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今日は何の日?の巻 [今日の暦]

2月最後の日です。
今年は閏年だから今日は29日だったっけ?なんて、寝ぼけまなこで考えていました。オリンピックの年が閏年という思い込みで、今年は冬季オリンピックでしたから、まったくの的外れでした(汗)前回記事の2.2.6事件が閏年のできごとだったという聞きかじりも影響したかも知れません。

早朝のラジオを聞いていましたら、1953年の今日、当時の吉田茂首相が、衆院予算委員会で、『バカヤロー』と発言。いわゆる「バカヤロー解散」の引き金となったのがこの日のできごとだそうです。
ウィキペディアにはこう解説されています。

1953年(昭和28年)2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相社会党右派西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と発言したことがきっかけとなって衆議院が解散されたため、こう呼ばれる。

「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、吉田は席に着きつつ非常に小さな声で「ばかやろう」と呟いたのみで、それを偶然マイクが拾い、気づいた西村が聞き咎めたために騒ぎが大きくなったというのが実態である。


実際はこのようなやりとりであったようです。

○西村(榮)委員 総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじやないか。
(吉田国務大臣「――なことを言うな」)
何が――だ。
(吉田国務大臣「――じやないか」)
質問しているのに何が――だ。君の言うことが――だ。国際情勢の見通しについて、イギリス、チャーチルの言説を引用しないで、翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が――だ。答弁できないのか、君は……。
(吉田国務大臣「―――――」)
何が―――――だ。―――――とは何事だ。これを取消さない限りは、私はお聞きしない。議員をつかまえて、国民の代表をつかまえて、―――――とは何事だ。取消しなさい。私はきようは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある。

○吉田国務大臣 ……私の言葉は不穏当でありましたから、はつきり取消します。

○西村(榮)委員 年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取消された上からは、私は追究しません。(以下略)

結果的に、首相みずから不穏当として発言を取り消したため、議事録では   で抹消されていますが、最初の短い   は、「無礼」、次の長い      は、「バカヤロー」だそうです。いずれも自席で,小声でつぶやいただけだそうですが、国会議員として、しかも一国の総理大臣として著しく品性を欠くものとして懲罰委員会への付託動議に続いて、本会議で内閣不信任決議案が可決され、解散に追い込まれたのですね。選挙後、吉田与党は大きく議席を後退させ、辛うじて政権は維持したものの、翌年の退陣のきっかけとなりました。
私などの世代にとって、吉田茂といえば、中学校の卒業アルバムの時事コーナーに「巨星墜つ」と題してその逝去を伝える写真が掲載されてい蛸とを記憶しているレベルですが、今やそのお孫さんが総理・副総理・蔵相としてご活躍なさったり、シンゾーシュショーをはじめ、「累々」たる縁戚の方々が歴代政界トップを勤めていらっしゃることは、なにやらこの国の神秘を感じさせますなア。


引用元kyudan.com

そえにしても、「バカヤロー」のつぶやきをとがめて、解散にまで追い込んだできごとは、与党内の政権抗争というファクターも作用したのかも知れませんが、、ある意味、時代の健全性を物語るエピソードと思えてなりません。
それほどに、いまの政治の劣化というか,モラルハザードは、目を覆うばかりです。最近の失言・暴言.不祥事を数え上げてみたのですが、文字にするとますます気が滅入りますので、やめにしました。



今日は、まどみちおさんの命日でもありました。
訃報に接した日、こんな記事を書きました。.
まどみちおさんを悼む
そのまどさんが百歳の時、「どんな小さなものでもみつめていると宇宙につながっている―詩人まど・みちお100歳の言葉」という作品を残しておられます。

どんな小さなものでもみつめていると宇宙につながっている―詩人まど・みちお100歳の言葉

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  • 作者: まど みちお
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/12/01
  • メディア: 単行本


昨日は,畑仕事のために郷里にかえってきました。馬鈴薯を植えるための畑の耕耘がおもな仕事です。春のような陽気で汗をかきました。
何日か前、わが居住地近くでもオオイヌノフグリのコバルトブルーの花を見つけ、春の到来を感じましたが、多少寒冷な郷里の路傍にも、咲き乱れていました。この小さな花こそ、宇宙に通じているでしょう。





今日はここまで。





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226思いつくまま、の巻 [今日の暦]

昨日は日曜日で、孫たちの家はカレーの日です。ジイジ・バアバも、毎週のようにお呼ばれに行きます。それに加えて、昨日は下の妹の3歳の誕生パーティーで、ケーキもいただきました。本当の誕生日はもう過ぎているのですが、みんなが集まれる日にケーキを食べようという趣向です。

一夜明けて今朝は、昨夜の雨の影響もあって少し暖かいのか、深い霧の朝でした。今日は2・26事件の日だったなと気がついて、そう言えばこの事件で暗殺された被害者の一人が、渡辺和子さんのお父さんだったよなと、思い出したりしていました。
何のことはない、過去(2016年)にも、そんな話題を書いていて、またまた二番煎じになるところでした。


2.26事件から80年だそうです。
今朝の地元紙『山陽新聞』(27面 くらし)には、「二・二六事件から80年 渡辺和子さんに聞く 平和は日々の暮らしから」というインタビュー記事が掲載されていました。
旧陸軍の青年将校らが武力反乱を起こした二・二六事件は、日本が戦争に向かった転機として昭和史に刻まれる。雪が縁側の高さまで降り積もったその日、9歳の少女は陸軍大将の父が凶弾に倒れるのを目の当たりにした 、、、。
「陸軍大将の父」とは、渡辺錠太郎陸軍教育総監。当時9歳の少女というのは、地元岡山市のノートルダム清心女子大学の学長だった
(現ノートルダム清心学園理事長)渡辺和子さん。1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど活躍され、著書もたくさんありますので、教育者として尊敬しておりましたが、2.26事件との数奇な関わりについては存じ上げませんでした。
置かれた場所で咲きなさい (幻冬舎単行本)

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  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2012/04/23
  • メディア: Kindle版
妻に話すと、それは周知の事実であるらしく、以前テレビ番組で取り上げられたこともあると教えてくれました。

同じ記事を繰り返すのも能がありませんので、2016年末に亡くなられた渡辺和子さんへの追悼記事から、一節を引用させていただきます。HUFFPOST2016年12月31日付記事、「渡辺和子さん、生前に語った2・26事件 父を殺された瞬間、そして『赦しと和解』」(吉野太一郎氏執筆)の一部分です。

陸軍教育総監だった渡辺錠太郎の次女で、4人きょうだいの末っ子だった。9歳だった1936年2月26日、陸軍の青年将校らによるクーデター未遂事件「2・26事件」で、父が殺害される場面を目撃することになる。

渡辺さんは当時のことをエッセイ集『美しい人に』などでも書いているほか、講演などでも折に触れて当時の様子や、加害者の遺族との「和解」や「赦し」について語っていた。ここでは2009年3月8日、筆者が取材した、東京・杉並区郷土博物館での講演の内容を紹介する。

「血の海の中で父は死にました。凄惨な死でございました」
1936年2月26日の午前6時前、9歳だった和子さんは、和室の布団で父と寝ているとき、激しい怒号を聞いた。その直前に斎藤実・内大臣を殺害した青年将校と部下の兵士の一団約30人は、東京・荻窪の自宅前にトラックで乗り付け、門を開けようとした。

兵士たちの怒号を聞きまして、まだ寝ておりました父が、すぐ起きまして、自分の左手にあります小さな襖を開けて、拳銃を取り出しました。覚悟していたのだろうと思います。そして私に「和子はお母様のところへ行きなさい」、これが最後の、私が父から聞いた言葉でございました。逃がしてくれたわけでございます。
私は寝ぼけ眼で、寝室と茶の間の間のふすまを開けて、台所に母の姿があるかと思って探しましたところ、母は兵士たちを中に入れない、防ぐために必死でして、私の方など見向きもしませんでした。仕方なしに父の所にまた戻ってまいりました。
その頃には流れ弾が寝間に打ち込まれておりまして、よく当たらなかったと思うんですけれども、私はそれをかいくぐってまいりましたところ、掻巻(かいまき、綿の入った袖のある寝具)を自分の身体に巻き付けて、ピストルを構えておりました。私が戻ってきたのを見て、非常に困った顔をしまして、目で、座卓の後ろに入るように示してくれました。
私もそこに隠れました。ふすまが開けられて、軽機関銃の銃身が差し込まれて、父の足を狙って撃ち始めた。私の父は陸軍でも射撃の名手だったようでございます。3発ほど撃ったと言われておりますけども、いずれにしても軽機関銃にはかないません。足を集中して撃ったらしく、片足はほとんど骨ばかりでございました。
茶の間の方から青年将校2人(高橋太郎少尉と安田優少尉)と兵士が数人入ってきて、父を射撃いたしまして、最期に銃剣で切りつけて、とどめを刺して帰っていきました。ずっと座卓の影から見ておりまして、引き上げていった後、出てまいりまして、「お父様」って呼んだんですけど、もちろん事切れておりました。あたり一面、父の肉片、骨片が飛び散っておりましたし、寝間の柱にも銃弾の跡が残っておりました。
その後、母がすぐに寝間に参りまして「和子は向こうに行きなさい」と言われてその場を離れました。午後になりまして、包帯でぐるぐる巻きになった父が布団の上に横たわっておりました。額に触ったときにとても冷たかったのを、今でも感触を覚えております。亡くなった姉によりますと、43発、弾を父の身体の中に撃ち込まれていたということでございます。
雪の上を点々と血が残っておりました。寝間の前は庭でして、雪が本当に真っ白に積もっておりましたけども、兵士が帰っていくときの返り血なのか、足か何かを狙って撃ったときの血なのか分かりませんけども、その血の赤さは今でも焼き付いております。

(中略)
駐在武官として長い間、ドイツ、オランダ、中国、満州、そういう所へ参りました。私には直接申しませんでしたけども、母や姉に聞きますと、父は「軍隊は強くなければいけない。でも戦争だけはしてはいけない」ということを絶えず言っていたそうでございます。「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる。自分が勝った国、負けた国に駐在武官としてずいぶん長いこと行っていたけども、そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」。それがもしかすると、その当時、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていた方々にとって邪魔な存在になっていたのかも存じません。私の母は、父がよく「俺が邪魔なんだよ」と言っていたと後で話してくれました。つまり父の存在が一部の方々にとっては非常に邪魔だった。

講演後、渡辺さんは2・26事件について、取材にこう語っていた。

「軍の一部が自分たちの意志を遂げるために蜂起し、いらないものを消し、戦争にひた走った。『こういうことは繰り返さない』と思って頂けたのなら、私もお役に立てたのではないでしょうか」

(中略)
今まで「お父様を殺した人たちを恨んでいますか」と聞かれて、本当にきれいな言葉で「いいえ、あの方たちにはあの方たちの信念がおありになったんでしょう。命令でお動きになった方たちを、お恨みしておりません。憎んでおりません」と言いながら、コーヒー1杯、そういう方を前にして飲めなかった自分。修養が足りないとも思いましたし、同時に、私の中には父の血が流れているんだと感じました。私がどれほどでお赦ししていると言っても、私の血が騒ぐ。
(中略)

転機となったのは、1986年7月12日、青年将校らが銃殺刑に処せられてから50年の日の法要に、請われて参列したことだった。
(中略)
法要の間も本当につろうございました。終わって帰ろうとしたら澤地久枝さんが来ていらして「シスター、せっかくここまで来たんだから、お墓参りをしたらどうですか」と、お参りしてお線香とお花を供え、立ち上がってお墓から階段を降りて参りましたときに、男の方が2人、涙を流しておられた。そのお2人が、私の父の寝所まで入ってこられた、高橋少尉と安田少尉の弟さんだった。「これで私たちの2・26が終わりました」「私たちがまず、お父様のお墓参りをすべきだったのに、あなたが先に参ってくださった。このことは忘れません。ついてはお父様の墓所を教えて下さい」と言われ、お教えして、その日は終わりました。
その日以来、毎年、お盆とお彼岸と、折あるごとに、多磨墓地の父のお墓は、お掃除が行き届いて、時には植木が刈り込んである。高橋様と安田様とはお手紙を交わす間柄になりました。本当に、父が引き合わせてくれたことだと思いますし、しみじみ思ったんですね。自分だけが被害者のような気持ちを持っておりましたけれど、反乱軍という名前をつけられた方々のご家族の50年、どんなに辛い思いをなさったか、私は一度も考えていなかった。お名前だけ知っていた、河野とか野中というお名前が、肉親のお姿で現れたとき、何か心の中で溶けるものがあったように思います。


長い引用になりました。
なかでも、「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる---そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」というお父様の言葉が,重く心に沁みました。経験と知性に根ざした知見に、いささかも耳を傾けることなく、いやそれらを邪魔者と力づくで排斥して、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていらっしゃる方々が、 いままた跋扈しているのではないかと危惧される時代だけに、、、。
ちなみに、このクーデター計画に加わった青年将校たちが掲げたスローガンは「昭和維新」でした。忘れかけていましたが,そう言えば、去年の5月、こんな記事を書いています。



共謀罪が衆院で強行されました。
とにかく最近忘れっぽくて困りますが、これだけは忘れないようにしなくてはなりません。
強行採決の口火を切ったのは、最後の質問者、「野党」維新の丸山穂高議員。「30時間以上質疑してきた。これ以上は足を引っ張る事が目的のピント外れの質疑は必要ない。論点も整理されて時は来た。私の質疑のあと、ただちに採決してほしい」とさ。このヒト法務委員でもない外野のヒト。
維新という存在、「補完勢力」という手厳しい呼び方にいささかためらいもありましたが、今やそれ以外の何者でもありませんね。
そういえば、昭和初期、5・15.2・26等のクーデター事件を引き起こした青年将校や民間右翼の唱えたスローガンが「昭和維新」でしたね。彼らの暴力的な妄動によって妄動によって掃き清められた道の先には、暗黒の国家総動員体制が待っていました。役目を終えた「昭和維新」のスローガンは、用済みとなって立ち消えて行きました。その歴史を知った上で、彼らは「維新」を名乗っているのでしょうかね。

さて、話はもどって、渡辺和子さんが学長を務めておられたノートルダム清心女子大の卒業生は、私のかつての同僚にも、たくさんいらっしゃいます。そのなかの最も若い元同僚T嬢は、当時常勤講師でしたが、生徒たちへの転任のあいさつで、渡辺和子さんの著書『置かれた場所で咲きなさい』を引いて,しみじみと心を打つ話をされました。
今日の散歩道で、出会った花です。
紅梅。
道端の空き地(農地の一角?)に、無造作に植えられています。けっして、花を愛でるためというわけではないようです。






白梅。





昨夜の雨の雫を宿した花も。

昨年末から咲き続けているニホンスイセン。



今日はこれにて。

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後楽園プチ散歩(その2),の巻 [折々散歩]

一昨日の後楽園プチ散歩で、PENTAXK5Ⅱ+AFBORG ED60もリュックに入れていました。遠くの鳥を写す機会があろうかと期待して、、、。

でも出番はほとんどありませんでした。

アオサギをこのカメラでも写しておきました。。







ロウバイ。



白梅も咲き始めたところです。







コケ。

長いレンズをマクロレンズみたいに使うのは、われながら、なんだかお間抜けなな感じです。







もう一台、OlympusE630も携行しました。このカメラ、しばらく前に電池の裏蓋が脱落したまま,どこかに紛失してしまっていました。その状態で使用できないわけでもないのですが、どうにも心許ないので、サポートセンターに問い合わせてみますと、送料込み650円也で部品を送付してくださるそうなので、依頼していました。それが届いたので、早速装着して出かけてみたのです。

晴れた冬空に岡山城がくっきりそびえていました。











後楽園の庭は、光の加減が好ましく思えました。







白梅。



















紅梅。















今日はここまで。


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後楽園プチ散歩、の巻 [折々散歩]

昨日は、近くで用事を済ませて、帰りに後楽園に立ち寄ってみました。久しぶりでした。特に珍しい鳥には合いませんでしたが、こんな鳥たちにご挨拶して、一時間弱で帰りました。駐車料金一時間あたり百円の、最低料金でした。

ツグミ。

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ヒヨドリ。
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アオサギ。
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ジョウビタキ♂
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ムクドリ。
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シロハラ。
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FUJIFINEPIXS1の画像です。すべてノートリミングで。これだけの大きさに写ります。えらい!
今日はここまで。

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共通テーマ:日記・雑感

金子兜太さんを悼む、の巻 [折々散歩]

昨日の記事に書き損ねたことがありました。
金子兜太さんの逝去のこと。
教員なりたての頃、同じ教職員住宅で、家族ぐるみでおつきあいを頂いたF先輩から、金子さんは奥様の俳句の師匠で、先日も上京して指導を受けてきたというお話をうかがったのは,つい最近のことでしたので、突然の訃報に,衝撃は大でした。また、 熊谷にお住まいのmomotaro様のブログ日本の政治と地球の未来(momotaro)でも、金子さんのご壮健な消息を拝見したのは,つい先日だったと思いましたのに---。
地元紙『山陽新聞」にこんな記事がありました。

 

金子さん訃報、被爆者ら惜しむ声 「痛みに寄り添った人」

 自らの戦争体験を語り、平和運動にも尽力した俳人金子兜太さんの訃報に、被爆者や関係者は「体を張って権力に対抗する人」「痛みに寄り添った人」と惜しんだ。
 日銀時代には被爆地長崎で勤務し、〈湾曲し火傷し爆心地のマラソン〉という句を生んだことでも知られる。長崎県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長(81)は「体を張って権力に対抗する人という印象を持っていた。残念だ」と話した。
 長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長(78)も「平和運動にとって大事な人を失った。平和への思いを引き継いで頑張っていきたい」と惜しんだ。

金子さんの人となりと業績について、毎日新聞の記事から引用しておきます。

 金子さんには大きな原点がある。戦時中、海軍主計中尉として日本銀行勤務を中断して派遣されたミクロネシア・トラック島での悲惨な体験から拭いがたい影響を受けた。終戦後、餓死者が相次ぐ捕虜生活の心のよりどころとして軍人・軍属を集めた句会を催し、生き残った者で力尽きた仲間の死を弔う質素な墓碑を用意した。
水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る
 1946年の引き揚げに際し、遠ざかる島を艦上から見つめて詠んだ。「亡くなった仲間のためにも、戦争のない世の中をつくろう」という決意は終生変わることがなかった。安全保障関連法が強行採決された戦後70年の夏、作家の澤地久枝さん(87)の依頼で揮毫(きごう)したスローガン「アベ政治を許さない」のプラカードが林立する国会前の光景は記憶に新しい。
 トラック島の句会を原点とする俳誌「海程」は、60年代俳壇の伝統回帰の潮流に対抗し、自由で個性的な表現を求めて提唱した造型俳句の実践の場となった。また、敗戦の焦土の中でいち早く設立された現代俳句協会を「故郷」と呼び、83年から会長、2000年から名誉会長として手塩にかけて育て上げた。協会を率いて89年から伊藤園の「お~いお茶新俳句大賞」の選考に携わり、96年創設の毎日俳句大賞の選者を初回から務めるなど、俳句の普及に尽くした。
(中略)
 谷に鯉(こい)もみ合う夜の歓喜かな
 後半生は同県熊谷市内の自宅「熊猫(ゆうびょう)荘」に住み、故郷につながる土を踏みしめて生きた。04年に母、06年に妻を相次いで失う前後から、社会から離れて放浪に生きた小林一茶や種田山頭火らの研究に取り組み、「煩悩から抜けられない平凡な自分、それでもこのまま自由に生かしてほしい」と、一茶が自称した「荒凡夫」を座右の銘とした。
おおかみに螢が一つ付いていた
 09年に第14句集「日常」を刊行し「淡々と日常を生きることが詩の泉を掘ること。生きられるだけ生き、死ぬ時期が来たら死んでいく。死んでも命は別のところで生きている。それを『他界』と言います」と語っていた。
穏やかな最期
 金子兜太さんの長男、真土(まつち)さん(69)によると、金子さんは6日から誤嚥性(ごえんせい)肺炎で熊谷市内の病院に入院していた。20日午後11時47分、真土さん夫妻に見守られ、穏やかな顔で息を引き取ったという。
 晩年まで戦争反対などの社会的発言も積極的に続けた金子さんについて、真土さんは「一俳人、俳句世界にとどまらない活躍をした部分は、ぼくは息子ですけど、評価したい」と語った。
(中略)
 利根川と荒川の間(あい) 雷(らい)遊ぶ
 熊谷市役所に近い同市中央公園に建立された句碑だ。真土さんによると、熊谷などでもカルチャー教室などで指導し「地元に対するお礼の気持ちを持ち続けていた」という。【中山信】
(中略)
代表句
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
「少年」(1955年)

銀行員ら朝より螢光す烏賊のごとく
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
 「金子兜太句集」(61年)

谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな
暗黒や関東平野に火事一つ
「暗緑地誌」(72年)

梅咲いて庭中に青鮫が来ている
「遊牧集」(81年)

酒止めようかどの本能と遊ぼうか
「両神」(95年)

おおかみに螢が一つ付いていた
「東国抄」(2001年)

定住漂泊冬の陽熱き握り飯
「日常」(09年)


最後に「日刊ゲンダイ」のこんな記事も目に止まりました。

 反戦平和への思いを込めた多くの句を残し、安倍政権が強引に進めた安保法に反対する運動のシンボルとなったプラカード「アベ政治を許さない」を揮毫した俳人の金子兜太さんが20日、急性呼吸促迫症候群のため埼玉県熊谷市の病院で死去した。98歳だった。葬儀は近親者のみで営む。
(中略)
  16年5月の本紙インタビューでは、安保法反対プラカードの揮毫について「『アベ政治』をカタカナにしたのは、こんな政権に漢字を使うのはもったいないから」と話し、「アベとかいう変な人が出てきたもんだから、私のようなボンクラな男でも危機感を痛切に感じるようになりました」などと政権を痛烈批判していた。

安らかにお眠りください。アベ政治は,国民の理性の力で、必ず成敗しますから、、、。



今日のプチ散歩には、PENTAXK10+レフレックスレンTAMRONsp500mmをもって歩きました。望遠能力からすれば、コンパクト(?)と言えるでしょう。ただMFフォーカスであることと、さすがに画質に難はありますが、、、。
ちなみに、すべてノートリミングです。
ヌートリアです。











ヒヨドリ。

ボケがうるさいですね。
次はツグミ。



咲き初めた紅梅です。



今日はこれにて。

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数日まとめの絵日記、の巻 [折々散歩]

最近、ブログの更新も訪問も思うに任せずにいるのは、ちょっとしたわワケがあります。
というのは、知人の依頼により、ある団体のホームページを更新する役目を,うっかり引き受けてしまったのです。
管理しておられたスタッフの方が、なかなかタッチできない条件が生じて、かれこれ5年もの間、ほとんど更新できない状態にありました。個人的にも愛着のある団体のHPですので、お役に立てるのならと、安請け合いしたのですが、このHP、高度なスキルにもとづいて構築されているらしく、私ごときの素人には、とても力及ばぬ代物でした。
いろいろいじっているうちに、どうもcssというものを駆使してあるらしいことがわかりました。カスケーディング・スタイル・シート?そう言えば見よう見まねで、少しだけ使ってみたことはありましたが、仕組みも利用法も皆目飲み込めないまま、すっかり忘れておりました。
初心者用の説明文を斜め読みしながら、どうやってもうまくいきません、寝ても覚めても悪戦苦闘すること一週間あまり、いくつかわかってきたこともあり、なんとか見られる姿になりつつあるのが,昨日今日のことです。
そんなわけで、パソコンに向かうのも辟易の状態が続き、ブログが二の次になっていたわけです。
記事の材料がないワケではありません。

16(金)は、肺の手術後の経過観察。3ヶ月に一度の検査ですが、レントゲン写真も腫瘍マーカーの数値も異常なし。もうすぐ5年で「卒業ですね」と、言っていただきました,果たして順調に事は運ぶでしょうか?

18(日)は、市民劇場で演劇鑑賞。

19(月)は、「総がかり行動岡山実行委員会」主催の「2019市民アクション&総がかり行動」が夕方ありました。


思想信条、党派的傾向を超えて多彩な人々が参加されていることがわかります。



ひときわ目立つ「教え子を再び戦場に送るな!」の横断幕は,この日がデビュー。

岡山県退職教職員の会(岡退教)/岡山県退職女性教職員の会(県退女教)/岡山県高校・障害児学校退職教職員の会(高退教)の三つの団体が名を連ねています。この記事(あきらめません、勝つまでは、の巻)に書いたとおり、この三者が一堂に会して行動に参加するのは、画期的なできごとです。「安倍9条改憲」の企てが産んだ、歴史的な共同の動きといえます。

20(火)は、郷里の父母の元を訪ねてきました。まったく偶然に、従姉夫婦や叔母が、ついでがあって訪ねてくれました。まったく久しぶりで、話が弾みました。

21(水).今日です。
ちょっと畑仕事を思い立ち、堆肥や鶏糞を買いに行きました。ついで(?)に,深山公園に寄りました。
ちょっと前から、M師が、ヒレンジャク・キレンジャク飛来の情報を教えてくださっていました。








上の写真はM師の撮影です。ヒレンジャクの群れの中に、キレンジャクが混じっていたそうです.最後の一枚にキレンジャクが写っています。

私自身、この鳥にあったことは数えるほどに過ぎませんが、こんな記事を書いたことがあります。


IMGP9408_R_0001.JPG
2014年の2月19日の記事です。その時の写真をフェイスブックにアップしたのが同じ年の今日だったということで、親切にも「四年前の投稿」として教えてくれました。
なんと、奇しくも今日、深山公園で、ヒレンジャクに会いました。残念ながら逆光でシルエットだけですが、証拠写真として掲載させていただきます。






色がわからないのが辛いところです。
近くに紅梅が咲いていました。





今日はこれにて。

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昨日は雨水、今日は多喜二忌、の巻 [今日の暦]

昨日は雨水。
今日は多喜二忌。
いずれも記事にしたい題材ですが、今日は軽く通り過ぎることにします。
多喜二について書いた直近の記事は、昨年10月のこの記事でしょうか?

「多喜二の母」に思う、の巻(2)


「多喜二の母」に思う、の巻


こんなことを書いています。

上映前のステージで、監督あいさつにたたれた山田火砂子監督は、高齢ながら、凛とした張りのあるお声で、平和への思いを訴えておられました。「戦争で一番悲しいのは母。慈しみ育てた子どもを母から奪う戦争を二度と許してはいけない」「母、せき役の寺島しのぶさんは、我が子の命が奪われたりしたら、取り乱して自分を失ってしまうだろうに、もう一度立て、と呼びかけた多喜二の母は気丈だ。役だから演じるが、自分ならとてもできない、と漏らしていた」等、印象深いお話が、心に残りました。
小林多喜二は、これまでも、何度となく私の記事に登場してきます。 
◇「宵待草」異聞、の巻
◇ブログ更新停滞の三つの言い訳、の巻
◇しもつきついたちの後楽園、の巻
◇夏の終わりの高知行、の巻(その5)
サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻
◇この道はいつか来た道 「密告フォーム」の行き着く先、の巻
◇自民HP密告フォームと「二十四の瞳」、の巻(1)
◇年金訴訟と朝日訴訟についてのおもいつくまま
道の辺に思ひ思ひや思ひ草
またまた3月15日の蘊蓄、の巻

三浦綾子原作の『母』では、多喜二と田口タキ(原作ではタミ)との純愛にスポットライトが当てられています。

「秋田魁新報」2009/12/11朝刊も、タキさんの逝去を伝える記事で、「小林多喜二が終生思いを寄せた女性」と紹介しています。

 小林多喜二の恋人、タキさん死去 101歳 大館市生まれの作家、小林多喜二が終生思いを寄せた女性、タキさん(旧姓田口)が、老衰のため今年6月19日に神奈川県内の介護老人施設で死去していたことが分かった。101歳だった。親族が12月10日、明らかにした。
 タキさんは、北海道小樽市の料理屋で働いていた16歳のとき、当時銀行員で21歳の多喜二と出会った。多喜二は美ぼうのタキさんに引かれ、小樽や東京で一時期同居して結婚を望んだが、実現しなかった。弟妹たちの面倒を見なくてはいけないタキさんが身を引いた—と伝えられている。
 エリート銀行員だった多喜二は、タキさんとの交流を通じて人間的にも文学的にも成長し、プロレタリア作家として社会変革を志すに至ったとされる。社会の底辺で生きる女性を主人公に、「瀧子(たきこ)もの」と呼ばれる数編の作品も残している。
 多喜二は思想犯として逮捕され、29歳で死亡。タキさんは戦後になって事業家と結婚した。親族は「本人は平穏な晩年を送りました。幸福な一生だったのではないでしょうか」と語った。
 先月出版された書簡集「小林多喜二の手紙」(岩波文庫)には、多喜二がタキさんにあてた恋文23通も収められている。

一方、山田火砂子監督の映画では、虐殺され、痛ましい姿で横たわる多喜二に取りすがって悼み悲しむ伊藤ふじ子にスポットライトをあてています。そして、その時は受け入れることができず,邪険な対応をしてしまった母セキが、晩年、最愛の夫を暴虐の果てに奪いさられた女性として、その耐えがたい悲痛に共感を寄せるとともに、多喜二にとっての大切な女性として愛おしく思うさまを描いています。
伊藤ふじ子については、ChinchikoPapa 様が2016-12-11付けの次の記事でも、こんな紹介をしてくださっていました。

高田馬場駅の階段でボケる小林多喜二。



  小林多喜二Click!は、少し間をおいてうしろを歩く伊藤ふじ子Click!を笑わせようと、高田馬場駅の階段でわざとボケてみせている。1931年(昭和6)ごろのエピソードと思われるが、小林多喜二はおかしなことをして人を笑わせるのが好きだった。階段を上っているとき、2段上に下駄の歯が落ちていたのを多喜二がひろい、彼女に見せたあと自分の下駄の歯が取れたのではないかと、マジメな顔をしながらさかんに合わせようとしている。
 森熊猛と再婚後、1981年(昭和56)に死去した森熊ふじ子(伊藤ふじ子)の遺品から、小林多喜二のことをつづった未完の「遺稿」が発見されている。それを初めて収録したのは、1983年(昭和58)に出版された澤地久枝『続・昭和史のおんな』(文藝春秋)だった。小林多喜二の妻だった女性からの、初めての直接的な思い出証言だ。以下、同書から孫引きで多喜二の素顔をかいま見てみよう。
  
 人に言うべきことでない私と彼との一年間のことどもを又何のために書き残す心算になったのか、まして彼は神様的な存在で、この神様になってにやにやしている彼を、一寸からかってやりたい様ないたずら気と、彼がそれほど悲壮で人間味を知らずに神様になったと思い込んでいられる方に、彼の人間味のあふれる一面と、ユーモアに富んだ善人の彼を紹介し、彼にかかわって案外楽しい日も有ったことなど書きとめて、安心してもらいたかったのかも知れません。/元来彼はユーモリストと申しましょうか、彼の生い立ちとは正反対に、彼と一緒に居るとだれでも楽しくなるところが有りました。
(中略)
特高Click!に目をつけられていた彼女は、下落合では目立たぬように暮らしていたのだろう。彼女は画家になりたかったので、多喜二が築地署の特高に虐殺されたあとも、1932年(昭和7)から翌年にかけ従来と変わらずにプロレタリア美術研究所Click!へ通っている。
 ただし、彼女はこの時期、黒っぽいワンピースばかりを着ながら同美術研究所へ通っていた。小林多喜二と伊藤ふじ子の関係をよく知っていた秋好一雄は、夫が殺されたので大っぴらに喪服は着られないものの、喪服がわりの黒っぽいコスチュームだったのだろうと回想している。伊藤ふじ子は、「あんたが(小林多喜二の)女房だなどと言ったら、どういうことになると思うの」という、特高の残虐さを十二分に認識していた原泉Click!の忠告を守り、ひたすら多喜二との結婚を世間には隠しつづけた。

多喜二の通夜の模様は、そこに立ち会った手塚英孝や江口渙らの文章に,ありありと描かれています。が、伊藤ふじ子については、あられもなく取り乱して嘆くワケありのおんな以上の印象を持つことなくとくに確かめもしないまま過ごしてきました。平野謙氏などがよく取り沙汰したいわゆる『ハウスキーパー』論なる『印象操作』のせいもあってか、覗きたくない闇にたいするような忌避感覚がつきまとっていたのかも知れません。そんなことから、私は次のようなコメントを書かせて戴きました。

 多喜二さん、人間味ある、お茶目な人だったようですね。弟の三吾さん、お母さんのセキさんなどの、あれこれの追憶からも偲ばれます。
伊藤ふじ子さんのことは、「ハウスキーパー」としてだけ薄らと記憶していました。虐殺された多喜二に取りすがるさまに、自然のこととして男女の情愛を読み取ることはありましたが、秘められた後ろぐらいもののように、長いあいだ感じてきた点が、なきにしもあらずでした。「小林多喜二の妻だった女性」と位置づければ、すっきり腑に落ち、悲痛が募ります。下駄のエピソードは、どこかで読んだ覚えがありましたが、澤地久枝『続・昭和史のおんな』(文藝春秋)を、読んでいませんでした。お教えいただきありがとうございました。
by kazg (2016-12-11 08:44)

これには、ChinchikoPapa 様からこのようなお返事をいただき、またまた目のウロコがとれました。

kazgさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
ふたりが結婚する前、小林多喜二から伊藤ふじ子へ宛てたラブレターも発見されておらず、また、それを仲介した人々の証言も得られていなかった1960~70年代には、「ハウスキーパー」説が広まるのを抑えようがなかったのかもしれませんね。
それになによりも、ふじ子自身とその夫である森熊猛が存命で、家庭を持っていて子育てをしているわけですから、よけいに証言しにくい状況が、ふたりの関係を知る人々にはあったのではないかと思います。
小林多喜二・ふじ子夫妻のことが、さまざまな証言や資料とともに公に語られるようになったのは、ふじ子が死去したあとのことですね。夫の森熊猛も、ふたりの生活で知りえた限りのことでしょうが、多喜二とふじ子の関係を証言しているのが貴重です。
by ChinchikoPapa (2016-12-11 18:14) 


このような史実の解明が背景にあって、三浦綾子原作『母』から、山田火砂子監督作品の映画への「発展」があったのかと,合点がいきました。
いやはや、「軽く通り過ぎる」つもりが、またまた深入りしてしまいました。今日扱うつもりだった題材は、また回を改めて書かせて戴きます。
昨日の散歩道で出会った鳥たちです。
ジョウビタキ♀。






ツグミ。



ムクドリ。

これは?

雀のお宿、発見。





きょうはこれにて。

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コゲラとシロハラ、の巻 [獺祭魚]

カワウソが、捕らえた獲物を岩の上に並べて祝祭を催すという伝承にちなんで、撮りためた写真を並べて一人楽しむコーナーです。なお、「伝説の銘酒」とはまったく無関係です、あしからず。
2月8日の深山公園での写真です。
コゲラ。



シロハラ。



トリミング画像です。
今日はここまで。

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魚も氷に上る刻なり核棄てん [今日の暦]

早朝に目が覚めて,ラジオのスイッチを入れると、「NHK ラジオ深夜便」という番組で、今は「七十二候」の「魚氷を上る(うお こおり を 上 る)」だと紹介がありました。氷が溶けて,魚が目覚め活動を始める候だそうです。それにちなんで「魚氷を上る」という題名のピアノ曲が流れていました。
NHKのHPを紹介しておられましたので,該当ページを覗いてみると、
今朝流れていたピアノ曲についてこんな紹介がありました。

 ピアノが奏でる七十二候 : 放送スケジュール】
毎週火曜日から金曜日の午前4時台
※土曜日から月曜日の放送はありません。
七十二候は、一年を72に分けて、草花や鳥、魚の様子や気象現象などを名付けた暦です。長く生活の中で親しまれてきた七十二候、その一候づつに、ピアニストで作曲家の川上ミネさんが曲をつけ、72のオリジナル曲が生まれました。七十二候の紹介とともに、その候をイメージして作られたピアノ曲で、日本の季節の移ろいをお楽しみください。

【「ピアノが奏でる七十二候」CDについて】
「NHKラジオ深夜便 ピアノが奏でる七十二候」のCDが、2017年8月23日に発売されました。COCX-40088~9日本コロムビア
楽譜は販売されておりません。

俳句の世界では「魚氷に上る(うをひにのぼる)」は、早春の季語だそうです。
実際に寒さがすこし和らぎ、昨日は当地でも「春一番」が吹いたそうです。昨日のプチ散歩で、紅梅が咲き初めているのを見つけました。





散歩の間,不審な動きをしていた携行カメラが、ついに動作しなくなりました。電源を入れ直すと起動し、撮影状態に入るので,シャッタを押すと一瞬撮影完了かと見えて、そのままブラックアウトしてしまいます。電源を入れ直しても同じことの繰り返し。試しに、その日撮影したはずの画像を確認してみようと再生すると、古い写真ばかりで、その日の散歩分は一切記録されていませんでした。お手上げです。
たまたまサブカメラとしてポケットに入れていたコンパクトカメラ(RICOHCX2)がありましたので写すことができましたが、これらが昨日撮影した唯一の写真です。とほほ。
ウメジローでも観察できないかと期待したのですが、残念ながら,強風のせいでしょうかメジロの姿はありません。どうせカメラが故障しているわけで、帰りにカワセミにも遭遇したのですが、臍(ほぞ)を噛むしかありません。
というわけで、ちょっと前(2月8日)に深山公園で撮影したメジロを紹介してお茶を濁すことにします。

トリミングします。









カキジロー七変化です。












昨日も.カーラジオ~流れる国会中継を、聞くともなく聞いていました。
トランプ政権の新核戦略指針「核態勢の見直し」(NPR)は、非核の戦略攻撃に対しても核で報復する可能性を明記したそうです。この核戦略転換により、日本への核持ち込みの危険性が格段い高まったと指摘する藤野保史衆院議員(共産)の追及に、アベさんは「NPRを高く評価する」という姿勢を崩さず、こんな答弁をしていました。

 北朝鮮の核・ミサイル開発の進展等、安全保障環境が急速に悪化しており、日米同盟のもとで通常兵器に加え核兵器で守ることが大切だ。

 前提が変わるわけだが、米国はわが国の非核三原則を十分に理解している。米国が核兵器を搭載した米軍機をわが国に飛来させたり、領空を通過させたり、配備をしたりということは、現状において想定はしていない。

自党の江渡議員への答弁では、こんなことも言っています。

 専守防衛は純粋に防衛戦略として考えれば大変厳しい。相手からの第一撃を事実上甘受し,国土が戦場になりかねない。

 ひとたび攻撃を受ければ,回避することは難しく、先に攻撃した方が圧倒的に有利になっている野が現実だ」 

トランプのポチとして、主君の意向を慮って、シッポを振りながらあからさまにヨイショしているだけではなく、どうやらご自身、先制攻撃(しかも核による)への衝動が抑えられないのではと、お見受けします。対話は嫌い、先制(核)攻撃は、やってみたい、とは、困ったものです。
核持ち込みの危険が最も高いのは、なんと言っても沖縄でしょう。住民の二割以上もが犠牲となった沖縄戦の傷も癒えぬうちに、アメリカの統治下におかれ、銃剣とブルドーザーで土地を奪われ生活を壊されてきて、祖国復帰後も、米軍の最前線基地として侵略の足場とされ、苛酷な基地被害と負担、犠牲、不安にさらされてきた沖縄。日米の新たな核戦略は、この沖縄に一層の危険と犠牲を強いる道に他ならないでしょう。
「核も基地もない緑の沖縄を」というスローガンが今なお色あせることのない不幸な現実は、打開する
ウメジローでカキジローでもなく、カメジローを連想するのは、強引すぎますか?
瀬長亀次郎さんの話題は、当ブログでも、過去に何回か書きました。

枯れ山に深山頬白色を添ふ


たぐいなき一期一会や山法師


由美子ちゃん事件から思うこと、の巻


大寒や沖縄に春いちはやく



↑オフィシャルサイトにリンクを貼らせて戴きました。
不屈館のHPも必見です。
今日はこれにて。

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しがこがとけたりはったりで どじょっこだのふなっこだの 春か冬かとまようべな、の巻  [折々散歩]

一昨日(土)は久しぶりに一日中雨。零下の寒さも少し和らぎ、小川の氷も溶けました。

昨日(日)は朝から晴れました。朝の散歩でも、氷は見えません、







ツグミはいつも元気です。











ヒヨドリも。



マンサクの花も次々に咲いています。







このニホンスイセンは、12月頃から咲き続けています。



ばあばのパートがお休みだと知った孫たちが、お弁当を持ってお出かけしたいとせがみます。弁当箱におにぎりや卵焼きなどをつめただけのお弁当ですが、そんなイベントにあこがれるようです。

中学生は、部活動で朝から登校していますので、小4、小1、もうすぐ3歳の保育園児が、どこか公園へ行きたいと言って譲りません。「寒いから室内で食べよう」といっても聞きません。

結局、深山公園に出かけることにしました。まず、遊具のある広場。ここは真夏はかんかん照りで灼熱地獄、真冬は寒風吹きさらしで、凍える寒さ。付き添い泣かせの広場ですが、子供たちはへっちゃらで、テンション高く走り回ります。











寒さで最初に音を上げたのは保育園児。車の中でお弁当を食べることにしました。それでもなお、ひとしきり追いかけっこ遊びを続けていた小学生二人も合流してお弁当。それで気が済むはずもなく、今度は、車で場所を移動して、アスレチックのある広場へ。こちらは山陰に位置しているので、寒風は少し防げるのでは、と期待しましたが、雪花も舞う寒さには閉口します。











それでも、子どもたちは、一通り遊具で遊んだり、山道を駆け上り駆け下りて、興奮気味です。いつもは、ことあるたびにだっこやおんぶをせがむ保育園児までが、後を追ってついて回ります。危険な山道ですので、手をつないで兄姉の後を追うので、こちらもよい運動になりました。

実は、途中、こんな鳥に出会ったのですが、短いレンズしか持っていなかったので、大きくは移せません。また、子供の後を追わねばなりませんのでゆっくり写しているわけにも行かず、つかの間の出会いでした。



トリミングします。



いつものようにヤマガラは近くまで出迎えてくれます。



アオサギもいました。







足元が、この日は凍っていません。

先日の深山公園では、池の氷の上をカモがよちよち歩いていましたのに。













近づくと、逃げました。



水の中には、なんと、この寒いのにカエルのものらしい卵塊もあります。



早春に産卵するというアカガエルでしょうか?

「♪はるになれば しがこもとけてどじょっこだの ふなっこだのよるがあけたと おもうべな 」の季節到来か、と思ったのもつかの間、今朝はまた、寒波襲来で、「♪ふゆになれば しがこもはって どじょっこだの
ふなっこだの てんじょこはったと おもうべな」に逆戻りと見えます。

きょうはこれにて。


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小鳥の森とこどもの森と、、、の巻 [折々散歩]

カワウソが捕らえた獲物を岩の上に並べて祝祭を催すという伝承にちなんで、撮りためた写真を並べて一人楽しむコーナーです。なお、「伝説の銘酒」とはまったく無関係です、あしからず。
ところでこれは、カワウソならぬカワウです。ダジャレにもなりませぬが(汗)。

1月末頃に、M氏からいただいた鳥情報の片隅に、「繁殖期を迎えたカワウ」と添え書きがありました。
カワウはよく見かけますが、こんなオシャレな姿を写せたらと願いつつ、まだ果たせていません。そう言えば、過去記事にこんなことを書いたことがありました。
ウにサギに スズメにヒバリ フルヘッヘンド
これは、鵜。鵜飼いの鵜は、ウミウを捕獲して訓練するそうですが、こちらはカワウ。貪欲な食性や、糞被害で,迷惑がられる存在ですが、その独特の肢体といい、鉤型のくちばしと言い、エメラルドグリーンの目といい、なかなかのクールガイです。
_img9808.jpg

何年か前、コロニーでにぎやかに談論中の姿を「激撮」したのを思い出しましたので、あわせて貼っておきます。
IMGP2634_0001.jpg
そのM氏から、こんなシンポジウムのご案内をいただきました。



「三徳園・小鳥の森を愛する会」主催のシンポジウムだそうです。
開催趣旨の文章を引用します。
、 「小鳥の森・三徳園」---四季を通じて様々な草花を愉しめ、野鳥観察の場所として、また、森林浴も身近にできる県民の憩いの場所として親しまれてきました。 しかし、農業後継者の育成を図る目的で、新たな施設の整備計画が立てられ、園内のサクラ展示林や郷土樹木園の約半分は伐採され、貴重な自然環境が失われました。
こうした状況から有志が集まり残された郷土樹木園と、外周の小鳥の森(探鳥歩道)等のフィールドを活用して、子どもから大人まで自然観察・体験等を通して、自然を大切にする『心』を育て、未来に繁げる活動をしようと、「小鳥の森・三徳園を愛する会」を設立しました。
この度、小鳥の森・三徳園tこ関わり深い、3名の専門家をバネリストとして、 「~森と生きものと農業~ みんなで話そう、 三徳園のこれから」 をテーマにシンポジウムを開催する運びととなりました。
シンポジウムを通して、自然・命・食・農への私たち一人ひとりの関わり方と、公共施設への関わり方を一緒に考えていきたいと思います。
三徳園・小鳥の森をめぐる動きは、以前、この記事などでも話題にしたところですが、一方的とも言える「整備」計画や大規模な樹木伐採などを憂え、一緒に「 三徳園のこれから」を 考えていこうという、幅広い方々のとりくみが注目されます。

小鳥の森がアブナイ?の巻

小鳥の森の小鳥と猛禽、の巻


さて、今日のストック画像は、「小鳥の森」ならぬ「こどもの森」の鳥です。撮影日は2月6日、携行カメラはオリンパスE-pl5でした。レンズは?忘れました。
M師からヒレンジャク・キレンジャク飛来の情報をいただきました。場所は別のスポットなのですが、私が初めてヒレンジャクの撮影に成功したのがこの公園なので、別の用事のついでに、一縷の望みを託して立ち寄ってみました。


狙った被写体は、ゴリラ君.

ではなくて、その頭に乗っている鳥です。
トリミングします。


実は、M師からの鳥情報では、ある場所にオオアカハラがやってきているそうなのですが、ついで悪しく、その場所には行くきっかけがありませんでした。が、さほど距離の離れていないこの公園ですので、遠目に見ると、腹のあたりがほんのり赤いような気もして、もしやと期待して何枚も撮影してみました。
オオアカハラとはどんな鳥かの知識もなく、帰宅後調べてみましたら、もっともっと鮮やかに赤い鳥のようです。するとやはりこの鳥は、見慣れたシロハラなのでしょうね。












あちらこちらで、何羽もの個体を見かけました。
ジョウビタキ♀。



ヒヨドリ。






今日はここまで。

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水面凍結の日々、の巻 [獺祭魚]

カワウソが捕らえた獲物を岩の上に並べて祝祭を催すという伝承にちなんで、撮りためた写真を並べて一人楽しむコーナーです。なお、「伝説の銘酒」とはまったく無関係です、あしからず。

ところで、これは、1月31日に撮影したカワウソ???

いえいえ、ウソ、ウソ。正体は、我が家の近所に住むヌートリアです。


ヌートリアは、過去記事にも度々登場します。

防寒は自前の毛皮沼狸

えらいよう冷えますなあ、の巻

新年も帯と襷の選りくらべ、の巻

いっぱい、これなあに?の巻

沖縄慰霊の日に思い出すこと(その4 最終回)

麦秋や沼狸らの朝化粧

などなど。

中でも一番古い登場は、どうやらこの記事↓で、カワウソと「獺祭魚」の知ったかバナシとともに、、ヌートリアの紹介もしています。

新カテゴリー『獺祭魚』の蘊蓄

「ヌートリア」とはスペイン語でカワウソ(の毛皮)を意味し、原産の南米では本種のことを「Coipo」と呼ぶ。英名でも「Nutria」より「Coypu」の方が一般的だそうです。

「稲美野ヌートリア通信」というサイトに詳しい説明が掲載されています。 一部を、これまた無断で引用すると、
うんちく: 毛皮はカワウソのように上質で、カワウソの毛皮と称して売買されたため、カワウソのスペイン語<ヌートリア>がまちがってこの動物の呼び名になった。
○ 帰化動物としての経緯と状況
人間によって持ち込まれ、やがて人間の手を離れて野生化し、自然増殖を始めた外来の動物を、帰化動物と呼ぶ。
 日本には1907年に上野動物園に初めて輸入された。日本では1939年(昭和14年)に軍用の毛皮獣として150頭が輸入された。第二次世界大戦中は、防寒用の毛皮を採り、肉は食用とするために多数飼育された。1944年には4万頭も飼育されていたという。第二次世界大戦が終わると需要がなくなり、放逐されたり屠殺されたりした。生き残ったものが野生化し、各地で帰化した。
海外では:
 海外では、北アメリカ、東アジア、東アフリカ、ヨーロッパなどに帰化している。その毛皮を目的に世界各地で飼育されたため逃げ出したものなどが再野生化している。土手などに穴をあけ、キャベツやコムギなどの畑を荒らすことがあるため害獣となった。
日本では:
 日本では、岡山県に最も多く生息している。とくに岡山県児島湾干拓地一帯では、縦横にクリーク(排水溝)がつくられ、水性植物が生い茂るなど生息条件に恵まれ、かなり多数が生息している。イネや水路ぞいの野菜に大きな被害を与えるため、毎年2000~3000頭が捕殺されている。岡山県での捕殺数は、全国の90%以上を占める。
「稲美野ヌートリア通信」より
本物のカワウソが血なまぐさい肉食獣であるのに対して、このヌートリアは基本的にベジタリアン。であるが故に、農作物を食害する等の罪科(とが)により、特定外来生物として捕殺されています。気の毒なことです。

 以前(2010年9月)早朝散歩中に、出会った起床直後で洗面中とおぼしきヌートリアの家族を撮影しました。

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仲むつまじく、何とも愛らしい情景でした。「害獣」と呼ぶのは人間様のご都合、という感が強くしますね。 

防寒用の毛皮用として持ち込まれただけあって、歴史的と言われるこの冬の寒さをものともせず、悠々と水路を散歩していました。でも、二月にはいってからの冷え込みは桁外れで、水路も連日のように凍結していますが、この生き物たちは健勝でしょうかね?

1月末には、菜の花が咲いたり、



マンサクも







ロウバイも







徐々にほころんできたので、春も近いかと、期待したのはぬか喜びでした。



余りの野菜の高騰に、昨日はダイコンやハクサイをもらいに、田舎の父母の本を尋ねました。風もなく、日中は少し日が差して、ぽかぽかした感じもしましたが、故郷の川もかなりの規模で凍結していました。

場所によっては、水面が覗いている箇所もありますが、、、。



向こう岸近くまで氷に覆われているところもあります。



子どもの頃の記憶では、このような光景はしばしば目にしたものでした。子どもたちは、川の中程まで氷の上を歩いて遊んだりしたものでした。無謀と言えば無謀ですが、氷は、子どもたちの体重を支えるのに十分な厚さだったと記憶しています。この日の氷はどうでしょうか?厚さ1センチは優に超えていて、握り拳大の石なら投げてもひび割れることもなく、氷上を滑走します。

カモたちも、わずかに水面が露出している沖の方で、泳いでいます。



ツグミも寒そう。











ハクセキレイ。





これからが本題。

1月28日撮影のお散歩写真です。

byOLYMPUS PEN Lite E-PL5+Panasonic LUMIX G VARIO 45-200F4.0-5.6。(マイクロ)フォーサーズですから、35mm換算で焦点距離は2倍に相当します。更に、「デジタルテレコン」で、2倍にすると、最大800mm相当になる?
イソシギでしょうか?



コガモたち。



センダンの枝に止まるムクドリ。



寒そうなアオサギ。



上空に現れた猛禽類。トリミングしてみますが、鮮明ではありません。

チュウヒでしょうか?



九条改憲に反対する先日の退職教職員の集まりに、雪深い県北から出席されていた現役教師の友人Hさんと短時間言葉を交わしましたが、いつも私のブログを文章が長すぎるとからかう彼に、「これからは短くするつもり」と宣言したのですが、今日ももはや限界を超えていますね。残りの画像は、次回といたします。



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はは~ん、わかった、「選挙結果の怪」の謎、の巻 [時事]

名護市長選の経過と結果を鋭く分析したこちらの記事は、目から鱗です。

選挙メモ 名護市長選挙をデータで見る - 出口調査と選挙結果のねじれは何を意味する ?


提供されている資料の一部をご紹介させていただきます。



上に紹介された図の通り、出口調査では、辺野古移設反対が上回り、稲嶺市政を評価する声が大きく上回っていました。それなのに、なぜ「公開討論会もすべて断り、公式ホームページもハリボテで、活動実績の項目は空欄のまま」という「ほぼ無名の新人、渡具知氏」が勝ったのか?
記事の一部を引用させていただきます。

この出口調査と選挙結果の
あまりに凄まじいよじれ現象は
あのトランプ選挙を彷彿とさせる。
そして出口調査に反映されない
期日前投票の異様な多さは
この選挙が究極の組織選挙だったことを指し示す。
自民党幹部が沖縄に貼り付いて、各種業界団体の徹底した引き締めに回った。いろいろと裏の話を聞いたりもした。徹底したトップダウンの集票、そして投票所までマイクロバスでのりつけるグループが散見された話。宗教団体はまた最も手堅い票田となり、創価学会や幸福の科学などが活発に動いた。
また、
とぐち武豊は公開討論もいっさいせず、
かわりに艦砲射撃のように大量のデマを垂れ流した。
稲嶺陣営は、結局そのデマのカウンターに
多くの人材と途方もない労力を消耗させられた。
恐ろしいほどの時間を、押し寄せる大量のデマつぶしに使わなければならなかった。
それ狙いでとぐち武豊陣営が
政治家とネトウヨ総動員でデマを飛ばしていたのだから
非常に汚い選挙のやり方だったといえる。





投票傾向の特徴は、
(1)投票日当日は、稲嶺さんに投じた人が多かったが、史上最高の異例の期日前投票の票は、とぐち候補に多く流れたらしい。
     ↓
通例の選挙の常識を覆す、徹底した動員票が組織された模様。マイクロバスでの集団投票も広く目撃されたらしい。

(2)世代別では六〇代七〇代に稲嶺支持が、最も多く、若年層が少なかったらしい。特に10代、20代は、極端にとぐち支持に傾く傾向があったらしい。
     ↓
歴史を知らない若者層には、根拠のないデマ宣伝が効を奏したものらしい。中央政界の著名な人物が次々と乗り込み、辺野古問題の争点はひた隠しにしながら、稲嶺市政への根拠のない誹謗を垂れ流したこと、これらが若者受けし、SNS等でもカクサンされたことの影響は大きかったらしい。また、現役世代は、会社や地域など、現実のしがらみによる圧力・誘導が、奏功したらしい。

(3)男女別では、女性の方が稲垣支持が多かったらしい。
     ↓
命とくらしに直接の深い関心を持つゆえか、どうやら女性の方が、しがらみを超えた、よりリアリティある判断をできるものらしい。
そんなことを考えておりますと、前回記事へのmajyo様のコメントが、俄然現実味を帯びてきました。

名護市長選で見られたように、国民投票までいくと
もう危ないですね。その前にストップです。
諦めない

公選法の規制のもとでもあれだけのやりたい放題ですから。ゼニ、情実、会社・地域・組織ぐるみのしめつけ、提灯マスコミ総動員のデマ三昧で、2/3をかすめ取ろうとするでしょうね。その時、戦争体験から遠く、歴史認識においても不案内な若年層に、どう憲法九条の意義と価値を、すとんと胸に落ちるやり方で語り伝えていくかが、決定的だと、改めて思います。
街頭で九条改憲に反対する行動をしていると、3000万署名に応じてくれた若者が、「戦争に赴くことになるかも知れない若者たちのために、(もう戦争に行くことはないお年寄りが)街頭で頑張ってくれてありがたい」と語ったというエピソードを聞きました。こんな例が、無数にあらわれなければならないのでしょうね。



昨日は、岡山市でも氷点下6℃という、三十数年ぶりの冷え込みを記録したそうです。今朝は、気温は低いものの、風のない穏やかな日射しがありました。またまた深山公園を歩いてみました。昨日よりは長い距離を歩きました。
コゲラが、何羽もいました。

また、ルリビタキ♂にも会えました。



ジョウビタキ♂も。

ジョウビタキ♀も現れました。

水が凍っています。

カモの池も氷に覆われています。

ヤマガラ。

トリミングします。

赤松池のカモたちも元気。







今日はここまで。

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あきらめません、勝つまでは、の巻 [時事]


前回記事では、しばらくブログ更新をできずにいたのが、名護市長選挙のショックではないということ話の「マクラ」に、その間の事情を本題として述べる心づもりだったのですが、気力が及びません。名護市長選挙の当日、地元ではこんな集会があり参加してきました、という事実だけ、ご報告しておきます。

一部分を拡大します。

主催は、幼少中高・障害児学校退職教職員有志、とありますが、その中心は、「岡山県退職教職員の会(岡退教)」「岡山県退職女性教職員の会(県退女教)」、「岡山県高校・障害児学校退職教職員の会(高退教)」の3団体です。幼少中関係の前者2団体は、「日教組」傘下の「岡山県教組」出身の退職者組織、高校・障害児学校関係は、「全教」傘下の「岡山高教組」出身の退職者組織(ああややこしい)。現役時代は、「路線」の異なる教職員組合に属していた退職者なのですが、「九条改憲」という重大事態にあたって、歴史的な共同行動に踏み出したのです。

アベ改憲の動きが、このようなまたとない貴重な卵を産み出したのですから、歴史の弁証法というのはおもしろいものです。

この動き、これからも度々報告させていただくつもりです。

政財総動員の反動攻勢のすさまじさは、名護市長選挙で見せつけられましたが、あきらめません、勝つまでは。

「勝つための方法はあきらめないこと」だそうですから。

今日は、午前中かかりつけ医へ血圧の薬をもらいに行ったあと、ちょっと足を伸ばして深山公園を歩いてみましたが余りの寒さに、いつもの二割か三割の距離で引き返しました。
何度かカワセミを写したことのあるこの枝の真下の水は凍っています。


珍鳥が出るという噂のある地点を、霜柱を鳴らしながら歩いてみますが、めざす鳥の影は見当たりません。
遠くの方をちょこちょこ歩いているのは?

小さいので、トリミングします。

ミヤマホオジロのようです。

そのそばにいたのは、アトリ。

もう一種、珍鳥が飛来しているとの情報があり、遭遇を期待したのですが、かなわず駐車場に向かう途中、ジョウビタキ♂が登場。



トリミングします。

♀も現れたのですが撮影できませんでした。
大きいレンズを付けたカメラマンさんが、何人もいらっしゃい、明いたが、そのうちのお一人が狙っておられる枝先を窺うと、、、。



すわ珍鳥か?と緊張しましたが、シロハラでした。

でもそれなりに満足して、今日はこれにて。

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ははん、なるほど、見えてきた、「選挙結果の怪」の謎、の巻 [時事]

記事の準備はしながらも、なかなか手がつきません。
名護市長選挙のショックでくじけている、、、わけではありません。
東京新聞「本音のコラム」、ネットで読みました。

「それでも名護市は交付金に頼らない行政を貫いて、全学校への冷房設置や校舎の耐震化、小中学生の医療費無料化まで実現させたのよ。(中略)
選挙中、自民党は交付金の再開を当然ちらつかせただろう。札束の力で自治体をねじ伏せ、住民を分断させる恫喝政治。これ、民主主義なんですか。」と。
そうだそうだ、もっともだ。
そればかりじゃありません。
地元紙「山陽新聞」に、こんな記事がありました。
ここに一部分を引用します。

 手土産
政権の切り札は公明党だった。 自主投票に回った14年の前回選は、移設反対派が容認派に約4千票差をつけて勝利。公明支持者には「移設反対が多い」(関係者) といい、取り込む必要があった。
動いたのは菅義偉官房長官。公明党支持母体の創価学会幹部にパイプを持っており、昨年12月に支援を要請した。「手土産」もあった。昨年10月の衆院選比例代表で、名護市の公明党票は約5800 票。前回選から2200票余り増やしたのは「自民党の協力の成果」というわけだ。
学会側は、昨年7月の東京都議選で自民党を支持せず大敗させた一因となったことを踏まえ、「しこり解消につながる」(公明党筋) として協力を決断。党本部主導で県本部推薦を出した。党内に慎重論もある意法改正論議を見据え、党関係者は「自民党への貸しになる」と漏らした。 学会からは原田稔会長をはじめ. 幹部が続々と沖縄入り。名護市民に働き掛ける電話作戦には全国規模で取り組んだ。「負ければ責任論に直結する」(学会関係者)との危機感から自民党の動きにも厳しく注文を付けた。
NGワード
辺野古移設(辺野古の「へ」の字も言わない)」。 渡具知氏陣営の運動員向け内部文書だ。「反対派の土俵に乗らないステルス作戦」(自民党県連)。 渡具知氏自身も、政権とのパイプを掲げて「市民生活向上」を繰り返した。(中略)
建設業や医師会 など業界関連の国会議員も現地入りし、水面下で「どぶ板選挙」を繰り広げ、引き締めを図つた。

はは~ん。そういうことだったのか。「自由民主党」が、「自由」と「民主主義」の対極物であることは、薄々知っておりましたが、「公明」党もその名を大いに汚しているようで、残念です。

 こうめい-せいだい【公明正大】の意味

出典:新明解四字熟語辞典(三省堂)

  • 私心をさしはさまず、公正に事を行うこと。また、そのさま。▽「公明」は公平で私心のないこと。不正や隠し立てがないこと。「正大」は態度や行動などが正しくて堂々としていること。

そう言えば、昔、私の子どもの頃「公明選挙」という言葉が広く使われていました。明るい選挙推進協会のHPに、こんな記事がありました。
明るい選挙推進協会

 2.公明選挙の起こり
戦後は、昭和27年に公明選挙運動として始められました。
当時は、昭和26年に行われた第2回統一地方選挙において選挙違反が横行し、6万人を超える検挙者を出したのに続き、翌27年に予定されていた衆議院議員総選挙に向けて激しい事前運動が盛んに行われ、国民の間で選挙をなんとかしなければという声がしだいに強くなっていました。この様な状況の中で、一大国民運動を展開し、正しくきれいな選挙をしようという呼びかけが前田多門などの有志によってなされました。また、朝日、毎日、読売の三紙が共同社告で公明選挙の推進を宣言しました。これら言論、実業、経済、婦人等各界の全面的な支持を受けて、同年6月、「公明選挙連盟」が結成されました。 また、衆議院は同年6月に「公明選挙推進に関する決議」を可決し、これを受けて政府も7月に「選挙の公明化運動に関する件」を閣議決定しました。全国の選挙管理委員会もこれに呼応し、このようにして官民あげての公明選挙運動が展開されるようになりました。
(中略)
4.公明選挙から明るい選挙へ
国民に慣れ親しまれてきた公明選挙運動という名称でしたが、公明党が誕生したことなどから、新しい名称を公募により決めることになりました。昭和40年、2週間弱の募集期間にもかかわらず、全国から7千通を超える応募があり、その中から「明るく正しい選挙」が選ばれ、以後は「明るく正しい選挙推進運動」と呼ばれることになりました。
その後、昭和49年に簡素化され、「明るい選挙推進運動」となりました。

子ども心に、「公明政治連盟」やら「公明党」やらの命名は、パクリの匂いがぷんぷんして、ヤナ感じがしたことを覚えています。
ところで、最近こんなニュースを知りました。もともと多くの人々に広く知られている名前や言葉を、横からしゃしゃり出て自分のものだと主張して利益を得ようとする姿勢は、とてもいただけません。利益追及第一の営利企業のみならず、「公益」のために、公平で私心なく働くべき政治団体・政党が、世間に定着している聞こえの良い言葉を、ちゃっかりわが名として掲げることは、どうなんでしょう?

 

「OKAYAMA」商標不許可に

山陽新聞2018年02月02日22時06分

 中国で複数の現地企業が岡山を示す商標を登録している問題で、岡山県は2日、香港の企業が登録出願した「OKAYAMA」に関して、中国商標局が県の異議を認めて不許可にしたと発表した。不許可基準の一つである公知の外国地名に該当するとの県側の主張が全面的に採用された。県の申し立てが認められたのは初めて。 
県によると、2016年9月に香港の企業が電子機器の商標として出願していることが分かり、同年11月に県商工会議所連合会などと連名で申し立てた。今回、岡山が公知の地名とされたことで今後、新たな登録が出願段階で不許可になることが期待できるという。
 県はほかにも、現地の企業や個人が岡山を示すローマ字と中国語で計9件の商標登録をしていることを確認している。このうち2件については、昨年3月に使用実績がないことを理由に取り消し請求したが、棄却されていた。
 県産業振興課は「今回は妥当な判断。岡山を示す別の商用登録についても無効を求めていく」としている。


長くて読みにくかった記事を、分割編集しました。以下次号に続きます。

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春立つ今日の風の痛さよ!の巻 [今日の暦]

今日は立春。

毎年のように、この歌を話題にしています。

 春立ちける日詠める・紀貫之
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ

春立つといえども今朝の霜白くふくらヒヨドリかがまりてあり(2017)


歯医者のち散歩、所により雨。風きわめて強し。(2015)


木蓮のつぼみ柔らに春立ちぬ(2014)


夏の日に、袖を濡らしてすくった泉の水が、冬の間冷たく凍っていたのを、立春の今日の風が溶かしていることだろうか?というのです。暦の上で春となった今日、幽かにその歩みが近寄ってきているはずだという、観念的・知的着想が、この歌の眼目ですが、いかに知の力を動員し、想像の翼をはためかせようと、いかんともしがたい今日の寒さでした。

節分の昨日は、少し寒さが緩み始めたかと期待しましたが、ぬか喜びで、またまた今朝は氷が貼り、日中も五度前後空上がりません。それより何より、吹く風の冷たさには閉口です。

少しだけ、自然環境体験公園を散歩してみました。

できるだけ軽くてコンパクトな鳥撮り機材は?と、考えあぐねて、いろいろ実験しますが、これと言った決定打がありません。

最近、OLYMPUS e-pl5の「デジタルテレコン」が、思いの外使い物になりそうだということに気づき、使用頻度が高まっています。今日は、パナソニック
LUMIX G VARIO 45-200mm/F4.0-5.6/MEGA O.I.S.を装着して歩きました。

本体が電池など込みで約325g、レンズが380 g。これで35mmフィルムカメラ換算で最大400mm相当、デジタルテレコンを使うと声が2倍になり、800mm相当の望遠撮影ができます。画質劣化が必定だと思って、長く利用しないできましたが、最近使ってみて、ほとんど劣化が気になりません。

今日も、梢にアトリの群れがいました。



池には、カルガモ?オカヨシガモ?カイツブリなどが泳いでいます。







ジョウビタキ♂かなり近寄ってくれました、



















シロハラ。







ここで電池が切れました。

期待以上の働きですが、残念な点を箇条書きにしておきます。

①電池は予備を持たないと失敗します。

②液晶を頼りに撮影するのは、明るい日なたでは至難です。

③液晶フードを持ってはいますが、軽量コンパクトに反します。

④外付けEVF(電子ビューファインダー)が、ほとんど必需品です。最初に使っていたVF2は、持ち運び中に脱落して紛失しました。悔しいけれど再購入(中古)して使っていましたが、これは異常な力が加わったか、物理的に破損してしまいました。安価なVF3を購入し、使っています。脱落防止装置がついているのは評価できますが、精細度が低いことに、やはり不満が残ります。

⑤やはり、光学ファインダーを用いての撮影に比べ、ピント合わせの失敗が目立ちます。

ところで、今日は、もう一台、機材を持って行っていました。

PENTAXQ10に、マウントアダプターを介して、BORG50アクロマートを付けてみました。レンズの明るさはf5、焦点距離は250mmだそうです。PENTAXQ10に装着すると、35mmフィルムカメラ換算で5.5倍相当になるようですから、1300mm相当の望遠効果が期待できると言います。

遠くのものを大きくとらえる点では、なかなか良い線行ってるようですが、マニュアルフォーカスによるピント合わせは、大変難しい。しかも、背部液晶のみで、ファインダーがありませんから、ピンぼけ量産。手ぶれ補正は効いているものの、この望遠倍率ですと、どうしてもぶれを覚悟しなくてはなりません。











近くに来てくれたおかげですが、トリミングなしでこの大きさに写ります。











イソシギかな?







なんと、カワセミもいました。ピントが合いません。







青い鳥には会えたのに、さっきのニュース速報では、名護市長選挙、自公維候補が僅差で勝ったそうな。

政治の冬もぶり返しですな。

でもね、選挙というのは、おのおのの候補者が、政策や政治姿勢、信念を堂々と語って、有権者の信を問うものでしょ?それなのに、自公維は、最大の争点である辺野古基地移設問題には一言も触れないことを基本戦術にして、「稲嶺市政で停滞・衰退」「経済振興」「中央(政府)との関係改善」、「子や孫の未来のため」など徹底的な争点隠し、争点そらしのあげく、札束で票を買い取るばらまき選挙を徹底したそうな。

日刊ゲンダイにこんな記事がありました.





それから、「辺野古の『へ』の字もいわない」などとする自民党「応援メモ」の存在を、「しんぶん赤旗」が告発しています。



こんな選挙、卑怯者を絵に描いたようなものでしょ!実際、アベ一族は、やることなすこと、徹頭徹尾小ずるくて汚いと思います。それに負けたことが、余計に悔しいですナ。



凍える寒さの中ですが、早春に「まず咲く」という「マンサク」が可愛い花を咲かせています。春は、近づいている、と信じたい。







今日はこれにて。

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今日は節分、の巻 [今日の暦]

今日は節分。

岡山市のHPに、こんな鬼が出没しておりました。



先日の記事↓でちらりと話題に登場した、郷里出身の棋士菅井竜也王位が、岡山市のPR動画に登場し、鬼と対局するというのです。

立春も近いと言うに、の巻(2)「雪の倉敷美観地区」最終回 




この動画は、日本将棋連盟のHPでも、下の記事で紹介されています。



更新:2018年01月23日 11:05

 菅井竜也王位が、2月公開の岡山市のPR動画に出演します。このPR動画は、岡山市が「桃太郎のまち岡山」をテーマにまちのイメージアップを目的として制作したもので、「桃太郎」の菅井王位は鬼との対局に挑みます。
動画は「心の声」篇(2月1日公開)、「勝負!」篇(2月5日公開)の2本となっており、岡山市公式Youtubeなどでご覧になることができます。
また、今回の動画の公開に合わせて、菅井王位直筆のオリジナル扇子などのプレゼント企画を2月5日から実施します。
詳しくは、岡山市ホームページをご覧ください。
●岡山市ホームページ 菅井王位出演PR動画の紹介

また、動画撮影の裏側をおさめたメイキングムービーを公開しています。

菅井竜也王位出演!「桃太郎のまち岡山」PR動画メイキングムービー

https://youtu.be/_6QE89ZTpb8



今日は、午前中、保育園の生活発表会を見学。園長先生が、あいさつで、園児たちの成長ぶりに触れて、「まだ生まれて3年にもならないのに、、」と感慨を漏らしておられました。まったくその通りと感じました。

夕方には1歳児もやってきて、女の子が3人そろって、思い思いに遊んで帰りました。

お絵かきで手が真っ黒です。















紙を丸めて豆を作って、段ボールでつくった鬼の的に当てて遊んだり、、、してました。

この鬼の面は、小1女子の作品です。。





小1女子は、面白がって巻き寿司を巻いています



恵方巻きは、切らずに食べるのだそうですが、海苔を喉につめるのも心配なので、一口サイズに輪切りにしますし、年少の二人にはさらに小さく刻んで食べさせます。というわけで、作法通りの豆まきも恵方巻きもしないまま、節分を終えました。明日は立春。気のせいだけでなく、今日は少しだけ寒さが緩んだようでした。

手袋も防寒帽もなしにぶらり散歩に出かけましたが、凍える感じはありません。

桜の小枝にアオジがいました。



ツグミも。















今日は小川の氷も溶けて、コガモがのんびり泳いでいます。



岸で寛ぐ様子も、のどかです。



今日はこれにて。

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皆既月食瞥見、の巻 [折々散歩]

昨夜の皆既月食。雲が多くて、観察を諦めていました。

でも、夕方の18:33には、空を見あげるとこんな明月が浮かんでおり、少々期待が持たれます。


雲に覆われたり、一時的に雲が晴れたりするうちに、21:17には、かなり欠けていました。


19:27。かなり食が進んでいます。


21;38。


21:48。雲が次第に広がって、もう諦めるしかないようです。


今日は朝から、雪交じりの雨で、一日中うっとうしい天気でしたが、夕方頃から少し晴れ間がのぞいてきました。いま、21時過ぎですが、空にはこんな月が浮かんでいました。



今日はこれにて。


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立春も近いと言うに、の巻(2)「雪の倉敷美観地区」最終回 [今日の暦]




読みにくかった昨日の記事を分割し、少々編集しなおしました。

さて、「雪の倉敷美観地区」シリーズ、最終回です。
この日、いつも利用する駐車場が満車で、何台も車の行列ができている状態でしたので、それを避けて道路端に一時停車して妻をおろし、周辺をひと周りした末に、「倉敷芸文館」の駐車場に駐めて、美観地区を歩いたのでした。
その一角に、「大山名人記念館」があります。

私には将棋の趣味がなく、小学生の頃に、子ども同士の縁台将棋を遊んだ程度でした。青年教師だった頃、近くのアパートに住んでいた年下の同僚Sさんと、夜な夜な懇親を深めていた中で、彼と何度か将棋を指したことがありました。彼は、大学時代も将棋部だったとかで、飛車落ち、飛車角落ち、さらには桂馬や香車を落としても、まったく歯が立ちませんでした。力の差が歴然と現れる世界だと知りました。
ちなみに、その頃Sさんは、NHKのど自慢に出場し、内藤国雄の「おゆき」を熱唱して、合格の鐘を連打させたのでした。その美声は、我が家でも何度も聞かせてくれたことでした。現職教員の時代も、長く将棋部を指導したほか、町の将棋教室でも指導、退職後も、農業後継者としての本格的な農作業のかたわら、教科の非常勤講師と、将棋部の指導に励んでいるとか、、。
ずぶの素人の私が話題にするのも差し出がましいですが、このブログで内藤国雄さんのエッセイが紹介してありましたので、孫引きさせていただきます。将棋ペンクラブログ

 将棋世界1993年8月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「棋士と寿命と大山さん」より。
深夜まで戦って敗れた日は、帰るときに履く靴がぐさぐさで、自分の靴ではないように感じられることがある。靴の中まで冷えきるような寒い夜は、とくにやりきれなく思ったものである。
 対局消耗のせいだろうが、そればかりでもないようだ。同じ時間戦っても勝ったときはそう感じないのである。
 人間は死んだ瞬間にいくらか体重が軽くなるもので、それは去っていった魂の重みだという人がいる。もしそうだとすれば負けたときは魂をする減らしているのかもしれない。
 将棋というものは優勢でも最後の最後まで息を抜かない。悪い将棋も親指一本で残して打っちゃってやる―こういう気持ちをなくすと黒星ばかりが並ぶことになる。勝負にあっさりし出したら勝率は確実に下る。勝つためには精魂を傾けなければならないのである。
 強靭な大山さんでさえそのために生命を早めたという気がする。最期の順位戦は初めから本気であった。勿論、本気でない年などなかったろうが、特に燃えていたのではないか。
(中略 )
最後に、誰にも言っていない大山さんの思い出を一つ。ある棋戦の打ち上げの席でのことである。部屋に早く入りすぎて一人ぽつねんと座っていた私。その私のところへ大山さんがのこのこやってきて横に座った。それだけでも意外なことなのに、さらに意外なことを言われた。
「お金というものは女房と税務署に知れると、もうお金じゃないよね内藤さん」
 なにか身近な人には言えない事情があったのかもしれない……と考えたのは後のこと。このとき私は突然思いもかけない妙手を放たれた感じでとっさに応手が分からず、目をぱちくりするばかりであった。
 人間大山を感じさせた一瞬であったが、イメージが合わないせいか心の片隅に追いやられて思い出すこともなかった。

さりげない本音の吐露か、はたまた、盤外戦を得意としたという大山さんの、何か魂胆があっての発言か、なかなか興味深いエピソードです。
大山記念館のほど近くに、このような碑が建てられています。



門外漢のこと故、この木見金治郎という方について、まったく知りませんでしたが、大山さんの師匠であられたらしい。
小学館の雑誌サライ公式ページこんな記事を見つけました。


【今日のことば】
「棒ほど望めば、針ほど叶う」
--木見金治郎
将棋棋士の木見金治郎が、自身の門弟たちに向かって言い聞かせていたことばである。夢や志は大きく持って、それに向かって努力すべし。最初から小さな志しか持てないようなら、なにごとも成就することはできない。そういう意味だろう。
木見は明治10年(1877)岡山生まれ。当時、最高位の八段を有する関西棋界の実力者であったが、それ以上に、門下から升田幸三や大山康晴をはじめとする優れた棋士を輩出したことで知られる。
木見の指導方針は放任主義。升田幸三が自著にこう綴っている。 「先生と弟子というと、先生が手を取って教えてくれると思われがちですが、プロの修業というのは、そんなもんじゃありません。中にはそうする先生もあるけれど、ほんの例外でね。とくに木見先生の方針は、『自分で強くなれ』と、これに徹底しておった」(『名人に香車を引いた男』) 弟子にして手元に置き、勉強の場をつくってやる。先生の役目はそこまでであり、あとは自分で工夫、努力して強くなれ、というわけ。升田も大山も、内弟子としての雑用の合間に、自身で勉強し、先輩に鍛えてもらい腕を上げていったのである。
ここで見逃してならないのは、木見金治郎夫人ふさの存在だろう。
升田幸三14歳、大山康晴12歳。そんな年齢で内弟子になった子供らを相手に、ふさは棋士として強くなること以上に「人間」として一人前になるよう、気配りしていたように思える。
たとえば、こんな逸話がある。
雑用ばかりで将棋の勉強ができない--そんな不平不満で生活態度が定まらず、買いにいった豆腐をぶちまけてしまった升田少年に向かって、ふさはこう一喝した。 「使いっ走りも満足にできんどって、なにが将棋や」
升田はこれで目が醒めて、何をするにも目の前のことひとつひとつに集中心を持って取り組むようになった。時間を有効に使えるようになり、棋力を延ばすきっかけも掴んだという。
また、大山少年に対しては、
「将棋なんか、いくら強くなったって、思いやりのない人間になったら、ゼッタイに承知しませんよ」 と、繰り返し言い聞かせたという。

大山は棋界の頂点に立っても、このことばを忘れなかった。晩年の著書『勝つ!不動心』の中でも、このことばを紹介し、以下のようにつづけている。
「それ以来、『思いやり』だけはしっかり胸に抱きしめておこうと、五十余年のプロ棋士生活をすごしてきた。(略)人間の集団に思いやりが消えてしまったら、けだものと大したちがいのない動物の群れ、というべきだろう」


立春も近いと言うに蝋梅に雪降り積める倉敷の街







昨日書いていた記事はここまでですが、以下少しだけ付け加えます。

先日の記事で、「しんぶん赤旗」の紙面に言及したついでに、今朝の紙面について話題にさせていただきます。

絶対主義天皇制下の野蛮な弾圧にさらされながら、命がけで発行・配布・購読された「赤旗(せっき)」が発刊されてから、今日で、90周年を迎えるそうです。


ご参考までに日本共産党のHP中の関連記事に、リンクを貼っておきます。

紙面にみる「赤旗」の90年(真実伝え 共同を追求/不屈のジャーナリズム精神ここに(1月31日))


戦後「アカハタ=AKAHATA」(1946年)、「アカハタ」(1947年)、「赤旗(あかはた)」(1966年)を経て、今日の「しんぶん赤旗」(1997年)にいたる歴史のうち、私自身も、40年余りを、読者としておつきあいさせていただいています。(子ども時代の幽かな記憶の中に、鉱山労働者であった大叔父が、カタカナ書きの「アカハタ」で、何か農作物を包んでくれたことがあったように思います。当時、大叔父がこの新聞を定期購読していたのかどうかはわかりませんが、職場や地域のつながりから、手近にあった新聞紙だったのでしょうか?)。

いま、「しんぶん赤旗」では、連日のように各界の人々からお祝いや連帯のコメントが寄せられています。

「「赤旗」創刊90周年 真実と希望を届け国民と歩む」と題した今朝の「赤旗 主張」には、「大手メディアが死に体にある中、真実に迫ろうとする紙面で、多くの人が接することができるものは『赤旗』しかない」(元外務省局長の孫崎享さん)「政党の一機関紙が、社会や政治、世界を伝えるメディアとして、これほど貴重になるとは」(同志社大学大学院教授の岡野八代さん)「いつまでも、一人一人の人間の苦しみ、悲しみに寄り添ってくれる新聞であることを」(作家の赤川次郎さん)等のコメントが紹介されています。

今朝の1面に、「三毛猫ホームズ」でおなじみの前述の作家赤川次郎さんと、故林家三平さんのおかみさんでエッセイストの海老名香葉子さんのコメントが掲載されています。そして、つづけて、第3面にも、ページ全面を割いて、9人の方々が心のこもった言葉を寄せておられます。(これまで軽された方々のものも含めて)すべてを取り上げてご紹介したいところですが、今日はその中のお二方だけをピックアップしてみることにします。

日本将棋連盟理事・九段井上慶太さん「新人王戦決勝 今でも鮮明」、艦載機院理事・八段坂井秀至さん「新人王戦に育てられた」と、それぞれに、「しんぶん赤旗」が主催して毎年催されている囲碁、及び将棋の「新人王戦」に言及しておられます。井上さんは「私の師匠の若松政和七段、私の弟子の菅井達也王位も新人王戦で優勝を果たしています。いわば3世代で同じ棋戦を優勝していることは珍しい記録かと思います」と書いておられます。

ちなみに、ここに登場する菅井達也王位は、地元岡山市の出身で、奇しき縁に、親しみを覚えます。

ところで、ウィキペディアによると、将棋の「新人王戦」とは、かくのごとし。


新人王戦(しんじんおうせん)は、日本共産党の機関紙であるしんぶん赤旗主催の将棋棋戦日本将棋連盟公式戦)。26歳・六段以下(タイトル戦経験者は除く)の棋士などが参加する優勝棋戦(非タイトル戦の公式棋戦)である。決勝は三番勝負で、例年10月から11月にかけて行われる。優勝者(新人王)はタイトル保持者と記念対局を行う。新人王が後にタイトルホルダーやA級棋士などの強豪になったケースは多く、若手の登龍門であるとされている。

日本将棋連盟のHPの「新人王戦」の案内記事、次のリンクも紹介されています。

しんぶん赤旗新人王戦サイト

自死の報道による衝撃さめやらぬ西部さんが、晩年、「保守」を標榜しながらトラディショナル(伝統的)なものを捨て去り破壊しているアベ政権に深い幻滅を覚えておられたらしいことは先日書きました。一方、革新の極に位置するとみなされる共産党が、囲碁・将棋に象徴されるような伝統文化を守り育てる立場を具体的に実践していることは、特筆すべきことと思われます。

この記事ここまで。

 

 

 




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