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「令和」を前に梅について考える、の巻 [折々散歩]

平成最後の○○、祝令和云々(デンデンではありませぬ)というフレーズが世の中を飛び交っています。「令和」という元号への好感度が70%超えだとか、改元のおかげでアベ内閣への支持率が上がったとか、あのスガさんが、「令和オジサン」のニックネームで人気だとか、、、、世の中信じられないことが多すぎます。


それも言うなら「令和ジイサン」だろう、なんて問題ではありません(汗)


「令和」という元号とその決定過程における違和感について何度か書きました。先日の記事飲み込みが悪くて、、、の巻では、畏友のkenro okada様による5点にわたるコメントを引用させていただきました。そのうち。第2点目を再掲してみます。


②大伴旅人は、大和政権を支えた豪族のひとりですが、藤原不比等を中心とする権力者によって太宰府に追いやられた人物です。梅の花三十二首の序文は、漢籍に出典があります。「万葉集」そのものは国書でしょうが、この部分は漢文です。


アベ内閣は、背後にある日本会議を初めとする「嫌韓」・「嫌中」勢力に背中を押されて、漢籍に出典を求める従来のやり方を変えて、敢えて「国書」由来の元号案だとして「令和」を選定したらしいですね。3月初旬には、委嘱された考案者らによっ既にいくつかの元号案が寄せられたらしいのに、3月中旬になって、それらにプラスして万葉学者の中西進氏らに追加委嘱。そうして得た追加文の案の中に「令和」があったそうで、何が何でも「国書」にこだわるアベ内閣の、尋常な尋常ならざる固執ぶりが窺われるエピソードです。


でもね、言っときますけどね、「令和」であろうと何であろうと、元号が漢字である限り、中国文化のおかげを否定することなどできません。いっそ、ひらがなの元号にしますか?「ゆめ」とか「しあわせ」とか「たみ」とか、、、、でも、ひらがなだって、もとをただせば漢字の崩し字が起源ですから、純粋にニッポンオリジナルとは申せません。そもそも、「元号」というシロモノ自体、古代中国のマネじゃありません?


「嫌中」に徹するならば、元号自体廃止して、世界標準の西暦に一本化してはいかがです?盟主のトランプ様も、ツイートで批判したりはなさらぬでしょうよ。いや、ニッポン人としてのアイデンティティを尊重する立場から「皇紀」を採用なさいますか?それにしては、「元号は皇室の長い伝統と、国家の安泰と、国民の幸福への深い願いとともに1400年近くにわたる我が国の歴史を紡いできました。」(新元号発表に際しての安倍首相談話)と、さすがに神武以来今年で2679年になるはずの「皇紀」という日本独自の紀元は、採用しないおつもりのようですな。


それにしても、国書由来を鳴り物入りで強調した「令和」という元号、アベさんにとっては思いもかけない誤算であったようですね。


国書のはずの「万葉集」が、漢字・漢文で書かれ、中国の文物・文化を規範とし、模倣したものであることをご存じなかったらしいことは、お得意の苦笑いで済ませることもできましょうが、品田悦一 東大教授のこの指摘は、どうやり過ごすおつもりでしょうかねえ。


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少しだけ引用します。


緊急寄稿
「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ
品田 悦一

新しい年号が「令和」と定まりました。典拠の文脈を精読すると、<権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない>という、おそらく政府関係者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてきます。この点にっいて私見を述べたいと思います。なお、この文章は「朝日新間」の「私の視点」構に投稿したものですが、まだ採否が決定しない時点で本誌編集長国兼秀二氏にもお目にかけたところ、緊急掲載のご提案をいただいて寄稿するものです。
「令和」の典拠として安倍総理が挙げていたのは、『万葉集』巻五「悔花歌三十二首」の序でありました。天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府の長官(大宰帥)だった大伴旅人が大がかりな園遊会を主催し、集まった役人たちがそのとき詠んだ短歌をまとめるとともに、漢文の序を付したのです。その序に「于時初春令月、気淑風和」の句が確かにあります。<折しも正月の佳い月であり、気候も快く風は穩やかだ>というのです。これはこれでよいのですが、およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互に依存し合う性質を持ちます。一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。

(中略)

さらに、現代の文芸批評でいう「間テキスト性intertextuauty」の間題があります。しかじかのテキストが他のテキストと相互に参照されて、奥行きのある意味を発生させる関係に注目する概念です。当該「梅花歌」序は種々の漢詩文を引き込んで成り立っていますが、もっとも重要かつ明確な先行テキストとして王義之の「蘭亭集序」の名が早くから挙がっていました。この作品は書道の手本として有名ですが、文芸作品としてもたいそう味わい深いもので、「梅花歌」序を書いた旅人も知悉していただけでなく、読者にも知られていることを期待したと考えられます。「梅花歌」序の内容は、字面に表現された限りでは<良い季節になったから親しい者どうし一献傾けながら愉快な時を過ごそうではないか。そしてその心境を歌に表現しよう。これこそ風流というものだ>とい うことに尽きます。
「蘭亭集序」の語句や構成を借りてそう述べるのですが、この場合、単に個々の語句を借用したのではなく、原典の文脈との相互参照が期待されている、というのが間テキスト性の考え方です。

(中略)

「梅花歌」序とそれに続く一群の短歌に戻りましょう。「都見ば酸しきあが身またをちぬべし」のアイロニーは、長屋王事件を機に全権力を掌握した藤原四子に向けられていると見て間違いないでしょう。あいつらは都をさんざん蹂躙したあげく、帰りたくもない場所に変えてしまった。王

王義之にとって私が後世の人であるように、 今の私にとっても後世の人に当たる人々があるだろう。 その人々に訴えたい。 どうか私の無念をこの歌群の行間から読み取って欲しい。 長屋王を亡き者にした彼らの所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。私は年を取り過ぎてしまった--。
これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人のメッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への嫌悪と敵假心が潜められている。断わっておきますが、 一部の字句を切り出しても全体がついて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛烈に皮肉っている格好なのです。

(中略)

安倍総理ら政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。一つは、新年号「令和」が<権力者の横暴を許さないし、忘れない>というメッセージを自分たちに突き付けてくること。二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。もう一つは、よりによってこんなテキストを新年号の典拠に選んでしまった自分たちはいとも迂闊(うかつ)であって、 人の上に立つ資格などないということです(「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。


アベさん、これを読んで「しまったしくじった、末代までの恥となりにけり!」と青ざめているでしょうか?いやいや、ルビを振ってもらっても、中身が読解できないまま、「このような見解をとらない学者も大勢存在する」などとうそぶいているでしょうか?


いいです、いいです。どのような態度をとろうとも、「新年号『令和』が<権力者の横暴を許さないし、忘れない>というメッセージを自分たちに突き付けてくること」は、逃れることのできない定めなのですから、、、、。


それでも念のために、嫌中派の方々にもう一言だけ申し上げておこうと思います。新元号の出典とされている大伴旅人「梅花歌」序で描かれる「梅の花」も、中国伝来の流行最先端の植物。大伴旅人が催した「梅花の宴」も、漢詩の世界を意識した最先端の中国風の文化的遊びにほかなりません。「梅」の訓読み「うめ」すらも、日本古来の呼び方とは言えず、音読み(中国語に倣った読み)  呉音 : マイ、メ、 漢音 : バイの「メ」が転じたものと言われます。この痕跡を隠そうとすることもまた『歴史修正主義』の一変形と言わなくてはなりますまい。


ここで脱線。


新5000円札にあがかれる肖像画が、津田塾大学創始者の津田梅子と決まったそうです。


ウィキペディアの解説に、こうあります。


津田 梅子(つだ うめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日) - 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英学塾(のちの津田塾大学)創立者。

初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。


梅 メ→むめ→うめ の音韻変化が自然さを再確認できます。


ところで、当ブログを『梅子』で検索をかけてみると、たとえばこんな記事がヒットします。


今日も「これなあに?」(2013-10-16-1)


NHK大河ドラマ「八重の桜」は、我が家の録画HDDには全回収まっていて、妻は毎回欠かさず見ているようですが、私は時々横目で見て通るくらいで、あらすじも理解していません。
ですので、ドラマの中でどのように扱われたかの確認はできていないのですが、会津の女性を代表する人物の一人として、大山捨松が登場するようです。
NHKオンラインの記事に、こうあります
「幼名は咲。幼くして家族とともに鶴ヶ城籠城戦を経験する。美貌と知性に秀で、11歳のときに、後に女子教育の先駆者となる津田梅子らと日本初の女子留学生として1871(明治4)年、岩倉具視の使節団に加わりアメリカに渡る。母・艶は咲という幼名を「一度捨てたつもりで帰国を待つ(松)」という切なる思いを込めて、「捨松」と改名させる。帰国後、薩摩の陸軍軍人・大山巌と結婚。美貌と知性を持ち合わせ、鹿鳴館時代の社交界の中心となって、「鹿鳴館の華」とたたえられる。しかし会津の元家老の娘・捨松と仇敵(きゅうてき)・薩摩の大山巌との結婚は、地元・会津にとって衝撃的なニュースで、山川家には抗議の手紙が殺到したと伝わっている。」http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/cast/


さて、この大山捨松について、wikiには次のような記事が載っています。
「大山巌は先妻との間に娘が3人いた。長女の信子は結核のため20歳で早世したが、彼女をモデルとして徳冨蘆花が書いた小説が、「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」の名セリフが当時の流行語にまでなったベストセラー『不如歸』である。


美しい国はいづこぞ紅梅忌(2016-02-17)


赤ん坊は元気です。
お問い合わせもありましたので、念のために申し上げますと、女の子です。

親もジイジバアバも、一瞬どっちだったっけと、顔を見ていて迷います(笑)。
予定日が梅の咲く頃なので、胎内にいる時は、仮称「梅子」で呼んでいましたが、今年の梅は例年よりも早く咲きましたし、姓とのバランスで角張った文字になりますので、躊躇して、出生届の際には、別の名前になりました。それでも、つい「うめちゃん」と呼びかけることがあります。


鳥も花も愛で呉るるらし宮参り(2016-03-21)


今日は「梅子」の宮参りでした。

(中略)

宮参りと言っても、わが家も、むこ殿のご両親も、しきたりやならわしには淡泊というか疎い方なので、改まった計画も思いつきませんが、写真だけは残しておくことを眼目に、近くの神社にお参りしました。
婿殿も、そして実家のご両親もおそろいで、車で十分の距離をちょっくら参詣し、素人カメラマンで記念撮影してイベント終了です。梅子は「晴れ女」で、退院の日も、一ヶ月検診の日も、その他、外出予定やイベントごとがある時には、よく晴れます。
今朝も、早朝は気温がいくらか低く、風もすこし強い感じはありましたが、出かける頃には、快晴になり、陽射しも穏やかな陽気になりました。レンギョウ、ジンチョウゲ、ハクモクレン、コブシなどが花盛りで、祝ってくれていました。
昼食はわが家で、お弁当を囲み、歓談。まずはめでたい宮参りイベントとなりました。


晦日節性懲りもなき探し物(2017.01.31)



もうすぐ一歳になる孫娘が、午後、来訪しました。
去年の今頃、まだおなかの中にいるころは、「梅」または「梅子」と名づけようかという案もありました。結果的に採用されませんでしたが、ゆかしくかぐわしい花であることは間違いありません。
成長は早いもので、つかまり立ちもできるし、ハイハイも活発です。
表情も多彩で、あれこれと意思表示、意思疎通ができます。
従兄・姉があやすと親愛感をはっきり示し、声を上げて笑います。


きょうはこれにて。

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