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すもももももも、の巻(その5) [文学雑話]

桃と言えば、わが地方では、川上から「どんぶらこどんぶらこ」と流れてくる大きな桃が有名です。おばあさんが拾って帰った桃の中から生まれた桃太郎が、鬼を退治するストーリーがよく知られていますが、古来様々な桃太郎伝説が伝わっているようです。
その一端は以前この記事「 昨日は海へ、今日は山へ、の巻」でもご紹介しました。


  おばあさんは川へ洗濯に、おじいさんは山に柴刈りに出かけるのは、おなじみ桃太郎の昔話。

どんぶらこどんぶらこと、川上からおおきなサツマイモが流れてくるのは、落語のネタです。おじいさんに内緒で芋をふかして食べたおばあさんは、ついつい粗相をしてしまう。山で柴刈りをしていたおじいさんは、柴を刈らずに草刈った(臭かった)というオチ。

ところで 岡山在住の民俗学者・民話研究家立石 憲利(たていし のりとし)さん 編著の「桃太郎話」には、各地で採話した、いろいろな「桃太郎話』が収められています。(以下略)


また、こちらの記事秋の吉備路の歴史散歩、の巻(2)では、退治される鬼の側から桃太郎伝説を話題にしてみました。


吉備の中山の、北東麓にある吉備津彦神社は、備前国一宮であり、両社とも、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祭神としています。その吉備津彦命に退治された鬼=温羅にまつわる伝説を、今日は話題に取り上げてみます。
現職時代、私も所属していた岡山高生研(全国高校生活指導研究会岡山支部)のHP(現在は閉鎖中)に、こんな記事がありました。温羅に関する記事を一部引用させて戴きます。

 


1990年岡山・倉敷市で開かれた高生研第28回全国大会で,現地実行委員会が発行した情宣紙の題名が「温羅太鼓」。
「さりげなく,だが力強く」を現地スローガンに掲げ,明るく楽しいトーンを大切にとりくんだ全国大会が,岡山高生研に残した財産は何だったか?あらためて確認してみたいものです。
なお「温羅」は「うら」と読み,古代吉備の伝説上の人物。近年岡山県では,町おこしの一環として,この「温羅伝説」にスポットライトをあて,「市民参加型のまつり」として「うらじゃ」祭りが盛大に取り組まれています。
このまつりが始まったのが,1994年だそうですから,岡山高生研の「温羅太鼓」のほうが,4~5年も先輩ということになります。自慢するわけではないですが...。(2007年9月記)


No1
1989/8/2 発行
20年ぶりの開催 来年は岡山で会いましょう 現地実行委員長の言葉

アンチ桃太郎
温羅太鼓とは?

この情宣紙「温羅太鼓」は,岡山に伝わる温羅(うら)伝説にちなんでいる。
岡山というと「桃太郎」が思い起こされるが、温羅伝説によると桃太郎の原型は吉備の国を侵略した大和政権の吉備津彦である。「温羅」とは吉備の国の王、百済から渡来し国を豊かに拓き、乞われて王となった。
凄惨な戦いの末ついに温羅は斬首されるが,その怒りの咆哮はいつまでも続き、民人の嘆きの号泣を誘ったという。今に伝わる吉備津神社の御釜殿での鳴釜の神事をはじめたのも、この亡国の人々ではなかったのだろうか。
そして私たちも「現代の温羅」なのである。


No2
1989/8/2 発行
ようこそ岡山へ

吉備の王 温羅を探る
鯉に姿を変えて吉備津彦と戦ったが

昔温羅(うら)という大男が百済から渡ってきて吉備の国の「鬼の城」の山頂に城を築いた。温羅は新しい学問を広め平野を耕し水路をひらき山を拓いて鉄をつくり生産は豊かに国力は大いにふるった。女子供までが敬い慕い温羅は選ばれて吉備の王となった。

侵略軍がやってくる

一方天皇家を長とする大和政権はその頃日本全土を平定しようとしており台頭する吉備の国を討つため兵をすすめてきた。彼らは自らを吉備津彦と名乗り温羅を鬼と呼んで八方に流言を飛ばした。
侵略軍は中山に陣を張って進軍し温羅の軍勢は鬼の城で迎え撃った。吉備津彦が矢を放つと温羅は石を投げ矢と石は空中で火花を散らし戦いはいつ果てるともしれなかった。
この時の故事によってできた「矢喰神社」というお宮がいまだに残っておりちょうど鬼の城と吉備津彦神社の中間に建てられている。

血に染まりながら

戦いにそろそろ疲れが見え始めた頃吉備津彦が2本の矢を射たところ一本は温羅の投げた石にあたりもう一本は温羅の目を射止めた。温羅は傷つき鯉に姿を変えて血に染まった川を下った。今ではこの川を血吸川と呼び下流の地方に赤浜という地名を残している。

首を食いちぎられた

吉備津彦は鵜に姿を変えて鯉を追い詰め温羅はとうとう首を食いちぎられた。この時のことを物語るように「鯉喰神社」というお宮がある。
温羅の首は首村の刑場にさらされたがなおもカッと目をむき真っ赤な口をあけて怒りの咆哮を続けた。その声は野越え山越え国を失った民人の嘆きの号泣をさそって幾日幾夜もとどろきわたったということである。

鳴釜で吉凶を占う
温羅の怒りの声が聞こえる

吉備津神社には古くから「吉凶占い」として有名な大釜がある。この吉凶占いは神主がご祈祷している間に巫女さんが大釜に火を入れて炊き大釜が熱くなってきて鳴り出すとそれは『よい運勢だ」というふうに行われるこれは「鳴釜神事」と呼ばれ,神のご託宣を受ける儀式とされている。

大釜の底に首が

昔吉備の国を征服するため吉備津彦が調停から派遣されこの地方を支配していた温羅との戦いに勝ちその首をはねた。温羅の首はさらし者にされたが何年もほえ続けた。そこで吉備津彦は温羅の首を大釜の底に埋葬することにした首はそれにもかかわらず13年もの間その地方の至る所に響くほどほえ続けた。

夢の中に温羅が

ある夜吉備津彦の夢の中に温羅が現われこういった。
「私の妻,阿曽姫にこの釜で米を炊くように伝えてください。そうすれば私は吉凶占いをして見せます。あなたはこの後神様におなりください。私はあなたの下僕となりましょう。」
吉備津彦はこの後吉備津神社の主神として祭られておりその裏には温羅の魂を鎮めるための「お釜様」がある。

(以下略)


「温羅太鼓」と名付けられたこの情宣紙は、1990年8月2日までに34号が発行されています。私も、当時、情宣係の一員として、この発行のお手伝いをし、大会期間中は会場となっていたホテルの一室にとまりこんで早朝から深夜まで、一日数回発行の速報の編集に携わったことが思い出されます。また、現地実行委員会が提供する文化行事として、「温羅」とその一族に焦点を当てた群読劇にも取り組み、私も演者の末席を汚したものでした。このとりくみの中心を担ってくれたのが、当ブログでも何度か紹介済みの畏友H氏でした。その彼は、早々と文字通りの「鬼籍」に入ってしまわれました。また、現地実行委員長を勤めてくださったYさんは、この行事を「花道」としてこの年退職されましたが、ほど経ずして逝去され、またほぼ時を同じくして、敬愛するM先輩も旅立たれました。(以下略)


その畏友H氏の命日が間近であることを、つい先日友人との会話で気づかされました。H氏への追悼の思いは、これらの記事に書きました。


初盆や逢うて寂しき目覚めかな


自由なる友や何処を旅すらん


思い返せば、私の2007年の脳動脈瘤手術のあと、共通の友人であるU氏と自宅に見舞いに来てくれました。見舞う側と見舞われる側が、こんな風に逆転する場面など、夢想だにしませんでした。何しろ、彼の方が2歳も若いはず。お子さんもまだ学生だし、順番が違うでしょ。と、しきりに悔やまれてなりません。
彼の直接の死因は、肺炎。その背景に、転移した肺がんがありました。
彼を見送った4月の時点では、よもや私に、同じ病名が宣告されようなどと、誰が思いつくことができたでしょうか。でも、私のは、まさしく初期でしてね、あなたの苦痛や不安に比べたら、雲泥の差なのですよ。
ただ、病気が病気だけに、侮ることなく、「終活」の心構えだけは整えておきたいのですがね。なかなか、煩悩に勝てません。たとえば、きゅっと冷えたビール!(正確には発泡酒ですがね)
終活を心に期せど酒旨し


話をモモに戻します。


そう言えばこんな記事を書いたこともありました。
キジにまつわる悔しい記事の巻


ところで、キジは、日本の国鳥でもあり、岡山県の「県鳥=県民の鳥」です(岩手県の県鳥もキジだそうですね)。
郷土の民話、桃太郎の伝説にも登場しますからね。
ちなみに、岡山県の木はアカマツ、岡山県の花はモモの花だそうです。
モモは県の名産品ですし、川上からドンブラコと流れてくることも、珍しくはないかも知れません。
ご存じ「吉備団子」は、岡山の銘菓ですし、桃太郎伝説は、県民にとっておなじみです。

それでは県民の動物は、サルとイヌかというと、そういうわけでもないようです。
以前は、岡山県の「県民の鳥」はホトトギスでした(1964年に
決定)が、ホトトギスの托卵性(ほかの鳥の巣に卵を産み付けて育てさせる)の習性が、「ずるい」「がめつい」という悪イメージにつながるなどの理由から、
県民投票によって、1994年からキジに変更したのだそうです。


岡山後楽園そばの旭川畔に、桃の実を差し上げてたつ男の子は、


「水辺のももくん」。1989年に岡山市制100周年を記念して設置されたそうです。


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川上から流れてきた桃から生まれた桃太郎鬼を退治するストーリーは、しかし比較的新しい脚色であるらしく、古くは、桃を食べたおばあさんとおじいさんが若返り、そのおかげで赤ちゃんが生まれたという若返り伝説であったようです。


桃はそのように、回春、不老長寿の薬としても尊ばれたようです。ウィキペディアにはこうあります。


中国において桃は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれている。桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けの、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないとなる。桃の実は長寿を示す吉祥図案であり、祝い事の際には桃の実をかたどった練り餡入りの饅頭菓子・壽桃(ショウタオ、shòutáo)を食べる習慣がある。壽桃は日本でも桃饅頭(ももまんじゅう)の名で知られており、中華料理店で食べることができる。寿命をつかさどる女神の西王母とも結び付けられ、魏晋南北朝時代に成立した漢武故事(中国語版)などの志怪小説では、前漢の武帝が西王母の訪問を受け、三千年に一度実をつける不老長生の仙桃を授かったという描写がある。さらに後代に成立した四大奇書のひとつ西遊記の主人公孫悟空は、西王母が開く蟠桃会に供される不老不死の仙桃を盗み食いしている。

日本においても中国と同様、古くから桃には邪気を祓う力があると考えられている。『古事記』では、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させた。伊弉諸尊はその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたという。


 


桃を愛でた詩も沢山あります。まず思いつくのは、古いところで詩経に収められている古体詩「桃夭(とうよう)。


【原詩】

桃之夭夭
灼灼其華
之子于帰
宜其室家

桃之夭夭
有蕡其実
之子于帰
宜其家室

桃之夭夭
其葉蓁蓁
之子于帰
宜其家人

【書下し】

桃の夭夭(ようよう)たる
灼灼たる其の華
之の子于(ゆ)き帰(とつ)ぐ
其の室家に宜しからん

桃の夭夭たる
蕡(ふん)たる有り其の実
之の子于き帰ぐ
其の家室に宜しからん

桃の夭夭たる
其の葉蓁蓁(しんしん)たり
之の子于き帰ぐ
其の家人に宜しからん

【kazg語訳】

若々しい桃の花。
燃えてるようなその花。
桃の花のようなこの子が嫁いで行くよ。
嫁ぎ先にぴったりの佳い子だよ。

若々しい桃の実。
はち切れそうなその実。
桃の実のようなこの子が嫁いで行くよ。
嫁ぎ先にぴったりの佳い子だよ。

若々しい桃の葉。
盛んに茂るその葉。
桃の葉のようなこの子が嫁いで行くよ。
嫁ぎ先にぴったりの佳い子だよ。


飾らぬ素朴な歌いぶりの中にも、不老不死、一家繁栄につながる幸せの果実のイメージが、温かくほほえましく膨らみます。


以前書いたこの記事も、幸せの果実に繋がります。


桑の木がなくては成らぬ桃花源


理想郷を意味する「桃源郷」という言葉の起こりとして、陶淵明の「桃花源記」が知られています。 (中略)


【解釈】 昔々、晋の国の太元年間に、武陵出身のオッサンが魚を捕って暮らしておった。あるとき、谷川沿いに漁をしながら進むうちに、どこをどう進んだかわからんようになって、道に迷うてしもうた。突然桃の花が咲く林にぶち当たった。林は川を挟んで両岸はるかにつづき、桃以外の雑木は混じっていない。エエ匂いのする草が鮮やかに美しく生え、花びらが散り乱れている。漁師のオッサンは不思議に思って、さらにすすんで行き、その林がどこまで行き着くか確かめようとした。林は水源のところで終わり、目の前に山があった。山には小さな入り口が開いており、ぼんやり光っておるようじゃった。そのまんま、船を乗り捨てて入り口から中に入った。

初めはエライ狭く、やっと人一人通ることができるだけじゃった。さらに数十歩進んだら、ぱかっと目の前が開け、明るくなった。土地は平らで広々、建物がきちんと並んでおる。手入れの行き届いた田畑や立派な池があり、桑や竹が生えておった。あぜ道は整備されて四方に通じ、鶏や犬の鳴き声があっちっこちから聞こえてくる。村人が行ったり来たりして、種をまき耕作している。その衣服はまったく外の世界の人とかわりがない。老人も子供も、みんな喜び楽しんでいる。村の人らは、ぜひにと家に迎え、酒席を設け、鶏をしめてご馳走をつくってもてなした。ほかの人たちもこのことを聞きつけて、みんなやってきて挨拶をした。村の人がいうには、「先祖が秦の時代の戦乱を避け、妻子や村人を引き連れて、この世間と離れた場所にやってきて、二度と外に出ませんでした。そのまま外の世界の人と隔たってしまったのです。」ということじゃった。村人は、「今はいったい何という時代ですか。」とたずねる。なんと漢の国があったことも知らんのや。ましてや、魏・晋を知らんのは言うまでもない。この漁師のオッサンは、一つ一つ詳しく答えてやった。村人は、みんな驚いてため息をついた。他の村人もそれぞれ漁師のオッサンを自分の家に招待して、酒食を出してもてなした。数日間とどまって別れを告げて去ることとなった。村の人は、「外の世界の人に対してお話になるには及びませんよ。」と口止めした。

やがて外に出て、自分の船に乗り、もと来た道をたどって、至る所に目印をつけておいた。郡の役所のあるところにたどり着き、郡の長官のもとに参上して、見てきたままを説明の道を見つけることはできなかった。南陽の劉子驥は志の高い高潔な人である。この話を聞いて喜び楽しんで行くことを計画した。まだ実現していない。やがて病気を患って亡くなってしまった。その後はそのまま渡し場をたずねようとする者もいない。


この隠れ里は、 戦乱と争闘のない、平穏な自足の社会で、老子の思い描いた理想社会像=「小国寡民(しょうこくかみん)」の姿とあい通うものです。 (中略)

【解釈】 小さな国に少ない住民。いろいろな文明の利器があっても安直に用いさせないようにし、人々に生命を大切にして遠くに移動させないようにする。 舟や車があってもそれに乗ることはなく、武器はあってもそれを並べたてて使用するようなことはない。 人々に小ざかしい文字や言葉に頼ることなく、今ひとたび太古の昔のように縄を結んで約束のしるしとさせ、己れの食物を美味いとし、その衣服をすばらしいとし、その住居におちつかせ、その習俗を楽しませるようにする。 かくて隣の国はお互いに眺められ、鶏や犬の鳴き声が聞こえてくるほどに近くても、人々は年老いて死ぬまで他国に往き来することがない。そのゆえ、いくさや争いごとが起こることもない。これが理想の国だ。


老子の心には、しばらく前までこの世に存在し、今は廃れてしまった「原始共産制=原始共同体」社会への郷愁をはらんだ憧れがあったでしょう。「小国寡民」は、人間の小ざかしい知恵=文明が、人間同士の争いを生み、差別を生み、不幸を生む元凶であるとみなし、その対極に理想を求めようとしているのでしょう。

ですが、「桃花源」は、いささか違いがあるように思えます。それは「清く、貧しく、無知無欲」のただただ消極的な原始社会ではないようです。そうではなくて、豊かな「良田・美池」によって食が満たされ、「桑竹之属」によって、絹織物や竹細工など、衣類・調度も上等な嗜好が満たされ、衣・食・住の全般、および人間同士のかかわり方についても、洗練された快適なたしなみが感じられます。村全体を、桃の花のあでやかな色とかおりが包み、実が熟したら、甘い果実をみんなで分け合って味わうような、高度な文化社会と思えます。


今日はここまで。

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すもももももも、の巻(その4) [文学雑話]

梅とともにスモモの近年種に挙げられるアンズの話題の続きです。 

熊大医学部硬式庭球部の学生さんのための、格言・故事成語講座


というサイトから、こんな記事を引用させていただきます。


(その49) 牧童遥かに指さす杏花の村


清明 杜牧

清明時節雨紛紛
路上行人欲断魂
借問酒屋何処有
牧童遥指杏花村


清明(せいめい) 杜牧(とぼく)

清明(せいめい)の時節(じせつ)雨(あめ)紛紛(ふんぷん)
路上(ろじょう)の行人(こうじん)魂(こん)を断(た)たんと欲(ほっ)す
借問(しゃもん)す酒屋(しゅか)は何(いず)れの処(ところ)にか有(あ)る
牧童(ぼくどう)遥(はるか)かに指(ゆび)さす杏花(きょうか)の村(むら)


[口語訳]

春の盛りの清明の季節はよく雨が降る。好季だというのに、
今日もこぬか雨の降る中を野歩きしている。
道行くわたしの心はすっかり滅入ってしまった。
酒でも飲んで気晴らしをしようと酒屋はどこにあるかと尋ねると、
牛飼いの少年の指さすかなたに白いあんずの花咲く村が見えた。
(『自然をよむ』・NHK学園)による。

漱石の次の句は、この詩を踏まえたものといわれています。

ものいはず童子遠くの梅をさす


「遥指杏花村」。質朴そのものの牧童が指さす先をみやれば、はるか遠くにかすむ村一杯に、純白の、あるいは淡いピンクの杏の花が咲き広がっている。のどかな一幅の絵ですね。


牧童とは、牛飼いの少年を言うそうです。


これは、2002年、ベトナムで写した写真ですが、牧童のイメージを思い浮かべることができるように思えます。


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杏の花は、白居易(白楽天)をも魅了したようです。


遊趙村杏花      白居易


    趙村紅杏毎年開
    十五年來看幾迴
    七十三人難再到
    今春來是別花來


   【書下し】

    趙村の杏花に遊ぶ 白居易   
    趙村の 紅杏 毎年 開き
    十五年來 幾迴か 看る
    七十三 人 再び 到ること 難ければ
    今春 來たるは 是れ 花に別れんとして來たるなり。

【現代語訳】

趙村に 毎年紅いアンズの花が咲きひらく。
十五年このかた、何回見に来たことか。
七十三歳の人間であるこの私にとっては、再び見に来ることも難しいので、
この春、ここにやって来たのは、 花に別れを告げるためなのである。

佐藤春夫にこんな訳詩があります。


杏咲くさびしき田舎

川添ひや家おちこち

入り日さし人げもなくて

麦畑にねむる牛あり


紀映淮の原詩はこのようなものです。


 
杏花一孤村

流水数間屋

夕陽不見人

牯牛麦中宿


これに対して、河上肇が興味深いコメントを寄せています。青空文庫から引用します。


「家をちこち」はどうかと思ふ。原詩にいふ数間の屋は、三間か四間かの小さな一軒の家を指したものに相違なからう。古くは陶淵明の「園田の居に帰る」と題する詩に、「拙を守つて園田に帰る、方宅十余畝、草屋八九間」云々とあるは、人のよく知るところ。また蘇東坡の詩にいふところの「東坡数間の屋」、乃至、陸放翁の詩にいふところの「仕宦五十年、終に熱官を慕はず、年齢八十を過ぎ、久く已に一棺を弁ず、廬を結ぶ十余間、身を著けて海の寛きが如し」といふの類、「間」はいづれも室の意であり、草屋八九間、東坡数間屋、結廬十余間は、みな間数を示したものである。杏花一孤村流水数間屋にしても、川添ひに小さな家が一軒あると解して少しも差支ないが、車塵集は何が故に数間の屋を数軒の家と解したのであらうか。専門家がこんなことを誤解する筈もなからうが。


きょうの付録。


しばらく見ぬj間に、麦がずんずん生育しています。


  


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麦畑にねむる牛はいませんが、菜の花にモンシロチョウが舞っています。


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植木鉢のブルーベリーも花をつけました。


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今日はこれにて。


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すもももももも、の巻(その3) [文学雑話]

「桃李」と言えば、以前この記事(桃の節句の蘊蓄)で、「奥の細道」(芭蕉)の冒頭文が、李白(あ、またスモモだ)の「春夜宴桃李園序」を下敷きにしていることを話題にしました。


春夜宴桃李園序 李白

夫天地者萬物之逆旅
光陰者百代之過客
而浮生若夢
爲歡幾何
古人秉燭夜遊
良有以也
況陽春召我以煙景
大塊假我以文章
會桃李之芳園
序天倫之樂事
群季俊秀
皆爲惠連
吾人詠歌
獨慚康樂
幽賞未已
高談轉清
開瓊筵以坐華
飛羽觴而醉月
不有佳作
何伸雅懷
如詩不成
罰依金谷酒數

【書下し】
春夜桃李園に宴するの序 李白
夫(そ)れ天地は萬物(ばんぶつ)の逆旅(げきりょ)にして
光陰(こういん)は百代(はくたい)の過客(かかく)なり
而して浮生は夢のごとし
歡を爲すこと幾何(いくばく)ぞ
古人燭を秉りて夜遊ぶ
良(まこと)に以(ゆえ)有るなり
況んや陽春の我を召すに煙景を以てし
大塊の我に假すに文章を以てするをや
桃李の芳園(ほうえん)に會(かい)し
天倫(てんりん)の樂事(がくじ)を序す
群季(ぐんき)の俊秀(しゅんしゅう)は
皆 惠連(けいれん)たり
吾人(ごじん)の詠歌(えいか)は
獨り康樂(こうらく)に慚(は)づ
幽賞(ゆうしょう)未だ已(や)まざるに
高談(こうだん)轉(うた)た清し
瓊筵(けいえん)を開いて以て華に坐し
羽觴(うしょう)を飛ばして月に醉ふ
佳作有らずんば
何ぞ雅懷(がかい)を伸べん
如(も)し詩成らずんば
罰は金谷(きんこく)の酒數(しゅすう)に依らん
【解釈】
春の夜桃やすもものかぐわしく花咲く庭園で酒宴を催す詩 李白
そもそも天地はすべてのものを迎え入れる旅の宿のようなものであり、
時の流れは、永遠の旅人のようなものである。
しかし人生ははかなく、夢のように過ぎ去っていく。
楽しいこともどれほど長続きしようか?いや、ほんの一瞬の事だ。
昔の人が燭に灯りをともして夜中まで遊んだのは、
実に理由があることなのだ。
ましてこのうららかな春の日、
霞に煙る景色が私を招き、
造物主が私に文章を書く才能を授けてくれたからには、なおのことだ。
桃や李〈スモモ)のかぐわしい庭園に集まって、
兄弟そろって楽しい宴を開こう。
桃李の花の咲きにおう庭園に集まって、兄弟の楽しみごとを次々と行う。
年少の才能にあふれた者たちは、皆(南朝宋の詩人の)恵連のようである。
私自身の詠む詩は、ただ一人(恵連の従兄弟で南朝宋の詩人の)康楽に恥じるばかり(にへたくそ)である。
花景色を静かに褒め称える声はまだなおやまず、俗世を離れた高尚な話題はさらに清らかにつづく。
玉のむしろを開いて花の下に座り、鳥の羽根の飾りの杯を酌み交わして、月に酔う。
優れた作品をつくるとなしには、どうしてこの風雅な気持ちを言い表せようか。
もしも詩ができなければ、その罰は昔晋の石崇が金谷園で催した宴会の故事にちなんで、杯三杯の酒を飲むことにしよう。

酒を愛し、時を惜しんで風雅を享楽する李白とは、少々趣は異なるようにも思えますが、芭蕉もまた、この世は仮の宿り、人は旅人だと断じます。


   

『令和』の出典とされる万葉集「梅花の歌 三十二首、并せて序」の舞台となった太宰府・大伴旅人邸での「梅花の宴」も、同様の趣向といえるでしょう。旅人を初め万葉人が、いかに古代中国文化へのふかい憧憬を抱いていたかがわかります。
また、時代下って元禄の芭蕉が、古代中国の詩人たち(の風雅)を深く敬慕したことを確認するだけでも、日本文化の根底に、色濃く中国文化の影響があることは自明です。いかに「反中」に徹しようとしても、その事実を無視することはでき内でしょう。


ところで、バラ科モモ属に分類される桃よりも、バラ科サクラ属の梅や 杏(アンズ)の方がスモモと近縁なのだそうです。


またまた過去記事の引用です。


お名前は? お玉?お筆?八重?杏?


アンズについて、安直(アンチョク)ながら、wikipediaをコピーさせていただきます。

アーモンドやウメ、スモモの近縁種であり、容易に交雑する。ただし、ウメの果実は完熟しても果肉に甘みを生じず、種と果肉が離れないのに対し、アンズは熟すと甘みが生じ、種と果肉が離れる(離核性)。またアーモンドの果肉は、薄いため食用にしない。 耐寒性があり比較的涼しい地域で栽培されている。春(3月下旬から4月頃)に、桜よりもやや早く淡紅の花を咲かせ、初夏にウメによく似た実を付ける。美しいため花見の対象となることもある。自家受粉では品質の良い結実をしないために、他品種の混植が必要であり、時には人工授粉も行われる事がある。収穫期は 6月下旬から7月中旬で、一つの品種は10日程度で収穫が終了する。果実は生食のほか、ジャムや乾果物などにして利用される。種子は青酸配糖体や脂肪油、ステロイドなどを含んでおり、杏仁(きょうにん)と呼ばれる咳止めや、風邪の予防の生薬(日本薬局方に収録)として用いられている他、杏仁豆腐(今では「あんにん」と読まれる事が多くなった)の独特の味を出すために使用される。未成熟な種子や果実には、青酸配糖体の一種アミグダリンが含まれる。
日本には古代に中国から伝えられ、万葉集には「杏人」の原文表記があり、またカラモモともカラヒトともモモサネとも読まれていて定かではない。仮名書きのカラモモは古今集に見える。

以前(かれこれ20年ほどになりますか)、アンズの苗を庭に植えていたことがありました。

何回か春には花を咲かせ、黄色に輝く可憐な果実をつけるまでに育ちました。わずかな実りでしたが、それだけに美味でした。

でも造成地の庭ですので、土が浅くて硬く、十分根を張りきれなかったのでしょうか、台風でなぎ倒されて枯れてしまったのでしたっけ。記憶もあやふやなほど、昔のことになりました。

余り、スーパーなどに大量には出回らないし、買ってまで食べようとも思わないですが、姿、味ともに、好ましい果実の一つです。

室生犀星に「杏っ子」 という作品がありました。「あんずっこ」と読みます。
犀星の自伝的小説で、小説家平山平四郎は作者自身、娘の杏子(きょうこ)実の娘の朝子さんがモデルと言われます。


先日歩いた半田山植物園に、スモモと並んでアンズの花が咲いていました。


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メジロが大好きな花のようです。


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アンズの話題は次回に続きます。


きょうはこれにて。


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すもももももも、の巻(その2) [文学雑話]

俳優の松坂桃李さんの名前には、モモとスモモがついています。


ウィキペディアの解説を引きます。


「桃李」という名前は、中国の歴史家司馬遷の『史記』に書かれた言葉「桃李不言下自成蹊(とうりものいわざれども、したおのづからこみちをなす)」と、中国の故事「桜梅桃李」の2つに由来する。前者は「徳のある誰からも慕われる人」になって欲しいという父の願いから、後者は「自分らしさを大切に」という母の願いから名づけられた。読みがなは両親のこだわりで「とおり」。


スモモもモモも、古代中国ではその花、果実ともに人々に愛されたものであるようです。デジタル大辞泉の記事を引用します。


桃李(とうり)もの言わざれども下(した)自(おのずか)ら蹊(みち)を成す

《「史記」李将軍伝賛から》桃やすももは何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まるので、その下には自然に道ができる。徳望のある人のもとへは人が自然に集まることのたとえ。


大辞林第三版の解説には、「徳のある者は弁舌を用いなくても、人はその徳を慕って集まり帰服する。」とあります。


古典に造詣が深くていらっしゃるどこかのソーリは、もちろん十分心がけて実践しておられることと存じますが、、。


スモモは、プラム(ニホンスモモ)や、プルーン(西洋スモモ)として、お店にも並んでいます。が、子どもの頃、高い木に沢山実った小さな赤い実を、背伸びをして手を伸ばしたり竿を使ってかじりしたものでしたが、それはスモモではなくスウメと呼んでいました。味も微妙に違っているように思えます。


酸味が強くて味の濃い、その果物が懐かしくて、 商店の果物コーナーなどを覗いても、スモモはあってもスウメというものを見たことはありません。これはあるいは、方言、地方名の類かとも思っていたのですが、最近、岡山県北の町でスウメが特産品として栽培されていることを知り、「スモモの原種」との説明を見て納得しました。


産経ニュース2015.7.31 付


新たな特産品に期待 岡山・鏡野町の町おこしグループがスウメ収穫開始

スモモの原種とされる「スウメ」の収穫作業が30日、鏡野町上斎原の農園「スウメ園」で始まった。地元の町おこしグループ3団体が、新たな特産品として商品開発を進め、地元の総合案内所「みずの郷奥津湖」で販売する。

ウメの実ほどの大きさのスウメは果汁が多く、甘みもあり、同地域では古くから塩漬けなど保存食用に栽培されていた。同園は約1ヘクタールのスキー場跡地を利用。約20年前に植えられたスウメ約80本があり、今年から本格的に出荷し、商品化に取り組む。

この日は、町おこしグループのメンバー8人がスウメの木を揺すって、鈴なりの実をシートの上に落とし、約80キロを収穫した。今年は花芽がつく5月ごろ、好天に恵まれて大豊作になったという。


この記事、次回に続きます。


きょうの付録。


季節の推移が早いので、ストックしたまま時期遅れになっている写真を掲載させていただきます。


4月9日同じく三徳園小鳥の森で撮影した鳥たち。


アトリ。今年は見る回数が少なかったですが、、、、。_K525366


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ヤマガラ。


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シジュウカラ。


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コゲラ。


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今日はこれにて


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すももももも、の巻 [文学雑話]

幼い子どもたちがいち早く覚えて唱えるおなじみの言葉遊びに、「すもももももももものうち」という句があります。早口言葉として紹介されることもありますが、「も」の重複が目には紛らわしく思えるものの、意味をとらえれば特段早口で発音しにくいという言葉ではありません。
と、10年ほど前までは思っておりましたが、脳血管疾患の手術のあとは、なかなか発声が難しい音の重なりだと痛感するようになりました(汗)。
「もももすももも」という言い方もあるようですが、これでもかと言うほどの「も」の繰り返しの面白さは、冒頭の句が上を行くように思います。



はやくちことばえほん ももも すももも (講談社の幼児えほん)

はやくちことばえほん ももも すももも (講談社の幼児えほん)

  • 作者: 新井 洋行
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/11/22
  • メディア: 単行本



    
紛らわしかった言葉の意味のつながりは、「スモモもモモもモモのうち」と片仮名表記を交えれば、ずいぶんハッキリしてきます。「酢桃も桃も桃の内」と漢字を交えれば、ほとんど誤解の余地はなくなるでしょう。


スモモの漢字表記は、その甘酸っぱい味から「酢桃」とも書きますし、中国での呼び名を当てて「李」とも書きます。中国、韓国・朝鮮、ベトナムで用いられる姓としてもなじみがあるように、中国原産の植物で、日本へは奈良時代ごろに伝えられたようですね。現在流通しているスモモには、中国伝来のニホンスモモ(プラム)と、西洋スモモ(プルーン)に大別されるそうです。


バラ科スモモ属に属し、ニホンスモモ(プラム)は中国原産、西洋スモモ(プルーン)は、コーカサス地方原産だそうです。


桃は同じバラ科でもモモ属に分類され、「スモモもモモもモモのうち」は不正確で、スモモはむしろ、梅や杏と同類とされます。


先日、半田山植物園でスモモの花を見ました。


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すると、3月の終わりごろ、家の近所の散歩道に咲いていたこの花も、スモモでは?と思えるのですがどうでしょう?


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スモモと言えば、アベさんがモリカケ問題に関連して引用した「李下に冠を正さず」ということわざが、一躍クローズアップされたのも記憶に新しいところです。


「(モリカケ問題で)私の妻や私の友人がかかわってきたことなので、国民の皆様が疑惑の気持ちを持たれるのは当然のことなのだろう。李下に冠を正さずとの言葉をしっかり胸に刻んで、今後、慎重に、謙虚に、丁寧に政権運営に当たっていきたいと思っている」


朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」には、こう解説されています。


李下に冠を正さず
実がなっている李の木の下で冠を直さない。実を取ろうとしていると思われるからだ。また瓜の畑でしゃがんで履物をはきなおすこともしない。瓜を盗むと思われるからだ(「瓜田に履を納〔い〕れず」)。君子は疑われるようなことは未然に防ぐもの。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」


君子は疑われるようなことは未然に防ぐもの。疑われても知らぬ存ぜぬを貫いて、白を黒と言いくるめるようなのは、差し詰め「梁上の君子」の同類でしょうな。



小学館デジタル大辞泉の解説
梁上(りょうじょう)の君子
《「後漢書」陳寔(ちんしょく)伝から。陳寔が梁(はり)の上に忍び込んでいる盗賊を見つけて、悪い習慣が身につくとあの梁の上の君子のようになるのだと子供たちを戒めたという故事による》
1 盗賊。どろぼう。
2 ネズミの異称。


お話は次回に続きます。


ここで今日の付録。


今日は、高一と小六の男子をつれて、深山公園へ行きました。


桜も少し残っていて、ツツジが満開です。


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アスレチックで遊ぶのに好適なお天気でした。


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キビタキに会いました。今シーズン初です。


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きょうはこれにて。


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「令和」を前に梅について考える、の巻 [文学雑話]

平成最後の○○、祝令和云々(デンデンではありませぬ)というフレーズが世の中を飛び交っています。「令和」という元号への好感度が70%超えだとか、改元のおかげでアベ内閣への支持率が上がったとか、あのスガさんが、「令和オジサン」のニックネームで人気だとか、、、、世の中信じられないことが多すぎます。


それも言うなら「令和ジイサン」だろう、なんて問題ではありません(汗)


「令和」という元号とその決定過程における違和感について何度か書きました。先日の記事飲み込みが悪くて、、、の巻では、畏友のkenro okada様による5点にわたるコメントを引用させていただきました。そのうち。第2点目を再掲してみます。


②大伴旅人は、大和政権を支えた豪族のひとりですが、藤原不比等を中心とする権力者によって太宰府に追いやられた人物です。梅の花三十二首の序文は、漢籍に出典があります。「万葉集」そのものは国書でしょうが、この部分は漢文です。


アベ内閣は、背後にある日本会議を初めとする「嫌韓」・「嫌中」勢力に背中を押されて、漢籍に出典を求める従来のやり方を変えて、敢えて「国書」由来の元号案だとして「令和」を選定したらしいですね。3月初旬には、委嘱された考案者らによっ既にいくつかの元号案が寄せられたらしいのに、3月中旬になって、それらにプラスして万葉学者の中西進氏らに追加委嘱。そうして得た追加文の案の中に「令和」があったそうで、何が何でも「国書」にこだわるアベ内閣の、尋常な尋常ならざる固執ぶりが窺われるエピソードです。


でもね、言っときますけどね、「令和」であろうと何であろうと、元号が漢字である限り、中国文化のおかげを否定することなどできません。いっそ、ひらがなの元号にしますか?「ゆめ」とか「しあわせ」とか「たみ」とか、、、、でも、ひらがなだって、もとをただせば漢字の崩し字が起源ですから、純粋にニッポンオリジナルとは申せません。そもそも、「元号」というシロモノ自体、古代中国のマネじゃありません?


「嫌中」に徹するならば、元号自体廃止して、世界標準の西暦に一本化してはいかがです?盟主のトランプ様も、ツイートで批判したりはなさらぬでしょうよ。いや、ニッポン人としてのアイデンティティを尊重する立場から「皇紀」を採用なさいますか?それにしては、「元号は皇室の長い伝統と、国家の安泰と、国民の幸福への深い願いとともに1400年近くにわたる我が国の歴史を紡いできました。」(新元号発表に際しての安倍首相談話)と、さすがに神武以来今年で2679年になるはずの「皇紀」という日本独自の紀元は、採用しないおつもりのようですな。


それにしても、国書由来を鳴り物入りで強調した「令和」という元号、アベさんにとっては思いもかけない誤算であったようですね。


国書のはずの「万葉集」が、漢字・漢文で書かれ、中国の文物・文化を規範とし、模倣したものであることをご存じなかったらしいことは、お得意の苦笑いで済ませることもできましょうが、品田悦一 東大教授のこの指摘は、どうやり過ごすおつもりでしょうかねえ。


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少しだけ引用します。


緊急寄稿
「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ
品田 悦一

新しい年号が「令和」と定まりました。典拠の文脈を精読すると、<権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない>という、おそらく政府関係者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてきます。この点にっいて私見を述べたいと思います。なお、この文章は「朝日新間」の「私の視点」構に投稿したものですが、まだ採否が決定しない時点で本誌編集長国兼秀二氏にもお目にかけたところ、緊急掲載のご提案をいただいて寄稿するものです。
「令和」の典拠として安倍総理が挙げていたのは、『万葉集』巻五「悔花歌三十二首」の序でありました。天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府の長官(大宰帥)だった大伴旅人が大がかりな園遊会を主催し、集まった役人たちがそのとき詠んだ短歌をまとめるとともに、漢文の序を付したのです。その序に「于時初春令月、気淑風和」の句が確かにあります。<折しも正月の佳い月であり、気候も快く風は穩やかだ>というのです。これはこれでよいのですが、およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互に依存し合う性質を持ちます。一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。

(中略)

さらに、現代の文芸批評でいう「間テキスト性intertextuauty」の間題があります。しかじかのテキストが他のテキストと相互に参照されて、奥行きのある意味を発生させる関係に注目する概念です。当該「梅花歌」序は種々の漢詩文を引き込んで成り立っていますが、もっとも重要かつ明確な先行テキストとして王義之の「蘭亭集序」の名が早くから挙がっていました。この作品は書道の手本として有名ですが、文芸作品としてもたいそう味わい深いもので、「梅花歌」序を書いた旅人も知悉していただけでなく、読者にも知られていることを期待したと考えられます。「梅花歌」序の内容は、字面に表現された限りでは<良い季節になったから親しい者どうし一献傾けながら愉快な時を過ごそうではないか。そしてその心境を歌に表現しよう。これこそ風流というものだ>とい うことに尽きます。
「蘭亭集序」の語句や構成を借りてそう述べるのですが、この場合、単に個々の語句を借用したのではなく、原典の文脈との相互参照が期待されている、というのが間テキスト性の考え方です。

(中略)

「梅花歌」序とそれに続く一群の短歌に戻りましょう。「都見ば酸しきあが身またをちぬべし」のアイロニーは、長屋王事件を機に全権力を掌握した藤原四子に向けられていると見て間違いないでしょう。あいつらは都をさんざん蹂躙したあげく、帰りたくもない場所に変えてしまった。王

王義之にとって私が後世の人であるように、 今の私にとっても後世の人に当たる人々があるだろう。 その人々に訴えたい。 どうか私の無念をこの歌群の行間から読み取って欲しい。 長屋王を亡き者にした彼らの所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。私は年を取り過ぎてしまった--。
これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人のメッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への嫌悪と敵假心が潜められている。断わっておきますが、 一部の字句を切り出しても全体がついて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛烈に皮肉っている格好なのです。

(中略)

安倍総理ら政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。一つは、新年号「令和」が<権力者の横暴を許さないし、忘れない>というメッセージを自分たちに突き付けてくること。二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。もう一つは、よりによってこんなテキストを新年号の典拠に選んでしまった自分たちはいとも迂闊(うかつ)であって、 人の上に立つ資格などないということです(「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。


アベさん、これを読んで「しまったしくじった、末代までの恥となりにけり!」と青ざめているでしょうか?いやいや、ルビを振ってもらっても、中身が読解できないまま、「このような見解をとらない学者も大勢存在する」などとうそぶいているでしょうか?


いいです、いいです。どのような態度をとろうとも、「新年号『令和』が<権力者の横暴を許さないし、忘れない>というメッセージを自分たちに突き付けてくること」は、逃れることのできない定めなのですから、、、、。


それでも念のために、嫌中派の方々にもう一言だけ申し上げておこうと思います。新元号の出典とされている大伴旅人「梅花歌」序で描かれる「梅の花」も、中国伝来の流行最先端の植物。大伴旅人が催した「梅花の宴」も、漢詩の世界を意識した最先端の中国風の文化的遊びにほかなりません。「梅」の訓読み「うめ」すらも、日本古来の呼び方とは言えず、音読み(中国語に倣った読み)  呉音 : マイ、メ、 漢音 : バイの「メ」が転じたものと言われます。この痕跡を隠そうとすることもまた『歴史修正主義』の一変形と言わなくてはなりますまい。


ここで脱線。


新5000円札にあがかれる肖像画が、津田塾大学創始者の津田梅子と決まったそうです。


ウィキペディアの解説に、こうあります。


津田 梅子(つだ うめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日) - 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英学塾(のちの津田塾大学)創立者。

初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。


梅 メ→むめ→うめ の音韻変化が自然さを再確認できます。


ところで、当ブログを『梅子』で検索をかけてみると、たとえばこんな記事がヒットします。


今日も「これなあに?」(2013-10-16-1)


NHK大河ドラマ「八重の桜」は、我が家の録画HDDには全回収まっていて、妻は毎回欠かさず見ているようですが、私は時々横目で見て通るくらいで、あらすじも理解していません。
ですので、ドラマの中でどのように扱われたかの確認はできていないのですが、会津の女性を代表する人物の一人として、大山捨松が登場するようです。
NHKオンラインの記事に、こうあります
「幼名は咲。幼くして家族とともに鶴ヶ城籠城戦を経験する。美貌と知性に秀で、11歳のときに、後に女子教育の先駆者となる津田梅子らと日本初の女子留学生として1871(明治4)年、岩倉具視の使節団に加わりアメリカに渡る。母・艶は咲という幼名を「一度捨てたつもりで帰国を待つ(松)」という切なる思いを込めて、「捨松」と改名させる。帰国後、薩摩の陸軍軍人・大山巌と結婚。美貌と知性を持ち合わせ、鹿鳴館時代の社交界の中心となって、「鹿鳴館の華」とたたえられる。しかし会津の元家老の娘・捨松と仇敵(きゅうてき)・薩摩の大山巌との結婚は、地元・会津にとって衝撃的なニュースで、山川家には抗議の手紙が殺到したと伝わっている。」http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/cast/


さて、この大山捨松について、wikiには次のような記事が載っています。
「大山巌は先妻との間に娘が3人いた。長女の信子は結核のため20歳で早世したが、彼女をモデルとして徳冨蘆花が書いた小説が、「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」の名セリフが当時の流行語にまでなったベストセラー『不如歸』である。


美しい国はいづこぞ紅梅忌(2016-02-17)


赤ん坊は元気です。
お問い合わせもありましたので、念のために申し上げますと、女の子です。

親もジイジバアバも、一瞬どっちだったっけと、顔を見ていて迷います(笑)。
予定日が梅の咲く頃なので、胎内にいる時は、仮称「梅子」で呼んでいましたが、今年の梅は例年よりも早く咲きましたし、姓とのバランスで角張った文字になりますので、躊躇して、出生届の際には、別の名前になりました。それでも、つい「うめちゃん」と呼びかけることがあります。


鳥も花も愛で呉るるらし宮参り(2016-03-21)


今日は「梅子」の宮参りでした。

(中略)

宮参りと言っても、わが家も、むこ殿のご両親も、しきたりやならわしには淡泊というか疎い方なので、改まった計画も思いつきませんが、写真だけは残しておくことを眼目に、近くの神社にお参りしました。
婿殿も、そして実家のご両親もおそろいで、車で十分の距離をちょっくら参詣し、素人カメラマンで記念撮影してイベント終了です。梅子は「晴れ女」で、退院の日も、一ヶ月検診の日も、その他、外出予定やイベントごとがある時には、よく晴れます。
今朝も、早朝は気温がいくらか低く、風もすこし強い感じはありましたが、出かける頃には、快晴になり、陽射しも穏やかな陽気になりました。レンギョウ、ジンチョウゲ、ハクモクレン、コブシなどが花盛りで、祝ってくれていました。
昼食はわが家で、お弁当を囲み、歓談。まずはめでたい宮参りイベントとなりました。


晦日節性懲りもなき探し物(2017.01.31)



もうすぐ一歳になる孫娘が、午後、来訪しました。
去年の今頃、まだおなかの中にいるころは、「梅」または「梅子」と名づけようかという案もありました。結果的に採用されませんでしたが、ゆかしくかぐわしい花であることは間違いありません。
成長は早いもので、つかまり立ちもできるし、ハイハイも活発です。
表情も多彩で、あれこれと意思表示、意思疎通ができます。
従兄・姉があやすと親愛感をはっきり示し、声を上げて笑います。


きょうはこれにて。

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ある新聞投稿、の巻 [文学雑話]

「高知新聞」にこんな文章を投稿しました。

高知は、学生時代を過ごした第二の故郷ですが、滅多に訪問の機会がありません。維新の志士や民権運動の史跡などどともに、夭逝の反戦詩人槇村浩(まきむらこう)ゆかりの地を、折あれば訪ねてみたいと常々思ってきました。
「思い出はおれを故郷へ運ぶ---」二〇歳の頃の作品「間島パルチザンの歌」の冒頭の一節です。「おれ」は、日本の侵略支配に抗し、身を挺して民族の独立をたたかいとろうとするパルチザンの若者であり、反戦と国際連帯の思いを込めた作者の想像が生んだ鮮烈な造形です。
高知県立海南中学校四年生の時、軍事教練反対運動を組織した彼は放校となり、縁あって、わが岡山県の私立関西中学に編入学します。異郷の地にあって、彼の胸中には故郷高知の思い出が去来したに違いありません。
自宅があったという帯屋町2丁目の「ひろめ市場」辺りや、高知刑務所跡の城西公園に建つ詩碑などは、以前も訪ね、詩人の短かすぎる青春を偲びました。市内にあるという墓地にも、いつかお参りしてみたいと思っています。
ところで、彼の生誕の地は、高知県高知市廿代町とされています。去年の夏、会合で高知を訪れたついでに、マップ頼りに界隈を散策してみました。しかし、残念ながら、案内掲示や碑の類を見つけることもできず、心を残して引き揚げたことでした。聞けば、いま貴地では、「槇村浩生誕碑」建設の気運が起こっているとの由。運動が成就し、碑完成の暁には、是非再訪してみたいと願っているところです。

それが今朝の朝刊に掲載されていると、高知市在住のN先輩が知らせて下さいました。Nさんは、文中の、「槇村浩生誕碑」建設の運動にも携わっておられます。当ブログの過去記事でも、槇村浩については何度か話題にしてきました。最近では、去年の夏の高知旅行をもとに、こんなことを書きました。

高知の街散歩、の巻

徒歩で回れる市内の散歩を、行き当たりばったりで楽しむことにしました。

ちょうど「志国高知幕末維新博」の開催中とかで、ネット上でも、親切な史跡案内が行われています。

また、高知在住のN先輩が、以前送ってくださっていた、高知市教育委員会 民権・文化財課発行の「高知市中心部民権史跡案内図」や、

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高知県立文学館発行の「土佐れきぶん散歩」

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などのマップ片手に、まず目指したのは、高知駅近くの史跡。

その第一は、「槇村浩誕生の地」です。

槇村浩については、その詩碑を訪ねた記事を夏の終わりの高知行、の巻(その5)

で書き、そこで詩人槇村浩に触れた次のような過去記事を紹介しました。そこでも書いたように、まだ彼の墓を尋ねていないことが心残りですが、「誕生の地」もまた未踏です。

◆サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻
◆「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻
◆槙村浩と三月一日
◆ビクトルハラをカーラジオで聞くの巻
◆もうひとつの911
◆懐かしき便り嬉しき聖夜かな

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むしろ岡山の方が蒸し暑いと思われる、心地よさではありましたが、それでも晴天の南国の太陽を浴びながら歩くと、汗が噴き出ます。

(中略)

目的の槇村浩誕生の地は、この江ノ口川沿いだそうですが、それらしい場所を探しても見当たりません。よくよくマップを見ると、(碑なし)とありました。なあんだ。

引用ついでに◆サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻 から少しだけ引用してご紹介します。

「ダッタン海峡」と題する冊子が、私の手元にあります。
以前この記事で、触れたことがありました。
◇多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻

高知出身の 反戦詩人槇村浩(まきむらこう)の生誕一〇〇周年を記念して刊行された冊子です。表題の「ダッタン海峡」は、槇村のこの詩にちなみます。

ダッタン海峡
――ダッタン海峡以南、北海道の牢獄にある人民××同志たちに――
槇村浩

(中略)

ネット上に槇村浩生誕一〇〇年(2012年)について述べた記事がいくつかありました。まずは、槇村の出身地高知県の地元紙「高知新聞」の記事から。


『小社会』

2012.06.02 朝刊
きのうは高知市出身の反戦詩人槙村浩(こう)の生誕100年だった。記念の講演会がきょう、同市内で開かれる。槙村は悪名高い治安維持法違反で逮捕され、激しい拷問がたたって26歳で早世した▼生前の槙村と親しかった人を、一人だけ知っている。県選出の社会党衆議院議員だった故井上泉さん。もう20年以上も前に、「槙村浩全集」を贈っていただいたことがある。井上さんは全集の編集・発行人の一人だった▼槙村の最初の反戦詩「生ける銃架」、代表作「間島パルチザンの歌」…。ほとばしる波のように紡がれる言葉の迫力に圧倒された。槙村の早熟の天才ぶりを示すいくつかの逸話も、全集で知った▼井上さんは兄と親しかった槙村の影響で、「プロレタリア文学」などに投稿し始めた。槙村は井上さんを実の弟のようにかわいがり、静かな口調ながら、厳しく原稿を手直ししてくれたという(「遠き白い道」高知新聞社)▼井上さんは同著で「槙村とともに闘った旧友が次々と亡くなる中、今に生きる私が槙村を語るのは、ある意味で努めでもありましょう」と話していた。閃光
(せんこう)のように散った詩人の青春の記憶を、時はいや応なしに押し流す。一方で作品を通じて研究が深まり、再び見直しの機運があるのは喜ばしいことだ▼もし槙村が生きていれば100歳。「神童」とうたわれた若き俊英の命はその4分の1ほどで奪われた。つくづく戦争の愚かさを知る。(高知新聞社)

つぎは、槇村が属し、その故に治安維持法による弾圧の対象となった日本共産党の機関紙「赤旗」の記事です。

文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ

高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。
児玉由紀恵記者
〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉
印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。
貧窮にあえぐ朝鮮民族の姿や、「大韓独立万歳!」を掲げた19年3月1日の朝鮮全土での蜂起と日本軍の大弾圧。さらに国際連帯を奏でる200行近い長詩が劇的に展開し、終連近くではこううたわれます。
〈おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現れなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!〉
この詩が発表されたのは、プロレタリア作家同盟の機関誌『プロレタリア文学』1932年4月臨時増刊号でした。
多喜二虐殺の時代
前年9月には、「満州事変」が勃発。天皇制の専制政治、アジアへの侵略に反対するプロレタリア文化運動の刊行物などは、発売禁止となり、持っているだけで捕らわれたりしました。33年には、小林多喜二が虐殺されています。
この詩が、発表の数年後には、舞台である間島地方に伝えられていたことが明らかになりました。延辺に住んだ作家の戸田郁子さんが、『中国朝鮮族を生きる』で、そのことを伝えています。戸田さんの恩師、延辺大学の歴史学者が小学生のころ(35、36年ころ)の話。日本に留学経験のあった教師が、授業中に朝鮮語でこの詩を朗読した、というのです。
日本の植民地時代に間島でこの詩が読まれていたとは! 衝撃を受けた戸田さんは2009年11月、高知を訪ねました。
「延辺をたった時は50㌢積もる大雪でした。高知に着いて南国のシュロの木や日差しの温かさに驚き、ここで育った詩人が、あの間島の風景や厳しい冬の季節を描いたのかと、胸に迫るものがありました」と戸田さん。若い日、韓国で歴史を学びながら、槙村のこの詩に民主化をめざす韓国の人々のた
たかいを重ねていました。「戦時中にこれほど朝鮮人に寄り添った日本の詩人はいません。どれほど尊いことかと思います」
2日に高知市で開かれた「槙村浩生誕100周年記念のつどい」。戸田さんは、ここで講演し、槙村の詩でつながった延辺と高知をさらに太くつなぐ「懸け橋になろう」と呼びかけました。
槙村浩の会会長で詩人の猪野睦さんは語ります。「あの時代に槙村の詩が伝わっていた話にはびっくりしました。7年近く前、文学の集いで延辺に行った時、槙村のこともこの詩のことも知られていた。槙村はここで生きていると思いました」
「記念のつどい」の成功に向けて尽力してきた高知市内の「平和資料館・草の家」の館長、岡村正弘さんは言います。「文化的な重みで〝北の多喜二、南の槙村浩〟と言いたい。9月には延辺への旅も計画しています。友好のきずなをさらに強めたいと思います」
「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。
槙村浩(まきむら・こう)は、1912年6月1日、高知市生まれ。本名・吉田豊道。幼時から抜群の記憶力、読書力を示し、「神童」と報じられます。海南中学時代、軍事教練に反対し、30年、岡山の中学校に転校処分。『資本論』を読み、マルクスに傾倒。
31年、高知でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、共産青年同盟に加盟。32年、兵士の目覚めを促す「生ける銃架」、「間島パルチザンの歌」を発表。日本共産党の党員候補に推薦されます。高知の連隊の上海出兵に反対行動を展開し、4月に検挙。治安維持法違反で懲役3年に。拷問などで心身を壊し、35年6月に出所。獄中で構想した革命への情熱あふれる詩「ダッタン海峡」や「青春」「バイロン・ハイネ」、論文「アジアチッシェ・イデオロギー」などを一挙に書き、東京の貴司山治に出版を託します。
36年、高知人民戦線事件で再検挙。翌年、重病で釈放され、38年9月3日、病没
貴司山治に託された原稿は、官憲の捜索や空襲から守られ、64年、『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』刊行の基に。84年、『槙村浩全集』刊行。
(2012年06月24日,「赤旗」)

ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。 以前こんな記事を書きました。
防災の日に寄せて、の巻

この「大雨の中を嬉しき宅急便」の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。

懐かしいポスターです。
大学に入学仕立ての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。
K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。

実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。

記事を書いていて、majyo様からどんなあたたかいコメントがいただけるだろうかと、ついつい期待してしまっている自分に気づきます。改めて喪失感の大きさを痛感しています。

今朝は氷点下の冷え込みでしたが、日中は日射しがありました。午前中、眼科に花粉症の目薬、内科にいつもの血圧の薬をもらいに行ったあと、少しだけ農作業(ジャガイモ植え付け)をしていると、汗をかきました。農道にケリの姿がありました。


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今日はこれにて。

 

 


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大和考その3、の巻 [文学雑話]

「やまと」が詠み込まれた万葉歌として、山上憶良の次の歌(巻1 63)も、容易に思い浮かびます。


いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ 


ちなみに、この歌の訓読は、「日本」と漢字表記して「やまと」と読ませるのが通例のようで、前述の「万葉集全講」でもそうなっています。一方、「作者別万葉集」では「大和」と表記されており、他の解説書にもこの例は存在します。

原文(万葉仮名)は以下の通りで、「日本」の文字が用いられています。

山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌    去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武


「学研全訳古語辞典」の解説を引用します。

[訳] さあ、諸君。早く日本へ帰ろう。御津の港の浜辺の松は今ごろ私たちを待ち遠しく思っているだろう。

鑑賞山上憶良の、遣唐使として唐に滞在中の歌。「子ども」は従者や舟子らをさす。「大伴の御津」は難波(なにわ)(=今の大阪)の港。

山上憶良は、大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡りました。唐に「日本」の国号を承認させたのが、この時だったようですから、国号「日本」を意識したうえで、「日本」と表記したというのは、十分辻褄が合います。

高市黒人にも、少し似たこんな歌があります。

いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ    巻3  280

この歌は、万葉仮名ではこう表記されています。

【原文】(高市連黒人歌二首)    去来兒等 倭部早 白菅乃 真野乃榛原 手折而将歸  

呼びかけの「いざ子ども」(「去来子等」「去来兒等」)は、羈旅の歌によく用いられる呪術的慣用句だそうです。「大和(やまと)」の漢字表記は、「倭」です。歌意から、この「やまと」は国号ではなく、地方名と考えられます。
こちらのサイトから、歌の解説をお借りします。  
千人万首  高市黒人

【通釈】さあ皆の者よ、大和へ早く帰ろう。白菅の茂る真野の榛(はん)の木の林で小枝を手折って行こう。

【語釈】◇いざ子ども 旅の同行者に対する呼びかけ。妻がこの歌に返答しているので、一行の中には妻も含まれていたか。◇白菅 カヤツリグサ科の植物。スゲの一種。◇真野 神戸市長田区真野町あたり。琵琶湖西岸の真野とする説もある。◇榛原 ハンノキ林。ハンノキはカバノキ科の落葉高木。低湿地に生える。紅葉が美しい。◇手折りて行かむ 土地の霊を身に帯びるためのまじないであろう。同時に旅の記念ともなる。

【補記】妻の答歌は、「白菅の真野の榛原往くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」

【主な派生歌】
いざ子ども香椎の潟に白妙の袖さへ濡れて朝菜つみてむ(大伴旅人[万葉])
いざ子ども早く大和へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(山上憶良[万葉])

注 この解説では、憶良の前掲歌(巻1 63)も「大和」と表記してあります。

事典で高市黒人を調べてみると、こうありました。

持統,文武朝の万葉歌人。下級官吏として生涯を終えたらしい。『万葉集』に近江旧都を感傷した作があり,大宝1 (701) 年の持統太上天皇の吉野行幸,翌年の三河国行幸に従駕して作歌している。ほかに羇旅 (きりょ) の歌や妻と贈答した歌がある。出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

成立年代的には、憶良の前掲歌(63の歌)と、黒人の280の歌は、ほぼ同時期の作と考えられます。

前者は国号としての意識から「日本」と表記し、後者は「大和地方」をさす語である故、旧来の表記「倭」を用いた、との仮説も成り立つかも知れません。それを「やまと」と読み、「大和」と訓読表記するのは、通例の事と言えそうです。

また、黒人には、こんな歌(巻1 70)もあり、同様の考え方が可能でしょうか?

【原文】倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流   

【訓読】大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる   

しかし、こんな例はどう考えたら良いのでしょうか。

大伴旅人の歌 (巻6 956)です。

【原文】八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念

【訓読】やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ  

歌意は「わが天皇が治めていらっしゃる国は大和もここ大宰府も同じだと思う 」といったところ。「ここ=太宰府」と対比される「日本」は、国号と言うよりも、「大和地方」と考えるのが妥当ではないでしょうか?これを訓読表記する際、「日本」をあてるよりも「大和」の表記の方が、なじみそうです。


「大和(やまと)」と訓読する万葉仮名は、他にも「山常」「山跡」「八間跡」などの例が見えます。

まずは、舒明天皇の「国見の歌」(巻1 2)

 【原文】 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜●國曽 蜻嶋 八間跡能國者   (●=りっしんべん+可) 

【訓読】大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

【読み】やまとには むらやまあれど とりよろふ あまのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには  

 また、太宰少貳石川足人の歌(巻4 551)。作者は太宰府で大伴旅人の部下であったようです。


【原文】山跡道之 嶋乃浦廻尓 縁浪 間無牟 吾戀巻者   

【訓読】大和道の島の浦廻に寄する波間もなけむ我が恋ひまくは  

【読み】やまとじの しまのうらみに よするなみ あひだもなけむ あがこひまくは

 大宰帥の任を解かれて都に帰る大伴旅人との別れを惜しんで、太宰府の役人大典麻田連陽春が詠んだという歌(巻4  570)が見えます。


【原文】山跡邊 君之立日乃 近付者 野立鹿毛 動而曽鳴  

【訓読】大和へに君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も響めてぞ鳴く 

いずれも、万葉仮名の表記如何に関わらず、「大和(やまと)」と訓読表記することに違和感は感じません。

そこで、そもそもの発端の大伴旅人の歌(巻6  967)の訓読表記について再考します。

【原文】日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞

その「日本道乃」の箇所の訓読表記の例を確かめてみますと、「倭道の」(作者別万葉集)、「大和道の」(万葉集全講)、「日本道の」など様々な文字が当てられており、わが居住地近くの歌碑の表記「大和道の」は、決して失当とは言いきれないのではないかと思えてきました。

ところで、斎藤茂吉の「万葉秀歌」に、この歌に関連した記事があります。

ますらをとおもへるわれ水茎みづくき水城みづきのうへになみだのごはむ 〔巻六・九六八〕 大伴旅人
 大伴旅人が大納言に兼任して、京に上る時、多勢の見送人の中に児島こじまという遊行女婦うかれめが居た。旅人が馬を水城みずき(貯水池の大きな堤)にめて、皆と別を惜しんだ時に、児島は、「おほならばむをかしこみと振りたき袖をしぬびてあるかも」(巻六・九六五)、「大和道やまとぢ雲隠くもがくりたり然れども我が振る袖を無礼なめしと思ふな」(同・九六六)という歌を贈った。それに旅人のこたえた二首中の一首である。
 一首の意は、大丈夫ますらおだと自任していたこのおれも、お前との別離が悲しく、此処ここの〔水茎の〕(枕詞)水城みずきのうえに、涙を落すのだ、というのである。
 児島の歌も、軽佻けいちょうでないが、旅人の歌もしんみりしていて、決して軽佻なものではない。「涙のごはむ」の一句、今の常識から行けば、諧謔かいぎゃくまじえた誇張と取るかも知れないが、実際はそうでないのかも知れない、少くとも調べの上では戯れではない。「大丈夫ますらおとおもへる吾や」はその頃の常套語で軽いといえば軽いものである。当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目まじめにその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である。
「真袖もち涙をのごひ、むせびつつ言問ことどひすれば」(巻二十・四三九八)のほか、「庭たづみ流るる涙とめぞかねつる」(巻二・一七八)、「白雲に涙は尽きぬ」(巻八・一五二〇)等の例がある。

 

ここに引用されている966の歌には、次のような注が施されています。

右大宰帥<大>伴卿兼任大納言向京上道 此日馬駐水城顧望府家 于時送卿府吏之中有遊行女婦 其字曰兒嶋也 於是娘子傷此易別嘆彼難會 拭涕自吟振袖之歌

旅人が上京するとき、「兒嶋」という名前の遊行女婦が、涙をぬぐって袖を振り、別れを惜しんで詠んだというのです。この遊行女婦「兒嶋」は 、旅人の返歌(巻6  967)では「筑紫乃子嶋」と表記されています。「兒嶋」であれ「子嶋」であれ、肝要なのは「こじま」という女性の名が、「吉備の児島」と音が通う「こじま」であったという点でしょう。

原文はこうなっています。

【原文】倭道者 雲隠有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈

訓読表記「大和道」やまとぢに対応するのは「倭道」でした。

ところで、たとえば、漢文表現「無礼」を、当時の古語にあてはめて、形容詞「なめし」に相当するであろうと読んだのは、後の世の研究者の知恵ですが、実際にそれが正しいかどうかは、あくまでも「?」です。事ほどさように、万葉仮名の読みは夢多きロマンを含んでいますね。

・今回の一連の記事では、柄にもなく、その作品の成立年代や作者の意識を考慮しながら、用語や用字の意味を探ろうと試みてみたのですが、不毛の努力だったかも知れません。万葉集に収められた作品は、基本的には「口承」文芸として生み出され伝えられたものが、編集者によって(漢字という外国の文字を借りて)文字化されたものです。従って、用いられた文字の取捨選択などに、作者自身の意識がそのまま反映されるものではないでしょう。

・万葉集の編集した撰者(編者)は不詳で、大伴家持が相当に重要な役割を果たしたらしいとしても、複数の編集協力者、または複数の作業スタッフが存在したようです。そのことは、万葉仮名表現の雑多性、多彩性とも無縁ではないでしょう。

・そもそも、万葉仮名は、漢字のほとんど恣意的な借用によって成り立っており、その表記には、統一的なルールが定まっているとは言えず、融通無碍とも言得るでしょう。(この話題はまた回を改めて書くかも知れません)

・そうなると、万葉仮名の使い分けが、そのまま対象物の識別を反映しているとも言い切れません。また、万葉仮名の読解は、後世の努力の蓄積によるものですが、いまだ途上と言うべきで、異見、異説の存在は、むしろ万葉集の興味尽きない魅力の源泉かもと、思い返したりしているところです。

暑くて、長時間戸外にいるこはできません。

先日、田舎に帰郷した際、畑のオニユリを写しておきました。強い日射しに負けていません。

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今朝の散歩。頭の上でシャンシャンシャンと大声で鳴いているのはクマゼミ、
ほとんどがクマゼミのように思われますが、カメラで捕らえたのはアブラゼミ。
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今では珍しいニイニイゼミ。
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今日はこれにて。

 

 

 

 

 

 

 


 

 


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大和考その2、の巻 [文学雑話]

万葉集における「やまと」の漢字表記(万葉仮名表記)の件。雑学的興味がそそられましたので、少々確かめてみたくなりました。私の手元にある本で、さしあたり、すぐに取り出せるのは、土橋寛編『作者別万葉集」(桜楓社)、武田祐吉著「萬葉集全講」(明治書院)でした。
前者は、学生時代の教科書で、昭和46年重版発行、定価680円と奥付にあります。学生用に、万葉集の「代表的な作家・作品」を収め、所収の作家についてはできるだけ全作品を紹介してあるそうですが、当然収められていない作品もたくさんあります。
後者は、上中下三巻本で、昭和55年23版発行、各巻定価2800円とあります。安月給の青年教師時代に思い切って購入した本ですが、あいにくすぐに見つけ出せたのは、上と下の2冊だけでした。
このように、不十分な資料を基にものを考えようというのですから、大雑把、無責任、行き当たりばったりの最たるもので、決して科学的・研究的態度とは言えません。そもそも、最初からそのつもりもない、興味本位ののぞき見趣味と笑って見過ごしていただければ幸いです。
さて、「やまと」から思いつく歌は、と考えて、まず浮かんできたのはこれでした。
巻2 105
【原文】
大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首

吾勢●乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之  
(注●は左「示」+右「古」) 

【訓読】
大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首

我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我立ち濡れし
(わがせこを やまとへやると さよふけて あかときつゆに わが(われ)たちぬれし)
作者の大伯皇女( おおくのひめみこ)天武天皇の皇女。大津皇子の同母姉。
少女の頃より、十三年間伊勢斎宮として奉仕。
弟の大津皇子は、父帝が没すると間もなく。謀反の罪でとらえられ処刑されます(24歳)。事件の直前、姉を伊勢に訪ねた大津皇子が、深夜、大和に帰るのを見送る歌です。
この歌についつい深入りしそうになっている自分ですが、待てよ、いつか過去記事に書いたことがあったけ?とググってみると、ありました、ありました。忘れてました。

『枕草子』に「池は」という章段があります。

「池は」
 池は かつまたの池。磐余(いはれ)の池。贄野(にへの)の池。初瀬に詣でしに、水鳥のひまなくゐて立ちさわぎしが、いとをかしう見えしなり。
水なしの池こそ、あやしう、などてつけけるならむとて問ひしかば、「五月など、すべて雨いたう降らむとする年は、この池に水といふものなむなくなる。またいみじう照るべき年は、春の初めに水なむおほく出づる」といひしを、「むげになく乾きてあらばこそさも言はめ、出づるをりもあるを、一筋にもつけけるかな」と言はまほしかりしか。
 猿沢の池は、采女(うねべ)の身投げたるを聞こしめして、行幸などありけむこそ、いみじうめでたけれ。「ねたくれ髪を」と人麻呂がよみけむほどなど思ふ に、いふもおろかなり。
 御前の池、また何の心にてつけけるならむと、ゆかし。鏡の池。狭山の池は、みくりといふ歌のをかしきがおぼゆるならむ。こひぬまの池。
 はらの池は、「玉藻な刈りそ」といひたるも、をかしうおぼゆ。

【とことん勝手な解釈。(ちょっと古い桃尻語訳風)】
池と言えば、かつまたの池ね。
この池は、奈良西の京の唐招提寺と薬師寺の近くにあったそうよ。
万葉集に 「 かつまたの池は我知る蓮(はちす)なし然(しか)言ふ君がひげなきごとし/婦人(をみなめ)」と歌われているわ。新田部皇子(にいたべのみこ)が勝間田(かつまた)の池をご覧になり、とても感動なさって、あるお方にお話になると、その女性は、「あら、あの池に蓮なんかなかったわよ。あなたのお顔におひげがないのと同じに。ホントにかつまたの池にお出かけになったか怪しいものね。どこか別のところで、美しい女の方をご覧になったのじゃなくって?」とからかったという話があるわ。
後には、池の所在は不明になって、美作(みまさか)・下野(しもつけ)・下総(しもうさ)など、諸説が生まれたそうよ。美作の勝間田なら、昨日と一昨日の記事の舞台は、すぐ近くだわ。
磐余(いわれ)の池もいいわ。
同じく万葉集に大津皇子のこの辞世の歌があるわね。

ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

「いつものように今日も磐余の池に鳴く鴨を、私は今日を最後の見納めにして あの世に旅立っていくのだろうかなあ。」という、痛切な歌だわ。
大津皇子は天武天皇の皇子で、お母上は、天智天皇の皇女であられた大田皇女(おおたのひめみこ)よ。父帝が崩御されたあと、讒言によって謀反の罪を着せられて捕えられ、磐余にある自邸にて自害させられたの。御年は24の若さだったわ。
これを悼んだ姉君の大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌も、哀切よね。

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟背(いろせ)とあが見む

「不本意ながらこの世に生きて残された私は、明日からは弟が葬られた二上山を弟と思うことにしますわ」

「うつそみ」は「うつせみ」 とも言うわ。「現し身」=現にこの世に生きている身という意味。「現(うつつ)」は「夢」の対義語で、「現実」を意味するし、「覚醒した状態」「正気の状態」を表すことも多いわ。夢なら良かった、酔って忘れられたらそれもいい。でも、冴えた正気の目で現実を見つめなければならないことのつらさ。せめてあの山を、あなたを偲ぶよすがと思って、心を慰めることにしましょう

磯のうへに 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに

「岩の上に生える馬酔木(あせび)の花を手折って、あなたに見せようと思うけれど、見せたいあなたが健在だとは誰も言ってくれないの」
大伯皇女は、伊勢神宮の斎宮で、神様に仕える身の上でいらっしゃったのよ。父帝が亡くなられたあと、謀反の罪で捕らえられるまでのある日、弟の大津皇子が皇女を伊勢まで秘かに訪ねたことがあったわ。姉皇女は、男子禁制の斎宮の身でありながら、弟皇子を懇ろに迎え、親密に一夜を語らい、まだ空が暗いうちに旅立つ弟を、姿が見えなくなってもずっと見送ったのよ。それが最後の別れとなる予感があったのかどうか、知る由もないけれど。次の二首は、そのときの歌。

わが背子を大和へ遣ると小夜更けて あかとき露に我が立ち濡れし

「私の愛するあなたが、奈良の都に帰るというので、夜も更けてからその無事を祈って見送り続けていると、私の身体は明け方の露にぐっしょりと濡れてしまったことですわ。」

二人行けど行きすぎ難き秋山を いかにか君が一人越えなむ

「二人で行っても越えるのが難儀な秋山を、愛するあなたはどうやって一人で越えているのでしょうか」  

実の姉弟の間柄なのだけど、同時にこの世で最も信頼できる相手、心の通いあう相手、互いに恋人同士のような思慕を抱いていたのかしら。

ところで、大津皇子憤死の知らせを聞いた妻の山辺皇女(天武天皇の皇女)は、半狂乱になり、裸足で墓まで駆けつけて、大津の皇子の跡を追って殉死したそうよ。なりふり構わず、その愛を貫いた山辺皇女さまもおいたわしいけれど、神に仕える斎宮の身故にそうすることもかなわなかった大伯皇女さまは、いついつまでも悲しみが晴れることなく、さぞやお辛いことだったであろうと思われますわ。

全くの余談になるけれど、『日本書紀』によると、「御船西に征き、初めて海路に就く。甲辰(8日)に御船大伯海(おおくのうみ)に到る。時に大田姫皇女(おおたのひめみこ) 女子を産む。よりて、是の女を名づけてを大伯皇女(おおくのひめみこ)という」とあるわ。斉明7年1月のことよ。
つまり、大伯皇女さまは、お父様の大海人皇子(後の天武天皇)やお母様の大田姫皇女さまも乗り込んで、朝鮮出兵のため難波を出航した船団が、岡山県邑久(おく)郡の海=小豆島の北方=大伯の海の上を通りかかったとき、つまり船上でお生まれ遊ばしたのね。「大伯」は「邑久」の古名なのね。今は平成の大合併で「瀬戸内市」なんて無個性な名前になってしまっているのが、ひどく残念に思えるわ。話をもとに戻しまあす。

(中略)

いろいろな池が数え上げられていますが、清少納言の連想は、いつでも「わが道を行く」流儀ですので、どういう内的脈絡があるのか、よくわかりません。

今日は、猿沢池をネタにしたかっただけです。あしからず。

またまた、予定外の回り道をしてしまいました、今日の結論は---?
冒頭の歌で「倭」と表記されているのは、国号ではなく、伊勢から見た「大和」をさすものと考えるのが自然だと思われます。
これを読み下すときは「やまと」が相応でしょうし、書き下すときは「大和」の漢字を当てるのが一般だと思われます。つまり、原文の万葉仮名をそのまま書き下さないことも、十分一般的で、責められるべきではないのではないか?という仮説です。

早朝散歩で思わぬ出会いがあります。

ミシシッピアカミミガメ。道路の上で涼を取っていたのでしょうか?コチラの気配に気づき手、ゆっくりと歩いて逃げました。

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シラサギが、たくさんいます。
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栗の毬が大きく肥え始めています。
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稲葉の朝露です。
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玄関の朝顔。
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これはお出かけ先に通りかかったお寺の蓮の花。
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今日はこれにて。続きは回を改めて、、、。

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大和考その1、の巻 [文学雑話]

昨日、郷里のスーパーマーケットで、偶然お会いしたイチローさん・アキコさんご夫妻は、拙ブログで『故旧』とお呼びしているお友達の1人です。たとえばこの記事では「大学時代の先輩・後輩の間柄で、大阪、西宮、岡山県北、岡山県南など、あちこちに生活の基盤を持つ同郷のメンバー』と定義(笑)しておきました。

故旧相和す刻愉快節分草(こきゅうあいわすときゆかい せつぶんそう)(2014.03.07)

その「故旧」の面々も含めて、年齢層・居住地ともに、もう少し広い範囲のメンバーが、数年に一度会合をする習わしになっていいます。その第一回の集まりの模様を、この記事に書きました。

夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて(2017.08.27)

そこに「この会の発起人、兼事務局長、兼裏方の、全てを担って下さったN氏は、文科の大先輩。」と紹介したN先輩が、数日前電話をくださり、そのあとすぐに封書をくださいました。というのも、N先輩のお骨折りでこの会の『会誌」と言うべき冊子が不定期刊で発行され、最近号ですでに17号を数えます。命じられて、私もそこに駄文を寄せることになり、「まいふぇばれと短歌・俳句」と題した連載記事が5回目になりました。
おおかた、拙ブログの記事の焼き直しですが、第5回はこのような文章を書きました。
 まいふぇばれいと短歌・俳句  (第5回)
 
酒こそ宝、この世が愉しければ来世などどうなろうとかまわない・・・などとうそぶきながらも、旅人さん、相当の泣き上戸と見えて、酒を飲むと必ず酔哭・酔泣(ゑひなき)するのです。
・世間(よのなか)の遊びの道に洽(あまね)きは酔哭(ゑひなき)するにありぬべからし(348)
【解釈】世の中の遊びで一番楽しいことは、酒に酔って泣くことにちがいあるまいよ。
でも、酒を飲んで酔哭しても、楽しいのは束の間で、彼の心は、どうやら一向に晴れることはないのです。
土屋文明著『万葉集私注』の一節を引きます。
「この十三首の讃酒歌は集中でも、その内容の特異なために種々の論議の対象となるものであるが、旅人がどういう動機からこれらの作をなしたか。旅人は当時としては最高の知識人の一人で、新しい大陸文化も相当に理解していた者であろう。(中略)
 しかしこれらの歌は太宰府在任中、おそらくは妻を亡くした後の寂寥の間にあって、中国の讃酒の詞藻などに心を引かれるにつけて、自らも讃酒歌を作って思いを遣ったというのであろう。中国には讃酒の詞藻が少なくないとのことであるが、その中のいくつかを、彼は憶良の如き側近者から親しく聞き知る機会もあったものであろう。」
ここにもあるとおり、太宰帥(だざいのそち=太宰府の長官)として、都を遙かに離れた九州に派遣されていた旅人は、その地で、愛妻を病のため亡くしています。すでに六十歳を超えていた旅人は、長年連れ添ってきた老妻をわざわざ大宰府まで伴ったのでした。それだけに、亡妻を歌った旅人の歌は、切々として胸を打ちます。まずは、都からの弔問に答えた歌。
・世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(793)
【解釈】世の中が無常のものだということを知った今、いよいよますます悲しいことですなあ。
次は、太宰帥の任期が果てて、都に帰る途中の連作。見るもの聞くもののすべてが、在りし日の妻を思い出させて、心を締めつけます。
・我妹子(わぎもこ)が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき(446)
【解釈】都から題材府への道中、愛しい妻が見た鞆の浦のムロノキは、末久しくに健在であるのに、見た人の方は、もうこの世にいないのだ。
・鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)
【解釈】鞆の浦の海辺のムロノキを見るたびに、一緒にこれを見た愛妻のことは、忘れられようか。いやいや思い出されてならぬのだ。
こうして都に帰りついた彼は、こう詠みます。
・人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり(451)
【解釈】誰もいない空っぽの家は、旅の苦しさよりもまさって苦しいことよなあ。
・妹として二人作りし吾(あ)が山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも(452)
【解釈】妻と二人して作った庭の築山は、家を離れていた数年の間に、たいそう立派に木も高くなり、枝葉も押し茂ってしまったことだ。この木をいっしょに植えた妻は、今はいないのに。
当時有数の知識人として中国文化を学び、儒教に傾倒したという憶良が、謹厳実直な人柄そのままに、人生、社会、人間、生活を直視して思索を深めたのと対照的に、老荘・神仙思想に影響を受けたという旅人が酒を友とし超俗の境地に遊ぶ生活にあこがれたのは確かとしても、亡妻を思う哀切な心情は、決して抑えることはできなかったようです。
その愛妻の名は、大伴郎女(おおとものいらつめ)と伝えられています。ちなみに、旅人の周辺には、 紛らわしいことに大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)という女性も登場します。こちらは旅人の異母妹で、波乱の結婚生活や恋愛遍歴を体験しますが、大伴郎女没後は、太宰府の旅人のもとに赴き、旅人の子大伴家持(やかもち)・書持(かきもち)らを養育したといいます。額田王以後最大の女流歌人とされ、万葉集に収録された歌数も、女性で最多だそうです。
ところで、私の住居から徒歩数分のところに、旅人の歌碑があり、当地にゆかりがあるというこの歌が刻まれています。
・大和道の吉備の児島を過ぎてゆかば筑紫の児島思ほえむかも(大伴旅人)
この歌は、彼が筑紫国での任を終え、大納言に昇進して都へ帰ることになった時、帰りの行列を見送る人々に混じって「遊行女婦(うかれめ)児島」という女性が、別れを惜しんで贈った歌への返歌であるようです。どうやら、ただならぬ間柄にあった女性と思われ、超俗どころか、なかなかに人間臭い旅人ですが、彼の歌に共通する率直な抒情は、しみじみと心に響きます。


さて、このたびのN先輩の電話と封書のご用件は、と言いますと、最近N先輩の元へH先輩からお便りが届き、「会誌」への感想などを述べておられる一節にこのような箇所があったので、とお知らせくださったのでした。
kazgさんの稿、 興味深く拝読しました。 ただ、 旅人の和歌ですが、 「大和道の吉備の児島を」の「大和」は、「日本」ではないでしょうか。どちらも「やまと」と読むのですが、すでに、702年?の遣唐使によって国号を「倭」から 「日本」 に変更することを唐に承認させており、 「日本」 という国号が国内で使用されている例としてこの和歌を読んだことがあるように思います。 一度調べてみてください。 
                                          

そして、万葉集原典では、「日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞」と万葉仮名で表記されていると、原典のコピーをも添えてくださっています。その上で、確かに「やまと」は「大和」ではなく「日本」と表記されていること、ただし、kazgの文章は住居の近くにある歌碑の引用なので問題はなく、それを「日本」に直す方が問題だろうと、フォローしてくださっています。H先輩にも、そう伝えてくださったそうです。
たしかに「会誌」への寄稿文では、ブログ掲載のこの写真は掲載していませんので、誤解が生じたかも知れません。

https://kazsan.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_b10/kazsan/R0014045_R-5eebb.JPG

それにしても、さすがにH先輩もN先輩も歴史が専門、考証も緻密です。当方、生来の大雑把と行き当たりばったりが真骨頂、聞きかじりと早のみこみが基本の知ったかブログですゆえ、すぐにメッキが剥がれます(汗)

>遣唐使によって国号を「倭」から 「日本」 に変更することを唐に承認させており

などの知識も、まったく皆無でした(汗汗)

そう言えば、「ヤマトタケル」を古事記では「倭建命」と表記し、日本書紀では「日本武尊」と表記することから、「やまと」に対応する漢字が古くは「倭」であり、国家意識の台頭にともなって「日本」の文字が当てられるようになったのだろうとは、漠然と感じていました。

古来中国側からの呼称としての「倭」の文字には侮蔑の意が含まれているとも聞きます。これを嫌って、対等の関係を築こうとする意図から、新国号として「日本」の承認を求めた由。大いに勉強になりました。

今日はここまで。この続きは次回といたします。


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「多喜二の母」に思う、の巻(2) [文学雑話]

昨日の記事で山田火砂子監督の映画「母 小林多喜二の母の物語」を観てきたことを書きました。ネタバレの懸念もありますし、到底力の及ぶところでもないので、作品全体に関わる内容紹介や感想は避けますが、印象に残ったところ、そこから連想した事柄などを。思いつくままに述べてみることにします。
岡山県出身の画家、竹久夢二を話題にした先日の記事、愛酒の日?の巻
◇「宵待草」異聞、の巻にこんなことを書きました

ところで、「宵待草」の歌は、1910年(明治43年)、夢二27歳の夏、避暑旅行中に遭遇した長谷川カタとの淡い恋をモチーフにしているそうです。恋多き夢二の、青春のひとこまです。
それはそうに違いないのでしょうが、夢二のもう一つの側面に目を向けることによって、宵待草に別の解釈を与えることも可能なようです。 

週刊新聞「京都民放」のwebサイトに、『ほっこり京都』というコーナーがあって、戦前、治安維持法に反対して右翼暴漢に暗殺された京都出身の労農党代議士山本宣治(ニックネームは山宣)と竹久夢二との交友を、こう紹介しています。

 美人画で有名な竹久夢二と山宣は、神戸中学で2年違いの同窓生。夢二は8カ月で退学したので、二人の出会いは、大正元年(1912)11月23日から12月2日までに岡崎の府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」が開かれた時だと思われます。
 山宣は、夢二に正月を「花やしき」で過すように勧め、夢二は1月2日から5日間滞在しています。交流が深まり、夢二は大正5年(1916)11月、33歳で京都の東山の高台寺門前町に引っ越してきました。まもなく夢二が東山区の二年坂へ引っ越した時は手伝いにもいっています。(中略)
 山宣といっしょに夢二の引越しの手伝いをした安田徳太郎は、貧乏所帯の中でも多くの洋書やハイカラな洋食器をもっていた夢二のことを回想しています。また、「宵待ち草」などの絵を描いてもらった山田市蔵は、三高・東大と山宣の同級生だった山田種三郎の弟で、「テニス友だちに女の手ばかり描いている友人がいる」と山宣に夢二を紹介したともいわれています。当時、夢二は社会的には評価が低かったのですが、山宣は「ほんとうに民衆の心をつかんだ夢二さんの絵は50年、100年後になっても残り、時代がたつほどに素晴らしくなるだろう」とほめちぎったと言います。 
 「まてどくらせどこぬひとを 宵待ち草のやるせなさ こよいは月もでぬそうな」(宵待ち草)
 夢二は、22才のころ大逆事件のデッチアゲによって死刑となった幸徳秋水らが作った平民社機関紙『直言』にコマ絵を掲載し、平民社の荒畑寒村らと自炊生活もしていました。安田氏は夢二が「宵待ち草」の「詩に託して社会主義の到来を待った」と述べています。大逆事件被告処刑の翌年、明治45年(1912)に発表された「宵待ち草」の真意は定かではありません。

この文章に登場する安田徳太郎氏については、上述の◇「宵待草」異聞、の巻の記事で少し詳しく触れました。

 

安田徳太郎
やすだとくたろう
(1898―1983)

医師、社会運動家、著述家。京都生まれ。三高を経て京都帝国大学医学部卒業。京大在学中から従兄(いとこ)の山本宣治(せんじ)らと産児制限運動を行い、医療を通して社会運動に参加していった。1930年(昭和5)上京、31年東京・青山に内科病院を開業し、多くの活動家の診療に努めた。32年には共産党中央委員岩田義道(よしみち)の遺体を引き取り、病理解剖に立ち会い、また33年の小林多喜二(たきじ)の拷問死に際しては遺体解剖のため奔走したが警察に妨害されて果たせなかった。同年、共産党シンパの容疑で検挙されたが釈放。その後、転向者を含む獄中被告の救援活動に尽力。42年ゾルゲ事件に連座し、44年懲役2年執行猶予5年の判決を受けた。敗戦後、共産党公認で京都から衆院選に出馬したが落選。その後離党して文筆活動に入った。著書に、『世紀の狂人』、ベストセラーとなった『人間の歴史』全六巻、日本人の起源を推理して話題をまいた『万葉集の謎(なぞ)』、自伝的回想『思い出す人びと』など。おもな訳書に、戦前から戦後にかけて改稿を加えたダンネマンの『大自然科学史』全11巻別巻一がある。『山本宣治全集』『同選集』の編集にもあたった。[小田部雄次]
『『思い出す人びと』(1976・青土社)』
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

その著作「『思い出す人びと』の〈竹久夢二〉の項に「夢二さんは日本で最初の社会主義画家としてメーデーを描き、〈まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬさうな〉という詩に托して、社会主義の到来を待った社会主義詩人であった」とあります。
また、上述の◇「宵待草」異聞、の巻では、こんなことも書きました。

 ちなみに、その安田氏の義弟、高倉輝(タカクラ・テル)氏は、作家で戦後、衆議院議員、参議院議員となるがマッカーサー司令で公職追放された波乱の経歴の持ち主。そう言えば、先日市民劇場で鑑賞した演劇「春、忍び難きを」(俳優座)で、初めて選挙権を得た、文字の書けない農村女性サヨが、「タカクラテル」の文字を一所懸命覚えて投票する場面がありました。

ここまでは序。これから本題です。
昨日の映画で、多喜二が築地警察署で虐殺され、引き取られた遺体を母(ひさ)や同志たちが取り囲み、哀悼している場面で、この安田徳太郎さんが登場します。
母・せきは、この安田徳太郎の従兄が労農党代議士の山本宣治であること、そして山本宣治が、弱い者貧しい者の味方として奮闘したために、権力に憎まれ、右翼暴漢に暗殺されたことを教えられます。山本宣治と多喜二が重なり、改めて宣治の母のかなしみを思うのでした。
ところで、山本宣治については、過去にこの記事を書きました。
◇うすごおりの張りたる今日は山宣忌

  山本宣治についての記事は、この「宇治山宣会」のホームページや、「ほっこり京都」のこちらのサイト に詳しいので、勝手にリンクを張らせていただきます。山宣は、治安維持法の最高刑を死刑とする改悪に帝国議会内でただ一人反対し、発言を準備していたが強行採決によって阻まれ、その夜、宿舎で右翼のテロによって暗殺されたのでした。
その帝国議会出席のために上京する前に、大阪での全国農民組合大会でかれはこう挨拶しました。
「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・」ここで挨拶は中止させられたそうです。
この言葉は、大山郁夫の筆により、かれの墓碑銘として刻まれています。
権力は、この墓碑銘を、セメントで塗りつぶさない限り墓碑の建立を許さないという妨害を加えたそうですが、何度塗りつぶしても、いつの間にか民衆の手によってセメントがはがされ、また塗りつぶされ、、を繰り返し、1945年12月、戦後最初の追悼墓前祭で、墓石のセメントをノミではがし、墓碑は白日のもとによみがえったといいます。
このエピソードは、1960年(昭和35年)に大東映画が製作・配給した山本薩夫監督の映画『武器なき斗い』ぶきなきたたかい)のなかでも描かれていたように記憶しています。この映画の原作は、西口克己の小説『山宣』です。
山宣

山宣

  • 作者: 西口 克己
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2009/05
  • メディア: 単行本

 

山宣 (西口克己小説集)

山宣 (西口克己小説集)

  • 作者: 西口 克己
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1988/07
  • メディア: 単行本

 学生時代、先輩のTさんが16ミリ映写機と映画フィルムの巻かれたリールを重そうに抱えて、キャンパスを歩いておられるのに会いました。

「なんですか?」

と問うと、

「『武器なき斗い』の上映会をやるから、観に来てね」

といった具合で、観たのが最初だったと思います。

そのあと、いろいろな機会に、何度か観たことがありました。


昨日の記事でも登場する同業のO先輩は、ちょっと前、『武器なき斗い』をみて 感慨深かったと語っておられました。京都での学生時代、これを見て、深く感動した記憶が蘇ったそうです。その場にいあわせた何人かの友人は、比較的世代が下であるせいか、あまりピンと来ていない様子。「山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」の句を引こうかと思いながら、タイミングがなくてその話題は終わりました。少し心残りがありましたので、ここに記しておきます。



今日は予定通り、田舎へ帰ってきました。長女に声をかけると一緒に行くというので、一歳児もつれて、長女の運転でドライブです。
運転を人に任せると、車中から写真が撮れたりします。

芋堀りデビューです。

栗拾いにも行きましたが、イノシシのかじった後はありましたが、無傷の栗は三個だけでした。
山道を歩くのは楽しいようです。

この蛾は何者でしょう?

今日はこれにて。

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「多喜二の母」に思う、の巻 [文学雑話]

今日は郷里の父母を訪ねようと思っていたのですが、急に午前中用事が入りましたのでキャンセルしました。昨日会ったUさんが、今日の午後の予定を思い出させてくださいました。こんな映画の上映会があるのです。私もそのチラシをパソコン机の目につくところに張り出していました。このチラシを持参すると、当日券が三百円割引になるのでした。

同じ場に居合わせたO先輩は、すでに別会場(倉敷市)での上映を鑑賞してこられ、「良かった。泣いた。」とおっしゃっていました。
やはり見ておきたい気持ちになりました。
一日中雨の予報で、畑仕事もできそうにないので、かえって好都合だったかも知れません。
午前中の用事を終え、上映会場に向かいます。駐車場をどうするか悩んだのでが、久しぶりに後楽園の駐車場に駐めて、歩いてみることにしました。
あいにくの雨ですが、、、。
岡山城も雨に煙っています。
小学生の団体来意グループが大勢。










カラスの濡れ羽色のカラス(ン?当たり前か)

さて、この映画については以前、majyo様が、このブログ記事に書いておいででした。
◇母 小林多喜二の母の物語 を観て
その記事で、制作会社(現代プロダクション)のHPを紹介してくださっています。
http://www.gendaipro.com/haha/
当時、この記事にこんなコメントを投稿させて戴いておりました。再掲させていただきます。

 三浦綾子さんの「母」は、我が子多喜二を愛し、理解し、志を継いで学び成長を遂げていくおっかさんの、静かな、訥々とした語り口を通して、母性=無私の愛の気高さを描いて胸を打ちます。映画化、大いに期待していました。ホットタイミングでのご紹介、ありがとうございました。
遺体のひきとりから葬儀の一部始終に立ち会った作家・江口渙は、こう書いています。「お母さんは、小林の顔や髪になおも涙を落としながら、抑えきれない心の悲しみを、とうとう言葉に出して訴える。 『ああ、痛ましや。痛ましや。心臓麻痺で死んだなんて嘘だでや、子供のときからあんなに泳ぎが上手でいただべにーーーー心臓麻痺なんて、嘘だでや。嘘だでや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて、いきがつまって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべか。いきのつまるのが、いきのつまるのがーーーああ痛ましや。』 お母さんはなおも小林多喜二のからだを抱きかかえてはゆさぶり、また揺さぶっては抱きかかえる。そして、あとからあとからあふれでる涙に顔を一面ぬらしながら同じ言葉を訴えていたが、突然、『これ。あんちゃん。もう一度立てえ!皆さんの見ている前でもう一度立てえ!立って見せろ』と全身の力をふりしぼるような声でさけんだ

山田火砂子監督は、広告チラシにこんなことを書いておられます

 岡山県のみなさまへ
私は山田火砂子と申しまして、 85歳の老監督でございます。
これまで岡山では「岡山孤児院」の創設者・石并十次の人生を描いた『石井のおとうさんありがとう』 (松平健主演)、『筆子・その愛~天使のピアノ』 (常盤責子主演)、高梁市で生まれ育ち、 北海道に現在もある家庭学校を作り、 たくさんの子どもたちを救い、 不良少年の父と言われた留岡幸助の生涯を描いた『大地の詩~留岡幸助物語』 (村上弘明主演)などのロケーションをしてきました。私にとって岡山は、第二のふるさとのような気がしています。
このたび岡山県で初めて上映させていただいた 『母 小林多喜二の母の物語』 という映画は、 戦争で一番悲しいのはお母さんであり、 お母さんから最愛の子を奪う戰争はぜったいに反対という強い思いをこめてつくりました。(後略)

また、リーフレットにはこんなことも。

 本日は映画「母 小林多喜二の母の物語」をご鑑賞いただきましてまことにあリがとうございます。
最近の日本は共謀罪等が可決され、 戦前に近くなっているように思います。私、 山田火砂子も13歳まで戦争を経験し、 東京山手大空襲で、 家も焼け出されました。 食料もなくひもじい思いをしましたが、 辛うじて生きのびて、 もうすぐ86歳です。 二度と戦争はいやです。 軍国主義の日本に戻ることがあってはならないと思って生きてきましたが、 共謀罪は、 戦前の治安維持法と同じではないですか? 多喜二はこの治安維持法によって、 国家権力の警官によって3時間殴り通されて殺されたのです。 彼は、 戦争などしない平和な国を願い、 武器を作るお金があるなら貧しい人のために使うぺきという思いで小説を書きました。 その代表作が「蟹工船」です。 金持ちが全部搾取してしまう。 労働者は怪我をしてもなんの保証もない。 ストライキをしたら軍隊がくる。 弱者に対して言うことは、 働かざるもの食うべからず…。
福祉など全くなかった戦前、 二度とそんな時代が来ないでほしい、 その一心でこの映画を作リました。

上映前のステージで、監督あいさつにたたれた山田火砂子監督は、高齢ながら、凛とした張りのあるお声で、平和への思いを訴えておられました。「戦争で一番悲しいのは母。慈しみ育てた子どもを母から奪う戦争を二度と許してはいけない」「母、せき役の寺島しのぶさんは、我が子の命が奪われたりしたら、取り乱して自分を失ってしまうだろうに、もう一度立て、と呼びかけた多喜二の母は気丈だ。役だから演じるが、自分ならとてもできない、と漏らしていた」等、印象深いお話が、心に残りました。
小林多喜二は、これまでも、何度となく私の記事に登場してきます。
◇「宵待草」異聞、の巻
◇ブログ更新停滞の三つの言い訳、の巻
◇しもつきついたちの後楽園、の巻
◇夏の終わりの高知行、の巻(その5)
サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻
◇この道はいつか来た道 「密告フォーム」の行き着く先、の巻
◇自民HP密告フォームと「二十四の瞳」、の巻(1)
◇年金訴訟と朝日訴訟についてのおもいつくまま
道の辺に思ひ思ひや思ひ草
またまた3月15日の蘊蓄、の巻


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啄木かるた補遺、の巻 [文学雑話]

昨日の記事に、古い授業プリントをご紹介しましたが、その冒頭にこんな意味不明な一節がありました。

  授業メモ
*私と啄木  
       ①啄木カルタ
       ②屋根裏の古書
       ③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝

少しだけ補足説明させていただきます。
「①啄木カルタ」というのは、これです。

色もあせ、散逸、破損しているのはもっともな話で、大昔の少女雑誌「少女の友」の付録だったものらしいのです。

これの元の持ち主は、妻の亡くなった母親。彼女が少女時代に買ってもらった雑誌の付録を、大切に保管してきて、娘であるわが妻に譲ってくれたものであるらしい。年季が入った「お宝」です。
ネットで確かめてみますと、どうやら、昭和10年代、そしておそらく昭和14(
1939)年1月号のものらしいです。
amazonの商品広告(復刻版)を引用します。該当部分を赤字にしました。

 

昭和10年代前半に、中原淳一の表紙画で黄金期を築いた伝説の少女雑誌『少女の友』。
その創刊100周年を記念して、若き日の中原淳一が企画・デザインした超豪華な雑誌付録5点に、『少女の友』のピークともいうべき昭和13年1月号の完全復刻版を加えたプレミアムセットです。
雑誌の付録とは信じがたい愛らしく手の込んだ品々は、その大半が戦災で失われましたが、奇跡的に残っていたアイテムを使ってオリジナルの世界を忠実に再現しています。
【お宝その1】フラワーゲーム(昭和13年1月号付録)
一枚一枚異なる花が描かれた美麗な48枚の札と、12枚の蝶の札からなる花占いカード。まるで小さな宝石のよう。「札合せ占い」「待人占い」「蝶の占い」「時間占い」の4つの占い方をくわしく解説したリーフレットつき。
お宝その2】啄木かるた(昭和14年1月号付録)
時代を超えて愛される石川啄木の歌と、淳一の見事なコラボレーション。発刊当時、読者から大変な反響があった付録を、当時のケースもそのままの形で復刻しました。

【お宝その3】花言葉枝折(昭和8年10月号付録)
精緻な型抜きが施された、重層的な作りのしおり付きカード。凝りに凝った作りの、驚くべき付録。内側の小さな封筒にはしおり5枚が。雲の模様の部分をめくると、花言葉があらわれます。
【お宝その4】バースデーブック(昭和10年1月号付録)
手のひらサイズのサインブック。家族や親しい方に誕生日の日を選んでサインしてもらいます。「その方々のお誕生日の日にお祝いのお手紙をおあげになればどんなにかお喜びになるでせう」(あとがきより)。北原白秋らの詩72編がページを彩ります。
【お宝その5】青い鳥双六(昭和8年1月号付録)
『少女の友』でデビューした半年後、まだ19歳の淳一が描いた双六。童話「青い鳥」をモチーフに描かれた不思議な魅力が漂う作品。淳一の作風の変化を知る上でも貴重。
【お宝その6】『少女の友』昭和13年1月新年号
《おもな記事》木村伊兵衛(グラビア)「新春」/中原淳一(口絵)「雪の夜」/松本かつぢ(漫画)「お正月漫画アルバム」「くるくるクルミちゃん」/吉屋信子(小説)「伴先生」/ブデル原作・岩下恵美子訳(翻訳小説)「花籠」/横山隆一(漫画)「ポチをさがして三千里」/川端康成(小説)「乙女の港」/山中峯太郎(小説)「聖なる翼」/平井房人(雑記)「宝塚秘話スター生立記 萬代峰子の巻」/吉川英治(時代小説)「やまどり文庫」


啄木かるた

啄木かるた

  • 作者: 中原 淳一
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2001/12
  • メディア: 単行本
『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション

『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション

  • 作者: 実業之日本社
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2009/03/13
  • メディア: 単行本


すでに日中戦争の戦火は拡大し、がんじがらめの国家総動員体制が敷かれていく過程にありながら、まだ日米開戦前というこの時代。がちがちの軍国調ではない、このようなやさしげな付録が、少女たちを育んでいたことは、むしろ意外な感に打たれます。
それからわずかの年月に、国中が狭量な軍国主義に染め上げられていき、「女々しい」啄木カルタなど潔く放擲して惜しがらない「忠良な」軍国少年、軍国少女たちが育てられていくことになるのでしょう。
この記事に書かれた疎ましい時代が、目の前に待ち受けているのです。
◇溶けそうな暑さすべなく空を見る
◇青空に背いて栗の花匂う

 so-netブログの大先輩落合道人様のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。
 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
 ▼
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年

さて、手元の啄木カルタをじっくり見てみます。
上に並べたのが、読み札。啄木の短歌が書いてあります。
下の絵札は、中原淳一の挿絵。

その絵札の裏に、下の句が印刷されています。
これが取り札になります。

戦前・戦時の日本の少女たちに、このような、優美なカルタ遊びを楽しむことができる瞬間があったことが、儚い幻のように痛ましく思われてなりません。
さて、明後日は、72年目の終戦記念日。
この72年間は、少年少女たちの、穏やかなしあわせの記憶が、少なくとも戦争という凶悪な暴力によって、踏みにじられ破り捨てられる事態だけは、辛うじて食い止め続けてきています。そのささやかな幸せの思い出が、これから先も永遠に、いつまでも壊されることなく、彼ら彼女らの心に生き続けますように。そしてその弟や妹、こや孫の代までも、憲法に謳われた平和が、揺るぐことなく引き継がれますようにに、と、願わずにはいられません。

「②屋根裏の古書」、「③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝」については
、また改めて触れる機会があるでしょうか?
昨夜は、久々に涼しさを感じ、心地よい眠りを得たせいか、目覚めも快適でした。大阪から帰省している次男が、岡山は涼しい、と連発しますが、確かに今日の午前中のしのぎやすさは特筆ものです。ただ、さすがに日が高くなり、強い日射しが室内に入り込むようになると、エアコンのお世話にならないではいられません。
夕方ちょっと畑に行き、草の茂った様子を確かめ(草抜きをしようとわずかに試みて、すぐに断念)たり、オクラを収穫したりなどしてきましたが、汗の量も着替えが不要なレベルでした。
今日の田園風景です。

正面に見えるのは常山。

正面右の嶺が金甲山、左が怒塚山。

稲はすくすくと成長しているようです。
今日はこれにて。

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啄木とその父のこと [文学雑話]

昨日の記事で、啄木のこの短歌を引用しました。

石をもて追はるるごとく
ふるさとをでしかなしみ
消ゆる時なし

啄木が、「石をもて追はるるごとく」ふるさとを出たのはなぜか?
というような話題に進もうとして、昨日は力がつきました。
以前、こんな記事を書きました。一部抜粋します。
棄てかねしフォルダにあまたのファイルあり ふるき切なき恋文のごと(2014-07-25)

昔(二〇世紀です)、夜間定時制高校に勤めていた頃、4年生(最上級学年)で出題したテスト問題を、ファイル庫から見つけました。18歳もいれば、成人もいる多彩な顔ぶれでした。定型詩の調べは、彼らの胸に響くようでした。
相当昔のこと故、個人情報とか、「学習指導要領」との整合性などなど、ややこしいことは、もう「時効」でしょうし、なにか特段の差し障りはないものと思い、紹介することにします。
(中略)
(6)本名は一(はじめ)。岩手県に生まれる。
岩手県日戸村の曹洞宗常光寺の住職の子として生まれる。父が渋民村(しぶたみむら)の宝徳寺に転じたので、彼もここで成長し、渋民小学校を経て盛岡中学校に入学。在学中、上級生のⅣ  らに刺激され雑誌「」に傾倒(けいとう)、詩歌を志す。
一六歳の秋中途退学して上京するが、病で帰郷。渋民小学校の代用教員をしながら小説「雲は天才である」などを書くが、免職(めんしょく)となり、北海道に渡る。函館、小樽、釧路などを転々とした後上京、小説などを書くが成功せず、朝日新聞社の校正係となる。生活苦・結核の進行などの現実の中で、初期の浪漫的傾向から、実生活の感情を日常語で歌う生活派へと変貌した。
第一歌集「」は、上京以後の短歌551首を収録。自然や季節の描写といった、それまでの短歌形式から離れ、故郷の渋民村や北海道生活の感傷的回顧、窮乏生活の哀感、時代への批判意識など、生活に即した実感が三行分かち書きという新形式によって表現されている。死後に出版された第二歌集「悲しき玩具(がんぐ)」は、貧困と病苦、生後間もない愛児の急逝(きゅうせい)、重苦しさを深める時代・社会状況など、深刻な現実を見据えながら、「新しい明日」の到来を願う思いを歌った。彼の歌は、その平明さと切実さによって広く親しまれ、今も愛唱されている。
注 空白部にはそれぞれ、Ⅳ金田一京助 Ⅱ明星 Ⅴ一握の砂が入ります。

啄木にとっての「ふるさと」とは、岩手県渋民村です。この地にあった宝徳寺に父・石川一禎が住職として赴任し、幼い啄木(一=はじめ)も、ここで育ったのでした。
啄木が、この「ふるさと」を追われることになった最大のきっかけは、父一禎が宗費滞納という金銭トラブルで、宝徳寺住職を罷免、家族とともに放逐された事件によります。1905年 明治38年、啄木 満18歳のときでした。
そのあたりのいきさつを、授業プリントにもまとめたことがありました。何回か使い回して使用しましたが、今手元にあるのは、1997年作成のプリントです。該当箇所を、赤字で強調してみます。。

 
国語Ⅰプリント「短歌」1       97.5
 
授業メモ
*私と啄木  
       ①啄木カルタ
       ②屋根裏の古書
       ③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝
*代表作品
小説「雲は天才である」明治三九(1906)年(21歳)
歌集「一握の砂」明治四三(1910)年(25歳)
1.東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
2.頬(ほ)につたふ 涙のごはず 一握の砂を示しし人を忘れず
3.大海にむかひて一人 七八日(ななようか) 泣きなむとすと家を出でにき
4.砂山の砂に腹ばい 初恋の 痛みを遠くおもひ出づる日
5.大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり
6.ゆゑもなく海が見たくて 海に来ぬ こころ傷(いた)みてたへがたき日に
 
歌集「悲しき玩具」明治四五(1912)年(27歳)
7.呼吸(いき)すれば、 胸のうちにて鳴る音あり。凩(こがらし)よりもさびしきその音!
 
石川啄木 歌抄
* 少年時代の追憶
8.その昔 小学校の柾屋根(まさやね)に 我が投げし鞠いかにかなりけむ
9.己(おの)が名をほのかによびて 涙せし
 十四の春にかへる術なし
 
10.不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心
11.教室の窓より逃げて ただ一人 かの城あとに寝に行きしかな
12.晴れし空仰げばいつも 口笛を吹きたくなりて 吹きてあそびき
13.夜寝ても口笛吹きぬ 口笛は 十五の我の歌にしありけり
14.よく叱る師ありき 髭の似たるより山羊と名づけて 口真似もしき
15.学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず
16.その後に我を捨てし友も あの頃はともに書(ふみ)読み 共にあそびき
 
* 恋17.師も友も知らで責めにき 謎に似る わが学業のおこたりの因(もと)
18.先んじて恋の甘さと 悲しさを知りし我なり 先んじて老ゆ
19.我が恋を 初めて友にうち明けし夜のことなど 思い出づる日
20.城跡の 石に腰かけ 禁制の木の実をひとり味わいしこと
 
  ☆盛岡中128人中10番で入学→1年25番→2年46番→3年86番→4年カンニング→5年1学期赤点多数、欠席207時間→退学(16歳)。 この中退が、彼の生活を貧困に追い込む。
代用教員給料8円。 朝日新聞校正係25円←→漱石200円
 ☆20歳で節子と結婚した啄木は、小学校の代用教員として、8円の低賃金で生計を立てるが、「日本一の代用教員」という自負を持って、教職に情熱を傾ける。当時の封建的気風に対して、子どもの個性を尊重した教育を目指す(小説「雲は天才である」参照)。子どもたちの立場を守って校長排斥のストライキを指導し、解雇。
一方宝徳寺という寺の雇われ住職だった父一禎は、息子の学資、生活費を工面するために寺の公金を使い込み、それが元で、寺から追い出される。
 ふるさとを追われた啄木は、北海道へ渡るが、以来二度と故郷渋民村へ帰ることはなかった。北海道でも、代用教員、新聞記者などを転々としながら作品を書くが、本格的な創作生活にはいるため、明治四一(1908)年、23歳の時、上京する。苦境のもとで、「帰りたくても帰れない」故郷への思いはつのる。
 
*北海道で 
 
21.かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の 声の荒さよ
22.かの年のかの新聞の 初雪の記事を書きしは 我なりしかな
23.しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな*望郷の念
24.石をもて追はるるごとく ふるさとを出でし悲しみ
 消ゆる時なし
 
25.かにかくに渋民村は恋しかり
 おもひでの山
 おもひでの川
 
26.病のごと
 思郷のこヽろ湧く日なり
 目にあをぞらの煙かなしも
 
27.ふるさとの訛(なまり)なつかし
 停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
 そを聴きにゆく
 
28.やはらかに柳あをめる北上の
 岸辺目に見ゆ
 泣けとごとくに
 
29.ふるさとの山に向かひて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
 
30.別れをれば妹いとしも
 赤き緒の
 下駄など欲しとわめく子なりし
 
31.やまひある獣のごとき
 わがこころ
 ふるさとのこと聞けばおとなし
 
32.なつかしき
 故郷に帰る思ひあり、
 久し振りにて汽車に乗りしに
 
33.それとなく
 郷里のことなど語りいでて
 秋の夜に焼く餅のにおいかな
 
34.あはれかの我の教えし
 子等もまた
 やがてふるさとを棄てて出づるらん
 
* 生活苦、苛立ちと涙
35.はたらけど 
 はたらけどなおわが生活(くらし)楽にならざり
 じっと手を見る
 
36.何故こうかとなさけなくなり、
 弱い心を何度も叱り 
 金借りに行く
37.たわむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
 
38.わが泣くを少女(おとめ)らきかば
 病犬(やまいぬ)の
 月に吠ゆるに似たりといふらむ
 
39.こころよく
 われにはたらく仕事あれ
 それをし遂げて死なむと思ふ
 
40.高きより飛び降りるごとき心もて
 この一生を
 終るすべなきか
 
41.青空に消え行く煙 さびしくも消えゆく煙 われにし似るか
42.「さばかりの事に死ぬるや」
 「さばかりの事に生くるや」
 止せ止せ問答
 
43.雨降れば
 わが家の誰も誰も沈める顔す
 雨はれよかし
 
44.友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
 花を買ひ来て
 妻としたしむ
 
45.何か一つ不思議を示し
 人みなのおどろくひまに
 消えむと思ふ
 
46.非凡なる人のごとくにふるまえる
 後のさびしさは
 何にかたぐへむ
 
47.なみだなみだ
 不思議なるかな
 それをもて洗へば心戯(おど)けたくなれり
 
48.負けたるも我にてありき あらそひの因(もと)も我なりしと 今は思えり
49.わがこころ けふもひそかに泣かむとす 友みなおのが道をあゆめり
50.こころよく
 人をほめてみたくなりにけり
 利己の心に倦(う)めるさびしさ
 
51.ある日のこと
 室(へや)の障子をはりかえぬ
 その日はそれにて心なごみき
 
52.誰が見ても
 われをなつかしくなるごとき
 長き手紙を書きたき夕べ
 
53.人といふ人の心に
 ひとりづつ囚人がゐて
 うめくかなしさ
 
* 愛児の死
☆明治四三年10月4日.長男真一誕生。この日、処女歌集「一握の砂」出版の契約成立し、20円の稿料を得る。が、10月22日、長男死去、稿料は葬儀代に消える。
54.夜おそく つとめ先よりかえり来て 今死にしてふ児を抱けるかな
55.死にし児の 胸に注射の針を刺す 医者の手もとにあつまる心
56.かなしみの強くいたらぬ さびしさよ わが児のからだ冷えてゆけども
57.かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり
 
58.真白なる大根の根の肥ゆる頃
 肥えて生まれて
 やがて死にし子
*不治の病
59.呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!
60.目閉づれど、 心にうかぶ何もなし。 さびしくも、また、目をあけるかな。
61.今日もまた胸に痛みあり。 死ぬならば、 ふるさとに行きて死なんと思う。
62.何処(どこ)やらむかすかに虫の なくごとき こころ細さを今日もおぼゆる
63.真夜中にふと目が覚めて、
 わけもなく泣きたくなりて、
 蒲団をかぶれる
64.病院に来て
 妻や子をいつくしむ
 まことの我にかへりけるかな
 
65.子を叱る、あはれ、この心よ。
 熱高き日の癖とのみ
 妻よ、思ふな。
 
66.新しきからだを欲しと思ひけり、
 手術の傷の
 痕を撫でつつ
 
67.まくら辺に子を座らせて、
 まじまじとその顔を見れば、
 逃げてゆきしかな。
 
68.その親にも、
 親の親にも似るなかれ-
 かく汝(な)が父は思へるぞ、子よ。
 
69.かなしきは、
(われもしかりき)
 叱れども、打てども泣かぬ子の心なる。
 
70.猫を飼はば、
 その猫がまた争ひの種となるらむ、
 かなしき我が家(いえ)。
71.児を叱れば、
 泣いて、寝入りぬ。
 口少しあけし寝顔にさはりてみるかな。
 
72.何思ひけむ-
 玩具をすてておとなしく、
 わが側に来て子の座りたる。
 
73.昼寝せし児の枕辺に
 人形を買ひ来てかざり、
 ひとり楽しむ。
 
* 社会変革への願い
74.百姓の多くは酒をやめしという。 もっと困らば、 何をやめるらん。
75.友も妻もかなしと思うらし 病みても猶、 革命のこと口に絶たねば。
76.「労働者」「革命」などといふ言葉を
 聞き覚えたる
 五歳の子かな。
 
77.新しき明日の来たるを信ずという 自分の言葉に 嘘はなけれど-----
78.何となく 今年はよい事あるごとし 元日の朝晴れて風無し

☆その明治四十五年一月、母喀血。三月母死去。四月十三日、啄木死去(27歳)。六月十四日次女誕生、六月二十日第二歌集「悲しき玩具」出版。翌大正二年五月五日、妻節子死去(28歳)。

大雑把すぎるまとめでした。
少々補足しておきます。
1904年(明治37年)2月10日日露戦争開戦。1905年(明治38年)5月27日日本海海戦。統合元帥率いる日本艦隊がバルチック艦隊を破ったというニュースの国中が沸き立っていた頃でした。啄木自身、旺盛な創作活動を展開し、『明星』『時代思潮』、『帝国文学』(3月)、『太陽』、『白百合』等に次々と作品を発表する一方で、恋人堀合節子との婚約が整い、新婚生活への希望に満ちた時期でもありました。
 そんな1904年12月26日 父一禎は、宗費113円滞納のため、住職罷免の処分を受けます(曹洞宗宗報第194号)。 処女詩集『あこがれ』刊行のため上京していた啄木は、年を越してもこのことを知らず、与謝野寛が題名と後書きを、上田敏が序詩を寄せて『あこがれ』が世に出ることになった3月、父からの手紙で、一家を経済的苦難のどん底に突き落とす「住職罷免」の処分を知ることになるのでした。
貧困と病気と孤独に彩られた啄木の生涯を、たどってみることはまた別の機会に譲るとして、今日は、一足飛びに、父・石川一禎の終焉の地に目を向けてみることにします。
ずっと前、こんな記事を書きました。2013年8月の記事です。

高知の夏は、静かな雨だった。


 駅前(南広場)の片隅に、石川啄木とその父の歌碑を見つけました。なぜ高知に啄木?というミステリーは、少し好奇心をくすぐりました。
Imgp1093.jpg
歌碑に刻まれている歌の紹介掲示です。
Imgp1094.jpg
啄木の話題は、又の機会に触れてみたいと想っています。

「又の機会」と書いてから、年月が経ちました。
上の歌碑の碑文を写すことで、ひとまず締めくくることにします。

 啄木の父石川一禎は嘉永三(一八五〇)年岩手県に生まれた。渋民村の宝徳寺住職を失職、一家は離散。次女とらの夫山本千三郎が神戸鉄道局高知出張所長として一九二五年に赴任し、一禎も高知に移住した。穏やかな晩年を過ごし、一九二七年二月二〇日に所長官舎(北東約一〇〇m)で七六歳の生涯を閉じた。三八五〇余首の歌稿「みだれ蘆」を残し、啄木の文学にも影響を与えた。

よく怒(いか)る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ   啄木

寒けれど衣かるべき方もなし
かかり小舟に旅ねせし夜は    一禎

二〇〇九年九月一二日
啄木の父石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会 建之

この碑文にある「次女とら」は、啄木の姉に当たる人のようです。
小樽市hpの「おたる文学散歩」第3話に、こんな記事が載っています。

 石川啄木一家は、明治40年9月、新しい新聞社、小樽日報社に赴任するため小樽に来たとき、まず姉夫妻の家に滞在しました。姉の夫、山本千三郎は北海道帝国鉄道管理局中央小樽駅(現小樽駅)の駅長となっていて、その官舎は現在の三角市場付近にありました。
 啄木は新聞記者として熱心に仕事をしました。自分が執筆した記事の切り抜き帳に『小樽のかたみ』と名付けたものが、今も残されています。
 かの年のかの新聞の初雪の/記事を書きしは/我なりしかな
 かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ
 けれども社内の争いにより、12月には小樽日報社を退社。翌明治41年1月19日、小樽駅を発ち、釧路へ向かいました。
 子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな(小樽駅前歌碑歌)
 忘れ来し煙草を思ふ/ゆけどゆけど/山なほ遠き雪の野の汽車
(短歌はいずれも石川啄木『一握の砂』より)
 なお、石川啄木が世話になった山本千三郎は、小樽駅の初代駅長の後、岩見沢駅長、室蘭運輸事務所長を歴任。四国、高知駅長を最後に退職し、鉄道員として生涯を全うしましたが、啄木の老父や、妻であり啄木の姉であったトラを最期までみとりました。

今朝は少し涼しいかなと感じた散歩でしたが、やはり、帰る頃には相当の暑さでした。












今夜→明日未明、「ペルセウス座流星群」の活動がピークになるそうですが、さてどうでしょうか?
きょうはこれにて。

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またまた、蓮にまつわる蘊蓄話、の巻 [文学雑話]

以前こんな記事を書きました(2014年12月)。

降り敷くは唐紅の錦かな(語彙貧困、安直無類、真情不在、拙劣至極)


 今日、仕事から帰って見ると、ゆうメール便で書籍が届けられていました。教科書、参考書、辞典等教育系の出版物を発行している出版社B堂からでした。
思えば、私自身も、中学・高校生時代この出版社の問題集のお世話になりました。
中身は、特にお正月シーズンを目当てに、各社から例年のように発行される百人一首の解説書です。 百人一首のすべての歌が、過不足のない、わかりやすい解説とともに歌ごとに美しい写真も添えられて、あたかもミニ写真集という趣の冊子です。

付録には朗詠のCDも付いていて、至れり尽くせりです
なぜこんな書籍が送られてきたかというと、実はこの中に、ずっと以前に私の撮影した澪標の写真が、無償ですが(笑)、1枚採用され、その記念に献本をいただいたという次第です。

ご縁のはじまりは、このブログの写真を編集者の方が見つけてくださり、使用を打診してこられたのでした。澪標などという題材は、よほどレアなものであるようです。

妻に自慢していますと、「早速、ブログに載せたら?」とからかいます。

自慢話になるのも気が引けますし、個人情報の問題もあって、いったん躊躇はしましたが、ブログネタの一つとして紹介させていただく事にしました。。


事の発端は、こちらの記事のこの写真でした(2013年8月)。

夕映えの倉敷川に澪標(みおつくし)


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自慢ついでに、その書籍もご紹介させていただくことにします。

原色 小倉百人一首 (シグマベスト)

原色 小倉百人一首 (シグマベスト)

  • 作者: 鈴木 日出男
  • 出版社/メーカー: 文英堂
  • 発売日: 2014/12/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

この本の40ページに、澪標の写真が掲載されています。
よくよく過去記事を探ってみると、この記事に該当の歌を少し紹介しておりました(2016年1月)。

ヨシガモでした、の巻


 わびぬれば 今はた同じ 難波(なには)なる  みをつくしても 逢はむとぞ思ふ    元良親王(20番) 『後選集』恋・961

〔解釈〕 どうしてよいか行きづまってしまったのだから、今となってはもう同じことだ。難波にある澪標ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。

その隣の41ページには、素性法師(そせいほうし)の歌が紹介されています。

 21 いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな    素性法師

この歌は私の過去記事でも話題にしたことがありました(2013年10月)。

有明の月 たそがれの月 散歩かな (字余り)


 以下は、いずれも小倉百人一首に歌われた「有明の月」です。

21 いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな    素性法師
30 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし       壬生忠岑
31 朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪        坂上是則
81 ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる      後徳大寺左大臣


【解釈とコメント】
21 「すぐに会いに行きます」とあなたが言ったばかりに、秋の夜長をひたすら眠らずに待っているうちに、夜明けまで空に浮かぶ有明の月が出てくるのに出会ってしましまし他よ。あなたには会えないのに。
長月は旧暦の9月。7・8・9月が秋ですから、晩秋になります。

30 男女の逢瀬の終わりの時間を告げるかのように、有明の月がそっけなく空に浮かんでいたあの別れの時以来、
有明の月がかかる夜明けほどつらいものはありません。
この歌は、「2001年度センター試験 国語Ⅰ・Ⅱ 追試験」で、長野義言(よしこと)『歌の大むね』の文章の一部として出題されましたね。長野義言は、この歌の主は、「後朝(きぬぎぬ)の別れ」を恨めしく思う心で空の有明の月を眺めたとする通説を批判して、有明の月を見て女性に会わないまま、帰ったと解釈すべきだと主張していました。

31 明け方、有明の月かと思うほどに明るく、吉野の里に降っている白雪であることよ。
この歌では、有明の月は実際には出ていません。

81 ホトトギスが鳴いたと思って、そちらの方を見るとすでに鳥の姿は、どこにもなく、ただ、夜明けの空に月が残っているだけであった。
古典の文章では、ウグイスと並んで愛された鳥ですが、ホトトギスは夜鳴くことで珍重されました。

「有明の月」とは、十六夜以降、明け方になっても空に残っている月を言います。
月齢を見ると、今夜の月が16日。昨日の月は15日ですから、今朝空に輝いていた月を『有明の月』と呼ぶのは厳密には正しいかどうかわかりませんが、見事な月でした。

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さてここまでが長い長いマクラで、今日の記事の主題はやっとここからです(汗)
21番の歌の作者、素性法師は、僧正遍照の子です。
この本の30ページに、僧正遍照の次の歌が載っています。

12 天つ風(あまつかぜ) 雲の通ひ路(かよいじ) 吹き閉ぢよ   をとめの姿 しばしとどめむ            僧正遍照
【歌意】空吹く風よ 雲の通ひ路を閉ざしておくれ天与の舞姿をしばらくこの地上にとどめておくことにしよう。   

僧正遍照は、平安時代前期の歌人。六歌仙、また、三十六歌仙の一人にも数えられます。俗名を良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)といい、大納言良岑安世の子、桓武天皇の孫に当たります。従五位上蔵人頭の時、仕えていた仁明天皇の崩御を悲しみ、出家。天台宗の僧侶となりました。
ウィキペディアにはこんな記述もあります。

 在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話は『大和物語』をはじめ、『今昔物語集』『宝物集』『十訓抄』などに見え、霊験あらたかな僧であった話も『今昔物語集』『続本朝往生伝』に記されている。江戸時代に製作された歌舞伎舞踊『積恋雪関扉』では良岑宗貞の名で登場。

小野小町とも交流があり、歌の贈答があったとされます。
『 後撰和歌集』巻17 雑 にこんな記事があります


石上(いそのかみ)といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けてまかり帰らむとて、とヾまりて、「この寺に遍照あり」と人の告げ侍りければ、物言ひ心見んとて、言ひ侍りける
 小野小町
 1195 岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を 我に貸さなん

 かへし   遍昭
 1196 世をそむく 苔の衣は たゞ一重 貸さねば疎し いざ二人寝ん

   【解釈】
石上という寺に参詣して、日が暮れたので、夜が明けてから退出しようと思ってそこにとどまり、「この寺に遍照法師がいる」と教えてくれる人がありましたので、言葉を交わし、気持ちを探ってみようと思って、歌を贈りました。
小野小町
 1195 石上ならぬ岩の上に、旅寝をしているのでたいそう寒いことです。あなたの苔の衣(=僧衣)を、私に貸してほしいものです。

  (遍昭からの)返歌

  出家したわたしの僧衣はただ一重だけですが、貸さないのも失礼ですから さあ一緒に二人で寝ましょうか?


僧侶の身でありながら不謹慎ともいえるプレイボーイのセリフですが、 歌の贈答につきものの、大人の戯れ、一種の洒落であったようです。
二人の関係は決して深刻な男女の関係とは思われませんが、この僧正遍照を、小野小町に恋い焦がれて99日間通い続けた深草少将のモデルとする説もあるようです。深草少将の百夜通い(ももよがよい)について、ウィキペディアにはこう紹介してあります。


 百夜通い(ももよがよい)とは、世阿弥などの能作者たちが創作した小野小町の伝説。
小野小町に熱心に求愛する深草少将。小町は彼の愛を鬱陶しく思っていたため、自分の事をあきらめさせようと「私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう」と彼に告げる。それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま最後の夜に息絶えた。
中世以降、百夜通いは小野小町の恋愛遍歴を象徴するエピソードとして民間にまで広く流布した。(後略)

さて、ここからがやっと本論。
昨日の蓮の葉の記事に、僧正遍照のこの歌を付け加えておきたかったのです。

  蓮葉のにごりに染まぬ心もてなにかは露を玉とあざむく(巻三夏歌165)
(はちすばのにごりにしまぬこころもてなにかはつゆをたまとあざむく

【解釈と鑑賞(学研全訳古語辞典より)】
[訳] はすの葉は、周りの泥水の濁りに染まらない清らかな心を持っているのに、どうしてその上に置く露を玉と見せかけてだますのか。
【鑑賞】
仏教では清浄な心を持っているはずの蓮が人を欺くという、機知的な趣向に妙味がある歌。「欺く」は係助詞「か」の結びで、動詞「欺く」の連体形。

「泥中の蓮(でいちゅうのはす)」という故事成語があります。
蓮は汚い泥の中でも、清らかな花を咲かせることから、汚れた環境の中にいても、それに染まらず清く正しく生きるさまのたとえとして用いられます。(出典:『維摩経』 }

清らかなはずの蓮が、どうして玉と見せかけてだますのか?と恨み言を言いながら、蓮の葉の露への愛着を率直に表明した歌といえるでしょう。
去年の写真です。
雨の日のハスの花
雨の日のハスの花 posted by (C)kazg
今日はここまで。

海峡を汝(なれ)も渡るか黒揚羽 [文学雑話]


てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った
安西冬衛

昨日の記事で引用した詩ですが、その「てふてふ」に、いろいろな蝶を当てはめて想像してみるのも楽しいのではないでしょうか?

たとえば、この記事で書いた、我が家の庭出身のツマグロヒョウモンとアゲハ。

◇庭で生まれたツマグロヒョウモンとアゲハのサナギ、の巻

アゲハの誕生は、こちらで書きました。


◇ウルフを倒した膵臓癌に思う、の巻

◇気になる都知事選、の巻

また、ツマグロヒョウモンの誕生はこちら。

雨の日の赤紫蘇調達、の巻


◇飼育中のツマグロヒョウモンすべて羽化、の巻


さらに、つい最近、クロアゲハも羽化しました。



























大海原を、風に吹かれながら、ひらひらと飛翔して行く姿は見られませんかね。

今日の付録は、これもつい先日、深山公園で写したツマグロヒョウモンです。

ツマグロヒョウモン♀

ツマグロヒョウモン♀ posted by (C)kazg ツマグロヒョウモン♀

ツマグロヒョウモン♀ posted by (C)kazg ツマグロヒョウモン♂

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ツマグロヒョウモン♂ posted by (C)kazg ツマグロヒョウモン♂

ツマグロヒョウモン♂ posted by (C)kazg


いかめしい豹紋のチョウですが、飛翔力はさて、どうでしょう?韃靼海峡はもとより、瀬戸内海をさえ。渡りきることができますかどうか?



前回をまねて、これらのチョウの名を漢字で書いてみます。

アゲハチョウ=「揚羽蝶」

ナミアゲハ=「並揚羽」

クロアゲハ=「黒揚羽」

ツマグロヒョウモン=「褄黒豹紋

ずいぶん印象が変わるような気がします。

今日はこれにて


サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻 [文学雑話]

昭和初期の詩に

てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った
という、際だって短い作品があります。

ドイツ文学遊歩ホームページというwebサイトの、「ただ一度だけ」という項目の冒頭に、
◇ てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った。
と題する秀逸な文章が掲載されています。

nureinmal2.jpg

その一部を、無断で引用させて戴きます。


 

安西冬衛の一行詩「春」。
 詩集『軍艦茉莉』(昭和4年刊)所載。
 初出はその2年前、詩誌「亜」。
  「てふてふ」は旧仮名遣いで、今日では「ちょうちょう(蝶々)」。
 「韃靼海峡」はシベリアと樺太(サハリン)の間の海峡で「間宮海峡」のこと。
 作者は大連(旧満州)の港にいて、実際に蝶が一匹大陸から樺太の方に向かって飛んで行くのを見た、それがきっかけだという。
 とはいえ、想像やフィクションの要素がない、とばかりは言えないだろう。本当に一匹だったのか、春だったのか、など…。
 ともあれ、ある種の蝶は海を渡って移動する。
 アサギマダラという種類らしい。

asagimadara.jpg



アサギマダラ

以上がこの詩についての基礎知識。
 もともとは

 てふてふが一匹 間宮海峡を渡って行った  軍艦北門の砲塔にて

 となっていたらしい。
 さらに、もし「てふてふ」が「ちょうちょう」、「韃靼海峡」が「間宮海峡」となって…「ちょうちょうが一匹 間宮海峡を渡って行った」…では、内容は同じなのに、詩にならない。
 どうして? について多言を弄するのは野暮であろうが、「韃靼海峡」には音声面での効果があって、それに比べると「間宮海峡」は響きがおとなしい。「てふてふ」との対立・落差がなくなり、緊張感が消える。
 意味的なイメージの点でも、実際の韃靼人=タタール人や間宮林蔵とは無関係に、「韃靼海峡」には「間宮海峡」にない荒々しさがある。勇猛豪胆な「韃靼」の荒海(海峡)と、はかなげにして優雅なる「てふてふ」の対比、強大なるものにか弱きものが挑むけなげさ、だけでなく、そこはかとない諧謔味もこの詩にはただよう。「てふてふ」にはユーモアがある。
 その上、「てふてふ」と「韃靼」の字から来る視覚的な対蹠性が加わる。
 「韃靼」は画数も多く、音声面に劣らず剛直で猛々しい感じを与えるのに対して、「てふてふ」は前聴覚的・視覚的に蝶の羽の動きを模していて、声に出して「ちょうちょう(蝶々)」と読んでも、脳裏にはなお「てふてふ」の残像が残って、蝶が揺れながら舞い飛ぶさまが目に浮かぶ。
 最終バージョン・決定稿でなければ後世に残らなかっただろう。
この詩は高校生時代に読んで印象深く記憶していましたが、ぼんやりと抱いていた感想が、この解説によってはっきりとし、すとんと飲み込めた気がしました。この場を借りて感謝を申し上げます。
ところで、「ダッタン海峡」と題する冊子が、私の手元にあります。
以前この記事で、触れたことがありました。

◇多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻



高知出身の 反戦詩人槇村浩(まきむらこう)の生誕一〇〇周年を記念して刊行された冊子です。表題の「ダッタン海峡」は、槇村のこの詩にちなみます。



ダッタン海峡
――ダッタン海峡以南、北海道の牢獄にある人民××同志たちに――
槇村浩


春の銀鼠色が朝の黒樺を南からさしのばした腕のように一直線に引っつかんで行く

凍った褐色の堀割が、白いドローキの地平を一面に埋める

―――ダッタン海峡! ふいに一匹の迷い栗鼠が雪林から海氷の割れ目え転げ落ちる

とたん、半分浮絵になった銅チョコレート色の靄の中から、だ、だ、ただーんと大砲を打っ発した



峡瀬をはさんで、一つの流れと海面からふき出した一つの島がある

土人は黒龍江を平和の河と呼び、サハリンを平和の岩と呼んだ

かつて南北の帝国主義の凝岩がいがみ合ったところ

いま社会主義の熔流が永遠の春を溶かそうとする



見はるかす

シベリヤ松とドウリヤ松の平原の釘靴帯

粘土の陵堡砦が形造る部落部落のコルホーズ

孤立したパルチザンの沼沢をめぐる麦と煉瓦と木材の工場群

おゝ、サヴェスチカヤ湾………おゝコモールスカヤ市………おゝバム鉄道………

その名を聞くたびに身内をめぐる新鮮な身震いを感じ

ウスリの少女らが頭に巻くハネガヤの花のような芳醇さを疲れた胸に吹き込む

それらの名前は

数万の、ロシヤと中国とウクライナと白ロシヤと高麗と日本の定住した民族の生活圏を、美くしく合成する第二次五ヶ年計画の完成を貫いているんだ!

おゝ希望の湾………おゝ青年の市………おゝ、北東の頭蓋を覆う××(1)鉄道………



(後略)


「青空文庫」に依ります。伏せ字は「革命」だそうです。

ネット上に槇村浩生誕一〇〇年(2012年)について述べた、記事がいくつかありました。まずは、槇村の出身地高知県の地元紙「高知新聞」の記事から。


『小社会』
 

2012.06.02 朝刊   

 きのうは高知市出身の反戦詩人槙村浩(こう)の生誕100年だった。記念の講演会がきょう、同市内で開かれる。槙村は悪名高い治安維持法違反で逮捕され、激しい拷問がたたって26歳で早世した



▼生前の槙村と親しかった人を、一人だけ知っている。県選出の社会党衆議院議員だった故井上泉さん。もう20年以上も前に、「槙村浩全集」を贈っていただいたことがある。井上さんは全集の編集・発行人の一人だった



▼槙村の最初の反戦詩「生ける銃架」、代表作「間島パルチザンの歌」…。ほとばしる波のように紡がれる言葉の迫力に圧倒された。槙村の早熟の天才ぶりを示すいくつかの逸話も、全集で知った



▼井上さんは兄と親しかった槙村の影響で、「プロレタリア文学」などに投稿し始めた。槙村は井上さんを実の弟のようにかわいがり、静かな口調ながら、厳しく原稿を手直ししてくれたという(「遠き白い道」高知新聞社)



▼井上さんは同著で「槙村とともに闘った旧友が次々と亡くなる中、今に生きる私が槙村を語るのは、ある意味で努めでもありましょう」と話していた。閃光
(せんこう)のように散った詩人の青春の記憶を、時はいや応なしに押し流す。一方で作品を通じて研究が深まり、再び見直しの機運があるのは喜ばしいことだ



▼もし槙村が生きていれば100歳。「神童」とうたわれた若き俊英の命はその4分の1ほどで奪われた。つくづく戦争の愚かさを知る。



高知新聞社





つぎは、槇村が属し、その故に治安維持法による弾圧の対象となった日本共産党の機関紙「赤旗」の記事です。




文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ

 高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。

 児玉由紀恵記者



 〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉

 印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。

 貧窮にあえぐ朝鮮民族の姿や、「大韓独立万歳!」を掲げた19年3月1日の朝鮮全土での蜂起と日本軍の大弾圧。さらに国際連帯を奏でる200行近い長詩が劇的に展開し、終連近くではこううたわれます。

 〈おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現れなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!〉

 この詩が発表されたのは、プロレタリア作家同盟の機関誌『プロレタリア文学』1932年4月臨時増刊号でした。



多喜二虐殺の時代

 前年9月には、「満州事変」が勃発。天皇制の専制政治、アジアへの侵略に反対するプロレタリア文化運動の刊行物などは、発売禁止となり、持っているだけで捕らわれたりしました。33年には、小林多喜二が虐殺されています。

 この詩が、発表の数年後には、舞台である間島地方に伝えられていたことが明らかになりました。延辺に住んだ作家の戸田郁子さんが、『中国
朝鮮族を生きる』で、そのことを伝えています。戸田さんの恩師、延辺大学の歴史学者が小学生のころ(35、36年ころ)の話。日本に留学経験のあった教師
が、授業中に朝鮮語でこの詩を朗読した、というのです。

 日本の植民地時代に間島でこの詩が読まれていたとは! 衝撃を受けた戸田さんは2009年11月、高知を訪ねました。

 「延辺をたった時は50㌢積もる大雪でした。高知に着いて南国のシュロの木や日差しの温かさに驚き、ここで育った詩人が、あの間島の風景
や厳しい冬の季節を描いたのかと、胸に迫るものがありました」と戸田さん。若い日、韓国で歴史を学びながら、槙村のこの詩に民主化をめざす韓国の人々のた
たかいを重ねていました。「戦時中にこれほど朝鮮人に寄り添った日本の詩人はいません。どれほど尊いことかと思います」

 2日に高知市で開かれた「槙村浩生誕100周年記念のつどい」。戸田さんは、ここで講演し、槙村の詩でつながった延辺と高知をさらに太くつなぐ「懸け橋になろう」と呼びかけました。

 槙村浩の会会長で詩人の猪野睦さんは語ります。「あの時代に槙村の詩が伝わっていた話にはびっくりしました。7年近く前、文学の集いで延辺に行った時、槙村のこともこの詩のことも知られていた。槙村はここで生きていると思いました」

 「記念のつどい」の成功に向けて尽力してきた高知市内の「平和資料館・草の家」の館長、岡村正弘さんは言います。「文化的な重みで〝北の多喜二、南の槙村浩〟と言いたい。9月には延辺への旅も計画しています。友好のきずなをさらに強めたいと思います」

 「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。



 槙村浩(まきむら・こう)は、1912年6月1日、高知市生まれ。本名・吉田豊道。幼時から抜群の記憶力、読書力を示し、「神童」と報じられます。海南中学時代、軍事教練に反対し、30年、岡山の中学校に転校処分。『資本論』を読み、マルクスに傾倒。

 31年、高知でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、共産青年同盟に加盟。32年、兵士の目覚めを促す「生ける銃架」、「間島パルチザ
ンの歌」を発表。日本共産党の党員候補に推薦されます。高知の連隊の上海出兵に反対行動を展開し、4月に検挙。治安維持法違反で懲役3年に。拷問などで心
身を壊し、35年6月に出所。獄中で構想した革命への情熱あふれる詩「ダッタン海峡」や「青春」「バイロン・ハイネ」、論文「アジアチッシェ・イデオロ
ギー」などを一挙に書き、東京の貴司山治に出版を託します。

 36年、高知人民戦線事件で再検挙。翌年、重病で釈放され、38年9月3日、病没

 貴司山治に託された原稿は、官憲の捜索や空襲から守られ、64年、『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』刊行の基に。84年、『槙村浩全集』刊行。

(2012年06月24日,「赤旗」


ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。 以前こんな記事を書きました。
防災の日に寄せて、の巻

 この「大雨の中を嬉しき宅急便」の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。


懐かしいポスターです。
大学に入学仕立ての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。

K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」日曜版の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。


実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。

さらに実は、今週末、ここに書いたN先輩らのお骨折りで、当時の知己や遠い先輩、後輩たちが集う同窓会が高知で予定されています。

前回は2013年の夏に開かれ、↓この記事にあらましを紹介しました。私にとっては、肺癌手術を終えて、退院直後の頃でした。


懐かしい方々との再会に心弾み、指折り数えて週末を待っているところです。

 



ダッタン海峡を越えた蝶はアサギマダラだろうかと言われているそうですね。

 

以前、強い風が吹いた翌日、風に飛ばされてきたらしいアサギマダラを偶然カメラに収めたような記憶があるのですが、画像を探しても見あたりません。となると記憶そのものが疑わしく思えてきます(汗)

ところでこのチョウは?

先日郷里からの帰り道に、回り道をして和気町・自然保護センターに立ち寄った際に、見かけたチョウです。

サトキマダラヒカゲ

サトキマダラヒカゲ posted by (C)kazg 


下の二枚は、つい最近、深山公園で撮影しました。

サトキマダラヒカゲ

  キマダラ  ヒカゲ posted by (C)kazg  


サトキマダラヒカゲ
サトキマダラヒカゲ posted by (C)kazg

画像整理の段階で、同一種だと気づき、孫の協力も得て図鑑で調べましたら、ヒカゲチョウの仲間ではあるらしいのですが、ヤマキマダラヒカゲ、ヒメキマダラヒカゲ、キマダラモドキ、ヒカゲモドキ、クロヒカゲモドキ、などなど、いずれもそっくりに見えて区別がつきません。

その中でも、より特徴が一致するのは、サトキマダラヒカゲでしょうか?

そういえば、この記事でも、サトキマダラヒカゲか?と書いていました。

名にし負う虫の原っぱ虫三昧

ところで、サトキマダラヒカゲは、漢字では「里黄斑日陰蝶」と書き、里に住む黄色の斑模様をもつ日陰蝶という趣旨の名付けでしょう。一方、アサギマダラは「浅葱斑」。浅葱色 (薄い葱の葉のような、藍染の薄い青色)の斑模様にちなんだネーミング。「浅葱」を「浅黄」と書く場合がありますがこれは誤用、ということらしい。

というわけで、まったく関連のないアサギマダラとサトキマダラヒカゲを強引に結びつけた今日の記事は、これにておしまい。お粗末でした。

 


青空に背いて栗の花匂う [文学雑話]

ネット検索していますと、後藤人徳(本名後藤瑞義)さんのHP「人徳の部屋」に、近藤芳美著『現代短歌』の紹介があり、こんな文章が掲載されていました。
「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」
そこには、歌人近藤芳美が、五島茂から手渡された「立春、五島ひとみ追悼号」遺歌稿を読んでの感想がしたためられています。
一部を引用します。

ひとみ歌集は、昭和九年八歳の時の、
お日様きらきら光つて 病院にゐるマミイはスイスの景色を思い出す
にはじまる。何という美しい童画の世界であろう。そうして、何と云うめぐまれた揺籃の色と匂いの世界であろうか。一人の一生を、このように出発すると云うことさえ、僕らの時代には稀な事だと言えるのではなかろうか。
  スプーンはベビーのつばにぬらされてしつとり朝日に輝いてゐる
  母上はベビーに夢中になりたまい朝夕みつめておあきにならぬ
十二歳のころの作である。「ベビーのつばにぬらされて」などと云う大胆な可憐な把握に微笑を感じる。このような幼年期の作に流れているものは、一様なミルク色の明るい光線の世界である。〈中略)五島ひとみの作品が生涯が、このおような幼い日からはじまって居ると云うことは、うらやまれてよい事だ、そうしてこのような日々が、母五島美千代の『暖流』から『丘の上』世界に、例えば次のような作品世界に、も一つやわらかに包まれて居ると云う事も、僕には美しすぎると思うのである。
  ま夜中にかく母と二人あそびしこと大きくなりては思ひ出でざらむ
  母われと一夜眠りてききたきことありとひそかに娘いひに来し
  ある日より魂わかれなむ母と娘の道ひそひそと見えくる如し
その、いたいけな幸せな幼女は、やがて少女となり、自立への階〈きざはし)をのぼっていくのですが、世はあたかも、戦争一色に彩られていく時代でした。
  新しき銀笛ときどきさはりつつ立春の夕べに桃色の袋縫ふ
等の作になると、この稚さなさの中に、もはや作者がミルク色の光線の部屋の中にのみ生きているのではない成長を感じる。この歌と並んで「鼓笛隊の練習終へて友と二人赤き顔みあはせむずかしさいひ合ふ」等の歌があるが、時代と、時代の中に独立した生命として成長して行こうとする一人の少女像が今から見ると少し悲しいようにくっきり浮かうとする。
女学生らは出征兵らを送迎し包帯をまき、鼓笛隊として凛々しい痛々しい行進をしていた目であった。「冬日宙少女鼓隊の母となる日」と云うのは波郷の句であったのだろうか。なにか清潔で、悲劇的な句だと思ったのだが、ひとみさんの少女の日がちょうどその時期であったのだ。

  何となくはしやぎたくなる気持おさへ早く大人になりたしなどと思ふ
  よどみきつた様な空気おそろし鏡に向ひ思ひきり濃く口紅をぬつて見る

十六歳、十七歳のころの歌である。昭和十七年、十八年のころである。多くの、女学生らしい戦争詠と共にこのような歌も作られて居る。身をくねらせくねらせ、成長して行かうとする一人の少女の姿勢と心理とであろう。前者のいはば一種の育ちのよい稚さと共に後者のどこかしんの強い野性めいた反逆も、この作者の、いまだ自覚にまで至らない内面の真実なのであろう。何かこのような不逞なものが、この少女の内深く、云わば生理としてひめられてあったのではなかろうか。 
世の少年少女たちが、「進め一億火の玉だ」とあおられ、多かれ少なかれ軍国少年・軍国少女としての自我形成を余儀なくされた時代でした。
so-netブログの大先輩落合道人様のブログ
「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。

 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
 ▼
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年

 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
笑止!というよりも、痛ましささえ覚える人間喪失ぶりです。
(余談ですが、落合道人様の過去記事を拝読していて、先日来話題にしてきた九条武子と柳原白蓮に触れた詳細な考察を発見。早く読んでおけばと悔いたところです。
九条武子の手紙(5)/白蓮と。
九条武子の手紙(4)/下落合への転居。 
九条武子の手紙(3)/関東大震災。 
九条武子の手紙(2)/ハゲ好き。
九条武子の手紙(1)/下落合のご近所。
近藤芳美の「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」をさらにたどります。
   すべてみなわりきれし如き瞳の光姿勢を正し挙の礼したまふ
同じく十八年の作品。素直な、時局の中の女学生としての作品の中に、この歌のおのづからなうたがひと批判とを、作者はどの程度自覚して居たのであろうか。「すべてみなわりきれし如き瞳」とわりきれない作者との心理の差が、本当はこの歌ではほとんど偶然に提示されたのではなかろうか。しかし、「学徒出陣」をこのように見て行く自然な知性の成長を、この環境と時代に於いて、僕は興味深く感じるのである。

 終戦後のひとみさんを僕は知っている。美しい、それで居ながらどこかすでに独立した知性を身につけた少女として僕の眼にうつって居たが、それだけにこの人は何か幸せを指の間から落としてしまう人ではなかろうかとの危懼を感じた。無論そのころ僕はこの少女がどのような心の成長の歴史をたどって来たかを知るはずもなかった。酔ったとき僕は、「恋愛をしてごらんなさい」と軽薄な忠告をこころみたことがあったが、ひとみさんは「恋愛をしたら性質がかわりますでしょうか」と笑って淋しそうであった。ひとみさんはお母さんの過剰な情感が心の重荷のようでもあった。そのような自己疎外をこのころ次のように歌っている。
  およびがたくしづかな面を眺めつつ己の空虚さをうめたくあせる
  どの人もどの人も何かもつてゐるといふ事に一日おされてゐる
  ついて行けないとわかりきつてゐながらせいいつぱいかりものの論ふりまく
  結局は妥協にすぎないのに 背水の陣とひとりぎめしてゐる
  浮上りそうな足ふみしめふみしめ全身で風雨にぶつかつてゆく
  風の圧力に抗し夜道いそぎ身内一ぱいざわざわ血の流れを体感す
昭和二十三年、二十二歳の作である。
格を外した作品はすでに作品としても独立し得る。言はば一人前の作品である。戦争中のどこかぎこちない女学生の短歌ではなくなって居る。自分を含めてすべてをつきのけようとする孤独な生き方である。そのむかうになにか信じえる人生の本物を手さぐりしようとしたのかそれに早く疲れてしまったのか。
どうしようもないくらさじりじりせばまりくるにまだ自分のものと信じ切れない
  何方にゆくか態度決定のとき迫れり感情にまけまいとせい一ぱいな自分

之らの作につづいて次の如き作品がある。之がひとみさんの場合のほとんど最後の歌であり、しかも荒涼とした一種の相聞歌である事を知る。
  栗の葉をかさかさならし風ふきすぎゆくこの自然の調和を不思議に思ふ
  何故こんなに気に入らぬ言葉のみいふ相手かと気づけばわが心に関りあり
  善良そうに口ゆがめて話しかけるこの人をつきのけたく心底の不満もちたへてゐる
  あてもなくもゆる心もち遠く感ぜられる人々とゐる
作品としてもこのあたりのものはすべてすぐれていると思う。
しかし、風がふきならして行く栗の葉の音、その自然の調和の一瞬に、不思議と思わなければならない、ここまで生き、疲れて来た心情を、僕は二十代の少女としてあまり痛々しすぎると思わないでは居られない。その次の歌もそうである。こんような歌を相聞歌としてほとんど最後に作って居る短い美しい少女の一生を、僕はも一度「マミイはスイスの景色を思い出す」のあたたかい童話的な日ざしの日からふりかえり思わずには居られない。

疲れ果て、前途を見失い、心の支えも見いだせない乙女の不憫さを思うとともに、残された者の、もはや手をさしのべることもかなわぬ喪失感に、ただ頭を垂れるしかない私です。

下の写真は散歩道の栗の花。数日前の撮影です。

独特の青臭い、はしたないまでに生気に満ちた、どこか隠微な匂いが周囲にみなぎっています。


梅雨とは思えない晴天です。気温もうなぎ登りで、三〇度を記録しました。
アゲハは元気です。

そんな中を、孫とジャガイモ掘り体験に挑みました。というのも、長雨と高温多湿で、葉は枯れ、芋も腐り始めていることに気づいたからです。
これは昨日の収穫。

ここのところジャガイモ料理が続きます。これは、私の作った粉ふきいも。この材料のジャガイモは、郷里の老父母が作ったもので、かなり大量にあります。もちろん食べ飽きることはありませんがね。

こちらは今日の作業の模様。







大きいものから小さいものまで、かなりの収量です、果たして腐る前に食べきれるかどうか?
今日はゼロ歳児の母も、たまたま立ち寄り、塩ゆでジャガイモ、ポテトサラダ、ジャガイモポタージュスープをみんなでたらふく食べました。

、ではまた。


五島美代子の歌う母の歌、の巻 [文学雑話]

本棚の片隅に、講談社学術文庫「現代の短歌 高野公彦編」という文庫本を見つけ、何年ぶりかにめくってみました。先日来話題にしている佐佐木信綱が最初のページに紹介され、五島美代子の作品も、七ページにわたって八十首が並んでいます。
その、女性ならでは母ならではのみずみずしい感覚と、思いの切実さにあらためて心惹かれました。昨日の記事と重複しないように、何首か書き留めておきます。
 我ならぬ生命の音をわが体内にききつつこころさびしむものを
胎動のおほにしづけきあしたかな吾子の思ひもやすけかるらし
「誰も踏み込んだことのなかった胎動を詠み、〈母性愛の歌人〉といわれる。」(「研究資料現代日本文学⑤短歌」p262)と評されるとおりです。
いたいけない子どもたちを抱えて、戦時を生き延びなければなりませんでした。
乳呑児(ちのみご)と百日(ももか)こもれぱ小刀(こがたな)の刃にもおびゆるこころとなれり(支那事変勃発)
自(し)が子らを養ふと人の子を屠(ほふ)りし鬼子母神のこころ時にわが持つ
終戦を受け止める心境も複雑です。
昨日ありえしこと今日もありと疑はず誇りかにゐるを老醜といふ
戦争中より明らかに眼ひらきゐしといふ人らと異なり凡愚のわれは 
愛しんで育てた子どもたちも、やがて大人への階段を登る日が訪れます。
 ある日より魂わかれなむと母と娘の道ひそひそと見えくる如し
東大生だった長女ひとみの突然の死。恋愛を巡る悩みの果てだと思われます。賛成しなかった自分に非があったかと自責にさいなまれる母でした。
この向きにて初(うひ)におかれしみどり児の日もかくのごと子は物言はざりし〈長女ひとみ急逝)
吾に来し一つの生命まもりあへず空にかへしぬ許さるべしや
うつそ身は母たるべくも生れ来しををとめながらに逝かしめにけり
あやまちて光りこぼしし水かとも子をおもふとき更にあわてぬ
いたましき顔しませりと見てあれば夫も同じことをわがかほにいふ
わが胎にはぐくみし日の組織などこの骨片に残らざるべし 
日がたっても、悲しみは容易には癒えません。
松うごく風見てあればまさやかにそこに生けりと吾子を思へり
目さむればいのちありけり露ふふむ朝山ざくら額にふれゐて
白百合の花びら蒼み昏れゆけば拾ひ残せし骨ある如し
ふさはしきそらなり緒琴へやに立て娘が生きてゐし冬の日ありき 

孫を持っての歌もほほえましい。
桃太郎もかぐや姫もかく生ひ立ちけむ翁媼(おきなおうな)の子育ての日日
かぎりなく愛しきものと別れ棲み老いすさまじくきく風の音
三歳児さへまことのことを言ひしぶり聡きひとみに人を疑ふ
愛執の鬼ともならず静かなる老にも入らず日日の孫恋ひ
おばあちやまはほどけてゐるといはれたり まことほどけてこの子と遊べる 
こんな歌にもふと目が止まりました。
 桑の葉を食まずなりたる蚕のからだ透きとほりゆくあの種の切なさ

そういえば、去年の今頃は「養蚕業」に大わらわでした。
今日のおカイコほか
去年の写真です。




飼育のために桑の木(マルベリー)の苗を鉢植えしましたが、今年はほったらかしです。

下は去年の写真です。







これで果実酒を作っていたような気がして、床下収納庫を探って見ました。







なかなか、良い色のリカーが見つかりました.試飲してみても、なかなか上等です。しかし、これは、マルベリーではない模様。



ヤマモモだったかな、と思いましたが、瓶の中の果実をさぐって見るとブラックベリーでした。

この記事の時のものでしょうか?それとも↓これかな?

祇園会の果てて大路はしづまれり

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この記事では、奇しくも、佐佐木信綱の孫、佐佐木幸綱を師とする俵万智さんの歌を紹介していました。

この時の果実酒だとすると、二年ものということになりますか?それとも、覚えていないだけで、去年もつけたのかもしれませんが、、、。

今年の実は、まだ、熟していないようです。

5月の下旬頃に写したブラックベリーの花です。















最近、記事がやたらに長くなるのが気になります。続きは次回といたします。


ニオドリも問うらん私いい子でしょ [文学雑話]

行き当たりばったりでつづけている「佐佐木信綱の門人シリーズ」。今回紹介するお弟子さんは、五島茂、五島美代子の夫妻です。
まず、五島茂とはこんな人物。
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
五島茂 (1900―2003)
歌人、経済学者。東京生まれ。別名小杉茂。父は『心の花』の歌人石榑千亦(いしくれちまた)。東京帝国大学経済学部卒業。歌人五島美代子と結婚し、五島姓となる。早くから『心の花』『アララギ』に作品を発表していたが、1928年(昭和3)に『短歌雑誌』に発表した「短歌革命の進展(一)~(八)」で斎藤茂吉、前田夕暮らをマルクス主義の立場にたって批判した。プロレタリア短歌が興隆しつつあった短歌史の流れのなかでの革新派最前線の論陣であった。批判されたなかで、斎藤茂吉が反駁(はんばく)、論争となって歌壇の注目を集めた。同28年に新興歌人連盟を結成、分裂後、29年に前川佐美雄(さみお)らと『尖端(せんたん)』を創刊。その後、31年から33年にかけてヨーロッパに留学。帰国後、しだいに革新的立場から後退した。38年に美代子らと『立春』を創刊し、1998年(平成10)、600号で終刊するまで主宰した。第二次世界大戦後の、1956年(昭和31)に現代歌人協会を創立、ながく理事長を務めた。81年歌集三部作『展(ひら)く』『遠き日の霧』『無明長夜』により第4回現代短歌大賞を受賞した。歌集に『石榑茂歌集』(1929)、『海図』(1940)、『気象』(1960)など。ほかに第九歌集まで収める『五島茂全歌集』(1990)がある。また、歌論集に『新しき短歌論』(1942)がある。
父の石榑千亦(いしくれちまた)は、佐佐木信綱が主宰する「心の花」創刊以来の編集責任者を終生務めた歌人です。先日話題にした我が家の本棚の「現代日本文学大系」(筑摩書房)第94巻「現代歌集」には、結婚前の姓を名乗っての「石榑茂歌集」が収められています。この本に挟み込まれている「月報」には、茂自身の「昭和三、四年のころ」と題したこのような文章が載せられています。
 昭和三、四年のころ  五島茂
最近七〇年代は一九三〇年代の諸情況と近似しているとしきりに言われる。私はたまたま一九三一-三三年英国に留学して大不況にぶっかり又ヒットラー政権掌握のときも雪の伯林に三力月滞在してつぶさに体験したので、三〇年代というとひとごとではない思いにかられるのである。
「石榑茂歌集」を出した昭和四年は一九二〇年代末で日本社会の諸矛盾は金融恐慌や社会不安などの危機的激動が文学局面をもゆさぶり、文学と思想の間題、政治と文学のいずれを優位とするかの対決論議のなかにマルクス主義文学の抬頭がめざましかった。当時の歌壇をぬりっぶしていたアララギ・パターンの歌の過熟は、もちろん例外作者もあるが、日常瑣末主義に堕し、島木赤彦門であった二十代の私は先生没後「アララギ」をはなれて「心の花」に復帰し、大正十五年「短歌雑誌」に「転換期のアララギ」を書いて一石を投じた。.やがて昭和三年二月から十二月まで「短歌雑誌」に拙稿「短歌革命の進展」を連載した。があとからおもえば、このときアララギは赤彦先生没後の動きの中で斎藤茂吉の再制覇が目企されていたのだ。
現代短歌の変革をおもうわれわれは、一方でアララギ写実が瑣末に跼蹐して当時日常心理をるきうごかしていた社会的諸要因に目をむけようとしない点を痛撃し、他方で短歌史の二つの伝統の高峯万葉と新古今集から、それらの伝統の高さの直接継承を目ざして一足とびにわれわれの世代の新しい短歌を樹立しようという気魄に燃えていた。(中略)
「短歌革命の進展」は当時の全歌壇総批判であった。その第一回が茂吉批判であったにすぎない。 連載が「潮音」など他結社にすすむ間に茂吉の例の調子の反批判がはじまったのである。 その内容は何回もの単行本と茂吉全集によって周知のとおりだ。
夫人の五島美代子についてはこうあります。
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
五島美代子(1898―1978)
歌人。東京生まれ。1915年(大正4)佐佐木信綱(のぶつな)に師事し、『心の花』に作品を発表。38年(昭和13)夫茂(しげる)と『立春』を創刊、『新風十人』(1940)に参加した。母としてのさまざまな愛憎の感情を、主観を強く押し出しつつ、叙情味豊かに歌う。57年『新輯(しんしゅう)母の歌集』(1957)で読売文学賞を受賞。ほかに歌集『暖流』(1936)、『丘の上』(1948)、『いのちありけり』(1961)、『時差』(1968)、『花激(たぎ)つ』(1978)など。 
ちなみに、上記の茂、美代子の記事ともに、佐佐木信綱氏の執筆です。
私自身、これまでに、二人の歌を気にとめたことはなかったのですが、このたび走り読みしてみて、特に五島美代子の作品にひかれるものがありました。
あぶないものばかり持ちたがる子の手から次次にものをとり上げてふつと寂し
いひたいことにつき当つて未だ知らない言葉吾子はせつなく母の目を見る
手さぐりに母をたしかめて乳のみ児は灯火管制の夜をかつがつ眠る
あけて待つ子の口のなかやはらかし粥(かゆ)運ぶわが匙に触れつつ
手の内に飛び立たむとする身じろきの娘(こ)は母われを意識すらしも
ひそやかに花ひらきゆくこの吾子(わこ)の身内(みうち)のものにおもひ至りつ
花とけもの一つに棲(す)めるをとめ子はひる深くねむり眠りつつ育つ
愛情のまさる者先づ死にゆきしとふ方丈記の飢饉(ききん)描写はするどし
親は子に男女(をとこをみな)は志ふかき方より食をゆづりしと
われ一人やしなひましし母の乳焼かるる日まで仄(ほの)に赤かりき
この向きにて初(うひ)におかれしみどり児の日もかくのごと子は物言はざりし(長女ひとみ急逝)
花に埋もるる子が死に顔の冷めたさを一生(ひとよ)たもちて生きなむ吾か
冥路(よみぢ)まで追ひすがりゆく母われの妄執を子はいとへるならむ
亡き子来て袖ひるがへしこぐとおもふ月白き夜の庭のブランコ
元素となりしのみにはあらざらむ亡き子はわれに今もはたらく
一読して、娘を歌った作品が強く印象に残りますが、下記の記事がその背景を解き明かしてくれました。

五島美代子の子を悼む歌 短歌一口講座 空 :日本経済新聞

 
今回の「耳を澄まして」では、五島美代子(1898-1978)の亡き子を思う歌が取り上げられていました。五島は「心の花」から歌を始め、戦後は女性歌人の超結社集団「女人短歌」の中心的人物として活躍した歌人でした。

 昭和25年(1950年)、彼女を悲劇が襲います。東京大学文学部在学中だった彼女の長女ひとみが自死したのです。五島はその死が自分のせいであったと考え自分を責めます。のちに『母の歌集』(53年)に纏められる痛切な歌はこのとき生まれました。

   棺の釘打つ音いたきを人はいふ 泣ききまどひゐて吾はきこえざりき

 長女の葬儀のときの歌です。なきがらを納めた棺に釘が打たれる。葬儀に参会した人々はその釘の音の痛ましさを作者に告げます。が、悲しみのなかで吾を失っていた作者の耳には、その釘の音が聞こえなかったのでしょう。出棺を茫然として見送った作者の姿が伝わってきます。

   ひとみいい子でせうとふと言ひし時いい子とほめてやればよかりし

 自死を選ぶ前、長女は作者に甘えて「ひとみいい子でしょ?」と言ったのでしょう。そのとき作者は、自分に甘えようとした娘の内心に気づけなかった。なぜあのとき私は「ひとみはいい子よ」と言ってやれなかったのだろう、娘の苦しみに気づいてやれなかったのだろう……。娘の死後、作者はそう自問します。「ひとみいい子でせう」という口語が用いられていることによって、作者の痛切な心情がよりリアルに伝わってくる歌です。


カイツブリの子どもです。
カイツブリの古名はニオドリと言います。


私、いい子でしょ?







おうちに帰るわよ。



ぼくのほうが速いよ。



仲良くしなきゃだめよ。



ヤマモモの実が熟しています。













今日はここまで。
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