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故旧も歩けば至玉の出逢い、の巻 [折々散歩]

「至玉の出逢いが待ち受けていたのです。」と思わせぶりに書いた、昨日の記事の続きです。

この日集ったわが故旧のお一人に、サブローさんがおられます。当ブログにも再三、素顔で登場して頂いております。たとえばこの記事。(ここでは『三郎さん』と表記していましたが)

故旧あい集いし森の青胡桃(2014-06-11)

岡山県美作市右手(うて)という地区は、木地師の里として知られています。

私の学生時代の先輩である「三郎さん」は、関西在住でしたが、退職後、奥様の実家のあるこの地区に移り住んで「木工みや工房」をひらき、木工工芸品の制作に励んでおられます。

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上は、「木工みや工房」にて作業中の三郎さん近影

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上は、工房で制作中の作品

過去のブログで紹介したとおり、大学時代の先輩・後輩の間柄で、大阪、西宮、岡山県北、岡山県南など、あちこちに生活の基盤を持つ同郷のメンバーが、故郷の自然探訪を楽しむ企画を、最近何回か催しました。

このサブローさんが、現地集合となっていた『まきばの館』に、予定より早く到着されたので、周辺で時間つぶしをしておられる時に、たまたま見つけた案内表示を頼りに、ここを訪問されたのだそうです。

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Arts&Crafts village という工房で、喫茶を利用することもできるのだそうです。短時間の間に、いろいろと話が弾み、同じく関西出身でもあり、共通の知人の話題で盛り上がったそうです。

「まきばの館」のレストランで、ゆっくりおしゃべりをしながら昼食を摂り、さて、そのあとの行動予定は?との相談になりました。結局、せっかくなので、そのArts&Crafts village でお茶を飲みながらおしゃべりの続きをしようと決まりました。まったく行き当たりばったり、風の向くまま気の向くままの、愉しい旅です。

およそ7分ほどのくねくね道を走ると、こんな建物の前でサブローさんの車が止まりました。非常に古びた廃校の校舎のようです。

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どうやら小学校らしい。昔懐かしい木造校舎です。板の廊下を案内されて、喫茶コーナーへ向かいます。

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アンチーク風のオシャレな空気がただようカフェは、理科室を改造したものだそうです。

窓際に設置されたロケットストーブベンチが、存在感を放ちながら、部屋の風景に溶け込んでいます。HPに掲載のお写真をお借りします。

後で調べてみると、HPには、こんな紹介が書かれています。

アーツ&クラフツビレッジは岡山県北で 山間部の廃校になった小学校を再利用し 木工や染織など、手仕事の工房として 活用しています。
自然に恵まれた環境を生かし、循環可能 な暮らし方を学ぶ田舎の学校(ルーラル スクール)も開催しています。

HPは、リンクフリー(ただしトップページへ)とありましたので、お言葉に甘えてリンクを貼らせて戴きます。Arts&Crafts village

カフェでは、女主人らしき日本人の女性と、西洋人の若い女性ふたりが、もてなしてくださいました。聞けば、西洋人女性は、一人はオランダ、一人は北欧からの滞在者で、ここでステイしながら染織を体験し、またカフェをも手伝っておられるそうです。宿泊費の節約にもなって、あたらしい旅行の形態として広がりつつあるのだそうです。

この地は、合併して美咲町となる前は、久米郡旭町だったそうで、旭町立第2小学校が廃校となったあと、今から27年前、それを工房として借り受けて、奥さん(原田豊美さん)が染織、夫君が木工・家具製作にとりくんで来られたそうです。

HPの『私たちのこと』というページに、その辺のいきさつが紹介されています。

アーツ&クラフツビレッジ

アーツ&クラフツビレッジは1992年に廃校になった旭町立第2小学校を引き継ぎました 体育館は家具工房に、教室は染織工房に、理科室はカフェとギャラリーに校長室はゲストルームにと、木造2階建ての古い校舎が、 今ではすっかり生まれかわっています。

イギリスで見たアーツ&クラフツ

ダーティントン

Dartington Hall, England.

田舎暮らしとものづくりに憧れ、家族で大阪から岡山に移住したのは1986年。山の中にハンドメイドハウスをたてて住み始めました。そして5年後の1991年から1年間を暮らしたイギリスでアーツ&クラフツ運動と出会ったのです。

イギリスでの主な滞在先は南西部デヴォン州。私たちが住んでいたダーティントンという村は、タゴールに感化された大富豪夫妻が1920年代から芸術と工芸を軸に村おこしをしたところです。中世の貴族の館を中心に、芸術大学、環境研究所、アートセンター、クラフトショップなどが緑の中に点在する素晴らしい村でした。

アーティストや工芸家たちが協力してギルドをつくり、自前のギャラリーやショップをもつなど、積極的に活動しており、生活の中に音楽やアート、クラフトが溶け込んでいました。

運命的な校舎との出会い

その思いを形にしたのがアーツ&クラフツビレッジですこの校舎に出会ったのは、イギリスから帰国して広い仕事場を探していた時。 「廃校になる小学校があって、貸してくれそうだ」というので、夜すぐ見にいきました。

どこまでも続く山道に、「本当にこの先に小学校なんてあるのかなぁ」と不安になったころ、突然、校庭の分だけぽっかりと真黒な山に穴があいたようにきれいな星空が見え、桜の木が一本、満開に咲き誇っていました。耳にはザーザーという川の音。運命的といってもいいような印象的な出会いでした。

何キロにもわたる桜並木と豊かな水をたたえた旭川。わらぶき屋根の残る静かな山里は、創作活動には素晴らしい環境です。近年、住民の多くが出ていき、過疎となったこの村に、逆にイギリスで見たような、自然と溶け合った美しい暮らしへの可能性を感じます。

コーヒー一杯で、ゆっくり寛いで歓談した後、工房となっているいくつかの部屋(教室跡)を見学させて戴きました、

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余計な付け足しですが、Arts&Crafts village さんのHPからリンクをたどって、フェイスブックの記事のこんな記述を発見しました。2016年5月の記事です

岡山モノづくり展へ アーツ&クラフツビレッジ出展

久々に岡山市内で家具、染織の展示会です。
岡山タカシマヤさん 8F催会場
『岡山モノづくり展 』に参加します。
烏城紬、作州絣、横野和紙、倉敷いぐさ、など、岡山の伝統工芸と新しい作家の作品も紹介されます。会場で製作実演、ワークショップも開催されます。
アーツ&クラフツビレッジのコーナー
家具 テーブル、椅子、ドレッサー、木の小物
染織 桜染めの麻ショール、藍染めショール、Tシャツなど
家具は 長尾泰典が椅子のペーパーコード編みの実演を予定。(随時開催 見学可)
染織はスピンドルによる糸紡ぎワークショップを毎日開催

ふと目がとまったのは記事中の「烏城紬」の文字。

古い記事を引用します。

烏城にまつわるエトセトラ(2013-11-23)

妻は、別の公民館の講座で、「烏城紬(うじょうつむぎ)」という織物と、和裁とを習っています。(DIYです)

自分で織って仕立てた和服を着て居るところを、写真に写して年賀状にしたいというので、カメラマンも命じられました。
「烏城紬」についてはこちら(その1 その2 その3 その4)をご参照下さい。

以前の記事にも書いたように、岡山城のことを、その漆黒の外観からカラスに見立てて「烏城」と呼びます。(参照記事その1 その2 その3

「烏城紬」はそれにちなんで名づけられた伝統工芸品です。


折角なので、烏城をバックに撮影してみました。
「烏城紬」の宣伝をしたいと、妻が言いますので、後ろ姿をお見せします。織りも素人、仕立ても素人、着付けも素人、カメラも素人ですが、バックの烏城だけは本物です。

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この烏城紬を伝承しておられる須本雅子さんが、上述の岡山タカシマヤでの『岡山モノづくり展 』に出展されるとき、妻も当番で「店番」を担当したことがありました。その際、私もアッシーとして展示を瞥見したことがありましたが、同じ会場にArts&Crafts villageさんも出展なさっていたはずだと思うと、奇しき縁に感慨を禁じ得ません。

聞けば、原田さんは、私たち一行より少しお若いご様子ですがほぼ同世代。ニワトリを飼い、野菜を育て、自然とともに暮らしておられる暮らしぶりのせいか、はたまた、ヨガをなさるという賜物か、身のこなしも軽やかで、心のありようも軽快かつ聡明。雪に閉ざされ、凍える冬を初め、文明や便利さとは隔絶された、辺鄙な田舎暮らしを30年近くも楽しんでおられるご様子は、俗世離れした仙女かはたまたフェアリー(妖精)かという、魅力的な女性でした。

帰り際、お話をうかがうと、社会運動・労働運動方面に携わるご友人もおられる由で、学生時代のお話も含めて、共通の話題で盛り上がりり、日常では滅多に経験できない心の通い合いを味わうことができました。事前の下調べも、予期も予定も予約もなしの、成り行き任せの気まま旅で、このような邂逅に巡り会おうとは、全くもって不思議なことでした。

折しも今日は七夕。それにちなんで、と言うわけでもありませんが、織女の話題をお送りしました。

ところで、短冊には何と書きましょう?

「世界中の人びとが、幸せに、安心して生きられますように!」
「そのためにも、憲法くんが、いつまでも元気で働き続けてくれますように!そのためにも、参院選挙で改憲勢力の議席が一つでも減りますように!そのためにも、諦めずに投票に行こうと考える若者が、ひとりでも増えますように!」
「2000万円貯めるより、1票の行使!」


追伸、ここ数日、パソコンにかじりついて、慣れない操作を続けています。ホームページ更新のお手伝いをしているのですが、仕組みも約束事もしらないまま、「css(カスケーディング・スタイル・シート)」なるものを使おうと、苦労しています。視力も気力も、すっかり弱っています。やっとある程度の形になったと思うのですが、どうでしょうか?↓

子育て教育なんでも相談ネットワーク(ホームページ)

今日はこれにて。


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故旧集へばの巻 [折々散歩]

郷里の近くに久米郡美咲町というところがあります。そこにある「まきばの館」を訪ねようと、恒例の故旧の集いが、5日(金)計画されました。意外に遠く、7時に家を出て10時前に到着。

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険しい山道を、たっぷり走った実感が残ります。

道沿いの山の緑が目を楽しませてくれますが、その中で、白と緑の斑の葉が特徴的な高木が、あちらにもこちらにも、見えます。

私の車に同乗のヨシエさんが、「あれは半夏生かなあ、それとも高木だから、え~と、ネコマタギじゃなくて、、、」と話題を提供してくださいます。

確かに、雑節にいう半夏生は、今年は7月2日頃から6日頃までのようです。探してみると、以前、こんな記事を書いていました。

五番煎じの半夏生、の巻(2017-07-02)

当ブログ「ナードサークの四季」は、2013年の夏に書き始めました。「退職記念」と銘打ちましたが、もっと直接的には、「肺癌手術記念」とも言えます。七月に入院手術した頃の日録や退院直後の日録を綴り始めたのが出発でした。
そうこうするうちに、もうすぐ4年目を迎えようとしており、「5年生存率九〇%」といわれた、その5年目を生きて迎えることも、まんざら夢ではなさそうです。
それにしても、時々過去記事を見ていると、二番煎じ三番煎じが重なり、ネタ切れ状態を痛感するところです。

(中略)

さて、今日のラジオで半夏生の話題が流れていましたので、今日の記事はこれを題材にしようと思ったのですが、確かめてみると、過去にこんなに何度も書いていました(汗)。
たとえば去年の記事。
稲苗に朝露繁き半夏生

(中略)
去年の「半夏生」の日にはこの記事を書きました。
せせらぎのかそけき音や半夏生
今日も危うく、同じ題材で終わりそうでした。

一昨年の七月二日に書いたのがこれ。せせらぎのかそけき音や半夏生

今朝の地元紙=「山陽新聞」のコラム「滴一滴」に、しばし考えさせられました。
指揮者小澤征爾さんが、24歳で国際指揮者コンクールで優勝した時の、わざと間違って演奏された楽器の音をすべて聞き分け、正したという予選でのエピソードが紹介され、「安倍さんには国民の声がどれだけ耳に届いただろう」と問いかけています。
そして、5月1日付の文化面での内橋克人さんの言葉を引用しています。
「戦争はある日ここからといって始まるのではない。いつしらず、せせらぎの流れのように始まる。」
そしてコラムは、こう結びます。

最初はせせらぎのようにかすかな軍靴の響きも、やがて勢いを増す恐れがある。意に沿わない叫びに“耳”を貸さない為政者では、国は危うい。

本当に、何度も耳にたこができるほど聞き、口が酸っぱくなるほど繰り返し行ってきたこの懸念が、いまほどリアリティを増したときはないかも知れません。

聞き飽きて、またか、まさか、と多くの人が受け流してしまいかねない、今のご時世。まだまだ、内閣支持率の下降が緩やかなうちに、「多数議席」を活用してやれることはやってしまおうという算段でしょうが、それだけにますます、せせらぎの音に耳を澄まさねばなりますまい。

なんと、いつもいつも同じ繰り言を重ねるブログだわいと、われながら「感心」しますが、しかし、事態が少しも良くなっていない以上、今後も繰り返すしかないでしょうね。
「半夏生」については、この記事でふれましたので再掲してしておきます。
半夏生ですか?それとも別の方?

スーパーの魚コーナーにパートに出ている妻が、「半」に「夏」に「生」と書いてどう読む?尋ねるので、うろ覚えで「ハンゲショウ」と答えました。

「たこ」に関係ある?と聞くので「知らない」と答えたものの、気になるので、ネット検索してみました。

「デジタル大辞泉」にはこうあります。

1 雑節の一。太陽が黄経100度にある日で、夏至から11日目。7月2日ごろにあたる。このころから梅雨が明け、田にカラスビシャク(半夏)が生えるのを目安に田植えの終期とされてきた。半夏(はんげ)。《季 夏》「いつまでも明るき野山―/時彦」
2 ドクダミ科の多年草。水辺に生え、高さ約80センチ。全体に臭気がある。葉は長卵形で互生。6、7月ごろ、上部の葉が数枚白くなり、これと向かい合って花
穂を出し、白い小花が咲く。名は1のころ咲くからとも、葉の下半分が白いので半化粧の意ともいわれる。かたしろぐさ。

農家では、この日までに田植えを終わらせる節目の日とされ、地方によっていろいろな伝承があるようです。

この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたこともあったそうです。三重県では、ハンゲという妖怪が徘徊るとされ、この時期の農作業を戒めたようです。

玄米の餅を作り食べる(奈良、大阪)、蛸を食べる(関西)、焼き鯖を食べる(福井)、うどんを食べる(香川)などの習慣があったそうです。これをもとに、7月2日は、「たこの日」、「うどんの日」「「半夏生サバの日」などに認定され、商戦のネタにされているようです。

「2ドクダミ科の多年草」とある『ハンゲショウ(かたしろぐさ)」の写真は、この記事にも載せました。
七夕雑話

草本であるハンゲショウに対して、目の前の山を彩っているものは、明らかに樹木です。どうやら、マタタビのようです。群生とも言えるほどの、山一面の繁茂ぶりです。それからひとしきり、マタタビの話題に花が咲きました。

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2005年(平成17年)日に久米郡中央町、旭町、柵原町の3町が合併して誕生した町で、ウィキペディアは「吉備高原に位置し町域の大半は丘陵地帯と山林である。町内には県内三大河川のうち、旭川吉井川の2つの川が流れる。」と紹介しています。

「まきばの館」の、公式HPには、こう解説してありました。

岡山県の中山間部に位置し、岡山県農林水産総合センター畜産研究所が広く県民皆様に畜産に対する親しみや理解を深めてもらい、
憩いの場所にしてもらうことを目的にセンターの一画に、平成3年4月に開園した県民ふれあい施設が「まきばの館」。
山間を抜けた先に開ける景色はドラマティック!!

ちょうどラベンダーの季節でした。

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いろいろな種類のラベンダーが栽培されているようです。

品種名が表示されていて、興味がそそられます。

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北海道富良野のラベンダー畑のような、見渡す限り紫の波--を期待するのは無理というものですが、かなりの規模です。さすがに、濃密な香りが辺りに広がります。いろいろな蝶や蜂など、虫たちが宅差名詰まっています。

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ラベンダーだけではなく、各種のハーブも栽培されていて、香りの強い花が咲いていますから、昆虫たちにとっては楽園でしょう。

ツマグロヒョウモン♀は見分けられますが、、

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全部ツマグロヒョウモンの♂に見えてしまいます。

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下のこの蝶はなんでしょう?

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ナツツバキも盛りです。

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花を楽しみ、虫を楽しみ、食事を楽しみ、十分満足ですが、近くに棚田が見られるとの情報もあり、心がかなり引かれます。

が、それにまさる至玉の出逢いが待ち受けていたのです。

と思わせぶりに書いて、続きは次回と致します。


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憲法条文を読む(その4)、の巻 [折々散歩]

今朝の空、ちょっと曇り気味ですが、水をたっぷり湛えた水田を、朝日が照らしています。


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正面は常山。児島富士とも呼ばれますから、さしずめこれは逆さ富士。


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天使の階段も表れました。


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田植えが進んでいます。


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涼しい内にと思って、少しだけ畑仕事をしましたが、軽い作業でも汗が噴き出ます。


畑を鍬で耕していますと、キュイという短い、慌てた声と共に、何かがピョンと跳びました。


急いでカメラを準備します。


じっとしているので、間に合いました。


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トリミングします。


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「無礼者め。その方、何故あっての狼藉じゃ。勘弁できぬ.それへなおれ。」などと言っていました。令和になって初めての、お殿様のお出ましでした。


憲法前文の学習の続きは、第三段落を読みます。


学習会レジュメからの引用です。


◎第三段落 …  国家・国民の責務の自覚
☆  われらは、 いづれの国家も、 自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、 この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、 他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
★他国を無視してはならない  …   「一国平和主義」 の立場ではない

★政治道徳の法則は普遍的なもの
⇒  この法則に従うことは各国の責務
自国の主権を維持
他国と対等関係に


続けて第四段落。


憲法レジメ4


引用します。


◎第四段落  …  国民の誓い
☆  日本国民は、 国家の名誉にかけ、 全力をあげてこの崇高な理想と 目的を達成することを誓ふ。
★日本国民の明確な誓い


折しも「沖縄慰霊の日」の昨日、戦没者追悼式で、糸満市立兼城小6年の山内玲奈さんが朗読した「平和の詩」が、胸を打ちました。


本当の幸せ
糸満市立兼城小学校6年 山内玲奈

青くきれいな海
この海は
どんな景色を見たのだろうか
爆弾が何発も打ち込まれ
ほのおで包まれた町
そんな沖縄を見たのではないだろうか

緑あふれる大地
この大地は
どんな声を聞いたのだろうか
けたたましい爆音
泣き叫ぶ幼子
兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
そんな沖縄を聞いたのだろうか

青く澄みわたる空
この空は
どんなことを思ったのだろうか
緑が消え町が消え希望の光を失った島
体が震え心も震えた
いくつもの尊い命が奪われたことを知り
そんな沖縄に涙したのだろうか

平成時代
私はこの世に生まれた
青くきれいな海
緑あふれる大地
青く澄みわたる空しか知らない私
海や大地や空が七十四年前
何を見て
何を聞き
何を思ったのか
知らない世代が増えている
体験したことはなくとも
戦争の悲さんさを
決して繰り返してはいけないことを
伝え継いでいくことは
今に生きる私たちの使命だ
二度と悲しい涙を流さないために
この島がこの国がこの世界が
幸せであるように

お金持ちになることや
有名になることが
幸せではない
家族と友達と笑い合える毎日こそが
本当の幸せだ
未来に夢を持つことこそが
最高の幸せだ

「命どぅ宝」
生きているから笑い合える
生きているから未来がある

令和時代
明日への希望を願う新しい時代が始まった
この幸せをいつまでも


少女のこの思いは、いにしえの少年少女であったオジイオバアの誓いでもあります。


戦争の悲さんさを
決して繰り返してはいけないことを
伝え継いでいくことは
今に生きる私たちの使命だ
二度と悲しい涙を流さないために
この島がこの国がこの世界が
幸せであるように

  

それとは対照的に、同じ追悼式での、安倍首相の挨拶がいかに心のこもらないものであったかを、毎日新聞はこう伝えています。


  


追悼式で「基地負担の軽減に全力を尽くす」と強調した安倍晋三首相に、会場の参列者からは「うそだ」「言葉は要らない」と厳しい抗議の声が上がった。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の県内移設で名護市辺野古沿岸部の埋め立てを進める政府に対し、県民の強い反発が噴き出した形だ。
沖縄戦の追悼式で安倍首相のあいさつに対して怒号が飛ぶのは、移設反対の圧倒的な民意を受けて誕生した翁長雄志(おながたけし)知事(昨年8月に死去)が就任後初めての平和宣言で移設中止を求めた2015年から続いている。

安倍首相の参列は13年から7年連続となるが、今年も辺野古移設には触れなかった。追悼式に出席した県議は「首相のあいさつは毎年ほぼ同じ。本来は厳粛に過ごしたいが、声を上げざるをえないという沖縄の状況がある」と語る。


「日本国民は、 国家の名誉にかけ、 全力をあげてこの崇高な理想と 目的を達成することを誓ふ。


憲法に込められたこの国民的誓いを、率先して担うべき政府の最高責任者が、それを投げ捨ててはばからない今、「変えるべきは憲法、ではなく、換えるべきは政権」という命題が、ますます緊急性を帯びているように感じます。


結論を急ぎすぎましたが、今日はこれにて。


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ん?健忘斎?の巻 [折々散歩]

先日岡山市内をあるいていましたら、岡山城の近くにこんな大きな石碑がそびえていました。


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「健忘斎中川横太郎君之碑」と刻んであります。


浅学にしてこの人物に思いあたりません。


岡山県立図書館作成の「岡山人物往来」には、こう解説されていました。


中川 横太郎

(1836~1903)

明治期の社会事業家。
岡山藩士中川亀之進の子として生まれる。
1871年(明治4)廃藩置県とともに岡山県の学務兼衛生主任となり、県内小学校の新設、医学校(現岡山大学医学部)、閑谷学校の再興、薬学校(のち関西中学・現関西高校)、山陽女学校(現山陽学園)の設立・発展に尽力した。
また、士族授産のため、実弟杉山岩三郎と岡山紡績を設立、児島湾開墾を計画するなど、殖産興業の面でも文明開化期の岡山を指導した。
顕彰碑が岡山城南の堀端にある。

【参考資料(岡山県立図書館所蔵)】

    「岡山の奇人変人」(蓬郷巌著、日本文教出版、昭52)
    「中川健忘斎逸話集」(久米龍川著、岡山県人社、昭12)


ウィキペディアにはこんなことも紹介されています。


幼名は金次。号は健忘斎。二十二銀行設立発起人の一人であり中国鉄道初代社長を務めた杉山岩三郎は実弟にあたる。

(中略)

隣家である森下家の子であった森下立太郎とは幼少時から意見や考えが合うことがなく、事あるごとに論を戦わせ時に手が出るケンカにまで発展するなどして、反感を持っていた。このことから、元服の折に自らの名を「立(縦)」に対して「横」に生きると称し「横太郎」とした。

(中略)

奇行の人物としても知られており、洋装のポケットにはいつも懐中時計と菓子があって、人前でも平気で菓子を食べていたという。また、榎本武揚や伊藤博文からの手紙を受け取った時にも、先方からの手紙の意味がわからないから、先方にとってもわからない手紙を返すとして、記号のみの返事を送ったとされる。また「健忘斎」の号は「どんなに苦労して功を立てても、その苦労も功も自分自身は忘れなくてはいけない。決して自らそれを誇ることはしない(それをするのは無様な愚行である)」という自身の目指す生き様を記したものであったという。


興味引かれる郷土の偉人です。


ついでながら、その碑の傍らに建つこちらも、日頃見過ごしておりました。


「山羽虎夫翁」の銅像だそうです。


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この方も存じ上げませんでした。日本で最初の自動車(山羽式蒸気自動車)の発明者だそうです。


「岡山シテイミュージアム」HPのこの記事この記事に解説がありました。


歩いていると、いろいろ知らないものに出会います。出会ってもすぐに忘れてしまいます。「健忘斎」の高い志に及びもつきませんが、あるレベルの「健忘症」の症状は自覚せざるを得ません。忘れきってしまわないうちに、備忘メモを残したいのがこのブログの執筆動機の一つでした。


というわけで、ここ何日かの備忘録です。


8日(土)


郷里の草刈り。


9日(日)


こんな場所へ、出かけてきました。


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主催者によると、1500人の聴衆。大勢の人垣で、前が見えないほどでした。


ユーチューブの画像をお借りします。


okayamast  
冒頭、司会の大平喜信前衆院議員が、参院岡山選挙区について、前日の8日、岡山でも13項目の共通政策で合意し、原田ケンスケさん(立憲民主)を市民と野党の統一候補としてたたかうことを確認した旨報告。市民団体「おかやまいっぽん」の吉岡康祐共同代表を筆頭に、立憲民主党、国民民主党、日本共産党、社会民主党の各代表が次々と訴えた後、原田ケンスケ統一候補が「若者の政治離れと言うが、真相政治の若者離れ。新しい政治、つまり国民のための政治という本来の姿を、市民と野党の共闘で、実現しよう」とアピールしました。


教職を辞して候補者活動を続けてきていた住寄聡美氏(36)も演壇に立ち、野党一本化に伴って選挙区での立候補を辞し、原田勝利に全力を挙げるとともに、ひきつづき比例区候補として奮闘することを力強く宣言。拍手に包まれました。


今年の1月に書いたこの記事期待ふくらむ、の巻参照。


参院岡山選挙区で、現在野党陣営として唯一立候補表明をしている住寄聡美さんは、11年間小学校教員を勤めた後退職。政治家活動に身を投じた若者。彼女のお父さんも、もと小学校教師で、教育研究活動などで、浅からぬお付き合いをいただいた縁。市民と野党の共同で、もしも国会に送ることができたら、もと岡山県知事として公務員の賃金を何年も削減し、それを率先垂範として次々に県民に犠牲をしいて、弱者に煮え湯を飲ませた現職自民の議席を奪い、積年の恨みを晴らすことができます。今年はチャンスと、胸がふくらみます。



続いて、仁比そうへい参院議員、小池晃書記局長が、西日本豪雨災害での被災者支援のとりくみなど、「国民の苦難あるところ日本共産党あり」の姿を具体的に紹介、「暮らしに希望を――3つの政策」をはじめ、自公政治の根本的転換に向けた対案をも示しながら、熱く訴えました 。


10日(月)


通院後深山公園散歩。O先生の逝去を知る。


国会では、前日岡山で見た小池さんが(そのあとすぐに新幹線で広島に向かい、夜の演説会に臨まれたそうで、どうやって質問準備をなさるのか)、こんな追及をしておられました。


立川談四楼 安倍首相は小池晃氏に完敗「完全論破された」


落語家の立川談四楼が11日、ツイッターを更新した。

10日の国会で、安倍晋三首相(64)に対する日本共産党の小池晃書記局長(59)の質問が話題になっている。

「老後資金に2000万円が必要」とした金融庁の報告書が大炎上。年金制度の破綻が明らかになり、小池氏は直球で安倍首相に問いただした。

小池氏の鋭い突っ込みに、安倍首相は論点をすり替え、意味のない議論で時間を使い、さらには民主党政権時代の話題を振って、追及を阻止しようとした。

しかし、小池氏に一刀両断にされ、タジタジとなった。

談四楼は「小池さん(晃)に完全論破されて焦った安倍さんが『民主党政権では~』と例の伝家の宝刀を抜いた。すると小池さん『民主党ではないですよ私、なに胸張ってんですか。年金を6%削ってんですよ』とバッサリ殺り、返す刀で『笑ってる場合じゃないでしょ菅さん』と官房長官まで斬って捨てたのだった」とツイートし、存在感を発揮した小池氏の圧勝と採点した。

苦しい言い訳をした安倍首相に対し、ネット上でも「面白すぎるでしょ」「安倍晋三くん、しどろもどろ、委員長に再三『答弁は簡潔に…』と言われる始末」「小池晃議員の質問にことごとくまともに答えられなかった安倍晋三さん」など厳しいコメントが寄せられている。


dansiro


11日(火)


アルバイト出勤日。


12日(水)


教育相談ボランティア。


「高齢世帯が30年生活するのに年金以外に2000万円必要」との金融庁報告が、国民の不安を募らせる中、与党は参院予算委員会での集中審議開催を拒否、「政府は受け取らないと決断した。報告書はもうない」(森山自民党国対委員長)と、奇手・迷手を繰り出して逃げの一手。こんな時、わがアベ首相は、ゴルフで英気を養い、41年ぶりのイラン訪問ですって??


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逃げるなこら!!


またまた、談四楼さんからお借りします。


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同感です。


さて、冒頭の「健忘斎」の碑は、12日の朝、教育相談ボランティアの場所へ向かう途中の、道草で見つけたもの。先日の記事ただいま実験中、の巻などで話題にしている OLYMPUS ボディキャップレンズ BCL-1580で写しました。この日のカメラは、OLYMPUS pm1です。


行き帰りの道で、手当たり次第、辺りの風景を写しました。


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何を写したか分かりませんね。トリミングします。


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相生橋を渡る途中、岡山城方面を望みます。


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これは、逆方向(旭川の下流方面)の眺め。


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烏城公園駐車場そばの堀の向うに、岡山城方面を望みます。このあたり、車で通ることはあって、ブラブラ散策する機会は滅多にありません。


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いつも通る商店街のあちらこちらに、「オランダ通り」と書いた旗が掲げられています。


RICOH gx200で撮影。


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オランダ通り商店街のページにはこうありました。


●オランダ通りは岡山県の中心市街地、表町商店街のアーケード通りに平行して位置する南北1km程度の通りに、ブティックやギャラリー、飲食店等が並んでいます。
●オランダおいねとゆかりの深い場所であることから「オランダ通り」と名称がつけられました。
●平成10年(1998年)には、電線の地中化や、車道にレンガを敷き、屈曲化して歩道と接するようにするなど、歩行者優先の街路に変身しました。


シーボルトの娘楠本 イネ(「オランダおいね」)は、日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られます。彼女と。この「オランダ通り」との縁については、岡山県立図書館提供のレファレンズに詳しい紹介があります。


質問
(Question)

オランダ通り(岡山市)について知りたい。

回答
(Answer)

オランダ通りがある岡山市表町に関する資料『岡山表町飛翔記』及び表町の開発計画を記す『商業近代化地域計画報告書』によれば、オランダ通りは 江戸時代長崎県出島のオランダ商館医であったドイツ人医師シーボルトと楠本お滝との間で生まれた娘、楠本イネ(俗にオランダおいね)にちなんで名付けられた。

  楠本イネについては『岡山県歴史人物事典』に記事があり、また石井宗謙との関係で『勝山が生んだ人物略伝』などにも記述がある。それによればイネはシーボルトの教えを受けた蘭学者たちの支援を受けて長崎で成長し、19歳になると、現在の岡山市内に移り住み、シーボルトに学んだ石井宗謙のもとで産科医を学び始めた。この間6年あまり岡山で過ごす。この石井宗謙の居宅があった通りがこのオランダ通りであった。やがてイネは石井宗謙との間で子どもをもうける。しかし、この妊娠は本人の意志ではなかったようで、身重にもかかわらず、直後に岡山を離れ、故郷の長崎に帰っている。彼女はその後、開国後来日した父シーボルトと再会を果たすとともに、明治になると東京に移住、産科医として活躍した。この楠本いねについては司馬遼太郎『花神』でも取り上げられている。

  一方、商店街の再開発については『商業近代化地域計画報告書』で様子が分かる。それによれば表町商店街は1970年代から再開発の議論が頻繁に行われるようになっていた。そのような中、岡山地域商業近代化委員会によって出された1986(昭和61)年の「商業近代化地域計画報告書」で、オランダおいねにちなんで、オランダというテーマで町を再開発する計画が示される。ちなみに議論が行われていた1970年代後半の77(昭和52)年には『花神』がNHK大河ドラマに取り上げられている。

  計画でのオランダ通りのテーマは「オランダを感じさせ、人々が集い親しめるまちづくり」で、通りを北から南へ「芸術」「ファッション」「大衆」「庶民」性のある四つのゾーンに分けて整備を行うことになっていた。そして実際の整備は『岡山表町飛翔記』に記事があり、1990(平成2)年のオランダ風の外壁を持った「エターフェビル」の完成などを経て、1999(平成11)年の「オランダ東通り」の完成で終了している。


今日はこれにて。


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青天の霹靂、の巻 [折々散歩]

最近、こんなハガキを、知己の皆さんに出しました。

作品展案内

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すると、上の案内をお送りした年長の元同僚Oさんの奥様から、封書が届きました。Oさんが、3月に亡くなられたというのです。70歳という若さでした。奥様が、日々詠まれた川柳のうち、Oさんが詠み込まれた句を沢山、添えて下さっていました。

衝撃の余り、言葉は浮かびませんが、こんな返事を書きました。(Oさんのことを、眞先生とお呼びしています)奥様の川柳作品(選ばれて新聞に掲載されたものも含めて)を何句か無断で引用させていただいています。著作権は作者にあります。扱いには重々ご注意下さい。

  前略
  奥様からの封書を、郵便受けに見つけた時、胸騒ぎを抑えることができませんでした。思いもかけず、想像もできない眞先生のご逝去。驚愕し、胸がつぶれる思いでした。
  最近フェイスブックで、お元気な様子を拝見しましたのに、と改めて確認してみますと、5月3日付けの記事で、いつものように心のこもった美味しそうなお料理が、美しく並べられており、ご家族の和やかな団らんとお食事のご様子を思い描き、眞先生、きっと美味しいお酒を召し上がったことだろうと勝手に想像しておりました。が、改めてちゃんと読んでみましたら、眞先生を悼む長男様の投稿なのでした。うかつなことでした。
  同封して下さいました北海道でのお写真。現職時代と少しも変わらぬご様子で、懐かしさに、胸が一杯になりました。今もカメラを手に、自由に闊達に、北海道の原野を歩いておられるに違いありません。
  思い返せば、眞先生とは、K高校で図書課や教育相談室の一員としてお世話になったのが、お近づきの始まりでした。言葉による説明以前に、心のありように自然な共感を覚え、旧い知己のように安心して頼ることのできる存在でした。
                               
  生きるため尻尾振る人振らぬ人
  真価は、生徒に、同僚に、おのずと伝わっていました。
 
  変哲でいいさ素敵として生きる。
  「偏屈」「変哲」は、素敵な褒め言葉です。あやかりたいあやかりたい。
 
  筋通すお方と苦楽を共にする
  お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。文字通りの「相思相愛」羨ましく思います。
 
  損得は計算できぬ数学者
  損得ではなく、美醜を問題にしておられたのですね。あるいは、論理、筋道、正邪。
 
  酒好きの眼鏡をかけたネズミ住む
  本当に、美味しそうなお酒のお写真を、フェイスブックで拝見することがたびたびありました。
 
  父と飲む地酒抱えて息子の帰省
  このお酒も、フェイスブックで拝見しました。格別のお味でしたでしょう。
 
  電話口酒の匂いと直ぐ分かり
  温かい、大らかな、酔い。話す相手をも、心地よく、愉快にさせる作用がありました。


      飄々と生きて突然風になり
  本当に、「突然」過ぎます。でも、思えば、恬然とした眞先生らしいと言えなくもありません。温かく、穏やかで、しかし折り目正しい風に違いありません。
 
  白い歯がいっぱい見える世の中に
  眞先生の思いは、まさにそこに集約されるでしょう。しっかり、受け継ぎたいと、思いを新たにするところです。

  味気ない印刷のお手紙で失礼しました。
生来の悪筆の上、以前の脳動脈瘤の手術の後遺症で(言い訳です)、一層見るに堪えない文字になりますので、悪しからずご容赦下さい。
末筆ながら、 ご家族皆様のご健康とご多幸をお祈りします。

昨日は、午前中、かかりつけ医に常用薬をもらいに行き、そのまま足を伸ばして深山公園を歩きました。Oさんのご逝去は知らないままですから、暢気な気持ちでアジサイを愛でながら、、、。

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これは我が家の鉢植えです。

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アヤメ。

ハルノノゲシ?

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昔のMFマクロレンズトキナーAT-X 90mm/F2.5 マクロを、マウント変換アダプターを介してリコーGXR+a12に装着し、マニュアル撮影してみました。「ピーキング」によるピント合わせは、かなり信頼でき、じっくりピント合わせする余裕のある「静物」の撮影などでは、使えそうです。ただこのレンズ、以前はそんなにも感じなかったですが、かなり重く、バッグの荷物に加えるかどうか、悩むところです。

鳥もいろいろいました。

マクロ撮影中に、キビタキが射程内の小枝に飛んできて止まりました。早速リュックを探って、鳥撮り用に持っていったAFBORGを取り出しますが、「チューニング」ミスで使い物にならず、トホホでした。たまたまリュックに入れていたFUJIFINEPIXS1で狙いますが、思うに任せません。

結局、姿を捕らえることができたのは、コゲラ。遠いので、トリミング画像です。

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エナガ。

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頭部がはみ出してしまいました。失敗作量産のうち、まあまあ見られるものは、こんなところでした。

今日はここまで。


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真夏日のアジサイ、の巻 [折々散歩]

6月ですから、深山公園へアジサイを写しに行ってきました。

乾燥した真夏日でしたが、森陰は涼しく感じます。

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赤いツツジ。

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アヤメ。

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香り高いタイサンボクの花。
今年は低い枝が剪定されていて、花は高い場所に咲いていますので、見あげて撮影することになります。

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ウツギ(卯の花)でしょうか。

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これなあに?

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ハルノノゲシ?

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ヒラタアブ。

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ウグイス、キビタキ、そしてヤマガラ、シジュウカラなどの声は聞こえますが、撮影はできませんでした。うつせたのは遠くの枝のこの鳥だけ。トリミングします。

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今日はこれにて。


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ハッチョウトンボに再会、の巻 [折々散歩]

地元紙山陽新聞5月24日付記事に、今年もハッチョウトンボのニュースが掲載されていました。


総社市福井のヒイゴ池湿地で、世界最小級のトンボ・ハッチョウトンボが舞い始めた。“極小の赤”がふわりと飛んだり、羽を休めたりと、湿地の水と緑に彩りを添えている。
ハッチョウトンボは、日当たりの良い湿地に生息。体長2センチに満たず、1円玉(直径2センチ)にすっぽり隠れる。成長につれ雄は赤みを帯びる。
湿地を管理する自然保護団体・北の吉備路保全協会によると、今年は例年よりやや遅い15日ごろに初確認。6月をピークに、8月ごろまで観測できるという。


古いブログ記事をたどると、かにかくに小さきものはうつくしき(2014-06-30)にこんな


日本で一番小さいトンボは、ハッチョウトンボだそうです。

M先輩が、先日「自然保護センター」で撮影した写真を送ってくださいました。(一緒に、オオムラサキのはっきりくっきりの写真も---。うらやましい。)

とはいえ、 「自然保護センター」は少々距離がありますので、昨日は総社市の「ヒイゴ池」を訪ねてみたのでした。

ここにハッチョウトンボが生息することは、何年か前、同じ職場の同僚だったハイアマチュア・カメラマンのTさんから、ご自分の作品を見せていただき、知っていました。それから何回か訪ねたのですが、タイミングが悪いのか、これまではあいにく巡り会えませんでした。

果たして、昨日は?会えました!!

でも、持参カメラが、K5+tokina90mm macro では、遠すぎました。ハッチョウトンボが、わずか1cm余りの極小トンボであることを、甘く見ていました。相当望遠系のレンズを用意してくるべきでした。

実は、どういう思いつきか、tamron 80mm-250 210mm macro というベリーオールドマニュアルフォーカスレンズを持ってきていました。AFADをセットした状態で、tokina90mm macro と tamron 80mm-250 210mm macroを交換しながら使用すれば、撮像素子にゴミが付着しないですむだろうという思いつきです。どうせなら、いくらかでも描写性能に優れたレンズを使えばよいのにとは思いますが、あいにく、新しいタイプのDAレンズなど絞り環のないレンズでは、絞りを絞りこんだ状態になり、AFが機能しません。ですので、AFADを利用する場合は、絞り環があって比較的明るいオールドレンズが適しているのです。そういう中古レンズのうち、望遠マクロの機能に期待して、重いけどもバッグに入れてきたのでした。

でも、がっかり。レンズのせいか腕のせいか、、、ハッチョウトンボは、証拠写真しか残せませんでした。

大幅にトリミングしています。

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その後も、ヒイゴ池や自然保護センターの湿地などを訪ねては、何度か撮影を試み、ブログでも紹介しましたが、なかなか巡り会うチャンスは少ないです。


今年も、是非出かけてみたいとおもいながら、機会を得ずにいたのですが、今日の午前中、ちょっと足を伸ばしてみました。真夏日でした。


今日の携行カメラは、PENTAXK5Ⅱ+AFAD+BORG60EDです。


先客の方が声をかけて下さり、一体だけ存在を確認できました。ターゲットが小さすぎて、AFが迷います。


かなりトリミングします。


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トキソウの可憐な花が涼しげです。


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今日はこれにて。


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小豆島探訪拾遺、の巻 [折々散歩]

先日の小豆島探訪の見学地を、駆け足で紹介してきましたが、今日はその最終回。書き残した話題を拾い集めておきます。

1)寒霞渓。

以前、この記事では、紅葉の寒霞渓を訪ねました。

小豆島の旅、の巻(1)

今回は、新緑の渓谷を堪能できました。

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昨日の記事で紹介させていただいた、特殊潜航艇「蛟龍」の元乗組員高橋春雄さんの記事から、寒霞渓にまつわる部分をもう少し引用します。

◯ 終戦


終戦は玉野造船所で迎えた。そして、艇に乗って帰ったかどうか判然としないが、すぐ小豆島の宿舎に戻った。

・ 出撃した艇も戻る

四国の前進基地に出撃した連中も、終戦となり、まもなく小豆島基地に戻ってきた。

・ 寒霞渓での痛飲

このような形で終戦になるとは、もちろん誰も予想していなかっただけに、やりきれぬ憤懣のはけ口を求めてかなり険悪な空気が漂っていた。

上部ではこのような空気を察知したのか、隊員一同にウイスキー(サントリーの角瓶一本)を持たせて、小豆島の名峰寒霞渓に登り、徹夜で呑み明かすという措置を講じた。

寒霞渓は、車やロープウエイを使ってもかなり時間のかかる高い山である。その頂きまで一気に登って、そこで酒盛りを始めた。

それまで殆ど酒など呑んだことのない私に戦友は無理やり口を開けて、ウイスキーを流し込む。こちらもなかば自暴自棄になっているので、どうにでもなれという気持で後のことも考えずにしたたか呑んでしまった。

案の定、すっかり足をとられてしまって、帰る時刻になっても一人で起き上がることができない。戦友に肩を貸してもらってなんとか宿舎までたどり着いたが、そのまま二、三日寝込んでしまった。

遠く海辺や島影まで見渡せます。

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険しい、切り立った崖の様子が、独特です。

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岩の手前に、金属製の円い環が見えます。カーズミラーの類かと思いましたが、向こうが素通しに透けて見えます。瓦投げの標的だそうです。5枚200円で売られているかはらけ 。瓦=かはらけ(土器)を投げて、この環を通ると幸運が訪れるそうです。屋島にも同じような習わしがありましたっけ。子どもの頃、投げたことがありましたが、さてここだったか屋島だったか、それとも両方だったか、記憶が曖昧です。京都の神護寺が発祥だそうで、各地に広まったとか。比叡山にもあるそうで、そこでの記憶だったかも知れません。R0018689

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鮮やかな赤いツツジに、クロアゲハが舞っていました。

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2)富丘八幡神社の桟敷

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掲示板にはこうありました。

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土庄町指定文化財
有形民俗 富丘八幡神社の桟敷
富丘八幡神社の北西側山林の傾斜地を巧みに利用して築かれた石段づくりの桟敷は、最下段の桟敷きの裾を結ぶと約百五十mの浅い馬蹄形になっている。(中略)(高さは約二十四mあり)江戸時代後期から次第に数を増やしてきたもので、戦前はおよそ四百二十面余りあったが、現在使用されているのは三百六十四面程である。いずれの場所からも婆の前掲を見渡すことができる。
この桟敷は祭典当日、それぞれの家族がくつろぐ団欒の場であり、親戚友人を招いての交歓の場でもある。そして太鼓や神輿の奉納など賑やかな祭典行事を楽しみ一日を楽しむ場である。
この桟敷は、(中略)二百数十年の長い間、祭典を盛り上げ人々を楽しませてきた重要な文化遺産である。

眼下に見下ろされる現在の土庄中学校のグラウンドが、往時の馬場だったそうです。その日はちょうどグラウンドで運動会が繰り広げられている最中でした。個人情報への配慮から、写真を撮ることは自粛しましたが、ローマのコロシアムさながらに、競技の様子が手に取るように鳥瞰できます。

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なおも石段が続き、その向こうに鳥居があって、さらに高い場所に拝殿が見えます。

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見下ろすと、海原が一望できます。

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家族、友人、知人とともに、こんな桟敷に陣取って、寛いで過ごすのは、何というゆたかな時間でしょうか。

3)おりんぴあどりーむ

帰りに乗ったフェリーはこれです。

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写真は同行のOさんの撮影。勝手に拝借しました。ゴメンネ。

水戸岡鋭治デザインの「おりんぴあどりーむ せと」です。

産経WEST(2019.5.4)を引用します。

「海を走る遊園地」をコンセプトとする両備フェリー(岡山市北区)の新型フェリー「おりんぴあどりーむ せと」が、新岡山港(同市中区)と小豆島・土庄港(香川県土庄町)を結ぶ航路に導入され、令和に改元された5月1日から運航を開始した。

新フェリーは約940トンで、全長約60メートル。速力は13ノット(時速24キロ)。座席数は229だが、定員は約500人。搭載車両は乗用車60台、大型車10台。

建造費は約14億円で「定期航路でクルーズが楽しめるよう、貨物を主目的とする従来型のフェリーとは異なり、旅客船としての機能充実に力を入れた。私の念願だった」(両備グループの小嶋光信代表)との強い思い入れで計画された。

内装面は同市出身の工業デザイナー、水戸岡鋭治さん(71)が担当。注目は2~4階の甲板部分で、1周50メートルのレールを2周するミニ電車(別途200円、平日除く)が走行。

グループ企業が路面電車にも導入した英国の人気鉄道アニメ「チャギントン」のデザインとした。滑り台やブランコ、キッズコーナーなどもあり、片道約70分の移動時間中を楽しく過ごせる。(後略)

甲板をチャギントンが走っていました。

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この日、は「小豆島オリーブマラソン」の開催日。フェリ-乗り場付近の駐車場も満杯で、前日の夜その情報を教わったので、朝は妻に車で港まで送ってもらい、事なきを得ました。帰りのフェリーは、そのマラソン帰りの方が、敢えて「おりんぴあどりーむ」を選んで乗船されたのでしょう、経験したことがないほどの混雑で、座れる席がありません。致し方ないので、いいオジ(イ)サンたちが、板敷きの甲板に車座になってジベタリアンになりました。潮風が涼しく、快適なクルージングを楽しむことができました。

今日はここまで。


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蛟龍を嘆く、の巻 [折々散歩]

先日小豆島を探訪した旅行行事の企画・立案・案内は、毎回Nさんが毎回中心的に担って下さったことは、昨年秋のこの記事にも書きました。


あらまほしきものは、の巻


この「自然歴史歴史探訪」という行事は、毎年二回ずつ実施され、今年で25年目。今回が第49回で、来年5月には第50回を迎えるそうです。そのすべてに渡って企画・立案に携わり、案内者として貢献してくださったNさんは、今回も周到な資料をご用意くださり、またそれ以外にも、通りかかる場所場所にまつわる「深いいお話」を、ふんだんに紹介してくださいます。


今回で50回目(年二回実施)を迎えることから、Nさんは一応ここで任を降りられ、ご卒業ということになります。
そのNさんがおっしゃるには、戦時中、学徒勤労動員で、工場で働いたが、そこで作っていたのは、バッテリーの部品。ある時、納品のために、トラックで玉野市の三井造船まで連れられて行き、そこで見たものは建造中の特殊潜航挺=五人乗りの人間魚雷「蛟龍(こうりゅう)」で、納品したのはそれに用いる部品だった。朝鮮から連行された徴用工もそこに働いていたはずだ。
その「蛟龍」は、小豆島に送られて実戦に用いられたと聞くが、長い間、気になっていた。このたびの企画で小豆島を訪ねるに当たり、地元に知人に訊ねても、なかなか詳細はわからなかったが、ようやく部隊と基地の場所を推定することができた。その痕跡も記念の目印もないが、、、。


と、バスの車窓から、だいたいの位置を示して下さったのでした。
帰宅後、ネット検索してみますと、いくつかの情報に遭遇しましたので、備忘のためにメモしておくことにいたします。


ネット上で「蛟竜」を検索していますと、高橋春雄さんとおっしゃる方のHP に、次の記事を見つけました。蛟竜の乗組員として訓練を受け、実戦野準備をしていたが、終戦により生き延びたという経験をお持ちです。


 

特殊潜航艇「蛟竜」(海軍の自分史)

7 小豆島基地(小豆島突撃隊)

◯ 概 説


倉橋島で第17期蛟竜艇長講習員として蛟竜の機構の勉強を終えた我々約160名は、昭和20年7月1日、第一戦基地である小豆島に着任、ここでいよいよ念願の艇に搭乗、訓練を受けることとなった。小豆島は淡路島に次ぐ瀬戸内海第二に大きい島で、香川県に属する。この島に特殊潜航艇蛟竜の基地が建設されていたのである。

しかし、頼みの蛟竜が量産出来ず、当時ここには蛟竜は11隻しかなく、それぞれ先輩の艇長が決まっており、訓練専用の蛟竜もなかったため、およそ次のような三つのグループに分かれて訓練を受けることとなった。

・予備艇長として搭乗実務訓練を受ける者、約40名。
・玉野造船所に派遣され、蛟竜の艤装に従事する者、約30名。
・草壁の本部勤務で座学のほか、甲板士官、当直将校、副直将校等の勤務を分担、待機する者、約90名。また特技を有する者は施設班、漁労班等に派遣された。

私は予備艇長として搭乗実務訓練を受けることとなり、約40名の仲間とともに、古江にある丸金醤油の青年学校に居住することとなった。

当時、沖縄を完全に手中におさめた米軍の本土進攻が予想されていたが、日本海軍は大きな打撃を蒙っていた。しかし、たとえ連合艦隊が壊滅しても、われわれ特攻隊がある限り、神州は不滅であるという教官の言葉を純粋に信じて訓練に励んでいた。

そして搭乗訓練もある程度進み、四国南岸の橘湾小勝島にある出撃基地まで本番に備えて進出する訓練も終わり、いよいよ本番の出撃を待つばかりという時に終戦を迎えたため、今日まで生きながらえる羽目になった。

終戦があと少し遅れ、敵機動部隊が四国方面に近づいていたら、土佐沖で水漬く屍となっていた公算は極めて高い。その時私は20歳であった。
(中略)

◯ 小豆島における訓練


・ 宿舎

われわれの宿舎は小豆島は内海湾の奥、古江あたりの丸金醤油の青年学校であった。映画「二十四の瞳」の分教場のある近くである。小さな建物に三、四十名程度の比較的少人数が起居していたように思う。

食事は旅順時代は腹が空いて仕方なかったが、ここでは特攻隊員ということで優遇されたせいか、質、量ともに良くなり、当時としては珍しいパイナップルの缶詰などもたまには出て、娑婆の方には申し訳ないような気持でいただいたことを思い出す。寝る時もハンモックではなくベッドだったように思う。


・ 教官

伊熊大尉(後に訓練中目標艦で米軍機の銃撃を受け戦死)や十時大尉の名は今でも覚えている。この方たちが直接の指揮にあたっていたが、なかなかオッカナイ反面、面倒見のよいところもあって、規律のきびしい中にも和やかな雰囲気が漂っていた。

・ 基地

潜航艇は宿舎の近く、かめや旅館裏の松林の丘を下った静かな入江に十隻程度係留されていた。
(以下略)


「古江」という地名を頼りにさらにネット検索してみると、香川県小豆郡内海町にある「古江庵」というお寺に、「特殊潜航艇基地跡の塔」が建てられ、こう刻まれているそうです。


永遠の平和を希って

多くの若人が広い太平洋に通じるこの内海湾の基地で日夜訓練に励んだが 昭和二十年八月十五日 太平洋戦争終結とともに解隊された 併建の寄進石はその当時四国琴平神宮から応召されたものである

昭和五十三年八月吉日

大洋の波しずまりし晩夏かな 一夏

平和なる古き入江に月上がり 能章



また、同じ小豆郡内海町の「宮山招魂社」には 戦後間もなく、忠魂碑が建てられ、次の碑文が刻まれているそうです。


碑文

大東亜戦争酣なるに方り 軍は昭和二十年五月二日特攻潜艦基地を当内海湾に設け 其の部隊 本拠を小豆島中学校に置き 以て急迫せる本土防衛決戦に備えんと日夜訓練に従事す
然る処同年七月二十二日坂手湾沖海上に於て空襲に遭い此の戦闘に於て伊熊少佐以下九士戦死す 尋て八月二日播磨灘に於て機雷に触れ堀川中尉外五士職に殉す 同月八日女神丸屋島沖航行中機銃掃射の遭難に下山中尉外一士又散華す
然りと雖も旺盛なる士気何ぞ之に屈せん奮起以て時の到るを待つ 突如終戦の詔を拝し全軍悲憤慷慨すれど奈何とも為す能はず 大谷司令憂国の涙を払い切歯扼腕する部下将兵を慰諭して曰く
我等の任既に極まる唯一国民として和平建国に尽さんのみと徐かに隊を解く 去るに望んで将士相謀り戦没勇士の芳を不朽に伝えんと茲に霊碑を建つ 後人能く慰霊敬慕の誠を致さんことを

銘に曰く

錦山秀岳聖海清温 十七英霊厳安陵園 一身殉国燦栄誉尊 粛然呑涙敬弔雄魂

昭和二十年晩秋 郷土中学校教諭勲八等 中村米次広光撰并書



前述の高橋さんのHP記事で紹介されていた、上官の「伊熊大尉(碑文では伊熊少佐)」の名が、「戦死」と刻まれているのも痛ましいことです。


同所には、後に 「特殊潜航艇碑」が建てられ、特殊潜航艇を模した石像を戴くかたちで、石碑に次の碑文が刻まれているそうです。


建碑誌

昭和二十年晩秋 太平洋戦争に散った小豆島特攻基地戦没者の忠魂碑が部隊ゆかりの地古江に建立されたが 昭和三十七年初春内海町 当局ならびに内海八幡神社宮司の暖かいご理解のもとに当宮山の地に移された。

この間故吉岡虎光氏が中心となり遺族ならびに部隊関係者等によって慰霊祭が続けられてきたが爾来内海町 招魂社の英霊と共に永久祭典の恵に浴している。

当地各位のご厚情に対しここに遺族ならびに関係者一同は深甚の意を表し併せて英霊が一命を捧げた特殊潜航艇の模型を刻んでその勇魂を後世に傳えるとともにとこしえに安らかに眠られんことを祈るものである。

昭和四十六年八月十五日 特殊潜航艇関係有志建立


少々わき道にそれますが、ネット検索は、「蛟龍」に関連して思いがけない事実を次々に教えてくれます。


1)ウィキペディア「前田武彦」の項


エピソード

戦時中、特攻兵器「蛟龍」の搭乗員となるべく猛訓練を受けた。これについて出演したテレビ番組で、「(自分の受けた訓練は)優しさなんか一つも無かった。死んでいく人間に対して棒で殴ったりしていた」、「(戦争を)最後までやるのかと思っていたら終わってしまった」と首を傾げながら当時の心境を述べている。海軍通信兵だった前田は、手旗信号を判読することができた。

2)治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 和歌山県本部のHP記事
インタビュー「戦争する国許さない」その17


経済アナリスト、独協大学教授森永卓郎さん
被爆を隠し続けた父の子
私の父は、特攻隊員でした。蛟竜という4、5人乗りの特殊潜航艇の乗組員で、終戦があと2週間遅ければ、私は存在していません。
父は潜航訓練中、広島の海上に出てハッチを開けたところ、偶然にも目の前で原爆が投下される瞬間を目撃したのです。父は被爆を隠し続けました。被爆者差別があったからです。戦後50年ごろ、私が「原爆が地上に落ちて」と話したのを聞きつけた父は激怒して「地上に落ちるわけがない。おれは目の前で見た」と初めて話してくれました。
基本的なルール
叔父が特攻隊員で亡くなったこともあり、私は子ども時代に春と秋、「白鴎遺族会」で靖国神社に行き、復員した兵隊さんたちの本音を聞きました。すごく良い人たちなのに、 「戦争は面白い」と語る。狂っていると思いました。
人を殺めてはいけないのは人間の一番基本的なルールです。まじめな社会人なのに戦争をすると、人が人でなくなる。だから、私は戦争に絶対反対なんです。


3)最後にもう一つ奇しき縁。


上述の高橋さんの体験記をもう少し引用します。


◯ 目標艦芙蓉丸、敵機の銃撃を受け9名戦死
7月半ば頃になると敵機の来襲も激しくなった。7月22日には目標艦として出動中の芙蓉丸に玉野方面から飛来して敵艦載機(P51)数機が突如として後方よりおそいかかった。芙蓉丸の13ミリ機銃2ただちに火を噴いて応戦したが、たちまちのうちに沈黙し、4度5度と反転しては機銃掃射をくりかえす敵機の攻撃により艦橋はじめ船体に500発を超える被弾をうけた。
この戦闘で指揮をとっていた伊熊大尉および梅津船長をはじめ、9名が戦死、10数名の負傷者を出した。私達の同期も伊藤仁三郎少尉、末竹十三雄少尉の2名が戦死、矢野統一少尉が重傷を負った。
戦死者の葬儀は近くの極楽寺で行われ、同じく同期で僧侶だった藤原達成君がお経を唱えたのを思い出す。昨日まで起居を共にした同期の仲間が戦死という現実を見て戦争を実感した。


「伊熊大尉」については、先ほど触れました。続けて列記される死傷者のうち、「矢野統一少尉が重傷を負った。」の一行に、電撃を受けた思いがしました。


こんな本が出版されていることを知りました。


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「特殊潜航艇蛟龍艇長矢野統一 : 父は海の特攻隊員でした」藤原尋子さんと 藤原義一さんご夫妻の共著。矢野統一さんは、藤原尋子さんのお父様だったのです。


藤原義一さんについては、当ブログでも何度か文章を引用させていただいたことがあります。高知「草の家」の学芸員で、槇村浩の研究を続けておられることから、お名前を存じ上げています。また、ご自身短歌をたしなまれることもあって、花や草木への造詣が深く、ほとんど受け売りで、こんな記事を書きました。


散ってまた咲く無窮花や野分ゆく(2016-09-05)


先日から、槇村浩の話題で、連続的に登場戴いている藤原義一さんが、「あなたに贈る短歌の花束」という本を出版されています。奥付を見ると2004年6月発行とあります。実はこの本、私は、ちょっとした縁で当時贈呈を受け、パラパラめくり読みしては、本棚に収めておりました。時々手に取ることはありましたが、全巻通読はしていませんでした。
しかも、筆者の藤原義一さんと、「草の家」学芸員として槇村浩を研究されている藤原義一さんを、同一人物と理解できず、深く確かめることもなく偶然の一致に寄る同姓同名の別人と思い込んでいました。うかつなことでした。

つい最近、この本を手に取り、読み進むうちに、こんな記述に出会い、驚愕を覚えました。

(以前、韓国旅行から)帰国したその日、イン夕ーネットを散歩していたら、日本が、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)だった時代に、日本政府が朝鮮のムクゲを抑圧したということが書いてありました。
「人類の歴史で、民族の名前で特定の植物が苛酷な受難を経験したのは、我が国(著者注・韓国)の国花であるムクゲが唯一である。
ムクゲは民族の歴史と共に民族の脈絡の中に息づいてきた花であるため、 日帝強制占領期の三十六年間には民族の受難と共に疲弊して奪われてしまうという残酷な試練を経験するしかなかった。
満州、上海、米国、欧州へ向かった独立志士たちが光復の救国精神の表象としてムクゲを掲げると、日本はこれにうろたえたあまり、ムクゲを見つけしだい燃やしてしまったり、引き抜いて無くしてしまった。
うそ
日帝は国花ムクゲを『目に血花』と呼び、見るだけで目が血走るという嘘の宣伝をし、『おでき花』と呼び、手に触れるだけでおできが出来ると言うなど、様々な話で我が民族の気概を表現するムクゲ弾圧に極悪だったのだ。
しかし、国花ムクゲに対する受難が加われば加わるほど、我が民族はよりいっそう自分たちの精神を代弁するムクゲを愛し、隠してまで守ってきた」(「韓国のホー ムぺージを日本語で読む」)
-----「読んでいただける方へ」より

さらにページを繰ると、こうありました。

 日本の天皇が朝鮮を植民地にしていたころ、 植民勢力が朝鮮人に愛されていたムクゲを抑圧したことを「読んでいただけるかたに」で書きましたが、ここで、もう少し詳しく、 そのことを書いておきます。
植えることも、話すことさえ
『金夏日歌集 無窮花』(一九七一年二月一日発行。光風社)を読みました。
著者の名前は、キム・ハイル。無窮花は、ムグンファと読むのだと思います。ムクゲのことです。
著者は一九二六年(大正十五年)、朝鮮慶尚北道・桃山洞の一貧農の家に生まれました。そして、一九三九年(昭和十四年)、十四歳のころ、すでに朝鮮から日本に渡っていた父をたずねて、母と長兄夫婦、次兄らと日本に渡ります。
彼が生まれる前の一九一〇年、日本は日韓併合で朝鮮を植民地にしていました。
「あとがき」で、ムクゲについて、こう書いています。
「日本帝国主義の侵略とその統治下においては、 朝鮮民族が限りなく愛するこの花を、自分の土地に植えることも、またこの花について話すことさえ許されなかったのです。
こうした抑圧のなかで、 無窮花はなおのこと私たち朝鮮民族の心に生きつづけ、私は幼い時から祖母や母に無窮花の美しさをひそかに聞かされてきましたが、祖国朝鮮に私が生まれ育った時代にはついに見ることができませんでした」
日本は太平洋戦争を始めました。
長兄は日本海軍の軍属としてとられ、戦死します。
著者も東京の戦災の炎をかぶり、両眼失明しました。

さらに、こんなことが行われたのだそうのです。

朝鮮への桜の植樹
一九〇五年(明治三十八年)、日本は第二次日韓協約で大韓帝国(朝鮮)の外交権を接収し、京城(現在のソウル)に韓国統監府(長官は韓国統監)を設置しました。
一九一〇年、日本は日韓併合で大韓帝国を植民地にしていました。同年八月二十九目、目本は朝鮮にその植民地文配のための政庁・朝鮮総督府を設置しました。(韓国統監府を改組)。
(中略)
日本の植民者は、朝鮮に次々と日本の「軍国の花」 ・桜(ソメイヨシノ)の苗を植樹し、桜の名所を作っていきます。鎮海(チネ)の日本海軍の軍港には我が海軍の微章にちなみ」一九一〇年に二万本、一三年に五万本、一六年に三万本、合計十万本の苗木が植えられました(『ある日韓歴史の旅鎮海の桜』、竹国友康、朝日新聞社)。
ムクゲの記事が押収されて
第四代朝鮮総督の斎藤実の時代には弾圧一辺倒では治まらなくなって民族紙の発行を許可します。
「朝鮮日報」、「東亜日報」が創刊されました。しかし、それらは朝鮮総督府警務局が検閲しました。
(中略)
「東亜日報」は、 一九二五年十月二十一日付に「読者と記者」の欄に「錦細江山の表徴『朝鮮国花』無窮花の来歴」という記事を載せました。
「昔のことですが、大韓時代に無窮花を国花として崇め尊んだのは、どういう理由からなのですか」(東大門外ユク・チュングン)という読者の質問に答えたものです。
「今から二十五、六年前」に尹致実(ユン・チホ=開化派の政治家)が愛国歌を:創作したが、その繰り返し部分に「無窮花三千里華麗江山(ムグンファサムチョンリョガンサン)」がありました。その時、初めて「木種(クンファ)」を「無窮花」と書き出したらしい。
これと前後して島山安昌弘浩(トサナンチャンホ=独立運動家。一八七六-三八年)らが民族連動、国粋運動を展開する時、朝鮮を無窮花にたとえて「われわれの無窮花(ムグンファ) の丘は……」と演説しました。
この時を前後し、木樓(クンファ)を「ムグンファ」とはっきり使いだし、朝鮮の国花と定めたようです。
記事は、こうした説明をした後で、次のようにのべています。
「---無窮花はそれほど華麗でもなく、枝とてそれほど美しくもなく、その上、葉は密集していて趣とてないのですが、朝露を浴びて咲いては夕刻に散り、また他の花が朝咲いてタ刻に散るというふうに、絶えず咲いては散る様が、 刹那を誇って風に散るのを武士道の誇りとしている桜よりも、赤色だけを誇る英国の薔薇よりも、花房だけただ大きいだけの中国の芍薬(シャクヤク)よりも、どれほど粘り強くて堅実であり、気概があって祈願がこもっていてみずみずしくて可愛らしいことは、ほかの何ものにも比べることはできないでしょう。
それで私たちの祖先は、この朝生夕死ではあるけれど、次々と咲く木槿を無窮花と呼んで国花としたようです。
しかしいまでは、無窮花が名にし負うほどの使命を果たせず、西北道では見られぬようになり、京畿方面では心ある人たちの丘の飾りとなり、全羅道では農家の垣根として残っているだけだそうです」
この記事は、 朝鮮総督府警務局が押収しました。


その藤原義一さんのちょっと以前のブログにこんな記事がありました。


【連載 父は水中の特攻隊員でした】 1 高知市出身の青年が特別攻撃隊に志願した訳は……。

父は水中の特攻隊員でした

藤原尋子・義一

【読んでいただけるかたへ】

この連載は、太平洋戦争(一九四一年十二月八日~一九四五年八月十五日)のとき、日本帝国海軍の水中の特別攻撃兵器・特殊潜航艇蛟竜[こうりゅう](甲標的丁型)の艇長講習員だった矢野統一[やの・とういち](一九二四年九月二日生まれ)の物語です。

国の為[ため]捧[ささ]げ尽[つく]さん此[こ]の体[からだ]死処[ししょ]に咲くまで只[ただ]まっしぐら

当時、矢野が詠んだ「出陣賦[しゅつじんふ]」です。

矢野は、いま八十三歳です。高知市筆山町[ひつざんちょう]に妻・昭子[あきこ](旧姓・南)と二人で住んでいます。不動産鑑定の仕事をやっています。

筆者の一人・藤原尋子[ふじはら・ひろこ]の父です。

共著者の藤原義一[ふじはら・よしかず]は、尋子のつれあいです。

矢野が搭乗していた蛟竜[こうりゅう]は、こんな兵器でした。全長二六・三メートル、全幅二メートル。五人乗りで、上下に魚雷二発を装備しています。

矢野の訓練のため搭乗していた蛟竜は真っ黒に塗られていました。

艇長は艇の責任者です(士官)。立っての搭乗です。特眼鏡(潜望鏡)をのぞきます。

艇長の立っている「下の段」に座って四人の艇付[ていづき]と呼ばれる搭乗員がいました(准仕官または下士官)。

(中略)

浅く潜航して運航するときは特眼鏡で周りを見ながら操縦します。

しかし、ソナーなどが装備されているわけではなく、深く潜航して運航するときには、深度計などにたよるしかありませんでした。

蛟竜の長時間潜航試験の結果があります(『特攻艇長たち 次世代への遺言』。蛟竜艇長十七期会編。銀河編集室)。

六一七号艇に七人が乗り込んでの試験でした。十八時間を過ぎると限界になり、浮上します。

目標艦の七、八百メートルの至近距離から魚雷を発射します。

魚雷を発射すると浮き上がるため、すぐに発見されてしまい、とうてい生還は望めないものでした。「蛟竜」の名は、水中、特に深い湖や池の底に住むと考えられていた大きな角を持つ龍の一種・蛟竜からつけられました。普段は水中に潜んでいますが、時機を見て天に昇り、雨雲を操って雷雨を起こす竜とされます。

(中略)

私、尋子が、父が水中の特別攻撃隊員だったことを知ったのは一九八二年春、三十四歳のころのことでした。当時、私は東京都の公立中学校の教師をしていました。

幼いころから父の右肩の後ろにの長さ二十センチ、幅五センチぐらいのケロイドのような傷跡のことが気になっていました。そこは、少しくぼんでいて血管が通っていません。

それも水中の特別攻撃隊員だったころアメリカ軍機に撃たれたものだと知りました。

当時、ある雑誌に四ページで、父の体験を書かせていただきました。

この本は、その続編です。

(中略)

十二月、東京都国分寺市で開かれた平和のためのつどいで尋子が「いま、こんな本を書いています」と近況紹介をしたら、あるかたが「私は、中学生のとき、その特殊潜航艇をつくっていました」と発言されました。


もしも矢野統一さんが、米機の銃撃を受けながら一命をとりとめていなかったら、尋子さんはこの世に誕生することはなく、義一さんと結ばれることもなかっただろうと、別のところで書いておられます。あまりにも重い真実に、言葉を失います。


それにしても、生還できる可能性がほとんどない「特攻」という戦術を、大真面目に立案・推進し、純真な若者に死ねと命じる戦争指導者たちの愚劣は、憎んで余りあります。


ところで三省堂「大辞林」は、こう説明しています。


こう りょう かう- [0][1] 【蛟▼ 竜▽】

〔「こうりゅう」とも〕

① 中国の想像上の動物。まだ竜にならない、蛟(みずち)。水中にひそみ、雲や雨にあって天上にのぼって竜になるとされる。

② 時運に恵まれず、志を得ない英雄や豪傑。


「時運に恵まれず、志を得ない英雄や豪傑。 」という不吉な名を冠せられた特攻艇。気の毒の極みです。


小豆島の玄関口・土庄港の緑地公園に「二十四の瞳」のブロンズ像があり、「平和の群像」と呼ばれます。帰りのフェリー乗船前に、バスが立ち寄ってくれました。


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ウィキペディアにはこう紹介されています。


小説『二十四の瞳』は、小豆島出身の作家である壺井栄が、第二次世界大戦の終結から7年後の1952年(昭和27年)に発表され、作者自身が戦時中を生きた者として、この戦争が一般庶民にもたらした数多くの苦しみや悲しみを描いたものであった。発表から2年後、1954年(昭和29年)に高峰秀子が主演し映画化された(二十四の瞳 (映画))。

この群像は、戦争での教訓から、平和を願う気持ちを込め、『二十四の瞳』の原作と映画をモデルにして、映画公開の2年後、1956年(昭和31年)に建てられた。


穏やかな瀬戸内海が、再び殺戮の現場となり、恐怖と狂気に覆われるようなことが、決してありませんように。


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今日はこれにて。


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中山千枚田に思う、の巻 [折々散歩]

   旅行前から、強く心に掛かっていたのは、「中山千枚田」の景観です。るるぶ&moreの紹介記事をお借りします。

中山千枚田

小豆島のほぼ中央、中山地区に広がる千枚田。県内唯一の棚田は大小約800枚にもおよび、標高200mの山腹に波状に並んでいる。田には名水百選になっている湯船の湧水が流れ込み稲を潤している。大小さまざまな形の棚田には、晴れ渡る青空や雲などの景色が映ったり、彼岸の季節には彼岸花が彩りを添えたりと四季折々の表情で楽しませてくれる。優しくて懐かしい日本の風景がそこにある。また、映画『八日目の蝉』のロケ地となり、7月初旬に虫送り行事が復活。毎年7月初旬、火手と呼ばれる松明の光の列が稲の間を揺らめく様はとても幻想的。

千枚田と言えば、私の故郷近くにも、「上山千枚田(上山の棚田)」という場所があります、そう言えば、以前、こんな記事を書きました。

秋あれこれ、の巻(2017.9.10)

帰路、少し足を伸ばして、上山の棚田(上山千枚田)と言うところを訪ねてみようと思いました。

上山の棚田/美作市ホームページから引用します。

上山の棚田

美しい棚田風景を目指して

かつては8300枚の棚田があったといわれる上山地区。減少してしまった美しい棚田を取り戻そうと、Iターン、移住者などの方々を中心に復興作業やさまざまな活動が行われています。

花咲くのどかな棚田や周辺では斜面地での里山の暮らしの息吹が感じられます。
地域おこし協力隊の活動HP:上山集楽(外部サイトへ移動)


中学生時代、友人を訪ねて、この地域へは自転車で行ったこともあります。往時の棚田も、見覚えがあります。
「自分の田を数えてみたがどうも一枚足りぬ、どうしたことかと気づいてみると、自分の笠が田を一枚かくしておった」というような、千枚田の伝承を聞いた記憶もあります。
離農や高齢化で、荒れていた土地を、地域おこしの・復興の取り組みが進んでいることは、全国ニュースやドキュメント番組でも取り上げられ、注目を浴び強う担っています。あのアベ昭恵夫人の「支援」も、鳴り物入りで喧伝されています。
というわけで、ちょっと一目見てやろうと思って山道を走ったのですが、、、。
確かに棚田めいた田圃はありましたが、これでは規模がイメージと違います。


この辺りでは、冬の訪れが早いので、稲の刈り取りが終わっているようです。
結局本格的な棚田風景にめぐりあえないまま、「和気町」という表示があらわれます。隣の行政区に到達してしまったようです。これは道を間違えたぞ、と、今来た道をあと戻り、、、したのですが、目的エリアにたどり着けず、平地まで「下山」してしまい、今回の訪問は実現しませんでした。オソマツ。    

この上山地区を、安倍昭恵夫人が応援したり訪問して、地元で歓迎されているとの由、以前、友人から教えられ驚いたことがありました。後に、モリカケ問題が発覚し、昭恵夫人の際限のないパフォーマンス に改めて思いを致したことでした。
現代ビジネス(2017.3.07)にこんな記事がありました。

昭恵夫人への忖度か?岡山県の農村に「EV車50台」の謎

「こんな田舎の田んぼに、『なんでトヨタが車を寄付してくれたんか』と思うたが、森友学園騒動を見て、なるほど『(安倍晋三首相夫人の)昭恵さんへの配慮か』と、得心が行きました」

こう感想を漏らすのは、岡山県北東部に位置する美作市の市議会関係者である。

美作市は、約2万7000人と県内で最も人口の少ない市であり、農業、林業が主な産業。1000年以上の歴史がある上山地区の棚田は8300枚もあり、日本を代表する田園風景だったが、多くが耕作放棄され、荒れ果てていた。

その棚田を、地域の産業復興、自然環境保全の観点から、都市からの移住者と地域住民と行政が協力し合って再生させようという試みが07年から始まり、NPO法人「英田上山棚田団」が活動を始めた。

山口県下関市に「昭恵農場」を持ち、田植えや稲刈りなど農作業を行っている昭恵夫人は、この運動に共感、2013年2月、初めて上山を訪れて、地域農業復活の為に一緒に活動することになった。棚田団の名誉顧問にも就き、15年3月には、上山地区の活性化や美作市の知名度向上に尽力したということで、美作市から功労表彰された。

その首相夫人が支援する棚田に、現在、1人乗りで小回りが利くトヨタグループの超小型EV(電気自動車)車の「コムス」が導入され、走り回っている。助成しているのは、モビリティ社会の実現とモビリティ格差の解消に貢献することを目的に設置されたトヨタ・モビリティ基金(TM基金)である。

TM基金は、14年8月の設立以来、タイやベトナムで交通渋滞緩和に関するプロジェクトに助成、15年12月、国内では初めて美作市の「上山集楽みんなのモビリティプロジェクト」に助成することになった。

助成先は棚田団とみんなの集落研究所。助成期間は約4年間で助成金額は2億2000万円。中山間地域の移動の仕組みを構築し、最大で50台のコムスを導入、カーシェアリングの要領で、住民が日常生活、農作業の「足」として利用する。

棚田の再生、農村の再構築、それを実現するための住民・農民の「足」の確保――。誰も反対することはない「良いプロジェクト」であり「望ましい助成」である。ただ、それがなぜ美作市上山地区だったのか。

TM基金は、「広くヒヤリングを行い、助成テーマを探すなかで、みんなの集落研究所の紹介を受け、上山地区の棚田の復活に取り組む英田上山棚田団の活動支援に至った」と、答えるものの、全国に数ある「過疎の村の再生事業」のなかで、なぜ上山地区か、という疑問を解消するに至らない。

冒頭の市議会関係者が続ける。

「結局、首相夫人の名前が有効だったん違うか。昭恵さんが、トヨタに頼んだかどうかは知らん。ただ、そんなことはせんでも、『首相夫人が力を入れているんやから』と、配慮するもんでしょう。森友学園で国有地が格安で払い下げられたり、小学校に認可が下りたりしたんと同じ理屈じゃないかと思う」

そう言えば、棚田に関してアベさんは、その著書「新しい国へ 美しい国へ 完全版」(2013年1月)で、地元、山口県長門市油谷後畑の棚田にについてこう書いていました。「日本海に面していて、水を張っているときは、ひとつひとつの棚田に月が映り、遠くの漁火が映り、それは息をのむほど美しい」。また、その年の施政方針演説でも、「日本は瑞穂の国です。息をのむほど美しい棚田の風景、伝統ある文化。若者たちが、こうした美しい故郷を守り、未来に『希望』が持てる『強い農業』を作ってまいります」と強調しました。

そして、今年3月7日のJA全国大会での挨拶でも、こう繰り返しています。

この棚田が海に向かってずっと続いていく。この地域に至りますと、うぐいす嬢も思わずその景色に見とれて、私の名前を呼び続けるのを忘れてしまう。これを正に息をのむほど美しいというのではないかと、こう思うわけであります。確かに美しい風景ではございますが、しかしこの美しい棚田を支えていくことは容易なことではないと思います。生産性だけでは割り切れない。しかし、この地域の皆さんが歯を食いしばって棚田を守っていくことによって、水を涵養(かんよう)し、環境を守り、伝統や文化を守ってきた。そして皆さんその誇りと共に生きてきたんだろうと、こう思うところであります。
正に日本という国は、古(いにしえ)より朝早く起きて、額に汗して田畑を耕し、水を分かち合い、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈ってきた瑞穂(みずほ)の国であります。皆で助け合いながら、この美しい田園風景を守ってきた

「生産性と収益性が高く、中長期的かつ継続的な発展性を有する、効率的かつ安定的な農業経営」への転換によって「強い農業」を作るというアベ農政によっては、美しい棚田は決して守れないでしょう。

この記事で書いたことは、今なお有効でしょう。

稲葉の露その他、 の巻(2017.7.30)

「息を呑まなくてもいいから草刈ってくれ」という揶揄も、あちらこちらから聞こえて来ます。
「月間日本」hpの鈴木宣弘 大企業による大企業のための農業改革という記事(2015/5/7)は的確にこう指摘しています。

大企業の、大企業による、大企業のための農業改革

―― 安倍政権は農業に市場原理を導入する農協改革法案を閣議決定しました。これは、昨年5月に規制改革会議の農業ワーキングループが提出した「農業改革による意見」に基づいています。そのメンバーは大企業の役員です。また産業協力会議の農業分科会では、前ローソン社長の新浪剛志氏が主査を務めています。

鈴木 そもそも、この農協改革は誰のため、何のためにやるのか。その内容を見れば一目瞭然です。「今だけ、カネだけ、自分だけ」という私利私欲に塗れた大企業の、大企業による、大企業のための農業改革だと結論せざるをえません。これは「大企業が儲かる農業」をつくるために、農協や農家を中心とする「大企業が儲からない農業」をぶち壊すという改革なのです。

安倍総理は「もはや、農政の大改革は、待ったなしであります。何のための改革なのか。強い農業を創るための改革。農家の所得を増やすための改革を進めるのであります」と謳っていますが、農家を殺そうとしているとしか思えない。農産物の販売価格と生産コストの赤字を補てんする「戸別所得補償制度」は撤廃する、減反政策を転換して米価は戦後最低水準に暴落する、農家を国際競争に晒すTPP参加を目指す、これで農家が潰れないわけがないではありませんか。

安倍総理は「日本は瑞穂の国です。息を飲むほど美しい棚田の風景、伝統ある文化。若者たちが、こうした美しい故郷を守り、未来に『希望』を持てる『強い農業』を創ってまいります」と謳いながら、稲作を至難の業にし、コメ農家を窮地に追い詰め、コメ農家の後継者を絶望させているではありませんか。

結局、安倍総理は本音では99%の農家は潰れてもいい、1%の企業の農業事業が儲かればいいと思っているのでしょう。「農家の所得を増やす」といいますが、その「農家」とは既存の農家ではなく、農業に参入した企業のことだというにすぎません。(後略)

現に、中山千枚田も、稲作から野菜へと転作されたり、草に覆われた耕作放棄地とおぼしき場所などが、櫛の歯が欠けたように目に入り、痛々しく感じられてなりません。それでも、幾世代にもわたって守り伝えてきた棚田は、山肌にへばりつき這いつくばるようにして、働き、暮らしてきた「民」たちの懸命な思いを集積して、見るものの胸を打たずにはいません。

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険しい労働に明け暮れる「民」たちのほとんど唯一の娯楽は、「農村歌舞伎」であったのでしょう。

「小豆島物語」の一節を引用させていただきます。

中山農村歌舞伎は、約300年前の江戸時代中期から、現在に至るまで上演され続けている貴重な郷土芸能です。お伊勢参りへ出かけた島民たちが、上方歌舞伎の場面を描いた絵馬や衣裳を持ち帰り、旅回りの一座や振付師を招いて自分たちで歌舞伎を演じるようになったのが始まり。最盛期の明治・大正期には、島全体で歌舞伎舞台が30以上、役者が約600人いたといわれていますが、中山農村歌舞伎と肥土山農村歌舞伎の2つが現在まで伝承されています。

茅葺き屋根の珍しい舞台

中山農村歌舞伎舞台が行われる舞台は、春日神社の境内にあります。国の重要有形民俗文化財に指定されている茅葺き寄棟造りの舞台は、天保年間以前に建てられたもので、セリや回り舞台などもあります。観覧席は青天井の芝生席で上演は夕方から夜となりますので、敷物と防寒対策をお忘れなく。

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300年もの間、脈々と受け継がれてきた伝統の芸能。神社の境内にしつらえられた桟敷席に立てば、年に一度、10月の夜に繰り広げられる村をあげての賑わいが、彷彿と目に浮かぶようです。

農村歌舞伎と言えば、わが郷里の近くにも、その伝統が残っていることを、この記事でご紹介しました。

鄙の里歌舞伎にしばし華やぎぬ(2014-11-23)

横仙(よこせん)歌舞伎は、江戸時代以来、地域でうけつがれてきた 伝統芸能です。
横仙歌舞伎保存協議会のホームページにその全容が紹介されています。
その中の横仙歌舞伎保存会のページには、

江戸時代の農民たちは、普段の生活の中に、着るものや、食べ物、住まいや年中行事にまで事細かに決まり(御法度)がありました。
とくに、農民の娯楽の多くは禁止され、特別な許可や多くの制限が必要でした。地歌舞伎も当然取締りの対象でした。
往時には、日本各地、岡山県内にも多くの地歌舞伎が存在しました。しかし、圧倒的に県北に多く伝わっています。それは、県南部は大名の統治する藩領で、県北、特に奈義町は幕府の直轄地「天領」でした。
天領では役人の数が少なく、取締りをほとんど受けることなく芝居ができたため、多くの地歌舞伎が生まれ、活発に繰り返されたと考えられています。(中略)

とあります

奈義町は、津山市に隣接する岡山県北の土地です。津山市と小豆島とのえにしについては、前回触れました。農村歌舞伎についても、何らかの繋がりがなかったとも言い切れないかも知れませんね。

今日はこれにて。


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吉備の「残影」の、巻 [折々散歩]

以前、こんな記事を書きました。

今日の「これなあに?」 訂正・追加版(2013-09-16)


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このクリーム色の花、大豆だろうと思いましたが、どうも葉っぱを比べてみると、小豆かも知れませんね。田舎の畑には両方植わっていました。実が成れば分かるのですが。
念のため、大豆はダイズ、小豆はアズキです。小豆をネット検索すると、まず小豆島(ショウドシマ)がヒットするのですが---。
小豆島は、「ショウドシマ」、小豆郡は「ショウズグン」と読むのもおもしろい。weblio島嶼名辞典名には「小豆島/読み方:ショウズシマ(shouzushima)/備讃諸島に属する瀬戸内海の有人島/所在 香川県小豆郡内海町、土庄町、池田町の3町/別名 アヅキ島(アズキジマ)/位置・形状 備讃諸島の東端。カコウ岩、集塊岩、凝灰岩、安山岩からなる開析溶岩台地」とあります。古くは、「ショウズシマ」とも「アズキジマ」とも呼んだようですが、記紀(古事記・日本書紀)の時代に「阿豆枳辞摩(あずきじま)」と記されているそうですね。

その続編がこの記事。

今日の「これなあに?」 その3(2013-10-15)

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夏にクリーム色の花を見て。「大豆」と勘違いしたこの植物は、やはり小豆でした。小豆は「あずき」と呼びます。「小豆島」は「ショウドシマ」と読みます。 (このハナシ以前書きました)

そして最近話題にしている尾崎放哉は、小豆島に流れ着いて庵を結び、その島で人生を閉じます 。

映画化もされ話題を呼んだ角田 光代作「八日目の蝉」の舞台も小豆島でした。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

また、小豆島の旅、の巻(1)(2016-11-22)では、こうも書きました。

日生(ひなせ)からもフェリーで行ける対岸の島「小豆島」を、昨日は同じ面々で訪ねました。ただ、体調やよんどころない事情によって、今回の参加は、サブローさん、ヨージさん、ヨシエさん、私の4人なので、車一台に同乗して移動するのがよかろうと、サブローさんのお車に乗せていただき、新岡山港からフェリーに乗りました。
今年6月の原生林散歩(下の記事参照)のあと、次はどこに行こうかという相談のなか、私の希望も取り入れていただいて今回の小豆島行きがまとまったのでした。
◇蛙棲む原生林に蝮草(マムシグサ)
◇故旧愉快梅雨の晴れ間の原生林
◇五月雨を集めて垂水(たるみ)はやからん
私が小豆島行を希望したというのは、今年の夏、こんな記事を続けて書く中で壺井栄「二十四の瞳」を再読し、その舞台とされる小豆島と岬の分教場を訪ねてみたいと思ったからでした。
◇自民HP密告フォームと「二十四の瞳」、の巻(1)
◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」(2)
◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」、の巻(3)
◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」、の巻(4)
◇この道はいつか来た道 「密告フォーム」の行き着く先、の巻
思い起こすに、小豆島へは、子どもの頃、何かの団体旅行で、連れられて観光バスで訪れた記憶がうっすらとありますが、思い浮かぶのは、寒霞渓の景色とそこにお猿がいたような記憶だけで、岬の分教場へは行ったかどうかの記憶もありません。
集合場所の新岡山港に一番近いのは私です。早く到着しすぎたかと、そばの公園を一巡り散策してみますと、小鳥のさえずりも聞こえます。シジュウカラかヤマガラらしい声に思えますが姿は見えません。見つけられたはヒヨドリ。

(中略)

まだまだ時間が早すぎるかと思いつつ、フェリー発着場近くをうかがうと、なんと、とっくに全員おそろいでした。
この船に乗ります。

その小豆島へ、昨日、日帰りバス旅行をしてきました(もちろん、海は、フェリーで渡ります)。しょっちゅう話題にしている、退職同業者の親睦団体の恒例行事です。

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見出しにある「吉備の残影」とはなにか?ちょっと気になりませんか?

そこでクイズです。

1)小豆島は何県にあるでしょうか?もちろん、香川県です。

2)では、旧国名は讃岐?

いいえ、備前国に、そして古くは吉備の国に属していたそうです。知りませんでした。

最初の探訪先の旧賀嶋明神は、島内最古の神社で、「延喜式」式内社と同時代の「備前国神明帳」(西大寺本1495年の写本)に備前国128社のうちの1社として明配されているそうです。

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かつて「賀嶋」と書き表されたものが、現在は「鹿島」と書くようです。

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少年マンガ・アニメの「からかい上手の高木さん」の舞台として、近年、国内外から「聖地巡礼」におとずれる若者が増えているそうです。

土庄町商工観光課による「舞台探訪マップ」。

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日本郵政発行の「フレーム切手」のポスターが、神社壁面に掲示してありました。

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クイズのつづきです。

3)小豆島の土庄町が、「歴史友好都市」縁組を結んでいる岡山県の都市は?

答えは津山市。

なんと、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の土庄町と、海からはるか隔たった、岡山県北の津山市が、昭和60年4月7日、「歴史友好都市」を締結しているそうです。

ネット上の津山瓦版都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】

というページに、こんな文章が引用されています。

2009年8月 土庄町スポーツ少年団交流会の様子

江戸時代後期の小豆島は、土庄村(豊島を含む)、渕崎村、上庄村、肥土山村、小梅村、大部村、池田村、草加部村及び福田村の9か郷で天領として倉敷代官の統治を受けていたが、今からおよそ165年前津山藩八代藩主松平斉民公が幕府に対し領地替えを願い出た(美作略史)ことが発端となって天保8年(1837年)11月幕府は、但馬、丹後国のうち2万4千6百石余と、美作国、讃岐国のうち2万7千9百石余との村替えを命じた。この命令により、翌9年3月小豆島のうち大部、福田、草加部の3村を除く西部6か郷5千9百余が、津山藩の領地となって統治されるようになったのが津山市と土庄町の「えにし」の始まりで、これが明治維新の廃藩置県まで33年間続き、その間、主に吉井川を利用して、島からは海産の塩をはじめ、醤油、素麺などを、津山からは山の幸や農産物の交易が盛んに行われると同時に、島四国八十八ヵ所霊場めぐりなどの人の往来、またこうした行き来に伴い、教育や文化の交流も活発になり、山の国と海の村とが友好と親善の強いきずなで結ばれた歴史があった。(文:土庄町スポーツ少年団交流会式次第より抜粋)

津山藩領だった土庄町
香川県小豆郡土庄町は、岡山港からフェリーで約70分のところにあり、人口1万9千人、面積74平方キロメートル。津山市は1985(昭和60)年に、土庄町と歴史友好都市縁組を結びました。


津山藩と土庄町

小豆島は水が少なく、米作りには不向きでしたが、江戸時代、漁のほか、塩やしょう油、素麺などの特産物を、京や大阪に売りに出していました。藩主の斉民が、遠くはなれた小豆島を津山藩領に希望したのは、これらの商売からあがる利益と海に注目したからかもしれません。
江戸時代には、小豆島からたくさんの若者が津山へ奉公に来ていました。現在は、津山から小豆島へ、観光や「おへんろさん」の八十八か所巡りで、多くの人が訪れているほか、スポーツ少年団が交流を行っています。


町指定史跡「陣屋の松」
淵崎小学校のあるところに、津山藩の陣屋がおかれていました。ペリー来航後は代官が常駐し、1858年には、大砲一門が備え付けられました。最後の代官平沼正雄(子どもの騏一郎はのちの内閣総理大臣)でした。


(津山教育委員会発行『私たちの津山の歴史』より抜粋)


その日の探訪の目的地を順次たどって見学しての帰路、フェリー乗り場に向かう途中に、旧「淵崎小学校」(廃校)はありました。その校地の中、大通りからよくみえる塀際に、「史跡 陣屋跡」の碑と掲示板がひっそりと立っていました。

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まだ朽ちてはいないコンクリート校舎に、もちろんのこと人の気配はなく、庭も草木が生い茂って、今日の感に打たれます。

ほかの見学地についてのご紹介は次回に譲るとして、心残りの「非見学地」について一言付記しておきます。

繰り返しになりますが、私にとって、小豆島と言えば「二十四の瞳」と、尾崎放哉。そして小豆島出身の故旧「アキコさん」が思い浮かびます。その尾崎放哉ゆかりの小豆島尾崎放哉記念館への案内ナビが見えましたが、今回も素通り。隣の席のOさんと、残念がったことでした。

そして、さらに今度は、秀吉から棄教を迫られ、領地と財産をすべて捨て小豆島に隠れ住んでいたというキリシタン大名高山右近の顕彰碑と像があるカトリック小豆島教会を見学するため、バスを駐車した付近に、こんな建物がありました。


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尾崎放哉資料館とあります。

あとで調べてみると、小豆島尾崎放哉記念館のHPにこうありました。

小豆島尾崎放哉記念館が開館されて以来、10年以上が経過し収集資料も充実してきましたが、何かと手狭な記念館では十分な展示もままならず、特に放哉直筆句稿274点をはじめとする貴重な資料の収蔵庫併設が望まれていました。しかし記念館敷地は狭小などの理由から併設は叶わず、記念館からはかなり離れた地である土庄町立図書館隣地での開設となりました。資料閲覧をご希望の皆様にはご不便をかけることになりますが、できるだけ多数の皆様にご利用いただきたいと望んでいます。


当資料館は、放哉が師の井泉水に寄せた句やハガキ、手紙類等を中心に井泉水直箪掛け軸や碧梧桐の直筆短冊、井上一二など放哉に関係した人たちの作品を収載しています。井泉水が朱を入れて手直しした跡もあるなど責重な第1級の資料であり、放哉全集にも掲載されていない物ばかりです。
展示室には放哉が小豆島で過ごした約八ケ月たらずの間に言き残した直筆の一部を選び展示しています。
没後80年・放哉が書き残した資料がここに収められています。

一行とちょっと離れて、Oさんと一緒に様子を窺いに近寄ってみますと、残念ながら鍵が掛かっています。注意書きを読んでみると、近くの図書館まで申し出れば開けてもらえるらしいのですが、後ろ髪引かれながら、みんなのあとを追ってカトリック小豆島教会に向かいます。

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この先、また来る機会があったら、今度こそ訪ねてみたいものです。

追伸。Oさんが、お土産に持ってきてくださった庭植えのキンカン。見るからに完熟の、艶やかに赤くて濃い色のとおりの、甘くジューシーな果実。一口食べると、後を引き、なかなか止められません。昨日と今日の内に、妻と2人で、すっかり平らげました。美味でした。Oさん、ありがとうございました。

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巣立ち、の巻 [折々散歩]

昨日の夜は、小学生と保育園の孫がお泊まり。


保育園児は、これまでも何回かチャレンジしながら、いつも夜中になると泣き出して、ママのもとに帰って寝るのでしたが、今回は我が家で眠ることができ、嬉しかったらしい。


機嫌良く朝早く起きてきました。朝食のパンがないので、コンビニまで歩いて買いに行きました。影法師の長いのが面白い様子。早朝は、肌寒いほどでしたが、どんどん気温が上がり、日中は三〇℃超の真夏日になりました。


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毎朝夕、ウオッチングしている,我が家の玄関軒下のツバメの近影を撮影し損ねています。


この写真は、5月22日の撮影です。


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すっかり羽根も生えそろって、雛というよりは精悍な若鳥の姿になっています。


そうこうするうちに、昨日一昨日頃には巣から出てきて、飛行練習をしたり玄関付近のアルミサッシに止まったりしていましたので、撮影しておこうと思いながら後回しにしておりましたら、いつの間にやらどこかへ行ってしまったのでしょうか、昨日の夜は帰ってきませんでした。


家の前の電線には止まったりしますが、あっさり巣立ってしまった模様です。


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近所のプチ散歩の途中、同じ年頃の若ツバメを見かけました。


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麦畑がいよいよ黄金色です。


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色とりどりのポピーが、つぎつぎに咲いています、


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ハルジオン。


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ブロッコリーの花とモンシロチョウ。


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この花。名前がおぼえられません。


ヤナギハナガサ(サンジャクバーベナ) でしたか?


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オオキンケイギクとモンキチョウ。



きょうはこれにて。


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カエルカエル(蛙帰る)、の巻 [折々散歩]

前回記事の通り、手足の生え始めたオタマジャクシを、元の場所に帰してやることにしました。水槽の中に入れた大きめの石の上によじ登っているものもいます。

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孫たちに誘いをかけますが、高校生は部活、小学生も用事があるそうで、保育園児の末妹と同行しました。

ビニール袋に入れて運びます。

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個体によって、かなり体格差があります。ひょっとすると別の種類の蛙かも知れません。

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成体になるまで見届けてみたい気もしますが、さようなら、元気でね。

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放流してやったものの、近くには魚捕り網を持った子どもたちの姿もありましたし、あるいは天敵に狙われる苛酷な運命が待ち受けているかも知れません。以前こんな記事を書きましたが、、、

「これなあに?」3連発、の巻


シマヘビに喰われるツチガエルでしょうか?
古い記事を引用しておきます。
芋の葉を日傘に幼き蛙哉

彼らの姿、動き、表情は,見ていて飽きません。
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カエルと言えば草野心平氏の詩を思い出す人も多いことでしょう。
「第百階級」という詩集の題名からして、市民を意味する「第三階級」(僧シェイエス)より、いっそう格段に底辺に生きる存在への共感が根底にある。カエルは、力弱く、心優しく、底辺に生きる存在であり、詩人もまたその同類なのでしょう。
「第百階級」から一編紹介しておきます。
ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉 草野心平
痛いのは当り前じゃないか。
声をたてるのも当りまへだらうじやないか。
ギリギリ喰はれているんだから。
おれはちっとも泣かないんだが。
遠くでするコーラスに合はして歌ひたいんだが。
泣き出すことも当り前じゃないか。
みんな生理のお話じゃないか。
どてっぱらから両脚はグチヤグチャ喰ひちぎられてしまって。
いま逆歯が胸んところに突きささったが。
どうせもうすぐ死ぬだらうが。
みんなの言ふのを笑ひながして。
こいつの尻っぽに喰らひついたおれが。
解りすぎる程当然こいつに喰らひつかれて。
解りすぎる程はっきり死んでゆくのに。
後悔なんてものは微塵もなからうじゃないか。
泣き声なんてものは。
仲間よ安心しろ。
みんな生理のお話じゃないか。
おれはこいつの食道をギリリギリリさがってゆく。
ガルルがやられたときのやうに。
こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。
そしたらおれはぐちゃぐちゃになるのだ。
フンそいつがなんだ。
死んだら死んだで生きてゆくのだ。
おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるように。
ドシドシガンガン歌ってくれ。
しみったれいはなかったおれじゃないか。
ゲリゲじゃないか。
満月じゃないか。
十五夜はおれたちのお祭じゃあないか。

夜は雨になっていますが、昼間は、風は強いがよく晴れていました。

元気に駆け回って遊びました。

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ミニバラが美しく咲いていました。

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トイレを借りると、男子トイレの天井辺りに、ツバメが巣をかけており、雛が大きく育っていました。図らずも臭い仲とあいなった次第ですが、臭いを我慢すれば、ここは天敵もない安全地帯なのでしょうかね?

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ところで下は、我が家の軒下のツバメの雛です。いつのまにか、こんなに大きくなっています。

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今年の雛は、不思議に、声を出して餌をせがむことをしません。生命力が弱いのかと疑ってもみましたが、今の所順調に成長しているようです。我が家の敷地内を、いつも2~3匹の野良猫が我が物顔に行き来していて、ところ構わず糞尿を置き土産にしたり、夜中に植木鉢を倒したりしてくれます。お隣さんの柿の木の植えの方まで登っているのも見かけました。以前、ツバメもキジバトも襲われて死んだことがありました。一番嫌疑が濃厚なのは、猫ちゃんですが、あるいはイタチなども遠征してきたのかも知れません。またある時は、玄関先に立っている私の上に、どさっと落ちてきたのがかなり大きめの蛇で、一瞬たまげたことがありました。

いずれにしても、ツバメくんたちにとっては住みよい環境とは言えませんが、どうか無事に巣立ってほしいものです。

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今日はこれにて。


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綴じ蓋交換、の巻 [折々散歩]

一昨日の記事割れ鍋に綴じ蓋、の巻でPENTAX k-30の自動絞りユニットにまつわるトラブルについて書きました。

自動絞りに依存している最近のレンズ(PENTAXではDAレンズなど)ではなく、手動絞りダイヤルのある旧式レンズならトラブルを回避できるのでは?という思いつきから、今朝は、手近にあったSIGMA APO70-300mmを装着して歩いてみました。


この試みは効を奏して、絞り制御の不具合というトラブルは回避できたようです。すると、5月になりました、の巻 でご紹介した「PENTAXK30+玉抜きトキナー100-300mmAF+BORG50(アクロマート)というレアな組み合わせ」でも、手動絞りを使用すれば、無問題のはず。また、いっそのことKENKOテレプラス(レンズの後部に装着するテレコン)を付けてみたら写りはどうなるか、などの興味も湧いてきて、昨日、今日の散歩で試してみました。また、最近中古購入したSIGMA MACRO 50mm F2.8 EX にも絞りリングがついていて手動絞りが使えルので実験しよう、と欲張ったため、どの画像がどの機材のものやらわからなくなってしまいました(汗)これでは科学的実験にはなりませんえ?EXIF情報を確かめればよいだろうって?残念ながら、玉抜きBORGとか、テレプラス利用とかの場合、正確なレンズ情報がEXIFに残らないみたいなのです


ですので、実験結果は、「トラブルが起こらなかった」ということだけ確認できたものの、機材ごとの写りの違いなどは曖昧なまま、朝散歩の模様をお届けします。


麦畑。ちなみに、最初の3枚は、RICOHのコンデジGX200です。


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望遠系のレンズですが、はて、どれで写したのやら?


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手前の麦は色づき始めています。


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ヤグルマソウ。


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朝食中のダイサギ。


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今朝のごちそうは、ザリガニでしょうか?


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雀の幼鳥が、社会体験実習中です。トリミング画像です。


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熟れ始めたサクランボを物色するムクドリ。


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畑に植えていた春菊に花が咲いています。刈り取るに忍びないので、咲かせたまま残しています。


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庭のアマドコロ。


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庭のタツナミソウ(白)。


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ブルーベリーの花にミツバチ。


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きょうはこれにて。


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5月になりました、の巻 [折々散歩]

4月28日付けのこの記事(ちひさきもの発見、の巻)の最後に話題にした「PENTAXK30+玉抜きトキナー100-300mmAF+BORG50(アクロマート)というレアな組み合わせ」の画像を紹介しておきます。かなりいずれもトリミングしています。

時ならぬ冷え込みで、まだ暖房が恋しい5月ですが、田園の風景は初夏の装いを見せてきています。

道端のヤグルマソウ、ナガミヒナゲシと、ブドウの若葉。

はな

カワセミに会いました。

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すくすくと伸びた麦畑が広がっています。

麦秋も遠くなさそうです。

麦畑

雀(スズメ}がかくれんぼをしています。

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すずめ

しきりに雲雀(ヒバリ)が囀りながら空高く駆け上っていき、ひとしきり大騒ぎした後、ストンという調子で落下してきます。

ヒバリ

4月28日の散歩でした。この夜、大阪から次男一家が帰省。

昨日(4月30日)には、郷里の老父母宅へ家族全員が集まりました。指折り数えないと不確かですが(笑)、全員で17人。過疎の村の、いつもはひっそりとした田舎家が、賑やかに沸き返りました。

池の鯉への餌やりはおきまりの儀式のようなものです。

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こんな山道を歩いてお墓参りです。

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道端には、ベニシジミやヤマトシジミが目を引きます。

チョウ

大阪の次男一家は今日の昼間にはお嫁さんの実家へと移動。短い滞在でした。

今日はこれにて。


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カリン [折々散歩]

岩波書店のwebマガジンに、こんな記事がありました。


『図書』11月号 【試し読み】小谷汪之/赤坂憲雄/円満字二郎


その一部を引用させていただきます。


連載 漢字の植物園in広辞苑①

11月、紅葉に深まりゆく秋 円満字二郎

02 カリンをめぐる三角関係

漢字の世界では、「楓」のように、一つの漢字が二つ以上の植物を指していることが、よくあります。それとは違って、同じ一つの日本語が二つの植物を指し、漢字で書くと別の書き表し方になってしまう、ということもあります。「カリン」がその例です。

『広辞苑』で「かりん」を調べると、「下臨」「火輪」のあとに、二つの植物名が並んでいます。一つめは、漢字では「花櫚」と書く、マメ科の高木。二つめは、「榠樝」というむずかしい漢字を使って書き表される、バラ科の高木です。

私たちが知っている、一一月ごろに出回る果実を漬け込んでお酒にしたり、のど飴の原材料になったりするのは、バラ科の「榠樝」。マメ科の「花櫚」は「家具・細工物などの高級材」だと、『広辞苑』には書いてあります。この二つが同じ名前で呼ばれる理由については、調べてみたところ、木目がよく似ているからだ、という説があるようです。

ところで、「カリン」には「花梨」という書き表し方もあって、漢字が簡単でかわいらしいところから、よく使われています。『広辞苑』のみならず、多くの国語辞典では、「花梨」は、お酒や飴になる「榠樝」と同じだ、という説明。ただ、中国の辞書には、「花梨」は「花櫚」だと書いてあります。

実際、孫悟空が大暴れする『西遊記』には、「花梨」の木箱が出てきます。また、一八世紀に才子佳人の恋模様を描いた長編小説、『紅楼夢』には、「花梨」の机が登場します。「花梨」は家具の材料となるのです。

とすれば、「カリン」には、「花櫚」と「榠樝」という二つの植物があるだけではなく、「花梨」と書いた場合には、日本と中国で指す植物が違うという、たいへんややこしい事態になっているわけです。植物の名前と、それを書き表す漢字との関係はかくも複雑で、辞書編集者泣かせなのです。


面白く読ませていただきました。---と言うより頭がこんがらがって、よく理解できません(汗)


著者の円満字さんは、ご自身のHPによるとこんな方だそうです。


プロフィール


円満字 二郎(えんまんじ じろう)
1967年、兵庫県西宮市生まれ。円満字は珍しい姓で、父から聞いた話では、もともと、石川県小松市の郊外にあった円満寺というお寺の土地に住んでいた人が、明治になってなぜか「寺」を「字」に変えて名乗ったらしい、とのこと。神戸に出て来たのは祖父の代。小松の本家の系統と、神戸の分家の系統があるものの、全国を探しても20人くらいしか名乗っていない姓ではないかと思われる。
1986年、大学入学とともに上京。1年生のうちから授業には出なくなり、オーケストラの練習場に入り浸る。ただし、忍耐力に欠ける性格から、楽器の腕は上達せず。4年生以降は、ほとんど下宿で小説を読んで過ごす。
1991年、大学を卒業して出版社に入社、高校国語教科書の担当となる。まったく勉強しなかった学生時代の専攻、中国古代史がここでたたり(?)、漢文の教科書を主に編集。最初は現代文をやりたかったものの、次第に漢詩文のおもしろさに目が向くようになる。
1998年、人事異動により漢和辞典の担当に。「漢字」との縁が本格的に始まる。仕事そのものはおもしろいと感じていたものの、やがて、さまざまな事情から、サラリーマンを辞めることを真剣に考えるようになる。その手段として、「漢字」を素材とした文章を書き始め、幸運にも出版の機会に恵まれる。
2008年、退職してフリーに。漢字や漢詩・漢文、中国史に関係する編集や執筆の仕事をしながら、減っていく貯蓄を横目でにらみつつも、現在に至る。

2018.11.05

著書、著述など、興味をそそられますが、今日はそちらには深入りしません。


自然環境体験公園のカリンの花です。


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そう言えば、いつもの散歩道でもカリンの木に見覚えがあります。2014年の春の記事似、写真を載せていました。


春更けていきものの色深くなる


4月もはや終わりが近づき、季節はゆく春の様相を呈してきました。春の風物をアップしておかないと季節遅れになりますねえ。

(中略)

カリンの花でしょうか?

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その場所を、昨日散歩してみました。


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前夜の雨と風が、花を散らしてしまったようです。


桜の花も、ほとんどしべザクラになりました。


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桜の花びらの上を遊ぶスズメ。風流なものです。


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ツグミ。


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ムクドリ。


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ダイサギ。 アオサギ


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道端にはマツバウンラン。この名前、思い出すのに半日かかります(汗)


 


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ヤグルマソウの季節になりました。


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画面右の方に、何かがあらわれました。


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ヒラタアブです。


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カリンの果実については、過去記事で写真を載せました。


奇遇、の巻


たわわなカリン。

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そういえば、去年の秋に、叔母から、自宅の庭で採れたと大きなカリンをいくつもいただき、蜂蜜漬けと、焼酎漬けにしていました。


蜂蜜漬けの方は、風邪気味で喉が痛い時など、そのまま舐めるかお湯に溶かして飲むと、痛みが和らぎ咳にも効くの出、重宝しました。いつまでも保存が利くものでもなさそうなので、最後は蜂蜜ジュースとして消費しました。


焼酎漬けの方は、地下室(嘘です。床下収納)に保管していたものを、昨日取り出してみました。


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美味でした。もう少し寝かせておくと、もっとまろやかになるでしょう。


今日はここまで。


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思いつきの津山城址見学、の巻 [折々散歩]

もう一ヶ月ほどで92歳になる老父が、地元新聞の読者投稿欄に掲載してもらったのを励みに、その後も何度か投稿しているのですが、どうもボツになる回数が多いようです。


たとえば、こんな投稿。もうだいぶ前に書いたものですが、掲載の兆しがありません。


もうボツだろうと踏んで、こっそり当ブログに紹介させていただきます。


高齢者の免許証の返納に悩んでいる
私の住む地区にはスーパーがない。
毎月1回診察して薬を貰いに行く病院が遠いので、どうしても自家用車で行く事になる。 事故をする前に免許証を返納する人が多いけれど、 私は悩んでいる。
今1週問に1度リハビリにいっているので送迎車利用している。何時も助手席に乗せてもらっているので、 職員の運転手さんの技術を隣の席で良く見ている。 それは本当に模範運転である。 制限速度は厳重に守り、急ぐ車には道を譲り、 信号は黄色になる前に停止する位の絶対安全運転を見習えば、 高齢者も事故をしないと信じている。
週に1回か2回位買い物に行っているが、 妻以外の人は乗せない様にしている。 慣れた道でも夜間や雪の日の運転、 飲酒運転は絶対しないで模範運転を見習って、 事故をしない様1日でも長く健康で連転したいと思っている。


高齢者は、できるだけ早く免許返納するよう勧めるのが社会の風潮だから、まだ運転を続けようという投書は載せてもらえないのだろうと、父は解釈しているようです。その父が、免許更新前の高齢者講習を受けることになりました。認知力のテストで、前回よりも何点か下がっていたので、3時間の講習が必要なのだそうです。


示された絵を見覚えて、描いてあったものを思い出す問題で、「ペンギン」という言葉を思い出せなかったこと、トマトを果物に数えたので、「野菜」の数が足りなくて困った、などのことがあったようです。これは、恥ずかしながら、この自分によくある現象なので、他人事とも思えません。


いま、最寄りの自動車教習所では、その高齢者講習の予約が一杯で、免許更新日までに間に合会わないということで、少し遠いですが津山市の自動車学校で講習を受ける予約をしたそうで、初めての場所でもあるので、可能ならば送ってもらえないかと頼まれていたのが、昨日でした。


ちょうど手すきの日でしたので、朝から妻と一緒に郷里まで出向き、老父母を乗せて津山まで送迎する事になりました。


早めの食事を父の奢りで済ませ、予約時間の一時間以上も前に自動車学校まで父を送り、そのあと、4時間ほどを、老母と妻との3人で費やさねばなりません。というわけで、桜の名所で知られる湯山城、鶴山公園を散策してみることにしました。


母の足もとを見ると、「ツッカケ」を履いただけの危なっかしさが気にはなりますが、これで険しい石段の昇降はもとより、踏み段を上り下りしての備中櫓の内部見学や、天守台の見学まで、堪能したことでした。


備中櫓の内部は、靴を脱いで、廊下や階段、座敷を素足で歩いて見学できます。


室内を照らす照明もゆかしく感じられます。


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開け放たれた窓から、畳の上に桜の花が舞い落ちていました。


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矢狭間・鉄砲狭間から下界が明るく見下ろされます。


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津山城、鶴山公園については、当ブログでも何度かご紹介したことがありますが、たとえば去年の4月8日にこんな記事を書いています。


またまた昨日の花見、の巻


鶴山公園(津山城)と言えば、三年前の春、郷里の両親と花見をしたのが一番最近の記憶です。そのことは、これらの記事に書きました。
桜前線北上すの巻
◇達治忌やわが身の影は雨に濡れ
少しだけ引用します。

津山城を築城した初代城主は、信長のお気に入りの小姓として知られるあの森蘭丸(成利)の弟、森忠政です。
彼も、13歳の時、兄と同様信長の小姓として出仕しますが、先輩の梁田弟河内守にからかわれたのに立腹し、梁田を部屋の隅に追いつめ頭を扇で叩いたため、幼すぎると見なされて、信長に親元へ返されました。これが幸いして本能寺の変に巻き込まれることなく、命拾いしたそうです。その後、豊臣秀吉に仕え羽柴姓を授けられますが、秀吉死後は徳川方につき、関ヶ原の戦では徳川秀忠に属して真田昌幸を攻め,その後の大阪の変を経て、美作国18万6000石を与えられ、鶴山に城を築きました。

津山城は、櫓の数の多さでは、広島城、姫路城と肩を並べる、雄大な名城であったそうですが。明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみが残されました。昭和11年(1936年)模擬天守が建てられましたが、太平洋戦争中に空襲の目標とされることを恐れて解体されました。
津山城趾、鶴山公園は、知る人ぞ知る桜の名所です。

この年は、4月2日に花見をしたのでしたが、好天に恵まれてすっかり咲きそろっていました。その点、今年の桜は、少し遅いようです。


県内の桜情報などによると、見頃の時期はかなりすぎていますが、この場所が妻は初めてとあって、是非見せてやりたいと母が言いますので、近くに車を停めて歩いて行くことにしました。


前日の日曜日で「さくらまつり」が終わったところらしく、屋台や売店の後がガランとして寂しく、また、三々五々、片付けが進んでいるようすでした。


まさしく「祭りの後」「後の祭り」そのものでした。


でもまあ、兼好法師も「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」と言ってます。古い記事を引用しておきましょう。


さくらの日(2014.3.27)


鎌倉時代の兼好法師は,こう書いています。

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ。」とも、「障ることありてまからで。」なども書けるは、「花を見て。」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし。」などは言ふめる。 (兼好法師『徒然草』「花は盛りに」)

【解釈】

桜の花いうたら、真っ盛りに咲いとる時だけを、月はくもりのない満月だけを、見るものどすやろか(いやいやそうではおまへん)。雨にむかって、月を恋い慕うたり、スダレを垂れて部屋んなかにとじこもって、春がどこへ行ったのやら、わからへんのも、やっぱり、しみじみ趣深いものでおます。今にも咲きそうな桜の梢や、咲き終わって、花が散りしおれている庭などこそ、ホンマに見所が多うおまっせ。
和歌の詞書にも、「花見に参りましたんやが、もうすっかり散りってしまうておりまして。」とも、「差しつかえることがあって花見に行きそびれてからに」などとも書いてあるのは、「花を見て。」と言っているのに劣っとりますやろか(いや、劣ってはおまへん)。花が散ったり、月が西に傾いたりするのを慕う世のならわしは、もっともなことでおますけれども、特に情趣というもんがわからへんカタブツが、「この枝も、あの枝も、花が散ってしまいましたなあ。もう見所はおまへん。」などと言うようでおますすなあ。

江戸時代の国学者本居宣長は,これに難癖をつけてこう書いています。

兼好法師が徒然草に、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」とか言へるは、いかにぞや。いにしへの歌どもに、花は盛りなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには風をかこち、月の夜は雲をいとひ、あるは待ち惜しむ心づくしをよめるぞ多くて、心深きも、ことにさる歌に多かるは、みな花は盛りをのどかに見まほしく、月はくまなからんことを思ふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを嘆きたるなれ。いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲を願ひたるはあらん。さるを、かの法師が言へるごとくなるは、人の心にさかひたる、のちの世のさかしら心の、つくりみやびにして、まことのみやび心にはあらず。かの法師が言へることども、このたぐひ多し。みな同じことなり。すべて、なべての人の願ふ心にたがへるを、みやびとするは、つくりことぞ多かりける。(本居宣長『玉勝間』「兼好法師が詞のあげつらひ」)

【解釈】

兼好法師の徒然草に、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」なんぞと言うてはるのは、いかがなものですやろか。古い昔の歌々に、花は満開の状態を、月は曇りのない満月を見たんよりも、花のもとで風に不平を言い、月の夜は雲をいやがり、あるいは花が咲き満月が空を照らすのを待ち焦がれたり、盛期が過ぎ去るのを惜しんであれこれ気をもんだりするのを詠んだ歌が多うて、情趣深いのんも、特にそんな歌に多いのは、みな花は満開の状態をのどかに見たいのやし、月は曇りがないんを願う気持ちが切実やからこそ、それが適わへんのを嘆いているんや。どこぞの歌に、桜の花に風を待ち、月に雲を願っている歌があるやろか、いやあらしまへん。せやのに、あの法師が言うてるようなんは、人の心に逆らうてる、後世の利口ぶった心、エセ風流で、本物の風流心やおまへん。あの法師が言うてることには、この類が多い。みんな同じことどす。すべて、おおかたの人の願う心に背反していることを風流とするのは、わざとらしい作為が多いことでんなあ。(本居宣長『玉勝間』「兼好法師が詞のあげつらひ」)


でもまあ、盛りは過ぎても、みどころはありましたよ。


フォト蔵に城や桜の様子をアップしておきました。 さくらまつりの翌日の津山城(2019)
さくらまつりの翌日の津山城(2019) posted by (C)kazg さくらまつりの終わった津山城(2019)
さくらまつりの終わった津山城(2019) posted by (C)kazg さくらまつりの終わった津山城(2019)
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ヤマザクラ、ソメイヨシノは、ほとんど葉桜に変わりかけていますが、見事に満開状態の大木がありました。

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「オオシマザクラ」と品種名の表示がありました。


うっすら記憶にあります。「ソメイヨシノ」は、「エドヒガン」と「オオシマザクラ」との交雑種だとか?


津山市公式観光サイトに、津山城に咲く桜マップというページ(PDF)があり、津山城に植栽されている16種類の桜の品種と。その植栽場所が紹介されています。あらためてその豊富さに驚きます。


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すっかり堪能して、下城しようと歩いていると、石垣にこんな生き物が、、、。


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トカゲのつがいが風流な桜見のそぞろ歩きでしょうか?


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津山郷土博物館は、耐震工事中とやらで、休館でした。ちょうど市議選挙のただ中で、候補者掲示板にポスターが勢揃いしています。


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森本慶三記念館(旧津山基督教図書館) 歴史民俗館を見学してみました。


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今日はこれにて。


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桜の後楽園、の巻 [折々散歩]

参議院議員の吉良よし子さんの事務所のフェイスブックが、彼女の活躍ぶりを伝えてくれています。


地方選挙前半戦の終盤、高知に帰って、応援演説に駆け回った由。


これはお父さんの吉良富彦さん。


画像に含まれている可能性があるもの:2人、、スマイル、屋外


そして、こちらは、わが学友の米田稔君。


画像に含まれている可能性があるもの:2人、、スマイル、立ってる(複数の人)、スーツ、屋外


応援ありがとう。おかげさまで七期目当選です。


そして昨日の投稿。


画像に含まれている可能性があるもの:12人、、スマイル


大阪12区の宮本たけしさん、そして、沖縄3区のヤラともひろさん。二つの衆院補選が、ドラマチックで目が離せません。


今日は、後楽園へ行ってみました。


まだ桜が楽しめます。


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ヒヨドリが大活躍。


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紅葉の若葉に、ヤマガラが見え隠れしています。


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真っ赤な椿の巨木。


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今日は、思いつきで、フィルムカメラも持って行きました。シャッターを切る瞬間、独特の充実感があります。すぐには写り具合が確認できないのも、余韻を増します。さて、現像・焼き付けがいつのことになりますやら。とりあえずはデジカメの画像をご紹介しておきます。


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桜並木の向こうに、クスノキの新緑が見えます。


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ところで散歩中、若いアベック、いやカップルが、写真を写してくれませんか?と声をかけてこられました。「写るんです」を手渡されました。


「どちらから?」と尋ねると、「韓国です」との答え。驚きました。流ちょうな日本語です。「写るんです」の、フィルム巻き上げ操作を、一瞬ためらっておりますと、「懐かしいでしょ?」と、即妙な応答。心地よい国際交流感覚を味わえました。


いつものことながら、後楽園の観光客は、国際色豊かで、アジア系、またヨーロッパ系の、様々な言語が飛び交っています。


今日もシロハラに会いました。


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今日はこれにて。


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また桜だ?の巻 [折々散歩]

FNNPRIMEの昨日付記事にこうありました。


数々の問題発言を続けていた桜田義孝五輪相が、4月10日夜、事実上更迭された。
昨年11月5日の国会質問で、五輪関連予算1500億円を「1500円」と発言し、質問者の蓮舫(れんほう)氏の名前を「レンポウさん」と言い間違い。また4月9日には宮城県石巻市(いしのまきし)のことを「いしまきし」と言い間違えていた。
さらに、昨年11月6日には参議院予算委員会の審議後の記者会見で「質疑の事前通告がなかった」と事実と異なる説明をして、発言を撤回し謝罪した。
また「五輪憲章を読んでいない」「パソコンを打たない」など、五輪相としての資質を疑われる発言や国会審議へ遅刻することもあった。


この桜田元大臣については何度か記事で触れましたが、 もう辟易。勘弁して欲しいです。

たまた不適材露見、の巻


招かざる客、の巻


自分で歩き出した道ですもの、の巻(その2)


桜田サンの話題はそれくらいにして、この春の寒さのせいで、桜はまだまだ見事に咲いてます。


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今日プチ散歩した自然環境体験公園のソメイヨシノです。


カワラヒワが活発に活動していました。


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見あげると、ミサゴです。


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シロハラがいました。


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最近シロハラによく会います。


4月8日(月)深山公園で。


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4月9日(火)、三徳園にて。


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今日はここまで。


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花に嵐、の巻 [折々散歩]

昨日の朝の三徳園(小鳥の森)。

どこもかしこも桜が満開でした。

ソメイヨシノ。

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ヤマザクラ。

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ミツマタ。

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ヤマブキ。

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郷里の山も笑っています。

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庭のシバザクラも満開。

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スイセンもいろいろ咲いています。

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タンポポ。

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シロバナタンポポ。

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綿毛。

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タンポポの葉に、ヤマトシジミが飛んできて止まりました。

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昨日は、高校の入学式だったそうで、夕方桜の木の下で記念撮影をしました。

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この好天も昨日の夜まで。深夜から今日にかけて、強い雨と風です。

今朝は、傘差し散歩。強風に煽られて傘をジョウゴにされ、早々に引き揚げました。

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「花散らしの雨」と書きかけて、そう言えばこの言葉、いろいろと話題になっていたことを思いだしました。

気象予報士・気象解説者の森田正光(ウェザーマップ取締役会長)さんが、以前(2016年4月)こんなことを書いておられました。さすが適切な解説と感心しましたので、少しだけ引用させていただきます。

その「花散らし」という表現に対して、ある方から「花散らし」と言うのは、古来は艶っぽい表現で下品な意味を含むので、その言葉を使うのは控えたほうがいいのではとのご意見をいただきました。

では、 その「花散らし」の本来の意味はなんでしょう。

広辞苑には「三月三日を花見とし、翌日若い男女が集会して飲食すること。(九州北部地方でいう)」と書いてあります。まぁ、現代風に言えば、夜通しで行われた今の時代より自由な合コンのようなものでしょう。

確かにそう考えれば艶っぽいというか、あまり適切でないという意見も分からないではありません。ただ、こうした批判めいた意見を聞くと、経験の浅い気象解説者はその意見にたじろいで、つい自己規制をして無難な表現になってしまいがちです。

しかし、すでに死語と化した本来の意味を持ち出して、現在ふつうに使われている「花散らし」という表現を抑えようとするのは、いかがなものかと私は思います。

言葉は恒に変化し、我々気象解説者にとっては、季節や気象に関する言葉は語源も含めて、慎重に扱わなければならないのは言うまでもありません。

ですが、あまりに本来の意味に囚われると、自由な表現を狭めて息苦しい気象解説になってしまいます。

ちなみにNHKの気象ハンドブックによると、

「もともとの意味は、…略… 旧暦3月3日に海辺で催す男女の酒盛りのことを言ったとされている。最近は桜の花を散らす強風を指して言うこともある。」

となっています。

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もう一つ、私の頭に浮かんだフレーズ。「花に嵐」。

これは、これまで何度も書いておりました。

たとえば、2015年と2016年の4月の同じ時期に、こんな記事を書いています。

満開の花に嵐の無惨かな

毎日が花見の暮らし!雨も佳し

何の新味もありませんが、性懲りもなく、引用再掲させていただきます。

毎年毎年飽きもせず、相も変わらず、同じようなことを考えるものです。 (中略)    

こんなお天気だと、こんなフレーズを口ずさんでしまします。

この杯を受けてくれ
    どうぞなみなみ注がしておくれ
    花に嵐のたとえもあるぞ
    さよならだけが人生だ
  井伏鱒二 『勧酒』

もちろん、原詩は唐代の詩人 于武陵(うぶりょう)の五言絶句「勧酒 」。

勧酒    于武陵

勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
(『唐詩選』) 
【書き下し】
酒を勧む 于武陵
君に勧む金屈巵
満酌辞するを須(もち)ひず
花発(ひら)きて風雨多く
人生別離足る

この「人生別離足る」を、井伏は「さよならだけが人生だ」と圧倒的な訳語を創出しました。

その断言の印象深さの故でしょう、 寺山修司がこれにこだわって、なんとかしてあらがおうと試みています。

    さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
    はるかなはるかな地の果てに咲いている野の百合何だろう
    さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
    やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
    さよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろう
    さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
    さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。
    寺山修司 『さよならだけが人生ならば』

「花に嵐」も午後にはようやく収まり、小糠雨を残すのみとなりました。「春雨じゃ濡れて参ろう」と洒落込むには寒すぎる「花冷え」に、とうとう我慢できず、何日ぶりかでストーブ用の灯油を買ってきました。暑くなる前に使い切れるかどうか微妙なところですが、、、。

この春転勤した保育士の長女が、今日はお休みだそうで、「桜を見たくなった」と、3歳児を連れてやってきました。

東京ほか、時ならぬ雪に見舞われた地方もあったようですが、それほどではないまでも、寒い散歩になりました。

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でも、元気に大はしゃぎです。

  さよならだけが人生ならば
  また来る春は何だろう     

今日はこれにて.


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