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ある新聞投稿、の巻 [文学雑話]

「高知新聞」にこんな文章を投稿しました。

高知は、学生時代を過ごした第二の故郷ですが、滅多に訪問の機会がありません。維新の志士や民権運動の史跡などどともに、夭逝の反戦詩人槇村浩(まきむらこう)ゆかりの地を、折あれば訪ねてみたいと常々思ってきました。
「思い出はおれを故郷へ運ぶ---」二〇歳の頃の作品「間島パルチザンの歌」の冒頭の一節です。「おれ」は、日本の侵略支配に抗し、身を挺して民族の独立をたたかいとろうとするパルチザンの若者であり、反戦と国際連帯の思いを込めた作者の想像が生んだ鮮烈な造形です。
高知県立海南中学校四年生の時、軍事教練反対運動を組織した彼は放校となり、縁あって、わが岡山県の私立関西中学に編入学します。異郷の地にあって、彼の胸中には故郷高知の思い出が去来したに違いありません。
自宅があったという帯屋町2丁目の「ひろめ市場」辺りや、高知刑務所跡の城西公園に建つ詩碑などは、以前も訪ね、詩人の短かすぎる青春を偲びました。市内にあるという墓地にも、いつかお参りしてみたいと思っています。
ところで、彼の生誕の地は、高知県高知市廿代町とされています。去年の夏、会合で高知を訪れたついでに、マップ頼りに界隈を散策してみました。しかし、残念ながら、案内掲示や碑の類を見つけることもできず、心を残して引き揚げたことでした。聞けば、いま貴地では、「槇村浩生誕碑」建設の気運が起こっているとの由。運動が成就し、碑完成の暁には、是非再訪してみたいと願っているところです。

それが今朝の朝刊に掲載されていると、高知市在住のN先輩が知らせて下さいました。Nさんは、文中の、「槇村浩生誕碑」建設の運動にも携わっておられます。当ブログの過去記事でも、槇村浩については何度か話題にしてきました。最近では、去年の夏の高知旅行をもとに、こんなことを書きました。

高知の街散歩、の巻

徒歩で回れる市内の散歩を、行き当たりばったりで楽しむことにしました。

ちょうど「志国高知幕末維新博」の開催中とかで、ネット上でも、親切な史跡案内が行われています。

また、高知在住のN先輩が、以前送ってくださっていた、高知市教育委員会 民権・文化財課発行の「高知市中心部民権史跡案内図」や、

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高知県立文学館発行の「土佐れきぶん散歩」

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などのマップ片手に、まず目指したのは、高知駅近くの史跡。

その第一は、「槇村浩誕生の地」です。

槇村浩については、その詩碑を訪ねた記事を夏の終わりの高知行、の巻(その5)

で書き、そこで詩人槇村浩に触れた次のような過去記事を紹介しました。そこでも書いたように、まだ彼の墓を尋ねていないことが心残りですが、「誕生の地」もまた未踏です。

◆サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻
◆「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻
◆槙村浩と三月一日
◆ビクトルハラをカーラジオで聞くの巻
◆もうひとつの911
◆懐かしき便り嬉しき聖夜かな

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むしろ岡山の方が蒸し暑いと思われる、心地よさではありましたが、それでも晴天の南国の太陽を浴びながら歩くと、汗が噴き出ます。

(中略)

目的の槇村浩誕生の地は、この江ノ口川沿いだそうですが、それらしい場所を探しても見当たりません。よくよくマップを見ると、(碑なし)とありました。なあんだ。

引用ついでに◆サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻 から少しだけ引用してご紹介します。

「ダッタン海峡」と題する冊子が、私の手元にあります。
以前この記事で、触れたことがありました。
◇多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻

高知出身の 反戦詩人槇村浩(まきむらこう)の生誕一〇〇周年を記念して刊行された冊子です。表題の「ダッタン海峡」は、槇村のこの詩にちなみます。

ダッタン海峡
――ダッタン海峡以南、北海道の牢獄にある人民××同志たちに――
槇村浩

(中略)

ネット上に槇村浩生誕一〇〇年(2012年)について述べた記事がいくつかありました。まずは、槇村の出身地高知県の地元紙「高知新聞」の記事から。


『小社会』

2012.06.02 朝刊
きのうは高知市出身の反戦詩人槙村浩(こう)の生誕100年だった。記念の講演会がきょう、同市内で開かれる。槙村は悪名高い治安維持法違反で逮捕され、激しい拷問がたたって26歳で早世した▼生前の槙村と親しかった人を、一人だけ知っている。県選出の社会党衆議院議員だった故井上泉さん。もう20年以上も前に、「槙村浩全集」を贈っていただいたことがある。井上さんは全集の編集・発行人の一人だった▼槙村の最初の反戦詩「生ける銃架」、代表作「間島パルチザンの歌」…。ほとばしる波のように紡がれる言葉の迫力に圧倒された。槙村の早熟の天才ぶりを示すいくつかの逸話も、全集で知った▼井上さんは兄と親しかった槙村の影響で、「プロレタリア文学」などに投稿し始めた。槙村は井上さんを実の弟のようにかわいがり、静かな口調ながら、厳しく原稿を手直ししてくれたという(「遠き白い道」高知新聞社)▼井上さんは同著で「槙村とともに闘った旧友が次々と亡くなる中、今に生きる私が槙村を語るのは、ある意味で努めでもありましょう」と話していた。閃光
(せんこう)のように散った詩人の青春の記憶を、時はいや応なしに押し流す。一方で作品を通じて研究が深まり、再び見直しの機運があるのは喜ばしいことだ▼もし槙村が生きていれば100歳。「神童」とうたわれた若き俊英の命はその4分の1ほどで奪われた。つくづく戦争の愚かさを知る。(高知新聞社)

つぎは、槇村が属し、その故に治安維持法による弾圧の対象となった日本共産党の機関紙「赤旗」の記事です。

文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ

高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。
児玉由紀恵記者
〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉
印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。
貧窮にあえぐ朝鮮民族の姿や、「大韓独立万歳!」を掲げた19年3月1日の朝鮮全土での蜂起と日本軍の大弾圧。さらに国際連帯を奏でる200行近い長詩が劇的に展開し、終連近くではこううたわれます。
〈おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現れなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!〉
この詩が発表されたのは、プロレタリア作家同盟の機関誌『プロレタリア文学』1932年4月臨時増刊号でした。
多喜二虐殺の時代
前年9月には、「満州事変」が勃発。天皇制の専制政治、アジアへの侵略に反対するプロレタリア文化運動の刊行物などは、発売禁止となり、持っているだけで捕らわれたりしました。33年には、小林多喜二が虐殺されています。
この詩が、発表の数年後には、舞台である間島地方に伝えられていたことが明らかになりました。延辺に住んだ作家の戸田郁子さんが、『中国朝鮮族を生きる』で、そのことを伝えています。戸田さんの恩師、延辺大学の歴史学者が小学生のころ(35、36年ころ)の話。日本に留学経験のあった教師が、授業中に朝鮮語でこの詩を朗読した、というのです。
日本の植民地時代に間島でこの詩が読まれていたとは! 衝撃を受けた戸田さんは2009年11月、高知を訪ねました。
「延辺をたった時は50㌢積もる大雪でした。高知に着いて南国のシュロの木や日差しの温かさに驚き、ここで育った詩人が、あの間島の風景や厳しい冬の季節を描いたのかと、胸に迫るものがありました」と戸田さん。若い日、韓国で歴史を学びながら、槙村のこの詩に民主化をめざす韓国の人々のた
たかいを重ねていました。「戦時中にこれほど朝鮮人に寄り添った日本の詩人はいません。どれほど尊いことかと思います」
2日に高知市で開かれた「槙村浩生誕100周年記念のつどい」。戸田さんは、ここで講演し、槙村の詩でつながった延辺と高知をさらに太くつなぐ「懸け橋になろう」と呼びかけました。
槙村浩の会会長で詩人の猪野睦さんは語ります。「あの時代に槙村の詩が伝わっていた話にはびっくりしました。7年近く前、文学の集いで延辺に行った時、槙村のこともこの詩のことも知られていた。槙村はここで生きていると思いました」
「記念のつどい」の成功に向けて尽力してきた高知市内の「平和資料館・草の家」の館長、岡村正弘さんは言います。「文化的な重みで〝北の多喜二、南の槙村浩〟と言いたい。9月には延辺への旅も計画しています。友好のきずなをさらに強めたいと思います」
「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。
槙村浩(まきむら・こう)は、1912年6月1日、高知市生まれ。本名・吉田豊道。幼時から抜群の記憶力、読書力を示し、「神童」と報じられます。海南中学時代、軍事教練に反対し、30年、岡山の中学校に転校処分。『資本論』を読み、マルクスに傾倒。
31年、高知でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、共産青年同盟に加盟。32年、兵士の目覚めを促す「生ける銃架」、「間島パルチザンの歌」を発表。日本共産党の党員候補に推薦されます。高知の連隊の上海出兵に反対行動を展開し、4月に検挙。治安維持法違反で懲役3年に。拷問などで心身を壊し、35年6月に出所。獄中で構想した革命への情熱あふれる詩「ダッタン海峡」や「青春」「バイロン・ハイネ」、論文「アジアチッシェ・イデオロギー」などを一挙に書き、東京の貴司山治に出版を託します。
36年、高知人民戦線事件で再検挙。翌年、重病で釈放され、38年9月3日、病没
貴司山治に託された原稿は、官憲の捜索や空襲から守られ、64年、『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』刊行の基に。84年、『槙村浩全集』刊行。
(2012年06月24日,「赤旗」)

ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。 以前こんな記事を書きました。
防災の日に寄せて、の巻

この「大雨の中を嬉しき宅急便」の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。

懐かしいポスターです。
大学に入学仕立ての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。
K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。

実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。

記事を書いていて、majyo様からどんなあたたかいコメントがいただけるだろうかと、ついつい期待してしまっている自分に気づきます。改めて喪失感の大きさを痛感しています。

今朝は氷点下の冷え込みでしたが、日中は日射しがありました。午前中、眼科に花粉症の目薬、内科にいつもの血圧の薬をもらいに行ったあと、少しだけ農作業(ジャガイモ植え付け)をしていると、汗をかきました。農道にケリの姿がありました。


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今日はこれにて。

 

 


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