から差す光のような梯子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされる。このことからやがて自然現象もそのように呼ばれるようになった。

レンブラント光線という名称は、レンブラント・ファン・レインがこれを好んで描いたことに由来する。その結果、絵画表現上においては、コントラストが強くなり、光の当たる部分と闇の部分との対比を強調され非日常的な雰囲気や宗教的な神々しさを表現することに成功した。

    晩年の開高健は、しばしばテレビなどで好んで「レンブラント光線」という言葉を口にした。
    宮沢賢治はこの現象を「光のパイプオルガン」と表現している。

 

 

「天使のはしご」「天使の階段」 「光の階段」という言葉は、聞き覚えがあります。 宮沢賢治の「光のパイプオルガン」は記憶にありませんでした。彼の詩集「春と修羅」は読んでいたはずなのですが

この詩が収められています。

 

三八四  告別

一九二五、一〇、二五、



おまへのバスの三連音が

どんなぐあひに鳴ってゐたかを

おそらくおまへはわかってゐまい

その純朴さ希みに充ちたたのしさは

ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた

もしもおまへがそれらの音の特性や

立派な無数の順列を

はっきり知って自由にいつでも使へるならば

おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

泰西著名の楽人たちが

幼齢弦や鍵器をとって

すでに一家をなしたがやうに

おまへはそのころ

この国にある皮革の鼓器と

竹でつくった管(くゎん)とをとった

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで

おまへの素質と力をもってゐるものは

町と村との一万人のなかになら

おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも

五年のあひだにそれを大抵無くすのだ

生活のためにけづられたり

自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは

ひとにとゞまるものでない

ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、

おれは四月はもう学校に居ないのだ

恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり

きれいな音の正しい調子とその明るさを失って

ふたたび回復できないならば

おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは

すこしぐらゐの仕事ができて

そいつに腰をかけてるやうな

そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき

おまへに無数の影と光の像があらはれる

おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら

いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり

そらいっぱいの

光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ
 

 きょうはこれにて。


御国のために死ねと教えた教科書、の巻 [私の切り抜き帳]


先日の日本よい国 きよい国 に思う、の巻の記事のつづきです。雑誌「人権21」掲載の吉永隆光先生の「戦時中の国民学校教科書の実相」という文章から、「芸能科音楽」の話題をたどります。


歌には不思議な力があり、ある時期、その歌になじむと、めったに忘れることがない。(中略)そればかりではなく、その歌になじんた頃の自分の生活体験を思い出すことすら珍らしくなぃ……その歌とかかわった期間の記憶を抽出するキイの役割を果すのである。これは山中恒の『ぼくら少国民と戦争応援歌』のまえがきの文章である。
まさにその通りで、著者も学校で習つた歌や、当時唯一 の電波マスコミであったNHKのラジオ放送を通して繰返し聴いた軍国童謡や歌謡は、歌い出しの部分を聴くとメロデイが自然に口に出るのである。 


少し端折って先を読みます。


 ここで、音楽の教科書の内容を分析してみたい。
一年生では「キミガヨ」が最初に出て、続いて「ヒノマル」、最後の方で「兵夕イゴッコ」「ヒカウキ」の教材となる。
二年生になると「君が代」と「きげん節」と儀式の歌が最初に出、冒頭で引用した「日本」の歌詞が伊勢神宮内宮のカラーの絵とともに出る。また「富士の山」(神の山とあがめる)「兵たいさん」の歌詞がいづれも楽譜つきでみられる。
三年生になると、軍国主義の教材が二六教材のうち、一二教材となり、学校で最も重視された四大節(一月一日、紀元節、天長節、明治節)の歌が掲載された。
四年になると儀式の歌と軍国日本を謳歌する教材が二六教材中一七教材と一挙に増大する。
五年生では軍国教材が二六教材中二〇教材、 六年生では二七教材中二〇教材となる。ここに軍部からの要求が反映している。自然や季節、年中行事などの分野が急減している。特に時局を反映した歌の一部をあげると、
「潜水艦」「軍旗」「三勇士」…三年生
「靖国神社」「入営」「無言のがいせん」…四年生
「大八洲」「赤道超えて」「忠霊塔」「戦友」「大束亜」「特別攻撃隊」「母の歌」「白衣の勤め」…五年生
「肇国(はつくに)の歌」「少年産業戦士」「落下傘部隊」「船出」「満州のひろ野」…六年生
などである。


題名からだけでもおおよそ察しがつくように、忠良な軍国少年・少女を育成するためのプログラムがてんこ盛りです。子どもたちにとって最も信頼すべき学校が、その権威をバックに、彼らの魂に刻みつけたものは、、、。




『靖国神社』
1、ああたふとしや、大君に
命ささげて、国のため
たてしいさをは、とこしへに
光りかがやく靖国の神。
二、ああ、かしこしや、櫻木の
花と散りても、忠と義の
たけきみたまは、とこしへに
国をまもりの靖国の神。『音楽』 四年生用
 




『大東亜』
一、椰子(やし)の葉に鳴る海の風。峯にきらめく山の雪。
南十字と北斗星、連ねて広き大東亜
二、ここに生まれし十億の人の心はみな一つ。
盟主日本の旗のもと、ちかひて守る鉄の陣。  『音楽三』五年生用・三番略



『無言のがいせん』

一、'雲山(うんざん)万里をかけめぐり、
敵を破つたをぢさんが
今日は無言で帰られた。
(二番略)
三、み国の使命にぼくたちも、
やがて働く日が来たら、
をぢさんあなたが手本です。  『音楽二』四年生用

 


 『特別攻撃隊』
一、一挙にくだけ、敵主力。
待ちしはこの日、 この時と、
怒涛の底を矢のごとく、
死池に乗り入る、艇(てい)五隻
(二~四番略)
五、ああ、大東亜聖戦に
みづくかばねと誓ひつつ、
さきがけ散りし若桜。
仰げ特別攻撃隊。   『音楽三』五年生用

次のまとめは、実に的確です。


 これらの歌は、なにがなんでも「国のために死する」ことを最高の美であることを知らしめ、「無言のがいせん」では「おぢさんあなたが手本です」と死をすすめるような内容にまでになっている。「特別攻撃隊」は、緒戦のハワイ真珠湾を奇襲攻撃した特殊潜航艇で戦死した乗組員が、 後に九軍神として英雄視された事を讃美したもので、歌うことによりその忠勇に感激させ忠君愛国の精神を養わせるものであった。
このように教材の多くは神国日本を礼讃し、大東亜戦争を聖戦とし児童を皇国民として錬成する役割を受けもったのが音楽科であったのである。

子どもたちにとって、最も信頼すべき学校・教師が、その権威の力を背景に、子どもたちを勇んで戦場におもむかしめる魔法の刷り込み。これこそ『洗脳』というべきものでしょう。これに疑問を覚えたり、異を唱えたものには「非国民」として排斥・迫害され、その声も消し去られてしまったのですから、『洗脳』の効果は絶大といわねばなりません。。






上野博子作詞、荒木栄作曲「子供を守る歌」の一節が、脳裏をめぐります。

「御国の為に 死ねと教えた昔
命を散らした教え子の顔が

目に浮かぶ 目に浮かぶ」

過去にもこれらの記事で触れました。

◇さらにもう一つの11月3日、の巻

◇だまされも だましもせぬと 誓うた日 

◇八日目の蝉もをるらん原爆忌 


この曲の歌詞とメロディが、うたごえサークルおけらのhpに掲載されていますので、この際紹介させて戴きます。



今、このような歴史を美化し、その再現をはかろうとする勢力が勢いを増しています。くどいようですが、イナダ防衛相の過去の発言を、majyo様の記事から引用して再掲します。

ここまで来たか防衛大臣

 新聞やテレビでは伝えていないのだろう
彼女の発言を列挙するけれど 知らない方は驚く
極右のタカ派です

命を捨てて国を守れ
国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです




靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです




祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にモラルもないし、安全保障もあるわけがない。そんな国をこれから誰が命を懸けて守るんです




「教育体験のような形で、若者全員に一度は自衛隊に触れてもらう制度はどうですか」「草食系」といわれる今の男子たちも背筋がビシッとするかもしれませんね」




どこの世界に自国を自分で守らないと宣言する国があるでしょうか



もちろん核武装論者です


 



イナダ防衛相はごめんですが、朝の稲田は美しいです。





8月の朝の稲田
8月の朝の稲田 posted by (C)kazg 

 

今日もまた、似たような稲葉の露のクローズアップ写真を並べてみます。

カメラはOlympusEP2、レンズは、古い28mm F1.8 を、リバースアダプターで逆さに装着。マクロ効果を狙ってみました。

この撮影方法は、過去記事でも話題にし、そのたびに困難を感じて専用マクロレンズの優位を感じて来たところですが、性懲りもなく、またまた実験です。

◇マクロレンズは楽しいな

◇白玉か何ぞの露に朝日かな

◇果てなきマクロの珍冒険

◇葉月晦の薀蓄!!

 

なかなかピント位置が浅くて、たくさん写したなかで見られそうなのはこれくらいでしょうか。手持ち撮影では厳しいかな?

 稲葉の朝露

葉の朝露 posted by (C)kazg 

 

  稲葉の朝露

 稲葉の 朝露 posted by (C)kazg

 

稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg  

 

稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 


稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted b  y (C)kazg 


稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 


稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 

 

稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 


稲葉の朝露

稲葉の朝露 posted by (C)kazg 



夕景色も心引かれます。


8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 

 

8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 

 

8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 

 

8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 

 

8月の夕空

8月の夕空 posted by (C)kazg 


8月の夕空
8月の夕空 posted by (C)kazg

今日はこれにて。


はだしのゲンを思い出す。(8月に寄せた学級通信4) [私の切り抜き帳]

先日、部屋の掃除で古い学級通信を引っ張りだしたのをきっかけに、その年その年に原爆忌に寄せて書いた文章を、ご紹介しています。
今日はその4回目です。
前回掲載した1年生の生徒に向けて書いた通信の、第43号。1987年11月24日付とあります。


この年の秋、学校の映画鑑賞行事で「はだしのゲン」を観た後の、生徒たちの感想文をもとに書いた記事でした。
「はだしのゲン」は、もちろん、自身の被爆体験に基づいて描かれた中沢啓治さんの長編マンガです。

本棚の奥の方に、汐文社版の全10巻を見つけました。
我が家の子どもたちも読みましたが、「学級文庫」において生徒に貸し出したこともありました。
これを原作に制作された実写版映画(1976年、監督:山田典吾、現代ぷろだくしょん)でした。

はだしのゲン [DVD]

はだしのゲン [DVD]

  • 出版社/メーカー: 北星
  • メディア: DVD




前回同様「手書き新聞」で、読みにくいですので、TEXTに起こしてご紹介します。

 くり返すまいゲンの悲劇
11月19日に鑑賞した「はだしのゲン」についてみんなの感想文が寄せられたので、その一部を紹介します。
自由な目でいろんな角度から受け止めており、教えられるところも少なくなかった。九通しているのは、戦争はイヤだという思い。ーーーまったく同感!

父中岡大吉の生き方をどう思うか?
○非国民といわれながらも、ただ一人で戦争に反対した生き方は、勇気のあることを証明したと思う。(H)
○美しい心の持主だと思う。(H)
○自分の意見をはっきり言ってすばらしいと思う。(Y)
○自分の意志をつらぬいて正しいと思う。(M)
○とてもリッパだと思う。(K)
○戦争中にはっきり戦争反対をいったのはえらいと思った。(S)
○非国民といわれても自分の考えをつらぬくところはすごいと思う。(M)
○自分の意志を他人に影響されずつらぬく立派な生き方だと思う(O)
○自分の信念をつらぬいてりっぱな生き方だと思う。(Y)











ちなみに、この中岡大吉を演じたのは、三國連太郎でした。

三國連太郎といえば、私などが思い出すのは、「飢餓海峡」で演じた、陰影に富んだ凄みのある演技でした。老人役を演じるために、健康な歯を上下10本も抜いた(家城巳代治監督『異母兄弟』)などのエピソードからも、近寄りがたい個性派俳優という印象が強い役者さんでした。

その三國連太郎が、戦争反対の信念を持つゆえに「非国民」扱いされながらも節を曲げず、しかも常に自然体に、時におおらかなユーモアと余裕を持って生きる父親役を好演して、作品も奥行きを確かなものにしています。「非国民の子」といじめられることを厭って予科練に志願していく長男浩二が乗る汽車を、万歳で見送るような、人間味と妻子への深い愛情も、心をうちます。徴兵を忌避して逃走していたところを、母に密告されて戦場におくられたという悲痛な体験が、おのずとにじみ出ていると感じるのは、あながちこじつけとは言えないでしょう。ウィキペディアの記事を借ります。

 1943年(昭和18年)12月、20歳の三國は大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆に戻り、甲種合格後、実家へ戻った。すると「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。自分に赤紙(召集令状)が来たことを知った三國は、「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。何とか逃げよう」と考え、同居していた女性とすぐに郷里の静岡とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。
逃亡四日目に無賃乗車で乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から韓国を経て中国大陸へ行くことも書きそえた。
数日後、佐賀県の唐津呼子で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まり連れ戻された。しかし処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の歩兵第34連隊に入れられた。
中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、三國は母親が家のために黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。家族が村八分になるのを恐れ涙を呑んでの決断だったという。
中国大陸の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは二、三十人にすぎなかった。戦地へ向かう途中、三國は身体を壊し、熱病にかかる。十日間意識不明になり、死んだものだと思われて、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていたが、焼き場に運ばれいざ焼く番になってむしろを剥がしたら目を覚ましたという。漢口の兵器勤務課に配属されてこの部隊で終戦を迎えた。

映画の中岡大吉を見て、「kazgそっくり」と評した生徒がありました。30代初めの私としては、ちょっと年寄り扱いされた気はしましたが、密かに満悦を覚えたことでした。「我ながらこころおごりせられし」というやつです。それ以来、なおのこと、特別に気になる俳優でした。晩年の「釣りバカ日誌」で見せた、飄々としたなかに、人間としての弱みも威厳も寂しさもあわせもった老社長「スーさん=鈴木社長」も、今では忘れることのできないはまり役でした。ごく最近亡くなられた、という印象ですが、調べて見ると 没年は2013年でした。寂しいことです。

学級通信の続きです。

 兄浩二の生き方をどう思うか?
○浩二には浩二の考えがあったと思う。(H)
○家族のために自分を犠牲にするやさしい心を持っている。(K)
○父が非国民といわれ、つらいからといって海軍へ志願したのはちょっと、、、。でも、弟や英子のためという点ではしかたがないかも、、、。(K)
○なぜ戦争にいきたがるのかわからなかった.(U)
○父を非国民といわれ、他にどうしようもなかったのだと思う。(Y)
○非国民といわれたからといって、自分から海軍に志願するなんて、なんてバカなやつだと思った。もっと自分の命を大切にすればいいのにと思った。(T)
○私でも心ではゲンみたいに
思っても、お兄さんみたいな生き方でいくと思うからしかたないと思う。(H)
○他人の目ばかり気にしてもっと父の気持ちもわかってあげるべきだったと思う。(T)
○家族思いのいい人だけどいまいち親心がわかっていない気がする。(S)






ウィキペディアから引用します。

中岡 浩二(なかおか こうじ)

中岡家の第一子・長男。登場時17歳。病理学の研究家を志していた。戦時中は家族が非国民として迫害されるのを撥ね返すため、海軍の予科練に自ら志願。軍隊の内部から戦争の悲惨さを実感し、また同期の花田の自殺を訓練中の事故死として処理され、国のために息子が死んだことを喜ぶ花田の両親を見て、父の言っていたことが正しかったと改めて知る。 

学級通信のつづき。
 ゲンの生き方をどう思うか?
○たくましい。(K)
○いたずらだけど、しっかりしていると思う。(S)
○子供として父の考えを理解しきれなかったが、後にわかってたくましく生きていったところがすばらしい。(F)
○男らしくまっすぐな生き方。(O)
○みんなから悪者の目で見られても、小さいのにがんばったなあって思うし、勇気があると思う。(E)
○いたずらをよくするけど、父の生き方をよく理解していて、いざとなったときしっかりしていたと思う。(A)
○自分が犠牲になっても人を助けることができるところがいいなと思う。(S)
○「非国民の父ちゃんはきらいだ」と言っていたけど話を聞き、父さんが正しいということがわかり、それに従い後にはお母さんを守りながら生きていき、まだ小さいのにすごいと思う。(W)

町内会長やその息子をどう思うか?
○人間として許しがたいほど悪く思う。(F)
○大きらい。(R)
○町内会長や息子がゲンたち家族にしたことは、いまでいうと”いじめ”だと思うけど、実際その時代にすんでいる人にとっては当たり前であるという感覚がこわい。(F)
○じつにきたないけど、こういう人が一般的でよい人だと思われていた日本はもっときたない。(J)
○少し悪いなと思ったけれど、実際こういう立場だったらみんな町内会長の息子のようにしたと思う。(M)
○なにも言えない.(Y)
○この時代なので、それがふつうだと思う.(N)

朴さんに対するゲンたちの態度は?
○とても朴さんがかわいそうだった。同じ人間なのにどうしてこんなに差別されなくてはいけないのかなあと思った。(M)
○朴さんは傷ついただろうと思った。(S)
○ゲンたちもつらいけれども、朝鮮人は死ぬまで朝鮮人だということをわかってあげてほしかった。こんなふうに戦争のために、つらいおもいをしていたことを考えると悲しくなった。(I)
○まわりの人々によって、ゲンも、朝鮮人は差別されるものだと思いこみかけている。早くその間違った考え方に気づいてほしいと思った。





ちょっと前、公共図書館からマンガ「はだしのゲン」を貸し出し禁止にしたとの報道が注目を集めました。
 

はだしのゲン:松江市教委、貸し出し禁止要請「描写過激」


毎日新聞 2013年08月16日 19時22分(最終更新 08月16日 21時28分)
 漫画家の故中沢啓治さんが自らの被爆体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」 について、松江市教委が市内の全小中学校に対し、児童生徒に貸し出さないよう要請していたことが分かった。「描写が過激」として昨年12月、教師の許可な
く自由に閲覧できない閉架措置を求め、全校が応じていた。出版している汐文社(ちょうぶんしゃ)(東京都)によると、学校現場におけるこうした措置は聞い
たことがないという。
 ゲンは1973年に連載が始まり、87年に第1部が完結した。原爆被害を伝える作品として教育現場で広く活用され、約20カ国語に翻訳されている。
松江市では昨年8月、市民から「間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に提出された。同12月の本会議で全会一致
で不採択となったが、市教委が漫画の内容を改めて確認。「首を切ったり、女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」と判断し、その月の校長会でゲンを
閉架措置とし、できるだけ貸し出さないよう口頭で求めた。 
現在、市内の小中学校49校のうち39校がゲンを全巻保有しているが、全て閉架措置を取っている。古川康徳・副教育長は「ゲンは平和教育として非常に重要
な教材。教員の指導で読んだり、授業で使うのは問題ないが、過激なシーンを判断の付かない小中学生が自由に持ち出して見るのは不適切と判断した」と説明す
る。
 一方、汐文社の政門一芳社長は「原爆の悲惨さを子供に知ってもらいたいとの願いで描かれた作品。閉架によって風化しないか心配だ。こんなに悲しいことはない」と訴える。
 
「ゲン」を研究する京都精華大マンガ学部の吉村和真教授は「海外で注目される中、松江市教委の判断は逆行している。ゲンは図書館や学校で初めて手にした人
が多い。機会が失われる影響を考えてほしい。代わりにどんな方法で戦争や原爆の記憶を継承していくのか」と話した。【宮川佐知子】

この件について、2013年12月の記事で、話題にしたことがありました。

郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第8回

 こどもたちに平和を愛する心を育てるには、子どもたち自身が、平和で穏やかな環境のもとで健やかに育てられるよう、心を砕くべきだという。優しく、柔らかで、美しいものや思いやりの心に囲まれて、温かくヒューマンな情操を育てることが、肝要だという。

その意味では、残虐な犯罪や猟奇的な事件が毎日のように報道され、一方では希望を失って自死する人の数が記録を更新しつづける、こんな殺伐とした世相に、慣れっこになって欲しくはない。
だからといって、「はだしのゲン」の描写が残酷だからと、図書館から撤収して子どもたちの目から遠ざけるという「教育的配慮」は、まったくナンセンスだろう。歴史の中で、現に人間が為した「悪魔的行為」を、未来において繰り返しも繰り返されもせぬためには、事実を正確に知り、冷厳に受け止めることは、決定的に必要であるはずだ。
私の作品の殺戮場面は、もちろん「歴史の事実」というわけではなく、あくまでも想像に基づく創作である。ただ、その着想のきっかけには、「ソンミ村事件」があったと、今ふり返ってみて思い至る。「カリー中尉」ほか、当事者の証言によって、この虐殺事件が明るみに出たのだが、さしずめ「特定秘密法」なんかでは、国家の威信を傷つける秘密みたいなことになって、話した兵隊さんも、報道機関も、関係省庁の役人も、みんな罰せられるんじゃないかと心配なんですが。


マンガ「はだしのゲン」を、子どもたちの目から隠す理由を、残虐場面のせいするのも不当ですが、アベ政権の台頭に勢いづく右翼国粋主義・排外主義勢力は、「反日漫画」「自虐史観に基づく極左プロパガンダ」などと口を極めてその「思想」を指弾しています。その偏向ぶり、その狭量さにあきれるとともに、今思えば、当時の高校生がいかに柔軟で公平な分別を有していたかに思いをいたしているところです。


 ところで、この「8月に寄せて」のシリーズを読んでくださったイギリス在住の友人sparky女史から、次のようなコメントをいただきました。

ニューズウィーク日本版のこの記事に書かれている英国議会でのやりとりをテレビで見ました。労働党のジェレミー・コービン党首が言っていることが道理にかなっていると私は感じたのですが、この論理はイギリスでは通用しないようです。
http://www.newsweekjapan.jp/sto・・・/world/2016/07/eu-35_1.php

 

 

 


 
 英語ですが、動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=ho9mfuxuI18
 

 この夏は、「オバマ効果」で例年になくヒロシマ来訪者が多いそうです。そんな今こそ、「核なき世界」に向けて日本の果たす役割は、大きいはずです。

 ところが、過去に「日本独自の核保有を、単なる議論や精神論ではなく国家戦略として検討すべき」(正論2011年3月号)と公言してきた超タカ派イナダ氏を防衛相に据えたタカ派アベ首相は、躍起になって取り繕おうとしていますが、「核なき世界」への熱意はみじんも感じられません。残念なことです。

 
 

稲田防衛相の核巡る発言、首相「政府方針と矛盾しない」


朝日新聞デジタル 8月6日(土)11時39分配信

安倍晋三首相は6日、広島市内で記者会見し、稲田朋美防衛相が将来の日本の核兵器保有を否定しない発言をしていることについて、「我が国は核兵器を保有
することはありえず、保有を検討することもありえない。稲田防衛大臣の発言はこのような政府の方針と矛盾するものではない」と述べた。




稲田氏は過去に核保有を「国家戦略として検討するべきだ」と述べていた。3日の防衛相就任会見で見解を問われ、「将来的にどういった状況になるかということもあろうかと思うが、現時点で核保有を検討すべきではない」と述べ、将来の核保有を否定しない発言をしていた。


 

 今日の写真は、相も変わらず田園の朝景色です。

PENTAXq7+標準レンズ01 STANDARD PRIMEです。

8月の田園朝景色
8月の田園朝景色 posted by (C)kazg 

 

 8月の田園朝景色


8月の田園朝景色


  8月の田園朝景色


  8月の田園朝景色


 


  8月の田園朝景色

 8月の田園朝景色

稲葉に宿る朝露。これも、PENTAXq7+標準レンズ01 STANDARD PRIMEで。

稲の葉の朝露

以下は、pentaxq10+smc PENTAX-DA40mmF2.8 XS。kマウント→qマウントアダプタを介して装着します。望遠効果が高いので、マクロレンズ並の接写が期待できますが、ピントを合わせるのはなかなか骨が折れます(手持ち撮影なので余計に)。
 稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露


  稲の葉の朝露
稲の葉の朝露 posted by (C)kazg

 こんな望遠撮影も、精細度を求めなければ可能です。センダンの木の手前のさぎをねらったのですが、、、、。

8月の田園朝景色

きょうはこれにて。


夏が来れば思い出す、の巻(8月に寄せた学級通信3) [私の切り抜き帳]

8月を題材にした古い学級通信シリーズの三回目です。

先般の部屋掃除で見つけた昔のスクラップファイルのうち、より古い時代のものとして、1988年の、一年生のホームルーム担任をしていた頃のものが見つかりました。その25号が、8月6日付「原爆忌特集」と銘打っています。

ごらんのように、懐かしの「手書き新聞」です。



これでは読みにくいので、文章部分を書き起こしてみます。


夏が来れば思い出す

8月に寄せて


♪♪夏が来れば思い出す---の歌ではないが、蝉鳴き、入道雲の湧く季節になると、8月6日、9日、そして15日のことが思い出される。戦争と平和の問題は、常に考え続けなければならない問題であって、限られた一時期だけ、年中行事のように取りざたするだけでは不足ではないかとも言えようが、でも、年に一度だけでも、考えないよりはマシというものだろう。

戦争体験の「風化」と言うことが言われて久しい。あの、敗戦の日から数えて.早や42年.戦後生まれの世代が日本人口の過半数を占めるに至り、成人として戦争を体験した人々はすでに多くは現役を退いている現在、戦争体験を語り継ぎ、聞き継ぐ機会がきわめてわずかになっていることは、否めない事実だろう。



戦後は遠くなりにけり?

♪♪戦争が終わってぼくらは生まれた、戦争を知らずにぼくらは育った----と、北山修がうたい、いわゆる「戦無派」が青春時代を謳歌していたころ、《政治的には70年安保改定とそれにひきつづく沖縄・小笠原ね返還をめぐる事態が国民世論を二分していたころ、そしてケネディ、ジョンソン、ニクソンと続いたベトナム・インドシナへの侵略が国際的批判をおしてますます泥沼化していたころ)ちょうど君たちは生まれたわけだ。

そうしてみれば、「戦争を知らない」世代のはしりである私などに比べてさえも、君たちにとってあの15年戦争が、言ってみれば明治維新や西南の役などと同様の、遠い過去の歴史上のできごとと思えるのも無理からぬことと言えるかもしれない。

ひきつづく朝鮮戦争やベトナム戦争、あるいは最近のフォークランド紛争、イ・イ戦争、グラナダ、ニカラグァなどでの争いも、いわばブラウン管のなかだけの、自分とはかけ離れた絵空事と思えるかもしれない。



永久に”戦争を知らない子ども”でありつづけるために

しかし、それは、君らおよび、君らの後の世代の子どもたちが、永久に「戦争を知らない子どもたち」であり得ることを意味しているのだろうか。「戦争を知らない」つもりが、実は「戦争について無知である」ことであってはなるまい。現に、「何にも知らないうちに」「だまされて」無謀な戦争に駆り立てられてしまった、との痛恨は、42年前の日本国民の共通の思いであったはずだ。そして平和は他から与えられるものではなく、やすやすと自然に成立するものでもなく、主権者である国民一人ひとりが、真実をしっかりと見抜き、英知と勇気をふりしぼってみずからの手でまもりぬく以外にないという教訓もまた、切実なものであったはずだ。

地球上のすべての地域から戦火が絶え、この国を含めてどの土地からも新たな戦争の火種が消えた時に初めて、真に「戦争を知らない子どもたち」が誇らかに胸を張り”平和の歌を口ずさむことが可能なのだと私は思う。そして、願わくば、その日の近からんことを。



だから戦争(の真実)を知ろう

「昔の若者は立派だったのに---、近頃の若い者は苦労を知らない。辛抱ができない。礼儀知らずで、自分勝手で、人トのため、社会のため、国のために尽くすということを知らないetc.」という式の説教と一体という印象があってか、「戦争の話なんか願い下げだ」という人も少なくはなかろう。あるいは戦争や平和の考えたりすること自体、話題を話し合ったり、考えたりすること自体、シンキクサクて、カッタルクて、ネクラのイメージで、---という感じがいておっくうがる人もいるかもしれない。

しかし、七夕ではないが、せめて年に一度、この時期くらいは、国民的な(人類的な)体験としての被爆の実相と、これを頂点とする戦争の惨劇を改めて見つめ直し、マジに考えてみる機会を持ちたいものだ。



今日は広島原爆忌。事態は30年近く前の、この記事のころとどう変わったでしょうか?

国際的には、おびただしい紛争やテロによる血なまぐさい犠牲がうずたかくつみあげられましたし、国内的には、憲法上の制約を次々と突破して、自衛隊の海外進出を歯止めなく広げてきました。そして、アベ内閣のもとで、ついに、集団的自衛権の行使をも合憲と強弁して、戦争法(「安保法制」)を強行し、夏の参院選で得た多数議席を背景に、明文改憲への企図をむき出しにしてきています。今次の内閣改造では、公明党以外の全閣僚を、日本会議など、超右翼・タカ派の靖国派が占有し、中でも防衛大臣に、カルト的狂信性を隠さない名うてのタカ派稲田朋美を任命するなど、好戦的姿勢をむき出しにしています。

稲田新防相について、so-netブログのお仲間majyo 様がこんな記事を書いておられますので、ご紹介させていただきます。

ここまで来たか防衛大臣


新聞やテレビでは伝えていないのだろう
彼女の発言を列挙するけれど 知らない方は驚く
極右のタカ派です

命を捨てて国を守れ
国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです


靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです


祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にモラルもないし、安全保障もあるわけがない。そんな国をこれから誰が命を懸けて守るんです


「教育体験のような形で、若者全員に一度は自衛隊に触れてもらう制度はどうですか」「草食系」といわれる今の男子たちも背筋がビシッとするかもしれませんね」


どこの世界に自国を自分で守らないと宣言する国があるでしょうか

もちろん核武装論者です



海外からも、「安倍首相、防衛相に強硬派の国粋主義者を任命」(英「フィナンシャル・タイムズ」)、「(防衛相就任後の4日の記者会見で日本の戦争を侵略と考えるかどうかの問に)”個人的見解を表明する立場にない。”と明言しなかった」(米「ABCテレビ」)、「(同会見で)靖国神社を参拝するかどうか明言を避けた」(ロイター通信)、「強行派で国粋主義者として有名な稲田朋美氏を防衛相に指名」(フィリピン「マニラ・タイムズ」)などと警戒の声が上がっています。



30年近く前のこの願いを、もう一度繰り返して表明しておきたいと思います。 「地球上のすべての地域から戦火が絶え。この国を含めてどの土地からも新たな戦争の火種が消えた時に初めて、真に「戦争を知らない子どもたち」が誇らかに胸を張り”平和の歌を口ずさむことが可能なのだと私は思う。そして、願わくば、その日の近からんことを。」



冒頭のHR通信は裏表の二面刷りで、裏面には、この詩を中心的に紹介するとともに、「戦争と平和を考える本」の紹介などに紙面を割いています。


今月の詩
 
仮繃帯所にて


あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち


血とあぶら汗と淋巴液(リンパえき)とにまみれた四肢(しし)をばたつかせ
糸のように塞(ふさ)いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう


焼け爛(ただ)れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶(くもん)の埃(ほこり)に埋める


何故こんな目に遭(あ)わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない


ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)


おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった

にんげんのむすめだった日を


この詩は、以前、なんと言っても峠三吉でした。

という記事でも紹介しました。また峠三吉については、

八日目の蝉もをるらん原爆忌

『原子雲の下より』 のことなど

等の記事で書きました。峠三吉については、まだまだ語り足りない、学び足りない思いがありますが、また後の機会に譲ることにします。

今日は、常になく早い時間帯のアップロードですが、8月6日の朝、投稿することに意味を求めたくて、急いで書きました。が、残念、今正午の時報を聞きました。

最後に8月にちなんで、蝉百態です。



8月の朝の蝉

8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg




8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の朝の蝉


8月の朝の蝉 posted by (C)kazg



8月の午後の蝉


8月の午後の蝉 posted by (C)kazg



8月の午後の蝉


8月の午後の蝉 posted by (C)kazg
今日はこれにて。

今もなおとびらをたたく音きこゆ(8月に寄せた学級通信2) [私の切り抜き帳]

昨日の記事でご紹介したクラス通信の三年後の1991年の夏、これも二年生のクラスの生徒に向けて書いた文章です。





読み返して見ると、3年前の文章を使い回している部分もかなりあります。「コピーアンドペースト」という用語はまだ存在していないか、少なくとも一般的ではなかった頃ですが、実質はそれです。今も昔も、同じようなその場しのぎをしておりますな《汗)。
重複部分は除いて、文章に書き起こしてみます。

 開けてちょうだい たたくのはあたし/あっちの戸こっちの戸あたしはたたくの/こわがらないで見えないあたしを/だれにも見えない死んだ女の子を・・・トルコの詩人ナジム・ヒクメットの詩「死んだ女の子」の一節だ。

原詩を左に掲げておくから、ひとつ自分で訳してみよう。

7つの時、ヒ口シマで死んだ女の子は、いまでも7つのまま。なぜなら、死んだ子は大きくなれないから。

ヒロシマで死んだ女の子の願いは何?甘い果物、おいしいご飯、飴玉、それともふかふかのパン?

いえ、死んだ女の子に、そんなものはもういらない。死んだ女の子の願いは、平和。 世界中の子供たちが、生きて、育って、笑って、遊ぺるように。

そのために、彼女は世界中の家々の前に立ち、扉をたたく。「戦争が起こらないようにして頂戴、子どもが戦火に灼かれることのないように、あなたの力を貸して頂戴J

(中略)

そして、世界最初の(今のところ唯一の)被爆国日本は、いまや世界有数の軍事力を有するまでになり、“平和協力の名のもとに、自衡隊海外派遭の一歩を踏み出すまでになった。政府自身“国是”と称してきた「非核三原則(作らず、持たず、持ち込ませず)
」も、有名無実化して久しい。

湾岸戦争で:”大活躍”の巡航ミサイル“トマホーク”を積んだ船は、この日本を基地にして出撃していった。辛うじて、今回のイラク攻準に核ミサイルは使用されなかったが、当然、核攻撃の準備は、周到におこなわれていた。

:死んだ女の子”の悲劇の再現は、目の前だ。そして今度は、ヒロシマ・ナガサキの体験を有するわが国が、公然とした加担者として立ち現れようというのだろうか。

確かに、イラクのクウェー ト侵略は許されない。ちょうど、軍国日本のアジア侵略が、不正義であったと同様に。


だが、
非戦闘員・婦女子・病人をも含むイラク国民全体を標的にした軍事行動は、正義の名に値するか。これを正義と認めるには、大戦末期、日本の敗北がすでに決定
的になっている段階で、無差別殺戮の限りを尽くした大空襲や、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下をも“正義”としなくてはならぬ。「犠牲を最小限にとどめる
ための人道的措置」との強弁を、甘んじて受け入れなくてはならぬ。

この不条理に、「死んだ女の子」は何と言えばよいのだろう。

生きているものは何をすればよい?

愚かしいあやまちは繰り返されてはならない。

ゲンバクで死んだ幾万の子どもたち、戦争で死んだ幾百千万の子どもたち、あなたがたの:悔しさを、二度と再び地球上のこどもたちにかみしめさせる事のないように、地球上に再び被爆者をつくらないために、いま、生きている私達も一緒に声を上げるときではないか。

“核兵器の廃絶を:、:被爆者援護法の即時制定を”“憲法の復権を”---そう思わずにはいられない夏である。

 「死んだ女の子」ナジム・ヒクメット

これを書いた頃は、まだ「パソコン」と言えば、統計処理のために職場の共有物の電算機に向かって、必要に迫られておそるおそる打鍵する、といった存在でした。ましてやインタネット検索など、想像だにできない世界でした。

ヒクメットの詩も、当然のことながら、何らかの機会にたまたま目にした詩を書き留めて、生徒に紹介したという次第です。

今なら、ネット検索で、詳細な情報が手に入り、もっと深い理解が可能であったかもしれません。

たとえば、これまでも何度か紹介した詩人・翻訳家の大島博光さんが、こんな訳詩をされていることも、やすやすと見つけ出すことができます。

大島博光記念館 Oshima Hakko Museum のHPの、次のページから紹介させて戴きます。ナーズム・ヒクメット Nâzım Hikmet

ヒロシマの少女



このページには、この詩の作者ヒクメットについて、このような紹介が添えられています。

ナジム・ヒクメットはトルコの生んだ世界的な大詩人です。青年時代から革命運動に参加した彼は、その生涯に、何回となく投獄され、そしてまた国外に亡命しな
ければならなかったのです。ソヴェトに亡命したときには、彼はマヤコフスキーとも会っています。ヒクメットの詩は、素朴で、自然で、透きとおっている、と
いっていいでしょう。しかし、そこでは、すべてが歌っているのです。詩人の善意、やさしさ、ゆるぎない革命的精神が、うたっているのです。彼はまたこう
言っています。

 「自分の祖国と自国の労働者を愛さない者は、全世界と世界の労働者を愛することはできない。そして世界と全世界の労働者を愛さないものは、自分の祖国と自国の労働者を愛することはできない。そして愛することを知らぬ者は、文学や絵画にたずさわることはできない。

 ネルーダはつぎのような詩をヒクメットに贈っています。

 全世界のために書いた 偉大な詩人

 人類の多数派にぞくする 偉大な男

 自分の祖国から責めたてられた 偉大な愛国者

 ナジム・ヒクメットは 世紀の詩で無類だ

 彼はわたしにとって 英雄主義と優しさの化身であった

     (「妻への手紙」解説 大島博光 掲載誌不詳)

 


私が学級通信で引用した訳詩は、中本信幸氏の訳のようです。

最近では元ちとせさんが歌ってひろく知られるようになりました。

 

あけてちょうだい たたくのはあたし

あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの

こわがらないで 見えないあたしを

だれにも見えない死んだ女の子を



あたしは死んだの あのヒロシマで

あのヒロシマで 夏の朝に

あのときも七つ いまでも七つ

死んだ子はけっして大きくならないの



炎がのんだの あたしの髪の毛を

あたしの両手を あたしのひとみを

あたしのからだはひとつかみの灰

冷たい風にさらわれていった灰



あなたにお願い だけどあたしは

パンもお米もなにもいらないの

あまいあめ玉もしゃぶれないの

紙きれみたいにもえたあたしは



戸をたたくのはあたしあたし

平和な世界に どうかしてちょうだい

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように



(ナジム・ヒクメット作詞、中本信幸訳)

 
 
ハナダイロ (初回生産限定盤)(DVD付)

ハナダイロ (初回生産限定盤)(DVD付)

  • アーティスト: 岡本定義,上田現,HUSSY_R,中本信幸,松任谷由実,ナジム・ヒクメット,COIL,常田真太郎,間宮工,松任谷正隆
  • 出版社/メーカー: エピックレコードジャパン
  • 発売日: 2006/05/10
  • メディア: CD


 


 

これとは違う詩と曲もあります。↓こちらのブログに、曲付きで紹介してくださっています。

二木紘三のうた物語

 このページです。

作詞:ナーズム・ヒクメット、作曲:木下航二
日本語詞:飯塚 広


1 とびらをたたくのはあたし
  あなたの胸にひびくでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう
  あたしの姿は見えないの



2 十年前の夏の朝
  あたしはヒロシマで死んだ
  そのまま六つの女の子
  いつまでたっても六つなの



3 あたしの髪に火がついて
  目と手がやけてしまったの
  あたしは冷い灰になり
  風で遠くへとびちった



       (間奏)



4 あたしは何にもいらないの
  誰にも抱いてもらえないの
  紙切れのように燃えた子は
  おいしいお菓子も食べられない



5 とびらをたたくのはあたし
  みんなが笑って暮らせるよう
  おいしいお菓子を食べられるよう
  署名をどうぞして下さい

  ブログ主、二木紘三様のコメントを少し、引用させていただきます( このページ).

 

昭和32年(1957)に発表され、原水禁運動の集会や歌声喫茶で盛んに歌われました。

作曲者の木下航二は、当時、都立日比谷高校の社会科教師で、『原爆を許すまじ』の作曲者。原詩はトルコの社会派詩人ナーズム・ヒクメットの『KIZ ÇOCUĞU(クズ・チョズーウ)(小さな娘)
 ヒクメット
(写真)は、オスマントルコ時代の1902年、帝国西端の都市サロニカ(現ギリシア領テッサロニキ)で、帝国高官の家に生まれました。11歳ごろから詩を書き始めたといいます。
 第一次大戦が始まると、トルコ中興の祖といわれるムスタファ・ケマル・パシャ
(のちのケマル・アタチュルク)が指導する祖国解放闘争に参加。その後、ロシア革命後のソ連に渡り、詩人マヤコフスキーの影響を強く受けて、力強い自由律詩を書き始めました。
 1924年、新生トルコ共和国に帰国し、執筆活動を中心とした社会改革運動を展開しましたが、その社会主義的傾向が新生トルコ政府の忌避するところとなり、何度も投獄されました。獄中生活は通算17年に及びましたが、その志操は毫も揺らぎませんでした。
 1950年、トルコ政府は国際世論に妥協して、彼を釈放しましたが、その後も執拗に弾圧を続けました。自由な言論を封じられたヒクメットは、翌1951年、トルコを密かに脱出して、ソ連に亡命しました。トルコ政府は、ただちに彼の国籍を剥奪しました。

 ヒクメットはモスクワで、詩、エッセイ、小説、戯曲、映画、シナリオ、バレエ台本などを精力的に執筆するかたわら、反戦・平和を求める国際連帯運動の先頭に立って戦い続けました。20世紀を代表する知性の1人といってよいでしょう。

1963年6月、亡命先のモスクワで、ヒクメットは、故国に残してきた妻子を思いつつ客死しました。享年61歳。

(中略)

 ヒクメットはこの詩のほか、第五福竜丸事件の漁師を悼んだ『日本の漁夫』や『雲が人間を殺さないように』という原水爆への抗議を歌った詩をいくつか作っています。
 彼の詩は、日本だけでなく世界中で、メッセージソングとしてのフォークや、プロテストソングとしてのロックに作曲され、多くの人に歌われています。
 さて、
私は、この歌を覚えた当初から、最後の「署名をしてください」に違和感を感じてきました。
 1番から4番までは、原爆で燃え尽きたいたいけな女の子だったのが、5番に来ると、突然反核運動家に変身します。1番から4番までは「詩」なのに、5番は反核運動のプロパガンダになっています。詩としての整合性が崩れている、という思いがぬぐえませんでした。

 ところが、takano shizuyoという方が送ってくださった原詩の逐語訳を読んでから、少し考えが変わりました。
 「署名をしてください」は、署名活動に応じて名前を書いてほしいという限定的かつ散文的な意味ではなく、核廃絶の誓いをそれぞれの胸に刻み、その実現のためにできることをしてください、という象徴的な表現であろうと思うようになったのです。

 原詩には「おばさん、おじさん」という呼びかけがありますが、このわずかな差で印象がずいぶん違ってきます。
 ただ、アルファベットのような1バイト系の文字
(半角文字)のフレーズを、漢字・かなのような2バイト系の文字(全角文字)に直すと、どうしても省略せざるをえない部分が多くなってしまいます。そういうことを考えると、飯塚広の日本語詞は、相当よく練られた訳詞だといってよいでしょう。

 逐語訳は、次のとおりです。

1. 扉をたたくのは私です  扉を一軒一軒
   みなさんの眼に私は見えません 死んだ者は眼に見えません

2. 広島で亡くなり10年ほどになります 私は7歳だった女の子です

   死んだ子供たちは 成長しません

3. まず私の髪に火がつき 私の眼は燃えて焼かれてダメになりました

 ひと握りの灰になってしまい 私の灰は空中へ舞い上げられました

4. 私がみなさんから自分のために  欲しいものは何もありません

  お菓子さえ食べられません  紙みたいに燃えた子どもは

5. みなさんの扉を私はたたいています   おばさん おじさん 署名をしてください

   子どもたちを殺させないように  お菓子も食べられるようにしてください

                                                                            (二木紘三)

 

大変勉強になりました。感謝。

リンクと引用を快諾していただき、お礼申します。


今朝の散歩道も、セミの合唱のシャワーでした。しかも、ビュンビュンと飛び回って、私の体の激突してくるセミも、何匹もいました。

 
8月の田園朝景色
8月の田園朝景色 posted by (C)kazg

8月の田園朝景色
8月の田園朝景色 posted by (C)kazg

8月の田園朝景色
8月の田園朝景色 posted by (C)kazg

8月の田園朝景色
8月の田園朝景色 posted by (C)kazg

8月の田園朝景色
8月の田園朝景色 posted by (C)kazg

8月の朝のノウゼンカズラ
8月の朝のノウゼンカズラ posted by (C)kazg

8月の朝のクレマチス
8月の朝のクレマチス posted by (C)kazg 

 炎昼に燃えさかる百日紅。

  八月の赤い百日紅

八月の  赤い  百日紅 posted by (C)kazg 

 

  八月のピンクの百日紅

八月の  ピンクの百日紅 posted by (C)kazg

 下は、昨日の夕方の光景です。

夏雲の立つ夕暮れ時
夏雲の立つ夕暮れ時 posted by (C)kazg

きょうはこれにて。


三十年近くも前の夏の文(8月に寄せた学級通信1) [私の切り抜き帳]


当選者確定後の東京都都知事選挙について、なかなか感想がまとまりません。

そんなとき、so-netブログの「お仲間」(と勝手に呼んで失礼かもしれませんが)五十嵐仁様のブログに、こんな記事

(8月3日(水) 東京都知事選挙はどのような視点から総括されるべきか )がありました。

たまたま、さきしなのてるりん様も昨日の記事に書いておられました。

2016-08-03 都知事選の結果のまとめ方 五十嵐仁氏のブログに同感 [雑感]

てるりん様の「全く同感」に、全く同感です。

五十嵐氏は

都知事選挙の結果について、ネットなどで様々な意見や総括が飛び交っています。とりわけ野党共闘と市民が擁立した鳥越さんが直前の参院選で得た野党各党の合計票を大きく下回ったために、陣営内部での対立や紛糾が生じているように見えます。
 選挙の総括をめぐって事実認識や見解の相違が生ずるのはやむを得ないことですが、それが対立や分裂を生むことになっては困ります。この点を憂慮しつつ、都知事選挙はどのような視点から総括されるべきかについて、私見を述べさせていただきます。

と、3点にわたって「私見」を述べておられます。
全文をご紹介したいところですが、まとめの部分のみ、少々引用させて戴きます。

しかし、鳥越さんは立候補するべきではなかった、野党は共闘するべきではなかった、宇都宮さんは辞退するべきではなかったなどという後ろ向きの意見には賛成できません。そのどれ一つが欠けても有力候補の一角を占めることはできなかったでしょうし、当選できると信じて選挙戦を戦うことは難しかったでしょう。

 革新都政の奪還は「夢」に終わりましたが、その「夢」を見せてくれたのは立候補を決断した鳥越さんであり、それを支援した野党と市民の共同であり、分裂を回避するための宇都宮さんの苦渋の決断でした。そのどれ一つが欠けても、「夢」を見ることは不可能だったのではないでしょうか。

(中略)

選挙の総括によって教訓を引き出すことは必要ですが、それはあくまでも団結を強めて前進し勝利するためのものでなければなりません。分裂を引き起こして後退するようなことになれば、選挙での敗北に加えてさらにもう一度敗北することになります。

選挙が終わっても、都民の手によって都民の手にクリーンな都政を取り戻すための闘いは続きます。選挙の総括はこのような闘いの一環であり、次に勝つための条件を探りそれを生み出すための作業でもあるということを忘れないようにしたいものです。



話は変わります。

先日、部屋のお掃除を試みた件は書きました、ゴミはたくさん出ましたが、部屋はちっとも片付きません。

ただ、昔の資料を整理したついでに、この季節に関係のありそうなネタをひっぱり出してきました。

古い学級通信です。

奥付を見ると、 1988年の8月、当時の高校二年生に向けて発行した通信らしいです。

30年近くも前の文章。 古い手紙を読み返すような感慨を覚えます。

B4裏表印刷で、文字は当時もっぱら使用していたワープロ専用機「sharp書院」で「ベタ記事」を書き、プリンターで打ち出したものを、はさみで細かく切って、原稿用方眼紙にのり貼りしてレイアウトしたものです。仕上がりのお粗末さは愛嬌というものですが、手間暇がかかっていたことは間違いありません。


こちらが第1面。

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第2面はこれです。
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2面の記事を文字に起こしてみました。

8月に寄せて

 灼熱の太陽が照りつける海原を、涼しげにヨットはすべりゆき、砂浜は、若者と子どもらのさざめきに満たされている。

入道雲、蝉時雨、かき氷、甲子園、花火大会、盆踊り。

今年もまた、こうして暑い夏がやって来た。

 

もうひとつの8月の情景

この季節は、私の思いを、もう一つの情景へと運ぶ。

電車が、車が、こどもらのあどけない笑い顔が、一瞬の閃光とともに凍りつき、その影だけを残して蒸発してしまった時のこと。

眩い光と無気味な地鳴りとともに、激しい熟風がコンクリートを砕き割り、鉄骨を飴のようにねじまげ、地上が地獄の呻き声に満たされた時のこと。

これら、ニンゲンの手でひきおこされた、8月6日ヒロシマ、8月9日ナガサキのできごとへと。

いま、世界には、五万発の核兵器があるという。 広島型原爆の百万倍。それは、そのわずか5%が使用されただけで、地球は太陽の光がさえぎられ、氷の惑星に化するという。

今、南半球(注 「地球の南の地帯」と書くべきでした)では、2億の人々が恒常的な飢えに直面しているという。その一方で、核軍拡という、人類自減につながる膨大な浪費が続けられている。ニンゲンとは、なんと愚かしい生き物か。

いや、そうではないはずだ。 人間に理性と英知が宿されているなら、愚かしいあやまちは繰り返されてはならない。

大人になれなかったあなたがたへ

どんな悪いいたずらをしたわけでもないのに、この世で暗黒の地獄を見、「怖いよう、熱いよう」と泣きながら、ひとりばっちで死んでいった幾万人のヒロシマ・
ナガサキの子どもたちよ。あなたがた、B29の爆音に脅えること無心に白球と戯れたり、自分の思いにまかせて静かにの山に向かったり、甘くせつない恋の秘
め事に心を焦がしたり、平和の内に大人になる喜びを味わうことすら許されなかった無数の子どもたちよ。

この灼熟の夏空のもと、私の耳には、あなたがたの恨みの声が、かの峠三吉の詩と重なって違く聞こえてくる。

《ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/わたしをかえせ わたしにつながる/にんげんをかえせ/にんげんのにんげんのよのあるかぎり/ くずれぬへいわを/へいわをかえせ》と。

いま、今年の夏に

今年も、暑い夏がやって来た。釣り船に、潜水艦が衡突したり、原子力発電所の間近に軍用機が墜落したり、戦闘機どうし接触墜落したり、小学校の教科書に「軍神」東郷元帥が登場したり、戦争放棄、戦力不保持をうたった平和憲法下のこの国に、何やらきな匂いが立ちこめている夏だ。
ゲンバクで死んだ幾万の子どもたち、戦争で死んだ幾百千万の子どもたち、あなたがたの悔しさを、二度と再び地球上のこどもたちにかみしめさせる事のないように、いま生きている私達も一緒に声を上げるときではないか。そう思わずにはいられない夏である。

今月の歌

正田 篠枝

太き骨は先生ならむそのそばに小さき頭の骨集まれり

子と母がつなぐ手の指はなれざる二つの死骸水槽よりいづ

酒あふり酒あふりて死骸焼く男のまなこ涙に光る

 
  

 


また8月6日・9日が近づきました。

あのときも、こんなセミがかしましく鳴いていたことでしょう。

晴れた真夏の公園のクマゼミ

晴れた真夏の公園のクマゼミ posted by (C)kazg

 

 

晴れた真夏の公園のクマゼミ

た真夏の公園のクマゼミ posted by (C)kazg

 

晴れた真夏の公園のクマゼミ
晴れた真夏の公園のクマゼミ posted by (C)kazg

 

晴れた真夏の公園のクマゼミ
晴れた真夏の公園のクマゼミ posted by (C)kazg

 

晴れた真夏の公園のクマゼミ
晴れた真夏の公園のクマゼミ posted by (C)kazg

晴れた真夏の公園のクマゼミ

晴れた真夏の公園のクマゼミ posted by (C)kazg

 

散歩道のクマゼミ
散歩道のクマゼミ posted by (C)kazg

散歩道のクマゼミ
散歩道のクマゼミ posted by (C)kazg

散歩道のアブラゼミ
散歩道のアブラゼミ posted by (C)kazg

 

今日はこれにて。


沖縄慰霊の日に思い出すこと(その4 最終回) [私の切り抜き帳]

一九八〇年頃、映画「てだのふぁ」を鑑賞した際の「担任通信」のつづき(最終回)です。
 十 ふたたび映画について
あの笑いは何だったのだろうか?今もってぼくにはわからない。なぜ、あの場面で、少なからぬ人々が、笑い得たのか?
最初の笑い―女学生の歌う「郷愁」のメロディを聴いた父親が発作を起こす場面。
なぜそこで笑うことができたのだろう?あの笑いの質は何だったのだろう?
耳鳴りの効果音が、何か違和感を覚えさせたのだろうか?それとも、演者の演技の質を笑ったのだろうか?物語とは独立させてそれだけを???そうだとすれば、私の不快感はいささかはやわらぐが、それにしても幼稚な反応だ。
父親のしぐさに、何か尋常でないものを感じて、そこに戸惑いを覚えての笑いだろうか?そのしぐさが、発作によるものだったこと、そしてその発作が何に起因するものかを知る前だったから、そのしぐさの故に無邪気に笑ったのだろうか?
それとも、大の大人が頭を抱え込み、おびえている様がだらしなく思えての笑いだったのだろうか?だが、そうした、一種のホホエマシサの笑いとは違った調子が、あの笑い声の中には感じられたように思えてならない。
しかも、二度三度の笑いはどうしたことだ。父親の発作の旅に起こる笑いはどうしたことだ。もはや、無邪気な笑いでは済まされないだろう。戦争体験の重さ、傷跡の痛ましさ、さらに沖縄の担わされた過酷な受難への感受性が問われねばならないだろう。それだけではない。たとえ発作の原因がほかにあろうとも、心の病、神経の疾患、心身の障害に苦しむ人を、いたわりによってではなく、笑いによって遇する感覚は、問い直されねばならないのではあるまいか。たかが映画の中でのこと、現実とはおのずと関わり方が違う.と言って済まされると思わない。
発作の原因が .次第に明らかにされていく過程を経ても、笑いの質に変化が見られなかったことが、ぼくをますます沈ませる。
◎耳鳴りの音が、砲弾や手榴弾の爆発音を連想させること。
◎目の前で自決させられた少女たちの涙まじりの合唱。
◎全人口の1/3が散った沖縄戦。
◎戦後のアメリカによる占領のもとで苦難を押して祖国復帰の運動に携わってきた友人の、疲れ果てた死。
――そこには、笑いを誘う要素はないはずなのだが・・・。
入院した「ふうちゃん」。家の中に見えなくなった娘を心配して発作を起こした父親のどこに笑える要素があるのだろう。
「娘のそばにいてやらねば。娘を守ってやらねば。凶暴な力によって娘が奪い去られるかもしれない。目の前で少女たちがバタバタと死んでいくことに手をこまねいた自分だが、娘をそんな目にあわせてはならない。」という強迫観念におびえる父親の、どこに笑える要素があるだろう。
ぼくだって、わが子を抱きしめることがある。この子がよもや、何かあらがい難いちからによって、連れ去られるようなことがありませんようにと、祈る思いで抱きしめる事がある。戦争の足音が、かすかながらも聞こえるような気がするときには、やもたてもたまらず、我が子を抱きしめたくなる。それは、あれほどの嘲笑を浴びせられねばならぬほど、コッケイなことなのであろうか、果たして?

十一 終わりに
たかが映画を、そんなにもシチメンドウクサク考えなくとも、スクリーンのこちら側は、安全至極、おだやかそのもの、おせんにキャラメル、コカコーラにホットドッグで、満ち足りているとおっしゃるお方には、”お気に召すまま”と申し上げましょう。そして、冷ややかな笑いを返して差し上げましょう。どうせ、傷つきもしないかもしれないが。

いささか冷静さを欠いて、感情的ななっていますね。とくに、終わりのあたりは、恫喝めいていて、高校生相手に不穏当かと、忸怩たるものがありますが、取り繕うことなく、ありのままに記録しておきます。
今なら、もう少しカウンセリングマインドに配慮した物言いを心がけたかもしれません。
なにしろ、二十数年も前に見た作品です野で、今となっては記憶も曖昧ですが、ネット上に、コンパクトな解説がありましたのでご紹介します。weblio辞書の、このページです。
一部引用します。
 ストーリー
※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください
小学校六年生のふうちゃんの両親は沖縄出身で“てだのふあ沖縄亭”という食堂を開いている。店には片腕のないロクさんや鋳物工のギッチョンチョンやその友達のギンちゃん、桐道さん、ゴロちゃんといった沖縄出身者が集まり、ふうちゃんは皆の人気者だ。ふうちゃんの父親は、時々、ノイローゼで発作を起す。長いこと故郷の波照間に帰ってないからだ。食堂では、沖縄出身のグレかかった少年、キヨシを連れてきたギッチョンチョンとギンちゃんの間で少年が原因で喧嘩が起った。ある夜、キヨシが沖縄亭にこっそりやってきた。ギッチョンチョンから盗んだ金を返しに来たのだ。帰ろうとするキヨシを追ったふうちゃんは足をケガしてしまう。そして、病院のベッドでふうちゃんは、お父さんが発作を起したのを知った。でも、キヨシがお店を手伝うことになってふうちゃんは一安心。そんなキヨシも暗い過去を背負っていた。幼いとき母に捨てられ、ギリギリの生活をしていたのだ。沖縄亭に集まる心優しい人たちみんな、気の遠くなるようなつらい悲しいめに会ってることを、ふうちゃんは気づきはじめた。そして、それは、みんな戦争と沖縄が原因している。「沖縄のことを勉強しよう!」ギッチョンチョンを先生に、ふうちゃんの猛勉強が始まった。ある日曜日、ふうちゃん、お母さん、ゴロちゃん、キヨシで姫路の先の室崎へ行くことになった。お父さんを誘うと、急に不気嫌な顔をする。お客さんの一人は、お父さんを室崎で見かけたことがあると云う。室崎でゴロちゃんが叫んだ「南部の海岸線に似ている!」沖縄戦にさい悩まされるお父さんは、ここへ来て何を考えるのだろうか。戦争の暗い影をいやすのは、故郷の青い海だと考えたお母さんは、波照間にいるお父さんのいとこに手紙を出し、親娘三人で行くことになった。お店はキヨシがやってくれるのだ。出発前夜みんなでパーティを開いていると、お父さんがいなくなった。みんなで八方手をつくすが、お父さんはどこにもいない。ふうちゃんはキヨシと室崎へ行った。海岸を走る二人。神戸に電話をしたキヨシが涙をためてふうちゃんのところに来た。全てを悟ってふうちゃんの目に涙が溢れでてきた。石垣島から波照間へ向う船に、ふうちゃん、お母さん、そしてお骨になったお父さんが乗っている。波照間の海はお父さんが話していたよりもずっと青い。今までの楽しいこと、悲しいことが胸にこみあげてきて涙が溢れてしようがない。波照間の、海に向う一本道をふうちゃんはお父さんと叫びながら走り続けた。

私はこの頃、まだ沖縄に行ったことがなく、書物からの情報と耳学問と想像で、自分なりの「沖縄」イメージを抱いていたに過ぎません。実際に目でで見ることができたのは、それなら何年かの後でした。何よりも印象深いのは、飛行機の窓から見下ろした、晴れた海のエメラルドグリーンの明るさです。それと対照的なのが、民間機の合間を縫って、轟音を立てて那覇空港に発着する自衛隊機のおどろおどろしさ。軍用空港と共用の、前線基地としての側面への驚きでした。
現在はさらに増強されて、「那覇空港の過密化は大丈夫か」と沖縄タイムス+プラスの記事は懸念しています。
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=152005
 南西地域の防衛体制の強化に向けて、航空自衛隊那覇基地のF15戦闘機を2飛行隊化し、約40機で組織する第9航空団が31日、発足する。約50年ぶりの 航空団編成に中谷元・防衛相は「強化を目に見える形で示す」と期待をかけるが、主力のF15が倍増することで懸念されるのは、那覇空港滑走路発着の過密化 や騒音の激化。民間機の発着数、自衛隊機の緊急発進数ともに増加傾向が続き、「軍民共用」1本の滑走路は、ぎりぎりの運用を迫られることになりそうだ。

那覇空港の発着数と自衛隊機の緊急発進数
その時の沖縄旅のいきさつについては、以前、この記事に書きましたので、繰り返しません。
大寒や沖縄に春いちはやく
私の沖縄訪問は、後にも先にもその一度だけ、それにしては知った風によくもの申すものと、自分であきれます。「知ったかブログ」の面目躍如ですね。
現在では、「沖縄旅行」は、高校の修学旅行でも定番のコースの一つとなり、私の次男も行きましたし、多くの若者にとって沖縄は身近な、なじみの場所となっていることでしょう。本土の人間が、実際の沖縄の良さに触れ、親近感を覚えるようになってきているのは好ましいことだと思います。
でも、何度沖縄を訪問しようとも、何度「戦没者追悼式」に参列しようとも、何度「沖縄の心に寄り添う」と口にしようとも、ちっとも「沖縄の心」が感じ取れないお方もあるようです。その方にこの言葉を贈ります。
 そんなにもシチメンドウクサク考えなくとも、スクリーンのこちら側は、安全至極、おだやかそのもの、おせんにキャラメル、コカコーラにホットドッグで、満ち足りているとおっしゃるお方には、”お気に召すまま”と申し上げましょう。そして、冷ややかな笑いを返して差し上げましょう。どうせ、傷つきもしないかもしれないが。

あちらこちらでこだまのように広がる「帰れ」の声の意味にお気づきでないお方には、この際、退場していただくしかないようですね。



つかの間の梅雨の晴れ間がありましたが、今日からまた雨が続くようです。
最近になってオールドカメラやオールドレンズを持ち歩いています。(画像の扱いやすさから、デジカメに限られますが)。

近隣の田園は田植えが進み、この季節らしい美しい風景が広がります。

リコーgx200での撮影です。まだまだ、オールドカメラとは言えませんが、私自身、旧世代機になってから中古で買っていますから、むろん新鋭機ではありません。写りは?

なかなか結構です。
















次の画像は、PENTAXQ7+TAMRON BBAR MULTI C AUTO 135mm F2.8。間にkマウント→Qマウント純正アダプターを挟みます。

TAMRON BBAR MULTI C AUTO 135mm F2.8は、過去に↓こんな記事でご紹介した悲劇の「チャボツレンズ」です。

あな哀れ チャボツレンズに 秋の風

チャボツレンズもまた楽し







受光部のサイズが小さいQシリーズですと、かなりの望遠レンズになります。

マクロ撮影もできます。

アガパンサス。



タチアオイ。







コスモス。



ホオズキ。



ベニシジミ。



ちょっとトリミングします。



木陰のヌートリア。トリミングなしでこのサイズに写ります。さすがに背面液晶でのマニュアル撮影は、明るい場所では見にくく、ましてや動体になるとお手上げです。あえてこの機材を使う積極的意義は?となると沈黙するしかありません〈笑)。





次は、PENTAXK10D+Super-Takumar 1:1.8/55。レンズは、m42スクリューマウントタイプの、押しも押されもせぬ超オールドレンズです。もちろんKマウント化のためのアダプターが必要で、今回は加えて、AF化のためのAFアダプタ1.7倍を間に挟んでいます。

ヒャクニチソウ。











白いキキョウ。



白いアジサイ。



ホオズキ。上のものと比べて、描写に違いがありますか?



ひまわりも咲いています。







タチアオイ。



ノウゼンカズラ。



ミントの花。



収穫。



モノクロ時代のレンズで、カラー撮影のことなど想定していなかったのでしょうが、条件によっては結構良い色が出るように思えます。

ただ、カメラのせいかレンズのせいか、この組み合わせだと露出がかなり暴れ、撮影時の露出調整と、撮影後のレタッチが必須です。

今日はこれにて。

沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3) [私の切り抜き帳]

一九八〇年、映画「てだのふぁ」を生徒たちと鑑賞した際の「担任通信」の続きです。

六、「裸の王様」の笑い

人間的「笑い」を考えるとき、ぼくは、いつも、「裸の王様」を思い出す。

世界にまたとない、最上等の衣装と信じ、裸の王様は威張って街をねり歩く。苦虫をかみつぶした顔してうやうやしくおじぎする家来たち。もったいぶった彼らの振る舞いは、人間的感情の放棄の上に成り立っている。笑いを見せるなどとはもってのほかだ。

最初に笑ったのは、町の子どもたちだろう。おっかなびっくりの大人たちにも、ひそひそ笑いが感染する。おしとどめようにもすべなく、剣による威嚇も効なく、笑いはとめどなく広がり、ついには町中が哄笑の渦にどよめき揺れる。

人間的感情の表出としての笑いは、虚飾に満ちたウヤウヤシサ、取り澄ました愚劣さを、痛快にもあばき出す。そのような笑いをぼくは愛する。



七、人間的笑いの一般的性格

歴史上のあらゆる独裁者が、庶民の笑いを恐れたのは、笑いのもつ批判力のためである。そしてまた、人間的健全さこそは、独裁を根本から揺るがす要因であることを知り抜いているからである。

「国家の大事の時に、笑っている場合か!歯を食いしばれ!」という声が、ファシストたちのお得意のかけ声であったことを、思い出してくれればよろしい。

だからぼくは、オカシイ時に笑えないような事態を恐れるし、涙と同等の価値を笑いに認めるのである。



八,退廃の笑い

いや、だが待てよ。健康で人間的な感情の表出としての笑いとは、正反対の極に位置する笑いもあるような気がする。

ベトナム戦争の写真を見ろ。射殺したベトナム農民のムクロを、狩りのエモノかなにかのように、逆さにぶら下げて記念写真もどきにポーズを撮るアメリカ兵がいたではないか。その口元には、ニタリと「会心」の笑みが浮かんでいたではないか。

鼻歌交じりかなんかで、人々をガス室に送り込み、もだえ苦しむ幾万の市民に「うるさい虫ケラどもめ」とツバを吐きかけるナチスの青年がいたではないか。

昨今のニュースを賑わす少年たちの集団リンチはどうだ。すでに失神して倒れている相手に絶え間のない足蹴を加える少年たちは、小動物をもてあそぶ幼時の嗜虐的な笑いを浮かべているとか、、、。

いや、しかしそれは、特異な例だ、特異な環境のなせるわざだ、、、、?もし、そうならば、幸いだが!

だが、ぼくには、その種の非人間的な病的な笑いが、僕らの身の周りにまで忍び寄っているように思えてならない。



九 再び寄席について

今、空前のマンザイブームだという。うっとうしいことの多すぎる現代。大いに笑いが求められていることのあらわれかもしれない。そして、期待通りに、心やすまり、心なごむ芸に巡り会う機会も決してまれではない。

しかし同時に、下卑て、クダラなくて、しかも押しつけがましくて、後味の悪い「笑い」もハンランしている。もちろん、人生の教訓とならずとも、ばかばかしいおわらいであっても、サワヤカさの残る笑いであればいいと、ぼくは思う。しかし、ぼくの恐れるのは、無理矢理押しつけられて笑わされて、〈ディレクターの合図か何かに強要されて)いるうちに、薄汚い毒入りまんじゅうを、美味なごちそうであるかのように錯覚させられていくことである。それに似た感覚のマヒを知らず知らず注入されていはすまいかと恐れるのである。

容姿の美醜をあたかも人格そのものであるかのように取りざたして、笑いの題材とするネタ。学校格差や学力差を、そのまま肯定しつつ、それを人格的優劣に結びつけて取り扱う笑い。老人を厄介者扱いする笑い。社会道徳上の無軌道をあたかも英雄視し、市民常識を笑い飛ばす笑い。・・・・

この調子で行けば、今に身障者や社会的弱者、他民族をも嘲笑の種にしかねまじき状況ではないか?

しかし、それは、寄席の場だけの笑いであって、実生活ではいたわりの心を保ちうると言うのかもしれない。だが、人間をさげすむところに立脚する笑いの感覚は、無自覚であると否とを問わず、人の痛みへの鈍感さ、人間の価値へのいびつな感覚(センス)を肥やさずにはいないだろう。それは、人の痛みを共感し、人の喜びを喜ぶ感覚とは、和解しがたく対立する感覚であるはずだ。その二つが、ひとりの人間の中で、自在に使い分けられようはずがないではないか。

現国(現代国語)の授業の続きではいが、我々はセンスを研ぎ澄まさねばなるまい。何に怒り、何に悲しみ、何に喜びを見いだし、そして何に笑みを誘われるか。オシキセのそれではなく、自前の(すなわち不断の自己洞察の上に築かれる)良き感覚を磨かねばなるまい。


このあたりで二ページ目が過ぎ、三ページ目にさしかかりました。もう後一ページ残っていますが、つづきは次回といたします。



昨日は、終戦当時一〇才だった少年少女の戦争体験記に基づく朗読・演劇の催しがありました。







チラシには、この劇についてこんな説明があります。

戦後70年の昨年 「職争の記憶」 が色々な形で語られました。 操山高校五期生の会は、約二年の月日をかけ「その時10歳のわたしは」の手記を募集し、編纂発刊しました。そして今年、ルートの会が中心となって71回目の「岡山空襲の日」
を前に、この手記をもとに構成した劇を上演します。

キャストは、劇団「青年劇場」の四人の俳優さんと、地元岡山の有志の皆さん。
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主催の「ルートの会」とは、2009年、岡山県出身の芥川賞作家、小川洋子さん原作の舞台劇l博士の愛した数式』(青年劇場)の岡山公演(岡山市芸術祭参加)
4日4ステージを成功させた実行委員会のメンバーを中心に、 その後も継続して活動していくために設立した会だそうです。


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キャストやスタッフのなかには、旧知の方々が何人かおられ、当日も拝見、または挨拶することができました。

特に、原案、総合監督の高垣章二さんは、元高校教師。私自身、長く同じ職場、同じ学年でご一緒し、また、退職教職員の会でもお世話になっているいわば「恩人」です。

昨日の出演者のひとり、青年劇場の女優浦吉ゆかさんは、高校演劇部当時からの「教え子」だそうです。

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また、ご退職まもなくの頃、この過去記事(夕焼け その3)で紹介した映画「あかね色の空を見たよ」の制作に実行委員会の中心を担って献身されました。チケットが売れなかったら、弁済のために退職金をつぎ込む覚悟をされていましたが、目標を超える観客数で見事「興行」は成功し、胸をなで下ろしておられました(笑)。(あれから十数年が経ちました)

中山 節夫 監督作品<br />「あかね色の空を見たよ」<br /><br />学校に行っていない私はきらいですか

 

岡山県教委のHPにこんな記事がありました。

平成28年6月22日

劇「その時10歳の私は 岡山空襲の記憶」に岡山操山中学校 ・ 高等学校生徒が出演します

岡山県立岡山操山高等学校五期生の会 (操五会) が, 約2年をかけて戦争体験の手記を募集し, 72人の手記を集めた『その時10歳のわたしは 職争体験記』が平成27年6月に発行されました。

この手記をもとに構成した劇が上演されることになり, 岡山県立岡山操山中学校生徒3名・同高等学検生徒3名もガイド役として参加することになりました。

以上. お知らせいたします。


1 日 時 平成28年6月25日 (土) 開演18:30 (開場18:00)

2 場 所 岡山市民文化ホール

(〒703-8293岡山市中区小橋町一T目1-30)

3 主 催 ルートの会・「その時10歳の私は」公演実行委員会

4  本校からの参加者

中学生3名(2年生1名, 3年生2名),高検生3名(1年生3名)

観客を受付入口からホール内の客席まで案内するガイ ド役としての役割を担います。

5 内 容 『その時10歳のわたしは 戦争体験記』をもとに, 「その時10歳の私は 岡山空襲の記憶」 と題した, 青年劇場の4名の方と岡山在住有志及び中高生による劇です。
(後略)


この作品にちなんだ話題や感想などは、また機会を改めて書かせていただこうかと思います。

沖縄慰霊の日に思い出すこと(その2) [私の切り抜き帳]


昨日掲載した1980年頃の「担任通信」には、同じ日付のものがもう一号あります。
やはり、映画「てだのふぁ」鑑賞に関係する記事です。
状況説明抜きにはおわかりいただけないでしょうが、映画鑑賞中の折々に、生徒たちの間に、映画の本題とは離れたところでいくらか下卑た、節度のない笑い声が
広がり、鑑賞中の空気がひどく崩れた印象がありました。そのことに、クレームをつけながら、私の思いを陳述している文章です。


笑いについの考察

一、はじめに

映画に限らずすべて芸術は鑑賞者のイマジネーションの最高度の発現によって作品世界を実感的に体験しようとする作業抜きには、形をなさない。ブタの耳には、
べートーベンも雑音に過ぎない。猿の目には、ゴッホも、汚れた布としか移らないだろう。その意味で、芸術の鑑賞は、優れて主体的な営みと言わねばならな
い。

作品世界への感情移入は、そのようにもデリケートな精神のバランスの上に成り立つものであるから、ちょっとした動揺にも妨害されやすいものだと言える。

昨日の映画は、会場の狭さ、寒さ、音響の悪さ、という客観条件にも、考査後の神経疲労という主体条件にも災いされた、悪条件下での鑑賞であったと言えよう。
にもかかわらず、努力して作品世界に深く入り込み、作品の重みを受け止めようとしていた人々にとって、あのトンチンカンな笑いは、耐えきれない妨害となっ
たはずだ。

少なくともぼくは、映画の印象を散漫にさせられることへのイラダチと、腹立たしさをおさえることができなかった。のみならず、あの嘲弄的な調子は、ぼく自身へのそして人間のまごころへの侮辱とさえ感じられた。


二、笑いへのぼくの態度
あの笑いは何だったのだろうか。
目くじらたててこだわり続けるぼくが、大人げないのだろうか、とも自問してみる。

もちろんぼくは、「笑い」そのものを不謹慎なものとは思わない。いや、むしろ、おかしいときに笑いをこらえねばならぬとすれば、それは不自然で、非人間的だろう。ぼくは、「笑い」 の持つ人間的な健康さ、すがすがしさを、大いに賛美したいと思う。



三、落語の笑い(そのⅠ)
ぼくは落語を愛する。そこには各種の笑いの類型がある。機知のヒラメキに思わず漏らす、愉快な笑い。芸の確かさに裏打ちされた話術による笑い、、、。

そ して、長屋の八っつぁん、熊サンのふるまいに誘われる笑い。彼らには、地位も名誉もゼニもない。そして教養もズル賢さもない。ウマク立ち回ることは根っからできない。至ってまっとうに生きている。曲がったことは大(で)ェキライ。何事にも真っ向からぶつかる。手加減できない。ササイな出来事にも顔色を変
え、怒り、泣き、イサミ立ち、芯からおろおろし、打開を企て、策を練り、世話を焼きあい、失敗し、挙げ句の果てにはショゲカエル。いかにも不器用で不格好な彼らの、欠陥だらけの渡世、、、。そこに漂う笑いは、嘲笑でも同情でもなく、我が姿そのものを見る泣き笑いであろう。「フーテンの寅さん」の笑いもこの種の笑いに他ならない。



四、落語の笑い(そのⅡ)

別の笑いもある。威張り返った役人の、無能を笑う笑い、いかめしいお殿様の世間知らずを笑う笑い。知ったかぶりのご隠居のバケの皮をはぐ笑い。大家サンや借金取りの鼻をあかす笑い。
これらの笑いは、日常において虐げられた弱者と強者の逆転への、庶民的願望に根ざす、痛快な共感の笑いだ。

たとえ「バカ殿」や「バカ旦那」が笑われていたにしても、それは、障害者へのさげすみの笑いとは無縁であろう。笑われるのはあくまでも、内実も伴わずに地位を得、権勢をふるう、文字通りの愚者であるのだ。


五 ついでに
与太郎のしでかすふるまいも笑いを誘う。与太郎は、強者ではないではないか。与太郎は、善良な、冷や飯食いの庶民ではないか。彼を笑う気持ちのウラには残酷な優越意識が働いているのではないか。

いや、そうではないとぼくは思う。そうではなくて、与太郎への笑いは、身内への親愛のあらわれではないか。与太郎のもつ無邪気さ、善良さ、人間味への親しみ
の笑い、心あたたまる思いのあらわれとしての笑いではないかと、ぼくは思う。与太郎は、「われわれ」に属する人間なのだ。



このあたりまでで、B4一枚目が終わります。この担任通信は、3枚綴りなので、まだ話題は「マクラ」の部分ですが、長い引用になりますので、続きは次回といたします。

最近のストック画像を小出しにします。

自然環境体験公園のホオジロ。

この日はよく晴れていました。

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深山公園のナンキンハゼの枝に止まるシジュウカラです。
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同じ枝にヒヨドリもいました。
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 庭でとれたトマト。

毎日少しずつ実るので、採れたてが食卓に上ります。特に一歳の保育園児のお気に入りです。

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 トウモロコシも、実り始めました。

甘くておいしいと、喜んでくれました。

 

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 今日はこれにて。


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沖縄慰霊の日に思い出すこと。 [私の切り抜き帳]

昨日は沖縄慰霊の日。

去年はこんな記事を書いていました。沖縄慰霊の日に思う

書き出しはこんな感じです。

 今日は「沖縄慰霊の日」。太平洋戦争の末期、日本が経験した、ほとんど唯一の地上戦といわれる「沖縄戦」で、日本軍の組織的戦闘が収束を迎えたとされる一九四五年の今日を記念して、沖縄県が定めている記念日です。
「鉄
の暴風」と喩えられるこの激戦は、日米合わせて200,656人〔沖縄県援護課発表 1976年(昭和51)年3月〕というおびただしい犠牲者をだしまし
た。
うち、日本 188,136人(沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)(他都道府県出身兵 65,908
人)。米 12,520人に及ぶと言います。一般民の犠牲者の多さが目を引きます。

私は トックリヤシ様のブログナイチャーオジイの海日記昨日の記事に寄せて、こんなコメントを書きました。

 平和の礎に刻まれた沖縄県民の刻銘者数は149,425人。おびただしい数です。岡山県出身者も1,838人。
一人ひとりに人生があり、一人ひとりに訪れるはずだったあるべき未来を、無残に奪い去ったのは誰か?米軍?その通り。
無謀な戦争を始め、拡大し、ブレーキなく突き進んでいった軍部と為政者?そのとおり。
軍部と為政者の無謀な行為を、押しとどめることができなかった国民ひとりひとり?
否、この時代、国民一人ひとりにはその権利が与えられていなかった?
しかし、「今度の戦争」にはそのいいわけは通用しませんね。改憲勢力三分の二を許すわけにはいきません。

ふと思いついて、沖縄戦に関連して古い資料を探ってみましたら、ありました。
すっかり黄ばんで、もろく変質してしまった洋半紙。『担任通信』と印刷された印刷物のストックです。
発行日の日付は書いてありますが、年が書かれていません。おそらく、1980年代の始めだと思います。灰谷健次郎作の児童文学「太陽の子(てだのふぁ)」が浦山桐郎脚本・監督で映画化されたのが1980年9月のことで、当時勤務していた学校の映画鑑賞会で、生徒とともにこの映画を観たときの文章ですから。

太陽の子 (角川文庫)

太陽の子 (角川文庫)

  • 作者: 灰谷 健次郎
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1998/06
  • メディア: 文庫



太陽の子 [DVD]

太陽の子 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 新日本映画社
  • 発売日: 2005/05/27





  • メディア: DVD

   ふうちゃん:原田晴美
    お母さん:大空真弓
    お父さん:河原崎長一郎
    おじやん:浜村純
    桐道さん:殿山泰司
    梶山先生:伊藤敏孝
    ギッチョンチョン:石橋正次
    刑事:大滝秀治
    国吉さん:津嘉山正種
    ミツ江:大竹しのぶ ほか


これを題材にした担任通信が、何種類か残っています。
ガリ版刷り(孔版印刷)から進歩して、当時一般化しつつあった手書き製版の印刷物で、インクにじみもあちこちあって読みにくい限りです。加えて、記事内容も、かなり時代がかっていてそのままゴミ箱に廃棄されるのが相当の反故なのですが、現代に通じる点も少しはあるかもと思い、ここに掲載させて戴きます。

 まずは、その1

 「沖縄」という言葉から、君は何を連想するだろう?
碧に輝く海。サンゴショウ。灼熱の太陽。ハイビスカスの鮮やかな紅。常夏の楽園の島???
哀感迫るユンタ・蛇皮線のメロディ。アワモリの宴。・・・純朴な人情の島?
高校野球。具志堅用高。カラテ。男らしい情熱の島???
「ディスカバージャパン」の声に誘われて、ちょっと遠出する程度の気軽さで、脚を伸ばせば行き着ける観光の島?
けばけばしいネオンまたたく歓楽街。鼻の下のばした観光客の嬌声のさんざめく島?
横文字の看板と横文字の商品。ジャズ、ロック、ブルース。米英が我が物顔でかっ歩する島?
立入禁止の立札と、鉄条網に隔てられたもう一つの世界のある島。父祖伝来の農地から銃剣で追い払われ、実弾演習の土けむりを横目でニラまねばならぬ農民の島。機知の島沖縄。
八年前まで、日本地図から除外されていた島。祖国からアメリカに売り渡された島。祖国との往来にビザを必要とした島。星条旗の掲揚を義務づけられた島。「沖縄?どんな人種の住む島?」と無知な嘲弄を浴びせられた島。
言葉通りの意味で『祖国を愛する』ことを、痛ましい思いで温め続けてきた島。
35年前、戦争末期、「最後まで戦え」との命を忠実に果たした島。無謀な玉砕に女も子どもも、年寄りも、「無数の生命を散らせた惨劇の島。住民の安全を守ってくれるはずの「行軍」に銃を向けられ、集団自決を迫られた島。ヒメユリの塔の島。
沖縄。オキナワ。・・・この島の歴史と現実を、県民の痛みと思いを、辺境の一地方の事柄だと見過ごすことが、あるいはまた善意にもせよ、そしらぬ顔で遠ざけることが、果たして僕らに許されているだろうか??

きょうは激しい雨で、警報も出ています。
ちょっと歩きましたが、カメラを持ち歩く状況ではありません。
最近のお散歩でのストック画像をご紹介します。
自然環境体験公園のキンシバイです。

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同じ場所のビヨウヤナギ。
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深山公園のナツツバキ。
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散歩道のヒャクニチソウ。
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 散歩道のモンシロチョウ。スイカの葉に止まっています。
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 散歩道のモンシロチョウ。シソの葉に止まっています。 
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 今日はこれにて。


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「るみおばあちゃん」のうどん 続報、の巻 [私の切り抜き帳]


昨日書いたこの記事。私版 備忘のためのおすすめ記事、の巻について、友人のMさんからメールをいただきました。興味深く呼んだという趣旨に加えて、一つの新情報が添えてありました。
昨日の記事で話題の一つに取り上げた、香川池上製麺所の「るみおばあちゃん」の対談動画が、ネットで見られるというのです。
対談相手は、日本共産党の参議院比例代表予定候補の「春名なおあき」さん。当の春名さんのブログのトップ記事に動画が掲載されています。
早速視聴してみましたら、国鉄職員だった夫の明さんがレッドパージで職場を追われ、生活のためにうどん屋を始めるいきさつから58年に及ぶ悲喜こもごもの体験談や、うどんづくりの「極意」(「小麦粉と水と塩、そして酸素がうまく調合して、ひとりでにうもうなってくれるんです」ですって。)が、明るく楽天的に語られています。業者の営業と暮らしを脅かす消費税増税や、平和への思いにも、自然に話が及びます。「るみちゃん」の人柄と人生がにじみ出て、ほっこりした暖かさと元気がいただける、後味爽やかな対談です。

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私版 備忘のためのおすすめ記事、の巻 [私の切り抜き帳]

物忘れを嘆く記事を、何度も書いています。
たとえば、夕焼け その2の記事は、一昨年の秋に書きました。
一部を引用します。
 ショックです。
いたく落ち込んでいます。
自分の記憶の曖昧さ、でたらめさに、改めて気づかされ、「老人力」がついたなどと笑い流す余裕もありません。
というのは、こういうわけです。
一昨日、吉野弘さんの詩「夕焼け」の記事を書きました。
その続きを書きたくて、あれこれ思い巡らしていました。
そういえば、何かの映画で、この詩を生徒に朗読して聞かせるシーンがあったっけ。確か、松村達雄さん演じる国語教師が、夜間学校の生徒に読んで聞かせる場面だったよなあ。というわけで、一所懸命思い出そうとしましたが、思い出せません。
最近しょっちゅうこんなことがあります。先日は、テレビでチラリと顔を見た女優さんの名前が浮かびません。もと夫の方のお名前は浮かび、周縁のエピソードはあれこれ浮かぶのですが、名前が思い出せないのです。
あいうえお、かきくけこ---わをん。と、何度も繰り返して、これにつなげて名前を思い出そうとしますが、無理です。ほとんど二日半、この努力をしましたが、断念。ネット検索で確認するまで思い出せませんでした。
その女優さん、大ファンというわけでもないですけれど、デビューの頃からどちらかというと好感をもって見てきて、最近は、円熟味の増した演技に魅力も感じるし、レパートリーの広い歌での活躍にも注目していて、CDを買ってカーオーディオで聴く数少ないお気に入りアーティストの一人といってもいいのに。
現実の交際でも、こんなことがしょっちゅうあり、「名前を忘れた人」リスト作って、二度と忘れないようにしようと思ったりしますが、それも面倒で、二度目三度目の忘却に直面して愕然としたりするのです。トホホ。

白状します。この、名前が思い出せなかった女優さんというのは、大竹しのぶさんのことでした。もちろん、「もと夫の方」はサンマさんです。
 この話題を、現代の高校生にしましたら、「IMALU」さんの父母、としてインプットされているようですネ。
wikipediaでは、こんな紹介がありました。
 『いまる』は父親であるさんまの座右の銘「いきてるだけでまるもうけ(生きてるだけで丸儲け)」からと、一方大竹は「いまをいきる(今を生きる)」から命名したと述べている。

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ノ-パサランあれこれ、の巻 [私の切り抜き帳]

昨日は、ある「新春のつどい」があり、誘われて参加しました。
そのアトラクションのひとつに、国鉄合唱団「じれん」の合唱がありました。
国鉄合唱団「じれん」は、旧国鉄(現JR)労働者で作る合唱団で、歌声を通して、労働者の生活・権利、平和や民主主義をまもる運動を励まし続けてきました。とくに、「国鉄分割・民営化」に伴う思想差別と解雇・迫害にさらされながら、節を曲げずにたたかいつづける労働組合員の誇りと気概を歌いあげ、そのことを通して広く労働者国民に元気を提供し続けてきたのでした。
「じれん」とは、"自動連結器" の略で、連結器同士をつきあてると"ナックル"が自動的に閉まり、 車両同士が連結される連結器のことだと言います。
アコーディオン伴奏と男声7人による、明るく澄んだ、清らかで美しく、ちからづよい歌声に魅了されつつ、差別と選別に基づく「解雇」反対のたたかいから三〇年というお話に、深く感慨を覚えたことでした。

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あ-またこの2月の月が来た、の巻 [私の切り抜き帳]

2月になりました。

2月が来ると、この一節が思い出されます。

あー またこの二月の月か きた

ほんとうに この二月とゆ月
いやな月 こいを いパいに
なきたい どこい いても なかれ
ない あー ても ラチオで
しこし たしかる
あー なみたか てる

めかねかくもる


プロレタリア作家、小林多喜二の母小林セキさんの遺品の中から、見つかったどたどしい鉛筆書きの、一枚の紙片に書き込まれていた文章です。


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はてさて?大競争狂騒曲とな?の巻 [私の切り抜き帳]

以前(2004年)、こんな文章を、ある教育系雑誌に投稿したことがありました。「10年ひとむかし」と言いますがそれ以上の昔の話です。でも、読み返してみて、今なお、根本的な変化(改善)は、認められないと思えましたので、ここに再掲させていただきます。

岡山発「大競争」狂騒曲

一、トカトントン、あるいはハラホロヒレ
太宰治に「トカトントン」という小品がある。玉音放送の後、なお「徹底抗戦、自決」を叫ぶ若い中尉の姿に厳粛を感じた「私」は、「死のう、死ぬのが本当だ」と決意する。が、折しも兵舎の屋根からトカトントンと金槌の音が聞こえ、なぜか途端にすべてが白けてしまう。高校教師出身のミステリー作家、北村薫氏が、エッセイ集『謎物語ーあるいは物語の謎』で、これに触れておられるのを、最近、愉快に読んだ。
「たとえば、太宰の『トカトントン』を読んで、何も見えない人に向かい、《トカトントンはハラホロヒレである》と言ってしまうのが評論家ではないか。そのおかげで何かが見え、《ああ、そうか》という人が出て来る。/すると別の評論家が《いや、あれは断じてハラホロヒレではない。ガチョーンである》と演出するのである。そこで、まことに不敬ではあるが《トカトントン》を《ハラホロヒレ》に差し替えれば、こういうことになる。/もう、この頃では、あのハラホロヒレがいよいよ頻繁に聞こえ、新聞を広げて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、ハラホロヒレ、局の人事について伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、ハラホロヒレ、(中略)もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもハラホロヒレ、自殺を考え、ハラホロヒレ。」(中公文庫p二一〇)

二、「人皆か 吾のみやしかる」(山上憶良)
私は、五年間の夜間定時制経験を経て、「普通科単位制」を掲げる現任校での三年目を迎えている。当初、高速道路に自転車で迷い込んだような不安と居たたまれなさに、心身の不調が続いた。ある不登校経験者は、「校門が近づくと、ゴオッと大型ダンプに襲われるような威圧感を覚えた」と述懐していたが、今日の学校状況に内在するある種のテンションは、教師をも射すくめるものらしい。定時制では、多くの生徒が「三K=競争・脅迫(強迫)・強制が少ないから好き」と異口同音に語るが、その受容的な空気やゆったりとした時間感覚の対極に、今置かれている、と感じる。
もう十年近く前、高一で不登校のただ中にあった我が長男が、一切の「学校的なもの」に、怯え混じりの嫌悪を示したことがあった。その感性に波長をシンクロさせることで自己の安定を維持してきたせいか、私には「学校の息苦しさ」に過敏に反応する傾きがあるのだろうか。あるいは、五十代に入り教職最後の十年を消費しつつある私の適応能力にとって、環境の変化がいささか過酷に過ぎたかもしれないと解釈してもみる。

三、「一将功成って万骨枯る」(曹松)
だが、それらをさておいても、職場は多忙だ。どの学校でも、年々それは強まっている。
新指導要領実施に伴い、「総合的学習」の導入、シラバス(年間授業計画)作成、観点別評価など、教育内容・実務において激変とも言える変化が生じている。学校五日制で、逆に平日の過密化が進んでいる。「自主的」と称して、土曜日も補習講座に拘束される状況が広がっている。
近年、岡山では、長く続いた小学区・総合選抜制が廃止され、「特色づくり」の名による差別化と、「生き残り」強迫にせかされての熾烈な学校間競争が仕組まれてきた。例えば私の学校では、地域四校の総合選抜廃止に対応して、県下初の「普通科単位制」、「65分授業」、「2学期制」へと大幅な転換をはかることで、かつての兄弟校との序列競争・中学生獲得競争を生き延びようとしてきた。
今、こうした多大なエネルギーを傾注しての「特色づくり」の努力を総括・吟味する間もなく、県下全域に及ぶ大規模な高校再編(リストラ)が、問答無用で強行されている。それは、これまで職場や地域で培ってきた「学校づくり」の蓄積や合意を乱暴に消去・リセットする一大クーデターの様相を呈している。教職員、生徒、父母・住民という当事者が、学校づくりの主体から遠ざけられている。
これらの経緯の中で、「一将功成って万骨枯る」という事態が、少なからず現出している。手柄を買われて「栄達」の道を歩む元同輩を尻目に、茫々たる荒れ野に置き去りされた「兵卒」たちは、言いようのない徒労感と無力感にとらわれている。だが、スクラップ化の運命にある学校でも、「今いる生徒たちにはつらい思いをさせない」ために、涙ぐましい粉骨砕身を続けている。

四、再びトカトントン、あるいはハラホロヒレ
「進学校」を掲げる諸校の例に漏れず、我が校でも、ほぼ夏休み一杯進学補習が続く。新任の校長は、その期間に全教員と順に面談をするとおっしゃる。曰く、「進学重視型普通科単位制高校として、地元国立大学を中心に、進路目標を実現させることが重要。そのために、自分は何がしたいか、また、何ができるかを、聞かせてほしい。」近隣校でも、同様の動きが流行中との情報を、呆れた思いで聞いてはいたが、いざそれに当面すると答えに窮してしまう。
私の場合は、盆明け早々の補習の午後、校長室に呼ばれて開口一番「この学校のために何がしたいか。何ができるか。」へえ、本当にそうきましたか。日頃の仕事へのねぎらいの言葉すらなく?
私「いろいろ考えましたが、私にできることはなさそうなので、来年の三月にはよろしくお骨折りを願いたい。」/校長「それは、転勤希望と言うことかね。」/私「はい。」/校長「わずか三年目で、どういう事?」/私「前任校では、一応自分なりに自己完結したという思いがありましたが、この学校では、役割が見いだせない。仰るような学校には、別の適任の方がありそうです。」/校長「定時制の方がよかったと?では、どうして転勤したの?」/私「通院と健康管理の上から昼間の学校を希望したら、縁あって本校に。転勤に際しては前任校の校長にも本校の前校長にも義理を感じて、自分に鞭打って働いてきましたが、石の上に三年いても根が生えそうにありませんので・・」
語りつつ、私の耳にしきりにトカトントンが聞こえて、平静でいることが難儀だった。あるいはいっそ、ハラホロヒレ、ガチョーンと、口に出してしまいたい衝動に駆られる。衝動に駆られながら、その感情の正体がつかみかねていたが、後で胃の痛みとともにはっきりと気づいた。不当な仕打ちに対する屈辱感と、傷ついた自尊感情への憐憫。そして、全国津々浦々でこのような愚劣な問が発せられる状況のへの寒々とした白け。
「学校のため、君は何がしたいか、何ができるか」この問は言外に、「まつろわぬ者、働きが足りぬ者はおらぬか。”不適格”の烙印がイヤなら進んでもっと働け。さもなくば立ち去れ」という頭ごなしのメッセージを含んでいよう。そのような不信感むき出しの脅迫に怯え、失敗やつまづきへの不安にかられながら、果たして、教育という創造的な営みが成りたつのだろうか?さらに、この問は、従順なだけでなく、「上意」を自ら先読みし、すすんで遂行する「忠誠」競争を強いるものだ。だが、互いの事情や条件をふまえた、職場の合意形成への努力やプロセス抜きに「これがやりたい、あれがやれます」と名乗り出るお調子者が輩出したとしても、そんな学校に何が期待できるのだろうか?
小一時間に及ぶ、その日の校長面談の模様を克明に綴る気力はないが、もう一つだけ問答を付け加えておく。
校長「本校についてどう思う?」/私「みなさん忙し過ぎませんか?」/校長「定時制と比べたらね。だが、他の普通科進学校より特別に多忙だとは認識していない。」
職場の民主的リーダーたるべき校長が、職員の希望や提言に直接耳を傾けながら学校づくりをすすめる事は歓迎だ。その糸口となるなら、という微かな期待は、しかし、問答無用で切って捨てられた。再びトカトントンに襲われて、私は沈黙した。が、その沈黙を、後でひどく後悔した。その論法は、「職場に憲法なし」「働くルールの確立を」という要求に、どこそこの国よりましだろうとうそぶく経営者と同じではないか。そもそも人間として許せない酷い状態を、まだ下があるからと合理化されては困る。
その時言いそびれたことを、かいつまんで事実のみ記す。①私の転勤の前年。単位制移行のただ中に、S先生が38歳の若さで急逝。「次は自分かも」という不安を誰もが拭いきれないまま、慢性的なオーバーワークの実態は衰えをみせない。「健康は自分で守って下さい」「勤務時間が過ぎたら、帰れる時には出来るだけ早く帰ってください」という管理職の言葉が、苦笑混じりに聞き流される。②この4月、年度初めの勤務を終えて帰宅されたF先生が、ひとり暮らしのアパートで倒れ、意識不明のまま二日以上も推移して発見された。緊急入院・手術を経て、幸い生命に別状はなかったものの、復帰の見通しはなお立たないでいる。③今年転勤してこられた一人職種のT先生は、夏休み以来、長期の病気休暇に入られた。これらの欠如をお互いの「奮起」で補い合いながら、学校の歯車はうなりをあげて高速回転を続けている。この回転の先に、子どもと教育の未来の、信じられる者は幸いである。私の耳には、トカトントンが響いてやまない。 

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リユース2題、の巻 [私の切り抜き帳]

瞬く間に、正月休みが終わりました。

孫たち(当人同士はいとこたち)は、どこへつれても行けませんでしたが、近所の公園で、楽しく遊びました。

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またまた異質共存を思う、の巻  [私の切り抜き帳]

昨年末に書いたこれらの記事で、「多様性」「異質共存」という話題がつづきました。

みんな違ってみんないい、の巻

いや高に凍空翔(かけ)ん鳥のごと


勢いで、またまたその話題です。

今朝の「しんぶん赤旗」(1月4日付け朝刊)の、作家の高橋源一郎さんと文芸評論家の斎藤美奈子さんによる「新春対談」が掲載されており、興味深く読みました。おふたりは、『民主主義』をキーワードに語っておられますが、その一節にこんな下りがあって、目を引かれました。

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いや高に凍空翔(かけ)ん鳥のごと [私の切り抜き帳]

年の瀬も押し迫りました。 大掃除のシーズンですが、決まって古い新聞や本、冊子や手帳など、長く放置していた持ち物に目が止まり、ついつい時間を費やしてしまう、という経験をお持ちの方もおありでしょう。
引っ越しの時の大掃除などは、特にそうですね。 パソコン内の物探しや、ファイルの整理をしていると、同じ事が起こります。
昨日も実は、記事を書いている途中で、「みんな違ってみんないい(金子みすゞ)」の詩句や「異質共存」について触れた文章を探しているうちに、ついつい一連の文章を辿り読みしてしまい、思わぬ時間を消費しました。
少し思うところもありましたので、ごくごくプライベートな話題で失礼いたします。
以前、ある教育関係の雑誌にこんな投稿をしたことがありました。夜間定時制高校に勤務しはじめた頃で、記録には1996年とあります。

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イーハトーブのパクリです、の巻。 [私の切り抜き帳]

先日のこの記事に、momotaro様からありがたいコメントをいただきました。

 こちらをお訪ねするといつも驚きます。多様な生物に溢れているので。
海辺で山があるからなのでしょうが、まるで別世界です。
ふと、ナードサークとはどういう意味なのかなぁと思って検索してみました。するとずらっとこのブログ関連のことが出てきました。ということは、これは一般用語ではないのでしょうか。宮沢賢治の小説に出てきそうですが…
機会がありましたら教えてください、恥ずかしながらお尋ねします!

わたしの思わせぶりなブログタイトル「ナードサークの四季」の名づけに関して、興味を持っていただき、検索までしていただいたとのこと。恐縮至極です。
取り急ぎ、以下のコメントをお返ししましたが、あるいは、ほかの読者の方にも同様お手数をおかけするかも知れないと思い、再掲することにします。
> 多様な生物に溢れている
コメントいただいて、改めて思い至りました。日頃は有り難みに気づきませんが、ほとんど近隣エリアで、あれこれの生き物に会えるのは幸せなことです。
> ナードサークとは
お手間を取らせて申し訳ないです。全くのでっち上げの造語ですm(_ _)m ゴメンナサイ
ご推察の通り、宮沢賢治が岩手をモチーフに「イーハトーブ(イーハトヴォ)」という理想郷を想い描いたのにあやかって、わが居住地の地名をもじってみました。2003年頃から数年間、見よう見まねで作って遊んでいたホームページに、「ナートサークの四季」と名づけた写真コーナーを置いたのが始まりです。その後、「平成の大合併」のあおりで、もとの地名は消滅してしまいましたが、、、。
> 恥ずかしながらお尋ねします!
恥ずかしながらお答えしました(汗) 

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ジャイアンとスネ夫に関する覚え書き、の巻 [私の切り抜き帳]

こんなニュースがありました。

「仮に日本の関係者が対象になっていたことが事実であれば、同盟国間の信頼関係を揺るがしかねないものであって、深刻な懸念を表明せざるを得ない」というアベさんの発言。「仏独両国は強い怒りを表明した。これに対して日本政府の反応は抑制ぶりが目立つと指摘されている。」とありますが、国会会議中のアベサンの「抑制」のない答弁や不規則発言を思い浮かべると、失礼ですが、「相手に合わせて態度を変える」小人物の本性を浮き彫りにしただけと思えて、寂しくなります。






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