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秋立つや32度なら凌がるる、の巻 [今日の暦]

今日は立秋。

昨夕、実に久しぶりに雷雨があったせいか、朝方は、少しだけ涼しいかも知れません。

東の方では、激しい雨が心配の様子。ご用心ください。

今朝の散歩風景です。

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思えば、毎年同じような画像と同じような記事を載せています。ちょっと探った限りでも、、、。

秋立つやなまあたたかきかぜなれど
秋立つや白きひかりのなほ白き
プライベートビーチの昼下がり、残暑と言うには余りの暑さ、の巻
野分のまたの日、の巻
↑去年の8月7日の記事です。引用します。

まだまだ、秋は遠い、と毎年同じようなことを書いています。2014年の記事を引用します。
秋立つやなまあたたかきかぜなれど

 そういえば、台風の影響もあるのでしょうが、今朝は少し涼しく感じます。実際、朝8時の気温は26℃と、散歩中も快適でした。。日中の最高気温も、31℃~32℃と予想されており、真夏日とはいえピーク時からは随分しのぎやすくなりそうです。

もちろんまた、暑さのぶり返しはありましょうが、だんだんに秋に向かっていることは間違いなさそうです。
散歩中に出会う蝉も、最も暑い頃が発生のピークというクマゼミの姿が薄れ、やや涼しさを好むとされるアブラゼミの比率が増してきたようです。
(中略)
今日にちなんだ歌を一つ。

秋立つ日よめる
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる  藤原 敏行

【解釈】  暦の上では立秋の今日、「秋がやってきた」と、目にははっきり見えないけれど、吹く風の音にはっと気づかされることだよ。

(中略)

「おどろかれぬる」は、動詞「おどろく」+自発の助動詞「る」+完了の助動詞「ぬ」がつながったものです。

古語の「おどろく」には、①目が覚める。②はっと気づく、③びっくりする、などの意味があります。ここでは②の意味です。

助動詞「る」には、①受身(~によって~される)、②尊敬(~なさる)、③可能(~できる)、④自発(自然と~される)の用法があります。④が、この語の本来の意味だったようです。この歌の場合も、④です。

(中略)
古典文法入門のお時間はここまで。お粗末でした。

 この歌は、古今集に収められている藤原敏行の歌で「秋立つ日よめる」と詞書(ことばがき)にあるとおり、立秋の日に詠んだ歌です。
ですからありのままの実景を詠んだと言うよりは、「立秋」というお題にこと寄せて、頭の中で考えて「理屈」で作り上げた歌と言うべきでしょう。このような傾向は、「理知的」「論理的」と称される古今集の歌風の特徴ともされます。

とはいうものの、肉眼には見えない秋の訪れが、一瞬の聴覚のはたらきによって、はっきりと感じ取られるという繊細な季節感覚は、う~んと、納得せずにいられません。「う~ん、参った」という感じですか。

独断かも知れませんが、視覚よりも聴覚、聴覚よりも嗅覚が、より生理的、より原初的、より直感的な感覚であるように思えますから、まず聴覚で季節の推移を感じるというのは、よくわかります。


黄色く色あせた古びたノートを元に授業する老教師の風情ですな。だが、その老教師はのたもうたそうな。「真実は一つ」。
今日は、午前中エアコンなしで凌げました。室温計を見ると32℃~33℃をさしています。
連日の酷暑に慣らされて、風があれば「涼しい」と感じる始末です。
ここ数日の気温がこんな具合でしたから。
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昨日も昼間は37℃という暑さでしたが、小学生を連れて深山公園で遊びました。木陰ですので、少しは涼しいですが、少し遊んでお弁当を食べたら、さすがに午後の日射しに耐えかねて、もう「帰ろう」となりました。
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目にした鳥は、スズメ、キジバトの他にはヤマガラ1羽。
チョウは活発に吸蜜しています。
ツマグロヒョウモン♂
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これ、キアゲハですか?
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暑さに負けず、元気いっぱいなのは蝉。
家の近所では、クマゼミとアブラゼミが席巻していますが、少し環境が違うのか、ツクツクボウシがよく鳴いています。声のする方にj目を凝らして、小5の孫が発見しました。
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下は、近所の散歩道のアブラゼミ。
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空蝉のアップ写真。
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これは今朝の散歩道で見つけた光景。
クマゼミがもがいていますが、逃れられません。
ゆっくりと近寄ってくるジョロウグモ。
大きな獲物です。
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最後の写真は、3歳の保育園児。
姉妹ともに、ばっさり髪を切りました。
「これなあに?」
「どうするん?」
内にでも興味を示します。
この望遠鏡、金星大接近をとらえたくて久しぶりに引っ張り出したのですが、うまく観察できません。
むかし、 土星の輪も観察できたこともあったのですが、、、。
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今日はこれにて。

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今年も灼熱の8月6日、の巻 [今日の暦]

朝から焼けつく8月6日の朝です。

73年目の8時15分が近づいています。

TVドラマ版「この世界の片隅に」が、刻々と運命の刻に近づいていきます。

「原爆ドーム」になる前の「産業奨励館」の無傷な姿も実写再現で登場します。

原作のその場面が、昨年今日付の朝日新聞DIGITALが紹介していましたが、禁複製とありますので、リンクだけ貼っておきます。

その前の日に行けるタイムマシンが欲しいです。

この世界の片隅に コミック 全3巻完結セット (アクションコミックス)

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  • 作者: こうの 史代
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2009/04/28
  • メディア: コミック
小説 この世界の片隅に (双葉文庫)

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  • 作者: こうの 史代
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2016/10/13
  • メディア: 文庫

先日庭瀬城址公園へ、大賀ハス(古代ハス)を観察に行った帰り、家の近所の蓮根田に寄ってみました。前回、大雨の後に訪ねたときよりも、あたりの田圃一面に見事な花を咲かせていました。

蓮根田のハスの花(2018)
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg 蓮根田のハスの花(2018)
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きょうはこれにて。

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大雨の七夕、の巻 [今日の暦]

今日は七夕ですが、大変な大雨が続きます。

ようやく、先ほどから少し雨脚が弱まった感じです。

 「6日(金)19時40分に岡山県に発表されていた大雨特別警報が7日15時10分に解除されました。(ウェザーニュース)」とあります。土砂災害への警戒はさらに続けるように、とのことです。
大変な大雨で、被害も甚大のようです。以下、地元紙「山陽新聞」の記事です。
西日本を中心に7日、記録的大雨で土砂崩れや水害が相次いだ。岡山県では土砂崩れで住民と連絡が取れなくなったほか、川の決壊、増水などで人や車が流されたとの通報が相次いだ。県や消防によると午前11時現在、1人が死亡、7人が行方不明。各地で取り残された人が多数おり、警察や消防、自衛隊が捜索や救助に向かっている。被害はさらに拡大する恐れがある。(中略)
県のまとめでは、住宅の損壊、床上・床下浸水が相次ぎ、約13万1900世帯の約30万人に避難指示・勧告が発令され、26市町村の365カ所に避難所が設置された。道路関係では土砂崩れなどで160路線が全面通行止めとなった。
交通機関では、JR在来線は県内を走る全線で運転を終日取りやめ、山陽新幹線は新大阪―小倉間で始発から運転を見合わせた。高速道は山陽、岡山、中国自動車道とも県内区間は全線通行止めとなった。(中略)
岡山地方気象台が7日午前11時までにまとめた48時間雨量は、岡山県鏡野町富416・0ミリ▽真庭市久世400・5ミリ▽新見市新見392・5ミリ▽笠岡市335・5ミリ▽岡山市307・0ミリ▽倉敷市260・0ミリ―に達し、全25観測地点のうち20地点で観測史上最大を記録した。8日午前6時までの24時間雨量は多い所で北部200ミリ、南部150ミリと予想している。
こんな被害が報告されています。
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緊迫性を伝える動画がupされています。
ご心配をいただきましたが、我が家はみんな無事。また美作の老父母も無事、特に被害もなくてすんだようです。
不謹慎ですが、朝散歩がてら、近所の水の様子を見てきました。
いつもの散歩道からの眺めです。この水は、おなじみの小川(農業用水路)なのですが、見慣れない溢水状態です。
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車で少し移動して、コンビニに駐車。倉敷川方面に歩いてみます。
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流れは比較的穏やかですが、水かさが尋常ではありません。
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右手前に、澪標(みおつくし)があります。鵜が止まっています。
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さて今度は、自動車を玉野市方面に動かして、鴨川近辺の様子を見てみます。
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小川の水が溢れそうです。
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鴨川の流れが、いつにない濁流になっています。
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堤防沿いの歩道。
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なんとこの歩道に、川の水が流れ込み、、、大きな鯉が紛れ込んでいました。
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捕まえて帰って鯉の洗いでもつくろうかと、一瞬思いましたが、オウムの7人もの死刑が同じ執行された翌日だけに、さすがに殺生は思いとどまりました。
オウムの犯罪、その非人道性、反社会性、残虐性は、坂本弁護士(一家)への襲撃・殺害事件一つをとっても、決して許されるものではありません。しかし、その動機・意図・真相は謎のままです。その後の一連の奇怪な犯罪の真相も、同様で、死刑執行によって、もはや解明されるチャンスは失われました。なにより、犯罪への改悛も、被害者への謝罪もないままに、恨みを残して首を括られた極悪非道の犯罪者は、悪鬼となってこの世に災いをなすにちがいないではありませんか?この大雨も、あるいは、その怨念の表れかも知れませんね。いえ、あくまでもこれは比喩です。何が何でも政府憎し、アベ憎しの偏った言説と、決めつけないでくださいね、ネトウヨのミナサマ。

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「沖縄慰霊の日」にグスコーブドリを思う、の巻(3) [今日の暦]

冗長で読みにくかった前回記事を、分割して補筆しました。





県民の4人に1人が亡くなったという73年前の沖縄では、ブドリやネリが直面した一家離散の悲劇が、もっと大規模に、もっと残酷に子どもたちを襲ったのでした。

一家離散の悲劇といえば、「米国で不法移民の子2千人以上が親と引き離されている問題で、トランプ大統領は20日、不法入国で拘束された親子をともに収容するための大統領令に署名した。一方、不法入国者を訴追して収監する「ゼロトレランス」(不寛容)政策は続けるとしている。(朝日新聞degital)」そうです。
また、地元紙山陽新聞の6月22日付けコラムも、家族が引き裂かれる現代の悲劇を告発しています。

父親を過労自殺でなくした小学1年生が「ぼくの夢」という詩を書いている。大きくなったらタイムマシンをつくり、行きたい所があるという。〈お父さんの死んでしまう まえの日に行く そして「仕事に行ったらあかん」て いうんや〉▼「全国過労死を考える家族の会」のホームページで紹介されている。過労による突然死や自殺で大切な家族を失う人をこれ以上、増やしたくない。遺族らは1991年に会を結成し、活動してきた▼その家族の会が強く反対しているのが、政府が今国会での成立を目指す働き方改革法案である。

「お父さんの死んでしまう まえの日に行く」タイムマシン以外にも、「働き方改革法」が成立する「まえの日」に行くタイムマシン、「カジノ法」が成立する「まえの日」に行くタイムマシンを大勢の子どもたちが切望しなくてすむように、家族泣かせの悪法を成立させないたたかいこそが肝要でしょう。


ところで、戦争のない状態を平和と捉える「消極的平和」に対し、貧困、抑圧、差別などのない状態を「積極的平和」とする概念を唱えたのはヨハン・ガルトゥング博士でした。「平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きること」(相良さん)という言葉は、まさにそれと相通じる明察でしょう。
以前、こんな記事を書きました。

「追伸」の補足と今日の愉快な鳥見散歩、の巻


憲法前文に明記された平和主義は、単に戦争や暴力のない状態を目指すだけではなく、 「専制、隷従、圧迫、偏狭、恐怖、欠乏」などの除去をめざしています。ノルウェーの社会学者ヨハン・ガルトゥングが、「戦争のない状態を平和と捉える『消極的平和』に対し、貧困、抑圧、差別など構造的暴力のない状態を『積極的平和』とする概念を提起」(ウィキペディア)したのと、軌を一にする先進性は、特筆されるべきものでしょう。
ウィキペディアは、そのヨハン・ガルトゥング氏のコメントを次のように紹介しています。

 安倍政権の掲げる積極的平和主義に関して、ガルトゥングは「安倍首相は『積極的平和』という言葉を盗用し、私が意図した本来の意味とは正反対のことをしようとしている」「私が1958年に考えだした「積極的平和」の盗用で、本来の意味とは真逆だ」「積極的平和は平和を深めるもので、軍事同盟は必要とせず、専守防衛を旨とします。平和の概念が誤用されています」と述べ、さらに「積極的平和は全く軍事的なものではない」として、「安全保障関連法案は、平和の逆をいくものです。成立すれば、日本は米国と一致協力して世界中で武力を行使していくことになるでしょう。そうなれば、必ず報復を招きます。日本の安全を高めるどころか、安全が脅かされるようになります」と批判している。

 アベさんがひねり出した造語「積極的平和主義」は、海外では“Proactive Contributor to Peace”(「平和への積極的な貢献」)などと翻訳され、平和学における「積極的平和」(Positive Peace)とははっきり区別されているそうです。なんと、わが外務省も、総理の会見などの英訳で“Proactive Contributor to Peace”という表現を使っているそうですね。(フリージャーナリスト志葉玲さんのこの記事=安倍首相は「積極的平和」の意味を理解できていないので、戦場ジャーナリストが懇切丁寧に指導しますよ!志葉玲参照)

「積極的平和」という概念をイメージしようとするとき、宮沢賢治のしばしば用いた「本当の幸い」という言葉を思い出します。

・みんなのほんたうの幸福を求めてなら私たちはこのまゝこのまっくらな海に封ぜられても悔いてはいけない。(「宗谷挽歌
・全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さはやかな匂い、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいはひが何だかを教へるか数えられませんでした。(「虔十公園林」)
・「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。(「銀河鉄道の夜」)

「グスコーブドリの伝記」の末尾の文章にも、この「みんなの本当の幸い」というテーマが読み取れるように思います。

けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るいたきぎで楽しく暮らすことができたのでした。


「このお話のはじまりのような」、穏やかで楽しく美しい森の暮らしぶりこそ、中三の少女相良さんが言い当てた、「平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きること」そのものの具体的あらわれでしょう。それと真逆の方向へと進むアベ政治の、劣化し腐敗しきった逆立ちを根本的に正して、「みんなの本当の幸い」にむかう政治がいまほど切望されるときはありません。

今日はこれにて。



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「沖縄慰霊の日」にグスコーブドリを思う、の巻(2) [今日の暦]

先日、NHKの早朝ラジオ番組「ラジオ深夜便」で聴いた、仲代達矢が読む(演じる)宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」について、触れてみたいと思っていました。

昨日の沖縄慰霊の日に朗読された相良倫子さん(今年)、安里有生君(5年前)の詩が、連想を呼びました。

「グスコーブドリの伝記」は、過去の記事でも、話題にしたことがあります。

イーハトーブのパクリです、の巻。

先日のこの記事に、momotaro様からありがたいコメントをいただきました。
 こちらをお訪ねするといつも驚きます。多様な生物に溢れているので。
海辺で山があるからなのでしょうが、まるで別世界です。
ふと、ナードサークとはどういう意味なのかなぁと思って検索してみました。するとずらっとこのブログ関連のことが出てきました。ということは、これは一般用語ではないのでしょうか。宮沢賢治の小説に出てきそうですが…
機会がありましたら教えてください、恥ずかしながらお尋ねします!

わたしの思わせぶりなブログタイトル「ナードサークの四季」の名づけに関して、興味を持っていただき、検索までしていただいたとのこと。恐縮至極です。
取り急ぎ、以下のコメントをお返ししましたが、あるいは、ほかの読者の方にも同様お手数をおかけするかも知れないと思い、再掲することにします。
> 多様な生物に溢れている
コメントいただいて、改めて思い至りました。日頃は有り難みに気づきませんが、ほとんど近隣エリアで、あれこれの生き物に会えるのは幸せなことです。
> ナードサークとは
お手間を取らせて申し訳ないです。全くのでっち上げの造語ですm(_ _)m ゴメンナサイ
ご推察の通り、宮沢賢治が岩手をモチーフに「イーハトーブ(イーハトヴォ)」という理想郷を想い描いたのにあやかって、わが居住地の地名をもじってみました。2003年頃から数年間、見よう見まねで作って遊んでいたホームページに、「ナートサークの四季」と名づけた写真コーナーを置いたのが始まりです。その後、「平成の大合併」のあおりで、もとの地名は消滅してしまいましたが、、、。
> 恥ずかしながらお尋ねします!
恥ずかしながらお答えしました(汗) 

上述のホームページ(現在は存在しません)には、宮沢賢治の作品「グスコーブドリの伝記」に関する紹介文を、載せていました。以前、高校生向けに書いたものをもとにしています。参考までに再掲させていただきます。

 
宮沢賢治というと、「注文の多い料理店」だとか、「風の又三郎」だとかの沢山の童話を思い出す人も多いだろう。また、彼の死後、発見された手帳にメモ書きしてあったという、次の詩も有名だろう。 
雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/決シテ怒ラズ/(中略)/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/東ニビョウキノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイイトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ/ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズクニモサレズ/サウイウモノニワタシハナリタイ
 この詩は、あの侵略戦争のさなか、「欲しがりません勝つまでは」のスローガンとともに、国民全体に犠牲と我慢を強要した戦争推進勢力によって、もてはやされ、利用されたが、それは、賢治の本意とは正反対のものだった。賢治は、「憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」(烏の北斗七星)と考える人であって、戦争遂行のために、欲のない柔順な「デクノボー」であれと説教を垂れるような人間ではなかった。
 賢治のふるさと岩手は、北海道を除くと日本一の面積をもちながら、畑や田圃にできる土地は少なかった。山林が多く、それも大半が国家と皇室の所有だった。農家の平均耕地は50アール以下。農家でありながら米が食えず、生まれた赤子を“間引き”したり、娘を身売りする例も少なくなかった。
しかも、稲が実らぬ「寒い夏」が、たびたび発生し、数年に一度の割合で凶作に見舞われた。
 賢治は、この貧しい農村で、質屋と古物業を営む資産家の長男として生まれた。賢治が、物事をつきつめて考えず、与えられた地位に安住する人間であったなら、富裕な旦那衆のひとりとして悠々と人生をエンジョイすることができたかもしれない。しかし、彼の知性と人生にたいするきまじめさは、貧しい農民の犠牲のうえに成り立っている宮沢一家の繁栄に無批判ではいられない。
 父親と対立しながら、みずからの意志で盛岡高等農林学校(今の岩手大学農学部)に主席入学し、科学的農業のありかたを学んだ彼は、助教授としての研究生活への薦めを断って、貧しい東北農民の幸福のために身を捧げる道を選ぶ。彼をつき動かしたものとして、熱心な仏教徒としての信仰心が指摘されるが、その背後には東北農民の貧困という現実への憤りと農民への共感があった。
 賢治は、その童話のなかで、岩手をイーハトーブ、盛岡をマリオ、仙台をセンダートなどと呼び、独特の世界を作り上げた。グスコーブドリは、イーハトーブの木こりの子どもで、ネリという妹がいた。ところが飢饉になって、ブドリの父も母も、子のために、自分たちは食物をとらず、森の中に姿をかくして死んでしまう。妹のネリも知らない男に連れ去られ、行方不明になる。
 残されたブドリは、大人たちにだまされたり脅されたりしながら成人し、クーボー大博士の信頼を得て火山局に努めることになる。老ペンネン技師に学んだ彼は、電気で肥料とともに雨を降らせるなど、農業の発展に貢献する。行方不明のネリとも再会でき、楽しい日々が訪れる。
しかし、ブドリが27歳のとき、またあの恐ろしい寒波がやってくるとの予報が出た。火山島を爆発させれば、空中の炭酸ガスが増え、気温を高めることができると、彼は提案する。しかし、そのためには最後の一人が島に残らねばならない。その役を買って出たブドリにクーボー博士は言う。
 「それはいけない。君はまだ若いし、いまの君の仕事にかわれるものはそういない。」 「私のようなものは。これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから」
63歳のペンネン技師が「僕がやろう」というのをふりきり、火山を爆発させて、ブドリは死ぬ。童話は、「そして、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で、楽しく暮らすことができたのでした」と結ばれる。
 賢治は、花巻農学校の教師として、数学・農業・化学・英語・気象・稲作実習など、国語以外のすべてを教え、農村青年と生活をともにした。彼は、単に授業をするだけでなく、よい音楽を聞かせ、西洋美術の複製を見せ、自分で作詞作曲したミュージカルをやらせたりもした。農業実習が終わると、川に行って泳ぐ、泳ぎ疲れると、賢治を囲んで、みんなが話を聞く。石や鉱物や、地質学や、鮎や魚の話。
 そんなとき、賢治は突然言った。「人間はなぜこの世に生まれたか?」
「私はこの問題を、こんな風に考えています。人間はなぜ生きるかということを知らなければならないために、この世に生まれてきたのです。そして、この問題を本気になって考えるか考えぬかによって、その人の生存価値が決定すると思います」
 賢治は、「わたくしにとって、実に愉快な明るいものでありました」という4年4カ月の教師生活に、別れを告げる。農学校に来れるのは、農民と言っても比較的裕福な自作農の子弟だ。大多数の農民は、無知のまま、貧困のまま放置されている。農業学校だけでは、この貧しい農村を豊かにできない。農民が百姓仕事を
しながら、芸術をも楽しむゆとりを持つにはどうすればよいのか。
 賢治は、自分自身農業に専念しながら、近在の農民に、肥料や稲作について無料で
指導する毎日を送ることになる。金持ちの息子の道楽と思われることを嫌った彼は、仕事に出るのはだれよりも早く、また、一人でもたの農民が残っていれば、その人が帰るまで、仕事をやめなかった。個々の農民の相談に応じて、2000枚もの肥料設計を書いてやった。菜食中心の粗食に耐え、時にはトマトを何個かかじるだけの日もあった。ついに、過労のため、結核になる。しかし、少し調子がよいと、畑仕事をしたり、農民の相談にのったりするから病気は治らない。
 一九三三年九月、急性肺炎の高熱をおして、板の間に正座して長時間の相談に応じたのがもとで、病状悪化し、生命を閉じる。三七歳だった。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要)ー---賢治の信念であり、自らに課した戒めでもあった。
参考:戸石泰一エッセイ集「愛と真実」、吉村英夫「ワクワク近代文学八話」


上の紹介文は、それなりに要点を押さえているとは思います。それ故、敢えて再掲させてもいただいたわけですが、ラジオ深夜便での仲代さんの読みを聞いて、自分のこれまでの読解がいかに浅く表面的だったかを、いたく感じさせられました。
何しろ、作品の冒頭部分からして、牧歌的で懐かしい、幸せなりし幼時を描いた場面として、それなりの印象を持っては読んだのですが、仲代さんの読みは、まったき宇宙としての森の豊饒さと、そこに暮らすブドリの家族の、生命の喜びに満ちた日々を活き活きとイメージさせるものでした。ああ、そのゆえにこそ、抗うことのできない飢饉のむごさ、一家離散の無惨、自然の猛威による蹂躙への無念さが際立つのだと、改めて感じました。かけがえのない大切なものが、眩しいほどのかがやきをもって描かれてこそ、ブドリの身を捨てての献身の意味が薄っぺらなものでなくなるのです。

一 森
 グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森のなかに生まれました。おとうさんは、グスコーナドリという名高い木こりで、どんな大きな木でも、まるで赤ん坊を寝かしつけるようにわけなく切ってしまう人でした。
 ブドリにはネリという妹があって、二人は毎日森で遊びました。ごしっごしっとおとうさんの木を挽ひく音が、やっと聞こえるくらいな遠くへも行きました。二人はそこで木いちごの実をとってわき水につけたり、空を向いてかわるがわる山鳩の鳴くまねをしたりしました。するとあちらでもこちらでも、ぽう、ぽう、と鳥が眠そうに鳴き出すのでした。
 おかあさんが、家の前の小さな畑に麦を播いているときは、二人はみちにむしろをしいてすわって、ブリキかんで蘭の花を煮たりしました。するとこんどは、もういろいろの鳥が、二人のぱさぱさした頭の上を、まるで挨拶するように鳴きながらざあざあざあざあ通りすぎるのでした。
 ブドリが学校へ行くようになりますと、森はひるの間たいへんさびしくなりました。そのかわりひるすぎには、ブドリはネリといっしょに、森じゅうの木の幹に、赤い粘土や消し炭で、木の名を書いてあるいたり、高く歌ったりしました。
 ホップのつるが、両方からのびて、門のようになっている白樺しらかばの木には、
「カッコウドリ、トオルベカラズ」と書いたりもしました。

前掲の紹介文で、私が「ところが飢饉になって、ブドリの父も母も、子のために、自分たちは食物をとらず、森の中に姿をかくして死んでしまう。妹のネリも知らない男に連れ去られ、行方不明になる。」とあっさり書いた内容は、決して外れてはいないでしょうが、仲代さんの朗読は、重さ、むごさに胸をかきむしられる思いを募らせる迫真性でした。

記事をここでいったん中断し、続きは次回に譲ります。



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共通テーマ:日記・雑感

「沖縄慰霊の日」にグスコーブドリを思う、の巻 [今日の暦]

今日は戦後73年目の「沖縄慰霊の日」。
過去にもこんな記事を書きましたが、今日もまた思いは同じで、同工異曲の記事になりそうです。

沖縄慰霊の日に思う


沖縄慰霊の日に思い出すこと。


沖縄慰霊の日に思い出すこと(その2)


沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3)


沖縄慰霊の日に思い出すこと(その4 最終回)

今日の「毎日新聞web版」は,こんな記事を伝えています。

追悼式では、沖縄県浦添市立港川中学3年の相良倫子(さがらりんこ)さん(14)が、自作の平和の詩「生きる」を朗読した。沖縄戦を生き抜いた曽祖母の体験を聞き、「平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きること」と考えた。生まれ育ったこの美しい島から伝えたい。「鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。命よ響け。生きゆく未来に。私は今を、生きていく」
相良さんの詩は県平和祈念資料館が募った「平和の詩」971点の中から選ばれた。
 うるま市に住む94歳の曽祖母は戦前から理容店で働き、地上戦を体験。友人が目の前で被弾して命を落としたことや家族と離ればなれになった話を聞き、相良さんは「戦争の残酷さを感じた。曽祖母の存在から平和や戦争について考える機会が増えた」と振り返る。
 5月に曽祖母が入院したことで、「生きる」を詩のテーマに決めた。「優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた」「青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった」。作品では「戦争の残酷さがより伝わる」と美しい島の現在の情景と73年前の戦場を対比的に描いた。
 「戦争は人を鬼に変えてしまうから絶対してはいけない」と教えてくれた曽祖母。「この詩が一人でも多くの人に平和や戦争について考えるきっかけになってほしい」と願う。「一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。なぜなら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。つまり、未来は、今なんだ」【佐野格】

また、同じく今日の「朝日新聞web版」は、相良さんの詩の全文を掲載しています。長い詩ですが引用させていただきます。

私は、生きている。/マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、/心地よい湿気を孕(はら)んだ風を全身に受け、/草の匂いを鼻孔に感じ、/遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
私は今、生きている。
私の生きるこの島は、/何と美しい島だろう。/青く輝く海、/岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、/山羊(やぎ)の嘶(いなな)き、/小川のせせらぎ、/畑に続く小道、/萌(も)え出づる山の緑、/優しい三線の響き、/照りつける太陽の光。
私はなんと美しい島に、/生まれ育ったのだろう。
ありったけの私の感覚器で、感受性で、/島を感じる。心がじわりと熱くなる。
私はこの瞬間を、生きている。
この瞬間の素晴らしさが/この瞬間の愛(いと)おしさが/今と言う安らぎとなり/私の中に広がりゆく。
たまらなく込み上げるこの気持ちを/どう表現しよう。/大切な今よ/かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
七十三年前、/私の愛する島が、死の島と化したあの日。/小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。/優しく響く三線は、爆撃の轟(とどろき)に消えた。/青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。/草の匂いは死臭で濁り、/光り輝いていた海の水面は、/戦艦で埋め尽くされた。/火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、/燃えつくされた民家、火薬の匂い。/着弾に揺れる大地。血に染まった海。/魑魅魍魎(ちみもうりょう)の如(ごと)く、姿を変えた人々。/阿鼻叫喚(あびきょうかん)の壮絶な戦の記憶。
みんな、生きていたのだ。/私と何も変わらない、/懸命に生きる命だったのだ。/彼らの人生を、それぞれの未来を。/疑うことなく、思い描いていたんだ。/家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。/仕事があった。生きがいがあった。/日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。/それなのに。/壊されて、奪われた。/生きた時代が違う。ただ、それだけで。/無辜(むこ)の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。/悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。/私は手を強く握り、誓う。/奪われた命に想(おも)いを馳(は)せて、/心から、誓う。
私が生きている限り、/こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。/もう二度と過去を未来にしないこと。/全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。/生きる事、命を大切にできることを、/誰からも侵されない世界を創ること。/平和を創造する努力を、厭(いと)わないことを。
あなたも、感じるだろう。/この島の美しさを。/あなたも、知っているだろう。/この島の悲しみを。/そして、あなたも、/私と同じこの瞬間(とき)を/一緒に生きているのだ。
今を一緒に、生きているのだ。
だから、きっとわかるはずなんだ。/戦争の無意味さを。本当の平和を。/頭じゃなくて、その心で。/戦力という愚かな力を持つことで、/得られる平和など、本当は無いことを。/平和とは、あたり前に生きること。/その命を精一杯(いっぱい)輝かせて生きることだということを。
私は、今を生きている。/みんなと一緒に。/そして、これからも生きていく。/一日一日を大切に。/平和を想(おも)って。平和を祈って。/なぜなら、未来は、/この瞬間の延長線上にあるからだ。/つまり、未来は、今なんだ。
大好きな、私の島。/誇り高き、みんなの島。/そして、この島に生きる、すべての命。/私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
これからも、共に生きてゆこう。/この青に囲まれた美しい故郷から。/真の平和を発信しよう。/一人一人が立ち上がって、/みんなで未来を歩んでいこう。
摩文仁の丘の風に吹かれ、/私の命が鳴っている。/過去と現在、未来の共鳴。/鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。/命よ響け。生きゆく未来に。/私は今を、生きていく。

この詩を読む前に,私は今日のブログ記事をこう書き起こそうとしていました。
今朝(6/23)の地元紙「山陽新聞」のコラムに、こんな詩が紹介されていました。

おともだちとなかよし
かぞくが、げんき
えがおであそぶ。
ねこがわらう。
おなかがいっぱい
ヤギがのんびりあるいている

コラムはこう続きます。

沖縄全戦没者追悼式で5年前、作者の安里有生君が朗読した詩「へいわってすてきだね」だ。純粋で真っすぐなことばは、人気絵本作家の長谷川義史さんにも響き、絵本になった。(中略)▼世界に目を転じると,笑顔で遊べず、おなかをすかせた子どもたちがまだまだいる。冒頭の詩はこう結ぶ。「へいわがつづくようにぼくも、ぼくのできることからがんばるよ」。まずは大人が頑張らねば。

6歳(当時)の少年の思いと、14歳の少女の思いの切実さが、等しく胸を打ちます。平和とは、平和の願いとは、決して抽象的な飾り文句ではなく、子どもたちがその手で掴み、五感で感じ取ることのできる、具体的でシンプルな実体でなければなりません。「平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きること」けだし至言です。

以下、次回に続きます。



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万物長じて満つる「小満」、の巻 [今日の暦]

今日は「小満」だそうです。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
小満(しょうまん)
二十四節気の一つ。立夏ののち15日、陽暦5月22日ごろにあたる。万物がしだいに長じて満つる意である。[根本順吉]

自然界の万物、みな元気に満ちています。
昨日の日曜日は、天気が良い上にカラっとして涼しいので、畑の耕耘と草刈りのために、田舎へ帰ってきました。小5の男子だけがつきあってくれました。
小5生は、耕耘機を使うのは、もう三度目ほどになりますから、2条ほども立派に耕してくれました。あいにくカメラを畑まで持って行きませんでしたから、 勇姿を納めることはできませんでした。畑を一枚、一通り耕したあと、お墓の近くの笹が生い茂る「元畑」の草と笹を刈りました。私が草刈り機を使い、小5生と88歳の母が鎌で刈り払います。なかなか目に見えて成果は現れるものではなく、ほどほどに切り上げました。五月の空がきれいでした。カメラを持たないので写せませんが。
写したのは、これだけ。
家のそばの溝で捕まえた沢ガニです。




今朝早朝のラジオを聞いていましたら、今日の「誕生日の花」はセキチクだと紹介していました。

先日散歩中に見たこの花。ナデシコと思っていましたが、あるいはセキチクかも知れないと思うようになりました。さてどうでしょう?

同じラジオ番組で、「今日は何の日?」という話題を紹介していました。
その中の一つ。リンドバーグが太平洋横断飛行に成功したのが今日だそうです。
ウィキペディアの記事を借ります。

リンドバーグ翼の日
1927年のこの日、チャールズ・リンドバーグがパリに到着し、大西洋無着陸横断飛行に成功した。
前日の午前7時52分、「スピリット・オブ・セントルイス」と名附けられた飛行機でニューヨークを出発。21日の午後に、「翼よ、あれがパリの灯だ」という有名な言葉とともにパリのル・ブールジェ空港に到着した。飛行距離は約5800km、飛行時間は33時間30分だった

1927年というと、奇しくも父が生まれた年です。



今朝早く、その父がメールをくれました。
新聞の投書欄に、こんな投稿が掲載されたというのです。

傍らに、「デスクから」というコメントが添えてあって、他の人にはないことと、喜んでおりました。
実は投稿掲載は↓この時に続いて2度目です。
父の新聞投稿デビューその他、の巻
その後、二度ほど没になって残念がっていましたが、それだけに喜びはひとしおだったでしょう。
今朝は、 耕耘した畑に、母と一緒に胡麻の種を蒔いたそうです。



何日か前から、玄関軒下のツバメの巣に、雛が孵ったらしいと気づいていましたが、今日は、もうこんなに大きくなっていることに気づきました。





心配していましたが、これなら無事に巣立ちそうです。
今日はこれにて。

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今日の暦、の巻 [今日の暦]

地元紙「山陽新聞」の今朝の朝刊の第一面のコピーです。


第3面にも関連記事がありました。

一部引用します。

安倍晋三首相(自民党総裁) が目指す憲法改正に手詰まり感が漂っている。9条への自衛隊明記を首相が提起したのは昨年の憲法記念日。 自民党は4項目の条文案を3月にまとめたが、不祥事続発による政権不信で、国会での議論は進まない。首相が旗を振れば振るほど各党は距離を置き、首相周辺からは戦略練り直し論も出ている。(1面関連)
言葉とは裏腹
「1年間で改憲論議は活発化し、大きく変化した。自民党も議論を重ね、いよいよ煮詰まってきている」。1日、首相は外遊先のヨルダンでの記者会見で、改憲論議の進展ぶりを強調した。
首相は昨年、2020年の改正憲法施行をめざすと発言。その意を踏まえ、党は政治日程を考慮し、今年中の国会発議を視野に入れてきた。 だが森友、加計学園、自衛隊日報職概などの問題で情勢は厳しい。首相は周囲に「改憲は森友問題などと関係ない。これまで通り進める」と意欲を示すが、言葉とは裏腹に苦しさがにじむ。

そして社説でも、、、。

一部引用です。

日本国憲法はきょう、施行から71年となった。自民党が2月、改憲条文案を参院の憲法審査会に示し、議論の加速を狙う中で迎えた憲法記念日である。相次ぐ不祥事で政権の求心力が低下し、安倍晋三首相の悲願である改憲に向けた勢いはそがれつつあるとはいえ、改憲の是非や内容について、近いうちに国民投票で選択を迫られるという局面は現実味を失ってはいない。
首相が、新憲法を2020 年に施行したい考えを突如表明したのは昨年の憲法記念日のことだ。その後、自民党は国民投票を経て20年の新憲法施行という筋書きを描き、1 年かけて、 首相の意向に沿った9条への自衛隊明記など4 項目の改憲案をまとめた。年内の国会発議をなお視野に入れているようだ。
(中略)
野党ばかりか与党の公明党からも改憲への慎重論が出ている。加えて、自民党案が世論の理解を得ているとは言い難い。 共同通信社が先週まとめた世論調査では、9条改正について「必要ない」46%、「必要」44%と拮抗した。災害など非常時に法律と同じ効力を持つ政令を内閣が制定できる緊急事態条項は、個人の権利を制限する条文に「反対」56 %、「贊成」42%だった。無償化など教育充実のための改憲は「不要」が70%を占めた。参院選の合区解消は、8割が解消すべきと回答したものの、改憲という手法への賛成は33%にとどまる。
(中略)
緊急事態の対応は、既存の災害対策基本法などで対処できるとの指摘が多い。教育無償化も改憲に踏み込むまでもなく、法律で可能だろう。そうした点も合め、国民が自民党案に緊急性や必要性を感じにくいのではないか。 自民党にとって″本丸″の9条改正案は、戦力不保持を定めた2項を維持した上で、世界有数の装備を持つ自衛隊を戦力とみなさずに明文化する点で分かりにくい。自衛隊は「必要な自衛の措置をとるための実力組織」とするが、必要な自衛の措置という暖昧な表現により、今は限定的行使にとどめている集団的自衛権の範囲が広がることを警戒する声も少なくない何を変え、何を変えずにおくべきか.党内論議さえ不十分なま,事を急ぐべきではない。ましてて、期限ありきや改憲自体が目的化したかのような進め方に陥るなら、国民の広範な理解は到底得られまい。(後略)

至極もっともな指摘です。
次は、ネット上の画像をお借りします。



こんな状況を「「1年間で改憲論議は活発化し、大きく変化した。自民党も議論を重ね、いよいよ煮詰まってきている」(ヨルダンでの記者会見)と言ってのけるアベさんの認知能力には、大いに疑問がありますね。え?今に始まったことではない?こりゃまた失礼!



昨日の雨が、今朝は上がり、風は強いですが日射しがあります。
二十四節気では、今年の「 穀雨」は、 開始:4月20日(金)~終了:5月5日(土)だそうです。つづく「立夏」が、 開始:5月5日(土)~終了:5月21日(月)だとか・
ウィキペディアに、二十四節気と七十二候の詳しい表が出ていました。一部をコピーしてみました。

ここ数日は、七十二候でいう「牡丹華(ぼたんはなさく)」に当たるようです。
散歩道に牡丹(またはシャクヤク?)が咲き始めています。






「薔薇華(ばらはなさく)」


「雛罌粟華(ひなげしはなさく)」



これは禁制のアツミゲシではなさそうです。

「雛菊華(ひなぎくはなさく)」

「梅花空木華(ばいかうつぎはなさく)」


「矢車菊華(やぐるまぎくはなさく)」



今日はこれにて。

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「治安維持法」の誕生日、かつ、核兵器禁止運動の誕生日だったんだ、の巻 [今日の暦]

本格的な春の訪れを前に、ここ何日か足踏み状態が続き、今日も冷たい雨の一日になりそうです。
「風邪気味」のわが体調は、熱も咳も頭痛も筋肉痛も、一切ありません。ほとんど快調といえます。ただ、うどんや粥など消化のよい食事しか食べていないのに、下痢がなかなか治まらず、不快が募ります。もちろん症状は、時間をおいて間歇的にあらわれるだけですが、平穏時も不安が去ることがありません。
同病のよしみというと僭越ですが、腸の持病をお持ちだと聞くアベさんの健康状態が、時折気になります。重病に屈せず、強靱な意志力を発揮されての超人的なご活躍は、ご同慶に耐えません。
さはあれども、比類のない窮地に陥っておられる昨今、特に今日の国会中継などを拝見するにつけても、きわめてご気分が優れぬ様子とお身受けします。今朝の報道によりますと、内閣支持率急落で、不支持が跳ね上がっているそうな。
遅きに失するとはいえ、当然の成り行き。速やかに知る限りの真実を明らかにされ、潔く身を処されることが、最も健康にもよろしいのではと、愚考するものです。



余談はそこまでとして、早朝のNHKラジオで、いつもの「今日は何の日?」というコーナーが聞こえてきました。
最初に紹介されたのは、「治安維持法」が制定された日。
2番目が、「ストックホルムアピール」が採択された日。
いずれの話題も、平和と民主主義の根幹に関わる重要な記念日であったことに気づかされました。今日の記事のネタにしたいと思いついたのですが、聞きかじり素人の知ったかブログの悲しさ、いつものことながら詳しい知識を持ちあわせませんので、ちょっと確かめてから、と考えたものの、なかなか手間取りました。

第2のストックホルムアピールについては、すぐに解説がみつかり、ウィキペディアにも、こんな記事を見つけることができました。

1950年 - 世界平和擁護大会常任委員会第3回総会で原爆禁止のストックホルム・アピールを採択。


ストックホルム・アピール
 1950年3月、世界平和評議会がよびかけたもの。「原子兵器の絶対禁止」を求め、「最初に使う政府が人道を犯す戦争犯罪者として扱われる」と警告しました。これに賛同する署名数は世界で5億、日本でも645万筆に達し、後にヘンリー・キッシンジャー米国元国務長官も「この運動のために朝鮮戦争で核兵器を使うことができなくなった」と、回顧録で書きました。なお、「原子兵器」となっているのは当時まだ水素爆弾が開発されていなかったからです。

それからほど経ずして水爆が開発され、4年後の1954年3月1日には、アメリカによる水爆実験がビキニ環礁で行われました。現地住民や、付近を航行していた多くの船舶とともに、日本のマグロ漁船数隻も「死の灰」を浴びました。被曝した「第五福竜丸」に、無線長として乗り組んでいた久保山愛吉さんは、半年後の9月23日「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と言い残して亡くなられました。
このビキニ事件を契機に、5月には「水爆禁止署名運動杉並協議会」が結成され、水爆禁止署名運動が各地に拡がりました。8月には「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、原水爆禁止署名運動として全国へ波及してゆきます。
この運動の中で「原爆を許すまじ」(浅田石二作詞・木下航二作曲)や、「死んだ女の子」(ナズム・ヒクメット作詞・木下航二訳詞・木下航二作曲)が歌われました。そんな話題は過去記事にも書きました。
今もなおとびらをたたく音きこゆ(8月に寄せた学級通信2
一部引用して再掲します。

昨日の記事でご紹介したクラス通信の三年後の1991年の夏、これも二年生のクラスの生徒に向けて書いた文章です。(中略)

読み返して見ると、3年前の文章を使い回している部分もかなりあります。「コピーアンドペースト」という用語はまだ存在していないか、少なくとも一般的ではなかった頃ですが、実質はそれです。今も昔も、同じようなその場しのぎをしておりますな(汗)。
重複部分は除いて、文章に書き起こしてみます。

開けてちょうだい たたくのはあたし/あっちの戸こっちの戸あたしはたたくの/こわがらないで見えないあたしを/だれにも見えない死んだ女の子を・・・トルコの詩人ナジム・ヒクメットの詩「死んだ女の子」の一節だ。
原詩を左に掲げておくから、ひとつ自分で訳してみよう。
7つの時、ヒ口シマで死んだ女の子は、いまでも7つのまま。なぜなら、死んだ子は大きくなれないから。
ヒロシマで死んだ女の子の願いは何?甘い果物、おいしいご飯、飴玉、それともふかふかのパン?
いえ、死んだ女の子に、そんなものはもういらない。死んだ女の子の願いは、平和。 世界中の子供たちが、生きて、育って、笑って、遊ぺるように。
そのために、彼女は世界中の家々の前に立ち、扉をたたく。「戦争が起こらないようにして頂戴、子どもが戦火に灼かれることのないように、あなたの力を貸して頂戴
(中略)
そして、世界最初の(今のところ唯一の)被爆国日本は、いまや世界有数の軍事力を有するまでになり、“平和協力の名のもとに、自衡隊海外派遭の一歩を踏み出すまでになった。政府自身“国是”と称してきた「非核三原則(作らず、持たず、持ち込ませず) 」も、有名無実化して久しい。
湾岸戦争で”大活躍”の巡航ミサイル“トマホーク”を積んだ船は、この日本を基地にして出撃していった。辛うじて、今回のイラク攻準に核ミサイルは使用されなかったが、当然、核攻撃の準備は、周到におこなわれていた。
”死んだ女の子”の悲劇の再現は、目の前だ。そして今度は、ヒロシマ・ナガサキの体験を有するわが国が、公然とした加担者として立ち現れようというのだろうか。
確かに、イラクのクウェート侵略は許されない。ちょうど、軍国日本のアジア侵略が、不正義であったと同様に。
だが、非戦闘員・婦女子・病人をも含むイラク国民全体を標的にした軍事行動は、正義の名に値するか。これを正義と認めるには、大戦末期、日本の敗北がすでに決定的になっている段階で、無差別殺戮の限りを尽くした大空襲や、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下をも“正義”としなくてはならぬ。「犠牲を最小限にとどめるための人道的措置」との強弁を、甘んじて受け入れなくてはならぬ。
この不条理に、「死んだ女の子」は何と言えばよいのだろう。
生きているものは何をすればよい?
愚かしいあやまちは繰り返されてはならない。
ゲンバクで死んだ幾万の子どもたち、戦争で死んだ幾百千万の子どもたち、あなたがたの:悔しさを、二度と再び地球上のこどもたちにかみしめさせる事のないように、地球上に再び被爆者をつくらないために、いま、生きている私達も一緒に声を上げるときではないか。
“核兵器の廃絶を”、”被爆者援護法の即時制定を”“憲法の復権を”---そう思わずにはいられない夏である。

「死んだ女の子」ナジム・ヒクメット
これを書いた頃は、まだ「パソコン」と言えば、統計処理のために職場の共有物の電算機に向かって、必要に迫られておそるおそる打鍵する、といった存在でした。ましてやインタネット検索など、想像だにできない世界でした。
ヒクメットの詩も、当然のことながら、何らかの機会にたまたま目にした詩を書き留めて、生徒に紹介したという次第です。
今なら、ネット検索で、詳細な情報が手に入り、もっと深い理解が可能であったかもしれません。



一方、もう一つの話題「治安維持法」については当ブログでもたびたび触れたことがありましたし、改悪治安維持法に帝国議会でただ一人反対した労農党代議士山本宣治(1889年5月28日 - 1929年3月5日)についても何度か紹介させていただきました。
うすごおりの張りたる今日は山宣忌の記事を一部引用します。

山宣は、治安維持法の最高刑を死刑とする改悪に帝国議会内でただ一人反対し、発言を準備していたが強行採決によって阻まれ、その夜、宿舎で右翼のテロによって暗殺されたのした。
その帝国議会出席のために上京する前に、大阪での全国農民組合大会でかれはこう挨拶しました。
「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・」ここで挨拶は中止させられたそうです。
この言葉は、大山郁夫の筆により、かれの墓碑銘として刻まれています。
権力は、この墓碑銘を、セメントで塗りつぶさない限り墓碑の建立を許さないという妨害を加えたそうですが、何度塗りつぶしても、いつの間にか民衆の手によってセメントがはがされ、また塗りつぶされ、、を繰り返し、1945年12月、戦後最初の追悼墓前祭で、墓石のセメントをノミではがし、墓碑は白日のもとによみがえったといいます。
このエピソードは、1960年(昭和35年)に大東映画が製作・配給した山本薩夫監督の映画『武器なき斗い』(ぶきなきたたかい)のなかでも描かれていたように記憶しています。この映画の原作は、西口克己の小説『山宣』です。

では、今日3月19日に成立したという「治安維持法」とは?と高校時代の日本史授業の記憶をまさぐってみましたが、モーローとしてあやふやです。
そこで、いつもの手段でネット検索してみますと、こんなブログ記事を発見しました。
今日から明日へあさってへisao3264.exblog.jp様の,2013年3月19日の記事です。まことに的確な記事内容でしたので、無断で一部引用させていただきます。(万一不都合がありましたらご指摘くださいませ)
こんな書き出しで始まります。

今朝のNHKラジオ「今日は何の日」のコーナーで、「治安維持法が成立した日」とのひと言があったそうです。率直に言って「おや?NHKにしては珍しいことを言うなぁ」と思いました。
 というわけで、「治安維持法の成立」にまつわる話を書いておこうと思います。

引用者注:2013年3月19日時点のお話です。念のため。
以下核心部分を引用させていただきます。(ちなみに、小樽商科大学学術成果コレクションのURLも掲載されていましたが、残念ながらリンク切れらしく、たどり着くことができませんでした。)

一九二五年二月一八日に政府から衆議院に提出された治安維持法案は、(中略)三月七日の本会議で「政体」変革を削除した修正案が可決された。貴族院では三月一一日の上程後(中略)早くも一九日の本会議で衆議院修正案を可決、ここに治安維持法は成立した。少数の反対論者の質疑はかなり執劫だったとはいえ、これほどの重要法案を両院あわせてわずか一ヵ月間で通過させてしまったのである。ある新聞は「愈々委員会が開始された場合には僅に一二の修正意見を容れ申し訳的に反対論者の面目を立てる外議論の沸騰する機会を予へざるうちに一潟千里に議了する下心であるらしい」(「東京日日新聞」二月二〇日付)と観測するが、実際にもこのとおりになる。議会審議の経過を新聞報道で追うと、「与党内に早くも骨抜き運動」(『萬朝報」二月二一日付)、「政府が修正せねば与党は握り潰す作戦」(報知新開)二月二五日付』とヨタヨタの法案で、政府も答弁に窮する場面が多々ありながらも、結局は「満天下の非難をよそに、生れ出づる悪法案多数の力でひた押しに遂に衆院を通過す」(『東京日日新聞』三月八日付)るのである。

 上記の図(省略:引用者)と文章は『治安維持法関係資料集』(全4巻、荻野富士夫編、新日本出版社、1996年)に記載されているものですが、ボクは持っていませんでした。あれこれ探ってみると小樽商科大学学術成果コレクション(Barrel)解説 : 治安維持法成立・「改正」史、荻野富士夫というコーナーにアップされていることが分かりました。膨大な資料の中からそのポイントだけを引用したものです。

よくわかりました。
確かに今日が治安維持法の出生日でした。「ヨタヨタの法案」として生まれ、徐々に悪名高き「希代の悪法」に成長・変身していったわけですね。
そして。行き着く先はこの結末です。

心して記憶しておきます。



今日は一日雨でしたから散歩には出ませんでした。
玄関先に置いている鉢植えの花です。

サクランボを期待して植えている桜桃の花です、「暖地」という品種で、佐藤錦などに比べて早生種のようです。
昨日明るい光の下で撮影したものも掲載しておきます。
















バックの赤色は、ナンテンの葉です。
あちらこちらに植えられている河津桜も、一斉にピンクの花を咲かせています。この雨が上がり、暖かくなれば一気にソメイヨシノも開花に向かうのでしょう。例年よりも早い開花だと予報されています。



追伸。
昨日開かれた小鳥の森・三徳園を愛する会のシンポジウムに、私は体調不良を理由に欠席させていただきましたが、M師からのメールで、見舞いの言葉とともにシンポジウムの模様を教えてくださいました。集まりは期待以上の盛会だったそうで、「講演の参加者は20名も集まれば御の字だと私は思っておりましたが、驚いたことに会場が埋まりました。」とありました。下は添えられた写真です。

森と生き物を愛する思いで結ばれた市民の運動。楽しく明るく発展させていただきたいと祈念しています。
今日はこれにて。

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今日は何の日?の巻 [今日の暦]

2月最後の日です。
今年は閏年だから今日は29日だったっけ?なんて、寝ぼけまなこで考えていました。オリンピックの年が閏年という思い込みで、今年は冬季オリンピックでしたから、まったくの的外れでした(汗)前回記事の2.2.6事件が閏年のできごとだったという聞きかじりも影響したかも知れません。

早朝のラジオを聞いていましたら、1953年の今日、当時の吉田茂首相が、衆院予算委員会で、『バカヤロー』と発言。いわゆる「バカヤロー解散」の引き金となったのがこの日のできごとだそうです。
ウィキペディアにはこう解説されています。

1953年(昭和28年)2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相社会党右派西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と発言したことがきっかけとなって衆議院が解散されたため、こう呼ばれる。

「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、吉田は席に着きつつ非常に小さな声で「ばかやろう」と呟いたのみで、それを偶然マイクが拾い、気づいた西村が聞き咎めたために騒ぎが大きくなったというのが実態である。


実際はこのようなやりとりであったようです。

○西村(榮)委員 総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじやないか。
(吉田国務大臣「――なことを言うな」)
何が――だ。
(吉田国務大臣「――じやないか」)
質問しているのに何が――だ。君の言うことが――だ。国際情勢の見通しについて、イギリス、チャーチルの言説を引用しないで、翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が――だ。答弁できないのか、君は……。
(吉田国務大臣「―――――」)
何が―――――だ。―――――とは何事だ。これを取消さない限りは、私はお聞きしない。議員をつかまえて、国民の代表をつかまえて、―――――とは何事だ。取消しなさい。私はきようは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある。

○吉田国務大臣 ……私の言葉は不穏当でありましたから、はつきり取消します。

○西村(榮)委員 年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取消された上からは、私は追究しません。(以下略)

結果的に、首相みずから不穏当として発言を取り消したため、議事録では   で抹消されていますが、最初の短い   は、「無礼」、次の長い      は、「バカヤロー」だそうです。いずれも自席で,小声でつぶやいただけだそうですが、国会議員として、しかも一国の総理大臣として著しく品性を欠くものとして懲罰委員会への付託動議に続いて、本会議で内閣不信任決議案が可決され、解散に追い込まれたのですね。選挙後、吉田与党は大きく議席を後退させ、辛うじて政権は維持したものの、翌年の退陣のきっかけとなりました。
私などの世代にとって、吉田茂といえば、中学校の卒業アルバムの時事コーナーに「巨星墜つ」と題してその逝去を伝える写真が掲載されてい蛸とを記憶しているレベルですが、今やそのお孫さんが総理・副総理・蔵相としてご活躍なさったり、シンゾーシュショーをはじめ、「累々」たる縁戚の方々が歴代政界トップを勤めていらっしゃることは、なにやらこの国の神秘を感じさせますなア。


引用元kyudan.com

そえにしても、「バカヤロー」のつぶやきをとがめて、解散にまで追い込んだできごとは、与党内の政権抗争というファクターも作用したのかも知れませんが、、ある意味、時代の健全性を物語るエピソードと思えてなりません。
それほどに、いまの政治の劣化というか,モラルハザードは、目を覆うばかりです。最近の失言・暴言.不祥事を数え上げてみたのですが、文字にするとますます気が滅入りますので、やめにしました。



今日は、まどみちおさんの命日でもありました。
訃報に接した日、こんな記事を書きました。.
まどみちおさんを悼む
そのまどさんが百歳の時、「どんな小さなものでもみつめていると宇宙につながっている―詩人まど・みちお100歳の言葉」という作品を残しておられます。

どんな小さなものでもみつめていると宇宙につながっている―詩人まど・みちお100歳の言葉

どんな小さなものでもみつめていると宇宙につながっている―詩人まど・みちお100歳の言葉

  • 作者: まど みちお
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/12/01
  • メディア: 単行本


昨日は,畑仕事のために郷里にかえってきました。馬鈴薯を植えるための畑の耕耘がおもな仕事です。春のような陽気で汗をかきました。
何日か前、わが居住地近くでもオオイヌノフグリのコバルトブルーの花を見つけ、春の到来を感じましたが、多少寒冷な郷里の路傍にも、咲き乱れていました。この小さな花こそ、宇宙に通じているでしょう。





今日はここまで。





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226思いつくまま、の巻 [今日の暦]

昨日は日曜日で、孫たちの家はカレーの日です。ジイジ・バアバも、毎週のようにお呼ばれに行きます。それに加えて、昨日は下の妹の3歳の誕生パーティーで、ケーキもいただきました。本当の誕生日はもう過ぎているのですが、みんなが集まれる日にケーキを食べようという趣向です。

一夜明けて今朝は、昨夜の雨の影響もあって少し暖かいのか、深い霧の朝でした。今日は2・26事件の日だったなと気がついて、そう言えばこの事件で暗殺された被害者の一人が、渡辺和子さんのお父さんだったよなと、思い出したりしていました。
何のことはない、過去(2016年)にも、そんな話題を書いていて、またまた二番煎じになるところでした。


2.26事件から80年だそうです。
今朝の地元紙『山陽新聞』(27面 くらし)には、「二・二六事件から80年 渡辺和子さんに聞く 平和は日々の暮らしから」というインタビュー記事が掲載されていました。
旧陸軍の青年将校らが武力反乱を起こした二・二六事件は、日本が戦争に向かった転機として昭和史に刻まれる。雪が縁側の高さまで降り積もったその日、9歳の少女は陸軍大将の父が凶弾に倒れるのを目の当たりにした 、、、。
「陸軍大将の父」とは、渡辺錠太郎陸軍教育総監。当時9歳の少女というのは、地元岡山市のノートルダム清心女子大学の学長だった
(現ノートルダム清心学園理事長)渡辺和子さん。1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど活躍され、著書もたくさんありますので、教育者として尊敬しておりましたが、2.26事件との数奇な関わりについては存じ上げませんでした。
置かれた場所で咲きなさい (幻冬舎単行本)

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  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2012/04/23
  • メディア: Kindle版
妻に話すと、それは周知の事実であるらしく、以前テレビ番組で取り上げられたこともあると教えてくれました。

同じ記事を繰り返すのも能がありませんので、2016年末に亡くなられた渡辺和子さんへの追悼記事から、一節を引用させていただきます。HUFFPOST2016年12月31日付記事、「渡辺和子さん、生前に語った2・26事件 父を殺された瞬間、そして『赦しと和解』」(吉野太一郎氏執筆)の一部分です。

陸軍教育総監だった渡辺錠太郎の次女で、4人きょうだいの末っ子だった。9歳だった1936年2月26日、陸軍の青年将校らによるクーデター未遂事件「2・26事件」で、父が殺害される場面を目撃することになる。

渡辺さんは当時のことをエッセイ集『美しい人に』などでも書いているほか、講演などでも折に触れて当時の様子や、加害者の遺族との「和解」や「赦し」について語っていた。ここでは2009年3月8日、筆者が取材した、東京・杉並区郷土博物館での講演の内容を紹介する。

「血の海の中で父は死にました。凄惨な死でございました」
1936年2月26日の午前6時前、9歳だった和子さんは、和室の布団で父と寝ているとき、激しい怒号を聞いた。その直前に斎藤実・内大臣を殺害した青年将校と部下の兵士の一団約30人は、東京・荻窪の自宅前にトラックで乗り付け、門を開けようとした。

兵士たちの怒号を聞きまして、まだ寝ておりました父が、すぐ起きまして、自分の左手にあります小さな襖を開けて、拳銃を取り出しました。覚悟していたのだろうと思います。そして私に「和子はお母様のところへ行きなさい」、これが最後の、私が父から聞いた言葉でございました。逃がしてくれたわけでございます。
私は寝ぼけ眼で、寝室と茶の間の間のふすまを開けて、台所に母の姿があるかと思って探しましたところ、母は兵士たちを中に入れない、防ぐために必死でして、私の方など見向きもしませんでした。仕方なしに父の所にまた戻ってまいりました。
その頃には流れ弾が寝間に打ち込まれておりまして、よく当たらなかったと思うんですけれども、私はそれをかいくぐってまいりましたところ、掻巻(かいまき、綿の入った袖のある寝具)を自分の身体に巻き付けて、ピストルを構えておりました。私が戻ってきたのを見て、非常に困った顔をしまして、目で、座卓の後ろに入るように示してくれました。
私もそこに隠れました。ふすまが開けられて、軽機関銃の銃身が差し込まれて、父の足を狙って撃ち始めた。私の父は陸軍でも射撃の名手だったようでございます。3発ほど撃ったと言われておりますけども、いずれにしても軽機関銃にはかないません。足を集中して撃ったらしく、片足はほとんど骨ばかりでございました。
茶の間の方から青年将校2人(高橋太郎少尉と安田優少尉)と兵士が数人入ってきて、父を射撃いたしまして、最期に銃剣で切りつけて、とどめを刺して帰っていきました。ずっと座卓の影から見ておりまして、引き上げていった後、出てまいりまして、「お父様」って呼んだんですけど、もちろん事切れておりました。あたり一面、父の肉片、骨片が飛び散っておりましたし、寝間の柱にも銃弾の跡が残っておりました。
その後、母がすぐに寝間に参りまして「和子は向こうに行きなさい」と言われてその場を離れました。午後になりまして、包帯でぐるぐる巻きになった父が布団の上に横たわっておりました。額に触ったときにとても冷たかったのを、今でも感触を覚えております。亡くなった姉によりますと、43発、弾を父の身体の中に撃ち込まれていたということでございます。
雪の上を点々と血が残っておりました。寝間の前は庭でして、雪が本当に真っ白に積もっておりましたけども、兵士が帰っていくときの返り血なのか、足か何かを狙って撃ったときの血なのか分かりませんけども、その血の赤さは今でも焼き付いております。

(中略)
駐在武官として長い間、ドイツ、オランダ、中国、満州、そういう所へ参りました。私には直接申しませんでしたけども、母や姉に聞きますと、父は「軍隊は強くなければいけない。でも戦争だけはしてはいけない」ということを絶えず言っていたそうでございます。「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる。自分が勝った国、負けた国に駐在武官としてずいぶん長いこと行っていたけども、そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」。それがもしかすると、その当時、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていた方々にとって邪魔な存在になっていたのかも存じません。私の母は、父がよく「俺が邪魔なんだよ」と言っていたと後で話してくれました。つまり父の存在が一部の方々にとっては非常に邪魔だった。

講演後、渡辺さんは2・26事件について、取材にこう語っていた。

「軍の一部が自分たちの意志を遂げるために蜂起し、いらないものを消し、戦争にひた走った。『こういうことは繰り返さない』と思って頂けたのなら、私もお役に立てたのではないでしょうか」

(中略)
今まで「お父様を殺した人たちを恨んでいますか」と聞かれて、本当にきれいな言葉で「いいえ、あの方たちにはあの方たちの信念がおありになったんでしょう。命令でお動きになった方たちを、お恨みしておりません。憎んでおりません」と言いながら、コーヒー1杯、そういう方を前にして飲めなかった自分。修養が足りないとも思いましたし、同時に、私の中には父の血が流れているんだと感じました。私がどれほどでお赦ししていると言っても、私の血が騒ぐ。
(中略)

転機となったのは、1986年7月12日、青年将校らが銃殺刑に処せられてから50年の日の法要に、請われて参列したことだった。
(中略)
法要の間も本当につろうございました。終わって帰ろうとしたら澤地久枝さんが来ていらして「シスター、せっかくここまで来たんだから、お墓参りをしたらどうですか」と、お参りしてお線香とお花を供え、立ち上がってお墓から階段を降りて参りましたときに、男の方が2人、涙を流しておられた。そのお2人が、私の父の寝所まで入ってこられた、高橋少尉と安田少尉の弟さんだった。「これで私たちの2・26が終わりました」「私たちがまず、お父様のお墓参りをすべきだったのに、あなたが先に参ってくださった。このことは忘れません。ついてはお父様の墓所を教えて下さい」と言われ、お教えして、その日は終わりました。
その日以来、毎年、お盆とお彼岸と、折あるごとに、多磨墓地の父のお墓は、お掃除が行き届いて、時には植木が刈り込んである。高橋様と安田様とはお手紙を交わす間柄になりました。本当に、父が引き合わせてくれたことだと思いますし、しみじみ思ったんですね。自分だけが被害者のような気持ちを持っておりましたけれど、反乱軍という名前をつけられた方々のご家族の50年、どんなに辛い思いをなさったか、私は一度も考えていなかった。お名前だけ知っていた、河野とか野中というお名前が、肉親のお姿で現れたとき、何か心の中で溶けるものがあったように思います。


長い引用になりました。
なかでも、「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる---そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」というお父様の言葉が,重く心に沁みました。経験と知性に根ざした知見に、いささかも耳を傾けることなく、いやそれらを邪魔者と力づくで排斥して、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていらっしゃる方々が、 いままた跋扈しているのではないかと危惧される時代だけに、、、。
ちなみに、このクーデター計画に加わった青年将校たちが掲げたスローガンは「昭和維新」でした。忘れかけていましたが,そう言えば、去年の5月、こんな記事を書いています。



共謀罪が衆院で強行されました。
とにかく最近忘れっぽくて困りますが、これだけは忘れないようにしなくてはなりません。
強行採決の口火を切ったのは、最後の質問者、「野党」維新の丸山穂高議員。「30時間以上質疑してきた。これ以上は足を引っ張る事が目的のピント外れの質疑は必要ない。論点も整理されて時は来た。私の質疑のあと、ただちに採決してほしい」とさ。このヒト法務委員でもない外野のヒト。
維新という存在、「補完勢力」という手厳しい呼び方にいささかためらいもありましたが、今やそれ以外の何者でもありませんね。
そういえば、昭和初期、5・15.2・26等のクーデター事件を引き起こした青年将校や民間右翼の唱えたスローガンが「昭和維新」でしたね。彼らの暴力的な妄動によって妄動によって掃き清められた道の先には、暗黒の国家総動員体制が待っていました。役目を終えた「昭和維新」のスローガンは、用済みとなって立ち消えて行きました。その歴史を知った上で、彼らは「維新」を名乗っているのでしょうかね。

さて、話はもどって、渡辺和子さんが学長を務めておられたノートルダム清心女子大の卒業生は、私のかつての同僚にも、たくさんいらっしゃいます。そのなかの最も若い元同僚T嬢は、当時常勤講師でしたが、生徒たちへの転任のあいさつで、渡辺和子さんの著書『置かれた場所で咲きなさい』を引いて,しみじみと心を打つ話をされました。
今日の散歩道で、出会った花です。
紅梅。
道端の空き地(農地の一角?)に、無造作に植えられています。けっして、花を愛でるためというわけではないようです。






白梅。





昨夜の雨の雫を宿した花も。

昨年末から咲き続けているニホンスイセン。



今日はこれにて。

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昨日は雨水、今日は多喜二忌、の巻 [今日の暦]

昨日は雨水。
今日は多喜二忌。
いずれも記事にしたい題材ですが、今日は軽く通り過ぎることにします。
多喜二について書いた直近の記事は、昨年10月のこの記事でしょうか?

「多喜二の母」に思う、の巻(2)


「多喜二の母」に思う、の巻


こんなことを書いています。

上映前のステージで、監督あいさつにたたれた山田火砂子監督は、高齢ながら、凛とした張りのあるお声で、平和への思いを訴えておられました。「戦争で一番悲しいのは母。慈しみ育てた子どもを母から奪う戦争を二度と許してはいけない」「母、せき役の寺島しのぶさんは、我が子の命が奪われたりしたら、取り乱して自分を失ってしまうだろうに、もう一度立て、と呼びかけた多喜二の母は気丈だ。役だから演じるが、自分ならとてもできない、と漏らしていた」等、印象深いお話が、心に残りました。
小林多喜二は、これまでも、何度となく私の記事に登場してきます。 
◇「宵待草」異聞、の巻
◇ブログ更新停滞の三つの言い訳、の巻
◇しもつきついたちの後楽園、の巻
◇夏の終わりの高知行、の巻(その5)
サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻
◇この道はいつか来た道 「密告フォーム」の行き着く先、の巻
◇自民HP密告フォームと「二十四の瞳」、の巻(1)
◇年金訴訟と朝日訴訟についてのおもいつくまま
道の辺に思ひ思ひや思ひ草
またまた3月15日の蘊蓄、の巻

三浦綾子原作の『母』では、多喜二と田口タキ(原作ではタミ)との純愛にスポットライトが当てられています。

「秋田魁新報」2009/12/11朝刊も、タキさんの逝去を伝える記事で、「小林多喜二が終生思いを寄せた女性」と紹介しています。

 小林多喜二の恋人、タキさん死去 101歳 大館市生まれの作家、小林多喜二が終生思いを寄せた女性、タキさん(旧姓田口)が、老衰のため今年6月19日に神奈川県内の介護老人施設で死去していたことが分かった。101歳だった。親族が12月10日、明らかにした。
 タキさんは、北海道小樽市の料理屋で働いていた16歳のとき、当時銀行員で21歳の多喜二と出会った。多喜二は美ぼうのタキさんに引かれ、小樽や東京で一時期同居して結婚を望んだが、実現しなかった。弟妹たちの面倒を見なくてはいけないタキさんが身を引いた—と伝えられている。
 エリート銀行員だった多喜二は、タキさんとの交流を通じて人間的にも文学的にも成長し、プロレタリア作家として社会変革を志すに至ったとされる。社会の底辺で生きる女性を主人公に、「瀧子(たきこ)もの」と呼ばれる数編の作品も残している。
 多喜二は思想犯として逮捕され、29歳で死亡。タキさんは戦後になって事業家と結婚した。親族は「本人は平穏な晩年を送りました。幸福な一生だったのではないでしょうか」と語った。
 先月出版された書簡集「小林多喜二の手紙」(岩波文庫)には、多喜二がタキさんにあてた恋文23通も収められている。

一方、山田火砂子監督の映画では、虐殺され、痛ましい姿で横たわる多喜二に取りすがって悼み悲しむ伊藤ふじ子にスポットライトをあてています。そして、その時は受け入れることができず,邪険な対応をしてしまった母セキが、晩年、最愛の夫を暴虐の果てに奪いさられた女性として、その耐えがたい悲痛に共感を寄せるとともに、多喜二にとっての大切な女性として愛おしく思うさまを描いています。
伊藤ふじ子については、ChinchikoPapa 様が2016-12-11付けの次の記事でも、こんな紹介をしてくださっていました。

高田馬場駅の階段でボケる小林多喜二。



  小林多喜二Click!は、少し間をおいてうしろを歩く伊藤ふじ子Click!を笑わせようと、高田馬場駅の階段でわざとボケてみせている。1931年(昭和6)ごろのエピソードと思われるが、小林多喜二はおかしなことをして人を笑わせるのが好きだった。階段を上っているとき、2段上に下駄の歯が落ちていたのを多喜二がひろい、彼女に見せたあと自分の下駄の歯が取れたのではないかと、マジメな顔をしながらさかんに合わせようとしている。
 森熊猛と再婚後、1981年(昭和56)に死去した森熊ふじ子(伊藤ふじ子)の遺品から、小林多喜二のことをつづった未完の「遺稿」が発見されている。それを初めて収録したのは、1983年(昭和58)に出版された澤地久枝『続・昭和史のおんな』(文藝春秋)だった。小林多喜二の妻だった女性からの、初めての直接的な思い出証言だ。以下、同書から孫引きで多喜二の素顔をかいま見てみよう。
  
 人に言うべきことでない私と彼との一年間のことどもを又何のために書き残す心算になったのか、まして彼は神様的な存在で、この神様になってにやにやしている彼を、一寸からかってやりたい様ないたずら気と、彼がそれほど悲壮で人間味を知らずに神様になったと思い込んでいられる方に、彼の人間味のあふれる一面と、ユーモアに富んだ善人の彼を紹介し、彼にかかわって案外楽しい日も有ったことなど書きとめて、安心してもらいたかったのかも知れません。/元来彼はユーモリストと申しましょうか、彼の生い立ちとは正反対に、彼と一緒に居るとだれでも楽しくなるところが有りました。
(中略)
特高Click!に目をつけられていた彼女は、下落合では目立たぬように暮らしていたのだろう。彼女は画家になりたかったので、多喜二が築地署の特高に虐殺されたあとも、1932年(昭和7)から翌年にかけ従来と変わらずにプロレタリア美術研究所Click!へ通っている。
 ただし、彼女はこの時期、黒っぽいワンピースばかりを着ながら同美術研究所へ通っていた。小林多喜二と伊藤ふじ子の関係をよく知っていた秋好一雄は、夫が殺されたので大っぴらに喪服は着られないものの、喪服がわりの黒っぽいコスチュームだったのだろうと回想している。伊藤ふじ子は、「あんたが(小林多喜二の)女房だなどと言ったら、どういうことになると思うの」という、特高の残虐さを十二分に認識していた原泉Click!の忠告を守り、ひたすら多喜二との結婚を世間には隠しつづけた。

多喜二の通夜の模様は、そこに立ち会った手塚英孝や江口渙らの文章に,ありありと描かれています。が、伊藤ふじ子については、あられもなく取り乱して嘆くワケありのおんな以上の印象を持つことなくとくに確かめもしないまま過ごしてきました。平野謙氏などがよく取り沙汰したいわゆる『ハウスキーパー』論なる『印象操作』のせいもあってか、覗きたくない闇にたいするような忌避感覚がつきまとっていたのかも知れません。そんなことから、私は次のようなコメントを書かせて戴きました。

 多喜二さん、人間味ある、お茶目な人だったようですね。弟の三吾さん、お母さんのセキさんなどの、あれこれの追憶からも偲ばれます。
伊藤ふじ子さんのことは、「ハウスキーパー」としてだけ薄らと記憶していました。虐殺された多喜二に取りすがるさまに、自然のこととして男女の情愛を読み取ることはありましたが、秘められた後ろぐらいもののように、長いあいだ感じてきた点が、なきにしもあらずでした。「小林多喜二の妻だった女性」と位置づければ、すっきり腑に落ち、悲痛が募ります。下駄のエピソードは、どこかで読んだ覚えがありましたが、澤地久枝『続・昭和史のおんな』(文藝春秋)を、読んでいませんでした。お教えいただきありがとうございました。
by kazg (2016-12-11 08:44)

これには、ChinchikoPapa 様からこのようなお返事をいただき、またまた目のウロコがとれました。

kazgさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
ふたりが結婚する前、小林多喜二から伊藤ふじ子へ宛てたラブレターも発見されておらず、また、それを仲介した人々の証言も得られていなかった1960~70年代には、「ハウスキーパー」説が広まるのを抑えようがなかったのかもしれませんね。
それになによりも、ふじ子自身とその夫である森熊猛が存命で、家庭を持っていて子育てをしているわけですから、よけいに証言しにくい状況が、ふたりの関係を知る人々にはあったのではないかと思います。
小林多喜二・ふじ子夫妻のことが、さまざまな証言や資料とともに公に語られるようになったのは、ふじ子が死去したあとのことですね。夫の森熊猛も、ふたりの生活で知りえた限りのことでしょうが、多喜二とふじ子の関係を証言しているのが貴重です。
by ChinchikoPapa (2016-12-11 18:14) 


このような史実の解明が背景にあって、三浦綾子原作『母』から、山田火砂子監督作品の映画への「発展」があったのかと,合点がいきました。
いやはや、「軽く通り過ぎる」つもりが、またまた深入りしてしまいました。今日扱うつもりだった題材は、また回を改めて書かせて戴きます。
昨日の散歩道で出会った鳥たちです。
ジョウビタキ♀。






ツグミ。



ムクドリ。

これは?

雀のお宿、発見。





きょうはこれにて。

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魚も氷に上る刻なり核棄てん [今日の暦]

早朝に目が覚めて,ラジオのスイッチを入れると、「NHK ラジオ深夜便」という番組で、今は「七十二候」の「魚氷を上る(うお こおり を 上 る)」だと紹介がありました。氷が溶けて,魚が目覚め活動を始める候だそうです。それにちなんで「魚氷を上る」という題名のピアノ曲が流れていました。
NHKのHPを紹介しておられましたので,該当ページを覗いてみると、
今朝流れていたピアノ曲についてこんな紹介がありました。

 ピアノが奏でる七十二候 : 放送スケジュール】
毎週火曜日から金曜日の午前4時台
※土曜日から月曜日の放送はありません。
七十二候は、一年を72に分けて、草花や鳥、魚の様子や気象現象などを名付けた暦です。長く生活の中で親しまれてきた七十二候、その一候づつに、ピアニストで作曲家の川上ミネさんが曲をつけ、72のオリジナル曲が生まれました。七十二候の紹介とともに、その候をイメージして作られたピアノ曲で、日本の季節の移ろいをお楽しみください。

【「ピアノが奏でる七十二候」CDについて】
「NHKラジオ深夜便 ピアノが奏でる七十二候」のCDが、2017年8月23日に発売されました。COCX-40088~9日本コロムビア
楽譜は販売されておりません。

俳句の世界では「魚氷に上る(うをひにのぼる)」は、早春の季語だそうです。
実際に寒さがすこし和らぎ、昨日は当地でも「春一番」が吹いたそうです。昨日のプチ散歩で、紅梅が咲き初めているのを見つけました。





散歩の間,不審な動きをしていた携行カメラが、ついに動作しなくなりました。電源を入れ直すと起動し、撮影状態に入るので,シャッタを押すと一瞬撮影完了かと見えて、そのままブラックアウトしてしまいます。電源を入れ直しても同じことの繰り返し。試しに、その日撮影したはずの画像を確認してみようと再生すると、古い写真ばかりで、その日の散歩分は一切記録されていませんでした。お手上げです。
たまたまサブカメラとしてポケットに入れていたコンパクトカメラ(RICOHCX2)がありましたので写すことができましたが、これらが昨日撮影した唯一の写真です。とほほ。
ウメジローでも観察できないかと期待したのですが、残念ながら,強風のせいでしょうかメジロの姿はありません。どうせカメラが故障しているわけで、帰りにカワセミにも遭遇したのですが、臍(ほぞ)を噛むしかありません。
というわけで、ちょっと前(2月8日)に深山公園で撮影したメジロを紹介してお茶を濁すことにします。

トリミングします。









カキジロー七変化です。












昨日も.カーラジオ~流れる国会中継を、聞くともなく聞いていました。
トランプ政権の新核戦略指針「核態勢の見直し」(NPR)は、非核の戦略攻撃に対しても核で報復する可能性を明記したそうです。この核戦略転換により、日本への核持ち込みの危険性が格段い高まったと指摘する藤野保史衆院議員(共産)の追及に、アベさんは「NPRを高く評価する」という姿勢を崩さず、こんな答弁をしていました。

 北朝鮮の核・ミサイル開発の進展等、安全保障環境が急速に悪化しており、日米同盟のもとで通常兵器に加え核兵器で守ることが大切だ。

 前提が変わるわけだが、米国はわが国の非核三原則を十分に理解している。米国が核兵器を搭載した米軍機をわが国に飛来させたり、領空を通過させたり、配備をしたりということは、現状において想定はしていない。

自党の江渡議員への答弁では、こんなことも言っています。

 専守防衛は純粋に防衛戦略として考えれば大変厳しい。相手からの第一撃を事実上甘受し,国土が戦場になりかねない。

 ひとたび攻撃を受ければ,回避することは難しく、先に攻撃した方が圧倒的に有利になっている野が現実だ」 

トランプのポチとして、主君の意向を慮って、シッポを振りながらあからさまにヨイショしているだけではなく、どうやらご自身、先制攻撃(しかも核による)への衝動が抑えられないのではと、お見受けします。対話は嫌い、先制(核)攻撃は、やってみたい、とは、困ったものです。
核持ち込みの危険が最も高いのは、なんと言っても沖縄でしょう。住民の二割以上もが犠牲となった沖縄戦の傷も癒えぬうちに、アメリカの統治下におかれ、銃剣とブルドーザーで土地を奪われ生活を壊されてきて、祖国復帰後も、米軍の最前線基地として侵略の足場とされ、苛酷な基地被害と負担、犠牲、不安にさらされてきた沖縄。日米の新たな核戦略は、この沖縄に一層の危険と犠牲を強いる道に他ならないでしょう。
「核も基地もない緑の沖縄を」というスローガンが今なお色あせることのない不幸な現実は、打開する
ウメジローでカキジローでもなく、カメジローを連想するのは、強引すぎますか?
瀬長亀次郎さんの話題は、当ブログでも、過去に何回か書きました。

枯れ山に深山頬白色を添ふ


たぐいなき一期一会や山法師


由美子ちゃん事件から思うこと、の巻


大寒や沖縄に春いちはやく



↑オフィシャルサイトにリンクを貼らせて戴きました。
不屈館のHPも必見です。
今日はこれにて。

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春立つ今日の風の痛さよ!の巻 [今日の暦]

今日は立春。

毎年のように、この歌を話題にしています。

 春立ちける日詠める・紀貫之
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ

春立つといえども今朝の霜白くふくらヒヨドリかがまりてあり(2017)


歯医者のち散歩、所により雨。風きわめて強し。(2015)


木蓮のつぼみ柔らに春立ちぬ(2014)


夏の日に、袖を濡らしてすくった泉の水が、冬の間冷たく凍っていたのを、立春の今日の風が溶かしていることだろうか?というのです。暦の上で春となった今日、幽かにその歩みが近寄ってきているはずだという、観念的・知的着想が、この歌の眼目ですが、いかに知の力を動員し、想像の翼をはためかせようと、いかんともしがたい今日の寒さでした。

節分の昨日は、少し寒さが緩み始めたかと期待しましたが、ぬか喜びで、またまた今朝は氷が貼り、日中も五度前後空上がりません。それより何より、吹く風の冷たさには閉口です。

少しだけ、自然環境体験公園を散歩してみました。

できるだけ軽くてコンパクトな鳥撮り機材は?と、考えあぐねて、いろいろ実験しますが、これと言った決定打がありません。

最近、OLYMPUS e-pl5の「デジタルテレコン」が、思いの外使い物になりそうだということに気づき、使用頻度が高まっています。今日は、パナソニック
LUMIX G VARIO 45-200mm/F4.0-5.6/MEGA O.I.S.を装着して歩きました。

本体が電池など込みで約325g、レンズが380 g。これで35mmフィルムカメラ換算で最大400mm相当、デジタルテレコンを使うと声が2倍になり、800mm相当の望遠撮影ができます。画質劣化が必定だと思って、長く利用しないできましたが、最近使ってみて、ほとんど劣化が気になりません。

今日も、梢にアトリの群れがいました。



池には、カルガモ?オカヨシガモ?カイツブリなどが泳いでいます。







ジョウビタキ♂かなり近寄ってくれました、



















シロハラ。







ここで電池が切れました。

期待以上の働きですが、残念な点を箇条書きにしておきます。

①電池は予備を持たないと失敗します。

②液晶を頼りに撮影するのは、明るい日なたでは至難です。

③液晶フードを持ってはいますが、軽量コンパクトに反します。

④外付けEVF(電子ビューファインダー)が、ほとんど必需品です。最初に使っていたVF2は、持ち運び中に脱落して紛失しました。悔しいけれど再購入(中古)して使っていましたが、これは異常な力が加わったか、物理的に破損してしまいました。安価なVF3を購入し、使っています。脱落防止装置がついているのは評価できますが、精細度が低いことに、やはり不満が残ります。

⑤やはり、光学ファインダーを用いての撮影に比べ、ピント合わせの失敗が目立ちます。

ところで、今日は、もう一台、機材を持って行っていました。

PENTAXQ10に、マウントアダプターを介して、BORG50アクロマートを付けてみました。レンズの明るさはf5、焦点距離は250mmだそうです。PENTAXQ10に装着すると、35mmフィルムカメラ換算で5.5倍相当になるようですから、1300mm相当の望遠効果が期待できると言います。

遠くのものを大きくとらえる点では、なかなか良い線行ってるようですが、マニュアルフォーカスによるピント合わせは、大変難しい。しかも、背部液晶のみで、ファインダーがありませんから、ピンぼけ量産。手ぶれ補正は効いているものの、この望遠倍率ですと、どうしてもぶれを覚悟しなくてはなりません。











近くに来てくれたおかげですが、トリミングなしでこの大きさに写ります。











イソシギかな?







なんと、カワセミもいました。ピントが合いません。







青い鳥には会えたのに、さっきのニュース速報では、名護市長選挙、自公維候補が僅差で勝ったそうな。

政治の冬もぶり返しですな。

でもね、選挙というのは、おのおのの候補者が、政策や政治姿勢、信念を堂々と語って、有権者の信を問うものでしょ?それなのに、自公維は、最大の争点である辺野古基地移設問題には一言も触れないことを基本戦術にして、「稲嶺市政で停滞・衰退」「経済振興」「中央(政府)との関係改善」、「子や孫の未来のため」など徹底的な争点隠し、争点そらしのあげく、札束で票を買い取るばらまき選挙を徹底したそうな。

日刊ゲンダイにこんな記事がありました.





それから、「辺野古の『へ』の字もいわない」などとする自民党「応援メモ」の存在を、「しんぶん赤旗」が告発しています。



こんな選挙、卑怯者を絵に描いたようなものでしょ!実際、アベ一族は、やることなすこと、徹頭徹尾小ずるくて汚いと思います。それに負けたことが、余計に悔しいですナ。



凍える寒さの中ですが、早春に「まず咲く」という「マンサク」が可愛い花を咲かせています。春は、近づいている、と信じたい。







今日はこれにて。

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今日は節分、の巻 [今日の暦]

今日は節分。

岡山市のHPに、こんな鬼が出没しておりました。



先日の記事↓でちらりと話題に登場した、郷里出身の棋士菅井竜也王位が、岡山市のPR動画に登場し、鬼と対局するというのです。

立春も近いと言うに、の巻(2)「雪の倉敷美観地区」最終回 




この動画は、日本将棋連盟のHPでも、下の記事で紹介されています。



更新:2018年01月23日 11:05

 菅井竜也王位が、2月公開の岡山市のPR動画に出演します。このPR動画は、岡山市が「桃太郎のまち岡山」をテーマにまちのイメージアップを目的として制作したもので、「桃太郎」の菅井王位は鬼との対局に挑みます。
動画は「心の声」篇(2月1日公開)、「勝負!」篇(2月5日公開)の2本となっており、岡山市公式Youtubeなどでご覧になることができます。
また、今回の動画の公開に合わせて、菅井王位直筆のオリジナル扇子などのプレゼント企画を2月5日から実施します。
詳しくは、岡山市ホームページをご覧ください。
●岡山市ホームページ 菅井王位出演PR動画の紹介

また、動画撮影の裏側をおさめたメイキングムービーを公開しています。

菅井竜也王位出演!「桃太郎のまち岡山」PR動画メイキングムービー

https://youtu.be/_6QE89ZTpb8



今日は、午前中、保育園の生活発表会を見学。園長先生が、あいさつで、園児たちの成長ぶりに触れて、「まだ生まれて3年にもならないのに、、」と感慨を漏らしておられました。まったくその通りと感じました。

夕方には1歳児もやってきて、女の子が3人そろって、思い思いに遊んで帰りました。

お絵かきで手が真っ黒です。















紙を丸めて豆を作って、段ボールでつくった鬼の的に当てて遊んだり、、、してました。

この鬼の面は、小1女子の作品です。。





小1女子は、面白がって巻き寿司を巻いています



恵方巻きは、切らずに食べるのだそうですが、海苔を喉につめるのも心配なので、一口サイズに輪切りにしますし、年少の二人にはさらに小さく刻んで食べさせます。というわけで、作法通りの豆まきも恵方巻きもしないまま、節分を終えました。明日は立春。気のせいだけでなく、今日は少しだけ寒さが緩んだようでした。

手袋も防寒帽もなしにぶらり散歩に出かけましたが、凍える感じはありません。

桜の小枝にアオジがいました。



ツグミも。















今日は小川の氷も溶けて、コガモがのんびり泳いでいます。



岸で寛ぐ様子も、のどかです。



今日はこれにて。

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立春も近いと言うに、の巻(2)「雪の倉敷美観地区」最終回 [今日の暦]




読みにくかった昨日の記事を分割し、少々編集しなおしました。

さて、「雪の倉敷美観地区」シリーズ、最終回です。
この日、いつも利用する駐車場が満車で、何台も車の行列ができている状態でしたので、それを避けて道路端に一時停車して妻をおろし、周辺をひと周りした末に、「倉敷芸文館」の駐車場に駐めて、美観地区を歩いたのでした。
その一角に、「大山名人記念館」があります。

私には将棋の趣味がなく、小学生の頃に、子ども同士の縁台将棋を遊んだ程度でした。青年教師だった頃、近くのアパートに住んでいた年下の同僚Sさんと、夜な夜な懇親を深めていた中で、彼と何度か将棋を指したことがありました。彼は、大学時代も将棋部だったとかで、飛車落ち、飛車角落ち、さらには桂馬や香車を落としても、まったく歯が立ちませんでした。力の差が歴然と現れる世界だと知りました。
ちなみに、その頃Sさんは、NHKのど自慢に出場し、内藤国雄の「おゆき」を熱唱して、合格の鐘を連打させたのでした。その美声は、我が家でも何度も聞かせてくれたことでした。現職教員の時代も、長く将棋部を指導したほか、町の将棋教室でも指導、退職後も、農業後継者としての本格的な農作業のかたわら、教科の非常勤講師と、将棋部の指導に励んでいるとか、、。
ずぶの素人の私が話題にするのも差し出がましいですが、このブログで内藤国雄さんのエッセイが紹介してありましたので、孫引きさせていただきます。将棋ペンクラブログ

 将棋世界1993年8月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「棋士と寿命と大山さん」より。
深夜まで戦って敗れた日は、帰るときに履く靴がぐさぐさで、自分の靴ではないように感じられることがある。靴の中まで冷えきるような寒い夜は、とくにやりきれなく思ったものである。
 対局消耗のせいだろうが、そればかりでもないようだ。同じ時間戦っても勝ったときはそう感じないのである。
 人間は死んだ瞬間にいくらか体重が軽くなるもので、それは去っていった魂の重みだという人がいる。もしそうだとすれば負けたときは魂をする減らしているのかもしれない。
 将棋というものは優勢でも最後の最後まで息を抜かない。悪い将棋も親指一本で残して打っちゃってやる―こういう気持ちをなくすと黒星ばかりが並ぶことになる。勝負にあっさりし出したら勝率は確実に下る。勝つためには精魂を傾けなければならないのである。
 強靭な大山さんでさえそのために生命を早めたという気がする。最期の順位戦は初めから本気であった。勿論、本気でない年などなかったろうが、特に燃えていたのではないか。
(中略 )
最後に、誰にも言っていない大山さんの思い出を一つ。ある棋戦の打ち上げの席でのことである。部屋に早く入りすぎて一人ぽつねんと座っていた私。その私のところへ大山さんがのこのこやってきて横に座った。それだけでも意外なことなのに、さらに意外なことを言われた。
「お金というものは女房と税務署に知れると、もうお金じゃないよね内藤さん」
 なにか身近な人には言えない事情があったのかもしれない……と考えたのは後のこと。このとき私は突然思いもかけない妙手を放たれた感じでとっさに応手が分からず、目をぱちくりするばかりであった。
 人間大山を感じさせた一瞬であったが、イメージが合わないせいか心の片隅に追いやられて思い出すこともなかった。

さりげない本音の吐露か、はたまた、盤外戦を得意としたという大山さんの、何か魂胆があっての発言か、なかなか興味深いエピソードです。
大山記念館のほど近くに、このような碑が建てられています。



門外漢のこと故、この木見金治郎という方について、まったく知りませんでしたが、大山さんの師匠であられたらしい。
小学館の雑誌サライ公式ページこんな記事を見つけました。


【今日のことば】
「棒ほど望めば、針ほど叶う」
--木見金治郎
将棋棋士の木見金治郎が、自身の門弟たちに向かって言い聞かせていたことばである。夢や志は大きく持って、それに向かって努力すべし。最初から小さな志しか持てないようなら、なにごとも成就することはできない。そういう意味だろう。
木見は明治10年(1877)岡山生まれ。当時、最高位の八段を有する関西棋界の実力者であったが、それ以上に、門下から升田幸三や大山康晴をはじめとする優れた棋士を輩出したことで知られる。
木見の指導方針は放任主義。升田幸三が自著にこう綴っている。 「先生と弟子というと、先生が手を取って教えてくれると思われがちですが、プロの修業というのは、そんなもんじゃありません。中にはそうする先生もあるけれど、ほんの例外でね。とくに木見先生の方針は、『自分で強くなれ』と、これに徹底しておった」(『名人に香車を引いた男』) 弟子にして手元に置き、勉強の場をつくってやる。先生の役目はそこまでであり、あとは自分で工夫、努力して強くなれ、というわけ。升田も大山も、内弟子としての雑用の合間に、自身で勉強し、先輩に鍛えてもらい腕を上げていったのである。
ここで見逃してならないのは、木見金治郎夫人ふさの存在だろう。
升田幸三14歳、大山康晴12歳。そんな年齢で内弟子になった子供らを相手に、ふさは棋士として強くなること以上に「人間」として一人前になるよう、気配りしていたように思える。
たとえば、こんな逸話がある。
雑用ばかりで将棋の勉強ができない--そんな不平不満で生活態度が定まらず、買いにいった豆腐をぶちまけてしまった升田少年に向かって、ふさはこう一喝した。 「使いっ走りも満足にできんどって、なにが将棋や」
升田はこれで目が醒めて、何をするにも目の前のことひとつひとつに集中心を持って取り組むようになった。時間を有効に使えるようになり、棋力を延ばすきっかけも掴んだという。
また、大山少年に対しては、
「将棋なんか、いくら強くなったって、思いやりのない人間になったら、ゼッタイに承知しませんよ」 と、繰り返し言い聞かせたという。

大山は棋界の頂点に立っても、このことばを忘れなかった。晩年の著書『勝つ!不動心』の中でも、このことばを紹介し、以下のようにつづけている。
「それ以来、『思いやり』だけはしっかり胸に抱きしめておこうと、五十余年のプロ棋士生活をすごしてきた。(略)人間の集団に思いやりが消えてしまったら、けだものと大したちがいのない動物の群れ、というべきだろう」


立春も近いと言うに蝋梅に雪降り積める倉敷の街







昨日書いていた記事はここまでですが、以下少しだけ付け加えます。

先日の記事で、「しんぶん赤旗」の紙面に言及したついでに、今朝の紙面について話題にさせていただきます。

絶対主義天皇制下の野蛮な弾圧にさらされながら、命がけで発行・配布・購読された「赤旗(せっき)」が発刊されてから、今日で、90周年を迎えるそうです。


ご参考までに日本共産党のHP中の関連記事に、リンクを貼っておきます。

紙面にみる「赤旗」の90年(真実伝え 共同を追求/不屈のジャーナリズム精神ここに(1月31日))


戦後「アカハタ=AKAHATA」(1946年)、「アカハタ」(1947年)、「赤旗(あかはた)」(1966年)を経て、今日の「しんぶん赤旗」(1997年)にいたる歴史のうち、私自身も、40年余りを、読者としておつきあいさせていただいています。(子ども時代の幽かな記憶の中に、鉱山労働者であった大叔父が、カタカナ書きの「アカハタ」で、何か農作物を包んでくれたことがあったように思います。当時、大叔父がこの新聞を定期購読していたのかどうかはわかりませんが、職場や地域のつながりから、手近にあった新聞紙だったのでしょうか?)。

いま、「しんぶん赤旗」では、連日のように各界の人々からお祝いや連帯のコメントが寄せられています。

「「赤旗」創刊90周年 真実と希望を届け国民と歩む」と題した今朝の「赤旗 主張」には、「大手メディアが死に体にある中、真実に迫ろうとする紙面で、多くの人が接することができるものは『赤旗』しかない」(元外務省局長の孫崎享さん)「政党の一機関紙が、社会や政治、世界を伝えるメディアとして、これほど貴重になるとは」(同志社大学大学院教授の岡野八代さん)「いつまでも、一人一人の人間の苦しみ、悲しみに寄り添ってくれる新聞であることを」(作家の赤川次郎さん)等のコメントが紹介されています。

今朝の1面に、「三毛猫ホームズ」でおなじみの前述の作家赤川次郎さんと、故林家三平さんのおかみさんでエッセイストの海老名香葉子さんのコメントが掲載されています。そして、つづけて、第3面にも、ページ全面を割いて、9人の方々が心のこもった言葉を寄せておられます。(これまで軽された方々のものも含めて)すべてを取り上げてご紹介したいところですが、今日はその中のお二方だけをピックアップしてみることにします。

日本将棋連盟理事・九段井上慶太さん「新人王戦決勝 今でも鮮明」、艦載機院理事・八段坂井秀至さん「新人王戦に育てられた」と、それぞれに、「しんぶん赤旗」が主催して毎年催されている囲碁、及び将棋の「新人王戦」に言及しておられます。井上さんは「私の師匠の若松政和七段、私の弟子の菅井達也王位も新人王戦で優勝を果たしています。いわば3世代で同じ棋戦を優勝していることは珍しい記録かと思います」と書いておられます。

ちなみに、ここに登場する菅井達也王位は、地元岡山市の出身で、奇しき縁に、親しみを覚えます。

ところで、ウィキペディアによると、将棋の「新人王戦」とは、かくのごとし。


新人王戦(しんじんおうせん)は、日本共産党の機関紙であるしんぶん赤旗主催の将棋棋戦日本将棋連盟公式戦)。26歳・六段以下(タイトル戦経験者は除く)の棋士などが参加する優勝棋戦(非タイトル戦の公式棋戦)である。決勝は三番勝負で、例年10月から11月にかけて行われる。優勝者(新人王)はタイトル保持者と記念対局を行う。新人王が後にタイトルホルダーやA級棋士などの強豪になったケースは多く、若手の登龍門であるとされている。

日本将棋連盟のHPの「新人王戦」の案内記事、次のリンクも紹介されています。

しんぶん赤旗新人王戦サイト

自死の報道による衝撃さめやらぬ西部さんが、晩年、「保守」を標榜しながらトラディショナル(伝統的)なものを捨て去り破壊しているアベ政権に深い幻滅を覚えておられたらしいことは先日書きました。一方、革新の極に位置するとみなされる共産党が、囲碁・将棋に象徴されるような伝統文化を守り育てる立場を具体的に実践していることは、特筆すべきことと思われます。

この記事ここまで。

 

 

 




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立春も近いと言うに、、、の巻(1) [今日の暦]

冷え込んだり緩んだりしながらも、夜は零下という日々が続きます。
でもそうこうするうちに今日で一月も終わり。もうすぐ節分、そして立春がやってきます。
去年の節分にこんな記事を書きました
節分にちなんで、の巻

 留学生相手の日本語授業で、昨日は節分を題材にしたプリントを作ってみました。作成に結構時間がかかりました。
少しだけご紹介します(一部改作。また、実際には漢字の多くにふりがなを施していますが、煩雑になりますのでこのページでは省略します。)

  次の文章を読んで後の問に答えなさい。

 一年を24等分する暦「二十四節気」の中に、①「立春」②「立夏」③「立秋」「立冬」と呼ばれる日がありますが、それぞれの前日を「節分」と呼びます。「季節を分ける日」という意味です。

節分の風習は. 奈良時代頃、中国から伝来し、 平安時代に宮廷の行事として定着したと言われます。

 節分は、もともと一年に四回ありますが、なかでも「立春」が一年の始まりとして、とくに尊ばれたため、節分といえば次第に春の節分のみをさすようになったようです。
古来、季節の変わり目には鬼が出ると言われていて、節分に豆をまいて鬼を追い払う行事は、室町時代から続いています。
豆まきは、普通、「福は内、鬼は外」と掛け声をかけます。これは邪気=鬼を払って福を呼び込むということですが、場所によっては⑤「鬼は外」という言葉を言わなかったり、⑥「福は内、鬼は内」というかけ声をかけるところもあるのです。
 例えば千葉県にある成田山新勝寺では、「福は内」とだけ言って、「鬼は外」とは言いません。これはご本尊の不動明王の力がとても強力なため、あえて鬼を外に払う必要がないからだそうです。
 また奈良の元興寺や、青森県弘前市の鬼神社、埼玉県嵐山町の鬼鎮神社など各地の鬼に関連する神社でも「福は内、鬼は内」という掛け声になります。
問1 次の①~④の漢字の読み方を書きなさい。
①「立春」               ②「立夏」
③「立秋」               ④「立冬」
問2  節分の豆まきは、「鬼」を追い払って福を呼び込もうとする行事ですが、「鬼」とは何のことだと書かれていますか。漢字二文字で答えなさい。
問3 傍線部 ⑤「鬼(おに)は外」という言葉を言わなかったり、傍線部⑥「福は内、鬼は内」とむかけ声をかけるところ に当てはまるのはどこですか。文章中からそれぞれ一つ抜き出して答えなさい。
ところで、豆まきのかけ声について、こちら
https://allabout.co.jp/gm/gc/220642/) 
に興味深い記事がありましたので引用させていただきます。


昨年の授業では、あるクラスは2人、別のクラスでは10人余りの出席で、プリントづくりの『労力』が空滑りした記憶だけが残りました。
性懲りもなく、今年も同様のプリントを作り、加えて別途、「恵方巻き」も話題にしてみました。下は、その一部です。(なお、プリントでは漢字の多くにふりがなを振っていますが、煩瑣になるので、ふりがなは省略します)

次の文章を読んで後の問に答えなさい。
A 朝日新聞出版知恵蔵 より 【恵方巻き】
 節分にその年の恵方(吉方)を向いて食べると縁起が良いとされる太巻き寿司。丸かぶり寿司、恵方寿司とも呼ばれる。「縁を断ち切らない」ように切り分けず、無言で願いごとをしながら1本を丸かじりするのが習わし。七福神にちなみ7種類の具材を巻き込むことが望ましいとされる。正確な起源は不明で、江戸時代末期に大阪の船場で商売繁盛の祈願として始まった風習を発祥とする説など諸説ある。明治期や戦後に一時廃れたが、1977年に大阪海苔問屋協同組合が行った海苔の販売促進イベントで復活した。90年頃よりスーパーやコンビニで販売されるようになり、宣伝活動も活発になったことから、節分に恵方巻きを食べる風習が全国に拡大した。(出典 朝日新聞出版知恵蔵mini)

B 講談社日本の郷土料理がわかる辞典より 【恵方巻き】
大阪の名物料理で、節分の日に、その年の恵方(その年の十干(じっかん)によりめでたいと決められる方角)を向いて食べると縁起が良いとされる太巻きずし。縁を絶ちきらないように、1本を切らずに無言で丸かじりする。大阪などの慣習であるが、1990年頃からコンビニなどで販売されるようになり、一般に広まった。(出典 講談社日本の郷土料理がわかる辞典}

問1 恵方巻きについて説明した次の文章の空白部( a ) 、( b )に適切な言葉を入れ、文章を完成させなさい。
・恵方巻きとは、節分の日にその年の ( a )  (めでたいとされる方角)を向いて食べると縁起が良いとされる( b ) のこと。
問2 次の文中の(     )内の言葉として、正しい方を選びなさい。
・(ア幸福 イ縁)を絶ちきらないように、1本を(ウ一口サイズに切って エ切らずに)、(オ大きい声で カ黙って)願い事をしながら、丸かじりするのが習わし。正確な起源は不明だが、江戸時代末期に(キ京都で  ク大阪で  ケ江戸で)始まったとする説が有力である。その後一時廃れたが、1990年頃よりスーパーやコンビニで販売されるようになり、宣伝活動も活発になったことから、節分に恵方巻きを食べる風習が全国に拡大した。

【参考記事】 ネット記事(jcast トレンド)より
恵方巻き予約開始もネットは冷ややか 年々高まる「悪習」「迷惑」の声
2月3日の節分を前に、早くも「恵方巻」商戦が始まった。大手コンビニ各社は12月中旬から予約受付を開始し、趣向を凝らした商品を揃える。
しかし、一部のネットユーザーからは「まだやるの?この悪習」「本部はいいかげんやめろ! 俺らは迷惑しているんだぞ」といった声が。手放しで歓迎できないワケとは?
画像はイメージ
トルティーヤやロールケーキにも波及
節分に恵方(幸運を招く方角)を向いて太巻きを食べる、「恵方巻き」の風習。もともとは関西地方で行われていたローカルな文化だったが、今では全国のスーパーやコンビニで大々的な「恵方巻きフェア」を見かけるようになった。
最近では冬の節分(立春)以外に「春夏秋」の節分にも注目し、「フェア」を年4回実施するコンビニがあるなど盛り上がりを見せている。
恵方巻きの「多様化」も進んでいる。セブン-イレブン、ファミリーマート、ローソンの18年の商品ラインアップを見ると、形が恵方巻きと似ている「ロールケーキ」や「トルティーヤ」、果てはオムライスを巻いたものまである。

今年もノルマ問題でるか?
恵方巻きで思い出されるのが、ここ数年で問題視され始めた「ノルマ」「廃棄」についてだ。
「恵方巻商戦」の裏で、大量に廃棄される売れ残り品や、社員・アルバイトに課される販売ノルマがSNSでの告発で明るみとなり、ネット上で騒動となった過去がある。J-CASTニュースでも16年、17年とこの問題を取り上げた。
「『恵方巻き』売れ残り、大量廃棄される 店員が『自腹で買い取り』強要されるケースも」(16年2月 5日)
「恵方巻ノルマに今年も『助けて!』 コンビニ『自爆営業』はナゼ消えないのか」 (17年1月27日)
こうした背景もあってか、来年の恵方巻きの予約が始まってもネットでは冷ややな反応もある。
「コンビニ店員『次は恵方巻きのノルマか』」
「また廃棄巻か」  
といったツイートが見つかった。


こんなプリントを使った授業を終えた後で、ネット上にこの記事↓を見つけました。



コンビニバイトのノルマ、もうやめませんか
去年(2017年)の1月26日付の、上西充子法政大学教授( キャリアデザイン学部)の文章です。一部だけ引用します。



 
節分に食べる「恵方巻」の販売がコンビニエンスストアなどで始まっていますが、最近、ツイッターでは、店から販売ノルマを課せられて悩んでいると訴えるアルバイトの学生などの書き込みが相次いでいます。(以下、略)
夕方16:50からのNHK「ニュース シブ5時」でも「福呼ぶ恵方巻のはずが…」という見出しで、この話題が取り上げられた。
昨年も節分の頃には、アルバイト従業員が恵方巻のノルマに悩んでいる様子や、売れ残りの恵方巻の大量廃棄の様子が、ツイッターで話題になった。同じ問題が今年も起こりつつある中で、節分より前にNHKが報じたことの意義は大きい。
給与からの天引きは違法


このコンビニにおけるノルマ問題、もしノルマの達成できなかった分が給与から差し引かれるなら、それは違法だ。
労働基準法22条は

賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。

と定めている(賃金の全額支払いの原則)。
恵方巻のノルマ未達分を給与から差し引くならば、それは給与の一部を恵方巻で支払ったのと同じになってしまう。そんなことは労働基準法で認められていない。
そのことは佐々木亮弁護士が下記の記事と記事中に収録された東京都の啓発動画で詳しく解説している。

佐々木亮「【ブラックバイト】今年もノルマで恵方巻を買わされた事例が多発したようです。」(ヤフーニュース個人 2016年2月4日)

ノルマのトラブルはコンビニで突出

ただ、多くの場合は給与からの天引きではなく(それは違法だとわかっているだろうから)、ノルマを課してその分は何とか注文を取らせる、注文が取れなければ自発的な買い取りに持っていく、というのが実態だろう。
多くのアルバイト従業員は、職場の人間関係に気を遣いながら働いている。店長に逆らうと気まずくなるだろうし、シフトの融通をつけてもらうことも難しくなるだろうと心配している。しかし、友人に無理やり買ってもらうのも気が進まないだろう。そうすると、泣く泣く自腹で購入することにも追い込まれかねない。
アルバイトにノルマを課し、その達成を求めることはどのくらい一般的なのだろう。厚生労働省が2015年に行った「大学生等に対するアルバイトに関する意識等調査」の結果によれば、下記のグラフの通り、「商品やサービスの買い取りを強要された」割合は、コンビニエンスストアが11.6%と突出している(注)。どうやらこれは、店長の属人的な問題ではない。
画像

(注)厚生労働省「大学生等に対するアルバイトに関する意識等調査結果について」資料編のp.23-24より、回答数が100件以上の職種を抜き出して上西作成。アルバイト全体の回答件数は1,961件。なお、「上記以外のチェーンの飲食店」とは、居酒屋、ファーストフード、ファミリーレストラン、カフェ、寿司屋以外のチェーンの飲食店を指している。



今国会に提出されている「働き方改革」法案は、このようなノルマ地獄、ブラックバイトの解消につながるのでしょうか?
「労働基準法70年の歴史の中で歴史的な大改革」などという大風呂敷の中身を、そっとのぞいてみれば、何のことはない。国会での野党の追及のとおり、財界側・使用者側にとって便利な「働かせ方改革」ではないかと、はっきり見えて来ちゃったのが情けない。。。。
言うに事欠いて「働き方革命」ですって?内実のない大げさな用語がお好きなアベさんらしく、「人づくり革命」「生産性革命」、、などと、「革命」という重々しい言葉が湯水のごとく漏れ出て来ますが、誇大包装を解いてみれば、チンケでケチな、「搾り取るぞ革命」「我慢しろ革命」「格差永続化革命」でしたなあ。
ちなみに、「革命」という語は、古代中国の儒家、孟子に由来します。
ウィキペディアの解説にはこうあります。

易姓革命(えきせいかくめい)は、古代中国において、孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を説明した理論。
概要
天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。

孟子は、アベさんと同じ山口出身の吉田松陰なども重んじた思想家ですから、アベさんも、きっとご存じのはずですが、それにしては理解が浅い????その眼目は、為政者がその地位にあるのは、あくまでも天命によるもので、徳を失った為政者は、すみやかに地位を降りるべし、ということです。憲法の定めでは、「天」はすなわち「民」と読み替えることができましょうから、民心の離れた為政者は、地位にとどまってはならないと言うことになるでしょう。
ああ、やっぱりアベさんは、それを百も承知でいらっしゃるから、憲法を変えようと急いでおいでなさるのじゃな?憲法の精神を理解しないお方が憲法をもてあそんではならないし、「革命」を理解しないお方が「革命」の語をもてあそぶことも、許せませんなあ。
この記事、ひとまずここまで。

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今年もよろしく願います、の巻 [今日の暦]

2018年
明けましておめでとうございます。
2018年版の、紙の年賀状はこんな感じ(個人情報はやや割愛しています)です。

文字が驚くほど小さいので、当ブログ閲覧者の方への特別サービスとして、部分的に拡大版を掲示させていただきます。

 「核なき世界」への人類の願いと潮流に、真っ向から背く核超大国と、その忠犬の時代錯誤。イヤ、そんな喩えに使われるのは不愉快と、干支の戌も抗議してますか?モリカケ隠して9条空文化の改憲発議?究極の「国難を打開する年にしたいワン。
 笠岡干拓地に、クロヅルとカナダヅルが初飛来との情報を教わり、見学に行きました。クロヅルはヨーロッパ、カナダヅルはアメリカ大陸に棲息するそうですが、国境を越え、種を越えて、仲睦まじい3羽です。


特別サービス第二弾。
妻はこんなデザインの年賀状を出したそうですワン。

大晦日から元旦にかけて、空にスーパームーンが浮かんでいたらしいです。
新年早々、夜明け前に自動車を運転する機会がありましたが、たまたま、車上にあったのは50mm標準レンズ装着のカメラだけ。こんな画像しか撮れませんでした。





年末年始も、シフトの関係で仕事が入る家族もありまして、なかなかまとめてみんなが集まれません。そんな中、元日の郷里の老父母の家に、最大公約数で、四世代、11人が集まり、賑やかな一年が始まりました。
遅ればせながら、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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デンチュウでござるぞ、の巻 [今日の暦]

「デンチュウでござるぞ」といえば、忠臣蔵の松の廊下のワンシーンが思い浮かぶでしょう。
人形浄瑠璃や歌舞伎で、元祖「仮名手本忠臣蔵」を思い浮かべる方もおありでしょうし、長谷川一夫主演の映画「忠臣蔵」(1958年)やNHK大河ドラマ「赤穂浪士」(1964年)を真っ先に連想される方もおありでしょう。はたまた、世代によっては、それ以降の数々の、映画、ドラマ、舞台がイメージされる場合もありましょう。若い世代では、ドリフターズの「8時だよ全員集合」でのコントが印象に残っておられる方もあるそうな。(いや、もっと若い世代では、ドリフターズというグループの存在をご存じない場合もあるでしょうか。)
「武士の情け、おはなしくだされ梶川殿」の名セリフを、歌謡浪曲 「あゝ松の廊下」(歌:三波春夫)や、「刃傷松の廊下」(作詞:藤間哲郎 作曲:桜田誠一 歌:真山一郎)の曲とともに思い出される方もおありでしょう。
ネット検索をしておりますと、ユーチューブに、藤圭子さんの歌唱がUPしてありました。切々として良いです。

藤圭子 刃傷松の廊下 - YouTube



デビュー当時、年齢的にはほぼ同世代で、14インチの白黒ブラウン管テレビに写る薄倖の少女歌手は、気になる存在でした。下の記事にも書きました。
返す返すも残念な晩年でした。
ムクドリとモズが我が家の窓から見えました。

 藤圭子さんは、ほぼ同世代。密かにファンでした。8月22日が命日ですか。痛ましいことです。
藤圭子 GOLDEN☆BEST

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  • メディア: CD
GOLDEN☆BEST 藤圭子ヒット&カバーコレクション 艶歌と縁歌

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  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックダイレクト
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去年放送されていたNHK朝ドラ「とと姉ちゃん」の主題歌「花束を君に」 は、宇多田ヒカルが母、藤圭子を想って歌ったとか。この歌が流れてくると、一歳児だった孫娘が、どんなに機嫌が悪くてもすぐに泣き止んで聞き耳を立てたそうです。
ところで、この記事↓↓↓にも書きましたが、「刃傷松の廊下」は、故H氏の持ち歌のひとつであったようです(生前、直接拝聴したことはないのですが)。
寒かりし討ち入りの日のエナガかな

 わが畏友、H氏の十八番の一つが「刃傷松の廊下」であったことから、彼の追悼式では、生前の本人の熱演(熱唱)をビデオで流したことも思い出されます。

その故H氏の出身地は、広島県にほど近い、県西部の町でした。先日、クロヅルとカナダヅルを訪ねて、笠岡干拓へ向かう途中、近くを通りかかり、ふと思い出しました。
その、道中に「田中美術館」への案内がありました。「田中」は、「タナカ」と読まずに、「デンチュウ」と読みます。彫刻家平櫛田中の出身地にちなんで建てられた美術館です。


上のHPには、こんな紹介が載せられています。

 平櫛田中(1872~1979)は岡山県井原市に生まれた、近代日本を代表する彫刻家です。
 本名を倬太郎(たくたろう)と言い、田中家から平櫛家に養子に入ったのち、田中(でんちゅう)と号しました。107歳でその生涯を閉じるまで、明治・大正・昭和の三代に渡って活躍しました。 岡倉天心と西山禾山に思想的な影響を受け、伝統的な木彫技術と西洋の彫塑を学んだ田中の作品は、観る者を引き込む緊張感と、人間味あふれる豊かな創造性を持っています。 なかでも井原地方の古い伝承に基づく《転生》(東京芸術大学大学美術館蔵)や、六代目尾上菊五郎をモデルに約20年の歳月をかけて完成した《鏡獅子》(東京国立近代美術館蔵、国立劇場展観)は、こんにち平櫛田中の代表作として知られています。

養家の「平櫛」姓の下に、生家の「田中」を号として名乗ったそうです。
今では時効となっているでしょうから暴露しますが、私の妻は美術の教員免許を持っていますので、大学卒業後、岡山県の教員採用試験を受けました。(彼女の出身地は四国なのですが、私との交際の都合からの進路選択でした。)
その面接試験で、岡山県出身の彫刻家の名を問われて、答えられなかったそうです。当時、私も平櫛田中という人を知りませんでしたか。専門分野の知識を問われて答えられなかった妻もうかつですが、郷土の偉人を知らない私もうかつなことでした。
のちのことになりますが、妻の父が還暦を過ぎた頃、こんな言葉を座右の銘のようにしていたことを思い出します。

いまやらねばいつできる
わしがやらねば誰がやる

六十七十ははなたれこぞう 
おとこざかりは百から百から 
わしもこれからこれから 


いずれも、平櫛翁が好んで口にし、揮毫もした言葉だそうです。
平櫛翁は、長寿で、高齢になっても活躍されたことでも知られます。
金田一耕助探偵が活躍するミステリー小説で知られる横溝正史が、朝日新聞夕刊1976(S51)年1月16日文化欄 のこんな文章を残しているそうです。

 「クリスティと私 晩年の創作力に改めて脱帽」

私の書斎には「夢」という一字を書いた軸が掛かっている。 九十七翁中書とあるのは、即ち木彫の平櫛田中先生九十七歳のときの ご揮毫である。平櫛田中先生の事蹟は本紙の元日の「ひと」の欄で 紹介されたから多くのひとが知っていられるだろうが、先生はたしか百三歳。 その先生が百歳になられたとき、むこう三十年間のクス、ケヤキ等木彫に 使用する原木を買い込まれたと当時ひとづてに聞いている。
 そこで去年の正月私はひそかにこういう戯れ唄を作った。
 田中先生には及びもないが、せめてなりたやクリスティ。
 私は今後何年生きるかしらないが、クリスティに倣って、 年一作長編を書いていきたいと決心したのである。


ところで、横溝正史と言えば、戦中、戦後の一時期、岡山県に疎開していたこと、その時期の見聞が、金田一シリーズ執筆の源泉になっていることはよく知られています。倉敷市のHPにこんな記事があります。

 横溝正史疎開宅
 
 横溝氏とその一家は,太平洋戦争末期の昭和20年4月,東京での戦禍を避けて,倉敷市真備町岡田村桜で約3年半の疎開生活を送った。
 当時,軍部の圧力で探偵小説を書くことが出来なかった氏は,岡田地区の人と交わり,畑でジャガイモつくりなどに精を出した。しかし,いつの日か本格的な長編作品を書きたいと考えた正史は,東京から運んだ蔵書を読み,地区の親しかった人たちから農村の因習,農漁民の生活などの話を聞き,作品の構想をあたためた。
 戦後,氏が日本で初めて本格理論的な推理小説を拓いた「本陣殺人事件」「獄門島」「八つ墓村」など多く名作が,疎開宅で著述された。
 名探偵金田一耕助は,「本陣殺人事件」で磯川警部と共に初めて横溝正史作品に登場した。氏の日記によると金田一耕助は,昭和21年4月24日この疎開宅で生まれたことになる。

また、倉敷観光webにはこんな記事があります。

この横溝正史の未発表原稿が、先日、新たに発見されたというニュースがありました。(読売online

 昭和を代表する推理作家の一人、横溝正史(1902~81年)が、太平洋戦争が始まった41年に唯一となる長編家庭小説を執筆していたことが分かった。
 遺品を所蔵する二松学舎大(東京都千代田区)が21日、発表した。作中には、名探偵・金田一耕助の原型とされる人物が登場するなど、専門家は横溝文学を考察する上で見逃せない作品としている。
 今回、全体像が判明したのは小説「雪割草」で、400字詰め原稿用紙で800枚近い長編。草稿の断片などから題名は知られていたが、発表媒体が不明で、「幻の作品」とされてきた。草稿を分析した同大の山口直孝教授らが、41年6~12月の「新潟毎日新聞」(途中から「新潟日日新聞」)に掲載されていたことを突き止めた。


今日、12月28日は、横溝正史の命日です。1981年逝去。79歳でした。
一方、平櫛田中翁の命日は、12月30日(1979年)。107歳でした。
まさしく「六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から」ですね。

蛇足を一つ。
散歩中、こんな光景を見ると、「電柱ですぞ」とつぶやきたくなります。





コサギです。
電線ですぞ。

次は、ムクドリ。





そしてこれは?






これは別の場所で会いました。





ノスリでしょうか?
先日の食事中の二羽の猛禽も、ノスリだったかも知れません、
今日はこれにて。

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一陽来復、霜の朝、の巻 [今日の暦]

今日は、はや、冬至です。
冬至に関する聞きかじりの蘊蓄を記事にしようかと 書きはじめ、念のために過去記事を探ってみましたら、だいたい書きたいようなことはすでに再三記事にしていました。
柚子の香や一陽来復揺るぎなし(2013年)
今日は冬至。(北半球では)1年で一番昼が短い日です。
これからは、どんどん日が長くなっていくことから、「易経」では、「一陽来復」といいます。古い中国の暦では陰の気で覆われていた運気が、冬至を境に長くなっていく とされてます。衰えていた太陽の力が再び勢いを増してくるというのです。悪いことが続いた後に幸運に向か うという意味も込められているます。
冬至といえば、柚子(ゆず)湯。江戸時代以来の風習だそうで、「融通」が利くように「ユズ」湯に入るとか、冬至=「湯治」の語呂合わせとも言われます。
また、この日カボチャを食べる風習も南瓜(なんきん)は「ん」がつくことから、冬至には、にんじん、だいこん、れんこん、うどん、ぎんなん、きんかんなど、「ん」のつくものを食べると「運」がつくという語呂合わせ。
でも、寒い盛りに、血行促進作用やリラックス効果のあるゆず湯に入ったり、ビタミンAやカロテン含有量の多いカボチャを食べることは健康にもいい理にあった伝承と言えます。
今日は冬至、一年で一番昼間が短い日ですね。「短日(たんじつ)」とか、「日短(ひみじか)」という季語もあります。日短やかせぐに追ひつく貧乏神  一茶年末のせわしさと、懐の寒さと、お腹のひもじさが身にしみる、ペーソスあふれる句ですね。
ところで正岡子規の句に、こんなのがありました。
仏壇に水仙活けし冬至哉 
子規先日の記事で、半田山植物園でスイセンの花を見つけたことを話題にし、異常気象のせいで狂い咲きしているのかと疑いましたが、明治の名jの世でも冬至に咲いていたようですから、 何でも異常気象に罪を着せるわけにもいかないと反省しました。
しかも、灯台もと暗しで、我が家の庭のスイセンも、しっかり咲いておりました。
昨日の記事で、「今日は冬至で、一年で最も昼が短い日。ということは、明日からはだんだんと朝夕が明るくなってくるはずですね。」と書きましたら、Enrique様から、下記のような、ご親切な、しかも文系人間にもよく分かるコメントを戴き、目から鱗がごそりと落ちました。
冬至は一年で昼間が最も短い日であることは間違いないのですが,日没が一番早いわけでも日の出が一番遅いわけでもありません。
日没が一番早いのは12月の初旬で,日の出が一番遅いのは1月の初旬です。
人間の感覚としては,日没時刻が分かりやすいので,昔の人は,「冬至10日前から藁の節ほど日が延びる」などと言ったようです。
なるほど、ガッテン、ガッテンです。この場を借りてEnrique様にはお礼を、読者の皆様にはお詫びを申し上げ、訂正させていただきます。

いずれにせよ、太陽の力が最も衰える日。陰が極まって再び陽が勢いを増すはじまりの日。めでたいめでたい。
今朝の朝日は、ひときわ神々しく感じられました。





散歩道は、霜で銀色に輝いています。




道端のナンテンの木にも霜。





咲き初めた枇杷の花にも霜。




道沿いの畑のハクサイにも霜。

鴨たちの足もとにも霜。


孫たちの小学校も中学校も、今日が終業式。昼前に帰ってきますので、出迎えることができる唯一の成人家族であるジイジが、昼飯の当番です。焼きそばをつくりました。夜はママが忘年会、パパも仕事ということで、保育園のお迎え、少年サッカーの送り迎え、夕食の準備と、てんやわんやのジジババでした。
今日はこれにて。

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